2018-06-04

田端氏と高須院長の炎上コインの裏表である

ここ最近Twitter話題になった2つの炎上」。

かい経緯は省くが、高須院長は「自分たち世代若いころすごく頑張り、そのおかげで今の日本がある」、田端氏は「過労死自己責任」みたいな意見tweet炎上した。

いずれの意見もかなり極端に聞こえるが、これらをもし、諫言または励ましとして受け入れるなら、いかなる人も逃れることができない二つの事実を思い出させてくれる。

すなわち、

未来予測できない

人生は有限である

まず高須院長に対するの反論をみてみよう。主なものは「昔の高度経済成長期と、不景気が長引いている現代を一緒にするな」という一見もっともなものだろう。

しかしそれはあくまで結果の話であって、高度成長期日本人の誰一人として、その好景気が続き日本が発展することを「知って」いた人はいないのだ。

高度成長期の初期ですら、戦争やらインフレやら、10年後の日本がどうなるかは誰にも予測できなかっただろう。

好景気に沸く周りの人達にならってモーレツに働いたとしても、再び焼け野原生活に戻ってしまうかもしれないという不安を、杞憂と切り捨てることはできなかっただろう。

だが結果的には、モーレツに働いた人はモーレツ生産し稼いだし、道路建物破壊されることなくいまも国土の礎となっている。

これらの礎を作り上げた人々は素直に尊敬されるべきであるし、そもそもそれを我々が称賛できるということは幸運以外の何物でもないのだ。

未来は予想できないのに、今の状況に絶望して、あきらめて何もしないのは賢明とは言えない。

また実利的な見地から言っても、好景気ときに最も利益を得るのは不景気のころからすでに動いていた人々である。これはどこか投資哲学みたいだ。

次に田端氏の意見について。

あえて一言で言い換えてみるするなら上述の「未来投資しろ」に対して、「自分が何を投資しているか把握しろ」ということではないだろうか。

若いうちは特にそうだが、自分の体力、気力はいくらでも湧き出てくると勘違いしがちだ。大間いである。

今頑張れば将来は楽しいことが待っていると考える。大間いである。

たとえホワイト企業に勤めていてリア充で素晴らしい日々を送っていても、職場に何日も泊まり込みで働きづめでも…

我々は明日には死んでるかもしれないのである

病気にかかるかもしれない。Gウイルス感染するかもしれない。歩いてたら後ろからスピードのプリウs…(話がそれそうなので省略)

自分人生リソースがどのぐらい残っているかはなんとなく把握できても、最初に言ったとおり未来予測不能なのだ

何に対して自分人生をつぎ込むかは自由なのである。今の日本なら、自由にできる選択肢は控えめに言ってもかなり広い。

個人的事情自由制限されている人はもちろん大勢いる。ただその中で何を優先するかは、自分で決めていいはずだ。自分で決めるべきだ。

逆に言えば周囲がいくら心配して助けようとしても、勝手にやめさせることはできない。

嫌なことでも、逆に好きでしょうがないことでも我々は人生リソースを確実に消費しているのだ。

でもそれを誰かに言われたとおり、まるで家畜のように消費し、いざ請求書がきたところで「こんなはずじゃなかった」と後悔しても誰も何もしてあげられない。過去は変えられないからだ。

タイトルにしたがってまとめると、両氏の意見は「未来投資しろ」と「自分が何に投資しているか把握しろ」という、向いている方向は反対でも、同じことを言っているのではないか

それはつまり自己決定についての異なった二つの側面、「自分のことは自分で決めろ」の両面なのだ

それは誰に対しても当てはまるアドバイスである。彼ら自身にさえも。

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