はてなキーワード: 考察とは
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは本当に正しい(フェア、公平な)やり方なのでしょうか。以下のように考察してみました。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
いずれも、発言した人とはまた別の人たちが、揚げ足を取る形で批判をしています。発言した内容そのものではなく、その発言の「裏を返す」ことによって新しい発言を生み出し、それを実際には発言したものだとして批判しています。
高校数学I・Aでは、論理学(命題・真偽・逆・裏・対偶)を学びますが、命題の裏を返すとはどのようなことなのかについては、高校数学を修めた人ならば理解できているはずです。念の為に復習しておきましょう。
ある人が「ナイトは硬い」(もしXがナイトならば、Xは硬い)という主張をしたとして、考えてみましょう。
この命題をシンプルに書けば、「ナイト→硬い」となり、ある人はこの命題が真であると主張しているわけですね。
まずはこの命題の逆を作ってみましょう。矢印の前後を入れ替えることになります。「硬い→ナイト」となり、「もしXが硬いならば、そのXはナイト」を意味します。
また、元の命題の裏を作ってみましょう。矢印の前後の言葉をそれぞれ否定します。「ナイトじゃない→硬くない」となり、「もしXがナイト以外ならば、Xは硬くない」となります。
最後に、元の命題を裏にして逆にしましょう(逆にして裏にしても良い)。「硬くない→ナイトじゃない」となり、「もしXが硬くないならば、ナイトじゃない」となります。
論理学においては、対偶関係にある命題の真偽が一致することが知られています。たとえば元の命題「ナイト→硬い」が真であるならばその待遇である「硬くない→ナイトじゃない」も真であることがわかっています。数学ではこの性質を利用した対偶論法を使って証明が行われる場合もあります。
またもう一つの特徴として、元の命題の裏や逆の命題は、元の命題から真偽を判断できないことがわかっています。つまり、元の命題が真だからと言って、その命題の裏や逆の命題は真であるとは限りません。つまり別の情報を導入しなくてはもとの命題の裏や逆は、真偽が定まらないのです。
そのため、ある人が「ナイト→硬い」(真)を主張したとき、対偶の性質を用いて論理的には「硬くないのは→ナイトじゃない」(真)を主張したことになります。しかし、逆である「硬い→ナイト」や裏である「ナイトじゃない→硬くない」の真偽についてその人は言及していませんし、情報が不足しているので、その真偽を論理的にも導出できません。
なお情報不足については、裏・逆・対偶以外の操作をした場合も同様のことがいえます。たとえば矢印の前側だけ否定する「ナイトじゃない→硬い」などなど。
以上を再度まとめます。「対偶関係にある命題の真偽が一致する」のですが、それ以外の操作によって作られた命題の真偽はわからないのです。
つまり論理的に考えれば、ある人がとある命題が真(偽)であると主張したとき、その命題自身の真偽やその対偶命題の真偽を批判することは問題ないのですが、それ以外の操作をして生み出した新しい命題をその人の主張として批判するのは完全に的外れとなります。だって、その人はそんな主張をしてないんですから。
言い換えると、「A→B」(真)という主張をした人に対して、「A→B」「〜B→〜A」の真偽について議論をしかけることは問題ありません。様々な証拠を持ち出すなどして論破してやりましょう。
しかし、その人が言っていない逆「B→A」、裏「〜A→〜B」、それ以外の「〜A→B」「A→〜B」・・・などなどを勝手に作り出し、その人が言ったとして議論をしかけるのはおかしいなことですよね。論破以前に、その人はそんなこと言ってないんですから議論が噛み合うはずがありません。むしろその人からすればただのイチャモンですよね。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
教師の主張は「自子→愛す」(真)なので、その裏である「自子じゃない→愛さない」なんて主張してもいなければ意識すらしていませんよね。そんな言ってもないことを捏造されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、自分の子と同様ではないかもしれませんが、先生として教え子を愛することは普通にありえることですし、この教師も両方の愛し方を同時に行っているのかもしれません。(なお、本当にそうかはわからない。あくまで未定)
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
BLM支持者の主張は「黒人命→大切」です。その裏である「黒人命じゃない→大切じゃない」は主張していませんし意識すらしていません。言ってもないことを捏造して批判されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、黒人の命は大切だし、それ以前に黒人であるかどうかに関わらず人の命は大切であるというのが普通の考えですよね。どう考えても揚げ足取り(しかもエア揚げ足)です。
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
弔辞におけるありきたりな表現なので、これを主張しているというのはかなりずれているような気もしますが、「いのちを失ってはならない人→存在する」という主張と今回はあえてみなしましょう。
批判者は「いのちを失ってはいけない人ではない→存在する」であると拡大解釈して批判しています。でもこれは、裏でも逆でもないしもちろん対偶でもありませんね。そんな無茶苦茶な操作によって作った命題を、主張したものとして批判するのはさすがイチャモンが過ぎます。まったく論理的ではありません。裏ですらないんですから。
裏や逆の操作を使って特定の命題から新しい命題を増やし、話題を広げるのは日常的によくやることです。
日本語の「裏を返せば」「逆に言えば」は、無理筋な強弁へと通じることもあるから注意しないといけません。もちろんその強弁を面白さとして昇華させる文学的なテクニックもありますが、かなり高度なテクニックですよね。
自著において自分の主張を展開するときに裏逆などを使うのは自己責任だから良いけれど、他人の主張の「裏」「逆」をとってそれを主張したものとして議論するのは避けるべきです。
たとえば自著で自説を書くはじまりに、「現代は情報化社会であることは衆目一致するところであろう。だが裏を返せば現代以前は情報化社会でなかったことを意味する」みたいな強引な論理展開をしたとしましょう。当然ながら命題の裏の真偽は未定なので、これは穴だらけの強弁です。この主張を正しいとするために、それ以降に様々な証拠を挙げ証明をしなくてはいけませんよね。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは全く論理的ではありませんし、言ってもいないことを勝手に捏造してまくし立ててくるのは、議論のやり方としてフェア(公平)ではありません。
そのような論法を使ってくる人がいたら厳重に注意しましょう。また自分でも「裏・逆の非論理性の罠」に引っかかって批判のロジックを組み立ててしまわないように注意しましょう。
今後、「裏を返せば」「逆に言えば」という論法で、言ってもいないことを言ったこととして一方的に批判をしてくる人が出てきたらこう返すと良いでしょう。
「私の主張を勝手に裏にしたり逆にしないでください。それは私の主張ではなくあなたの主張ですよね。もっと論理的な批判をお願いします」
これは個人の意見だから、ガバガバ認定の全員が同じこと考えてるわけではないよ。人の意見を聞くのは面白いので、異なる意見や見落としている描写があったら教えてほしい。
リコリコの脚本の問題点は「するべき描写が足りていない」「制作人が物語を客観視できていない」ことだと思う。
ストーリーや描写に細かい突っ込みどころはたくさんあったけど、私が主にダメだと感じたのは以下の3つ。
②キャラクターが浅い
リコリコをバディものだと思ったのはイントロダクションの「凹凸コンビ」、キャッチコピーの「ふたりの時間、選びとる未来」と1話から。百合押しはいうまでもないでしょ。
バディもので必要なものは、「この2人じゃなければこの結末はなかったと思える」ことで、百合は定義が難しいけど「女の子同士」で「互いが影響を与え合い、代わりのない存在となる」とかそのあたりが必要だと思う。
バディものだったかということについては、2人で敵と戦うわけでもないし2人で悩んだりするわけでもないし、2人で選び勝ち取った未来でもなくて、最終的に千束のための物語だった。求めてたバディものの描写はOPの共闘部分くらいだったよ。
百合に関しては、なぜかまどマギと比べている人がいたからまどマギを例にカップリングの傾向について書く。まどマギはカップリングがメイン登場人物分あって、まどかとマミさんのカップリングは人気だけど、さやかとマミさんのカップリングはそうでもないんだよね。3話まで3人で行動していたのに差があるのは、マミさんの心を理解して変化させたのはまどかだったからっていうのがあると思う(ほむらのいた世界の関係も含まれると思うけど)。まどかもさやかもマミさんから影響を受けているけど、マミさんはまどかから影響を受けて心情に変化があった描写があるから「エモい」関係になった。
じゃあリコリコではどうだったかというと、たきなは千束から影響を受けたといえるけど、千束はたきなに影響を受けてはいない。千束がたきなに特別に感情を吐露するとか、たきなという人間じゃないと成し得ない関係になってるわけでもない。ついでに言うとたきなも影響を受けてはいるけどそれで成長した描写が薄いから、ただDAが全てだった頃から依存先が変わっただけにしか見えない。
2人がお互いに不可欠な存在だったり深く干渉し合った関係ではない。だから百合か?といわれると、いや百合ではないな…ってなる。「女の子同士がいちゃいちゃしてれば百合なんだよ!」っていう層とはこの辺で相いれないんだろうなぁと思う。
そしてバディでも百合でもないし千束に影響も与えないから、たきなの存在に必然性がない。これは後半だけじゃなくて物語全体で感じたことで、物語におけるたきなの役割って「ドローンを打ち落とせるくらい射撃がうまい」以上のことがない。
たきなの代わりにえりか(1話で人質になった子)が喫茶リコリコへ左遷された物語を考えてみてほしい。それで物語の大筋が変わるか?千束が「あなたに会えて嬉しい」とたきな以外に言わないか?そこが変わらないならたきなの存在に必然性も説得力もなく、制作側がやりたいことをするための存在に感じるよ。
描写が足りない点についてもう一つ考えてほしいんだけど、たきなは「昨年京都から転属した」「フキと同室だった」って1話で言っていて、千束と出会う前に少なくとも数か月はフキ達と行動してたってことになる。1話以前のたきなを想像できるか?あの性格で今まで問題なく過ごせていたほうがおかしいし、1話が初任務くらいじゃないと違和感がある。あの世界でキャラクターが生きてる感じがしないんだよ。
たきなについてもう1つ問題点があって、結局1話で機銃を撃ったことに言及してない。千束は「人を助けた」って言ってるけど、たきなが命令無視して動くほど合理的だと感じた理由への言及がない。これはたきなの成長を描くなら必須だよ。
千束を除いたたきな独自の関係性って本編の中ではえりかしかないから、11話のえりかとの和解は重要な意味があるはずで、たきなの行動が本当にえりかを救いたかったものならばそこで撃った理由を話すべきだった。例えばたきなからえりかへ「怖い思いさせてごめん」「あの時はわからなかったけど(成長した)今ならわかる。私はあなたを助けたかった」とかそういう展開が必要だった。嫌味を言うだけで終わったから、あの行動の理由なんて考えておらず、たきなの成長を描く気がなかったんだなって思ったよ。
このアニメ、モノローグが1話冒頭しかないから各々の心情を知るには主に会話になる。で、考えをベラベラ喋る割にはキャラクターの行動原理が見えてこないから、こいつら何がしたいの?感がでてくる。
人を殺したくない←なぜ:人に救ってもらった命だから
っていうのは理解できる。でも「自分が」殺したくないにしてはたきなやフキに殺さないように言うし、直接的にも間接的にも殺したくないにしては1話の機銃乱射に歓声あげて、自分がもう少し早く到着していれば回避できたとかそういう葛藤もない。不殺の理由を「気分がよくないから」って答えているけどその「気分」の根拠もないから結局何がしたいの?その中途半端な設定いる?と思ってしまう。
敵についても動機が見えてこないから浅くて小物感があるし、それと戦っている主人公達とこの物語がチープに見える。
吉松だと
千束に殺しをさせたい←なぜ:才能を世界に届けたいから←なぜ:?
真島だと
っていう感じで行動に対する動機が見えてこない。このキャラクターはなぜそうしたいのかという部分が足りていない。過去編やって全部描写しろとは言わないよ。でもワンカット・一言くらい「なんかあったんやろなぁ」と感じさせるものがないのは、そもそも理解させる気がない。
例えば真島は世界のテロ組織転々としてるって設定があるんだから、過去戦争でバランスにこだわるきっかけがあったとか、一瞬でも過去の描写があれば勝手に考察してもらえるのにもったいないなぁって思った。
12話で特に顕著だった一般人の描写について、ストーリー全般で明らかに足りていない。ストーリーに一般人が全く関わってこないならいいけど、一般人をギミックにするなら序盤から省いてはいけない要素だった。モノローグで「平和です!」って言われてもどのレベルかわからない。作中でも暴力団はいる描写はあったし、10年前にテロが起きてる時点で平和ってなんだよって思うよ。
というかこのアニメの設定上、殺し屋とかと戦うんだから相対的に治安が悪く見える。だから一般人の平和ボケと平和な作中世界は過剰なくらいやらないとつり合いが取れない。それを省いた上での12話だからそれは批判されるよ。
設定上できないんだったらいいけど、喫茶店という一般人が立ち入る場所があって、かつ4話ではテレビで脱線事故に対する反応もしているのに、平和ボケしている描写を入れられなかったは通用しない。それで理解してくれは制作側の明らかな怠慢だよ。
1話でも街中の戦闘と誘拐未遂があったんだから、人が死なない事件の後処理や一般人ひいては被害者の事件に対する認識を描けていれば世界観も掘り下げられてよかったのになぁと思った。
総合的に言うと、やりたいことはわかるけどそれに必要な描写もないしキャラクターの掘り下げもできていないせいで何がしたいのかわからないアニメだった。脚本が複数いるみたいだから舵取りをするべきなのは監督だし、監督のストーリーに対する客観視が足りなかったのか、そもそのそんな詳細な設定は考えられてないのか、そこに割く時間がなかったのか。
やりたいことについては付いてきてくれる人はいるからこれから頑張ってほしいよ。もったいなかったなぁ。
[余談]
・上記で何度か触れてるけど、このアニメは1話が一番問題だと思う。始まりはもっと丁寧に描いてほしいなって思った。
・この13話かけた世界に意味があったのはミカくらいだろうね。
ミカは過去と向き合いそのけりをつけた。他の人は何も成し遂げていないし解決もしていない。
・百合でまどマギを例に出してたけど、オリジナルアニメ、バディもの、整備された歪な世界、それに異を唱えるラスボス という点ではPSYCHO-PASSがこの作品の比較としては適切じゃないかな。PSYCHO-PASSは主人公の友達の一般人目線があったし、ちゃんとバディものだった。まだ観たことがない人にはどっちもぜひ観てほしい。
・魅力的な世界といまいち理解できない登場人物、作者の考えた設定を見る側に伝えられていない、本筋と関係ない描写に時間を割くっていう点でリコリコは打ち切り漫画みたいだなって思った。途中の失速に対してある程度落としどころ見つけたね~みたいなのも含めて。
・アニメや映画でどういう話だったかって短く要約できるものは優れた脚本だといえるけど、リコリコに関して思いついた人がいれば教えてほしい。自分はできなかったので。
「すみません、今バタバタしていて……また予定がわかったらこちらから連絡しますね!」
が挙げられる。
・予定がわかったら←いつになるか不明
この文章、パッと見は
「すみません、今バタバタしていて……また予定がわかったらこちらから連絡しますね!」
しかし、本当にそうだろうか?
要素を一つずつ見ていくと
・シフト←週末か月末か、いずれ必ず出る
ということがわかる。
シフトは必ず出るものなのでそれを言い訳に使うのは不自然なのだ。
しかし、それでも「一瞬で考えたどうでもいい断り文句」の可能性はある。
その上でほぼ100%「断り文句ではなく文章通りの意味」であるケースが一つだけあるのだ。
それは、
これだ。
看護師は月初から月末までの一単位でのシフト制であることが多い。
そして、前月始めに希望締め切りがあり、25日〜前月末までにシフトが発表される。
そのため、月末の看護師は本当に「シフトが出たら連絡しますね!」と言うしかないのだ!
そして、数回デートしているのであればこちらも看護師のシフトについて多少は理解しており、シフトを言い訳に使う気にはならないだろう。
以上のことから、数回デートしたことがある、月末の看護師の言う「シフトが出たら連絡しますね!」は真実なのだ。安心して待っとけ。
HSP=Highly Sensitive PersonとASD=Autism Spectrum Disorderって逆のタイプに見られてるけど、本当は軽度のASDが後からHSP的になってると思う。当事者側だから余計そう感じる。
日本語圏だと https://www.meiji.ac.jp/mhc/6t5h7p00003cdzoq.html くらいしかまともな考察をしてる人がいないけど、英語圏で同じ疑問を持った人は結構いるみたいで、HSPは軽度ASDじゃないの?てエントリをそこそこ見るし、HSPって概念自体がご都合主義で間違いじゃ?て研究者の考察も複数見る。
ASDは空気が読めないけどHSPはその逆って偏見から来てるんだけど、集団から阻害されかけたASD当事者がHSP的に異常に気を遣う「いい人」になるケースって結構多いのよね。大衆向け発達障害本が適当に偏見垂れ流すからとても厄介なことになってるなあと最近思うけど。
でも今のを丁寧に読み込んでる人は少ないと思うよ
気にせずどんどんページめくって雰囲気つかんで後は考察とかを見て楽しむみたいな人が増えてるのでは
実際今でも人気めっちゃあるし
題名の通り、他人の解釈が怖くなった。漫画とかアニメとか映画とか小説とか、そういうのを読んだ後に他の人の感想とか反応を見たりするのが好きで、アニメなんかも2周目は感想付き(アニメをリアルタイムに実況するやつ)をよく見る。普通の感想だったらまだいいけど、表現とか、描写とかに筋道立てて作者の意思とか何を表現したかったのか、といった風な考察とか解釈が怖い。現代文の答え合わせをしているようで、とても怖い。文学的要素、というか行間を読むような作品とか。具体例を出すとシャニマスのような作品。趣味の範囲内なんだし個人で楽しめばいいというのはもちろん分かるけどそういう他人の解釈が自分が思った事と違うと、とても悲しい。間違いじゃないと分かっていても、そっちの方が確かに正しいなってなって。自分はなんて浅いんだろう。これで好き、なんて言えるのかとか。けれど見ずにはいられない。自分の「好き」が正しい好きかどうか確かめなくちゃいけないから。ここまで書いてみて自分の自己肯定感の無さを感じるなーとか、他人からどう見られてるか気にしすぎじゃない?とか思った。SNS、やめた方がいいのかも。分からないけど
下記はカリフォルニア大学のビアンカ・アセベド博士の研究紹介動画と書籍と記事(Pod cast)、
興味があればどうぞ
HSP brain studies
https://www.youtube.com/watch?v=qep36Vy_0pE
> Did you know that the brain of a highly sensitive person (HSP) works differently?
> The results of fMRI brain studies conducted by Dr. Elaine Aron, Dr. Art Aron, Dr. Bianca Acevedo and their colleagues are quite fascinating.
エレイン・アロン博士、アート・アロン博士、ビアンカ・アセベド博士らが行ったfMRIによる脳の研究結果は、かなり魅力的です。
[Amazon] The Highly Sensitive Brain: Research, Assessment, and Treatment of Sensory Processing Sensitivity 1st Edition
https://www.amazon.com/Highly-Sensitive-Brain-Assessment-Sensitivity/dp/0128182512
> The Highly Sensitive Brain is the first handbook to cover the science, measurement, and clinical discussion of sensory processing sensitivity (SPS),
> a trait associated with enhanced responsivity, awareness, depth-of-processing and attunement to the environment and other individuals.
> Grounded in theoretical models of high sensitivity, this volume discusses the assessment of SPS in children and adults,
> as well as its health and social outcomes.
> This edition also synthesizes up-to-date research on the biological mechanisms associated with high sensitivity,
> such as its neural and genetic basis. It also discusses clinical issues related to SPS and seemingly-related disorders such as misophonia,
> a hyper-sensitivity to specific sounds. In addition, to practical assessment of SPS embedded throughout this volume is discussion of the biological basis of SPS,
> exploring why this trait exists and persists in humans and other species.
>
>The Highly Sensitive Brain is a useful handbook and may be of special interest to clinicians, physicians, health-care workers, educators, and researchers.
『高感度脳』は、感覚処理感度(SPS)の科学、測定、臨床的考察を網羅した初めてのハンドブックです。この巻では、高感度の理論モデルに基づいて、子どもと成人のSPSの評価、健康と社会的転帰について論じています。また、高感受性の神経基盤や遺伝的基盤など、高感受性に関連する生物学的メカニズムに関する最新の研究をまとめています。また、SPSの臨床的な問題点や、特定の音に過敏に反応するミソフォニアなど、一見関連していると思われる疾患についても解説しています。さらに、この巻全体に組み込まれたSPSの実用的な評価に加えて、SPSの生物学的基盤についての議論があり、なぜこの形質がヒトや他の種に存在し、持続するのかを探っています。
臨床医、医師、医療従事者、教育者、研究者にとって有益なハンドブックです。
[foreverbreak] Highly Sensitive People How to Tell If You’re an HSP + Shedding Light on This Misunderstood Trait
非常に敏感な人々 あなたがHSPであるかどうかを見分ける方法+この誤解されている特性に光を当てる
https://foreverbreak.com/podcast/s1/e5/
大概の作品はエピローグまでやるから、起承転結+おまけになって、おまけがあるせいで勢いを殺している
結果、熱が冷めて冷静になって、粗を探す余裕が出来てしまう
打ち切りはどういう状況でも作品としては終わらせるために詰め込んで最高潮の状態を「結」にしているから、勢いがあるまま終わる
熱量を維持したまま終わるという意味では、冷静になって作品の良し悪しを考える暇もなく終わるからファンとしては熱狂したまま終わる
内容というか構造をそもそも理解してないし、ある設定に対して突っ込んでいたけどそこの部分は映画内でしっかりフォローもされていた。
そんな映画レビューのサイトでもPVはだいぶあるみたいだし、パンフレットに寄稿した経験を自慢していた。
もちろん、すべての映画批評のサイトがこうじゃないことも理解してるし、結局は書いているのが素人だってことも理解してる。
それでも、だ。「映画を年に○○本観ています!」と喧伝されると盲目的に内容を信じてしまうものなんだろうか?
たとえば野球の解説を、全く野球の経験がなく、ただ「毎年100試合以上観ています!」という人物が行ったとして、言っていることに説得力を感じるだろうか。
文章においても本来、同様のことを考えるべきである。しかし誰しもが文章を書くことが出来、情報を発信できるような状態になるとついそれを忘れてしまう。
考えなしに観ると違和感を覚える描写でも、構造を意識して観ると納得する描写は数多くある。
今から25年前の1997年ののこと。当時小学生だった自分の1歳年上の従兄が、夏休みにお婆ちゃんの家にこのゲームを持ってきていたのが全ての始まりだった。
「タクティクスオウガっていうゲームがあるんだ。すげーから一緒にやろうぜ。」
従兄に勧められるままゲームを始めたのだが、タクティクスオウガが『すげー』ことはすぐに分かった。
中世ヨーロッパ風の権謀術数渦巻く世界観。重厚なBGMの中で敵味方がターン関係なく立体的なマップで繰り広げるリアルな戦闘。
背中に翼の生えたキャラクターが民家の屋根の上に移動して弓を射ると放物線上に矢が飛んでいくわ、ふわふわと宙に浮かぶ幽霊が魔法を唱え敵が炎に包まれると足元の草が焼けるわと細部までこだわったビジュアル。
とにかく衝撃的なゲームだった。いてもたってもいられなくなり、従兄がお婆ちゃんの家から帰った直後にお小遣いを握りしめて町のゲーム屋さんに走った。
お店のレジで商品を買うときにすごくドキドキしたのを今でも覚えている。スーパーファミコン版のタクティクスオウガの商品パッケージは英語でタイトルが書かれており、フォントが英語の旧字体みたいな形だったので、読み方があっているかな、間違って別のソフト買っちゃうんじゃないかなとすごく緊張したのだ。ぜんぜん自信が無かったが、店員さんにタイトル合ってるか確認して無事に買うことができた。
ワクワクしながら商品を持ち帰り、ゲームを始めたが小学生にとっては、難易度が高く難しいゲームだった。初回プレイ時にはキャラクターの強さを表すパラメータが多すぎてさっぱり分からなかった。
だけど作りこまれたチュートリアルとオンラインヘルプ等の親切な機能がたくさんついていたおかげで何とかゲームを進めることができた。一番助かったのは戦闘中の中断セーブ機能だ。小学生の時には、1日ゲームは30分までというルールがあったので非常に助かった。
さて、ゲームを買ってから2週間くらいの時のこと。難しいながらも俺はどうにかChapter1の終わりまでシナリオを進めていた。このゲームはプレーヤーが会話中の選択肢を選ぶことでシナリオが分岐するんだけど、途中で出てきた選択肢が衝撃的だったのは今でも忘れられない。ネタバレになるので詳細は伏せるが小学生には重たすぎる内容だった。無茶苦茶悩ましい選択だったが、片方を選んでゲームを先に進めてみた。だが、すぐにゲームに行き詰った。キャラクター育成をよくわからずに進めていたので自軍のユニットが弱く戦闘で勝てなくなったのだ。このまま先に進めないのも悔しかったので攻略本を買うことにした。
ここで話は少々脱線するのだが、俺の生まれ育ったのは日本海側の田舎町だ。町の本屋さんはあまり大きくない。なので、地元の本屋さんの攻略本コーナーにはメジャーな作品のものしか置いてないわけだ。ゼルダの伝説とか、ドラクエとかFFとかまあそれくらい。それらに比べるとタクティクスオウガはマイナーだった。苦労を重ねて隣町の古本屋さんで偶然攻略本を見つけて手に入れるまで1か月かかった。その後は攻略本を熟読してゲームシステムの理解を深めて1から再挑戦したのだが、家の方針で1日のゲーム時間が30分に制限されていたので、クリアするまでにはさらに2ヶ月ほどの時間を要した。だけどその分クリアしたときの達成感は大きかった。興奮冷めやらぬ俺は、小学校の同級生たちにタクティクスオウガのすごさを布教したが上手くいかなかった。俺がタクティクスオウガに出会った1997年当時、家庭用ゲーム機の主役はスーパーファミコンからプレイステーションに移行しつつあり、同級生たちはファイナルファンタジー7やファイナルファンタジータクティクスといったスクウェアの大作ゲームに夢中になっていたのだ。
同級生のN君に、「タクティクスオウガってファイナルファンタジータクティクスのパクリでしょ?」と言われたのは傷ついたなあ。なんていうか、自分がイケてると思ったゲームをディスられるという経験がなかったので。残念ながら、うちの地元では最初にタクティクスオウガを紹介してくれた従兄以外に周りでタクティクスオウガファンを見つけることができなかった。
それから2年後の1999年。俺は中学生になり、田舎町の我が家でもインターネットが使えるようになった。ネットが使えるようになってすぐに、以前はまっていたゲームのタクティクスオウガの攻略情報を調べてみた。地元の田舎町にはいなかったタクティクスオウガファンは、ネットの向こうにはたくさんいるようだった。ファンの集めた情報は膨大で、攻略情報にとどまらずゲームの舞台背景の考察やクリエイターの音楽の趣味までカバーしていて、中学生の俺の知的好奇心はガンガン刺激された。ディレクターの松野氏の名前もこの時に知った。余談だが、「タクティクスオウガとファイナルファンタジータクティクスは主要な開発スタッフが同じ」というのも同時期に知ったので、小学生の時にパクリ呼ばわりしてきたN君に対して「両方同じ人が作ってんだよ、適当言うなざまあ」という気持ちが芽生えたのはここだけの話である。
ネットの情報から刺激を受けた俺はゲームの世界観をもっと味わいたくなって、前作の「伝説のオウガバトル」もプレイしてみた。ディレクターの松野氏が好んでいたらしいQueenの楽曲を聞いてみたくなり、生まれてはじめて洋楽のCDを買いにも行った。コーヒーを飲めるようになった時のように、背伸びして少し大人になった気分がした。
そのうち自分でも似たゲームを作りたくなって、おこづかいでVisual Basicを購入したりもした。プログラミングの入門書片手にそれらしい画面までは作ったが、しょせんは中学生。体系だったプログラミング言語の知識がないためサンプルコードのコピペに終始し、1年くらいかかって紙芝居のようなものが出来て終わった。その後は、高校入試・大学入試で忙しくなったのでしばらくゲームから遠ざかっていた。
そこからさらに時が流れて俺は社会人になった。中学生の時のゲーム作りの経験から、ソフトウェアエンジニアの適性は無いなと思ったのでハード系のエンジニアとして就職した。タクティクスオウガから受けた影響は俺の人生を変えたのである。ゲームから遠ざかっていた俺だが、2010年にタクティクスオウガの1度目のリメイクのニュースを聞いて再び情報を集めだした。そこでたまたま開発者の松野氏のプロフィールを見つけたのだが、なかなかの衝撃だった。
まずはスーパーファミコン版のタクティクスオウガ開発時の年齢。発売日の時点で29歳なのである。ゲームの開発期間が2年くらいだとすると、開発開始時は27歳くらいだろうか。その若さであの革新的なゲームの開発指揮を執ってたのかよ!松野氏と面識のあるゲームクリエイターがインタビュー記事で天才という理由が分かった気がする。次に出身地。新潟県の妙高市となっている。地方出身であのゲームの重厚なシナリオを描くだけの知識を身に着けたのか!というのがもう一つの驚きだ。
先に俺の出身地が日本海側の田舎町だと書いた。地方で育ったからわかるのだが、地方はゲームの攻略本に限らずあらゆる情報が都会に比べて乏しい世界だ。タクティクスオウガの世界観を形成している中世ヨーロッパの歴史や文学の知識を松野氏はどこで得たのだろう?世代的にインターネットが無い時代なので、俺が田舎で育った時よりもさらに情報は手に入れにくいはずである。これは今でも気になっているので、今度出る予定のリメイク版の開発者インタビューでだれか聞いてみてほしいところである。
最後になったが、今回出る2回目のリメイク版もすごく楽しみにしている。なんていうか2回もリメイクが出るだけでもすごいのに、2回ともオリジナルの開発メンバーがかかわっているのがまた驚きなのだ。
発売元のスクウェア・エニックスはFF・ドラクエ等の過去の作品をよくリメイクしているけど、オリジナルのスタッフが何度もかかわるケースは珍しくないだろうか?しかも開発者の松野氏はリメイク前にスクウェアを退社しているのだ。それでも声がかかるのだから、本人のカリスマ性がメチャクチャ高いのだろう。過去に会社を辞めた人が2回も開発現場に呼ばれるって相当なことだと思うんよね。
まああまり厳密に考えずに、発電利用の際に追加で行う仕事は任意の量が可能、ということにする。
タケコプターで、バケツを高所に運んで流す、みたいな利用法で水力発電するアイデアを考えた。
突然ですが、タイトルの通りです。
ただいま、職場のお局(37)から私は(32)露骨なパワハラ・モラハラを受けています。
◾️経緯
私が入社したばかりの時に、社内のチャットツールで、お局の部署の人間にDM。
社内規定でDMは禁止されているが、リモート勤務でありシステムに関する内容のため、(遅れたが私はエンジニアである)話が込み入るためDM。
これに関しては、禁止されているため私が悪い。
その後、お局より別の公開チャンネルでお叱りの連絡。
よせば良いのですが、あまりにもケンカ腰のチャットだったため私も強めに反論。
それから出社時に「私、そういうことしたやつを絶対に許さない」などの発言を大声で職場で吐くなど、露骨に私に対しての威圧を開始。
その後、謝罪を重ねるも(5回は謝ったかな?)、お局の態度は変わらず。(元々の原因は私なので、本当に反省している)
◾️されたこと
・社内スポーツの開催時(強制ではない)に、先輩が私を誘う時に露骨に嫌な顔をして参加させない。
・お局が私に仕事を依頼して来たことがあるが、その時も威圧的な態度だった
・お局が連れてきた新入社のパート(お局の友人)が私に対して挨拶しない。(入社したばかりの人がです。他の人へは初めましてのご挨拶済みです)
・私の席の近くで2人で会話。
イヤホンをしていて会話の内容は聞いていないが、上記の経緯もあり威圧的な印象を受ける。(まぁ、何かしら悪口やら吹き込んでいるのだろうな)
録音を図るもの、ヒソヒソ話しているため録音は失敗。
ヒソヒソ話している時点で、非常に陰湿なやり方をしていることがよくわかる。多分、若い頃から敵と認識した人に同じことをしてきたのだろうなと推察。
◾️証拠
今のところ、パンを配られなかった事実はカメラで撮影し、上述した私がされたことの日付などは記録しています。
◾️考察
つらつらと書いてみて、些細なことだし元々は私が悪いし、私が基本リモート勤務であまり関わらないから、ということでこれまでスルーして来ました。
ですが、お局が友人を連れて来て数の暴力に走ったことで私は決意しました。
仕事にも差し支えるし、謝罪を重ねているにもかかわらずパワハラ・モラハラを続けており、出社時に仕事に集中できません。
話はそれますが、お局の強めの対応や性格の悪さは職場でもたまに問題提起されております。
ですが、改善の傾向は見られていません。
◾️今後の予定
私は基本リモートで、そのお局に会うのも出社時の週1なのでスルーするつもりでした。ですが、これまでの経緯やお局が数の暴力に走ったこと、これからも同様のことが続くことを考えた際に相談を決意。
今後は淡々と証拠を積み重ね、会社の対応如何では環境配慮義務違反で会社に賠償請求や、そのお局にパワハラ・モラハラに対する訴訟を提起するつもりでいます。
私はどうせこの会社に長くいるつもりはないので、
やれるところまでやるつもりです。
でも、できればこんなことはしたくないのです。
アラサー女が来たよ。
アイドルマスターは春香や雪歩しか分からないや。みんな歌い方に個性あっていいよね。きゅんパイア聞き分け動画を見ていいなーって思った。
私も音ゲーという圧倒的に男性が多いジャンルにいて、フェミニンなファッションしてるのにあんまりモテないよ。痩せてた頃も太ってる今も。
自分なりの考察をするに、やっぱりメンタルがヘラヘラしてるといい男は寄ってこないな。大学時代に女友達から「あなた、男性陣に、可愛いけど言動が狂ってるって言われてるよ」って教えてもらったし、後輩男子に告ったら「先輩、大丈夫っすか、メンヘラですか!?」って心配されてしまったよ。後輩男子は私の倍くらいの体重のお風呂に入らない系女子(自信があって安定してる性格)と結婚してしまった。
(´・ω・`)「…みてた夢の中で考察してたことが上手く言い当ててるような気がするので書き遺してみるべぃ。カウンターだけの呑み屋に連れられて入ったところ、そこはアマチュアデビューした歌手のレコード(!)を展示販売してる、いやその店が手掛けた多数の歌手のレコードを販売してるところだった。レコードや曲は昭和の昔によくあった歌謡曲みたいなシンガーソングライターみたいな演歌みたいなそんなやつばっかりで、連れて来てもらった人に歌手連中のデビューの経緯をいろいろ聴かされてる最中、いやワイはシティーポップが好きやからなー、とモヒトツその話にノリきらない言い訳をしようとおもってて、その時に閃いたってか巧いレトリックを生み出したような気がしたんや」「『なんだぃキミは音楽をジャンルで聴いているのかね(失笑)』て返されたとしたときに、ワイの好きな音楽は布団に似てる、自分の体温でヌクヌクした冬の布団からは居心地がよくて出たくないやろ?つまり狭い範囲のジャンルの中でウロウロして探してるけどそこから出て行かないときの嗜好や、やけどユーチューブやらラジオとかで偶然に耳にした知らんジャンルの曲もエエなぁとおもうときもあるんや、それは冬の風呂上がりとか夏の夜に入ったときの布団、あの冷たいとこを探してイゴイゴと手足を動かして快適性を求めてるときの感覚や、」てなかんじの~(´・ω・`)モーオジーチャンダカラアサハヤクメガサメテネランナイノ
でもいつ自殺したと言われてもああやっぱりそうだったか、って思うような状況だ。
誰がどう見ても明らかな心身の病、というわけではない。ツイッターでは普通に呟いている。
もう1年以上同じテーマを描き続けている。毎作毎作というわけではないが、半分〜2/3くらいはそういう感じだ。
でもそれは相当なコアファンしか気づかないし、言ったとしても考えすぎ乙で流されるのが目に見えている。
なぜか? 表面上はどれもとても楽しげではちゃめちゃな作品に見えるからだ。
執拗に繰り返される主張は大体こんな内容だ。
「言いたいこと思ったことが口に出せない」「表面上の私しか皆見ていない」「全て滅茶苦茶にしてしまいたい、けどできない」
世間からは「はちゃめちゃな作品をノリノリで作る人」と思われている。
実際その通りではある。作品公募なんかには自分からそういう作品を投げていくし、昔からそういう作風で作っていた。
しかし、「それ以外」は見向きもされないのだ。
問題は「それ以外」の作品は存在すら知られていない、認知されていないことだ。
推しが作品を手掛けます! というと「今度はどんなカオスが出てくるんだろう?」というような反応になる。少しでも「普段」と違う作品が出されようものならすかさず「今回ははちゃめちゃじゃないのか」と言われる。実際は全体の半数くらいがその「普段と違う作品」であったとしても、へえ珍しいーと首を傾げられ、そして忘れられていく。
これは鶏と卵だが、商業的にもほとんど「そういう作品」しかオーダーされない。認知度の差は更に広がるばかりだ。
「どんなに訳の分からんこと言っても、何をやっても、わかるーってみんなに全肯定してほしい」
本当にそれでいいのか、と思った。
推しはストーリー性のある作品をよく作る。はちゃめちゃな作風と深いストーリー性を両立している。
ファンの考察や質問にあまり反応はしないので自分のような深読みオタクのことをどう思っているかは分からないし、深読みするのが正しいとか言いたいわけではないのだが、少なくとも頭空っぽで全要素を受け止められる作品では断じてない。
そして現状、ストーリー性の方は比較的顧みられないことが多い。
その前提込みで「みんな」に「わかるー」と言ってもらうには…馬鹿でもわかるくらいストーリーを単純にするか、万人受けする作品を作るか、2択しかない。
でも推しは「何をやっても肯定されたい」のだ。自分のやりたいことをやりきって評価が欲しいのだ。
推しは承認欲求の怪物か、と思われるだろう。実際その通りではある。
推しは宣伝を執拗にするタイプではない。反響が良かったときに感謝を述べることはあっても、悪かった時に必死で拡散する人ではない。自分の出した作品に対しての評価に躍起になって異議を申し立てる人ではない。
プロジェクトセカイの東雲絵名を知っている人なら彼女の絵のアカウントを想起してほしい。自分の人気自撮りアカウントで宣伝すれば一瞬で爆伸びするはずの別アカウント。それをしないのは彼女のプライド故だ。それでは意味がないと考えている。
推しも同じだ。ただ、絵名と決定的に違うのは、なりふりかまわぬ最終手段を持ち合わせていないところだ。
推しがSOSを出し始めたのはここ1年ほどのことだが、似たような愚痴は昔からあった。人は急には変わらない。
ただ、今まで愚痴を吐いたその口でカオス作風を吐き出すような真似は(顧客にオーダーされない限り)していなかった。
今は違う。
誰が望もうが望むまいが、自分からカオス度を加速させ、その一方で虚無感を吐き捨てる。それをこの1年ほど繰り返し続けている。
みんなの望む「悪い子」を叩き壊すどころか強化する一方で「もうやめたい」と泣く矛盾。
ああ、推しいつ死んでもおかしくないな、とオタクは思ってしまった。
この矛盾が煮詰まるだけ煮詰まってしまったら推しはどうなるのだろう、と考えるたびに胸が詰まりそうになる。
そもそも「みんなの望む像」があるだけ幸せだと言う人もいるだろう。それが確立しているのは推しが人気だからだ、と。
理想像が高く積み上がっていく一方で、誰にも顧みられず朽ちていく誰かがいるんじゃないだろうか。
推しは特定されたいけど書いてる人のことはあんまり特定されたくなくて、最大限ぼかすような卑怯な書き方になってしまった。指を咥えて見ているだけ、というのはそういうことだ。
あの人かな、と思い当たったらどこかに書いてほしい。正解があったら自分もその人ですと書くつもりだ。
そうして思い当たったら、どうかたまには、ちょっとだけでも、推し本人のことも見てくれたらいいな、と切に願う。