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2013-03-13

沈没船エントリあとがき

http://anond.hatelabo.jp/20130310152356

沈没船エントリを書いた増田です。

およそブログ向きではない冗長で読みにくい文章だったけれど、

元増田に便乗したお陰か、思ったより多くの方に読んで頂けたようでとても嬉しいです。

こんな付け足しを書くのは興ざめかもしれないけれど、

似たような境遇の人も多いようだし、

PGSE現場20歳から10年居続けてきた人間として、

もうちょっと具体的な事を「あとがき」として補足しても良いかな、

という気になりました。

(申し訳ないことに、この付け足しも長いです)

私の文章は、元増田

「上流エンジニアなんて死んじまえ」

http://anond.hatelabo.jp/20130309233920

ブクマトラバで言われている

「上流にも技術力はあるはず」

「下流だってダメな奴が多い」

という、上流下流のどちらが優秀かという議論が問題からやや外れているように思えたため書いたものです。

優秀な人がいても活躍できず、当たり前のような施策もうまく働かない、

そういう現場だという事を描写してみたかったわけです。

技術力のある人は、上流・下流を問わず

20~50人に1人の割合で点在しているのだと思います

(下流にいたほうが技術力の見せ場が多いため、

下流に優秀な人が多いように見える傾向はありそうです)

そして、その他の19人~49人は基本的に普通の人です。

20~50人に1人の人をあてにして仕事を進めるのは(現状のSIer周辺では)不可能なため、

19人~49人の普通の人が持つ価値観・思考・ペースで仕事を進める事になります

さて、システム開発ソフトウェアの基本構造を決める部分について、

どうしても一種の才能(パターン認識適用能力)が必要なのですが、

大勢普通の人の中に特殊な人が点在している状況だと、

才能のある人が適切に作業に割り当てられる可能性は低くなります

その結果、普通の人が納得しやすい下記のような方法が取られがちです。



こういった構造は、当時は場当たり的なつもりでも結局は規約化してしまい、

「動いているものは敢えて変えるな」「似たものコピペせよ」

「途中で何を思いついても設計書の通りに絶対作れよ」

といったSIerありがちな規約と相まって、未来永劫負の遺産として残ることが多いです。

そして、一旦ダメな土台が出来上がると、その上には基本的にダメものしか重ねられないため、

どんどんダメになっていき、最終的には手のつけられない沈没船になります

プログラムの基本構造ダメだと、どんな優秀な人であっても出来ることが限られます

当然リファクタリングすれば良いのですが、

リファクタリングお金を取るのはかなり難しいだろうし、

  • 何でお客様の稼働している大切なソフトにわざわざ手を入れるのか? リスクを取る意味が分からない。
  • 今まで俺たちが頑張って作り上げたものが結局ダメだったと言いたいのか? 金をもらって作った物なのに?


といった、普通の人による突っ込みには、現場での反論がなかなかしにくいです。

そして、リファクタリングもやはり才能のある人が中心になる必要があり、

普通の人がやっては結局問題の焼き直しにしかなりません。

ここまで書いてきたようなことが、

名高い大手SI下請け現場にいた5年間に見てきたことです。

現場の中に居たままそこを良くする方法は、結局思いつけませんでした。

仕事は基本的にエクセル方眼紙を読み書きする事で、

出世昇給の見込みも薄く、

これをこの先何年続けても無意味だな、と思い、転身することにしました。

行き先が黒船かどうかは分からないけれど、

割と自由にものが言える立場にしてもらえそうです。

黒船沈没について



黒船だって沈没する」という指摘は本当にその通りです。

黒船からこそ辛く厳しい現場もあると思います

ただ、黒船沈没するというのは、

正当な取るべきリスクを取った結果だと思うのです。

沈没船では最初から沈没寸前のため、リスクを負うことができないか、異常に増幅されます

運用リスクを負うことのできない(機能追加できない・構造改善できない)システムなど、

ただの負債しか無いと思うのです。

黒船は、取れるリスクの幅が大きいからこそ難しい航路を選べるし、

そこで失敗したとしても、それ自体が業界人類全体の資産になるのだと思います

現実沈没船沈没していません。

黒船は水平線のはるか向こうで、船長はそれらが見えないため気楽です。

ちゃんと沈没してくれれば、最終的にはまともな船しか残らないので助かるのですが、

まともさに関する競争が働きにくいところがあるらしく、

現実には沈没船でも(だからこそ)安泰なのです。

リスク満載のはずの沈没船を安泰とさせている事によるコストは、

最終的には企業全体・社会国家人類といったものが負っていると思われます

補足の補足、「普通の人」「才能のある人」について



普通の人というのは、

プログラミングについて特別な情熱を持たず、

会社で使う他は開発ツールに手も触れず、インストールもせず、

家に帰ってから基本的には勉強せず(資格仕事必要場合は別)、

仕事で決められた範囲のツール・技術・問題領域で満足できる人の事です。

これは不真面目とか怠慢とかそんなわけではありません。

極めて普通の真っ当かつ正常かつ健全社会人の行動です。

例えば、マクドナルド店員が、

自宅でもビーフパテを練ってハンバーガーの焼き色を研究したりレシピを何冊も書いたり、

毎日毎日ポテトハンバーガーキーワードにググったりブログを読んだり、

枕元には常に藤田田の著作を数冊積んでいて、本棚には完全なコレクションがあったり、

1日に5度は銀座1号店の方角へお祈りを捧げたりしたら、

やはり変だと思うのです。

「才能のある人」とは、そういう事をごく自然に、

それこそ食事や睡眠のように日々やっている人です。

さらに言えば、これはマクドナルド店員を例に出すと変に思えるのであって、

ギタリストピアニスト作家写真家デザイナーといった専門家であれば

自然でも何でもない最低限のたしなみです。

20人~50人に1人という割合も、それがプロギタリストであれば納得できる数字です。

本来そのぐらい特殊な専門領域を広く一般に開放してしまっているという問題が、

元増田の「システムエンジニアなんて免許制にしちまえよ」という言葉に繋がるのだと思います

他の専門家とのアナロジーで言えば、事務所制なども考えられるかもしれません。

2013-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20130209155429

相手の発言をあまり理解出来ていないのに、不適切なアナロジーを持ちだすのは、反論として成立していないし、バカ丸出ししかいいようがない。

あとブコメ欄に

自分は利用する気もなかったし、気付いたら終わってたし、誰がどこにクレーム入れたか抗議したかも知らないけど、「もっと他に叩く対象いっぱいあるだろうよ。」って論法でなされる擁護はあまりきじゃない。

って言ってる奴がいるけど、そもそも元増田の記事のそのくだりの要旨は学生の擁護じゃなくて炎上させてる奴らへの批判だろ。調べないくせに批判したがりな文盲なんて最悪ですね。

2012-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20120924030123

いずれにしても、基底操作を実装して、それでマクロ操作を組むということですね。

その通り(何度も言うけど勘で書いてるので微妙に間違ってるかもしれない。本質的には外してないと思うけど…)。

そこが分かれば後のことは数学的詳細なので実装上は気にしなくてもいいと思う。

基底のところは正直かなり説明をはしょったので(少なくともベクトル空間についてよく知っていることを仮定した)、

からなくても無理は無いと思う。

拡張なしのオイラー式であれば、(v, e, f)という三次元空間の平面上の点が立体で、

それを表現するのは平面上に2つの独立したベクトルがあればいい、ということですよね。

これは完全にその通り。これが理解できるというのはかなり凄いと思います

操作」というのはその平面上で点を動かすことに対応していて、動かし方は無限にあるわけだけど、それらをどう表現できるかという話。

回転というのは、三次元でいうところの平面上の2つのベクトルが法線を中心にして回転する感じですか?

この辺はかなり抽象的な話なので、だいぶ意味が違う。

ここで言った「回転」というのは、「基底ベクトルの組を任意に回転(ユニタリー変換)してもやはり基底ベクトルの組になる」というような意味で、

具体的には2次元基底ベクトル(1,0)と(0,1)を45度回転した1/sqrt(2) (1,1)と1/sqrt(2) (-1,1)もまた基底ベクトルとみなせるというようなこと。

ここでは「ベクトル」はさっきの「立体を表す点を指すベクトル」ではなく「操作」そのもののことなので、「基底操作」についてそういうような

アナロジーが成り立つということを言いたかった。

厳密には「操作」自体はベクトル空間を構成しなくて、もっと広い(制約が緩い)概念であるところの群を構成する。

「基底操作」というのは群論言葉で言うと生成元のことで、全体の群を構成する生成元の取り方が複数あるということ。

まぁいずれにせよあんま気にしなくていいと思う。

個人的には、とにかく実装してしまうパワーが弱い方なので、実装力高い人はうらやましい。

  • 追記

「群」がずっと変換ミスで「郡」になっていたので修正しました。すんません。

2012-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20120709205128

定量的には,もし電気回路におけるオームの法則をご存知なら,肺に適切な血圧と血流を確保することと回路素子にかかる電圧と電流を確保するのとの間によいアナロジーがあります哺乳類鳥類では体循環と肺循環を直列に接続すると満足可能な体循環と肺循環の血圧と血流を確保するのが困難になります

2012-06-01

http://anond.hatelabo.jp/20120601223646

それdiscovery of oceanで見たな。

シャチが主役でゾウアザラシは脇役という一応位置づけだったけど、

むしろゾウアザラシのその生態の方が印象的で、子供アザラシや母アザラシを捕食するシャチ物語の引き立て役みたいな感じだった。

母乳が出なくなったために栄養を補給しに母アザラシ子供海辺に置いて一旦海に戻ろうとするんだけど、

疲れきっているだけにすぐさまシャチに捕食されてしまう。

母親を失った子供アザラシは他の雌にお乳をもらおうとするんだけど、雌はアザラシ自分の子供でないと分かると追い払ってしまう。

どんな哺乳類も一度に複数の子供に乳を与えるし、

母性本能が発動して異種の動物にまでも授乳する母親も珍しくないから、この光景には衝撃を受けた。

母性本能はやはり限定的に発動するものであって無差別ではないのかなあと。

無差別無限に発動するとしたらそれは資源無限あるいは十分にあるときなんだろうなあと。

で、人間社会一夫多妻制にしたら同じことが起きるだろうというアナロジーかい

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

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2011-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20110902142448

言語というのは構造から母国語である日本語の文法をきっちり教えないと、外国語勉強できないよ。

結局学習の基本はアナロジーから…。

ラテン系の知りあい日本語を教える時には、特に彼らの言語は近いものが多いから、類推から入るのをやめなさい(e.g. out of box/boundary)といわなきゃいけなかったけど。

2010-11-10

産経裁判員死刑回避を批判する理由

産経のこの社説はヒドかった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/101102/trl1011020259000-n1.htm

判決を軽々には批判できないにせよ、一方で「やはり死刑判決を避けたのでは」

>という意見もあり得るのではないか。

本心としては「死刑判決を出せないなんて、このヘタレ裁判員め、それでも日本人か!」と

叱咤したいのが産経の「本心」なんだろうが、面と向かっての裁判員批判もできないので、

このような「歯切れの悪い社説」になってるようだ。

で、この裁判員制度ウェブ上では産経ホームページが、一番「充実」している。

法廷ライブ」と銘打って、遺族の処罰感情を「ライブ中継」している。

なぜここまで産経裁判員制度にご執心なのか・・・と訝しがっていたが、

今回の死刑回避判決への産経の批判(?)で、なんとなく、判った気がした。

要は、産経は、「国の強制によって、一般市民が他人の生命を奪う」という

社会文化を、戦後日本に定着させたくてたまらないのだ。

つまり、裁判員徴兵制アナロジーである。

裁判員=国の強制によって一般市民が他人(犯罪者)の生命を奪う判断を行わせる

徴兵制=国の強制によって一般市民が他人(敵国兵士)の生命を奪う判断を行わせる

日本を「戦争ができる普通の国」にしたくてたまらない産経にとっては、

「一般市民が他人の生命を奪わなければいけない徴兵制」を導入させる

露払い」として、

裁判員制度で一般市民が他人の生命を奪う練習をさせる」必要があるのである。

2010-06-16

ゲームとかアニメとか音楽で金儲けしちゃいけないのか?

製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、対価として金を要求するのはおかしい」

「作品を金儲けの手段にするのはおかしい」

とか言う主張をネットで見るけど、変じゃない?

 いいじゃない、娯楽商品で金儲けしても。

 精神的活動を物質的活動と比べて優位に評価して、「純粋であるべき表現活動を金で汚すな」みたいに考える人がいるかもしれない。

 「悪貨は良貨を駆逐する」のアナロジーを使って、劣悪な商業指向の作品が氾濫すると、良質の作品が減ると考える人もいるだろう。

 前者に対しては、作り手がいかに物質的要素に助けられているかを見ていない。

作品を作っている間も生活しなきゃいけない。家賃払ったり飯食ったり。生きていかなきゃ作品も作れない。

金儲けして生活費に余裕ができれば、また作品も作れる。稼げなければ生活費を得るために別業せざるを得ない。

 

 加えて、作品を作るための技能環境にも金がかかる。

音楽を例にすれば、楽器や録音環境にはものすごい金がかかる。音楽を学ぶこと、例えば他人の音楽を沢山聞いたり理論書を買ったり

講義を受けに行くことにも金がかかる。音楽作成するときでも、エンジニア演奏家に頼む時には金を払わなければならない。

そうした労苦を経た上でようやく作れる音楽が多い。安価でつくられても素晴らしい音楽は沢山あるけど、ジャンルBGMとして使える範囲が

狭くなってしまう。

 

 金を稼ぐことによって作品制作に専念でき、技能的にも高く、多様な作品を生み出すことができる。それだったら稼がせてやればいいじゃん。一番得するのは受け手なんだから。

 値段が高くなって作品が買えなくなる、って意見もあるかもしれないけど、本当に値段設定が不当に高いのなら、そんなに売れないはず。

つまり製作者が自爆してるんだから、ほっとけばいいじゃん。

 後者に関しては、購買者側の問題でしょ。「劣悪な」商業作品が売れるってことは、そういう作品が欲しい、つまり少なくとも購買者は

その作品を「劣悪」とは考えていないってこと。良質な作品が減るっていうけど、そんなのは一部の意見でしかない。作品を絶対的に

評価できる尺度がないんだから、評価者の好き嫌いに還元されるところも大きい。つまり「俺の好きな作品が減って、俺の嫌いな作品が売れてしまうのは嫌」ってだけなんじゃないかと。

もちろん未完成品としか評価できない作品は除外した上での話。

 思うんだけど、「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、消費してもらえるだけありがたく思え」って言う人は、自分価値が無くて何らかの対価を出せないことに敏感な人が多いんじゃないかと。

・金が無いから、金を出したくない

自分プライドが許さないから、作品を好意的に評価したくない

・「製作者=上位」「消費者=下位」と自分で考えているから、劣等感故に製作者に対して勝手嫌悪感を抱いて、なんとかして攻撃したい

 結局こんな人が多いんじゃない?無料で公開してる作品に関しては特に顕著だよね。

 こういう人って自分製作者側に回ると、受け手に対してものすごく傲慢になるくせにね。

2010-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20100310152910

あまり映画アナロジーをひっぱりたくはないけど。

確かに家庭用ゲーム機ではいわゆる洋ゲーの大ヒットはシムシティみたいのを除いて多くないけど、それ以外の領域では洋邦比率はそんなに有利じゃないんじゃない? 正確なデータを持っているわけじゃないけど。よく言われるのはmixiアプリの一番がサンシャイン牧場であるとか、ネトゲ洋ゲーが強いとか、そんなところ。

家庭用ゲーム機が今後も聖域であり続けるとは思えないし、そういう意味で危機感を持つべきだと思う。

2010-03-06

今居る『「気弱な青年」を「草食系男子」だと言い張る』様なレッテルだけで物事を捉えて本質を見ようとしない奴が鬱陶しい。

俺の今働いている職場でも意味の分からないアナロジーで同意を求めてくる人がいるし、「それ具体的にどういう意味で言ってるの?」と問いただしてもその場をはぐらかす様な答えしか返ってこない。

一体こいつらは何考えて喋ってるのかね。

2010-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20100226150309

別に脳の構造が違うという話ではないだろ。

「数は常にリンゴでしかアナロジーしてはいけない」という固定観念があるだけで、その固定観念を外して考えればいいだけの話。

2010-01-28

[]最高に弱まった無職が薦める百冊より少なめの本

http://anond.hatelabo.jp/20100127001517

さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。

差し替え
  1. 『私とハルマゲドン竹熊健太郎
  2. 『檻の中のダンス鶴見済
  3. 『翔太と猫のインサイト夏休み永井均
  4. 『アストモモンガ橋本治
  5. 因果鉄道の旅』根本敬
  6. 超芸術トマソン赤瀬川原平
  7. 自転車旅行主義』 香山リカ
  8. 天使王国浅羽通明
追加
  1. 『立志・苦学・出世受験生社会史』竹内洋
  2. 1968年スガ秀実
  3. 日本の思想』丸山眞男
  4. 現代詩の鑑賞101』大岡信
  5. 『「知」の欺瞞』アラン・ソーカル
  6. アナロジーの罠』ジャック・ブーヴレス
  7. 『「世間」とは何か』阿部 謹也
  8. 『一九七二』坪内祐三
  9. ストリートの思想』毛利嘉孝
  10. 数学ガール結城浩
  11. 虚数情緒吉田
  12. 『無産大衆神髄』矢部史郎山の手
  13. スカートの中の劇場上野千鶴子
  14. 日本文学史序説』加藤周一
  15. リベラリズムの存在証明稲葉振一郎
  16. 自我起源真木悠介
  17. 『知恵の樹』ウンベルト・マトゥラーナフランシスコバレーラ
  18. イスラーム思想史井筒俊彦
  19. トンデモ本世界と学会
  20. 自殺直前日記山田花子
  21. 東京いい店やれる店』ホイチョイ・プロダクションズ
  22. マクロ経済学スティグリッツ
  23. ミクロ経済学スティグリッツ
  24. 社会学』ギデンズ
  25. 文学とは何か』イーグルトン
  26. 日本史山川出版社
  27. 世界史山川出版社
  28. 『辞典・哲学の木』
  29. 岩波文庫解説総目録
  30. 社会学文献事典』
  31. 『BOOKMAPPLUS』
  32. 学問がわかる500冊』
  33. 『「テクノ歌謡ディスクガイド
  34. ミニコミ魂』串田努
  35. 山崎浩一世紀末ブックファイル山崎浩一
  36. 『いかにして問題を解くか』G. ポリア
  37. ゲーデルエッシャーバッハ - あるいは不思議の環』ダグラス・ホフスタッター
  38. 四次元冒険』ルディ・ラッカー
  39. 論理学をつくる』戸田山和久
  40. 倫理問題101問』マーティン コーエン
  41. 想像博物館荒俣宏
  42. 魔法使いの丘』ソーサリー
  43. 『変体少女文字の研究山根一眞
  44. 『グラモフォン フィルム タイプライター』キットラー
  45. フラジャイル松岡正剛
  46. アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
  47. 東京大学ノイズ文化論」講義宮沢章夫
  48. 文学賞メッタ斬り!大森望豊崎由美
  49. ライトノベル「超」入門新城カズマ
  50. 現代思想1997年5月号『特集・ストリートカルチャー
  51. ユリイカ2007年6月号『特集・腐女子マンガ大系』
  52. モダンガール論』斎藤美奈子
  53. 『今月のフェミ的』あくまで実践 獣フェミニスト集団FROG
  54. 利己的な遺伝子リチャード・ドーキンス
  55. 『100台のコンピュータスタパ斉藤船田戦闘機
  56. 死刑全書』マルタン・モネスティエ
  57. エロスの涙』バタイユ
  58. 流行人類学クロニクル武田徹
  59. プログラムはなぜ動くのか』矢沢久雄
  60. エミュレータのしくみ』某吉
残しておく本
  1. ゲーム的リアリズムの誕生東浩紀
  2. 『逃走論』 浅田彰
  3. 『寝ながら学べる構造主義内田樹
  4. ゼロ年代の想像力宇野常寛
  5. 『ぼくたちの洗脳社会岡田斗司夫
  6. おたく精神史』 大塚英志
  7. 『よいこの君主論』 架神恭介
  8. 戦前少年犯罪管賀江留郎
  9. おまえが若者を語るな!』 後藤和智
  10. 『現代マンガの全体像』 呉智英
  11. カノッサの屈辱小山薫堂
  12. 『生き延びるためのラカン斎藤環
  13. ニッポンの思想』 佐々木敦
  14. 洗脳原論』 苫米地英人
  15. 『青いムーブメント外山恒一
  16. チベットモーツァルト中沢新一
  17. 自分探しが止まらない』 速水健朗
  18. 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書ばるぼら
  19. 電波男本田透
  20. 貧乏人の逆襲!』 松本哉
  21. サブカルチャー神話解体宮台真司
  22. 趣都の誕生森川嘉一郎
  23. 『たかがバロウズ本。』 山形浩生
  24. 『超クソゲー箭本進一
  25. 日本映画史100年』 四方田犬彦
  26. 『シミュレーショニズム』 椹木野衣
  27. 恋愛小説ふいんき語り』 米光一成
  28. 戦後ギャグマンガ史』 米沢嘉博
  29. 日本の10大新宗教島田裕巳
  30. 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』 ブルボン小林
  31. 映画の見方がわかる本』 町山智浩
  32. アダルトビデオ革命史』 藤木TDC

2010-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20100119002311

なんだ。哲学の話だったか。

「具体的な生命保険会社名前と、殺してくれるサービス」という両義はまるで「愛」そのもののアナロジーですよ。

という回答で宜しいでしょうか?

2009-12-14

ふたば二次裏でまとめられていた、中高生のための100冊 その3

1.「限りなく透明に近いブルー」 村上龍

2.「パンツをはいたサル」 栗本慎一郎

3.「ガンダムUC」 福井晴敏

4.「さかしま」 J・K・ユイスマンス

5.「国のない男」 カート・ヴォネガット

6.「競売ナンバー49の叫び」 トマス・ピンチョン

7.「夢渓筆談」 沈活

8.「神は妄想である―宗教との決別」 リチャード・ドーキンス

9.「24人のビリー・ミリガン」 ダニエル・キイス

10.「人間失格」 太宰治

11.「冬の夜ひとりの旅人が」 イタロ・カルヴィーノ

12.「高い城の男」 フィリップ・K・ディック

13.「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン

14.「新世界より」 貴志祐介

15.「葉隠入門」 三島由紀夫

16.「きつねものがたり」 ヨセフ・ラダ

17.「故郷」 チェーザレパヴェーゼ

18.「大空のサムライ」 坂井三郎

19.「ノヴァ」 サミュエル・R・ディレイニー

20.「フェルマータ」 ニコルソン・ベイカー

21.「四十七人目の男」 S・ハンター

22.「逆転世界」 クリストファー・プリースト

23.「ロッパの悲食記」 古川ロッパ

24.「謎の女」 福田恆存

25.「天体嗜好症」 稲垣足穂

26.「冷血」 カポーティ

27.「ダスト」 チャールズ・ペレグリー

28.「神秘の島~ミステリアスアイランド~」 J・ヴェルヌ

29.「連射王」 川上稔

30.「スレドニ・ヴァシュター」 サキ

31.「性に目覚める頃」 室生犀星

32.「トンデモ変態系」 ブレンダ・ラヴ

33.「侵略する少女と嘘の庭」 清水マリコ

34.「ほとんど無害」 ダグラス・アダムス

35.「黄落」 佐江 衆一

36.「地球の長い午後」 ブライアン・W・オールディス

37.「冷たい方程式」 トム・ゴドウィン

38.「リレイヤーⅢ」 鴻上 尚史

39.「糞尿大全」 柳内伸作

40.「十六の話」 司馬遼太郎

41.「シャングリ・ラ」 池上永一

42.「武士道シックスティーン」 誉田 哲也

43.「痴人の愛」 谷崎潤一郎

44.「白痴」 坂口安吾

45.「穴」 ルイス・サッカー

46.「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハインライン

47.「ギャシュリークラムのちびっ子たち」 エドワード・ゴーリー

48.「23分間の奇跡」 ジェームズ・クラベル

49.「閉鎖のシステム」 秋田禎信

50.「伊平次とわらわ」 坂田靖子

51.「食肉の帝王―巨富をつかんだ男 浅田満」 溝口敦

52.「だれも知らない小さな国」 佐藤さとる

53.「へんないきもの」 早川いくを

54.「僕のボール君に届けば」 伊集院静

55.「楽園の知恵」 牧野修

56.「鳩どもの家」 中上健次

57.「古事記」 倉野憲司

58.「猫の地球儀・焔の章」 秋山瑞人

59.「東海道中膝栗毛」 土田よしこ

60.「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」 秋津透

61.「海と毒薬」 遠藤周作

62.「死の家の記録」 ドストエフスキー

63.「四畳半神話大系」 森見登美彦

64.「夜明け前」 島崎藤村

65.「陰日向に咲く」 劇団ひとり

66.「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー

67.「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一

68.「外国語水曜日」 黒田龍之助

69.「百頭女」 M・エルンスト

70.「味覚極楽」 子母沢寛

71.「はてしない物語」 ミヒャエル・エンデ

72.「開かれた社会とその敵」 カールライムント・ポパー

73.「近代労働観」 今村仁司

74.「不可能性の時代」 大澤真幸

75.「死霊」 埴谷雄高

76.「アナロジーの罠」 ジャック・ブーヴレス

77.「中央線呪い」 三善里沙

78.「特別料理」 スタンリイ・エリン

79.「他人をほめる人、けなす人」 フランチェスコ・アルベローニ

80.「星虫」 岩本隆雄

81.「一休さん」(新・講談社絵本) 宮尾しげを

82.「第四間氷期」 安部公房

83.「おとなもブルブルようかい話」 木暮正夫

84.「ヨーロッパ文学講義」 ウラジミール・ナボコフ

85.「サマー/タイム/トラベラー」 新城カズマ

86.「責任 ラバウル将軍今村均」 角田房子

87.「死の蔵書」 ジョン・ダニング

88.「死のロングウォーク」 リチャード・バックマン

89.「ケルベロス第五の首」 ジーン・ウルフ

90.「馬鹿の鏡」 藤田浩子

91.「フロイト先生のウソ」 ロルフ・ゲーデン

92.「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー/野崎孝

93.「宇宙創生」 サイモン・シン

94.「針の上で天使は何人踊れるか」 ダレン・オルドリッジ

95.「歴史」(上・中・下) ヘロドトス

96.「ナツメグの味」 ジョン・コリア

97.「愛はさだめ、さだめは死」 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア

98.「幾千の夜を越えて」 神月摩由璃

99.「夏の庭―The Friends」 湯本香樹実

100.「アルジャーノンに花束を」 ダニエル・キイス

2009-11-19

コンピュータの性能」という幻想

スパコン関連の騒動を見ていて思ったんだが、コンピュータの処理能力が客観的に測れると思ってる人が多いんだね。確かにCPUの命令の処理能力等のハードウェア面の性能はかなり客観的に測定できる。しかしコンピュータの処理能力というのは命令セットや命令の処理方式によっても影響を受ける。さらに人間に理解できるプログラミング言語によってかかれたソースから最適な機械語を生成するコンパイラなんかも重要だ。極端な話、こうしたものが駄目ならいくらハードウェアの性能がよくても、処理能力が低くなる。コンピュータの性能はハードウェアの性能だけでは決まらず、客観的に測定することは原理的には困難なのだ。それなのに「スパコンでNo.1」というそれだけ聞いてもよくわからないフレーズ共感する人たちが多い。きちんとした知識があれば、具体的にはどういう点でNo.1を目指すのか疑問に思うはずだ。単にISCで発表されるランキング上でNo.1を目指すだけなのか、極端な話ランキングを無視して本当に今必要とされている用途向けに最適化されたものを目指すのか、そういったことが「スパコンNo.1」というフレーズでは見えてこない。それなのにやたら共感する人たちが多く不思議だ。多分これはパーソナルコンピュータとのアナロジーで考えているのだと思う。パーソナルコンピュータの場合、大体CPUIntel製で、OSWindowsだ。だからCPUクロック数やメモリの容量などハードウェアの性能で、ほとんど客観的に処理能力を比較することができる。このパソコンとのアナロジーコンピュータの性能を考えてる人が多いから、「スパコンでNo.1」を目指すというわかりやすそうでわかりにくいことに共感する人たちが多いのだろうなと思う。

個人的な意見としてはランキングなんて気にしなければいいのにと思ってるんだけどな。宣伝にはなるだろうけど、スパコン使うような学者技術者ならあのランキングがあまり当てにならないことぐらいわかるでしょ。正直文科省の実績作りにしか思えないんだけど。

2009-09-18

ここしばらくの女子力に関する話題を見ていて、一分のスキもなく完璧にセットされて男からの評価を得ることに特化した女性って、文字通り『武装』(これは所謂スイーツ的な人であるか、それともヲタ受けしそうなタイプか、は問わない)してる感じがするよなーってのをとりとめもなく思った(この人なんかレオパルト2っぽいなー、的な。)

そういえば、そういう人と身近に接すると、なんか射爆場で戦車砲の標的にされてるような気分になる。すんげえ速度で機動して、車体がめっちゃ揺れて見えても、砲身は完璧にスタビライジング。一ミリのブレなく、秒速1700mの熱視線で、あなた如きはいつ何時でも赤子の手を捻るみたいに殺せるんだよ、という本気が伝わってきて。

なんていうか、装甲系女子?

てか、俺、死ぬの?みたいな。ええ。死ぬんですけど。精神的に。

もちろん、そう感じるのは、受け手側たる自分の貧しい女性経験・アワレな心象が大いに投影されてるだけなんで、真面目に我が身を振り返ると割と虚しいんだけど、まあそこに両目をつぶってぼーっと見ていると、その手の「女子力」を理解し(意識する・せざるは問わない)使いこなして男どもを蹂躙していく人って、なんか「戦争」っぽいなーと思う。恋は戦争(笑)とか手垢つきまくったワードだなーとか思うけど、特に「宣戦布告」「交戦対象」がなくても、そういう人達からは無言の存在感・プレゼンスみたいなもんが感じられるのだよな。簡単に蔑ろには出来ない何か。そう考えると、女子力というのは一種の武力・暴力抑止力類推で考えるとしっくり来るというか、自分の中で妄想がもりあがってくる音が!音が!モリモリと!するわけです!!!

所謂「女子力の高い人」が火力・装甲・機動力の三位一体でどっか遠くの男を蹂躙・突破・包囲殲滅していくのは小気味よいし、面白い。けど、自分の近くでドンパチが始まったり、お隣さんが急激に女子力を高めたりすると、なんかバランスオブパワー的な意味自分軍拡を求められる感じの圧力を感じて、すげーやだなー、みたいな。ウチの近所で戦争やらないでください!みたいな。だいたいどう俺を強化しても真正面からレオ2A6みたいな気合入った異性とがっぷり四つに組んで戦うような戦闘力はねーよ!!みたいな。どう頑張ってもソマリア民兵レベルブラックホークダウンよりも悲惨なことに!!!みたいな。早く増田を和平に導く政治的枠組みを整えるべくはてな首脳会談開催しろ!!!!はやくしろーッ!間に合わなくなってもしらんぞーッ!!!みたいな。おお!いいじゃないか!!!(何が)

収拾付かなくなってきたんでその話は捨て置くけど、そういう「女子力の高い理想の女」像を冒頭のような「戦車部隊の理想」像っぽいアナロジーとして考えると、そういう理想像常識みたいに求められるのは、完璧超人になれない多くの女性にとっては、確かに頭が痛い問題だろうなーってこともぼんやり実感出来て楽しい。ボヤいてた増田の人は、そういう『近代的な機械化部隊の存続・維持』に求められるコスト微妙に重荷なんだけど、だからって非武装にはなれねえし、コスタリカとかスイスとか持ち出したりして中立・非武装・軍縮を称揚してる人は何なの?死ぬの?防衛力の議論の歪な状況マジつらいんですけど!自衛官だって人間なんだぞ!!!的な状況に追い込まれてるのかな、という。『女子力の高い女』でいようとすることのランニングコストの高さと、それにまつわる議論の渦中で色々と心をすり減らしているんだね!という理解になり、意味もなく共感した(たぶんただの妄想)。

そんなことを考えていたら、そこはかとなく女子力の話題が楽しくなってきて困るなあと思いました。なんだかきょうも俺の脳内はてなウォーズはさいこうに盛り上がっているぜ、こんもりとな!(CV:堀川りょう)という心境になってきて凄く幸せ

増田のみんなも、しあわせになろうよ!!!!!!!!!

2009-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20090915000223

いわゆる株主主権とのアナロジーを持ち出すのはおかしい。

いや、なにが「いわゆる」でなにがおかしいのか、さっぱりわからない。

株式会社株主のものなのは単なる事実

だが株主としては、無料化は会社収益構造破壊する行為以外のなにものでもなく、不適切なことに思える。

それにせっかく道路建設費の返済費が国家財政からはずれた(株式会社負債になった)のに、それをまた付け戻して国債やら増税やらに付け替えるのは端的に言って愚策だろう。

http://anond.hatelabo.jp/20090915000223

アナロジーじゃなくて実質的にも形式的にも政府の支配下にあるのは明らかなはず。

そもそも論としては税金使って作ったものを私物化するのがおかしいと思う。公共インフラ資本論理に従わないのは別におかしなことでもないはず。百歩譲っておかしいとするなら一般道株式会社所有にして私有化するべきでは?なぜ高速道だけ資本論理にするのかの理屈がわからない。両方そうするべきなら理屈としては筋が通ってると思うが。

http://anond.hatelabo.jp/20090914234646

いわゆる株主主権とのアナロジーを持ち出すのはおかしい。

一般企業株主と異なり、政府企業株主である政府市場論理に従って動いているわけではない。

突き詰めていえば、政府民間企業大株主であることこそを問題視すべき。

2009-07-22

古人の糟粕を嘗めまくり

たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、

我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマ

カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマカラオケ

大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。

たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。

作品テーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から

すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を

もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても

そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。

マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは

主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって

決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、

リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとり伝統を教えてやる」と

いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど

やりたくなる戦略でもある。

いや、とくに結論というのがあるわけではなく。

追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒醸造工程

アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。

楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。

追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴール言及されている(記憶によれば)

からといってそれが古今的な作品だということにはなりません。あーうまい説明ができない。

2009-02-20

うつは、未来のことを考えると悲観する病気

アルコール依存症は、アルコールを飲む→失敗する→後悔→ストレスアルコールを飲む、という悪循環にはまる病気悪循環を止めるには、アルコールを飲むのをやめるしかない。

アナロジーで考えると、うつも、未来を考える→悲観する→「このままじゃダメだ」(焦燥感)→現状を打破しなきゃ→未来を考える、という悪循環にはまる病気なのかもしれない。そう考えると、悪循環をとめるには、未来を考えることをやめるしかない、ということになる。そして、これは、自分経験では割と有効。

うつとアルコール依存症を比較するのは適切ではないが、悪い状態が続くということは、結局、何かの悪循環はまっているということになる。悪い現象が偶然何度も続く、ということはあり得ないからだ。その悪循環をとめないと、結局、再発する。

2008-09-21

http://anond.hatelabo.jp/20080916195956

これを読むと一応納得できる。バカとかいう表現には少し問題はあるような気もするけど、主な内容としてはd:id:Apemanが、d:id:HALTANホロコースト批判を認めているということだから。せっかく認めているんだから、もう少し素直に書けばいいと思うけど、これは個人の勝手というかそういう芸風なのかもしれないのでまあしょうがない。

いやバカだねぇ…。私は5月の時点から、「ホロコースト」だけを特別扱いせずに「ポル・ポト」その他についても同じ基準を採用する主張なのであれば理解できる、ってずっと言ってるわけよ。にもかかわらず、「ホロコースト」が出てキルト「恐ろしい」とか「声高に連呼」などと言いがかりをつけるくせに、「ポル・ポト」とか「関東軍」についてはマンガのようなダブスタを披露してるのがHALタンなのよ。私は一度たりとも「左翼批判のためにポル・ポトを引き合いに出すのはけしからん」とか「官僚機構批判のために関東軍を引き合いに出すのはけしからん」なんて言ったことないんだから。ちゃんと首尾一貫してるだろ? 首尾一貫してないのは、なぜだか「ホロコースト」だけ」が許せないと言うお歴々なんだよ。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080918/p2


おおよそはこれで納得したけれども、わずかな疑問が「たとえ」に関すること。つまり「ホロコースト」はたとえでは無いということは何度も強調して主張されていたこと。

ポル・ポト」や「関東軍」はたとえ、d:id:hokusyu風に厳密に言うとアナロジーとしてのたとえとして使われているもの。だから「たとえ」として使われたものと、「たとえではない」と発言者によって主張されたものを 別の物として扱うことが首尾一貫してないとはならないのではということ。

これは「ホロコーストポルポト関東軍 」にも書いてあるけど。

ホロコーストの参照が、ポルポト関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジーホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。

d:id:hokusyuアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。

http://anond.hatelabo.jp/20080916195956


最後にもう一度。

d:id:Apemanが、ホロコースト批判を受け入れたということは、評価すべき。

2008-09-16

ホロコーストポルポト関東軍

理解するつもりは無いと言われたd:id:Apemanと理解できないと言ったd:id:HALTANの間のやり取りが面白い。

なにごとかを批判する際に「ホロコースト」を参照することが許せないらしい id:HALTANとか id:Sokalian のような潔癖な方々(しかしその割には「ポル・ポト呼ばわり」はスルーするんだよね)には、日銀大阪府下の市町村教委と関東軍の間にどれほどの接点があるものなのか、ぜひともご高説をうかがいたいところだ。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080915/p2


これに対してd:id:HALTANは「汚いぞ(怒) - HALTANの日記」(http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080915/p2)で怒っているみたいですが、怒るところがコミニュケーションの不成立なのか。確かに皮肉めいた部分は多分にあるとしても、関東軍呼ばわりについての意見を聞きたいというのは、それに対する批判的な意見を良しとしている、少なくとも悪いとは思っていないと判断できる。これはポルポト呼ばわりについても同じ。

それを「ホロコースト」の参照にも適用すれば、これもまた批判を期待しているということ。実際には批判はすでになされているので、批判を認めるというように解釈できる。

だから、これをもってホロコースト批判を正当な物として暗黙に認めたとも解釈可能。

とするのは詭弁がすぎるかもしれないけれど、これはもともとが詭弁だから。「詭弁倫理学」に書かれている「相殺法」で、さらに細かく言えば「公平の原則」というもの。具体的な例を出せば、悪いことをして怒られた子供が「自分だけじゃない」と言ったり、交通違反で捕まったドライバーが「他にも違反している人がいる」と弁解するようなこと。自分の行動や主張が正しいということを言いたいのならば、それを言えばいい。他を持ち出してのいいわけは、自分の非を認めていることになるのは自明なんだけれども気がつかない人は多そう。

自分が『「声高に」「連呼」して悲劇を「見世物」にしているああ恐ろしい……』のような非難をされたから、他の人もそうされるべきというようなことを書くのは、率直に言って良くないこと。皮肉として言ってるとしても、たとえでは無いと主張されているものと、たとえとして使われているものではまったく別だとかd:id:HALTANに言われたら困るんじゃ。

ホロコーストの参照が、ポルポト関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジーホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。

d:id:hokusyuアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。

d:id:Apemanの「ポルポト呼ばわり」や「関東軍というたとえ」の是非に関する意見や、それらと関連した「ホロコーストの参照」の、それぞれの類似点や相違点についてまとめて書かれた物を読んでみたいと思うけど、あまり期待はできないかな。

それよりは「捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!」(http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/)の「俺が見たトリアージ論争」の続きでホロコースト論争についても言及されることや、「ARTIFACT@ハテナ系」(http://d.hatena.ne.jp/kanose/)で意外と知られていない有用なエントリーが紹介される方が可能性が高そう。

それ以外の人だとd:id:sk-44あたりがもし「ポルポト」や「関東軍」のたとえと、「ホロコースト」の参照に関することを書いたら興味深い内容になるのではと勝手に期待。

(追記)

d:id:Sokalianhttp://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080915/p2コメント欄で「知るか。」と書いているから、関東軍ポルポトホロコーストについては書いてくれないかな。でも、d:id:Sokalianの立場なら全部良くないと言っても整合性がとれてしまうのが面白くない。ホロコースト使用に肯定的で、ポルポト関東軍のどちらかにでも否定的な意見の人の見解の方が興味深い。

2008-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20080809155536

http://anond.hatelabo.jp/20080809155536

横槍だが。hokusyu氏やApeman氏の考えとは違うかもしれないが、俺の考え。

トリアージ概念の不用意な援用」を「ホロコースト」に喩える のと、「売れない百貨店の切捨て」を「トリアージ」で喩えることの違いの話だな。

これは、命の選別を命の選別で喩えるのと、命の選別を経営上のリストラ正当化で喩えることの違いじゃねえ? あまりに軽いもので喩えてしまったんだよ。お嬢さん相手のカルチャースクールで飛ばしたヨタだっけ?

とある本にあった例なんだけどな。

テトリスと同じルールで、人間を効率よくガス室にぎゅうぎゅうづめにしていくゲームを作って売ったら、そりゃ絶対批判を浴びるよな? そこに、ルールは同じじゃないか、ゲームなんて喩え話なんだから怒るなよ、というのは無理筋じゃないかなあ。

「仮に」アナロジーとして論理的に正当な部分があったとしても、喩えの倫理性ってのは問われうるし、不謹慎ってのはあるわけで。表現の自由に関する議論は当然可能だろうが、そういう倫理的な理解のその上でなお主張されるものとしてあるべきだ。

現場医者に怒られて経営学のセンセーが謝ったのは、そこに気付いたからだと思うんだが。

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