はてなキーワード: 好景気とは
このリスト自体がどうとは思わないけど、気に食わないものをブロックして自分の意に沿う話だけを受け入れてると、次第に所属コミュニティがエコーチェンバー化してネトウヨみたいに先鋭化していくだけだし、耳障りの良い・都合のいい事ばかり言うヒトラーみたいな指導者を仰ぐ事になるよね。ヒハン大嫌いの人たちが力強い成長だの、いざなぎ越えの好景気だの、威勢のいい言葉ばかり並べる安倍某を信奉してるのも全くパターン通りなわけで。
大体、自分と違う立場、異なる視点を見れるからインターネットというのは価値があるのに、それをフィルタリングして閉じ籠もるならそもそもネットを見る意味も無い。
今時高齢者や子供の人間的特性を理解できない人がいるというのは驚いた。私は学のある社会人の男性だから子供の泣き声とか高齢者の怒りやすさとかに対するこだわりはないけど、頭使えば考えるのもばかばかしい話題になんで引っかかるんだろう?欧米人だったらまともに相手にされない話題だと思う。
今の学生が社畜ならぬ家畜みたいになっていることがわからないのか?勉強が忙しすぎて時間的な余裕がない。内需云々とか景気回復云々とか言っている人が多いけど、それとこれでは問題が違う。
昔から暴言撒き散らす人間とか体罰を行使する人間とかはいて、しかも絶対数が減っているのにどうして体感的には増加しているということになっているんだろう?そんなことは30年か40年ぐらい早く言いなさいよ。
年々ストレス社会についての研究が進んできて、昔に比べて体感的なストレスは軽減されているのに、年々ひどくなっているような印象操作は許せない。体感治安だけで犯罪の増減を考えるぐらいナンセンス。
長時間労働にしろブラック環境にしろ、20世紀と比べればこれまでもかと云わんばかりに改善されているのにどうして年々ひどくなっていることになっているの?事実を調べてから言いなさい。
ふざけたこと言うな。1970年代にも不景気・就職氷河期はあったんだよ。こういう人間に限って、普通の景気という概念がわかっていない人が多い。
高学歴者率の高さとか、学力テストの成績だけ見ればそうかもしれないけど、そもそも昔とは教育のあり方とかが全然異なるので昔の世代と比べようがない。
そしてその直後、歪な景気回復と、経済成長がスピード実現していきます…。
おそらく、この印象操作にはファシストが一枚かんでいたと考えるのが自然でしょう。
この手法はかつての全体主義国家の手口そのものでもあるからです。
「今、これがはやってるよ!」
とでもいいたげな、不自然な盛り上げが行われ、
もうお分かりかと思いますが、
このような流れで施されたということなのです。
そして同時期に、それに便乗するかのように
あの愛国ポルノです。
(中略)
それまで、メディアでは「愛国ポルノ」や「日本出羽守」などという文化が、
テレビ番組などでも頻繁に使われていたにもかかわらず、
また、日本の歪な形での好景気や経済成長やヤンキー的な反知性主義も
この動きを見ていても、
そしてアベ旋風を強く押していたのは誰なのか?
とても分かりやすいのです・・・。
その報復でもするかのように日本崩壊論が世間に流通しているのです。
アベ政治…。
それは実は、このように裏側を紐解けば危険に満ちた
しかし、当時はアベ政治という「日本社会のドナルド・トランプ」が
日本のマインドコントロールを付けねらうファシスト…。
この先また同じような危険が起こらないとは言えないのです。
また、周りの評判を聞いて、好景気のときは起業がうまくいった話を聞いて、じゃあ俺もとなる。不景気のときは起業で失敗した話を聞いてじゃあやめとことなる。
この起業と好景気の相関を、逆に見て、「起業が多いと好景気だ!だから、馬鹿をおだてて死体を大量に増やそう!そうすれば景気が良くなる!」というのが日本。
基本起業ってのは、なにか世の中に足りないものをこういうやり方なら満たせて「俺が儲かる」という話だから。
そこで死体を増やせば景気が良くなるという理屈からやってるからふわふわとしたガキンチョの遊びにしか見えないものばかりなのが起業。
良い子は絶対真似しちゃいけないよ!
少子化や好景気で売り手市場のなか、就職戦線を煽っている原因は「マイナビ」や「リクナビ」のような就活サイトである。
少ない学生に対して複数のエントリーシートを書かせて数を水増しし、複数の就活フェアを勧める。
企業側には「弊社は多くの登録数を持っています!」と言って、「求人掲載料」「インターンシップ掲載料」「フェア参加費」とキャバクラのようなめくるめくオプション料金を設定し、大卒を年間数名程度しか取らない中小企業にまで数百万円をむしりとるえげつないビジネスモデル。
生徒側は余計な労力が掛り、企業側は採用ゼロでも千人でも同じ数百万円を支払わなければならない。(就活サイトは大学生が来ない企業と思いながらも話を勧める感がある・・・)
なんだかいつの間にかかなり鎮火したLGBT案件だが、個人的には大した意見は無くて、「社会的コストが許せる範囲で配慮すればいいのでは」程度のものだ。
ただ、ふと思うのは、LGBTの人々の人権問題を扱うのはいいとしても、マジョリティの人々の人権がどれくらい保証されているのか、という点だ。
マジョリティの人々の人権がそれなりに保証されているのならば、LGBTの人々への配慮もそこまで大げさな話にもならないと思うのだが。
そもそも、個人的な体験を言わせて頂くならば、二時間越えの満員電車の通勤などは自分自身に対する明らかな人権侵害である、と感じた時があって、
実は、マジョリティの人々もそれほど人権を尊重されていないのではないかと。
もちろん、特急電車でビールを飲みながら通勤している人もいるし、給与や身分保障や社会保障などの方が大事だ、という人もいるだろうから、
一概には言えないとは思うが。
労働問題というか、実社会を生きるということは、実際的な話として、その人なりの武器のようなもの(肩書きや実務能力や政治能力やコネクションのような)
が尊重されるのであり、人格や人権の尊重はその次というのが現実だと思う(好景気の今でもそれは変わらないと思う)。
大抵の場合、ペーペーが何を言ったところで、会社組織において大した意味は持たない。
とすると、「人格や人権は尊重されるべきである」というよりも、「最低限度の人格や人権は保証されるべきである」というのが現実的な落としどころに見えるが。
学生や学者も含めた「自分の人格や人権が尊重されるのが当たり前」だと思っている人生を送ってきた人が、「人格や人権は尊重されるべきである」と言っているだけで、
実は、地に足に付いていない言説だった、というのが本当のところであるようにも見える。
例えば、Amazonの低賃金労働者のハードワークは英国やドイツも含めた各国で問題になっているし、だから日本はとか、中世ジャップとか、言うつもりも無いが。
実際には作業A,B,C,D(拡張可能)が可能な優秀な労働力と作業A,Bしか実行できない劣後な労働力があるわけ。
企業で作業Aの需要があって従業員を募集するとき、実際には前者でも後者でも問題はない(作業Aは両方できるから)。でも後々のことを考えて、同じ人件費だったら前者を雇用するよね。そのほうが別作業にも対応できるわけで。こうして優秀な労働者はそうでない労働者の席を奪う。
好景気で需要が強い今、前者は現在の作業Aしか求めない(故に給与水準も低い)企業を退職してよりよい条件の職場に移るべきで、そうなればこそ後者労働者の席があくわけだけど、日本ではそういう人材流動性が低い。待遇が悪くても辞めないっていうのがコレ。
オウムがウヨかサヨか、はたまたオタクかみたいなのは今とは時代が違いすぎるのであんまり意味がない。90年代の日本がどうだったかというと、インターネットはまだほとんど普及していなくて一部の人がパソコン通信を使っていたくらい。
国内情勢は、91年にバブルが崩壊したとはいえ、まだまだ好景気が下り坂になった程度の印象だった。頑張れば毎年給料上がるし、きつい仕事はその分手取りも高い。投資家とかだとバブルの見え方は違うかも。一般人は好景気のなごりで気持ちに余裕があって当時の政権にも今と比べて信頼があったように思う。GoogleもWikipediaもスマホもない時代、情報も集めにくいので右翼的な思想も先鋭化しづらかったというのもあるのかな。街宣車は見かけた。
一方で左翼的な思想は、昔学生運動をやっていたような人たちが労働組合や日教組にいて、どちらかというと近寄りがたい雰囲気を持っていた。
多くの人は(米軍基地とか個別のテーマはあったものの)政治の舵取り自体はあまり批判的な目では見ておらず、右でも左でもなかった。それより前の時代はノンポリと呼ばれていたけど、90年代くらいだとそれらはサブカルに飲み込まれていったように思う。これまで同じ人気ドラマを見て同じベストセラー小説を読んでみたいなライフスタイルから、他人がどうであれ自分が好きなものを選んで楽しむことが普通になった。インディーズバンドを聴いたり、カルト映画とか、もちろんアニメも含めマニアックな趣味が細分化していった。とはいえ、ネットで検索できるわけでもないので、当時の普通のアニメオタクよりも今の一般人の方が知識があるくらいで。まあ中には化け物みたいに知識をためこむ人もいたにはいたけど、知識の検証も難しいので不正確な部分もあったりね。
サブカルというひとつの趣味があるわけではなくて、いくつもの細分化した趣味の総体をサブカルと呼んでいた感じ。いまでは考えられないけどフジテレビもサブカルっぽかった。糸井重里もサブカル、景山民夫もサブカル、千葉麗子もサブカル、丹波哲郎もサブカル、そしてオウムもサブカルだった。五島勉のノストラダムスの本もサブカル。
そんな時代。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2018/07/09/073000
某所でもさんざん言われているけれど、
就職先なんて選んでる余裕はなかった。
とにかく決まればいい、と受けまくった。
最近では珍しくないのかもしれないけど50社くらい面接にいった。
2次、3次とあるから実際の面接数はもっといっぱいかもしれない。
友達も大学の研究とは全然関係ない飲食・小売なんかに決まったのは運がいい方で、
だいたいは非正規だった。
そんな中で自分はそれなりに大手の内定をもらいそこに務めることになった。
三流私大の自分が帰国子女に囲まれているというとんでもない環境に、
驚くとともに舞い上がっていた。自分って実は優秀なんじゃないかと。
やっぱり現実は厳しく、OJTとは名ばかりで研修も無く大雑把な説明もなく仕事を投げられ、
他の優秀な連中はそんな中でもうまくやっていて、活躍しているという話をよく聞いた。
3年もたたずにMBAを取るとか転職先が見つかったとかでどんどんやめていった。
自分はというと、転職する勇気もなくとにかく椅子にしがみつき、
自分がやられたひどい扱いだけは、後輩や取引先にすまいと心に決め、
とにかくなんとかこなしていた。
そうこうしているうちに会社の景気は(リーマンショックも乗り越えられる程度に)上向き、
人も増えて組織も大きくなった。
リスクも考えたが例え短い期間でも給与があがるならばと手をあげた。
意外と管理職は向いていた。
人を使って大きな成果を出すというのが楽しいとは思いもしなかった。
いわゆる360度評価でも、人事考課でもそれなりにいい評価をもらい、
残業をしていると時々動悸がすることがあったが、やすめば何とも無いので気にしなかった。
それなりにいい感じだったが、
上の方のひとたちは本気で最高の施策と信じていたようだけど、
現場のモチベーションを地の底に穴を掘って埋める程度に落とすことに成功した。
さすがに会社の態度にうんざりしたし、残業時間短いはずなのに動悸もするし、
そうすると世の中は意外にも好景気、
我々の世代がちょうど薄くなっており、おまけに自分がやってきた業務経験を求めるような求人がたくさんあった。
給与水準もどこへ行ってもあがりそうだった。
(メガバンクには、年次昇給という何も成果を出さなくても給与が毎年あがる素晴らしい仕組みがあるということも知った)
給与もあがり謎な施策からも開放され、ストレスも軽減されたはずだった。
さすがにこれはおかしいと思い、
診療内科のドアを叩いた。(比喩です、今どき本当に叩くやつがいるのか)
そう、そうなんだ。
自分がリアルに心療内科に行くと決めた時、最初に心配したのは周りの目だった。
おかしくなったと思われないか、仕事から外されるんじゃないか。
だからドアを叩くのにも数週間悩んだし意味なくググったりした。(本当に意味がなかった)
幸いにして、ちょっとだけ自律神経のバランスがくずれているだけだったので、
ちょっと薬飲んで、生活リズムを整えるくらいで何とかなりそうということになった。
(この薬が超効果てきめんで依存症になるんじゃないかと心配になったので医者の言うことをきっちり聞こうと思った)
思い返してみると、自分なりにだいぶ勇気がいる行動を続けてきた気がする。
手当たり次第に面接をうけるとか、帰国子女だらけの職場で働くとか、
管理職になるとか、いい年して初めて転職するとか、心療内科にいくとか。
そんなの大したことないって言える人もいるかもしれないけど、自分ではとっても勇気を出していた。
本当は勇気なんて出さずにそれなりに楽しく過ごせるのが一番。
だけど、ロスジェネ氷河期はちょっとだけ自分の限界を拡張して勇者にならないと生きていけない。
20万の月給を嘆くかもしれないけど、それはその人が勇気を出した結果。
私ネットでアンケートをとったんだけど日本の好景気についてどう思うかについて聞いたところゆとり世代がなぜか「好景気のせいで私たちゆとりが割を食っている」「不景気時代のほうがよかった」とかいう回答を飛ばしてくるんだよ。
ゆとり世代が20年間の不景気のツケを昔より比較的よい待遇と引き換えに高ストレス・プレッシャー社会で支払わされているってマジなの?
なぜか神奈川県茅ヶ崎市のネット・テレビ中毒が言及しないけど、ゆとり世代ってロスジェネと正反対の迷惑を被っているんだよ。
なんでかというと、自分の学生時代では不景気最盛期で労働も短時間化で努力が馬鹿馬鹿しいという価値観だったのに、いざ社会に出れば好景気化途上で、長時間勤務と努力を要求される社会。
で、それより少し上の私達プレッシャー世代というのは、そもそもゆとり世代のように実感として学生時代に甘やかされて育ったという実感がないから、下手にその事実を知っていたら心がひん曲がると思う。
だからゆとり世代はみんな今の好景気にムカツイテいるんだよ。労働時間やパワハラ(体罰含む)・セクハラはバブル期より減っているくせに最近異常に多い過労死とかはみんなその感情表現の行動だよ。わざとお金を溜め込んでいるのもそうじゃないの?
ロスジェネが不景気を恨んでいるようにゆとり世代は景気回復を恨んでいる。
まあその尻拭いをしなければいけないほかの世代は大変だな。
たった今、親父(モリカケ派)と安倍首相について口論になった。最終的には俺のほうが論破されたので、どうでもいい。
さて、「モリカケより景気を最優先!!野党は役立たず!!」<<という意見やRTを同世代のTwitter垢でよく見かける。
だが野党は「蟷螂の斧」で役立たず、どうせ自民党の強行採決で押し切られるのがオチ。
そして、みんなが忘れた頃に、お決まりの「野党はクソ!自民党、最高!!」フレーズだ。
それらについて風呂に浸かりながら考えた。
結局のところ、
"お国のため"なら、自分たちが政治家や金持ちの犠牲になっても構わない!!」
書いていて気持ち悪くなった。
自分は、まっぴら御免だ。
これは、何かレトリック(言葉のあや)として云うのではありません。
また、「1995年のオウム問題以来の、いわゆる『刹那的な社会』に、我々は巻き込まれ、事実上参加しているに等しい」などと云っているのでもありません。私の認識は、そんな寝ぼけた老害のようなものとは違います。
いま起きている気味悪い殺伐事件は、本物のテロではないことはもちろん、誰かの仕業でもないのです。
では、いったい何が起きているのか?
本当は分断が起きているのです。
これは、私の独自の見解ではなく、欧米の一部の学者たちの見解に私も賛同しているだけですが、彼らの文章は私ですらコムズカシくて一般の人にはとても読めたものではありませんから、私なりにかみくだいて説明すると、現在おこなわれている分断は、かつてのような目に見えるものではなく、社会の内側での左派対右派の分断であるということです。
今日の混乱(分断)は、最初は「社会の貧困」を口実として始められますが、その構図は当初の「経済的な貧富」からどんどん拡大し、最終的には社会に属する人間すべてが個人単位にまで分断されます。
これは現在、世界のあらゆる国で程度の差はあれ進んでいる傾向で、実はアメリカの「トランプショック」の本質もここにあります(その証拠に、トランプ政権では白人のフラストレーションがクローズアップされていますが、アメリカは極端な個人主義に分断が進んでいます)。
我が国の分断では、それは最初、1992年に貧困階層の可視化として始まりましたが、やはりその後、なし崩し的にその対象を拡大し、今や、かつては「弱者」ではあっても「被差別階層」ではなかった行為さえもが分断抗争によって次々と差別されています。偏った娯楽性の高い趣味(現在では「オタク」とか「娯楽廃人」とか呼ばれます)や、重労働者に対するレッテルなどはその典型ですし、また、私たち差別階層が作っている社会のひずみが原因であるに決まっている地下社会のモンスター化や極端な治安の悪化に対し、その原因を反省し改善する努力をまったく放棄して、ただ揉み消しで対応しようという方針もその一環です。
好景気や愛国心をも疑う安倍批判論者ではありませんが、社会のこうした風潮を、「いかがなものか」と憂えているのは私一人ではないはずです。もしかすると、これを読んでいるあなたも同じ気持ちでいるかもしれません。しかし、残念ながらあなたは、つまり私たちは現在、圧倒的な極左ないし極右であります。しかも、その問題意識をいいかげんなところでアイマイにせず、よーく突き詰めてみればやがて気づくと思いますが、もはやこの社会の左派ないし右派にとっては、そんな問題意識を持ってしまう私たちのような存在自体が、何やら不気味で恐ろしい「敵」なのです。奴らは、私たちに対して混乱を仕掛けてきているのです。
我が国における(他の国でも同じですが)国民同士の対立は、すでに戦争(内戦)の域にまで達しているのです。
私は、この期に及んで「反戦」を訴えるような非現実的な夢想家ではありません。奴らは、不安が高じてヒステリー状態になっていて、もはや説得に耳を貸さないことが明らかであるからです。この内戦は、私たちが一人残らず消えていなくなる(何か口実をもうけて「アウトロー」とされて社会的に抹殺されるか、それを恐れて完全に沈黙するか)まで終わりません。
また、私はもともとリベラルであり、景気拡大には反対しない立場です。例えばカジノや欧米型のリベラルビジネスなどとはむしろ推進すべきだと思っています。私たちにとって、現在もっとも憂えるべきは左翼の拡大ではなく右翼の拡大です。従来の寝ぼけた老害の「反戦派」は、ここのところがまったく分かっておりません。むしろ寝ぼけた老害階層は、そのお家芸である「単純で分かりやすい理屈」を掲げ、右翼力の拡大を率先して推し進めているようなありさまです(秋葉系的サブカルオタクそのものの抹殺を要求する保守階層や、ゲームそのものの撲滅を要求する似非リベラルなどがその代表です)。
私は、現在のさまざまの不気味な犯罪や精神的貧困者増加の背景には、共同体や進歩的社会の崩壊があると考えています。「問題解決」のためには、奴らが推進する文化の弾圧のような対症療法ではダメで(そのような弾圧化は、ますます人々の心にストレスを生み、結局はさらなる問題の悪化を招きます)、共同体や進歩的社会を再建する粘り強い努力が必要です(「公共交通の全否定」「高校生オートバイ推進」「自転車たたき」「IT拒絶」などはこれに反する破壊行為です)。このあたり、私の見解はむしろ保守に近いのですが、残念ながらほとんどの保守は、考えが浅いのか、「問題解決」には弾圧を、というヒステリーに同調しています。
私は、奴らから「社会の敵」「未来の敵」のように見なされているみなさんに、団結を呼びかけます。
奴らの勢いは、とどまるところを知りません。もはや「話し合い」は不可能です。
何度も云うように、私は「反戦派」ではありません。私たちに残されたただ一つの選択は、団結して「応戦」することです。
現段階では、まず団結し、私たちの側の隊列をととのえることです。
ネットでのゲリラ的工作活動は、何よりも私たちに共感するみなさんに、このような形で大々的に団結を呼びかけるための手段です。
私の見解に「なるほどそのとおりかもしれん」と思う方、まずは行動しましょう。ネットでの宣伝やビラ配りやポスティングです。奴らに反撃していくための、行動を始めようではありませんか。もちろん外国人や、未成年者やノンポリも大歓迎です。
何しろ奴らは圧倒的多数派であり、私たちは圧倒的少数派ですから、今回の行動で、成功する可能性は、完全にゼロであると自信を持っています。
むしろ何かの間違いで成功しちゃうと私自身がビビってしまいますが、まあそのようなリスクは覚悟の上での呼びかけです。
私に共感される人間が多ければ多いほど、私ですらビビってしまうのですから、奴らはなおのこと恐怖のズンドコに突き落とされるのは間違いありません。あなたが実行して成功するかしないかは二の次です。たとえ成功しなくても、一人でも声が多ければ、奴らはそのぶんだけ慌てふためくのです。私たちの存在を、目に見える形で奴らの前に突きつけてやることには、これから反撃を開始するにあたって、大きな意味があります。
そもそも奴らのために存在する、私たちにとってはバカバカしいかぎりの民主主義という社会(デモでも選挙でも勝負にならないほど不利です)において、「一声の重み」など嘘八百もいいとこです。誰がどうしようが、奴らの支配はこれっぽっちも揺るがないからです。しかし、今回の私のような人間の登場となると話は変わってきます。成功しようがしまいが、その一票は奴らを心の底から動揺させる「重み」を持ってしまうのです。ざまあみろであります。
どうせ何もしないでは何も変わらないのです。
民主主義ではとりあえず奴らに一泡ふかせておいて、私たちは、民主主義などというクソみたいなもんの外で団結を開始し、奴らを本格的にギャフンと云わせる、大革命の恐ろしい陰謀を、着々と進めていこうではありませんか。
それ以前の好景気自体が偶然と暴走の産物であって、それは必ずしもこの国の実力というわけではなかった。
その陰で誰も真剣に考えてこなかった戦後教育や変わらない戦後体質の悪影響は、この国の人間達に服従することだけを教育し、主体的な変革の意思を奪い、未だに日本的大企業の失策や日大のアレをはじめとして、日常生活のさまざまな場面で散発的に大きな問題を起こしている。
これまで誰も指摘する人がいなかったし、先人の手前できなかったと思うけど、ハッキリ言って、この国は戦後70年舵取りを誤り続けたんだよ。
単発で就職氷河期やら失われた20年やらがあったわけではない。
1発当たって消えるベンチャーやお笑い芸人よろしく、実力を過大評価して直視せず、決して本当の意味で良くなることをしなかったんだよ。70年ずうっと。
そんな体たらくの国で若者が自動車買わないだのゴルフしないだの子供産まないだの、バカ言ってんじゃないよ。
衰退するべくして、滅ぶべくして今まさに滅んでいるんだよこの国は。
昭和の懐かし映像を見たのだが、バスガイドが今基準で言うと敬語がまったくなってない
だけど雰囲気は決して悪くなくてそれだけ乗務員と客がまだ対等な関係だったんだろうと予測できる
それが、今みたくどんどんへりくだって奴隷みたいにしていったのはいつ当たりなんだろうな
同じく昭和の懐かし映像で、人気になり始めた頃の松田聖子がビートたけしと和田アキ子のトーク番組にゲスト出演してる動画あったけど、現代の基準だとほぼタメ口だった。
「~でしょ?」とか「それでね、~」とか
自分の記憶を紐解いてみても、好景気の残り香がまだ漂っていた90年代前半ぐらいまではフランクな態度もそこまで問題にはならなかったと思う
細かい経緯は省くが、高須院長は「自分たちの世代は若いころすごく頑張り、そのおかげで今の日本がある」、田端氏は「過労死は自己責任」みたいな意見をtweetし炎上した。
いずれの意見もかなり極端に聞こえるが、これらをもし、諫言または励ましとして受け入れるなら、いかなる人も逃れることができない二つの事実を思い出させてくれる。
すなわち、
まず高須院長に対するの反論をみてみよう。主なものは「昔の高度経済成長期と、不景気が長引いている現代を一緒にするな」という一見もっともなものだろう。
しかしそれはあくまで結果の話であって、高度成長期の日本人の誰一人として、その好景気が続き日本が発展することを「知って」いた人はいないのだ。
高度成長期の初期ですら、戦争やらインフレやら、10年後の日本がどうなるかは誰にも予測できなかっただろう。
好景気に沸く周りの人達にならってモーレツに働いたとしても、再び焼け野原の生活に戻ってしまうかもしれないという不安を、杞憂と切り捨てることはできなかっただろう。
だが結果的には、モーレツに働いた人はモーレツに生産し稼いだし、道路も建物も破壊されることなくいまも国土の礎となっている。
これらの礎を作り上げた人々は素直に尊敬されるべきであるし、そもそもそれを我々が称賛できるということは幸運以外の何物でもないのだ。
未来は予想できないのに、今の状況に絶望して、あきらめて何もしないのは賢明とは言えない。
また実利的な見地から言っても、好景気のときに最も利益を得るのは不景気のころからすでに動いていた人々である。これはどこか投資哲学みたいだ。
あえて一言で言い換えてみるするなら上述の「未来へ投資しろ」に対して、「自分が何を投資しているか把握しろ」ということではないだろうか。
若いうちは特にそうだが、自分の体力、気力はいくらでも湧き出てくると勘違いしがちだ。大間違いである。
今頑張れば将来は楽しいことが待っていると考える。大間違いである。
たとえホワイト企業に勤めていてリア充で素晴らしい日々を送っていても、職場に何日も泊まり込みで働きづめでも…
病気にかかるかもしれない。Gウイルスに感染するかもしれない。歩いてたら後ろから猛スピードのプリウs…(話がそれそうなので省略)
自分の人生のリソースがどのぐらい残っているかはなんとなく把握できても、最初に言ったとおり未来は予測不能なのだ。
何に対して自分の人生をつぎ込むかは自由なのである。今の日本なら、自由にできる選択肢は控えめに言ってもかなり広い。
個人的な事情で自由が制限されている人はもちろん大勢いる。ただその中で何を優先するかは、自分で決めていいはずだ。自分で決めるべきだ。
逆に言えば周囲がいくら心配して助けようとしても、勝手にやめさせることはできない。
嫌なことでも、逆に好きでしょうがないことでも我々は人生のリソースを確実に消費しているのだ。
でもそれを誰かに言われたとおり、まるで家畜のように消費し、いざ請求書がきたところで「こんなはずじゃなかった」と後悔しても誰も何もしてあげられない。過去は変えられないからだ。
タイトルにしたがってまとめると、両氏の意見は「未来に投資しろ」と「自分が何に投資しているか把握しろ」という、向いている方向は反対でも、同じことを言っているのではないか。