でもいつ自殺したと言われてもああやっぱりそうだったか、って思うような状況だ。
誰がどう見ても明らかな心身の病、というわけではない。ツイッターでは普通に呟いている。
もう1年以上同じテーマを描き続けている。毎作毎作というわけではないが、半分〜2/3くらいはそういう感じだ。
でもそれは相当なコアファンしか気づかないし、言ったとしても考えすぎ乙で流されるのが目に見えている。
なぜか? 表面上はどれもとても楽しげではちゃめちゃな作品に見えるからだ。
執拗に繰り返される主張は大体こんな内容だ。
「言いたいこと思ったことが口に出せない」「表面上の私しか皆見ていない」「全て滅茶苦茶にしてしまいたい、けどできない」
世間からは「はちゃめちゃな作品をノリノリで作る人」と思われている。
実際その通りではある。作品公募なんかには自分からそういう作品を投げていくし、昔からそういう作風で作っていた。
しかし、「それ以外」は見向きもされないのだ。
問題は「それ以外」の作品は存在すら知られていない、認知されていないことだ。
推しが作品を手掛けます! というと「今度はどんなカオスが出てくるんだろう?」というような反応になる。少しでも「普段」と違う作品が出されようものならすかさず「今回ははちゃめちゃじゃないのか」と言われる。実際は全体の半数くらいがその「普段と違う作品」であったとしても、へえ珍しいーと首を傾げられ、そして忘れられていく。
これは鶏と卵だが、商業的にもほとんど「そういう作品」しかオーダーされない。認知度の差は更に広がるばかりだ。
「どんなに訳の分からんこと言っても、何をやっても、わかるーってみんなに全肯定してほしい」
本当にそれでいいのか、と思った。
推しはストーリー性のある作品をよく作る。はちゃめちゃな作風と深いストーリー性を両立している。
ファンの考察や質問にあまり反応はしないので自分のような深読みオタクのことをどう思っているかは分からないし、深読みするのが正しいとか言いたいわけではないのだが、少なくとも頭空っぽで全要素を受け止められる作品では断じてない。
そして現状、ストーリー性の方は比較的顧みられないことが多い。
その前提込みで「みんな」に「わかるー」と言ってもらうには…馬鹿でもわかるくらいストーリーを単純にするか、万人受けする作品を作るか、2択しかない。
でも推しは「何をやっても肯定されたい」のだ。自分のやりたいことをやりきって評価が欲しいのだ。
推しは承認欲求の怪物か、と思われるだろう。実際その通りではある。
推しは宣伝を執拗にするタイプではない。反響が良かったときに感謝を述べることはあっても、悪かった時に必死で拡散する人ではない。自分の出した作品に対しての評価に躍起になって異議を申し立てる人ではない。
プロジェクトセカイの東雲絵名を知っている人なら彼女の絵のアカウントを想起してほしい。自分の人気自撮りアカウントで宣伝すれば一瞬で爆伸びするはずの別アカウント。それをしないのは彼女のプライド故だ。それでは意味がないと考えている。
推しも同じだ。ただ、絵名と決定的に違うのは、なりふりかまわぬ最終手段を持ち合わせていないところだ。
推しがSOSを出し始めたのはここ1年ほどのことだが、似たような愚痴は昔からあった。人は急には変わらない。
ただ、今まで愚痴を吐いたその口でカオス作風を吐き出すような真似は(顧客にオーダーされない限り)していなかった。
今は違う。
誰が望もうが望むまいが、自分からカオス度を加速させ、その一方で虚無感を吐き捨てる。それをこの1年ほど繰り返し続けている。
みんなの望む「悪い子」を叩き壊すどころか強化する一方で「もうやめたい」と泣く矛盾。
ああ、推しいつ死んでもおかしくないな、とオタクは思ってしまった。
この矛盾が煮詰まるだけ煮詰まってしまったら推しはどうなるのだろう、と考えるたびに胸が詰まりそうになる。
そもそも「みんなの望む像」があるだけ幸せだと言う人もいるだろう。それが確立しているのは推しが人気だからだ、と。
理想像が高く積み上がっていく一方で、誰にも顧みられず朽ちていく誰かがいるんじゃないだろうか。
推しは特定されたいけど書いてる人のことはあんまり特定されたくなくて、最大限ぼかすような卑怯な書き方になってしまった。指を咥えて見ているだけ、というのはそういうことだ。
あの人かな、と思い当たったらどこかに書いてほしい。正解があったら自分もその人ですと書くつもりだ。
そうして思い当たったら、どうかたまには、ちょっとだけでも、推し本人のことも見てくれたらいいな、と切に願う。
じゃあ家族になって引き留められるまで頑張りゃいいじゃんお前が
既婚者なんだよなぁ 養子にでもなるか