2013-07-22

ワンダと巨像」における握力と集中力アナロジー

ワンダと巨像」における「握力」というシステムが、そのまま「集中力」に置き換えることができるんじゃないかという仮説。

巨像を斃す方法は、剣で弱点部位を数回ぶっ刺せばいいだけという至極単純なものだが、そこに至るまでのプロセスに「握力」が必要になってくる。

弱点部位までたどり着くまで、握力を使って根気よく登ったりしがみついたりしなければいけないのがこのゲームの肝である

握力を切らしてしまったり、不意を衝かれて肝心なときにしがみつけないと、巨像から振り落とされることになり、最初から登り直さなくてはならなくなる。

このゲームおいて、うまく巨像を斃せるかは握力の使い方によってくる。

どうやって巨像の弱点にたどり着くかがわからなくても、とりあえずしがみついていればそのうち弱点が見つかったりする。

巨像が理不尽なくらいに身体を振り回そうが、根気よくしがみつくことが攻略の糸口なのだ。さもなくば振り落とされ、余計な労力を払って最初から挑まなければならなくなる。

はじめは握力の総量が少ないことを恨めしく思うのだが、扱い方に慣れてくるとうまく運用できるようになる。

「握力」は巨像から手を放すことで時間と共に回復するのだが、それにも上限があり、一定以上には回復しない。慣れてくると一度登るのをやめて、適切なタイミングで巨像の上で握力を回復し、再び登り始めることができるようになる。地上でうろついていることと巨像の上で握力の回復を待つことは全く違うことに気づくだろう。

ある手段によって握力の上限を増やすことができるのだが、実のところ、一切増やさなくてもすべての巨像を斃すことができる。使い方さえ上手ければ最低レベルの握力でも攻略できるように設計されている。

ここまで思いつくままに「ワンダと巨像」における「握力」というシステムについて書き連ねたが、そのまま「集中力」に置き換えられるのではないかとは考えられないだろうか。巨像を斃すことは「問題を解く」ということと置き換えることができる。勉強に限らず広い意味での「問題解決」と考えてもいいかもしれない。

実際に集中力が高いと思う人はいるのだが、総量はそこまで問題じゃない気もする。適度に手をゆるめて、肝心なときにしがみつくというやり方が、「人より集中力が高い」ように見せかけているだけなのかもしれない。私は塾でアルバイト講師をしていた頃があるのだが、勉強ができないと嘆く生徒は、とにかく投げ出すのが早い。「投げ出す」と書くと能動的に聞こえるが、実際のところ「振り落とされている」だけだ。しがみつき続けるということができないのである

池上彰も、東工大で授業をしていると、学力の高さというのは集中力の高さに依存するのではないかと思ったというようなことを書いている。

「もともと頭のいい人だから勉強ができるのだ」というのは、どうも上っ面だけを見て言い訳をしているだけのように思えてならない。「頭がいい」とされている人も、実際は集中力の使い方が人よりうまいだけであって、その総量も大して人と変わらなかったりするんじゃないかと思うのだ。これは私の持論で、特にこれと言った根拠はないけれど。

このゲームプレーヤーにかなりのストレスを与えてくるのだが、弱点部位までたどり着いて剣で刺すときカタルシスがすさまじい。いままで全くダメージが通らなかったのに、一撃ごとに一気に体力メーターを奪っていけるあの快感が、それまでの苦労を忘れさせてくれる。勉強に限らず、問題解決が上手な人はこのカタルシスをうまくモチベーションに繋げられている人のような気がする。

ちょっとした思いつきで長文を書いてしまいました。まとまりがなくてすみません。うまくまとめてくれる方がいたら誰かまとめてください。

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