はてなキーワード: ピエロとは
人と関わるのが苦手で、大人に取り入るか周囲の期待するピエロになることで10代を生き延びた。20代も基本方針は変わらず。ていうかそれしか生き方知らなかったからなあ。そして20代から、不良品仕様のやらかしが多発して要所要所で人生がプチ炎上。たぶん発達障害だなと30手前で気付く。
カッとなったら周りが見えなくなって、人やモノを平気で傷つけることができる。今は全くやってないし反省もしてるけど、小さい頃は親に隠れて弟を虐待しまくってた。下手してたら殺してた。いや、もしかしたら幼心に「上手いこと殺さない程度に」やっていたのかもね。
やりたいって言ったことは基本やらせてくれるし、お金もどんどん注ぎ込んでくれた。一応それなりに怒られもしたけど、両親も含めて周囲にはしこたま甘えて生きてきた。
他人から見たら「何か要領良くやってるし、好きなように生きてる」ように見られる。でもそんなことない。
人付き合いは疲れる。仕事も長続きしない。家から出たくない。別にやりたいこともない。
行動や意思決定は気分本位。気分がノッてたら自分でもビックリするようなパフォーマンスができる、逆の時は何やってもダメ。気分障害だなって最近やっと気づいた。
緩やかだった躁鬱の波の振れ幅が数年前から大きくなってきた。躁になって、借金しまくって金を湯水のように使い果たした。今思い出してもゾッとする。誰にもお金なんて借りたことなかったし、その行為自体を忌み嫌ってたのに。今は鬱モード。休職してたまの通院以外は引きこもり中。
昨夜彼氏に再三指摘されたことを頭の中で整理している。ので、散文するかもしれない。
私は身近な人に自分がしたことで楽しくなってほしいと常日頃思っている。そのためなら面白い話題だって提供するし、女でちょっと痛いかもしれないけどピエロっぽい役にもなれる。人に変と思われても、笑ってもらえるならそれでいい。笑顔が見たい。
逆に私のせいで悲しくなったり、心配させたり、気を揉ませてしまうことは極力なくしたい。
私が相手でマイナスな感情になるのは別。相手が怒らせて来たり悲しませて来たりしてもそこは別に気にしない。ただ、自分がそうさせたくない。
でも、彼氏の場合はありがたいことに色々心配してくれているようだ。帰りが遅くなったりすると心配する。なまっちょろい身体なので健康面も気にしている。電車のホームに立つと倒れて線路に落ちてしまいそうという。
冗談100%でなくまあまあ本気のにおいをはらませているので、私はそれが申し訳なくなって、もっとしっかりしないとなあと思う。
昨日、痴漢にあった。昨今冤罪で巷をにぎわせているが、お尻を触る短絡的なものでなく、なかなかにタチの悪いタイプの痴漢だった。言い逃れできる要素を男は十二分に用意して痴漢していたので、久しぶりに恐ろしかった。
彼氏は何か本当にヤバいことがあれば連絡しろと言っていたので、痴漢だと確信した時から彼氏に連絡をする選択肢は浮かんでいたが(というか誰かに連絡するとなると彼氏しか思い浮かばなかった)、
彼氏が非常に心配することは想像に難くなかったし、お互い直ぐに会える距離でなかったので彼が行動できないということに気を費やしてしまうのではないかと考えた。
それで彼氏にSOS連絡するのは遅れたのだけど、いやまあ結局連絡しちゃったんですけど、想像以上に彼氏を心配させてしまったようで、それが私には本当に申し訳なくなった。ただでさえいつも心配させているのに、これ以上心配させる要素を増やさないようにしようと思った。
その日の欠点は、私が申し訳なくなった気持ちを彼氏に話してしまったことだ。
彼氏は「心配することがいけないことか」「心配するのが迷惑と思っているのか」(電車の中で話したのでちょっと文章が一部おかしいけどこんな感じ)とやはりいい顔をしなかった。
また、彼氏に言わせると、私は自己犠牲の気が強くて、相手に迷惑をかけるのをことさらに嫌うのだろうけど、それとこれとは話が違うとのこと。心配するのは当たり前だと。
だから他人を巻き込んで助けを求めたり、解決策を実行するべきと言ってくれたが、先にも書いた通り他人に迷惑をかけることがストレスに感じてしまうので、彼氏の提案がどうしても受け入れられなかった。
私に言わせれば彼氏に助けを求めたことは、最悪自分で抱えて消化できることを問題発生時に他人に伝えられた初めての出来事で、正直今回はそれでいっぱいいっぱいだった。
これらの意見も彼氏に伝えられたけど、その時間の帰りの電車はずっと考え込まれてしまった。
結局相手が私より大人で、最後は笑顔で帰れるように尽力してくれた。
私の考えが極端すぎるのは自覚できている、筈。助け合いの世界で、自分だけ迷惑をかけないなんてことはできない。だからこそ、自分ができる範囲は心配や迷惑の種は自分で解決できるようにしたい。
彼氏はよく心配してくれるので尚更。100%冗談で行っている時ももしかしてあるのかもしれないけど、そこら辺の機微は私には判断つかない。
彼氏が安心して私と過ごしてくれるにはどうしたらいいのか私には今のところ分からない。
あと、彼氏が帰りしなに言っていた「そんなこと言うなら別れる、なんて言うわけない」みたいなこと言ってたけど私普通の人なら別れるような失言してたんだろうか。
2019年に印象を残った映画を上げるなら、僕は天気の子とジョーカーを上げるだろう。どちらも大ヒットをした作品で、どちらも非常に「似た要素」を持つ作品だ。
新海誠の作品は前回の君の名はの時も、非常に似た要素を持つシンゴジラがヒットした。新海誠の作品は、どうも数奇な運命作品に巡り合うらしい。
天気の子とジョーカー、どちらも公開時期は近いから、どちらかがどちらを参考にしたという事も無い。
「都会で、周りの人にぞんざいに扱われる」「銃を手に入れ、物語を動かす狂言回しとして存在する」「どちらも既存の正しさに異を唱える作品」
これらの共通点は、単に箇条書きマジックか、偶然だろうか。僕はそうではないと思う。
新海誠も、トッドフィリップスも、どちらも現代社会を描いた結果導かれた必然ではないかと思う。
しかしながらそのような大きな共通点がありつつも、その結果と印象は全く異なる。
トッドフィリップスはジョーカーを「人の温かさを描いた作品だ」と言った。社会的な思想だとあえて言わなかった。
先ほど内容とモチーフが似通っていると言ったが、実はその共通点の中に、二つの物語の差異が存在する。それはまさしく、「人の温かさ」なのだ。
・都会での周囲の人の暴力
風俗店の経営者と聞くと、多くの人は「ちょっと怖い」とか「金持ちそう」とか「褒められたものではない職業」と思うだろう。
これは天気の子の主人公が都会や社会に対して抱いていた感情と似たものがある。
ジョーカーでは、その役割を看板を壊した褒められた存在ではない不良、新卒サラリーに抱くちょっと怖く金持ちそうという存在に負わせている。
天気の子の須賀は主人公を体のいいコマとして使うが、同時に役目と居場所を与えている。
ジョーカーではその役目を、ピエロを雇う事務所と、精神科医が担う。ピエロであることで、役目を与え、向精神薬によって居場所を与えているのだ。
そして周囲の人の中に居た女性は、自分の事を気にかけている、までは一緒だったが、ジョーカーではそれは妄想だった。
ジョーカーの母親は妄想にしか目を向けておらず、誰もジョーカーの事を見ていない。
天気の子の主人公は猫に自分を重ねて助ける優しさを持っていた。
ジョーカーも、幼少期のバットマンの寂しげな顔に自分を重ね、笑わそうとする優しさを持っていたのだ。が。
・『銃』という存在
この銃は、両映画にとって「社会にとっては間違っている、主人公の正しさ」を象徴するアイテムだ。
二人が銃を手にした理由は違えど、持ち続ける理由は、同じだ。片方は風俗店の経営者に暴力(足掛け)をされたこと。もう片方は、不良に襲われた事。
しかし、その銃を持った結果には差異が存在する。「銃を見た人の対処」そして「誰に向けたか」だ。
天気の子では、主人公銃をヒロインの前で撃った。標準を「自分を拒絶する社会」としての風俗店店員に定め、しかし恐怖か迷いかで弾は逸れる。
ヒロインは一回それを拒絶するも、主人公が家出して不安に感じたことを理解した上、それを許容する。
ジョーカーでは、銃を小児病院で落とす。しかしそれに対して社会や人々は、ジョーカーが銃を持った理由を理解しようとせず、拒絶した。
ジョーカーは部屋で銃を持ち踊る時、自分の世界の象徴である母親の椅子に向けて標準を合わせている。結局ジョーカーはその正しさの行き場を失い、自己に閉じ込め、
電車のシーンでは「自分を拒絶する社会」としての新卒サラリーに迷わず発砲する。
天気の子では、あくまで向けるだけで発砲しない。自分の都合の良いように女の子を使って、いなくなっても気にせずに呑気に笑ってる人に対して、脅しとして使う。
主人公にとって世界は「自分を拒絶する社会」ではなくなっていた。主人公も同時に社会を拒絶していた事に気付いて、優しさに触れた。
「女の子一人を見捨てる社会」に対して銃を向けていたのだ。かつて自分がそうなりそうな時に拾ってくれ、見捨てずに愛を教えてくれた一人の女の子に対し、同じことをしたのだ。
ジョーカーはその銃で、「男一人を見捨てる社会」の象徴であるコメディアンを撃つ。自分への愛などないと教えてくれた一人の男に対し、同じことをした。
・『正しさに異を唱える』
天気の子では、兎に角「正しさ」に対して異を唱えている。神社で言われた、「現代の人の考える正しさなど、1000年スパンで考えればないも同じもの」という趣旨のセリフ。
最後のマンションのシーンでも、「昔は海に沈んでいた場所が、あるべき姿に戻ったのかも」というセリフ。正しさというものが絶対的なものとして語られがちな現在に対する批判である。
そして極めつけは、最後の主人公の「天気なんて狂ったままでいい。青空よりも、陽菜がいい」というセリフ。主人公にとっての正しさを「選び取る」セリフだ。
新海誠も「選び取る」事に対して、意識して制作したと言っている。
ジョーカーは「正しさ」を雄弁に語るテレビの向こうの人物を見て笑う。ジョーカーは誰も自分を見てくれず、平気で見捨てる社会に銃を向ける。明らかに世界は狂っているのに、その世界は自分をことごとく無視する。
薬を辞めて、あるべき姿に戻ったことを感じる。正しさの無い世界で、正しさなんて自分で決めていいんだと気付くのだ。「正義なんて自分で決めたっていい」という、主人公にとっての正しさを選び取る。
天気の子もジョーカーも、暴力に遭いつつも、主人公は誰かを見捨てない優しさを持ち、社会から自分を守る銃を持ち、その銃で正しさを行使し、既存の正しさに異を唱えた。
しかしジョーカーの場合は、誰もジョーカーを見ず、助けず、愛など与えなかった。結果的に優しさは失い、銃は社会を襲い、誰かを救うためにその力を使えなかった。
天気の子は現代社会で愛を描くことで愛を表現し、ジョーカーは愛を絵が描かない事で愛を表現した。
愛を与えればいい、そう結論付けるのは簡単だが、僕たちはまだ犯罪を犯してない、
だが金がマックで寝る男を、精神障害を持ち銃を落とす男に優しさを向ける事が出来るだろうか。
少なくとも、優しさを与えないのなら、ちゃんとその道を選んだ覚悟と認識を持ちたい。
そう考えた雨の降る夜であった。
昔好きだった映画の続編が出るたびに「ポリコレのプロパガンダになってるんだろうなぁ」と気分が落ち込む。
この作品はポリコレが魅力的で素晴らしいと思ってるんじゃない、ポリコレが正しいからねじ込んでるに過ぎないと感じる。
これで男だけが不利してるんだったらまぁしょうがないな、女性の時代なんだから引きこもってるわ、我慢するわってなってるんだけど、
どうも女も、自分の作った創作は取り下げられるは、グラビアは批判されるわで自由じゃないみたい。
いつも自分の知らないところで人民裁判が行われて、思想の検閲チェックを常になされてる、十分今の時代はディストピアなんじゃないかと思う。
ジョーカーや天気の子を見た時の解放感は何だったんだろう。pornhubを見ている時の、自由で救われてる感じは何なんだろう。
昔はくだらないと思っていた少年誌のパンチラが救いのように感じる。「正しくないもの」が自分の居場所になってしまっている。
ああ、俺も正しさというものを疑わず、その答え合わせで喜ぶような人間だったらよかったのになぁと思う。
バラエティー番組などでよく見かける、ゲストが何か話しかけたところに別の人間(大抵MC)が茶々を入れ、笑いに巻き込まれて話が有耶無耶になりそのまま番組が終了する、という流れ。
やめてほしい。
結局その人が何を言いたかったのかわからない場合がほとんどだし、たとえどうでもいいようなオチだったとしてもわからないまま終わるのはかなりモヤモヤする。
スレタイ誤字にばかり言及されて本題は無視されるようなアレもあまり好きじゃない。
あからさまなネタなら形式美ということはわかるのだがそれでもなんとなくいい気がしない。
おそらくだが周囲の無意識に存在がスルーされまくる陰キャな学生時代のトラウマが根底にあるような気がする。
話に茶々を入れるなとは言わないのでせめてアフターフォローがほしい。
一般はピエロの部分だけ見てフェミニストこえ〜やべ〜みたいになってしまってるから、あと功績もあるけどトンチキなこともたくさん言ってるから、本当にすごいところってごくごく少数しか知らない、みたいになってて本当に残念だと思う
https://blogos.com/article/415097/
「100言いたいことがあるのに1しかいえない。ならば100回出演すればいい」
なんというかすごい。
平成の時代、ある意味ピエロとしてのフェミストという像をテレビを作る側から求められ、それを知った上で自分の言葉が届くべきひとの所に届く事を思いテレビにでつづけた田嶋陽子。
平成の時代が終わり、無論今だに不十分ながらフェミニストの主張は耳を貸すに値すると一般的に思われ、法的社会的にはまだまだながらジェンダー平等が唱えられるようになった。もちろんそのすべてが田嶋陽子の功績だとは言わない
だが田嶋陽子の言葉に救われたという人は男女を問わず多数いるだろうし、どちらかといえばアカデミックもしくは専門的だったフェミニズムやジェンダー論に田嶋陽子を入り口にして尻、救われたという人も多いだろう。
ていうかネットで「田嶋陽子に私は救われた」という人を募ったらそれこそ万、下手すれば数十万レベルでいるんじゃないかな?
ピエロとしての役割しか割り振られていない差別的状況を、それをわかった上で犀の角の様にフェミスト的な言説を広めフェミニストとして振る舞った田嶋陽子は日本における偉大なフェミニストとして名を残すに値するんじゃないかな?
映画ジョーカーが絶賛されている。わたし個人には違和感が強すぎた映画だった。ジョーカーやトーマスウェインが「らしく」なさすぎるから。米国内でも絶賛されてるのは社会福祉がそこまで充実してないことによる同調とかだと思ってる。
日本国内では、ジョーカーやバットマンのイメージがほとんどないと言っていいと思う。公開前に「あのピエロの映画見に行かない?ジョーカーとかいうやつ」などと会話するカップルを見た。バックグラウンドの共有というのがあまりできていないから、違和感は感じなくて当然だとは思う。
日本の作品で例えるなら、キザさのかけらもない怪盗キッドを見てしまった感じ。挙句、僕ちゃんが泥棒するのはお金くれない金持ちが悪いのだ!なんて言い出す始末。そんな実写映画見たい人がいるとは思えない。
トーマスウェインの例で考えるなら、実写化ドラえもんスネ夫視点で、出木杉君が差別的発言をしてクラスがスネ夫派と出木杉派に分かれた、みたいなストーリー。違和感すごくない??
ただ、この映画自体にはそもそもわからないようになっている部分が多い。ジョーカー(?)であるアーサーの妄想が混ざっていて、虚実混ざり合っているから。いちばん最後に急に場面が変わって、面白いジョークを思いついた、という辺りでそれまで見ていたものが全てジョーク(もしくは計画)である可能性が提示される。なら、アーサーは何者なんだ?
アーサーがジョーカーではないけれど、なんらかの計略を巡らして、バットマンを誕生させ結果的にジョーカーを生み出すような存在になる、という可能性もある。もしくはジョークかもしれない。でも、そんなことを思いつくのはとてもジョーカーらしい。
反対に、ジョーカーだ、と考えるとあまりにもジョーカーらしくなさすぎる。
話題になってるJOKER、予告だけ観た状態で1回目観て色々圧倒され、いろんな方々の評論を読んだあとにもう1回観て気づいたとこを備忘録がてらメモ。核心に触れるネタバレ多数なので未見の方はこの先非推奨です。
ネタバレ注意 あとDCシリーズとかわからないので映画単体で完結しているとして感想を書きました。
各種感想を見て「ジョーカーは自分を追い詰めた“社会”に復讐する物語である。」のような意見を散見したが、ジョーカーは自分に危害を加えた“個人”に復讐したのであって“社会”には復讐していないと思う。根拠としては
①コメディーショーでピエロのメイクには政治的な意図はないと明言している点、
②リンチしてきたサラリーマン3人、過去に虐待をしていた母親、拳銃を渡すことで破滅に追い込んだ同僚、テレビで自分を笑い者にした司会者といった、あくまで自分に危害を加えた人物しか殺害していない点 の二つが挙げられる。
①を補足すると、ジョーカーには社会現象を起こすつもりは毛頭無く、あくまでも“ジョーカー“を求めたのは世論であると言える。
②を補足すると、ジョーカーはテレビショーで無差別に発砲なんてしていないし、小人病の同僚も警察官も殺していないし、ウォレス(父親疑惑があった人)には殴られたのにも関わらずやり返さず、話を信じて病院に調査に行っている。理性を保って殺す相手をきちんと選んでいるように見えた。この視点から見ると、アメリカでよくある銃乱射犯や、歩行者天国に突っ込んだ犯人とは一線を画して描写されているように思える。(まあ無差別殺人を教唆するような脚本には出来なかったのだろう。橘玲氏の論説によればシングルマザーの家に押し入った後2人を殺している説があるらしいが、そこまで言っていたら何でも言えてしまうのでスルー)
総括すると、ジョーカーは個人的な復讐をセンセーショナルに遂げただけで、それを本人の意思とは無関係に(スクリーンの内でも外でも)周りが社会問題に結び付け、祭り上げているのだと考える。虚構のジョーカーを創り出すのは私たち一人一人なのだ。
②劇中の自身の悲惨な出来事さえ嘘か本当か分からない、おちょくりながら人を絶望に叩き落とす引っ張られてしまうようなカリスマ性が存分に表現されていた
③降りかかる悲惨な出来事の連続がアーサーをジョーカーにした。今の厳しい世界では誰もがジョーカーになる可能性があり、それに煽動されて人々が破壊的になる可能性について見せつけられて空恐ろしくなった。
④孤独をこじらせ自身の障害の為社会に溶け込むこともできなかった為誰からも相手にされないピエロとして暴走、結果自身でも予期していない悪のカリスマとなってしまった徹頭徹尾空虚な人生と世界を嗤う薄ら寒さ
あとは何があるかな。自分は①とか④が面白かったんだけど、結構これを③とかの視点で「今の社会を皮肉っている」とか「資本主義の暗部と身体的環境的経済的etc.の格差からくる破壊衝動」とか言っている人がSNSで散見されてビックリした。
障害がある、家庭に問題がある、経済的にも恵まれない、皆に馬鹿にされる、どれも大変なハンディキャップだと思う。
でもなんというか、この映画を見て「今の社会を問題視する」というのがあまりにも今更すぎる感が否めない。
皆こんな当たり前のことを今知ったように騒ぎ立てているけど、こういう感情を持ったり環境の一部でも似たようなことを体験した人はいないのだろうか。
多かれ少なかれ誰もが仮面を被って歯を食いしばって生きてるのに、これが狂気の解放!!!資本主義社会の歪みが生み出した格差社会の狂気の産物!!!とか言われても浅くね?とか思っちゃう。
もしくは増田諸氏並びに上記のような論評をしている人達は社会の汚れを全く知らないきれいな世界で生きてきたのだろうか。それはそれでなんというか羨ましい話ですな。