はてなキーワード: こじつけとは
「学校パン給食推進協議会」設立、週2回のパン給食目指す「子供達により美味しいパンを」
https://www.ssnp.co.jp/news/rice/2018/10/2018-1022-1004-14.html
社会的な食育推進により学校給食ではパン食が激減しておりパン業者にとっては厳しい状況となっている。
それを受けてパン業者が集まり学校パン給食推進協議会を設立しパン食推進に向けて活動を始めたのだが。
主張がこじつけな印象が否めない。記事を何度読んでも謎である。
この学校パン給食推進協議会は「米飯2回、パン2回、麺1回」を目指しているという。【記事ではバランスの取れた給食と報じられている。】
現状の調査や対策は必要でも、あくまでも食育なのだから現状の実態に合わせるのは話が逆だと感じる。
伝統食振興の意味もあっての食育であり、米飯2回、パン2回では却ってバランスが悪いのではないか。
まして和食はユネスコに登録されているので同じレベルの話では無いと思う。
麺はともかくパンが多すぎる。
もしかして機械的に数だけを合わせたのかと思ったが、それだと麺が1回で良い理由が分からなくなる。
週一の主食が、一週目米、二週目パン、三週目麺と交代ならば、機械的に数だけを合わせたと言えるのだが。
ここは上記の項目に近くなるのだが。
政府による第3次食育推進基本計画では米飯給食や伝統食保護が触れられているが、その中でパン食を強調するのはやはり苦しいと感じる。
このため、「和食;日本人の伝統的な食文化」が、「自然の尊重」という日本人の精
神を体現した食に関する社会的慣習としてユネスコ無形文化遺産に登録(平成 25 年
12 月)されたことも踏まえ、食育活動を通じて、郷土料理、伝統食材、食事の作法等、
伝統的な食文化に関する国民の関心と理解を深めるなどにより伝統的な食文化の保
護・継承を推進する。
(伝統的な食文化、環境と調和した生産等への配意及び農山漁村の活性化と食料自給率の向上への貢献)
第七条 食育は、我が国の伝統のある優れた食文化、地域の特性を生かした食生活、環境と調和のとれた食料の生産とその消費等に配意し、我が国の食料の需要及び供給の状況についての国民の理解を深めるとともに、食料の生産者と消費者との交流等を図ることにより、農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう、推進されなければならない。
この辺りを読んでもご飯給食とパン給食の回数が同じというのは却ってバランスが悪いという懸念を抱かせる。パンが週に2回では多すぎるのである。
ここが解決できない限りは学校パン給食推進協議会の主張は通らないだろうし、通すべきではないだろうし、市民の賛成を得る事も厳しいのではないだろうか?実際市民がどうみるかはアンケートを取らないと厳密には分からないが。
しかし、あちこちのコミュニティでコメントを見ていると、市民のうち多数はご飯推進に賛成であり、パン激減を良しとしているように感じる。
仮に上記法律文が無かったとしても現状パンを増やす根拠にはならないのではないか。
まして和食はユネスコ文化遺産に登録されているので事情が違うのではないか。
国際化が進んだこともあり自国文化の振興は大事である。(繰り返しになるが)
学校パン給食推進協議会の主張に理屈が通っているとは考えにくく賛成しがたい。
これだけだと判断が出来ないのだが、戦後のパン食ばかり学校給食の状況を「あの時も食生活の実態から言えば献立が悪かったのは事実だが」と考えて【いない】のならば(これは仮定の話。このニュースだけで断定する事は出来ない)、ダブルスタンダードに感じる。
主張が矛盾していると感じる。
パン食の普及に大きな寄与というが、食育は食生活の実態を考慮すべきという話ではなかったのだろうか。
外部での食生活の実態にあっていないパン食殆どなし給食(現代)は悪くて、外部での食生活の実態にあっていなかったパン食ばかり給食(昔)は良いのか?給食が「パン食の普及にも大きな寄与をし」たというのは、当時のパン食給食が外部での食生活の実態に合っていなかったから影響力を持ったわけだ。
当時、家庭での食生活の実態に給食の方を合わせていたら(国内の食糧事情やアメリカの事などもあって、現実ではそうはいかなかったのだろうが)、給食でパンは出なかったはずだし、給食がパン食普及に大きな寄与なんて歴史は無かったはずである。
これが学校給食が学校外の食事に寄与という話ならば、「現在の和食中心給食も和食の振興に大きな寄与をするのでオーケー。学校給食でパンを増やす必要は一切無し」で良いはずである。しかしこの団体はそのようには主張していない。ここに矛盾を感じる。
結局食生活の実態論は建前であってパン業者の仕事が増えたら教育現場のことはどうでも良いの?、良い悪いの評価はパン業者だけの都合次第なのか?と思う。
学校パン給食推進協議会の方から「当時のパン給食も食育や食生活の実態の観点から言えば悪かったのは事実だ」というセリフは出ていないのだろうか?
当時パンばかりだったからという割合の話では無い、この団体が使用する生活の実態論で行けばそもそも当時はパンが給食で日常的に(例え週1回程度の割合であっても)出ていた事自体が【おかしかった】のではないだろうか?
それをパン食の普及にも大きな寄与と良い事のように言っているのには矛盾を感じるし、結果論としてはその部分に限定して良かったと評価できても、学校パンの歴史は時代の変遷とともに終わったと言って良いのではないだろうか。
こちらについてどのように思われるのだろうか。
肌感覚でパンが国民食として根付いていることを感じる、パンは日本人にとってなじみ深い食品になったと主張している。
確かに家庭のパンへの支出金は増えているのは事実。ならば何故そこまでしてパンを増やさなければいけないのかが不明だ。
単にパン会社救済という側面が強いのではないか。パン会社以外になにかメリットがあるのだろうか??
学校の教育現場の事よりもパン製造企業の金銭的事情を優先する事は出来ないと感じる。
私などはいじわるなので、どうせパン会社を救済するならば学校パン給食推進協議会に加盟していない方のパン会社を救済したくなる。行政、政府関係者じゃないから何もできないけど。
これはパン食の推進とは別の話であり、もちろん、パンだからとかご飯だからとかそういう話抜きにして、子どもたちにどうせ食べてもらうならば美味しいものが良いに決まっている。
学校パン給食推進協議会にとってここの優先順位がどうであれ、目的であれ手段であれ、良い面ではあると思う。
国産小麦で美味しいパンができるという事と、米粉パンという方法もあると、食料自給率の問題について触れられている。
これは良い部分である。
実際、会員企業が製造するパンはおいしいのだろうとは思うが、それはご飯勢も同じだし、大体それとこれは別問題。
記事を読めば読むほど、食育はどうあるべきかという立派な問いはここには無く、教育の食育現場 対 営利企業の営業活動という単純な図式にしか見えなくなってくる。ここに私は強い危機感を感じる。
団体としてはポジショントークをせざるを得ない問題もあるんだろう。そこも考慮すべきであり、単純に悪くだけ言うべき話でも無い。ただそのような仕方のない事情があるのも理解できるがやはりパン給食の回数を元に戻す(増やす)のは食育の後退にしかならず反対せざるを得ない。
https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000205592
回答
つまり、外国の食文化に触れる機会が大切だとは見なされていない、あくまで和食文化の継承のため一つの手法であるレベルの話。
ただしパンは国民食として根付いているという団体の主張だったので、実際にはこの団体に関わる議論としては関係してこない。あくまでも参考として紹介する。
外国の食文化に触れる機会が大切という論であれば、日本人の口にあったパンの数は減るが、学校給食パン業者に日本人が普段食べないような外国の本場の味を作る事が出来るのだろうか。
https://www.ssnp.co.jp/news/rice/2018/05/2018-0528-1821-14.html
、「自民党で食育の話になると、10人集まっても米一色になってしまう。『とにかくお米にしよう』と、それでは間違っている部分もある。キチンとした理屈で理解を求めていきたい」とした。
とにかくお米というのが具体的にどこがどう間違っているのか、キチンとした理屈というのが何なのかどの記事を読んでも分からない。
レントシーキング(英: rent seeking)とは、民間企業などが政府や官僚組織へ働きかけを行い、法制度や政治政策の変更を行うことで、自らに都合よく規制を設定したり、または都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤(レント)を得るための活動を指す[1][要ページ番号]。またこれらの活動を行う人をレントシーカーやロビイストなどと呼ぶ。
民間企業などが政府へ働きかけて自らに都合よく・・・というところはこの件では当てはまっている可能性が高いと思う。
ところが超過利潤ではないな?その面では当てはまっていない。
社会的な利益に結び付いていない点については、その通りの可能性が高いと思う。
高評価点も探しながら、バランスを欠いた視点にならないように学校パン給食推進協議会について書きたかったし、そう書いていたつもりだったが、
ここまで否定的な記事になるとは自分でも思っていなかった。この団体の発言を見る程、パン給食に否定的な想いが強くなっていった。
パン企業の営業活動以外にパン給食のメリットがどこにあるのか、そこをこの団体がはっきりさせてくれないと、高評価するのは難しい。
まず企業活動があってこその学校給食なのではなく、教育現場で学校給食が必要だからこその企業への発注である。企業優先という前例になってしまっては困る。
とにかく、米飯給食を守ったうえで、パン業者の仕事も守る、win-win的なアイデアが登場する事を願っている。
なんか、出てくる女性みんな「母と娘」に拘ってて笑える。
憎い男の子供でも「子供に罪はないから〜」? 本人が言うならまだしも、他人にそれを諭されるの気持ち悪すぎでしょ。中絶は悪ですかそうですか。
水浴びする女たち。ガヤガヤと喧しい女たち。結局美少女か老婆しか出てこないし。テンプレ女性表象のオンパレードで胸焼けしてきた。
いやアクションは良かったけどね! 素直に「アクションが良かった〜」って褒めればいいのに。
言いたいことはわかるよ? 「男が支配する男社会の中で、物扱いされてきた女たちが反旗を翻す」話だもんね。でも正直、「ほーん、で?」としか思えない。こんなんでも無理やり「フェミニズム映画です」ってこじつけられるなら、異種族レビュアーズでも「フェミニズムアニメです」ってこじつけられそう。(適当)
ツイフェミが褒めてる作品ってこんなんばっか。今度こそ、って期待したんだけどなぁ。
あと、「怒りのデスロード」って副題にケチつけてる人もいたような気がするけど、「fury road」の和訳として妥当も妥当じゃんと思った。
最近色々読んでてふと思い出したから懺悔したいの聞いてアロエリーナ。
小学生低学年の時よく喧嘩でクラスメイトのキンタマ蹴り上げてたの。足首掴んで逆さ吊りにして連続蹴りとかもしてたの。だいぶ経ってから性教育の授業でキンタマが大変デリケートで大切な場所だと知って後悔したわアロエリーナ。
だって漫画でもテレビでもお約束のギャグとして描かれてたのよアロエリーナ、相手がギャーギャー言ってるのもウケ狙いだと思ってたのよアロエリーナ、当時周りのクラスメイトもみんな爆笑してたのよアロエリーナ。
ガチの苦痛を味あわせてたなんて、とっても後悔したわ。謝りたかったけど高学年になってもう疎遠になってるし、思春期始まってる男子に「昔キンタマ蹴り上げてごめん」って言うとかお互い気まずいし、とか色々理由こじつけて謝りもせずにのうのうと暮らしてきた屑人間な〜の〜。聞いてくれてありがとアロエリーナ。
その節は大変申し訳ありませんでした。
たとえば漢字の筆順なんてものはどうでもいい。歴史的に「正しい筆順」なんてものは存在せず、明治以降に文部省が便宜的に決めたものに過ぎないことは、調べればすぐに分かる。
ところがどういうわけか、世の中には「漢字の筆順が重要である」と強弁したがる人たちが一定数いる。彼らはあれこれ理由をこじつけて、客観的な事実を否定しようと試みる。
そりゃあまあ、たとえば自分の親戚が変な宗教に入ってるとか、性犯罪者であるとかで、それを隠さないと普通の社会生活を送りにくいとかなら、事実を捻じ曲げたがるのも分かる。他にもたとえば、普段疑似科学なんか全く信じない人でも、いざ自分が癌とかになったら代替医療に縋る可能性もあるかも知れない。けど、漢字の筆順なんてほとんどの人類にとっては、それに意味があろうがなかろうが、人生に何の影響もない。
そういうものに頑なに拘る人というのは、一体何を考えているのだろうか。
不破さんカッコイー! おわり
🗣️✨✨✨✨✨✨✨✨終わるなビーム✨✨✨✨✨✨
ゆうて話すのは不破さんヨイショぐれーなんですが。
不破さんの何が格好いいって設定ですよね。
偽りの記憶に振り回され怒りのままにヒューマギアを滅ぼそうとした初期のダークヒーローぶり。
自分の在り方に疑問を持ちながらも正義のために暴れ続けた中期。
カラクリが明かされた後に自分の怒りの空虚さに失望しながらも目の前の悪を見過ごさない正義の心で戦い続けた終盤。
そしてその思いにより敵サイドのヒューマギアの心を開いて味方につけ、ボロボロの状態で合体変身して産まれるオルトロスバルカン。
作品の裏テーマである「人と機会の確執」「破壊者としてのヒーロー」「テクノロジーの恐ろしさ」「思いはテクノロジーを超えるのか」をガッツリ背負った上で、表のテーマである「人と機会の共存」「残された希望としてのヒーロー」「テクノロジーに心は宿るか」まで網羅してしまってますからね。
最終話直前に敗北してラストバトル参加してませんが、いっそこれを龍騎みたいなもんと解釈すれば本当の主人公とすら言えるでしょう。
なにより強いのは、相容れぬ存在に思われた滅亡迅雷を説得して共同変身を果たしたことですね。
最終話直前に変身アイテムの投げ渡しという最高の展開をやってますからね。
変身アイテム渡すのって信頼の証なんですよ。
たとえば仮面ライダーオーズ/OOOなんてまさにそれですし、仮面ライダー剣の「俺を信じろ」でワイルドカリスになるのだってこれです。
「敵としてではなく手を取り合うパートナーとしてともに生きること」を仮面ライダーで表現する方法としての最適解ですね。
アルトも「人と機械が共に戦う」というテーマでゼロツーを作ってますし、そもそもシャイニングホッパーからしてライダーの正義を信じるヒューマギアとの合作です。
が、アルトの場合は飛電の社長という立場から全てが始まってるんですよね。
人と共存するという命令にまだ疑問を持っていないヒューマギアが命令通りに協力してる姿なんですよ。
でもバルカンの場合は、人と敵対する道も存在するのを知ったヒューマギアと改めて共闘するんです。
「自由意志に目覚めたヒューマギアは果たして人の敵なのか味方なのか?」という問に対して、「人の敵となったヒューマギア、ヒューマギアの敵となった人、それらに対して共に立ち向かえる仲間にだってなりうる」という回答を示してくれたのが、オルトロスバルカンなんです。
最高すぎません?
これの何が凄いって、人がヒューマギアを救うために、ヒューマギアが人を救うために戦うことなんですよ。
なにこれ、ゼロワンの正解でちゃった。
ゼロワンって作品のストーリーが色々しっちゃかめっちゃっかで、肯定的にも否定的にも好き放題独自解釈できるのは私も認めます。
だからこの考えが単なるこじつけって言われてもいいように、今のうちにそうだねと白状します。
でもね、でもね。
私の中ではオルトロスバルカンは、マジで超カッケー令和ライダーの最高傑作なんすよ。
そしてそれに変身する不破さんの物語、それを取り巻く悪意に満ちていた人間関係が、人の悪意とそこから産まれたテクノロジーに対して正義感を燃やし力づくで道をこじ開けていくヒーローって最高に仮面ライダーな代物になってると解釈します。
力づくでこじ開けた道の先で、昨日の敵が今日の友になるんですよ?
成長、しちゃうんですよ?
前も言ったけど、批判派は結局「性的で猥褻だから問題がある」と言いたいのか、「女性を性的に客体化する表象に問題がある」と言いたいのかはっきりして欲しいんだよな。
ゾーニングで解決するのは前者の問題であって、後者だと主張したいなら「ゾーニングしようがしまいが、そのような表象がこの世に存在すること自体が問題」だとはっきり言いなさいよ。まあそんなこと言ったら支持を失うだろうけど。(セクシャルマイノリティの議論でいくらでも反論可能だし。)
「どうにか少しでも規制する方向に持っていきたい」という願望がまず先にあって、そのために理屈をこじつけてるとしか思えないんだよな。
Vtuberは2年ほど前からほぼ毎日欠かさず、さまざまな配信を見続けている。
最近「Vtuberはキャバクラ」言説が賛否両論、物議を醸しているが、
個人的にはこの説はしっくりこない。
というのも自分はキャバクラに数軒行ったことあるが、特に楽しみを見いだせなかったからだ。
なぜか。
それは、キャバクラは双方向コミュニケーションを楽しむ場だからである。
会話する以上当たり前だが、あちらが話したらこちらが返す必要がある。
コミュニケーションを楽しむには、自分も返答を工夫して場を盛り上げていくことが大事なのだ。
「気遣いしなければならない」場所のように感じられ、居心地の悪さを感じたのだった。
ただ「キャバクラの人気嬢は聞き上手」ともよく聞く。
この場合は、ほぼ一方的なコミュニケーションである。客主体の。
嬢がテクニックを駆使して、客が楽しく話を続けられるような環境を提供し、対価を得るというわけだ。
まとめると一般にキャバクラの楽しさとは、双方向ないし客主体のコミュニケーションと思われる。
一方でVtuber。
高額スパチャは置いといて、基本的には視聴者(=客)は与えられたコンテンツを楽しむ受け手である。
演者が話す内容、歌、ゲームのプレイング、会話のプロレスを見て、ゲラゲラにへらにへらと笑って楽しむわけである。
つまりこの構図は、先の話でいえば演者主体の一方的なコミュニケーションになるのではないか。
コメントからミームは生まれ、スパチャ読みから思わぬ話題に広がることは珍しくない。
しかしそれでも、自分の思うVtuberの楽しみ方はあくまで受け手として楽しむことである。
リスナーは演者ではない。出過ぎるリスナーは敬遠される。配信者の作る空気を壊すものとして。
思うにこのコミュニケーションのあり方はまんま、テレビ文化である。
テレビだって視聴者がコンテンツの一部になる機会は決して珍しくない。つまり必ずしも一方的ではない。
そしてVtuberの主たる楽しみ方は演者どうしの関係性を楽しむことである。
これも芸能人の共演と相似関係にある。どちらもプロレスもあればてぇてぇもあるし、ガチ不仲共演NGもある。
これほど明らかにVtuber文化はテレビ視聴文化と構造を同じくしているにもかかわらず、
その文化の一部分、「高額スパチャ」だけのイメージに引っ張られ
あげくキャバクラと紐づけて論じられるのは、こじつけのようでかなり異常である。
中にはもちろん悪い意味でのキャバクラ的な楽しみ方をしている人もいるだろう。
金を積み、サービスをほしいままにし、自己顕示欲を満たすことに余念がない。
こういう自尊心の高い高慢なリスナーは冷遇されるし、何よりこんな空気感の界隈なら自分はとっくにサヨナラしている。
大半は普通で凡庸、可もなく不可もなく、銭投げたり投げなかったりの温度で生きているのである。別にVtuber界隈に限らない。
Vtuberを見ない人は、Vtuberに何を見出しているのだろう。
何の価値もないものに時間と無駄金を費やしている馬鹿どもが。とでも思っているのだろうか。
そのような無価値どころか有害な偏見に少しでも自覚があるなら、クリック数回で試しに見てみればいい。
「コンテンツがつまらない」のではなく、「あなたには楽しみ方がわからなかった」だけでしかないのだから。
面白さがわかるようになったなら、「絵畜生に何を興じている」と後ろ指を指されても全く問題ない。
なんたって、これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ。
テレワークの話題が盛り上がっているから自分も便乗するよ。テレワーク肯定派が多いけど、俺は嫌いだ。
4月からテレワークが始まって、そろそろ5ヶ月になる。基本的に週1だけ出社して、週4で家でお仕事。
気が散る、同僚と会話ができないというよく聞く理由ももちろんあるけど、最大のポイントはテレワーク用の環境が用意できないことに尽きる。
部屋ではパソコンがコタツ机の上に置かれているので、初めはそのモニターに会社パソコンを繋いでコタツ机でやろうとしたよ。
でもあぐらで何時間も座ってパソコンを使うのはまず無理。背中も痛いし腰も痛い。寝転んでうつぶせでやろうとしたけど、それも30分くらいできつくなる。
部屋で物置と化してるコイズミの学習机を整理して、そこでやることにしたけども、ものすごく当たり前の話だけど、小学生の学習机の椅子を大人が座るのは相当無理がある。
あまりにもしんどかったから、アイリスオーヤマの6000円くらいするオフィスチェアを買って、何とかマシになった。
でもオフィスチェアはあくまでも固い床の上で使うものだ。畳の上にじゅうたんが引いてある自分の部屋では座るオフィスチェアは、あまり座り心地が良いとは思えない。
それに小学生用の学習机なので、会社の机と比較すると小さい。外部モニターを何とかおけるけど、なんとか……という感じ。そして、コタツ机から学習机の上にモニターを映したもんだから、家のパソコンを使う時も、学習机に座らざるをえなくなって、家のパソコンを使う習慣がすっかりなくなってしまったな。
小さい机に座り心地のよくない椅子……この時点でテンションがダダ下がり。え、大きい机に買い替えろって?そんな机どこに置けるんだい?それに今の学習机はどうする。男手一人で大型ゴミに出すのは無理だろ。
小学生の学習机でピンときているだろうけど、今は実家暮らしでいわゆる子供部屋おじさんだ。
実家なので、当然親がいるんだけど、年老いて耳が少し遠くなっているから、必然的に音量が上がり、テレビがむちゃくちゃうるさい。気が散る。自分の部屋の隣に親の部屋があり、壁が薄いので、仕事時間中ずーーーーーーーっと、テレビの音が聞こえっぱなし。毎日毎日相棒やら、有名人の苦労話を見事な手法で青汁の話にこじつけるアサヒ緑健の番組を聞かされる。
たまに家で仕事をするなら、今日は仕事をするから静かにしてとお願いはできるだろうけど、毎日テレワークだとそういうわけにはいかん。テレビはコロナ渦で家に引きこもる親の唯一の娯楽なんだよ。
一人暮らしを始めて、テレワーク用の環境を整えればすべて解決する問題なのはわかっている。でもそのためだけに毎月、何万も支払って一人暮らしをするか?仕事のために毎月何万も自腹を切れる?
当たり前だが答えはNOに決まってる。なんでそんな金を使わなきゃならん。
そもそも家は仕事をする場所じゃないんだよ。そして会社は仕事をするのに特化した場所なんだよ。
広い机に使いやすく配置したモニター、長時間座ることに耐えられる椅子に、空調完備、眠気覚ましにすぐ冷たい缶コーヒーが飲める自販機、まさにオフィスは仕事をしやすいように設計されているんだから、会社で仕事するほうが楽に決まっている。
小学生の子供がいる増田・ブクマカもいるだろ、その中に読書感想文が苦手だった奴いるだろ。8月も終わりに近づいてきて、そろそろ「かーさんとーさん、読書感想文ってどうやって書いたら良いの」が来る頃だろ。安心しろ、読書感想文でナントカ賞をいくつも貰った私が書き方を伝授してやる。これは私に娘息子が生まれたら伝授する一子相伝の技にしたかったんだが、そんな予定は一切なく、今後一生ないだろうという見通しになってしまったので全国公開だ。滅びよ人類。
そもそも、コロナ禍で3月4月休みだったけど夏休みはちゃんとあるのか?読書感想文の課題って今でもあるのか?しらねえ、書きたくなったから書くんだ。書かせろ。
なんでもいい。薄ければ薄いほどいい。読みやすいからな。課題図書じゃないと駄目っていう狭量な小学校なら課題図書でいい。私くらいになると増田でも書ける。あとで実践編やるので期待せず待て。
読書感想文の「読書」は前項で満たした。次は「感想」だ。感想に正解はあるのか?そんなものはない。感想とは誰のものか?筆者のものだ。筆者が絶対王政の、何やっても良い文章が感想だ。つまり、筆者が書いたことこそが唯一の正解だと心得ることだ。読書感想文の中ではな。
読書感想文苦手パーソンは、結構な割合で読書感想文の主役を「本」にしがちだ。だからあらすじを書きたくなるし、この本が伝えたいことは何か、みたいな答えを探し出す。それをやるのは感想文じゃなくて紹介文。読書感想文の主役は筆者。あらすじも引用も正しい読解も不要だ。堂々と誤読、曲解、勘違い、拡大解釈、被害妄想を自信満々に書いていけ。しかし、文章を書く訓練を積んでない人が「書きたいこと書け」って言われたって難しいことくらいはわかる。読書感想文こそが文章を書く訓練だからな。必要なのは具体的な方法論だ。
自分語りって嫌われがち?それは公園の砂場でしょんべんしたら嫌われるのと同義。しょんべんはトイレで。読書感想文はトイレだ。本を適当に開いて、気になった一文について文句つけたり褒めたりしよう。正しさは不要だ。そこに自分の体験をくっつければ、あっというまに400字は書ける。1ページ埋まったな?
自分語りに繋がるが、好きなものの話というのはリアリティがあって、本人にしか書けない素晴らしいお気持ちが書ける。好きなものと本との共通点をこじつけろ。400字は書けるな?
好きなもの同様、嫌いなものへの悪口もスラスラ出てくるものだ。嫌いなものの悪口言っても怒られないのが読書感想文という場だ。好きなだけこじつけて、比較して、罵倒しよう。適当な一文をあげつらって、怒って、作者は性格が悪いと決めつけよう。400字以上余裕だな?
何でも良い。その学年の児童・生徒が興味を持ちそうな、センセーショナルではない、できれば同じ議論が繰り返されてるような社会問題にこじつけよう。環境問題とか、食料廃棄問題とか、いじめ問題とか。本の感想として自分の体験を書いて、それを社会問題まで広げる。国語の先生の花丸と、ナントカ賞のニオイがしてきたな?
以上が方法論。賞が不要で、とにかく終わらせたいなら、社会問題にこじつける必要はない。自分語りだけでOK。さて、実践編だ。
実際に増田をピックアップして書いてみるぞ。まあ今のタイミングならこれだろ。
タイトル:嫌なら嫌とそう言おうぜ
自分はひねくれ者だ。いや、ひねくれ者でありたいと思っているだけの、単純な奴かもしれない。なぜそんなことを思ったかというと、兄から「お前は単純だな」と、何度もだまされてバカにされたからだ※。だから、単純であることは人として劣っていて、ひねくれているずる賢い奴のほうが優れている、という思い込みがあるのかもしれない。だから、自分はひねくれ者だ、なんてことを考えている。
今回読んだ本は「夫を松潤扱いしてみた」だ。松潤、松本潤といえば、アイドルグループの嵐のメンバーであり、とてもカッコいい人だ。夫を松潤扱いするということは、つまりは夫を騙して調子に乗せて、あとからハシゴを外してバカにする、自分がよく兄にやられていることを、自らが選んだ夫にするのか、なんて性格の悪いやつだと怒りを覚えた※。他人を騙してバカにして、何が楽しいのか!いじめと同じ構造じゃないか!と怒りつつも、自分もTBSの「モニタリング」という番組が好きなことを思い出した※。あれも、突然〇〇したら、人はどうするの?という、騙して反応を楽しむという構造だ。いじめと何が違うのか?そしてそれを笑って見ていられるのに、自分にふりかかったら怒ってしまう自分は薄情で性格の悪い人間なのか?そんなはずはない、あの性格の腐った兄よりも、自分はずっとマシなはずだ。兄とモニタリングは違うはずだ。
そんなことを考えて、頑張って違いを見つけた。「騙された側の反応」だ。兄はただ自分を不快にして、兄だけ笑って終わる。モニタリングは、騙された側も笑顔で、騙した側も笑顔だ。騙された側も嫌じゃないのだ。騙された側もハッピーに終わるなら良いことだ。騙された側が「嫌だ!辞めろ!」と言えば辞めるのがモニタリングだろう、ただ人に嫌がらせがしたい兄とは大違いだ。相手が嫌な気持ちになったら辞める、謝る、というのが、いじめ大好きな兄と普通の人の違いだろう。
実際に、この本も「夫」は楽しく騙されて、そして良い結果になっている。作者も、悪意が合って騙しにいっているのではなく、うまく調子にのせて良い結果を生み出している。そうだ、この「夫」は単純なのだ。そして単純で素直だからこそ、いい結果が生まれている。やはり単純であることは悪いことじゃない。悪意のあるひねくれ者の兄こそいじめっ子で、悪い奴なのだ。
しかし、自分も友達に対して「嫌だ」と思われていることをしてしまっているのかもしれない、という思いが出てきた※。いじりやからかいの名目で、いじめと変わらないことをしてしまっているのかも、と不安になってきた※。そこで、自分にルールを決めようと思う。「『嫌だ』と言われたら善意であっても辞めてきちんと謝る」だ。きっと、この本の作者も、「夫」が辞めてと言ったら素直に松潤扱いを辞めているだろう。嫌がらせのつもりはなく、悪意がないからだ。そして、自分も嫌だったらきっぱりと「嫌だ」と言うようにしよう。
米津玄師のLOSERという私が大好きな曲がある※1。とてもカッコいい曲で、タイトルは「敗者」なのに、全く負けている感じがない。歌詞はひねくれ者の歌詞でも、ひねくれてちゃ何も始まらないぜ、負け犬だっていい、遠吠えだっていいから、それこそ単純に「愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね」と歌っている。自分の好きな曲も、ひねくれ者でもいいから、思ったことを単純に言って伝える、そんな単純さを肯定している。やっぱりひねくれ者に憧れるのは辞めだ、単純に生きていこう。嫌なら嫌とそう言おう、悪意がない相手なら伝わってくれるはずだ。
今後、自分は「嫌だ」「愛されたい」をはっきりと言っていこうと思う。そして願わくば、この本の夫婦のように、信頼しあい、愛し愛されて幸せに生きていけるようなパートナーに恵まれますように※1。この祈りに、「恵まれますように、なんて受け身じゃ始まらないね」なんて混ぜっ返す、心の中の兄が顔を出してきた。兄は居なくても他人に嫌がらせをする。兄よ、愛されたいならそう言おうぜ。
※1 本当
原稿用紙5枚分である。書くのに1時間くらい。便宜上元増田のことを本と呼んでいる。賞がほしければ、ここから架空の兄への恨み節みたいなものを削って、もっと「いじめ」問題へフォーカスしていけばいい。今回は架空の兄への恨み節をメインに据えているが、やりたければ好きな曲とかゲームの話でも良いから、書けるものの話を延々すればいいし、ちゃんと本を読んだなら本の内容をメインにしてもいい。これ全部読んだ人はわかると思うが、私は元増田はそこまで読み込んでない。好き勝手自分のことを話しているだけだ。あらすじなんて微塵も引用してないし、正しいテーマなんて探していない。読書感想文なんて、本は添え物だ、好きなものと嫌いなものを書け。賞が欲しかったら社会問題をトッピングだ。簡単だろ、簡単に書くんだよ。難しく考えるな。
テレビでRKBやNHKで眠育だとか眠学だとか言うのをやり始めたけど、内容的にゲームやスマホを槍玉にあげている時点で、どう考えても香川で強硬したゲーム障害が世間的にも大非難を受けた上にその権威の後ろ盾であったWHOもPlayApartTogetherキャンペーンを行い、事実上の掌返しを起こり、座礁したから、大方地方はまたこれを利用して規制推進しようとしているのが見え見えだよね。
しかもこの眠育とやらは相も変わらずゲームやネットを槍玉にあげたりして、子供の睡眠時間が削られているだのと言っているし、それは何時もの事だとしても不登校だとか言いながら、例のコロナ禍の休校と普段の登校時間を比べて遅くなっているとか言い出している時点で、不登校と休校の区別がこれを言い出しいる当人達こそついていない点等があり、そこそこ突っ込み所も多かったりするのよね。
(最もそのコロナ禍の休校もポーズであった事は今や当時より全国的に増え学校でも出始めたにも関わらず、登校させている時点でも良く判るけど。)
それと普通にこの辺の睡眠時間の問題は当人と親の教育の問題であって、外野がどうこう言う問題ではないでしょ。
しかしこの手の人達はこう言うあくどい理由のこじつけだけは次々と思いつくし、平然と子供を規制の理由のダシにいつも悪用するよねと思う。
更にコロナ禍すらも自身の思惑の為に悪用しようとしているのだから、呆れ果てるよね。
この様な人達にしろ、フェミニストにしろ、宗教右翼にしろ、普段から声だけが大きくて、何でも規制や厳罰化をしたがる人達ほどこの様な時期ですら空気を読まないし、その世界規模の病禍すらも単に自身の思想に悪用するための材料程度にしか思っていないのはこう言う事を見ても良く判るしね。
しかしまぁ、国政は国政で本来やるべきはずのコロナ禍対策や経済対策を蔑ろにして、またはケチ臭い対応をしているのに少年法改正とか言って、それこそ未成年を罪人扱いするのに熱心だし、マスコミや地方の方々はこの様な事に熱心なのだから呆れるしかないよね。
まず対処すべきであるコロナと言う一番の問題を棚に上げて、これ等のコロナ禍に関係ない事ばかり熱心なのだから。
https://news.goo.ne.jp/article/jmedj/nation/jmedj-20200805101859184.html
その眠育とやらに関連するのかは知らんけど、調べていたらこんな記事を見つけたので、読んでみたら、相も変わらず、ゲーム障害の時と同じ様に薬物療法とか言っている時点であっ…(察し)となった。
第1条と第14条が思いっきり矛盾しているような欠陥憲法はどんどん改正したほうがいい。重大なバグがあるOSをアップデートしないまま使っているのと同じだ、現状は。
それはおかしい。なぜなら天皇制を擁護する側は、第14条の「国民」に皇族は含めないという無茶なこじつけで天皇制を正当化しているのだから。
国民側なら「生まれつき自動的に高級生活保護」という変な立場から解放されるべきである。
女性皇族は民間人と結婚した後も護衛を受けるが、その費用を税金から出しているのも合理的に説明できない。
「天皇陛下は我々国民側に立っていて」というのが事実だと仮定すると、皇宮警察の存在も警察公共の原則に反することになり認められない。
皇族はオックスフォード大学など外国の名門大学に留学しているが、その費用一切合財も国民の負担である。
一方で、国民は高額の貸与制奨学金の返済に苦しみ、ワーキングプアに転落する者が多く自殺者まで出ている。どこから見ても皇族は「国民の側」ではない。
さらに言えば、皇族が外国の名門大学に入学しているのも一般枠の入試ではない。つまり個人の努力や実力で合格した結果ではなく、いわば裏口入学である。
何重にも不公平であり、このような特権階級の存在は社会のフェアネスを損ねる。はっきり言えば差別である。
にもかかわらず、私人の立場のいいところと公人の立場のいいところをつまみ食いしているのが皇室の現状である。
だから、アップデートすればいいんだよ。欠陥だらけの古いOSは。
誰も困らない増税はない。
世界的流れだから正しいとは限らない。仮に世界的流れだから正しいとしても、法人税を引き上げた国は6ヶ国あり、ドイツもその一つである。
議員報酬と国民の収入との格差を示す数値を見るに、日本は5.25、アメリカが2.92、韓国が3.51。これはどう見ても多すぎる。
したがってそれを正常な水準まで引き下げるのは問題ない。
仮に歳費ゼロにしたら「金持ちしか議員にならなくなる」のは事実だろう。しかし私は何も歳費ゼロにしろと言っているわけではない。
単に検査についてさかのぼり調査を多くして、無症状、軽症で療養隔離に入っているからの可能性がある。早期に療養に入るから重症化しない。
とすると「検査を網羅的にして早期隔離療養」こそが社会としての解となる。感染拡大防止という側面のみならず、重症化防止という面でも。その局面は狙ってもいない。
無論様々な可能性がある。弱毒化が原因だとするなら、弱毒化する仕組みを確かめて対策しないとならないし、弱得化を前提に手を緩めると再び重症化患者が生まれる。
ちょっと前はロックダウンなしでも感染が抑えられる手段があるはずだ!とか言ってたじゃない。K値なるものがあってすでに収束し始めているとか言われてたじゃない。
けど、そんな手段はなくて感染は着実に進んでいる。K値は収束を示すものでもなんでもなかった。たまたまいま重症が少ないかもしれないが、きちんと調査して結果が出無い限りは楽観的構想は持たないほうが良い。