はてなキーワード: 幕末とは
みなさまごきげんよう。
発掘された日本列島2017展に行ってまいりましたわ。
文化庁の主催で近年の発掘成果を各地の博物館をまわって紹介している展示会なのですわ。
旧石器時代から幕末の軍艦「開陽」まで日本中の出土品がありました。
縄文時代の高根遺跡は斜面に500基もの貯蔵穴が掘られていたそうですの。
艦砲射撃の後とと勘違いしそうですわ。縄文人ってパワフルですわね。
石屋古墳のお馬さんの埴輪には、丸い輪っかのあぶみが表現されていました。
古代からのどこかで変化したはずですわ。平安時代あたりかしら。
「てつはう」がいくつか展示されていました。
貝殻の付着して割れた「てつはう」の姿に兵どもの夢のあとを感じましたわ。
開陽は「蝦夷共和国」の主力となった艦ですけれど、座礁して沈没したのですわ。
拳銃は英語表記では「S&W No.2」と細かく説明されているのですわ。
現在発掘された日本列島2017展が開催されている安城市歴史博物館のミュージアムショップでは
本多様は両方売り切れ、ストラップは徳川様と井伊様も売り切れ、
でも、遠江出身の井伊様を出して、酒井様と榊原様は出さないところが不思議ですの。
予断を持たずに事件に取り組み、判決などで具体的な理由を示すにあたっては、最終審としての説明責任を果たす内容になるよう、力を尽くしたい。最高裁には多様な紛争についての不服が申し立てられ、どの事件も最終的な決着が求められている。社会的に影響の大きな事件も少なくなく、責任の重さを日々痛感している。
広い視野の下で、公正な判断を行うことが期待されていると感じる。その期待に応えるためには、判断の内容を説得力ある分かりやすいものにすることが大切である。また、裁判所の存在が国民に身近なものとなるよう、情報発信や手続きの工夫などといった面にも一層留意する必要がある。
地裁や高裁で勤務した時代、3人の裁判官の間でさまざまな議論を重ね、充実した判断につながったと感じられた事件は、著名かどうかを問わず長く記憶に残っている。最高裁においても同じだろうと思う。
任命権限に関わる事柄であり意見は差し控えたいが、現在、バックグラウンドの異なる同僚裁判官とさまざまな角度から率直な意見交換ができる環境にあり、日々の仕事にとって大きな意義があると感じている。
裁判の中で憲法判断を示す立場にあり、お答えは差し控えたいが、憲法は、我が国における「法の支配」の基盤となるものであり、普段からそのありように国民の目が注がれていることは、大切なことであると考える。
前項と同じ。
これまでに関与した定数訴訟についての私の意見は、大法廷判決の中で示してきたところであり、これからも個々の事件の判断の中で示していきたい。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
法的判断が司法に求められている大きな問題の一つであるが、今後訴訟が最高裁に係属する可能性があるので、意見は差し控えたい。
国民の皆さんの理解と協力に支えられて、制度が定着しつつあることを、刑事裁判に携わってきた者としてうれしく思っている。大改革であり長期的なものさしで改善を図っていくべき課題もなお残っているが、刑事裁判が、「開かれた司法」の方向に大きく変わったことは確かである。
誤判を防ぐためには、一つ一つの事件において、当事者が適切な訴訟活動を行い、裁判官が曇りなき目で判断を下すことが、何より重要である。制度や運用の改善点については、法曹三者の間で、実情をもとにして、率直で冷静な検討を深めることが欠かせない。
国民の間で議論を深めていくべき重要なテーマであると思っているが、具体的事件に関与する立場にあるので、立法論に関わるご質問についてはお答えは差し控えたい。
重大な刑事事件は裁判員裁判によって審理されており、今回の新制度の運用については、裁判員裁判の証拠調べにおいてどのような評価が示されるかが、重要なポイントになると思う。裁判員裁判と同様に、長期的なものさしで検討すべき問題であると考える。
さまざまな課題を抱えていることは認識している。法曹養成制度も教育制度の一つであり、時間をかけて行うべき人づくりの土台だといえる。長期的なゴールを見定めて、じっくり検討していく姿勢も大事だと思う。
国際的な経済活動が原因となった訴訟はこれからますます増加すると思う。裁判官は、紛争の背景にある実情も視野に入れた上で、判断を下すことが求められる。そのためには、研修、人的交流などの機会も一層充実させる必要がある。
「開かれた司法」を推進していく上で、テクノロジーの活用は重要な柱の一つだと考える。それだけに、単に「便利かどうか」というのにとどまらず、司法へのアクセスや裁判手続きの将来のあり方も念頭に置いた上で、総合的に電子化などの改革を進めていく姿勢が大切だと考える。
個人的には、今年は名演と観客席の熱気が一体となったライブに出会う機会が多く、終演後はその場の一員であった幸福感を味わえた(例えば、ロシアの劇作家チェーホフの「ワーニャ伯父さん」)。
「尊敬」という意味とは少し違うように思うが、強さ、弱さを含めて、人間的魅力に富んだ人物として、最近興味があるのは、森鷗外。趣味はコンサート、観劇。好きな言葉はゲーテの「人間は努力する限り迷うものだ」。
千葉聡の「歌うカタツムリ」。身近な生物を手のひらの上に乗せながら、生物進化に関するダーウィン以降の研究の歴史が物語られており、科学読み物として非常に新鮮だった。
約40年間、弁護士の活動から培った経験や市民感覚を踏まえ、弁護士出身の裁判官であることの自覚と誇りを持って、正義と公平にかない、かつ、健全な社会常識にかなう法律の解釈・適用に努めていきたいと考えております。最高裁裁判官に就任して約1年3カ月経過しました。最終審としての判断の重さを更に自覚し、一つ一つの事件に謙虚に向き合い、よりよい判断・解決のため、誠実に職責を果たしていく覚悟です。
裁判所に対して、一つ一つの事件について、迅速かつ適正妥当な判断を期待していると思います。最高裁判所としては、主な事件の判決などについて、ホームページなどでも公表していますし、法廷の傍聴人の方々にも事件の争点など概要がわかるような工夫を積極的に進めています。
個別事件の判決の中で示した意見のとおりであり、これを離れてお答えするのは控えさせていただきます。
いずれの質問についても、憲法で定められている任命権者が判断する事柄ですので、お答えするのは控えさせていただきます。
憲法の改正は、国会の発議により国民投票を経て行われるもので、主権者としての国民が判断される事柄であり、各国民が真剣に考え議論すべきものと思います。
国家存立の基盤である国の安全保障政策については、各国民が自分の問題として真剣に考えるべき事柄であり、司法の立場にある者として、個人的意見は控えさせていただきます。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
裁判所は、どのような訴訟においても、法にのっとり公平かつ適正妥当な判断をしていかなければならないものと考えております。
裁判員制度はおおむね順調に運営されてきていると思いますが、問題点もご指摘のとおりあります。更なる審理の工夫や制度の広報に努める必要があると考えております。
誤判は絶対にあってはならないものです。刑事事件の事実認定においては、思い込みを排し、様々な視点から十分に証拠を吟味することが大事です。刑事司法に携わるすべての者が、誤判防止に向けて、それぞれの立場で誠実に職務を行わなければなりません。
死刑制度の存廃や終身刑の創設などは、最終的に国民の意見により決められるべき立法の課題であり、司法の立場からの意見は控えさせていただきます。とはいえ、死刑は究極の刑罰であり、その適用は極めて慎重に行われるべきものと考えております。
新制度は、捜査・公判が取り調べ及び供述調書に過度に依存している状況にあるとの指摘を受けて立法化されたものであり、これにより、刑事手続きにおける証拠収集方法の適正化及び多様化がされ、公判審理の更なる充実が期待されます。
具体的な政策についての発言は控えさせていただきますが、法科大学院で5年間教壇に立った者として、法曹養成の理想に向けて開校した有力な法科大学院で募集停止が相次ぐこととなり、残念でなりません。社会の様々な分野で法律家が活動することは、法の支配する公正な社会を実現するために必要であり、大変意味のあることだと思います。わが国社会の今後の発展を支える有為な人材として質の高い法律家をいかに計画的に養成するかという観点で検討されることを望みます。
国際取引事件、家事渉外事件をはじめとする国際的紛争事件に十分対応できるよう、裁判所における人材の育成が求められるものと考えております。
裁判手続きのIT化のあり方としては、裁判手続きの利用者の利便性の向上だけでなく、本人訴訟への対応を含む関係者の手続き保障、情報セキュリティー、事務の合理化を含めた費用対効果などの諸般の事情に配慮しつつ、裁判手続きにとって真に望ましい姿を探る必要があります。
趣味は、歌舞伎鑑賞です。尊敬する人物は自分を育ててくれた両親で、感謝と尊敬をしています。好きな言葉には「道を伝えて、己を伝えず」という言葉があります。日本の幕末から明治にかけての動乱期に、キリスト教の伝道を行った宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズの生き方を表現した言葉です。私はキリスト教の信徒ではありませんが、ウィリアムズは、幾多の困難に全身全霊で立ち向かいながら人々の心を一つにまとめ、教会や学校・病院を造り、社会や世界を動かしました。そのような信仰の姿こそが、「『道を伝え』ることではないか」と思われます。そして「己を伝えず」。真の意味はいまだ計り知れないものの、「自分の考えを相手に独善的に押しつけようとしない」とか、「自分の名誉や欲望のためにけっして人を利用しない」と解釈されています。事実、ウィリアムズは一介の宣教師に過ぎない自分の名が記憶されることを徹底して拒み、日記や手紙の多くを燃やしまでしたとも言われています。
まぁ、西洋的な政治哲学概念において判断すると、という話ではあるけどね。
ずっと二重政治を続けていると公共概念が希薄化する、簡単に言えば誰が悪いのか分かりにくくなって「こんな世の中になったのは○○のせいだ!」と声を上げにくい社会構造
幕末期で言えば、黒船に侵略されそうになってはじめて朝廷が悪い将軍様が悪いと押し付け合って軍力を奪い合って、暗躍するものはそれぞれに暗躍し、薩長同盟からの無血開城になるのだが、
これは一方では、「人的つながりでなあなあで話し合った結果の革命つぶし」だと言える面もある。自民がやってきた政治や、あちこちの会社で見られる「社内政治」みたいなのにも良く見られる密室性。
これは、二重構造の問題に加えて、「暗躍した」というのが、未来に大きな問題を積み残したという見方もあって、
内戦や革命を経なかったことで、結局誰が悪いのか「公共の場」で理論化・共有化することを放棄することになった。国民は公共概念を理解できないままというデメリットが200年後まで残る羽目になってはいる。
内戦や革命は、国体と市民のそれぞれの責任と役割の位置づけを、国(コミュニティ)全体で共有化するためのプロセスだったりもする。
人が死ぬことで身に沁むこともあるんだろう。が日本ではそれ密室で無血開城でやっちゃったからなぁ。
一方で、内戦はどの国においても国力を疲弊させる悪でしかないので、外敵の侵略脅威時期に内戦をしなかったことで世界的な帝国国家期に乗り遅れずに済んだラッキーさは大いにあるが。
坂本龍馬や無血開城については好意的な評価をする人が圧倒的に多いのだが、西洋哲学とか政治哲学とかやってる人だと批判的に読む人も少なくなかったり
市之倉さかづき美術館に行ってまいりましたわ。
市之倉は盃が特産品なのですわ。
多数展示されていますの。
重輔銘のアサガオを連想させる形と色合いの盃は注ぐ液体のpHで
色が変わりそうな気がしました。
有田焼のエビ柄の盃は、イカ娘さんにプレゼントしたいでゲソわ。
特別な区画で紹介されている加藤五輔さまの(本名:五助)の説明文に
わたくし言葉がありませんでしたわ。
江戸時代生まれの方ですし、たんなる表記のぶれではありませんの?
加藤五輔(本名:五助)さまの経歴が、銅賞や三等ばかり取られていて、
書かれているのは最高でも二等であることも印象的でした。
切ないですわ。
イランの酒器が多いのは、イラン陶器の復元を研究されていた加藤卓男さまの縁でしょうね。
中国戦国時代の鳥尊という酒器の表面にはびっしり文様が描かれていて、
よくみると「雷文」も確認できました。紀元前三世紀にはすでに雷文があったのですわね。
あと「可盃」は、はてなのみなさんに顰蹙を買いそうですわ。
これは器に最初から穴があいていて、指で穴を押さえてお酒を注いでもらい、
そのままでは机に置けないので必ず飲み干さなければいけないという
代物ですの。
それはともかく、小さな焼き物ですからこそ、職人が技術の粋をこらした
姿に感心することができましたの。
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。
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1 歴史
2 境内
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 焼失した重要文化財
3.3 重要無形民俗文化財
4 行事
5 関連項目
6 アクセス
7 脚注
8 外部リンク
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。
中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。
当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照
壬生六斎念仏踊り
年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照
地蔵盆時の出開帳
壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。
京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、内務大臣を務めた副島種臣は実弟。本名は経種。贈従四位。佐賀の尊皇派の中心的存在。
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1 経歴
2 影響
4 関連項目
5 参考資料
経歴[編集]
佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。
早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である『葉隠』をも否定したといわれる。
26歳で帰郷してからは弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。
1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身も罹患し、死去。享年41。墓所は佐賀市本庄町の高伝寺。
影響[編集]
神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備に活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制は副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
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1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
岡崎城に行ってまいりましたわ。
城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。
展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります。
彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています。
ところが目玉的な展示は、ジオラマと映像で関ヶ原の戦いを描くものですの。
東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・
井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。
長篠なら大久保兄弟と酒井が、姉川なら榊原康政が活躍しますのに--
あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。
やっと回転しきって残っていましたわ。
フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣の武蔵守藤原永道が気に入りました。
鞘に緑のラメが入っていましたの。
加茂一揆のジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を
岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。
おそろしいおそろしいですわ。
江戸時代の宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。
家康生誕の岡崎城を最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、
陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。
追記
id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ
全然無宗教なんだけど、ここのところ「仏教入門」みたいなのをいくつか読んでいる。
昔話とか「昔の人も生きるの大変だったのね〜」的なノリでとても興味深いし、
たぶんお釈迦様って「あの人いっつも良いこと言うよね!」的な人だったのかなあーとか想像するのも楽しい。
(ちなみに、お釈迦様自体は静かに悟りを開いて手の届く範囲で教えを説いた人で、死後に弟子たちが教えを編纂することで、れっきとした「宗教」になった。らしい)
『日本では、幕末・明治維新以後から近年にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。』
らしい(Wikipediaより)。
で、そういうのって、得てしてものすごくうさんくさい(完全に主観だけど)。
いや、古い仏教もうさんくさいこと言ってる部分はあるし、キリスト教やイスラム教みたいな世界宗教もかなり怪しいところはある。
けど世界宗教の怪しいところって、時間を経るごとに権力者が良いように解釈した結果ついてきた怪しさだったり、
時代の流れ的にしょうがないよね的な不合理性だったりすることが大半なので(な気がするので)、
教えの本質だけみてみると、「はえー良いこと言う」くらいの気持ちでは理解・納得できる気がするんだ。
じゃあ、新興宗教の「うさんくささ」の正体ってなんだろうか。
暇なのでいくつかその理由を考えてみる。
もちろん信教の自由はあると思ってるので、別にその新興宗教を信じてる人をどうこう言うつもりはないけど
自分自身の中で何が「怪しさ」だと思ってるのか言語化してみたい。
Wikipediaなんかでそれぞれの新興宗教のページをみると、難しくて全然頭に入ってこない。
固有名詞が多いのと、概念的な話が多いのと、仏教系だと漢字が多いからかなあ。
だから、共感するとか云々の前に、そもそも理解できない。わからないものは「怪しい」と思う。という論理かな?
ただ、聖書とかも自分で読むとかなり意味不明というか回りくどい言い方多いし、「で?」みたいな逸話が多いし
経典なんかもすげーわかりにくいから、「誰でもわかる!xxx教のおしえ」みたいなのがあるといいのかしら。
デートとかしてて会話が途切れた時、「あ、あの建物変わってる!面白いね!」とか言った後調べて
なんとか教本部 とかだとなんとも言えない気分になりませんか。
考えられるのは、
・目立たせることで文字通り目を引いて、その宗教に興味を持ってもらいたいから
・でかかったり変わってたりすると、その宗教が流行ってる・勢いがあると思わせられそうだから
・お金持ちはアートが好きだから(宗教団体がやってる美術館とかあるし)
...あたりでしょうか。
なんか他に理由思いつく人、ご存知の人いらしたら教えてください。
仏教でもお坊さんが政治に介入してきた時代は途端にうさんくさくなったし。
ちなみにお釈迦様のもともとの教えでは、
お坊さんは働きもせず、他人からの施しで生計を立てているくらいなんだから、政治に介入とかしちゃダメ!って考え方だから
その意味で、お坊さんの政治介入はもともとの仏教的には「間違ってる」。はず。
新興宗教にしたって、そういう過去の経緯を経て(お坊さんは働かずにお布施で生活する等)税制とかいろいろ優遇されてる存在なのに、
さらに政治にまで介入してくると、なんか図々しいなと思ってしまうのかな?
あとその宗教が「この人に投票せよ」みたいな統制ができちゃうから、トンデモな政治家が当選する可能性もある。
あーでもこれは、候補者が演説したり後援会がいたりすることとどう違うんだろう?
xxx教の人だから無批判に応援しよう、ってなってるから違和感があるのかも。
その宗教に加入せよ も然り、私はxxx教です!も然り、それに興味のない相手に空気読まずにバシバシアピールしてくる感じが苦手なのかも。
ただ、宗教と布教活動は大昔からセットだったし、何を信じるのも自由だから別にいいはずなんだけどなあ...。
あれかな、アプローチしてくるのはいいとして、「やたら」ってとこがダメなのかも。
胡散臭いというか、興味のない相手に対して「しつこい」「鬱陶しい」って感じかな。
これは世界宗教にも一部言えることだけど、
「こういう考え方をすると、心に拠り所ができて、何もないときより精神的に安定するよ」はわかるけど
「これを信じないと不幸が起きるだろう」
「これを信じて実践する者のみが幸福になる」とかになると胡散臭さはぐっとアップするよね。
「霊波が」「オーラが」とか、「波動」「飛行」とか言い出すとまじでやばい。
ちなみにお釈迦様の肩ばかり持つわけじゃないけど、お釈迦様の教え的には
「絶対的な超越者などいない」「常に合理的であれ」って感じだから、かなり地に足がついててほーと思った。
政治介入についてもそうだけど、信仰すること=無欲であること、だと思うからなのか
宗教活動をするのに必要な以上の献金を迫るというのに違和感がある。
というかそもそも、「施し」ってそれに価値を見出した人が自発的にするもののはずなので、
月謝とかノルマとかみたいにお金を出せってのはおかしな話だよね。
ただ、今これを書きながら「信仰すること=無欲であること」という前提に偏りがあるのでは?とも思った。
で、信徒個人であれば、その宗教を信仰しつつバリバリお金稼ぐぞ!ってマインドの人がいても全然普通だけど、
「宗教」それ自体が分不相応なお金や権力を求めて身につけちゃうっていうのが危険だし間違ってるのかな
なお、檀家制度とか云々で分不相応にお金を持ってるお寺がある現状についても、同様の違和感を抱いてます。
*****
だいたいこんな感じかなあ。
自分の中でのモヤモヤはだいぶ整理できた気がするんですが、あまり頭が良い方ではないので
というか、そもそも別に議論することでもないし、着地「勝手にすれば」って話なんですが
もしなんかあったら教えてもらえると嬉しいです。