はてなキーワード: ピエロとは
さすがにこれはない。
増田なんかメンタルの薬かなんかやって思い込みがアレして統合を失いかけてないか。
※ 架空の映画『ネトフェミ』の内容に触れています。また、当然のことながら、あくまで個人の感想文にすぎないものです。
この映画の主人公であるMはツイッターでキズナアイや真空パックAV叩きで細々と承認欲求を満たし、福祉の補助なども受けながら子供の世話をしている中年の女性だ。彼女が彼がこのたびの「ネトフェミ」、今まで何バージョンものキャラクターが提示されてきた伝説のヴィランの最新バージョンである。
彼女が住むのはもちろんツイッターランド。バッドガイのいる、あの町だ。すなわち、中世ジャップランドのように大きな都市でありながら閉塞した田舎のような空気をも漂わせ、オタクたちは精神病院にぶちこまれる(そしてひょいひょい脱出する)、例の町である。
のちに「ネトフェミ」になる主役の生活は貧しい。しかし、それほど激しい貧困状態ではない。ありふれた、なんなら「ちょっとした貧しさ」にすぎない。これはとても大切なことだから、先に述べておきたい。『ネトフェミ』は理不尽な男女差別に苦しむ女性が蜂起する映画ではない。映画の前半では、Mの貧しさ、Mの病気、Mの不運が描かれる。そしてそれらはすべて「ありふれている」。
たとえば、Mの子供は保育園に落ちる。だから彼女は増田で日本死ねと叫んで人々から不気味がられる。だから彼女はカードを持っている。男だったら垢BAN必死の発言でも「トーンポリシング」のカードを渡すことで批判を封殺できる、ラミネート加工したカードを。「女性が汚い言葉を使うのは表現の自由です」そう、これはいい手だ。M、適応しているじゃないか、と観客である私は思った。世の中には不随意でtwitterで男の金玉をつぶそうとつぶやいてしまう病気があるし、言動が尋常でなくなる病気もあるが、それらのためにtwitterを自粛しろというのは無茶苦茶な話で、それらを抱えてtwitterで男に向かって暴言を吐き続けるのは当然の権利だ。不随意の発言や、尋常でない外見を不気味がるのは無知によるものである。不気味がるほうが悪い。私も若い時分に脳器質の病気でネトフェミになり、自分でも「こりゃあすげえな」と思ったが、しかし一方でこうも思った。「とはいえ、これくらいの怪物性を帯びたネトフェミは、ありふれてもいるけどね」。
たとえば、Mの生活はつましい。お金の余裕はぜんぜんなさそうである。そもそも、ツイッターランドでは、成人してだいぶ経つ女性が親と住んでいる段階で「お金ないんだな」感が出る。しかも彼女は文筆家としてもまったく売れていない。映画評論ピエロの仕事もたくさんもらっているようには思われない。心の貧しい人である。
しかしそれは「(文筆家)という夢を追う女性」としては標準的といってもよい貧しさだと私は思う。カネの入りにくい職業をめざしているのなら、副業や何かで収入をサポートするのは当然のことだ。ピエロの仕事だけでは食えないなんて当たり前のことである。ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。そんな人はジャップランドにはたくさんいる。
さあ、おわかりいただけただろうか。Mは貧しく不運だからネトフェミになったのではない。貧しく不運な人はこの映画の中にも彼の他にいくらでも出てくる。ではなぜMが、Mだけが、ネトフェミになったのか。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」
これがMをしてネトフェミに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。
彼女らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。私は最初、その怒りの意味がまったくわからなかったのだけれど、何人かと遭遇して理解した。彼らはこう言っていたのだ。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない、それは本来おれ(わたし)に向けられるべき賞賛だ」。
ネトフェミは金持ちの父親の夢を見る。Mは映画の中でずっと、手を変え品を変え金持ちの父親の夢を見ている。貴種流離譚的な夢だ。お金持ちの、人格者の、有名人の、素晴らしい男が、私を迎えに来る。そういう夢である。Mははじめから、いわゆる「信頼できない語り手」だが、それは彼女の性格からして当然というか、「Mは金持ちの父親から生まれてテレビで賞賛されるのが自分の本来の姿だと思っていた」という、それだけのことである。そう、Mは自分を王女さまだと思っているのだ。王女さまのはずなのに王さまのパパがいないから気も狂わんばかりにそれを求めつづけているのだ。
昔話の王子さまは冒険の旅に出るが、Mはその点、昔話のお姫さま的に動かない。簡単に言うと、すてきなパパの夢を見ながら、「金持ちの男が自分に恋をする」とも思っている。だからといって具体的に男を口説くことはしない。まるで王子さまを待つ白雪姫である。グリム童話の白雪姫は家出して七人のこびとと仲良くなって家事などしていたからMよりぜんぜんマシだ。Mは家出もしない。りんご食って寝てるだけの白雪姫、完全無欠の受動態である。
狂を発して「M」から「ネトフェミ」になるときでさえ、彼女は「与えられる」側でなければ気が済まないのだ。りんご食って寝てるんだ。永遠に家出をしない白雪姫なんだ。
さあ、おわかりいただけだたろうか。Mの怪物性がいかなるものであるかを。Mはなぜネトフェミになったか。Mは貧しかったからネトフェミになったのではない。Mは不運だったからネトフェミになったのではない。Mは「自分は大金持ちの有名人の子に生まれてテレビでスポットライトを浴びて子どもたちに大人気のコメディスターであるはずなのに、そうじゃなかった」からネトフェミになったのだ。Mは、自分は無限の賞賛を浴びて当然の人物だと(無根拠に!)思い上がっていたから、ネトフェミになったのだ。
私にはそういう映画にしか思われなかった。だから本作を観たあと、映画通の友人に「怖いね」と言った。「Mみたいな人、増えてるもんね、なんかこう、無限の賞賛を求める系の人。主演がMを魅力的に演じすぎていて、まるで時代のヒーローみたいに見えて、よろしくないよ、あの映画はだから、私は支持できないよ」。
増田の言うことには一点だけ同意で、要するにこの槇野さんも一人の「ジョーカー」なんだよな。
実際、「病気で怪物フェイスにもなったし悲惨な介護の現場も知ってるしアーサーより全然不幸だぜ私。まあブログで承認欲求満たせてるけどな」っていうカミングアウト、ジョーカーまでもうあと一押しじゃん。ブログかSNS失ったら、もう全然ジョーカーになるでしょこの人。
「誰もがアーサーのやったことに勝手な意味づけをして、アーサーを置き去りにしてピエロフェイスで暴れ回る。でもってアーサーはそれを幸せな顔で見つめてる。」これって、あの映画の末尾に描かれる状況だよね。で、誰もがあの映画を見て勝手に解釈して暴れ回ってる。映画をネタにしながら、実際の映画を置き去りに、自分の不満だけ見つめて文句を言い回る。でもこれって全てあの映画の想定内の出来事なんだと思うんだよ。誰もが自分の不幸という棒を手にして、アーサーの姿を借りて、目に付いた社会の片隅を殴り飛ばしまくる混沌の状況……あの映画が描いていたのはそういう世界だよね。いや、これまったく今の私たちの眼の前の現実そのものやん?
もちろんさ、槇野さんの感想は的外れなんだよ。だけど槇野さんには槇野さんの「ジョーカー要素」があるわけで、槇野さんは勝手なアーサー像を想像して勝手に暴れ回るという行為によって見事に「ジョーカー」が名作であることを証明してるわけ。今のこの世界って要はゴッサムシティだよね、っていうあの映画のメッセージを体現してるわけ。
それは、あの映画が半世紀以上も前の映画の要素……つまり「母一人子一人、清く貧しく正しく夢を追う青年が、世間の荒波に揉まれながら、隣人や理解者に支えられ、偶然のきっかけで表舞台に立ち、(その過程で憧れの世界との血縁もあきらかになり)、華やかなデビューを飾って無事成功する」というおとぎ話のようなサクセスストーリーの要素を完全に踏襲しつつ、それを100%裏返してみせるという手法を取っていることによっても明らかなんだよ。あの映画に「誰も悪人がいない」という指摘は槇野さんの言うとおりで、つまり、ほんの少し状況が違えば、実はこういう馬鹿みたいな「サクセスストーリー」も実は決して夢物語では無いはずのだ。なのに、結果として生まれたのはジョーカー……だとすると、悪いのは特定の誰かなのではなく、あの街であり時代であり私たち全てだとしか言いようがない。「ジョーカー」が描いているのは、特定の人間ではなく、特定の人間を生み出す「状況」や「時代」「世界」そのものなんだと私は感じる。この町では、ほんの一押しでみんながジョーカーになってしまうのだ。だから、バットマンの戦いは絶望そのものなんだよ。
というわけで、これ以上〈槇野=アーサー〉を叩かなくていいんじゃないかな、っていう。なんか普通にジョーカー化しそうな方だしさ。まあそういうこと分かった上で、かつ「いいから、もうジョーカー誕生させよ?」っていう流れで叩いているならもうどうしようもないんだけどもさ。
あのマッドピエロにもあんな悲しい過去が…なんて感想もないほど清々しいマッドピエロだったことに感嘆した。
あとあの映画が、奴が息をするように吐く妄言の拡大出張版であることに気づいてあの映画をネタに論じている世のすべてが滑稽に思えた。
ちょっと信じがたい誤解釈というか、ほとんどイチャモン感のある感想があったので、ツッコミを自分のツリーに下げておく。
私は元増田だ。
この人のブログは何度か読んでいる。面白く読ませてもらっている。
その人がこんなにも偏ったというか、ほとんど被害妄想では???という感想を書いてアップしていることに、ちょっと背筋が寒くなっている。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」
作中で3人のエリート酔っ払いを射殺した件でニュースに出ていたトーマス・ウェインとおんなじようなこと言うてはる。
嘘やろ。あんなおもろいブログ書く人が。こんなにものが見えてへんようなこと言うものなのか。釣りか?
アーサーが父親に夢を見ているというのはある。あるが、所詮空想の範疇であって(それこそ彼の「母親」のように)病的妄想に駆られているわけではない。
後半で自分で言ってたように、彼はただ温かいハグや親しみの笑みをもって自分を受け入れてくれる存在として父親を欲しがっていただけだ。
だからランディから銃を受け取ってしまったのだ。"My son"とかなんとか言って本気で心配してるみたいなそぶりをしてくれたから。
パンフだったかWikipediaだったかによれば、あいつは実際にはものを深く考えてるように見せたいだけで大して後先考えないタイプで、
だからこそ雇い主に対してアーサーを売っちまい、のちの怨みを買うことになるのだが。
ランディといえば例の銃だが、多くのブログや記事で「小児病棟に銃を持ち込んだアーサーの自業自得」という評価を読んだ。
確かにアレはアーサーの失敗ではあったが、小児病棟に銃を持ち込むこと自体はそこまで責められることかどうか、個人的にはずっと疑問に思っている。
だって普通に通りで仕事してるだけで看板かっぱらわれて殴る蹴るされるんだぞ?
そしてその後に「自衛のため、自己防衛のため」といって銃を渡されるんだぞ?
持ち歩くのが当然だろうが。
アーサーが迂闊だったのはあの時あの場面でポロリしたことであって、
ピエロアクトを始める前にカバンにでもしまっときゃ良かったのにという一点だけだ。
そして発達の私としては、物が銃でなく場面が小児病棟でないだけで、
そういう不注意で細かいドジを踏む機会というのは日常では無数にある。
無数にあるからこそ、私は、銃で小児病棟というシチュエーションがそもそも発生しないように、
いろいろと立ち回ったり細かい工夫でしのいだりしている。
それらは今のところ実っている。
実っているが、なぜ実ったかというと、もうこんなの「運」でしかない。
そんなの私には責められない。
責められないから余計やるせないんだ。
大事なところに限ってやらかすタイプの、クビになって当然の、笑えないミス。
ああ、件の感想記事が、読み返せば読み返すほど恐ろしくて仕方がない。
ジョーカー観てきたとあるけれど、目に入ってなかったのでは?というほど誤読(誤観、か?)が多い。
アーサーはその上司を許さない。自分をあざわらう裕福な奴らも許さない。自分の「パパ」じゃなかった有名人も許さない。殺す。バッキュンバッキュンに殺す。そしてジョーカーになる。
アーサーは上司を殺していない。
殺したのは自分に銃をよこしたランディ、銃をくれたくせに我関せずで貫いてアーサーを裏切ったランディだ。
アーサーは笑われたから裕福な奴らを殺したんじゃない。
例の殴る蹴るをおっぱじめられたから殺したんだ。
そしてアーサーが殺したマーレイは、アーサーのスベり倒したライブの映像を彼に無断でテレビ放送し、更にスタジオに呼びさえした。彼を笑い者にするために。
そして、これは私の持論だが、アーサーはジョーカーになってないし、なれないだろやっぱり。あれら全てが事実なら。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに」。
そもそもアーサーに限っては、これは完全にその通りではないか?
幼少期に母親の恋人から虐待を受け、脳及び神経系に外傷を負った。
これさえなければ、もっと違ったルートもありえたんじゃないか、というのは、そんなに高望みだろうか?
アーサーは大人になった今も、日記で割としょうもない初歩スペルを誤字っている(「下ネタは、いづも、ウケる」)。
アーサーはピエロという「笑うのも仕事のうちだろう?by刑事」な仕事に就いている今でさえ、
「お前のことを嫌がる奴もいる。気味が悪いからだby冒頭のピエロ業ボス」。
ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。
他の仕事、あったんかな?
でも、ラミネートカード戻って来んかったんやで、ゴッサムでは(←確かめるためもあって2回観た)
アーサーが徹底して受動的、「りんご食って寝てる白雪姫」なのは、三分の一くらいは肯定できるが、でもやっぱり悪意ある評価に思える。
まずアーサーはマジでかなり受動的ではあって、例えばコメディアンになりたいという夢自体、母が「人を笑顔にさせる人間になりなさい」と言ったから、という以上の動機はない。
その母の台詞も、おそらく「発作」へのフォローかはたまた「発作」等々に端を発するイジメを受けたアーサーへのフォローに過ぎず、母自身アーサーがコメディアンになれるとは思ってないぽい(入浴介助時「あなた、ちゃんと人を笑わせられる?」)。
もうなんていうか、こんなの呪いに等しい。
もちろん「普通は」これを呪いとは受け取らない。呪いと呼ぶには弱すぎる。
でもアーサーは呪われてしまう、その「将来の夢」にすがってしまう。脳の外傷のせいか、アーサー自身に素質があったのか?それはわからない。
アーサーの、あの受動性。ものを判断するときや、自分でその場で考えて何かするときの、微妙な、ちょっとボンヤリとした感じ。
あれと「発作」のコンボがジョーカールートへのかなり決定的なフラグであるってのはあると思う。アーサーが状況を変えることをものすごく難しくしている。
でも、じゃあ例えば受動態人間であるってことをアーサーが自分で変えられるかっていうと、どう考えてもひとりでは無理で(能動的な生き方の受け皿どころかモデルすらない状況だもの)、というか脳外傷から来るものなら誰がいても無理で、あーこれフラグ折れんわー、ツムツムだなあ、となってしまう。みんな病気が悪いんや。病気と虐待が。
まあそれはそれとしても、アーサーは「与えられる側でなければ気が済まない」んじゃない。気が済むとか済まないの問題じゃないだろう。
そもそもあの状態で、母親の介護放り出して家出してどうする??
メシ風呂が自力不可で「みんなが言ってるって、みんなって誰さ。今日誰と会話したの?」言われるくらい孤立してる母親、
郵便ポストを見に行けない母親をひとり置き去りにしたら逮捕されない??保護者責任遺棄的なやつで。
家出したあと住むところは?
あのエレベーターのイカれたボロ家以外にどっかある??アーサーに貸してもらえる???
それと女を口説くことをそんな冒険ポイントみたいに言いなさんなよ…そういうのもう流行んないんじゃないの。
それにアーサー最大の冒険をカウントしないのはフェアじゃない。
コメディアンとして舞台に立ったじゃないか。ネタ帳携えてでも、妄想に後押しされてでも。
母の話の裏付けを取ろうと、ウェイン邸にもデモ会場の劇場にも病院にも行った(どこまで妄想かはともかく)。結構行動している。
これがアーサーをしてジョーカーに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。彼らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。
もうこの辺に至っては被害妄想入ってませんかね。飛躍がすごくてどうしてそうなった、みたいな話になってるというか。
アーサーが欲しがっていた素晴らしいものというのは、大衆からの賞賛もあるが、最大のものは愛だろう。アホみたいな結論になるが。
愛。親しさ。笑われないこと。爪弾きにされないこと。受け入れられること。その象徴としての賞賛。
一応言っとくけど、「この人に怒りをぶつける人々が欲しがっているもの」が愛だといいたいのではない。そんなことは知らない。
このツリーでは基本ジョーカーあるいはアーサーの話をしているんであって、賞賛が欲しくてネットで他人に突然キレる人のことはわからない。
ああ、それにしても。
確かに、怖い。怖いですわ、これは。
例えば、ものすごく良い人で会えば皆良く言うのに発言がアレな人なんてのは多い。
そして、とても明晰で仕事も確実で信頼性の高い取引先が、飲みに行くとアレな話をすることも多い。
そして、人はみなスティーブン・キング程には表現が上手ではないので、
「うわヤだな」と思ったことに後から理屈をつけて話す事が多い。少なくとも自分はそうだ。
最初に「宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスター」論点を明確にしよう。
DCコミックスのワンダーウーマンは、その物語がある程度北米で共有されているため、特に男性から消費される性の対象として描かれているとはみなされない。
しかし、イスラム圏のポスターにワンダーウーマンを描けば非難の対象になるだろう。
だから、「あのイラストがエロいかどうか」は、時と場合による。
つぎにB、宇崎ちゃんを好ましく見る人に届けば良い、そうでない対象外の人は見なければ良い、とする意見である。
公共のポスターであり、ゾーニングされているわけではないからだ。Bは対象外の人も見えてしまうとする方が自然だろう。
つぎにCだ。知り合いの医療従事者もこの立場だったが「血が足りないのだから手段を問うている場合ではない」。
外科医はその職責において傷害罪に問われないという点から考えても、一考の余地がある。
待ったなしの局面において、明確に違法でなければ何をしても良いと考える医療従事者は、割といる。
半裸の男性のカレンダーが、売上が慈善に繋がる場合かなり好意的に受け止められている。
つまり、公共性の高さ、公共の福祉というのは、他よりも優先度を上げるという考え方は、社会によっては有り得る。
つぎはDだ。表現の自由は、公共のポスターにも適用されうるか。
表現の不自由展は、「芸術作品の表現が、制限される」という点で問題視されていた。
宇崎ちゃんは遊びたい!が、例え半裸のポスターであっても、適切に販売されるなら検閲すべきではない。
クリムトがウィーン大学向けに描いた作品が論争を引き起こして納品されることが無かったのは有名な話だ。
ポイントは、「作品」ではなく「掲示する場所」だ。争いの余地がある。
職場にヌードポスターを貼るのは、環境型セクハラに該当する、とされる。
Aの論点において「性的なポスター」であり、Bの論点において「嫌なら見るな」は否、ならば環境型セクハラに該当するだろう。
つまり、性的か否か、対象外の人に見えるか否かが、Eの結論に影響する。
性的なポスターであっても、該当の人にだけ見えれば良いという論陣なら、やはり該当しない。
最後にFだ。環境が女性に好ましくない状況である中で、それを維持強化して良いか、である。
これは、「その環境にある、ない」か「強化するか否か明確でない」か「強化はする、強化しない」の論点がある。
強化しない、強化する、いずれも明確に証拠を提示するのは、とても困難な作業になる。
女性が男性よりも性的に消費されやすいとする証拠もまた、提示が難しい。
よってこれは、「その可能性がある」とする立場で考えるのが一番自然だ。
その場合であるときに、他の論点がどう変化するかが、論点となる。
さて、こうすると、例えば自分の立ち位置は、以下となり今回の件はOKという立場だ。
B「ゾーニングはできていない」
C「医療は許容度が高い」
これは端的に言えば「環境型セクハラで女性の不当な扱いを強化する可能性があるが、表現の自由に加えて公共の福祉(医療)の方が優先度が高い」とする立場だ。
自分は、全く同じ図案のポスターが「読書感想文全国コンクールのポスター」であればNGとする立場だ。
環境型セクハラに該当する図案の場合、表現の自由よりも子供の教育環境は優先されるべきと考える。
つまり、同じポスターも時と場合によって許容度が違うと考えている。
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さて、長い前フリを読んでくれてありがとう。
JOKERは、アーサーという中年男性が、コメディアンになる夢を追いかけ、他人から利用されるだけであることをやめ、自分の悲劇が喜劇的であることに自覚的になる、悲しい物語だ。
JOKERはそのスタッフクレジットも、全体として「喜劇」のフォーマットで作られている。軽やかな曲とともに始まり、明るく楽しげな音楽で終わる。
そしてその悲劇が、喜劇的なエンターテインメントであることを理解している。
アーサーは人を笑わせるコメディアンになりたいのであって、人から笑われるピエロであることは望んでいない。
アーサーは人からはわかりにくい障害を持っている。緊張性の発作のように、自分の意志と無関係に笑ってしまうのだ。
劇中には小人症の人物も出てくる。その特性(障害)はわかりやすい。それでもソレは笑いのネタにされる。
現代では、小人症の人物を揶揄するのは不謹慎だとされるだろう。
同様に、アーサーの症例が精神病として一般に認知されていれば、当然それについて差別したり揶揄するのは、社会的に許容されない。
社会的に許容されないというのは、そんな現実がない、ということとは明確に異なる。
たぶん、アーサーは、現代でも差別され生きにくさを感じると思う。
もちろん表立ってではないし、合法的になんの問題もない理屈の上で、差別されると思う。
アーサーがJOKERになったゴッサムシティと、宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスターが掲示される現代は、とても遠くて、実はすごく近い。
医療のための緊急避難だと考えている人が多ければ、たぶん遠く、
昔から争い事が嫌いだった
怒りという感情をあまり持てないタイプの人間で、火種は鎮圧するものだし、それが無理なら可能な限り遠ざけるものと考えてきた
威圧的な態度を取る人たちに対しては、本当はやりたくなかったけどピエロっぽくふるまって争いに身を置かないようにしていた
大学進学後は、そういったタイプの人たちとは関わる必要がなくなったので、平穏が訪れた
だけど、最近になって、否応なくそういう世界にぶちこまれることが増えてきた
「頭おかしい」「ネトウヨが」「はてサが」「フェミが」「アベが」「韓国が」「日本死ね」
怖い
見て悲しい気持ちになる罵詈雑言や醜い争いを見たいからじゃない
僕は政治にも興味ないし
それなのにここ1〜2年だろうか
そういったカテゴリの争い事が頻繁にホッテントリに上がるようになったし
じゃあネット見るのやめろよ、とか
やっぱり楽しいことは周囲と話して盛り上がりたいし
そんな僕は
いったいどうすればいいんだろう
本作含め『ダークナイト』とかもネタバレしてるんで嫌な人は読まないでね。
オッスおらメンタル壊した歴ありの発達障害&ナルコレプシー持ち!
どうにかこうにか大学出て何だかんだ正社員で10年ぐらい働き続けているよ!
壊したメンタルの治療のために飲んでた薬が身体的依存性がある(切らすと離脱症状でゾンビみたいになる)おかげで
あとナルコ用の目覚まし薬も社会人に擬態するためには欠かせないね!!
最近の悩みはこの状況下でメタボ肥満で肝臓がイカレ始めていること!トシだね!
慌てて有酸素運動してるけど、走ると膝を壊すから室内バイク買って漕ぎ始めたら
ケツに蒙古斑も真っ青なアザができたよ!!
アメコミは全然詳しくないよ!バットマンもダークナイト信者だったって程度のニワカだよ!スーサイド・スクワットは観てないよ!
「『ダークナイト』の主役はバットマンやぞ」とかそういう細かい話はおいておく。
アーサーは結局作中ではジョーカーにはなってないし結局今後もなれないんじゃないかとしか思えない。
だってアーサーは(自分に都合のいい)妄想が現実レベルの彩度で日常生活に融合してくるような病気と、
自分の意のままにはならない、投薬があんまり効いてないっぽい発作を持ってて、
それを差っ引いても"普通に振る舞う練習"(サントラの曲名のひとつ "Learning How To Act Normal")をやっちゃうタイプじゃないか。
作中の走ってるシーンは冒頭の1回を除けば全部「何かから必死こいて逃げ出す」場面ばっかりの人間じゃないか。
人の考えの裏をかくことができて当たり前、必要なら自分で自分の死体に化けてのおとり役もこなし、
メイクオフすればあの傷もちの顔でありながら市民に溶け込める、溶け込む方法を考えて実行できる。
ジャック・ニコルソンのジョーカーでもいい。
元が泣く子も黙るギャングの一員だ。人の顔に酸をかけて焼くくらいのことは簡単にするし、
毒入り化粧品だのを自力開発できる程度には気が狂っていても頭が回る。
アーサーには無理だ。
通りで仕事してるだけで殴る蹴るの暴行に会ったことのある人間、
人混みに溶け込むどころか人から注目(しかも白い目の)を集めてしまう人間には無理だ。
嘘つきランディや地下鉄の酔っぱらいや「母親」はブチ殺しても、
小人症の同僚ゲイリーはわざわざ鍵開けて逃がしちゃう人間には無理だ。
おいおい公式サイト様ともあろうもんが安い飛ばし記事みたいなこと言ってんじゃねえよ。
「いやこれ『ダークナイト』演れそうなガチ本命のジョーカーに利用されてる替え玉やろ説」とか
「ガチジョーカーがアーカムで暇つぶしにぶっこいたホラ話やろ説」とか
「『ジョーカー誕生』っていうのはアーサーがジョーカーになったってことじゃなくて
ミームあるいは概念としてのジョーカー的ななにかの発生のこと説」とか、
しかし「単純にアーサー=ジョーカーだろ、覚醒できてヨカッタネ説」、テメーはだめだ。病気なめんな。
もうね、「やめてください死んでしまいます」って感じ。いや茶化さんとやってられんわ。
あの笑い者感、笑いのツボずれてる感、シリアスをシリアルに変えるドジっ子☆属性の笑えない感がリアルすぎて笑えない。
看板ドロボーのクソガキおっかけてて途中で滑ってこけそうになるシーン、
「看板弁償しろや」言われて路地裏でダストボックス蹴っ飛ばしてて滑ってこけるシーン、
「そこ出口専用やで」シーン、
「僕たちは『ジョーカーのような人間はこうして現れるのかも』という物語で、
コミックスで言う"スーパー・ヴィラン"の男をリアルで愛すべき人間として描きました。
だから皆さんには、彼の味方でいてもらえればと思います。これ以上は無理だ、というところまで。
映画が始まる時点では、彼は有名な犯罪者ではなく、アスファルトに咲いた小さな花。
その花に、あなたは水をあげるのか、光を当ててあげるのか、それとも無視するのか。
どれくらいの間、その花を好きでいられるのか。」
とのことだが、「味方」というのが単に肯定者って意味じゃないのなら、
こんなん延々「ダメだアーサーよせそっちはダメだ行くなやめておけあああああ」ってなりつづけてまうやないですか。
そして「わたしたちは、なぜ『ジョーカー』のようなダークヒーローに共感を抱くのか」みたいなタイトルの記事に逆に引いてしまう。
いや、ワタクシが発達で(おおむね寛解したとは言え)メンがヘルってるから過剰に感情移入してしまってるのはわかってるが、
それはそれとして人が殴る蹴るされたり笑い者にされてたら
ああ痛いやろうなつらいやろうな嫌やろうな仕返ししたいとか思うやろうなって思わんか?健常者ってサイコパスでは???
まあともかく映画としては傑作なんじゃないでしょうか。2回も観たので3回目はもういいです。過剰摂取です。
ぶっちゃけ巨悪でもエネルギッシュな『ダークナイト』ジョーカーに癒しを感じるくらいには消耗したわ。
あとなに?ニューヨークって素であんな治安悪いの??コドモ笑わせるくらいよくない??
『ジョーカー』にここまで同情的な見方してしまってると身近な人間にバレたくないけど
(ジョーカーに同情的でない人間から「ジョーカーに同情的な人間だ」と思われること自体に、
この映画のこと考えてると上記みたいなことが延々頭から離れなくて家事とか勉強とかがはかどらないから。
自分とアーサーの相違点を頑張って挙げてけば100コくらいは何とか挙がると思うが、
自分が今この瞬間アーサーでない理由は「運」以外なんも無いなというこの感覚がしんどくて、いったん頭から追い出したいから。
「アーサーがジョーカーしないif」ルートを一生懸命想起しては破綻させてる自分の脳ミソをちょっと休ませてやりたいから。
>最後の方のテレビカメラの前で演説ぶってるシーンとか、車の上に立って観衆に応えるシーンとかも、どっかで失敗したりしないかハラハラしながら見てた。
わっかるー!!
物語的に超大事なクライマックスシーンだからまさかそういうやらかしは発生しないだろうと思いつつ、ここで発生したらマジで目も当てられないぞあばばばばばってなりながら観てました。
>舞台はゴッサムであってニューヨークじゃないしマジモンのニューヨークよりは治安悪く設定している
ちょっと検索すれば掃いて捨てるほど「ゴッサムとはニューヨークのあだ名の一つ」的記事がヒットしたのと、
ニューヨークの映画館では上映開始日に警官出てくるレベルの厳戒態勢取られたってニュースと、
あと自分が観たときには白人の大学生だか若い社会人だかって感じのグループも来てたんだけど、終わって帰るときにテリブルテリブル言ってたってのが妙に印象に残ってて、
「え、そんなリアリティあんのこの荒れっぷり…ヤバない?」と思って書きました。
良かったー現実にはあそこまでじゃないんだね!
いきなり看板パクられる気の毒すぎるピエロとかは居ないんだ!!
って思っとく!
アーサーがこれからどのようにジョーカー活動ができるというの??
社会に対して戦争を仕掛けるのは簡単なことじゃない。いっぺんやらかした後ならなおさらだ。
バッツの誕生までもたないだろ。
例えば「最後の精神病院のシーンこそが時系列的には一番最初で、カウンセラーを半殺しにして拘禁まで食らったが福祉削減もあって退院、のち本編の流れ」とか考えてみることはできる(アーサーの本質は両手に手錠状態で血の足跡を作って踊ることができるタイプの人間説)が、
血の足跡をつけて踊る人間を、定期的にカウンセリングに通って投薬を受けて仕事行って母の介助して暮らす人間に変えるための何らかの処置が病院によって行われたと考える必要が出てくるので整合性を欠く(そんな都合のいい処置あるかオイ?)。
ただ、もしそうならジョーカーは見事アーカムから合法的に脱獄を果たし晴れて野放しになったというオチで背筋が薄ら寒くなれるのでステキではある。
そう、アーサーにダークナイトの主演が演れないとしても、ダークナイトではない別のやつでもいいからジョーカーの物語を演れるポテンシャルが欲しいし、
毎日毎日クソほど残業して教材研究と部活に明け暮れる生活を送ってます。
で、いじめの件だけど、ニュースになった事件ほどではないにしろ、同じような扱いを受けてる。
偶然にも、激辛ラーメンを食べさせられて動画を撮られたり、ミスに対して人格を否定されるような言葉を受けることもしょっちゅうある。
自分の場合さらに悪いのは管理職、つまり校長からも似たような扱いを受けること。
例えば、PTAと教員の飲み会の場で、全体に対してあいつはダメな教員だと言ったり、会議の場で、使えない教員だと名指しされたりと言った具合です。
で、何故こんなことになるのかなんだけど、原因はあきらかで、受けるいじめを拒否すると、さらに自分の立場が悪くなるからなんだよね。
つまり、いじめを受けた時点で反抗して、そのあとの人事や生徒からの評価、仕事に受ける悪い影響を享受するか、いじめに対してニコニコと笑ってピエロに徹するかのどちらかな訳。なにせ相手は学校のトップだったり、先輩、つまり保護者や生徒を味方に付けている相手なわけだから。
多分このいじめを受けてた教員も、似たような状況だったんだと思う。
今回これを訴えたことで、地域からの目や教育委員会からの評価も最低になって、加害者の教員人生は終わりだと思う。
俺だって証拠を集めて訴えたら状況は改善できる。でも加害者の教員人生を終わらせる勇気はない。だから耐える。そんな感じ。
俺はこじらせてひねくれた面倒くさい人間で、プライドは高いが自己肯定感が低い。馬鹿なのに頭で考えていつも空回りする。仕事でもミスが多い。家族ともうまくやれず絶縁状態だ。そんな俺が死なずに生きてこられたのは数少ない友人たちのおかげだ。全力でふざけてあいつらを笑わせることでささやかな幸福を得ていた。グループに一人いるブサメンのピエロ、あれ全部俺です。
そんなんなので当然ながら彼女いない歴=年齢だったが、数ヶ月前に彼女ができた。最初は、嬉しい反面、なんで俺?俺でいいの?という気持ちが拭えなかった。彼女と俺は会うたび酒を飲んで酔っ払っていて、もしかしたら俺の顔とかあんま見てないのかもしれない。シラフで会ったらフラれるかもなと思い、プライドが高い俺は、いつフラれてもいいように心の準備をしておこうと決めた。
彼女はシラフの俺をフるどころか、会うたび好きになると言ってくれた。駄目だこれ書いててもう泣きそう。俺こないだ彼女と別れてこの増田書いてるんだ。結構泣いたけどまだ全然泣ける。オチを先に書いてすまんが自分の今の気持ちをそのまま記したいので直さない。
付き合ってから週の半分は会ったり泊まったりしてた。もうほとんど同棲だよね、一緒に住んじゃう?という話になった。あれよあれよと同棲開始。一人暮らし歴の長さと、実の家族とうまくやれなかったこととで、楽しみな反面不安だった。俺はだらしないので色々迷惑かけるのは間違いなかったが、それでも彼女は一緒に住む道を選んでくれた。
住み始めてからは、住み始める前よりもさらに楽しくなった。休日に早起きして朝からビール飲みながら散歩したり、いってきますとただいまがある。
そんな生活が当たり前になって俺はつけあがってしまった。あるきっかけで彼女の限界を迎えさせてしまい、別れを切り出された。ここ最近、俺が彼女を下に見てる感覚があってずっと引っかかっているとのことだった。
隠し事はしない方がいいのかと思って起こったことや思ったこと、全部馬鹿正直に話していた。下世話な話や、俺の気持ちが不安定な時期に彼女への気持ちがわからなくなった事があるとか、色々喋った。聞きたくなかったと言われた。
俺は悩み相談とかできる親しい友達グループは異性が多くて、よくグループでもサシでも連絡をとっていた。誤解させないように、そのグループの友達と彼女と一緒に遊んで、浮気するような関係では断じて無いと信じてもらいたかったんが、それは理解した上でやっぱり異性とサシでやりとりされるのはすごく嫌だったと言われた。
色々あるけど、私のこと本当は好きじゃないでしょ?と言われた。いや好きだよ!と答えられない俺はとんでもない馬鹿で、頭が悪いのにどうしたら好きって証明できるんだろう?好きってなんだろう?とか考え出して、よくわからなくなって、何も言葉が出なかった。
うん、書いてて再認識したがブサメンなのに調子こいて彼女傷つけて増田に書くなんて本当に救いようがない人間だ俺は。
別れを切り出されても受け止めようなんて思ってたが無理だった。頭が真っ白だが色んな感情がぐちゃぐちゃで自分の気持ちがわからなくなった。ただ涙が出るが、別れたくないと言えなかった。ただ黙って泣いていた。クソガキ以下だ。
後日、冷静になった彼女から謝られた。まだ一緒にいたいと言われた。その日の俺はもう完全に嫌われたと思って、別れるシミュレーションだけして臨んでしまったので戸惑った。俺みたいなどうしようもない野郎が彼女とこのまま付き合っても傷つけて時間を無駄にさせるだけだとも思った。人と真剣に向き合ったことがなくて怖かった。一緒にいられる自信が無いと答えてしまった。彼女はなら諦めると答えた。今思えば、彼女から逃げてしまっただけのクソ野朗。フニャチン野郎。本当に馬鹿だ俺は。取り返しのつかないことをしてしまった。
今夜、これからの話をしようだってさ。やっぱり君のことが好きだって、今更言っても呆れられるよな。彼女にはもう俺みたいな馬鹿男と付き合ってほしくないけど、俺は君が好きなんだって言われても迷惑だよな。夜風が気持ちいい。君とビールを飲んだら気持ちいいだろうな。