はてなキーワード: アナロジーとは
http://anond.hatelabo.jp/20130310152356
元増田に便乗したお陰か、思ったより多くの方に読んで頂けたようでとても嬉しいです。
こんな付け足しを書くのは興ざめかもしれないけれど、
似たような境遇の人も多いようだし、
もうちょっと具体的な事を「あとがき」として補足しても良いかな、
という気になりました。
(申し訳ないことに、この付け足しも長いです)
私の文章は、元増田
「上流エンジニアなんて死んじまえ」
http://anond.hatelabo.jp/20130309233920
「上流にも技術力はあるはず」
という、上流下流のどちらが優秀かという議論が問題からやや外れているように思えたため書いたものです。
優秀な人がいても活躍できず、当たり前のような施策もうまく働かない、
(下流にいたほうが技術力の見せ場が多いため、
下流に優秀な人が多いように見える傾向はありそうです)
そして、その他の19人~49人は基本的に普通の人です。
20~50人に1人の人をあてにして仕事を進めるのは(現状のSIer周辺では)不可能なため、
19人~49人の普通の人が持つ価値観・思考・ペースで仕事を進める事になります。
さて、システム開発でソフトウェアの基本構造を決める部分について、
どうしても一種の才能(パターン認識・適用能力)が必要なのですが、
才能のある人が適切に作業に割り当てられる可能性は低くなります。
その結果、普通の人が納得しやすい下記のような方法が取られがちです。
こういった構造は、当時は場当たり的なつもりでも結局は規約化してしまい、
「途中で何を思いついても設計書の通りに絶対作れよ」
といったSIerにありがちな規約と相まって、未来永劫負の遺産として残ることが多いです。
そして、一旦ダメな土台が出来上がると、その上には基本的にダメなものしか重ねられないため、
どんどんダメになっていき、最終的には手のつけられない沈没船になります。
プログラムの基本構造がダメだと、どんな優秀な人であっても出来ることが限られます。
当然リファクタリングすれば良いのですが、
といった、普通の人による突っ込みには、現場での反論がなかなかしにくいです。
そして、リファクタリングもやはり才能のある人が中心になる必要があり、
ここまで書いてきたようなことが、
現場の中に居たままそこを良くする方法は、結局思いつけませんでした。
これをこの先何年続けても無意味だな、と思い、転身することにしました。
正当な取るべきリスクを取った結果だと思うのです。
沈没船では最初から沈没寸前のため、リスクを負うことができないか、異常に増幅されます。
運用上リスクを負うことのできない(機能追加できない・構造を改善できない)システムなど、
黒船は、取れるリスクの幅が大きいからこそ難しい航路を選べるし、
そこで失敗したとしても、それ自体が業界や人類全体の資産になるのだと思います。
黒船は水平線のはるか向こうで、船長はそれらが見えないため気楽です。
ちゃんと沈没してくれれば、最終的にはまともな船しか残らないので助かるのですが、
まともさに関する競争が働きにくいところがあるらしく、
リスク満載のはずの沈没船を安泰とさせている事によるコストは、
最終的には企業全体・社会・国家・人類といったものが負っていると思われます。
普通の人というのは、
家に帰ってから基本的には勉強せず(資格や仕事で必要な場合は別)、
仕事で決められた範囲のツール・技術・問題領域で満足できる人の事です。
これは不真面目とか怠慢とかそんなわけではありません。
例えば、マクドナルド店員が、
自宅でもビーフパテを練ってハンバーガーの焼き色を研究したりレシピを何冊も書いたり、
毎日毎日ポテトやハンバーガーをキーワードにググったりブログを読んだり、
枕元には常に藤田田の著作を数冊積んでいて、本棚には完全なコレクションがあったり、
1日に5度は銀座1号店の方角へお祈りを捧げたりしたら、
やはり変だと思うのです。
「才能のある人」とは、そういう事をごく自然に、
それこそ食事や睡眠のように日々やっている人です。
さらに言えば、これはマクドナルド店員を例に出すと変に思えるのであって、
ギタリストやピアニストや作家や写真家やデザイナーといった専門家であれば
不自然でも何でもない最低限のたしなみです。
20人~50人に1人という割合も、それがプロのギタリストであれば納得できる数字です。
本来そのぐらい特殊な専門領域を広く一般に開放してしまっているという問題が、
その通り(何度も言うけど勘で書いてるので微妙に間違ってるかもしれない。本質的には外してないと思うけど…)。
そこが分かれば後のことは数学的詳細なので実装上は気にしなくてもいいと思う。
基底のところは正直かなり説明をはしょったので(少なくともベクトル空間についてよく知っていることを仮定した)、
わからなくても無理は無いと思う。
これは完全にその通り。これが理解できるというのはかなり凄いと思います。
「操作」というのはその平面上で点を動かすことに対応していて、動かし方は無限にあるわけだけど、それらをどう表現できるかという話。
ここで言った「回転」というのは、「基底ベクトルの組を任意に回転(ユニタリー変換)してもやはり基底ベクトルの組になる」というような意味で、
具体的には2次元基底ベクトル(1,0)と(0,1)を45度回転した1/sqrt(2) (1,1)と1/sqrt(2) (-1,1)もまた基底ベクトルとみなせるというようなこと。
ここでは「ベクトル」はさっきの「立体を表す点を指すベクトル」ではなく「操作」そのもののことなので、「基底操作」についてそういうような
厳密には「操作」自体はベクトル空間を構成しなくて、もっと広い(制約が緩い)概念であるところの群を構成する。
「基底操作」というのは群論の言葉で言うと生成元のことで、全体の群を構成する生成元の取り方が複数あるということ。
まぁいずれにせよあんま気にしなくていいと思う。
個人的には、とにかく実装してしまうパワーが弱い方なので、実装力高い人はうらやましい。
それdiscovery of oceanで見たな。
シャチが主役でゾウアザラシは脇役という一応位置づけだったけど、
むしろゾウアザラシのその生態の方が印象的で、子供アザラシや母アザラシを捕食するシャチが物語の引き立て役みたいな感じだった。
母乳が出なくなったために栄養を補給しに母アザラシが子供を海辺に置いて一旦海に戻ろうとするんだけど、
母親を失った子供アザラシは他の雌にお乳をもらおうとするんだけど、雌はアザラシは自分の子供でないと分かると追い払ってしまう。
母性本能が発動して異種の動物にまでも授乳する母親も珍しくないから、この光景には衝撃を受けた。
母性本能はやはり限定的に発動するものであって無差別ではないのかなあと。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/101102/trl1011020259000-n1.htm
>判決を軽々には批判できないにせよ、一方で「やはり死刑判決を避けたのでは」
>という意見もあり得るのではないか。
本心としては「死刑判決を出せないなんて、このヘタレ裁判員め、それでも日本人か!」と
叱咤したいのが産経の「本心」なんだろうが、面と向かっての裁判員批判もできないので、
このような「歯切れの悪い社説」になってるようだ。
で、この裁判員制度、ウェブ上では産経ホームページが、一番「充実」している。
「法廷ライブ」と銘打って、遺族の処罰感情を「ライブ中継」している。
なぜここまで産経が裁判員制度にご執心なのか・・・と訝しがっていたが、
今回の死刑回避判決への産経の批判(?)で、なんとなく、判った気がした。
要は、産経は、「国の強制によって、一般市民が他人の生命を奪う」という
裁判員=国の強制によって一般市民が他人(犯罪者)の生命を奪う判断を行わせる
徴兵制=国の強制によって一般市民が他人(敵国兵士)の生命を奪う判断を行わせる
日本を「戦争ができる普通の国」にしたくてたまらない産経にとっては、
「一般市民が他人の生命を奪わなければいけない徴兵制」を導入させる
「露払い」として、
「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、対価として金を要求するのはおかしい」
「作品を金儲けの手段にするのはおかしい」
とか言う主張をネットで見るけど、変じゃない?
いいじゃない、娯楽商品で金儲けしても。
精神的活動を物質的活動と比べて優位に評価して、「純粋であるべき表現活動を金で汚すな」みたいに考える人がいるかもしれない。
「悪貨は良貨を駆逐する」のアナロジーを使って、劣悪な商業指向の作品が氾濫すると、良質の作品が減ると考える人もいるだろう。
前者に対しては、作り手がいかに物質的要素に助けられているかを見ていない。
作品を作っている間も生活しなきゃいけない。家賃払ったり飯食ったり。生きていかなきゃ作品も作れない。
金儲けして生活費に余裕ができれば、また作品も作れる。稼げなければ生活費を得るために別業せざるを得ない。
音楽を例にすれば、楽器や録音環境にはものすごい金がかかる。音楽を学ぶこと、例えば他人の音楽を沢山聞いたり理論書を買ったり
講義を受けに行くことにも金がかかる。音楽を作成するときでも、エンジニアや演奏家に頼む時には金を払わなければならない。
そうした労苦を経た上でようやく作れる音楽が多い。安価でつくられても素晴らしい音楽は沢山あるけど、ジャンルやBGMとして使える範囲が
狭くなってしまう。
金を稼ぐことによって作品制作に専念でき、技能的にも高く、多様な作品を生み出すことができる。それだったら稼がせてやればいいじゃん。一番得するのは受け手なんだから。
値段が高くなって作品が買えなくなる、って意見もあるかもしれないけど、本当に値段設定が不当に高いのなら、そんなに売れないはず。
つまり製作者が自爆してるんだから、ほっとけばいいじゃん。
後者に関しては、購買者側の問題でしょ。「劣悪な」商業作品が売れるってことは、そういう作品が欲しい、つまり少なくとも購買者は
その作品を「劣悪」とは考えていないってこと。良質な作品が減るっていうけど、そんなのは一部の意見でしかない。作品を絶対的に
評価できる尺度がないんだから、評価者の好き嫌いに還元されるところも大きい。つまり「俺の好きな作品が減って、俺の嫌いな作品が売れてしまうのは嫌」ってだけなんじゃないかと。
もちろん未完成品としか評価できない作品は除外した上での話。
思うんだけど、「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、消費してもらえるだけありがたく思え」って言う人は、自分に価値が無くて何らかの対価を出せないことに敏感な人が多いんじゃないかと。
・金が無いから、金を出したくない
・自分のプライドが許さないから、作品を好意的に評価したくない
・「製作者=上位」「消費者=下位」と自分で考えているから、劣等感故に製作者に対して勝手な嫌悪感を抱いて、なんとかして攻撃したい
結局こんな人が多いんじゃない?無料で公開してる作品に関しては特に顕著だよね。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
1.「限りなく透明に近いブルー」 村上龍
5.「国のない男」 カート・ヴォネガット
7.「夢渓筆談」 沈活
8.「神は妄想である―宗教との決別」 リチャード・ドーキンス
11.「冬の夜ひとりの旅人が」 イタロ・カルヴィーノ
12.「高い城の男」 フィリップ・K・ディック
13.「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン
16.「きつねものがたり」 ヨセフ・ラダ
20.「フェルマータ」 ニコルソン・ベイカー
21.「四十七人目の男」 S・ハンター
22.「逆転世界」 クリストファー・プリースト
24.「謎の女」 福田恆存
28.「神秘の島~ミステリアスアイランド~」 J・ヴェルヌ
29.「連射王」 川上稔
34.「ほとんど無害」 ダグラス・アダムス
35.「黄落」 佐江 衆一
38.「リレイヤーⅢ」 鴻上 尚史
39.「糞尿大全」 柳内伸作
40.「十六の話」 司馬遼太郎
45.「穴」 ルイス・サッカー
46.「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハインライン
47.「ギャシュリークラムのちびっ子たち」 エドワード・ゴーリー
50.「伊平次とわらわ」 坂田靖子
51.「食肉の帝王―巨富をつかんだ男 浅田満」 溝口敦
52.「だれも知らない小さな国」 佐藤さとる
55.「楽園の知恵」 牧野修
56.「鳩どもの家」 中上健次
57.「古事記」 倉野憲司
60.「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」 秋津透
66.「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー
67.「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一
69.「百頭女」 M・エルンスト
74.「不可能性の時代」 大澤真幸
79.「他人をほめる人、けなす人」 フランチェスコ・アルベローニ
80.「星虫」 岩本隆雄
83.「おとなもブルブルようかい話」 木暮正夫
84.「ヨーロッパ文学講義」 ウラジミール・ナボコフ
85.「サマー/タイム/トラベラー」 新城カズマ
87.「死の蔵書」 ジョン・ダニング
88.「死のロングウォーク」 リチャード・バックマン
91.「フロイト先生のウソ」 ロルフ・ゲーデン
92.「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー/野崎孝訳
94.「針の上で天使は何人踊れるか」 ダレン・オルドリッジ
95.「歴史」(上・中・下) ヘロドトス
97.「愛はさだめ、さだめは死」 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア
98.「幾千の夜を越えて」 神月摩由璃
100.「アルジャーノンに花束を」 ダニエル・キイス
スパコン関連の騒動を見ていて思ったんだが、コンピュータの処理能力が客観的に測れると思ってる人が多いんだね。確かにCPUの命令の処理能力等のハードウェア面の性能はかなり客観的に測定できる。しかしコンピュータの処理能力というのは命令セットや命令の処理方式によっても影響を受ける。さらに人間に理解できるプログラミング言語によってかかれたソースから最適な機械語を生成するコンパイラなんかも重要だ。極端な話、こうしたものが駄目ならいくらハードウェアの性能がよくても、処理能力が低くなる。コンピュータの性能はハードウェアの性能だけでは決まらず、客観的に測定することは原理的には困難なのだ。それなのに「スパコンでNo.1」というそれだけ聞いてもよくわからないフレーズに共感する人たちが多い。きちんとした知識があれば、具体的にはどういう点でNo.1を目指すのか疑問に思うはずだ。単にISCで発表されるランキング上でNo.1を目指すだけなのか、極端な話ランキングを無視して本当に今必要とされている用途向けに最適化されたものを目指すのか、そういったことが「スパコンNo.1」というフレーズでは見えてこない。それなのにやたら共感する人たちが多く不思議だ。多分これはパーソナルコンピュータとのアナロジーで考えているのだと思う。パーソナルコンピュータの場合、大体CPUはIntel製で、OSはWindowsだ。だからCPUのクロック数やメモリの容量などハードウェアの性能で、ほとんど客観的に処理能力を比較することができる。このパソコンとのアナロジーでコンピュータの性能を考えてる人が多いから、「スパコンでNo.1」を目指すというわかりやすそうでわかりにくいことに共感する人たちが多いのだろうなと思う。
個人的な意見としてはランキングなんて気にしなければいいのにと思ってるんだけどな。宣伝にはなるだろうけど、スパコン使うような学者・技術者ならあのランキングがあまり当てにならないことぐらいわかるでしょ。正直文科省の実績作りにしか思えないんだけど。
ここしばらくの女子力に関する話題を見ていて、一分のスキもなく完璧にセットされて男からの評価を得ることに特化した女性って、文字通り『武装』(これは所謂スイーツ的な人であるか、それともヲタ受けしそうなタイプか、は問わない)してる感じがするよなーってのをとりとめもなく思った(この人なんかレオパルト2っぽいなー、的な。)
そういえば、そういう人と身近に接すると、なんか射爆場で戦車砲の標的にされてるような気分になる。すんげえ速度で機動して、車体がめっちゃ揺れて見えても、砲身は完璧にスタビライジング。一ミリのブレなく、秒速1700mの熱視線で、あなた如きはいつ何時でも赤子の手を捻るみたいに殺せるんだよ、という本気が伝わってきて。
なんていうか、装甲系女子?
てか、俺、死ぬの?みたいな。ええ。死ぬんですけど。精神的に。
もちろん、そう感じるのは、受け手側たる自分の貧しい女性経験・アワレな心象が大いに投影されてるだけなんで、真面目に我が身を振り返ると割と虚しいんだけど、まあそこに両目をつぶってぼーっと見ていると、その手の「女子力」を理解し(意識する・せざるは問わない)使いこなして男どもを蹂躙していく人って、なんか「戦争」っぽいなーと思う。恋は戦争(笑)とか手垢つきまくったワードだなーとか思うけど、特に「宣戦布告」「交戦対象」がなくても、そういう人達からは無言の存在感・プレゼンスみたいなもんが感じられるのだよな。簡単に蔑ろには出来ない何か。そう考えると、女子力というのは一種の武力・暴力・抑止力の類推で考えるとしっくり来るというか、自分の中で妄想がもりあがってくる音が!音が!モリモリと!するわけです!!!
所謂「女子力の高い人」が火力・装甲・機動力の三位一体でどっか遠くの男を蹂躙・突破・包囲殲滅していくのは小気味よいし、面白い。けど、自分の近くでドンパチが始まったり、お隣さんが急激に女子力を高めたりすると、なんかバランスオブパワー的な意味で自分も軍拡を求められる感じの圧力を感じて、すげーやだなー、みたいな。ウチの近所で戦争やらないでください!みたいな。だいたいどう俺を強化しても真正面からレオ2A6みたいな気合入った異性とがっぷり四つに組んで戦うような戦闘力はねーよ!!みたいな。どう頑張ってもソマリア民兵レベル。ブラックホークダウンよりも悲惨なことに!!!みたいな。早く増田を和平に導く政治的枠組みを整えるべくはてな首脳会談開催しろ!!!!はやくしろーッ!間に合わなくなってもしらんぞーッ!!!みたいな。おお!いいじゃないか!!!(何が)
収拾付かなくなってきたんでその話は捨て置くけど、そういう「女子力の高い理想の女」像を冒頭のような「戦車部隊の理想」像っぽいアナロジーとして考えると、そういう理想像が常識みたいに求められるのは、完璧超人になれない多くの女性にとっては、確かに頭が痛い問題だろうなーってこともぼんやり実感出来て楽しい。ボヤいてた増田の人は、そういう『近代的な機械化部隊の存続・維持』に求められるコストが微妙に重荷なんだけど、だからって非武装にはなれねえし、コスタリカとかスイスとか持ち出したりして中立・非武装・軍縮を称揚してる人は何なの?死ぬの?防衛力の議論の歪な状況マジつらいんですけど!自衛官だって人間なんだぞ!!!的な状況に追い込まれてるのかな、という。『女子力の高い女』でいようとすることのランニングコストの高さと、それにまつわる議論の渦中で色々と心をすり減らしているんだね!という理解になり、意味もなく共感した(たぶんただの妄想)。
そんなことを考えていたら、そこはかとなく女子力の話題が楽しくなってきて困るなあと思いました。なんだかきょうも俺の脳内はてなウォーズはさいこうに盛り上がっているぜ、こんもりとな!(CV:堀川りょう)という心境になってきて凄く幸せ。
増田のみんなも、しあわせになろうよ!!!!!!!!!
いや、なにが「いわゆる」でなにがおかしいのか、さっぱりわからない。
だが株主としては、無料化は会社の収益構造を破壊する行為以外のなにものでもなく、不適切なことに思える。
それにせっかく道路建設費の返済費が国家財政からはずれた(株式会社の負債になった)のに、それをまた付け戻して国債やら増税やらに付け替えるのは端的に言って愚策だろう。
たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、
我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマに
カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマをカラオケ
大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。
たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。
作品のテーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から
すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を
もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても
そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。
マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは
主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって
決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、
リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとりに伝統を教えてやる」と
いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど
やりたくなる戦略でもある。
いや、とくに結論というのがあるわけではなく。
追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒の醸造工程の
アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。
楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。
追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴールが言及されている(記憶によれば)
アルコール依存症は、アルコールを飲む→失敗する→後悔→ストレス→アルコールを飲む、という悪循環にはまる病気。悪循環を止めるには、アルコールを飲むのをやめるしかない。
アナロジーで考えると、うつも、未来を考える→悲観する→「このままじゃダメだ」(焦燥感)→現状を打破しなきゃ→未来を考える、という悪循環にはまる病気なのかもしれない。そう考えると、悪循環をとめるには、未来を考えることをやめるしかない、ということになる。そして、これは、自分の経験では割と有効。
うつとアルコール依存症を比較するのは適切ではないが、悪い状態が続くということは、結局、何かの悪循環にはまっているということになる。悪い現象が偶然何度も続く、ということはあり得ないからだ。その悪循環をとめないと、結局、再発する。
これを読むと一応納得できる。バカとかいう表現には少し問題はあるような気もするけど、主な内容としてはd:id:Apemanが、d:id:HALTANのホロコースト批判を認めているということだから。せっかく認めているんだから、もう少し素直に書けばいいと思うけど、これは個人の勝手というかそういう芸風なのかもしれないのでまあしょうがない。
いやバカだねぇ…。私は5月の時点から、「ホロコースト」だけを特別扱いせずに「ポル・ポト」その他についても同じ基準を採用する主張なのであれば理解できる、ってずっと言ってるわけよ。にもかかわらず、「ホロコースト」が出てキルト「恐ろしい」とか「声高に連呼」などと言いがかりをつけるくせに、「ポル・ポト」とか「関東軍」についてはマンガのようなダブスタを披露してるのがHALタンなのよ。私は一度たりとも「左翼批判のためにポル・ポトを引き合いに出すのはけしからん」とか「官僚機構批判のために関東軍を引き合いに出すのはけしからん」なんて言ったことないんだから。ちゃんと首尾一貫してるだろ? 首尾一貫してないのは、なぜだか「ホロコースト」だけ」が許せないと言うお歴々なんだよ。
おおよそはこれで納得したけれども、わずかな疑問が「たとえ」に関すること。つまり「ホロコースト」はたとえでは無いということは何度も強調して主張されていたこと。
「ポル・ポト」や「関東軍」はたとえ、d:id:hokusyu風に厳密に言うとアナロジーとしてのたとえとして使われているもの。だから「たとえ」として使われたものと、「たとえではない」と発言者によって主張されたものを 別の物として扱うことが首尾一貫してないとはならないのではということ。
これは「ホロコーストとポルポトと関東軍 」にも書いてあるけど。
ホロコーストの参照が、ポルポトや関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジー。ホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。
d:id:hokusyuはアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味で使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。
最後にもう一度。
d:id:Apemanが、ホロコースト批判を受け入れたということは、評価すべき。
理解するつもりは無いと言われたd:id:Apemanと理解できないと言ったd:id:HALTANの間のやり取りが面白い。
なにごとかを批判する際に「ホロコースト」を参照することが許せないらしい id:HALTANとか id:Sokalian のような潔癖な方々(しかしその割には「ポル・ポト呼ばわり」はスルーするんだよね)には、日銀や大阪府下の市町村教委と関東軍の間にどれほどの接点があるものなのか、ぜひともご高説をうかがいたいところだ。
これに対してd:id:HALTANは「汚いぞ(怒) - HALTANの日記」(http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080915/p2)で怒っているみたいですが、怒るところがコミニュケーションの不成立なのか。確かに皮肉めいた部分は多分にあるとしても、関東軍呼ばわりについての意見を聞きたいというのは、それに対する批判的な意見を良しとしている、少なくとも悪いとは思っていないと判断できる。これはポルポト呼ばわりについても同じ。
それを「ホロコースト」の参照にも適用すれば、これもまた批判を期待しているということ。実際には批判はすでになされているので、批判を認めるというように解釈できる。
だから、これをもってホロコースト批判を正当な物として暗黙に認めたとも解釈可能。
とするのは詭弁がすぎるかもしれないけれど、これはもともとが詭弁だから。「詭弁倫理学」に書かれている「相殺法」で、さらに細かく言えば「公平の原則」というもの。具体的な例を出せば、悪いことをして怒られた子供が「自分だけじゃない」と言ったり、交通違反で捕まったドライバーが「他にも違反している人がいる」と弁解するようなこと。自分の行動や主張が正しいということを言いたいのならば、それを言えばいい。他を持ち出してのいいわけは、自分の非を認めていることになるのは自明なんだけれども気がつかない人は多そう。
自分が『「声高に」「連呼」して悲劇を「見世物」にしているああ恐ろしい……』のような非難をされたから、他の人もそうされるべきというようなことを書くのは、率直に言って良くないこと。皮肉として言ってるとしても、たとえでは無いと主張されているものと、たとえとして使われているものではまったく別だとかd:id:HALTANに言われたら困るんじゃ。
ホロコーストの参照が、ポルポトや関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジー。ホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。
d:id:hokusyuはアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味で使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。
d:id:Apemanの「ポルポト呼ばわり」や「関東軍というたとえ」の是非に関する意見や、それらと関連した「ホロコーストの参照」の、それぞれの類似点や相違点についてまとめて書かれた物を読んでみたいと思うけど、あまり期待はできないかな。
それよりは「捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!」(http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/)の「俺が見たトリアージ論争」の続きでホロコースト論争についても言及されることや、「ARTIFACT@ハテナ系」(http://d.hatena.ne.jp/kanose/)で意外と知られていない有用なエントリーが紹介される方が可能性が高そう。
それ以外の人だとd:id:sk-44あたりがもし「ポルポト」や「関東軍」のたとえと、「ホロコースト」の参照に関することを書いたら興味深い内容になるのではと勝手に期待。
(追記)
d:id:Sokalianはhttp://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080915/p2のコメント欄で「知るか。」と書いているから、関東軍とポルポトとホロコーストについては書いてくれないかな。でも、d:id:Sokalianの立場なら全部良くないと言っても整合性がとれてしまうのが面白くない。ホロコーストの使用に肯定的で、ポルポトと関東軍のどちらかにでも否定的な意見の人の見解の方が興味深い。
http://anond.hatelabo.jp/20080809155536
横槍だが。hokusyu氏やApeman氏の考えとは違うかもしれないが、俺の考え。
「トリアージ概念の不用意な援用」を「ホロコースト」に喩える のと、「売れない百貨店の切捨て」を「トリアージ」で喩えることの違いの話だな。
これは、命の選別を命の選別で喩えるのと、命の選別を経営上のリストラ正当化で喩えることの違いじゃねえ? あまりに軽いもので喩えてしまったんだよ。お嬢さん相手のカルチャースクールで飛ばしたヨタだっけ?
とある本にあった例なんだけどな。
テトリスと同じルールで、人間を効率よくガス室にぎゅうぎゅうづめにしていくゲームを作って売ったら、そりゃ絶対批判を浴びるよな? そこに、ルールは同じじゃないか、ゲームなんて喩え話なんだから怒るなよ、というのは無理筋じゃないかなあ。
「仮に」アナロジーとして論理的に正当な部分があったとしても、喩えの倫理性ってのは問われうるし、不謹慎ってのはあるわけで。表現の自由に関する議論は当然可能だろうが、そういう倫理的な理解のその上でなお主張されるものとしてあるべきだ。