はてなキーワード: 革新とは
もともとはフランス革命で強者よりの議員が右側、弱者寄りの議員が左側に座っていた時代の名残。
世界恐慌の後は、自由放任経済はバブルとそのあとの崩壊による大不況を生むため、自由放任経済ではよくないといわれた。
じゃあどういう枠組みが良いのか?との命題の元政府が金の動きを調整するのが良いというケインズ社会主義と、バブルは過剰投資が原因だから計画経済が良いというマルクス社会主義が生まれた。世界は二つに分かれた。
そこにもともとの強者より弱者よりの右左があてはめられて、ケインズ社会主義=右、マルクス社会主義=左となった。自由放任経済からの修正具合でケインズ社会主義=保守、マルクス社会主義=革新ともなった。
結果的にはケインズ社会主義が勝ったのだが、オイルショックでケチがついて、かつての自由放任経済を少し修正した新自由主義が再興した。これはケインズ社会主義よりさらに強者よりで、右左で言えば右。
だがケインズ社会主義を新自由主義がのっとったため「経済右派」が新自由主義を指すのかケインズ社会主義を指すのか、さらにケインズ社会主義は右派になるのか左派になるのか、もう完全に混乱している。
並べ直すとすると左から順番に
マルクス社会主義、ケインズ社会主義、自由放任経済(新自由主義)
となる。
当方30歳、2008年に専門学校入学を機に単身、大阪に住んでかれこれ12年。
選挙権を得てから懇々と維新に入れ続けた経緯を振り返ってみようと思う。
一番印象深いのは2011年の市長選と府長選でここで自民や民主が立てた平松さんを破る事になるんだけどもそこに至るまでが重要で2011年って
自民の麻生政権が政治不信で倒れたと思えば、民主があまりにもパッパラパーな動きをして、今よりも政治不信が凄かった時期だったのね。
そういう意味では時流が良かったのかも知れない。ただ、やっぱりそれだけの理由やどっかの的外れ記事で書かれたメディアの力だけで橋本さんを選ぶようなアホな府民でもない。
元から知名度があった、というのはあったかも知れないけど茶髪だったり、正直とてもいい印象があったかと言われればNOだった。
けどまぁ、時を同じくして芸人のそのまんま東が県知事やってたからまぁ大阪への思いが本物やったら信頼できるんちゃうかと、耳を傾ける態勢自体にはなってたと思う。
で、橋本さんは今のご時世には珍しい割りと明瞭に意見を言う人で、素人にわかりやすく説明する事にたけていたと思う。
やしきたかじんがうんたらってのはぶっちゃけ誰も気にしてなくて、この人は何を目的にして、何を変えたいのか、そのためにはどうしたらいいのかの3点が凄くしっかりしていたし、それに反論する人達にも
1つ1つ返り討ちにしていた印象がとても強い(当時20前半だけどSNS含めて記者を返り討ちにしたり討論でボコボコにしてた印象が強い)。
これが正しいのか悪いのか結局、二重行政解消が今でもなされてない府民としては今でも測りかねる所もあったけど、求めていたのはフラフラと意見を変えるような甘っちょろい
政治家じゃなくて軸足がしっかりと意見を貫ける政治家だったと思う。そういう意味では今の吉村知事に維新の性質が見えてると思う。
これは後でも後述するし、ある意味維新が衰退する原因にもなるんだけど目的の二重行政解消ってのが府民が維新に入れる地合いになっていったと思ってる。
ビビるぐらい借金があって弁天町のオーク周辺とかまぁ見渡せば、なんやこれ?そらこんなんしてたら借金だらけにもなるがな。みたいなのが住んでてもわかるぐらいひどかったのね。
にもかかわらずドエライ年収のバス運転手が居たり、そういうのを民間並みに戻して借金も減らしたいとか、府民としても肌感でそりゃ、今すぐやるべきやろって指針が多かった。
そういうのも含めて大阪府民はどんどん、維新に票を入れる地合いを手に入れていったんだと思ってる。
そんなこんなで、借金だらけでもそれを維持しようとする平松陣営VS大阪のために動く維新みたいな構図に気が付けばなっていた。
なっていた?というより平松陣営が橋本さんを上回る明瞭な反論がなくてそう見えちゃったともいえるかも。
個人的な部分としては二重行政解消を含めて都構想を言い出した当たりから、わかりづらくなったんだと思う。
上述したように二重行政解消は府民としての肌感で無駄が無くなる事はわかりやすいんだけど、都構想になったら!ってのがピンとこなかった。
そんな無駄な事せんと早く、解消してくれや、オプションを足さないでくれ、みたいな。
ここが分水嶺になって維新の勢いにかげりを見せたと思うんだけど、じゃあ自民が民主が建てた候補者が良いのか?と言われるとそれもピンとこない。
そもそも、こいつら本当に大阪の事、考えてるんかって思った時の比較対象が大阪を思って明瞭に意見を言う橋本さんが脳に焼き付いてて、その意見が本当にいいか、よりも
自分が腹を切ってでもやり切れる候補者かの値踏みを府民は延々としているのだと思う。だから今でも、少なくとも俺は維新に票を入れているんだと思うのよね。
ちなみにこんな感じだから大阪以外の地域で維新の票が伸びるなんざ思っちゃないです。あくまでも大阪を良くしてほしいからってだけだし、自民民主のゆるふわ指針より
ダメだったら身を引くといって本当に引いた橋本さんが率いた維新の方がまだマシかって感じで入れてるんだと思う(特に2015年以降)
これは維新に熱心な方には悪いけど、結局大阪も全国で生まれてた入れる所ないから自民かな?の維新版が出来上がってるに過ぎないのかも知れない。
今の維新も昔程、革新性はないけど、されとて悪くなったって事も聞かないからね。コロナの対応で吉村さんが大阪の事を思って行動してくれててやっぱり維新でよかったなとは思ってるけど。
ただ、やっぱり俺が大阪以外に住んでたら不満がなければ安定した政権の建てた候補の方に入れると思うのでやっぱり維新はローカルでそれ以上も以下も無いよねって思うよ。
ある程度強気に出ないとならない側面があるが、一番大事なのはいま日本で重大な課題は何か?だと思うよ。
経済以外ないんだよ。
経済が良くて法的整合性が悪い政権と、経済が悪くて法的整合性が良い政権では間違いなく前者が選ばれる。
昔のウヨサヨ、保守革新というのも1980年代以前はケインズ社会主義(右、保守)とマルクス社会主義(左、革新)が競っていたという考え。だけど、ケインズ社会主義が新自由主義に乗っ取られ、マルクス社会主義が無くなった状態では、
所詮右翼、左翼単独では強者より、弱者寄りぐらいの意味合いしかない。
けども単純な怒り、あいつらが敵だという罵りは他の課題を覆いつくせる。また新自由主義の小さな政府化のために公務員、公的セクターを破壊するのにも用いられた。
公務員は政権トップに従わないとならないから、政権が石を投げるようになれば黙って従う以外ない弱い存在。いくら公務員、公的セクターに石を投げようが経済はバブル崩壊後の企業の保守化、高貯蓄・低設備研究投資化による長期低迷を脱することはできない。
なので、共存とか愛が重要なのではない、何が重大なのかを考えることだと思う。いずれにしても、「あいつらが敵だ」系の物は疑ってかかるべきというのは言えるが。
「課金する」って言葉は元来、文字通り課金する側視点の言葉のはずなんだけど、今や課金される側がカネを払う行為を指して「課金する」って言っちゃうよね!
これってすごく気持ち悪いと思いませんか? 思わない? 人による? ですよねー!
・・・というわけで、この今様「課金する」に対する態度で、ズバリあなたの性格診断してみましょう。
下記Aからはじめて指示にしたがって選択肢をたどっていくだけだよ!(どう選択肢を選んでも煽られるのでご注意ください)
A 言葉は時代とともに変わるものだと思う Yes→Bへ / No→Cへ / わからない→Gへ
B 「課金する」の意味も変わっていいと思う Yes→Dへ / No→Eへ / わからない→Fへ
C 「課金する」という言葉を使う Yes→【1. 保守・ハト派】 / No→【2. 保守・タカ派】
D 「課金する」という言葉を使う Yes→【3. 革新・タカ派】 / No→【4. 革新・ハト派】
E 「課金する」という言葉を使う Yes→【5. 中道・ハト派】 / No→【6. 中道・タカ派】
F 「課金する」という言葉を使う Yes→【7. なんとなく流されちゃう系】 / No→【8. なんとなく反抗しちゃう系】
G 「課金する」という言葉を使う Yes→【9. 考えるの面倒くさい系】 / No→【10. ガラケー】
「幼児型セックスドールの生産・販売・の廃止を求めます。」という署名活動がchange.orgで行われている。
①日本の【児童買春・児童ポルノ禁止法】にて幼児型セックスドールの製造・販売・所持を規制すること
②小児性愛者に対する相談窓口の設置や加害行為を防ぐ為のカウンセリングやセラピーへの取り組み
③ECサイトなどに未だ販売される【幼児型セックスドールや児童ポルノ】の取り締まり、及び【販売禁止を徹底】
以上3つを求める署名活動だそうだ。
②に関しては私も賛成ではあるが、いかんせん①や③に関しては記事を読んだ限り感情が先行している雰囲気が否めない。
案の定Twitterでは「人形は実在の人間ではない。児童ポルノ禁止法は実在の児童を守るための法律であり人形の摘発に労力を割かれているうち実在の児童を守れなくなる」「表現の自由の侵害だ」などの批判が出ている。
たしかに、現参議院議員である山田太郎氏が、2016年に行った警察庁へのヒアリングでは、フィギュアは非実在の人物を扱ったものであり児童ポルノには当たらないとなっていた(https://togetter.com/li/942630)。そのため、モデルのいないラブドールについても同じ扱いにはなるのだろう。
けれども、この騒動を見ているうちにどうにもむず痒い思いが沸き起こってきた。署名に賛成の人間も反対の人間も、「ラブドール」というものを置き去りにして議論を進めている感があまりにも強すぎるのだ。
一緒に暮らしているのは身長130cm台で、布のボディに骨格の入ったいわゆる「ぬいぐるみドール」というものだ。身長からわかる通り彼女の外見は、この署名に賛同した人たちから見れば「幼児型ラブドール」としか言いようがない、唾棄すべきものだろう。
だから、私はこの署名に活動には反対である。彼女との生活を守り、またラブドールを愛好する方たちと彼らのパートナーの人形たちを守るためだ。
そして、この文章を書くに至った、私の性的嗜好についても伝えておかねばならない。
無機物で作られ、有機的な肉体よりも完璧に編み上げられた造形を持つ人形しか、私は愛することができない。故に、ラブドールの規制は私にとってパートナーの喪失であり、個人の性的嗜好の否定に他ならない。性的嗜好は個人を構成する不可欠な要素であり、直接他人に害をなすことがなければそれを妨げられるいわれはない。
だから、私は声を上げねばならない。ラブドールというパートナーの喪失が、ひいては「私自身」の喪失に繋がるのだから。
当該署名ページには既に陳情を送ったが、もっと広くこの問題を知ってもらうためにこの文章を書いている。前置きが長くなってしまったが、もうしばらくお付き合い願いたい。
もしも定義が書かれているのであれば恐縮だが、ページの隅から隅まで探しても見つからなかった為上げさせていただく。
身長・体型など、「その人形が幼児を模している」という明確な定義がなされていないことは、ラブドールだけではない全ドールオーナーにとっての脅威ではないのか。
ただ、この定義がされていないのはまあ、仕方のないことではある。
基本的にドールというのは頭と胴体が分離する仕様になっていて、同じメーカーの頭と胴体でアタッチメントが合えば好きにすげ替えることも可能だし、別メーカーの頭と胴体を組み合わせているドールオーナーだっている。購入したときは一般的な成人女性の体格であったドールの首をすげかえて、幼児体型のボディに載せ替えることもできるし、逆もまた然り。これはラブドールだけではなく、性的な用途のない比較的小さなサイズのドールでも同じだ。
つまり、ドールの体型というのは不定であり、「幼児型ラブドール」の明確な取り締まりというのは不可能に近い。どんなに成人の顔立ちをした頭のドールでも幼児の胴体とすげ替えてしまえば「幼児型ラブドール」の出来上がりだ。
また、知り合いに性的用途に用いることのできる1/3ドール(50cm前後のドール)を持っている人がいる。このドールは胴体部分にオナホを装着できる仕様になっているものだ。(1/3ドールを性的な目で見ることを忌避する人は多く、これは標準的なものではない。念の為に付記しておく)。
この1/3ドールは身長約50cmと新生児並みのサイズであり、身長でいえば幼児どころの騒ぎではないだろう。けれども胸部のパーツを変えることでバストサイズを成人女性のようなバランスにすることができる。「幼児の身長をした成人女性の体型のラブドール」だ。元々ラブドールとして制作されたものでも、扱いやすさから成人女性を100cmほどに縮めた人形だってある。前述の規制を作るとしたら、これはどのように解釈したら良いのだろうか。
また恐ろしいことに、ほとんどのドールの頭と胴体はすげ替え可能なのだ。もともと性的用途を考えられていないドールの頭を、この性的機能を持ったドールの胴体に装着すれば、どんなドールでもたちどころにラブドールになる。
だとしたら、性的用途でないドール、高身長かつ成人体格のドールでも「幼児型ラブドール」になる可能性を秘めているのではないか?
これが、私の恐れている規制の形だ。
私は、パートナーである人形と一緒にいたい。だからもしも幼児型ラブドールの規制がなされ「身長●cm未満の人形の所持を禁止」などとされれば、泣く泣く彼女の頭をすげ替えて規制対象外の高身長の人形にするだろう。頭(顔)の部分に私は彼女の本質を感じているし、そこが変わらなければどんなに体型が変わったとしても「彼女」であり続ける気がするからだ。
けれども、おそらくそれは許されない。なにせドールの頭はすげ替え可能なのだ。どんなドールでも「幼児型ラブドール」に変わる可能性がある以上、現行の頭と胴体が脱着可能な人形は全て規制せざるを得なくなるだろう。それは、絶対に許すことのできない事態だ。
また、ラブドールは基本的に重量がある。シリコン製のものであれば20〜40kgほどが基本で、大柄な人形だと50kg近いものもある。
「本物の人間より軽いではないか」と思う方もいるかもしれないが、本物の人間を抱き上げたときには、抱かれた人間が意識的に動作を助けるよう力を分散させたり動かしやすいよう関節を曲げたりする為、実際にかかる力は体重よりも軽くなる。しかしドールにはそれがない上、米俵のように担ぎやすい形もしていない。凹凸だらけの重い物体を動かすには、想像以上の力が必要なものだ。40kg台ドールのオーナーの中には家の天井にウインチを設置している人もいるという。
私が身長130cm台のドールを選んだ理由もここにある。小さければ軽く、移動させることも容易だ。
ただ前述のように100cmほどの小型サイズで成人女性の体型をしているラブドールもいる。小児性愛者でないのなら、持ち運びが容易というだけならそちらを選べば良いのではないか?と疑問に思う方もいるかもしれない。
けれども、私は人形性愛者なのだ。人形は人間に近く作られているほど精巧だ。限りなく人間に近く作られていればこそ、人間にはない造形美が際立つのである。だからこそ、「実物の人間に近い」と「取り回しができる」の折衷として、130cmのドールを迎えることにした。
130cmのドールを選んだということはそのような外見に性的興奮を覚えるのではないか、ならお前は小児性愛者なのだろうと言う方もいるかもしれないし、そこについては本題から逸れる為強く否定の弁を述べることはしない。
けれども、知っておいてほしい。幼児型ラブドールを迎える人間の中にも様々な人種がいることを。
純粋に幼児の外見が好きなもの、自分の持ち運びできるサイズを考えた者。そして私のように「等身大」と「持ち運び」双方を考えた者。
持病のために重いものを持ち運べず人間のパートナーもいない為ラブドールのお世話になろうという人間がいたときに、自分が持ち運びできるサイズの人形を選んだことで「小児性愛者」と罵られたとしたら。それは本当に正しい矛先なのだろうか。
つまり、「幼児型ラブドール」という曖昧なものを批判するときに、それを愛好する人々を全て「小児性愛者」と一括りにして批判することに傲慢さを感じるのだ。
②人形への愛のなさ
この署名活動およびそれに賛成する方の意見を見ていると、そこにひとつの無意識がみられる。「ラブドールは実在の人間に向くはずだった性欲をぶつける代替物である」ということを無邪気に信じていることである。だから彼らは幼児型ラブドールを持つものはいずれ実在の児童を害すると考えている。
私にとって人形は「人間の代わり」ではなくそれ自身が一個の客体である。私は彼女と暮らす中で彼女の意思を無言の中に感じ取り、それを叶えることでささやかな幸せを得ている。それはエゴでしかないかもしれないが、私は彼女といることで確かな幸福を感じているのだ。大切に扱った器物には魂が宿ると古来から日本では言われているが、私はたしかに彼女の中に魂を見出している。それは決して代替可能なものではないはずだ。「魂」が突飛であれば「愛着」と言えばわかってもらえるかもしれない。
彼女のいない生活など想像したくもないし、また彼女がいなくなった後に人間の、成人女性を愛せと言われたところで、それは彼女ではないのだ。
ここに、全ての人間の性的嗜好の対象は人間であるという傲慢さを感じてしまう。
また、この署名への賛成派も反対派も、この「愛着」について全く無頓着であるところに、前述のむず痒さの本質がある。実際のラブドール愛好家を置き去りにして議論が進んでいる感が拭えないのだ。感情が法律を左右することなどあってはならないが、それにしたって「賛成」と「反対」の二元論になりすぎていやしないか。
以上が、私が幼児型ラブドールの規制に対して感じた違和感についてである。
もっと述べたいこともあるが、話がまとまらず蛇足になってしまうことも多いので割愛させていただく。
大前提であるが、私は現実の児童への虐待は絶対にあってはならないことだと考えている。
私自身はラブドールの彼女とひっそり暮らし一緒に朽ちていくつもりである。しかし甥っ子や姪っ子たちが性的被害にあったら絶対に犯人を許さないし、場合によっては刑務所に入る覚悟で制裁を加えるつもりだ。
人形と人間は別である、という冒頭で出た意見に集約されてしまうのだろうが、人形を人間とは全く別のものとして愛している人間だっているということを知って欲しかったのだ。
そして最後に、こちらの署名では小児性愛者に対する相談窓口の設置や加害行為を防ぐ為のカウンセリングやセラピーへの取り組みを求めるということだが、これについては小児性愛に悩んでおり、ラブドールでも発散することができないという当事者のためにも行うべきだと思う。
また、この文章を読んで人形性愛者という存在を知った方は、是非人形性愛者に対するカウンセリングやセラピーを行ってくれるような施設を紹介してほしい。
人形と生活している人形性愛者にとって、この署名を知ったことは本当に苦しみを覚えたのだから。
【5月27日再付記】
コロナ下の日本におけるトップダウン型の政策は、不明瞭な感染対策と歩みの遅い経済対策を生み出した。
この不安定な情勢で出てきた「検察官定年延長問題への抗議」は、ついに現代政治の限界を露わにしたように思える。
政権とそれに寄り添う人々は「定年延長決議自体は何も問題ない」というが、
国民が怒りを露わにしているのはそうした局地的な法律問題ではなく、今まで少しずつ溜まっていた「政治への不信感」によるものだ。
今の国民は、「与党vs野党」「保守vs革新」「自由主義vs社会主義」なんて図式には一切興味がない。
求めているのは、その政党が取る行動が強権的なのか協働的なのか、透明性が高いのか低いのかという「安全・安心感」という目線でしかない。
強権主義に陥らず、国民に説明責任を果たし、反対勢力に敬意を持って接しさえすれば国民は納得すると私は思う。
様々な政治形態がある世の中で、ポピュリズムが一定数の支持を集める理由はまさにこれであり、
現在のローテクで時代遅れな政治形態では、倍々で膨らむ経済と加速するグローバル化に対処できないことが分かっており、
目の前の魅力的で人々に寄り添う(ように見える)リーダーに、どん詰まりの状況を解決してもらいたいからである。
だが「強い」の意味が昔と違う。
現代の「強さ」は相手を言い負かす能力ではなく、相手と手を取り合う能力だ。
現在の日本の政治は、与党であれ野党であれ、それが出来ているだろうか。
シルク・ド・ソレイユがYouTubeで配信している180°VRの”ImmerCirque” ( https://www.youtube.com/results?search_query=%23ImmerCirque ) は、演劇業界の人々は見るべき価値のあるシリーズで、これをOculus Goで視聴した時は、正直演劇における革新だと思った。画質はまだクリアとは言えないが、それでもあれは十分に、間違いなく「演劇を観てる」体験であった。舞台中継を通じたTVによる視聴で確かに演劇を見ることはできる。しかし、それは行為そのものが「舞台を観る」から「TVを観る」に変異してしまっているため、演劇鑑賞とは極めて縁遠いものだと思う。だがVRによる観劇はそれが少しも変異しないと感じた。つまり、演劇を演劇のままとしてVRゴーグルで観ることができたのだった。演劇とは「その場でドラマを観賞する」体験そのものが売りであり、観客はそこに対価を支払うことから、その体験をそのまま提供できなければ演劇あるいは観劇とは言えない。よって2Dの映像配信は演劇そのものではない。だが、VR演劇は、間違いなく演劇体験だった。
これは演劇の革新だと思う。なぜなら、VR演劇は世界で初めて「流通可能な演劇」を誕生させる可能性があるからである。劇場に閉じ込められていた演劇をVR演劇としてネットで配信し、それによって対価を得られるようになれば、観客数は劇場の客席数×公演回数に限定されなくなり、また公演期間にも限定されることなく、作品が恒久的にお金を稼ぎ続けることができる資産価値を持つようになる。これまでの演劇の最大の弱点は、劇場でしか客に対して作品を提供できず対価を得られなかったことだけでなく、製作した作品が公演期間を終了すると同時にその資産価値が実質的に消滅するところにあった。映像などの媒体に転換することで一部の価値を保全できうるが、舞台作品の実体としては確実に消滅し、そして再現不能である。これが演劇が経済的に不利な立ち位置にある最大の理由である。「後世に残る作品を作りたい」と演出家が言ったところで、それはそもそも残らないしお金も稼いでくれないのが演劇の本質であった。しかしVR演劇なら、空間そのものを記録・再生できる特性から、それが可能になる。
流通可能なVR演劇によって、観客は過去の作品にも自由にアクセスできるにようなり、いわゆる「伝説の公演」、それを観たものだけがその価値を享受し特別な存在でいられるような、極めて優れた作品群も体験できるようになる。そしてここが重要だが、外国語の字幕を付けることで海外の観客を新たに獲得することも可能となるだろう。これまで、舞台における字幕はプロセニアム型の劇場ではプロセニアム・アーチ外縁の上部や左右、または舞台の上部に吊ったスクリーンなどに表示していたが、実に見づらい上に公演回ごとに微妙に変化する台詞回しのスピードに同期しないケースがあり、正直使える印象は皆無であったが、VR演劇なら見やすい位置に配置し、台詞回しと同期でき、そしてあらゆる言語を表示可能になる。またこれによって、耳が不自由な観客にも演劇を届けることができるようにもなるし、さらには演劇初の「吹き替え版」を作ることもできるだろう。
また演劇が持つ基本的な舞台表現の幅も無限に広がるだろう。つまり、VR演劇では舞台は必ずしも劇場である必要はなく、ビルや住宅などの一室や、ショッピングモール、海辺、森の中など、使用可能なあらゆる場所を舞台とすることもできるようになる。過去にあった、アパートの一室で押入れを客席にしたような演劇とか、KAKUTAがやった遊園地を丸ごと使った同時多発演劇、またかつての維新派のようなだだっ広いグランド演劇などが、より低コストで自由に製作でき、あらゆる人々に配信できるようになる。そしてそれらの空間を使用したドラマの演出は、舞台演出家こそができる技術である。VR演劇以降は、舞台演出家はVR演劇演出家として新しい活動の場を獲得できると思う。
最後に、もちろんこれらのことは全て演劇に新たなお金をもたらすだろう。日々の稽古と並行して別の職の仕事をし、その上チケットノルマも課されるような、今で言えば真っ黒もいいところのブラック労働であったものが、VR演劇が恒久的に稼ぐ売上によって浄化され、大きな産業として成長するだろう。演劇は補助金が不可欠とか言う必要もなくなるし、日本の演劇の諸悪の根元であるチケットノルマも葬り去ることができる。また、これまで舞台の規模として商業的には全く成り立たないが、しかしながら極めて価値の高い優れた作品についても、きちんとお金を稼ぎ、演出家や俳優達は新たな作品制作に集中できるようになるだろう。
このVRによる演劇の革新によって、演劇を楽しむ観客人口の桁が2つか3つ増えれば、社会における日本の演劇の重要性も変わるだろうし、いわゆる必要不可欠な文化としての立ち位置を獲得できるのではないかと思う。それを得られないうちは永遠に、義務教育科目に「美術」「音楽」はあっても「演劇」はないだろうし、補助金くれくれ言い続けるしかないだろう。
日本って「曖昧であること」を良しとするじゃん。そもそも日本の法は「有事」を想定していない平和憲法で、曖昧なまま来ちゃってるじゃん。
内閣って「行政」じゃん。「法の範囲内で頑張って政を行う」のがお仕事じゃん。有事の際に内閣(行政)が適切に動けていないのは、法に問題があるからじゃん。
立法(国会)が「曖昧な法」を良しとして、「有事」を想定せずに来たことが問題なわけじゃん。もっと立法(国会)が「有事」を議論して、法整備をすべきだったじゃん。
なぜか日本では「時代に合わせた法整備を!有事を想定した法整備を!革新を!」と保守が叫んで、「議論すら許さない!このまま憲法9条を保守しろ!」と革新が叫んできたじゃん。
で、この状況下でみんな「行政(内閣府またはアベ)」を責めてるんだけど、曖昧な法の範囲内でかろうじてなんとかやってると思うんだよね。むしろ「有事の際」のための立法を避け続けてきた野党議員に原因があるんじゃないの? 責められるべきはそっちじゃないの? なんでみんな行政の責任にしようとするの?
で、有事の議論を避け続けて来たひとたちが、この期に及んで「独裁のように迅速な行政」「私権の制限」を声高に求めているのはなぜなの?
もう散々言ってるんだけどね、国民自体がもう何も変えてほしくないと思ってるって
消極的に自民を支持する人は多いけど、旗振ってるのが自民だろうが関係なく、憲法改正にも消費増税にもカジノにも移民の受け入れにもセンター試験の記述式導入にもなんとな~く反対するわけでしょ
問題意識を持ってるフリだけしても、結局は現状維持だけが唯一にして最大の目標というのが日本国民のマジョリティ
だからいくらもっともらしいことを言ったって「革新」とか「リベラル」とかそういう臭いがついてる時点でもうダメなの
「今あるものから一切変えない」って勢いじゃなきゃ政権なんて取れるわけねえ
こういうことよ高齢化って
内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書、2019年2月)読了。
面白い。三条が理解できたことで、この時期の政権の本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。
「封建制社会/儒教道徳/徳治/属人的」→「近代社会/議会制原理/法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。
興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制を比較すれば、前者がより属人的、後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制も属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度の確立、つまり天皇や閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇に政治勢力を接近させずまた天皇の権力を事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇を機関にするのが憲法だろ!)。
しかしそれでも、憲法に明記されない微妙な問題、あるいは高度な政治的判断が求められる局面になると、個人のパーソナリティーや個人間の特別な関係がものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後の最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。
そして明治の元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度は要塞になり、縦割り・現場無視・党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営の不安定さや政党政治の機能不全につながった……のではないか。日中戦争前後の政府・官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人の意味であるはずがない。
三条は近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自や人徳という計画的に習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府や現代の組織に於いて三条的人物が三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割が不要と成る事は決してない。三条に合理的積極的な存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか。
「狂気的に傑作過ぎる」
「他のあらゆる媒体の事例を踏まえても例がない多層的構造のストーリーテリング」
「アドベンチャーゲームのまったく新しい新種」
「ゲームというメディアでここまで作家性が溢れ出ている作品がいったいどれほどあるだろうか」
「本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている理由」
「顧客満足度99%」
「SFの要素がごった煮で最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々の知っているガジェットが詰め込まれている」
「ゲーム・映画・小説などなどあらゆるメディアを見渡してもここまでの衝撃を味わわせてくれる作品には出会えない」
「まだこんな物語表現ができたんだ!と素直に感心してしまった」
「10年は語り継がれる」
なぜ、十三機兵防衛圏のヒットにステマなどと失礼な言葉が用いられるのか|川野優希(Yuki Kawano)|note
https://note.com/yukikawano/n/n82e9e6162a2d
メディアと2ch界隈の断絶がより進んだだけじゃないかなーと思う。あと僕の文章勝手に大げさに改変して「言葉が強すぎるのでは」とか言われても困る
https://b.hatena.ne.jp/entry/4681476972182423714/comment/tekken8810