他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは本当に正しい(フェア、公平な)やり方なのでしょうか。以下のように考察してみました。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
いずれも、発言した人とはまた別の人たちが、揚げ足を取る形で批判をしています。発言した内容そのものではなく、その発言の「裏を返す」ことによって新しい発言を生み出し、それを実際には発言したものだとして批判しています。
高校数学I・Aでは、論理学(命題・真偽・逆・裏・対偶)を学びますが、命題の裏を返すとはどのようなことなのかについては、高校数学を修めた人ならば理解できているはずです。念の為に復習しておきましょう。
ある人が「ナイトは硬い」(もしXがナイトならば、Xは硬い)という主張をしたとして、考えてみましょう。
この命題をシンプルに書けば、「ナイト→硬い」となり、ある人はこの命題が真であると主張しているわけですね。
まずはこの命題の逆を作ってみましょう。矢印の前後を入れ替えることになります。「硬い→ナイト」となり、「もしXが硬いならば、そのXはナイト」を意味します。
また、元の命題の裏を作ってみましょう。矢印の前後の言葉をそれぞれ否定します。「ナイトじゃない→硬くない」となり、「もしXがナイト以外ならば、Xは硬くない」となります。
最後に、元の命題を裏にして逆にしましょう(逆にして裏にしても良い)。「硬くない→ナイトじゃない」となり、「もしXが硬くないならば、ナイトじゃない」となります。
論理学においては、対偶関係にある命題の真偽が一致することが知られています。たとえば元の命題「ナイト→硬い」が真であるならばその待遇である「硬くない→ナイトじゃない」も真であることがわかっています。数学ではこの性質を利用した対偶論法を使って証明が行われる場合もあります。
またもう一つの特徴として、元の命題の裏や逆の命題は、元の命題から真偽を判断できないことがわかっています。つまり、元の命題が真だからと言って、その命題の裏や逆の命題は真であるとは限りません。つまり別の情報を導入しなくてはもとの命題の裏や逆は、真偽が定まらないのです。
そのため、ある人が「ナイト→硬い」(真)を主張したとき、対偶の性質を用いて論理的には「硬くないのは→ナイトじゃない」(真)を主張したことになります。しかし、逆である「硬い→ナイト」や裏である「ナイトじゃない→硬くない」の真偽についてその人は言及していませんし、情報が不足しているので、その真偽を論理的にも導出できません。
なお情報不足については、裏・逆・対偶以外の操作をした場合も同様のことがいえます。たとえば矢印の前側だけ否定する「ナイトじゃない→硬い」などなど。
以上を再度まとめます。「対偶関係にある命題の真偽が一致する」のですが、それ以外の操作によって作られた命題の真偽はわからないのです。
つまり論理的に考えれば、ある人がとある命題が真(偽)であると主張したとき、その命題自身の真偽やその対偶命題の真偽を批判することは問題ないのですが、それ以外の操作をして生み出した新しい命題をその人の主張として批判するのは完全に的外れとなります。だって、その人はそんな主張をしてないんですから。
言い換えると、「A→B」(真)という主張をした人に対して、「A→B」「〜B→〜A」の真偽について議論をしかけることは問題ありません。様々な証拠を持ち出すなどして論破してやりましょう。
しかし、その人が言っていない逆「B→A」、裏「〜A→〜B」、それ以外の「〜A→B」「A→〜B」・・・などなどを勝手に作り出し、その人が言ったとして議論をしかけるのはおかしいなことですよね。論破以前に、その人はそんなこと言ってないんですから議論が噛み合うはずがありません。むしろその人からすればただのイチャモンですよね。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
教師の主張は「自子→愛す」(真)なので、その裏である「自子じゃない→愛さない」なんて主張してもいなければ意識すらしていませんよね。そんな言ってもないことを捏造されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、自分の子と同様ではないかもしれませんが、先生として教え子を愛することは普通にありえることですし、この教師も両方の愛し方を同時に行っているのかもしれません。(なお、本当にそうかはわからない。あくまで未定)
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
BLM支持者の主張は「黒人命→大切」です。その裏である「黒人命じゃない→大切じゃない」は主張していませんし意識すらしていません。言ってもないことを捏造して批判されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、黒人の命は大切だし、それ以前に黒人であるかどうかに関わらず人の命は大切であるというのが普通の考えですよね。どう考えても揚げ足取り(しかもエア揚げ足)です。
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
弔辞におけるありきたりな表現なので、これを主張しているというのはかなりずれているような気もしますが、「いのちを失ってはならない人→存在する」という主張と今回はあえてみなしましょう。
批判者は「いのちを失ってはいけない人ではない→存在する」であると拡大解釈して批判しています。でもこれは、裏でも逆でもないしもちろん対偶でもありませんね。そんな無茶苦茶な操作によって作った命題を、主張したものとして批判するのはさすがイチャモンが過ぎます。まったく論理的ではありません。裏ですらないんですから。
裏や逆の操作を使って特定の命題から新しい命題を増やし、話題を広げるのは日常的によくやることです。
日本語の「裏を返せば」「逆に言えば」は、無理筋な強弁へと通じることもあるから注意しないといけません。もちろんその強弁を面白さとして昇華させる文学的なテクニックもありますが、かなり高度なテクニックですよね。
自著において自分の主張を展開するときに裏逆などを使うのは自己責任だから良いけれど、他人の主張の「裏」「逆」をとってそれを主張したものとして議論するのは避けるべきです。
たとえば自著で自説を書くはじまりに、「現代は情報化社会であることは衆目一致するところであろう。だが裏を返せば現代以前は情報化社会でなかったことを意味する」みたいな強引な論理展開をしたとしましょう。当然ながら命題の裏の真偽は未定なので、これは穴だらけの強弁です。この主張を正しいとするために、それ以降に様々な証拠を挙げ証明をしなくてはいけませんよね。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは全く論理的ではありませんし、言ってもいないことを勝手に捏造してまくし立ててくるのは、議論のやり方としてフェア(公平)ではありません。
そのような論法を使ってくる人がいたら厳重に注意しましょう。また自分でも「裏・逆の非論理性の罠」に引っかかって批判のロジックを組み立ててしまわないように注意しましょう。
今後、「裏を返せば」「逆に言えば」という論法で、言ってもいないことを言ったこととして一方的に批判をしてくる人が出てきたらこう返すと良いでしょう。
「私の主張を勝手に裏にしたり逆にしないでください。それは私の主張ではなくあなたの主張ですよね。もっと論理的な批判をお願いします」
こういう気合の入った増田って、どのくらいの時間をかけて書いてるんだろう。 そして、なぜ社会の掃き溜め、いや、社会の肥溜めと言っても過言ではないこんな場所に投稿するのだ...