はてなキーワード: 創作物とは
彼は私の裸の姿やフェラチオしてる写真を写真に撮った。4Kのカメラで動画撮影していたこともあった。
私は彼に写真を撮られたくなかったが、徐々に許してしまった。むしろ、撮られて傷ついている自分にマゾヒスティックに酔った。それでも定期的に、ことあるごとに絶対流出などしないように、と釘をさした。
彼はビットロッカーかけているから、大丈夫といった。保存用のPCを買っていいか聞いてきた。いつもお金がないと言っていたが、カメラやPCを買うお金はたくさんあったようだ。
これは後で発覚したことだが、メンズエステなどにもいって、何人かの女性とデートもしていたようだった。
私は彼がログインしっぱなしだったPCのTwitterをのぞき見たことがある。
彼は、ある性的な写真を配布しているアカウントに私のフェラチオしてる顔の写真と引き換えに写真をくれないか、とやりとりしているDMのログがあった。
彼が送った私の写真には
「ひでー顔wwww」
と返信が来ていた。
何年も信じてきた彼はそこにはいなかった。
離婚の協議の最終日、最後に私の写真が残ってないか確認させてほしいと言った。この日は第三者にも立ち会ってもらった。その第三者は彼の親友だった。
私はもう彼のことを信用することはできなくなっていたので、彼がいくら写真はもうないと言っても信用できなかったのだ。
彼の部屋で、「本当にもう写真がないか確認して」というと「もうないって言ってるでしょ」と言って確認さえしない。
「じゃあ私が探すわ」というと印刷された私の写真がまだ捨てられずに残っていた。
「やっぱり、あるじゃない!」そう言うと、「俺はADHDなんだからしょうがないだろ!」といつもの調子で彼は怒り、悲しみ、涙ながらで言った。
私が更に探そうとすると、「いい、俺が探す」と言う。散らかった彼の部屋の、物を足でめくりながら探していた。
「俺の創作物があるから、個人の自由として、それは無理」というようなことを言って、20分ほど論争になった。
そのうちに彼が「見られるくらいなら死ぬ」といって、首吊りロープに首をかけた。立ち会ってくれた人が、「ここは俺に任せて」と私を逃してくれた。
フェミだけど、男向け女向けともにゾーニングだけはしっかりした上で、男女とも性的表現が豊か、っていうのが日本のコンテンツが目指すべき方向性だと思うんだけどな。エロも文化。
ガッツリゾーニングしてガッツリエロいものを、男女とも読んだり描いたりできるべきなんよ。んでガッツリゾーニングしてもガッツリ売れる仕組みを探るべきなんよ。
こういうコメントが「アメコミ制作者「日本の漫画は性差別や女性蔑視が横行してるのに叩かれてない。我々はこれを放置していいのか?」」という記事のブコメで星を集めてたんだけど、高校生の自分から見て違和感しかない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/yurukuyaru.com/archives/85836624.html
まずゾーニングは18禁等の事で、18歳以下の私は見れないようにされる、って事だろうけど、
元のツイート主が例に出してるのは『イジらないで、長瀞さん』や『魔王様の街づくり』なんだよね。『魔王様の街づくり』は知らないけど『イジらないで、長瀞さん』は聞いた事はある、ツイートに貼られている画像を見ても18禁レベルだとは全く思えない。上のコメントしてる人や星を押してる人達はこのレベルでも18禁にしてゾーニングするべきと思ってるって事なの? だとしたら異常過ぎない?
「ガッツリゾーニングして」とか「ゾーニングだけはしっかりした上で」とか、この人たちはどうせ既に大人だからどうでもいいんだろうけど、それによって制限される側からすると寒気がするんだけど、この人達、ゾーニングが私達子供の権利を制限する権利侵害の方法だって意識が希薄過ぎない?
こういう年だけ食って頭が悪い上にその自覚さえ無い馬鹿に私たちの権利が握られるの、本当に理不尽だと思うんだけど、
本当に『イジらないで、長瀞さん』レベルの創作物を18禁にすべきとか思ってるんですか?
まず18禁はそもそも守られてない。インターネットで「18歳以上ですか?」に「はい」と押せば見れるんだから、小中学生でも当たり前に18禁のイラストとか画像も見てる。あなた達にも心当たりあるでしょう?
つまり18禁を含むゾーニングは既に空っぽの看板でしかなく、業界側が責任を問われないための言い訳としてしか機能していない。
だから例えば「18禁を見ると未成年に悪影響があるから必要だ」は明らかに嘘だ。18歳以下は普通に18禁を見てるし、もし悪影響が有るなら既に出てる事になる、18禁はそれを全然止められていない。
「それでも建前は示す必要がある」と思う人は、じゃあその建前が具体的にどう役に立つのか教えてくれますか?
「エロは悪い物だ」と私達子供に刷り込む為でしょうか? 18禁を破ってルールを破る事に慣れさせる為でしょうか?
ずっと思っているんですけど、本当はあなた達って何も考えてないだけですよね?
「子供に悪影響」って何ですか? 影響って曖昧な言葉で誤魔化さずに具体的にどういう物理現象なのか教えてくれますか? それは科学的に証明されている事ですか?
そういう事も出来ない癖に特定の人間の権利を制限するって、冷静に考えて異常な事なんですけど、その程度の浅い事実にも今の今まで気付かなかったって、思考をサボり過ぎじゃないですか?
そのサボりのツケを子供達に押し付けないで下さい。自分の怠慢くらい自分で片付けられるようになって下さい。
まず18禁って創作物が人間に与える影響がろくに科学的に捉えられていなかった昭和の産物でしょ? それをズルズル検証もせず引き摺ってるだけでしょ?
なんで今の科学の水準で、それが本当に正しい基準だったのか検証しようとしないんですか? どこまで怠慢なんですか?
ろくに物事を考えられずに頭空っぽのまま盲目的に18禁やゾーニングをありがたがってる人は、それが本当に正しいのか考えて見た事、有りますか? なんでそんな昭和の産物を信じられるんですか? バカだからですか?
私は「女は話が長い」とか「女は理系科目が出来ない」とか昭和の迷信を、科学的根拠の無い迷信だと思っています。そして18禁やゾーニングの効果も同じ様に信じていません。
私の目から見ると、あなた達は森元総理なんですよ、何時までも昭和の価値観にしがみ付いて疑ってみる事も忘れてしまった老木、それがあなた達です。
予言しますけど、これを読んでも大半の大人はこれまで書かれていたことからなるべく逃避してなるべく「考えない」為の言い訳に何もかも費やすでしょう。
あなたがこれから書こうとしている返答を改めて俯瞰してみて下さい。それはあなたが物事を深く考えない為の上手な言い訳です。
どうせそういう有り様だから期待できないけれど、最後にせめて、あなたの小さい脳の為に最小限の問題を書いておきましょう。
問1:18禁やゾーニングに意味も効果も無い可能性は有りますか? 有りませんか?
問2:(問1に「可能性は無い」と答えた場合)それを証明できますか?
もしゾーニングに意味も効果も無い可能性を否定できないなら、そんな薄弱な根拠で人間の権利を制限して良いと思うかどうか、考えて見て下さい。
わかんなくはないけど、自分がそういう気持ちになっていたのは自分のことが嫌いだった時期なので、自分のことが大嫌いな人にとってはその手のコンテンツは向かないってことだと思っています。
その手のコンテンツ受け入れられるようになったのは加齢によって「あっ現実の自分は恋愛も結婚も一切しないまま死んでいくんだな」と腹落ちし、創作物のキャラクターと対峙している主人公(提督やらプロデューサーやらトレーナーやら)は「自分ではない」と切り離せたことによります。
いいかえると、キャラが惚れてくる懐いてくる系コンテンツ嫌い民はまだ自分の現実の性をあきらめてない。主人公の中に自分を代入できちゃう。
そうそう、世界は美しいと思うし、知らなかったことを知るのはとても面白い。
賭博にしか思ってなかった競走馬にこんなにドラマがあるなんて思いもしなかった。
だけど、そういう世界に限ってこういう風に他人を見下したり否定して、自分がいる場所が最高なんだって言ってるやつのせいで汚く見えるんだよね。
自分の理解できないこと、物事については急に狭量になって馬鹿にして、それで自分たちが崇高な何かだと悦に入ってる。
他人の趣味を馬鹿にして、自分の趣味はさぞ素晴らしく文化的であるかのように自慢してる。
気付かない? 世界を汚く見せてるのは君たちなんだよ?
君たちのような人間がいるから近づきたくないと思う我々が出てくるわけだ。
別に非オタ全員がそうだと言ってるんじゃない、こんな記事を書くような人間のせいだと言いたい。
だからこそ、君たちのようなノイズを排除した創作物は世界の美しさを見せてくれるわけだし、そういう作品に私は感謝するわけだ。
https://anond.hatelabo.jp/20210510205605
勘違いされている方があまりに多いようですので最後に書きます。
自己の欲求に基づき他人の創作物を勝手に利用改変して消費する、その時点で同じ穴の狢なのに、自身は自由を享受しながら他者の同レベルの自由を許せず攻撃する腐女子が気持ち悪くて嫌いです。(自分の好きを理由に他人の好きをわざわざ否定し他者を攻撃する者、また「カプ表記」系のあくまで自治ルールを倫理や道徳や法のように振りかざして他者を抑圧する者)
しかし、そうした方々に対して私が何か要求するのはお門違いです。彼らの行いは法や倫理に反していません。何度も書いている通り、私が嫌っているものを匿名日記に書き連ねた、それだけです。
私の「地雷」が男女的BLだと認識されてる方がいますが、違います。私は男女的BLを描きますし読みますし好きですよ。苦手なBL作品の嗜好はそれなりにありますが、それを話したところで何にもなりませんし、合わないものは見ませんのでストレスも嫌悪もありません。男女的BLに対しての認識は本文の通りです。
本文に書いていますが、男女的BLを好む人間が前述したような攻撃を他者に行っている場面をどのジャンルでも見てきました。しばらくは見なかった事にしてきましたが、何度もバッタリ遭遇するうちに徐々にそうした人間が嫌いになりました。
私が嫌いなそうした方々は、普段から嫌いなものを表明し地雷と名づけ、時には地雷を否定しこき下ろし、他者への配慮を要求し、自治ルールを守らない人間を攻撃していました。
そんな方々を嫌いだと思う私のお気持ちも、逆カプのように許せない人が多くいるんですね。読みたいから読むはずの匿名日記のぼやぼやとしたお気持ち表明など、わかりやすさ含めて何者にも配慮する必要は無いと思っていますが、そうは思わない、許せない人、多いのですね。ご意見・お気持ち表明・決めつけ・ぼやき、それらは楽しく読ませてもらってますが、私への要求・筋違いな糺弾を行う一部の方々から、私の嫌いな腐女子に通ずるものを感じ、今までの自衛は私にとって正解だったなと実感してます。
また、一見肯定されているように見える方でも、男女的BLは不当であるような文脈で書かれている方、その感情を持ってもし他者(例えば男女的BLを好む方)を攻撃するなら、私が思う気持ち悪い腐女子と全く同じです。
そうですか。私はそういう男女的BL好きなので、なぜ同調口調なのかわかりませんが、男女的BLを好む他者を攻撃さえしなければ、嫌いだと言う表明は自由にして良いと思います。
特に突然どこからともなく正誤なんて基準を引っ張り出されて驚きました。貴方は自身が持つ正解から外れていると思うときのみ「なぜ」を考えるのですね。
笑ってしまいました。私に主観的で一方的な要求をする貴方は、私より偉そうですね。
本文を読まれてないのでしょうか?それとも、大きな主語で括るなと言いたいのでしょうか?
初めから具体的に書いて掘り下げてますし、大きな主語で括ったところで「一部/全て の腐女子」どちらの意味も持ちません、文を読めばわかると思います。「全ての腐女子」と言う意味に捉えてしまったのでしょうか?それは誤読です。
そして私はこの記事に怒りは込めてませんよ。人に命令するほどに怒り心頭なのでしょうか。
わかりますよ。「リアルに近いから上」のようにマウントを取るリバの方は別ベクトルで気持ち悪いです。上も下もありません。
ただ、私は他人を裁くような立場ではないので全てをフラットには見ませんし、貴方の言う「固定派」が他者を抑圧する様の方を沢山見てきたので、そちらが嫌いです。
以上です。
3月末に、Twitterであぶくま君という人が「15才の時に東日本大震災で家族を亡くし、天涯孤独の身になり東京でホームレスになった話」というマンガを投稿して話題を集めた。今も更新され続けている。
自分は、震災描写への疑問と、それに反して「すごくリアル」という反応の多さに、その後もなんとなくモヤモヤしながら推移を見守っていた。ただ、はてぶでは実在を疑問視するコメントにスターが集まっていたのを見て、少しほっとした。
このモヤモヤはなんだろう、とずっと考えている。おそらく、自分にとってはまだ遠い歴史の一部と割り切れない東日本大震災が、地名も設定もあやふやなままに(※)、材料として使われて、実話っぽく描かれていること。それらが「涙が出てきます」「感動しました」というコメントを集めていること、つまりは感動ポルノのように扱われているあたりだろうか。あるいはこれがノンフィクションとして出版されたら、すごく細かい箇所で恐縮だけど、歴史改変っぽいことへの嫌悪感もあるかもしれない。
(そう言いながら、100%嘘だと言う自信と勇気はないので、100%実話なら申し訳ない。また少しずつフェイクを入れた実話だと言う可能性は否めないと思っている)
実話っぽく、と書いたのには理由がある。
肯定的なコメントをしている人たちの多くは、この物語を、「震災当時15歳の子供が家族を全員なくしてホームレスになったという実話」だと思ってコメントしているように思える。けれど、実は投稿者は一度も文字で「実話」とか「ノンフィクション」とは書いていないし、そう聞いてくるリプライにも頑なにノーコメントを貫いている。マンガの中で「これは中学生で孤児になった僕の物語だ」とは書いてあるけど、プロフィールには一つも「僕の体験」といったことは書いていない。つまり、マンガの最後に「これは実話に基づいたフィクション」と出てきたとしても言い逃れできる形になっている。
togetterだかのコメントに「こんなことがあったなんて信じられない、ってコメントしている人こそ、この物語を実話だと信じきってしまっている」というようなものがあったのが印象的だった。
震災をテーマにした創作物自体はいくつもある。あぶくま君が暮らしていたという南相馬市を舞台にしたものも読んだけど、それらに対してこんなモヤモヤはなかった(ついでに、方言もリアル)。震災を食い物にしていると感じることはあまりなかった。そもそもそれらはフィクションとして創作されているのだが。つまり、このモヤモヤはやはり実話の体をなしている(と思わせる)ことによるものなのだろう。
東日本大震災をネタにした、「これは本当の話です感動ポルノ」は何年も前からあった。Facebookで土砂に埋もれた親子の写真が「東日本大震災の感動実話」みたいにシェアされまくって、当時Hagexさんに「嘘を「真実」として紹介するのは大変悪質な行為」って突っ込まれていた。
でも、じゃあなぜ創作や震災ドキュメンタリーならよくて、実話「っぽく」描かれることにそこまでイライラするのかと言われたら。「創作だったらなんなんですか?」と擁護するファンに対しても、ここでも、うまく説明できる気がしない。しかも今回は一応、投稿者は一度も「本当の話です」とは言っていないし。
ちなみにTwitterではおそらく舞台の近隣住民だろうと思われるツイッタラーからのツッコミも入っているが、それに対して「黙って創作物として消費しろ」なんて返しているファンを見かけたこともある。今見たら当該ツイートは消えていた。
上手く言えないけれど、客観的に「これは本当にあった感動秘話」として消費できる者と、まだ震災を歴史として割り切れない自分との間に、決定的な温度差があるように思えてしまう。
これまでほとんど静観していたけれど、最近、そのマンガで福島への差別みたいな部分が取り上げられて再び話題になってたようなので書いた。「差別ひどい!放射能がうつるなんてバカなの!?」みたいなコメントを見ても、「問題はそんなにわかりやすい差別じゃなくて……」ってまた冷めた目で見てしまう自分がいる。福島の上辺だけを材料に使うことこそ、差別の一旦になるのに。
投稿者のアカウントには編集者と名乗る人たちもリプライを送っている。いつか、ノンフィクションの震災ドキュメンタリーとしてそのまま世に出てしまうのだろうか。
【追記】
あぶくま君のTwitterアカウントのヘッダー画像はおそらくこちらがオリジナルかと思われる。
https://blog.goo.ne.jp/scmsakou/e/f6876aae059d9b83a448c28d13b8989f
いわき市の様子とのこと。
※描写への疑問については、以下に矛盾がまとめられている。コメントも参考になる。
https://togetter.com/li/1693206
自分にとってはありがたいまとめなのだが、ただ「重箱の隅すぎるかも」という指摘もなくはなくて、擁護者からの攻撃の材料にされるのは少し悔しい。
でも、もしこれが本人の話であれば、地理的に震災描写の辻褄が合わないことが伝わるかと思う。
本人以外の取材対象の経験を描いた作品だというのであれば、事実確認に基づいた取材が行われていない可能性がある。
根拠はないんだけど、すべてが完全なフィクションというよりは、下敷きにした話はあってもおかしくないように思える。15歳で被災した人物、天涯孤独の身になった人物、東京でホームレスになった人物などが複数の人物のエピソードがあって(そして誰かは本当に福島の人かもしれない)、彼らの話を混ぜて1人の人物にしたといったあたりだろうか。
あるいは、単に辻褄が合わないのは地名が違うだけ、という可能性も捨てきれない。地名がおかしいのはフェイクだろうという擁護もあるけど、出された地域の人が怒ってるのだから実在の地名は避けるにこしたことはない。で、なんとなく、セリフを書いている人は福島の人じゃないのかな?って感じたことがある。セリフはあえて共通語にしているんだと好意的に見たとしても、一か所だけ方言にしようとして共通語でも福島でも使われない表現になっていると思われる箇所がある。
弱者男性周りって、正しく価値観のアップデートが必要になる案件なんだよね。
基本的に弱者とされてきたのって女子供なわけで、これはもう覆しようのない事実なわけじゃん。
だってタイトルみたいな台詞を言ったら大多数の人間は共感するじゃん?
因数分解していけば、儒教だの仏教だのっていう宗教から社会やら歴史の話になるんだろうけど、
とにかく、今この時点で「女子供に手を出すやつは許せねえ…!」って台詞があったら、常識人は「その通りだ!」って思うわけですよ。
その常識を変えなきゃいけない。これは大変なことですよ。
もうすこし拡大すると、「女子供、お年寄り、犬や猫に手を出すやつが俺は嫌いなんだ!」って台詞なら共感できるよね。
だってそれは、女子供、お年寄り、犬や猫はか弱い、守るべき対象だってみんな認識しているから。
それが常識ってやつだ。
「女子供、それに弱者男性に手を出すやつは許せねえ…!」って違和感バリバリの台詞に、みんなが共感するようにならないといけない。
というか、「女子供に手を出すやつは~」って台詞そのものが、意図的に成人男性を除外しているような発言だから、所謂ポリコレ的に正しくない発言になってしまう。
これは大変なことだよ。「なにそれめんどくさい」ってなる話なんだよ。そういう根本的な、我々に遍在する意識を変えていこうって話なんだよな。
ロビー活動の一環として、創作物にケチつけたりする必要すらあるかもしれない。
フェミニズムってのは、そういうめんどくさくて厄介な行動をし続けたからこそ、現在問題になってるわけだ。
だからこそ、この話は所謂フェミ含む弱者ビジネスへのカウンターとしても機能してしまう。ややこしいね。
まあ何が言いたいのかっていうと、話が大きくなったらどんどんめんどくさい方向にしか転ばないと思うけど、みんな頑張ってねってこと。
単純に疑問なんだが、二次創作同人誌を出すことはそんなに望ましいことなのだろうか。
こういうのは個人の勝手だと思うのだが、あまりにも周りから薦められて自分の感覚が不安になってしまった。
そもそも二次創作(とその販売等)はグレーゾーンだと思うし、「二次創作がジャンルを活性化させる」みたいな意見にも私は納得できない。
支部に上げたりイベントで頒布する行為が公式にどんな影響を与えるかは、公式によって異なるだろうから、その結果は断言できない。だからこそ黙認されているのかなと思う。
自分のかいたものを誰かに見てもらったり、感想を貰いたいという気持ちは理解できる。その延長として、他の人との交流のために本を出す行為も理解できる。
だけどそれは他人に強要するものではないと思うし、勝手にやってろよと思っている。
ましてや、支部に上げたり本を出さない価値観を否定するのはどうかと思う。
理解してくれとは思わない。放っておいてくれればいいのだ。
私も二次創作をするが、自己満足が得られればいいタイプなので、誰かに見せようとはあまり思わない。
だが先日友人に読んでもらう機会があり、上述のような同人誌勧誘の流れになった。
私は自己満足でやってるためあまり感想を貰うことに関心がないことを伝えたが、
「自己満足してれば本を出そうが他人にどんな評価をされようが関係なくない?」
と言われた。
SNSもやってないし、オタクと交流する機会はまず無いので、これがメジャーな流れなんだということを知らなかった。
友人にとって私はものすごい異端な存在に思えたらしく、その後も幾度となく同人誌を作ることを薦められた。
そして即売会の話になった。
「仮に出したとして、私は自分の書いた二次創作で金を取りたくない」
と私が言うと
「利益が出なくても嫌なのか?」
と聞かれた。
あと、利益が出ないものを売りに行くってどういうことなんだろう。
なぜ自分が頑張って書いたもので慈善事業をしなきゃならないのか。
言い方は悪いが、人の褌で相撲を取ってるくせに「これが私の作品です」と喧伝するのはいかがなものか。
最近はオタクへの理解も増え、堂々とオタ活ができるような空気が出来ているとは思う。だからといって、「好き」という感情が土台にあれば何をやってもいいわけじゃないし、表舞台に立つことだけが正義だと勘違いしないで欲しいと思った。
私はそういう人たちを非難するつもりもないし、自分の価値観を正当化しようとも思わない。
でも結局、みんながそうしてるから正しいんだと思ってしまったら終わりだと思うし、どんなに色んな創作物が溢れてもそこに個性は無いんじゃないかと思ってしまう。まあ二次創作な時点で個性もなにもないけどさ。
端的に申し上げるのならば私は狩人である。
北海道の片田舎の漁業と狩猟を生業とする家に生まれた。
突然だがご存知だろうか。鹿は、強い。
北海道に生息する鹿はエゾシカと呼ばれ、本州へ生息する鹿よりも体躯は大きく力がある。
通常であれば猟銃で仕留めるところを仕留め損ね、猟銃禁止区へエゾシカが逃げてしまった場合はアイヌの伝統に習って槍での戦闘が始まるのだ。
筆者は奈良公園の鹿と対面したときには唖然としたものだ。
眼にまるで生き汚さはなく、体躯はたるみ、あまつさえ我々人間に媚を売る始末。
更に仔鹿などは創作物の影響からか愛玩動物のような印象を持っている人だって少なくない様子であった。
私の眼の前には鹿なぞ居らず、私が見たものはどこぞのお貴族様だったのだ。
エゾシカに向かって槍を構える。
穂先を決して上げてはならず地面すれすれを維持する。エゾシカはそれに呼応するように頭を下げて立派な角を向けてくる。
創作物などでは槍を高々と掲げる描写がよくある。映える場面にはなるのだろうが実際の戦闘では悪手だ。
槍を掲げ、そして振り下ろすという動作が遅れた場合を想定して欲しい。
エゾシカの突進は非常に強力で、もしも振り下ろしが遅れたのならば突進をモロに受けてしまい狩人の腹には風穴が開くであろう。
だからこそ地面すれすれに穂先を構え、そして突く。
先手を取る筆者の突きへエゾシカは素早く反応し突進を繰り出す、かに見えた。フェイントだ。
一撃必殺を狙った突きは重い。であるからこそ空を突いた場合の隙きは筆者へ重くのしかかる。
危機を感じた筆者は直ぐさま穂先を下げ、その瞬間にエゾシカは突進を繰り出した。
エゾシカの突進は槍が受ける。高く掲げればこうはいかない。
エゾシカは槍に触れた瞬間に頭を振り回し槍を絡め取ろうとするが、筆者は身体を回して突進を受け流し距離を取る。
穂先を下げて牽制の再開だ。
エゾシカはこちらの様子を伺う。エゾシカの眼が生き汚く睨みつけてくる。
悪いが死んでやるつもりはない。お前が死ね。
見解の一致を交差する視線から悟り、槍と角が交差する。
若鹿にあるような突進一辺倒でない。
一度の突進で押しきれないと理解するや角を振り回して小突く、小突く、小突く。
太い首に支えられつつ、いくつにも分岐した角は捌ききるには厄介だ。
こちらの嫌な表情を見逃さず、小突き、一歩、小突き、一歩と前へ出て圧力を加えてくる。
強い、鹿は強い。
体重差2倍以上、筋力差膨大、スタミナ差途方もない。
突いて、捌いて、下げてを繰り返す筆者の腕は痺れ、悲鳴を上げ、じりじりと追い詰められていく。
鹿は強い、そんなことは知っている。
堪えて、堪えて、堪えて、それでも堪えた終わりは突然やってくる。エゾシカのスタミナが切れたのだ。
銃弾を受けた足の出血が想定よりも早くエゾシカのスタミナを奪い続けていた。
エゾシカの猛攻は止まり、二歩三歩と下がったのちエゾシカはその場に座り込んだ。
エゾシカと筆者の視線が交差する。そして筆者は槍の構えを解く。
・馬主の権利が及ぶのは競走馬自体の所有権までであり、無体財産(ここでは競走馬の名前)には権利が及ばない
→いわゆる「物のパブリシティ権(物パブ)」と呼ばれる判例的には否定されている概念
→そのため、馬主は競走馬の名前(だけ)を使った創作物を規制することは不可能
・「ウマ娘」の各キャラクターの権利(IP)はサイゲに帰属している
・従って、「ウマ娘」のIPを使った二次創作に関して許可や規制を掛けられる立場にあるのはサイゲのみ
→もし、ウマ娘の同人などを作ったときに問題になり得るのは、サイゲが権利を持っているキャラを利用しているかどうか?という点だけ
→当然ではあるが、ここにも馬主側が口を挟むことは出来ない(許可も規制も出来ない)
・サイゲは馬主側との契約を結ばずとも、勝手にいろんな有名競走馬の名前を使ってキャラクターを作ることが可能であると思われる
我が家は明治期に興隆した商家で、現在も大枠を考えればモノやコトを売ることで生計をなしている。
いわゆる華族であったが、興隆の経過で江戸期以前の地主や武家などと婚姻を経て結びついており、家系図を遡れば皇室とも血筋上の繋がりがあると解釈ができる。
さて、そんな家に生まれた筆者だが正直に言えば高校生くらいまで我が家がそんな家だとは気付いておらず、多少なりとも大きな家に住めている理由として両親や祖父母も「ご先祖様が努力の人だったから」と言っていたので、現在の我が家はそこまでお金持ちではなくご先祖様が増やした資産の恩恵を受けているのだ程度にしか思っていなかった。ご先祖様すげぇなと。
実際、筆者自身の子供の頃の夢はプロアーチャーであったので全く家業を意識していなかった。
我が家はなんか他の家と違うぞ?と気付き始めたのは高校生になった時期で、父や祖父に連れられて社会科見学のような小旅行を頻繁にやるようになってからだった。
自動車工場や造船所、食品工場、アパレル工場、精密機器工場、製紙工場など工業系を中心になぜか見学に連れられ、その工場の担当者らしき壮年の男性から説明を聞くということを頻繁にさせられた。
今思い出せば、父や祖父はそのくらいの時期から「AはBから生産されていて流通として……」のような話をよくしてくれるようになっていた。
社会科見学のような小旅行は面白かったが、なぜ急にそんなことをやるようになったのかという疑問は晴れなかった。まさかそれが後継者教育の一環だったとは。
自分自身の興味と祖父の勧めもあり、大学ではアーチェリーを続けつつもロジスティクスを中心に学ばせてもらい、継続されていた社会科見学が非常に研究へ役立つようになっていた。
そして我が家の歴史を完全に知ったのは大学3年生の正月に「就職はどうするのか?」と言われた際に「参考になるかはわからないが我が家の家業を説明しようか」のように教えられてからだった。
遡れば初代が江戸期に商家として暖簾分けを受け、現在まで続く家業の基盤を明治期に作ることができたとのこと。そこから登場する人名は歴史の授業で習うような人々であり、まるで実感のなかった筆者は驚愕するしかなかった。
そんな家の子息である筆者が普段何をしているのか?と言えば、某物流企業から某商社を経て、現在は父から「そろそろ戻ってこい」と言われ、法人化している我が家の持ち企業へ務めさせていただいている。
筆者の専攻がロジスティクスなので新社会人の頃から数理的に物流を計算するのが主な仕事で、笑ってしまうかも知れないが何処へ行くにもCASIOの関数電卓をポケットへ入れている。現在の関数電卓はソーラーパネル電池で駆動するのでスマホなんかよりもよっぽど信頼度が高い。
弊社が集めたデータや取引先からロジスティクスに関するデータを貰い、それを数理的に損益分岐点とのその確率をはじき出すというものだが、概算ではなく精密に計算する際はコンピューターに詳しい増田の皆様にも馴染み深いであろうAWSやさくらを利用している。
ちなみに筆者のスマホはAndroid。iPhoneにはまともなターミナルがないので、ふと出先で大きな計算リソースが必要になったときAWSへSSHしにくい。まぁノートPC使えよって話だが。
もちろん計算するだけでなく、創作物でイメージされやすいであろう会食などで人脈交流をしたりもするが、実際のところ筆者の世代ともなるとLINEやZoom、Slackなどで友人たちと交流している頻度のほうが多い。
正直LINEやZoomは昨今の流れもあり使いたくないのだが友人たちは経営学部卒などの文系が多いので、どうもセキュアなコミュニケーションツール活用が上手く行かない。
可能ならば弊社で利用しているオフィススイートもMicrosoft office 365やGoogle Workspaceへ移行したいのだが、一部の従業員の皆様の反発から上手く行ってない。後継者といっても実務へ強権を奮えるほど実力はないのだ。筆者の管轄の研究グループは即座にSlackを導入できたり出来たのに。う〜む……。
流れのまま愚痴を言えば、例えば総務などはミドル〜ハイエンド性能なChromebookで十分じゃないか?社内ツールもいつまでJavaベースのを使っているのか。HTML5ベースに移行してしまえば互換性の問題でWindows使い続ける理由もないんだが。いまだ動いてる骨董品メインフレームをそろそろ引退させてあげようよ。
父は「実務に口を出すべきでない」と言うが、多少筆者の趣味も入ってはいるものの環境を整えるのも我々の役目ではないだろうか。
強権を奮って一気にモダンなコンピューティング環境にしたい。営業にも今のガラケーから最新のGoogle Pixel 5あたりのスマホを配ってあげるのに。
というようなことを青臭く思っているのだが、実際の後継者なんてこんなもんである。実権を握れるまでおとなしくしているしか無い。
従業員の皆様には申し訳ないが、おそらく筆者にはご先祖様ほどの商才は無いんだろう。苦労させてごめんね。
哀しく惨めな話だが、年齢の近い女で自分の相手をしてくれるのは姉しかいなかったんや
それこそ負の性欲全開で俺を軽蔑してくるが、家族故の温情や連帯を感じる瞬間はあった
その一遍の煌めきが、世界のどこかには姉弟で家族と男女の絆を同時に育んでいる、何よりも強い繋がりを持っている神に近しい存在があるに違いないという信仰を俺にもたらしたんや
最近はあらかたの姉弟相姦系の創作物が自分の中で飽和してしまったから
理想の姉像を集約したお姉ちゃんを作り出し、その弟を新たな命を与えられた自分としたオリジナルの同人誌を作り出している
しかしその願いも渇望も報われることはない、渇きが満たされることはないだろうという確信は常に心のどこかにあって、その焦燥感はかなりの苦しみや
だけど俺は姉弟に愛を見出し続ける生き方しか手に入れられなかったんや。故に今日も姉弟モノに祈りを捧げながらしこってる。きっと明日も。
そう呟いたのは多分六年前だか五年前だったかと思う。その時俺達は喫茶店で、世の中の悪が何かについて話していた。
その場には男の先輩が一人と女の子の後輩が二人いて、先輩は「知ってる」とぽつり。女の子二人は「しらなーい」とぽつり。
勿論、俺と先輩はその話を掘り下げたりせずに、穏当に元の話題の路線へと戻り、「やっぱ世の中気を付けて生きなきゃだめよ」みたいなことを言っていた。女の子二人はケラケラと笑っていた。
◇
何で今更になってこんなことを思い出したかというと、当時テーブルを囲んでいた後輩の女の子が先輩と付き合って、破綻して、今朝がたtwitterで僕を含めた当時の関係者に対しての呪詛を書き連ねていたからである。
多分こういうのは、よくある話なのだろう。勿論僕はその後輩に横恋慕していて、そして二人の関係とか、あるいは時折後輩の見せる刺すような発言と態度に傷を負ったりしながら生きてきたのだけれど、そんなことは些事である。一々考えるようなことじゃない。
ともかく、今僕がこの文章を書いているのは、後輩の女の子が僕と先輩を含む当時の関係者にSNSで呪詛を連ねているところを見たからである。
その呪詛がどんなものだったかというと、彼女曰く、「悪を糾弾できない存在も悪だ」、とのことであった。
つまり、彼女はこう言っているわけである。当時、破壊的性向を持っていた先輩のことを僕を含む関係者は止めることができなかったし、そして、物事が落ち着くべき位置に落ち着いてなお、僕を含めた関係者は先輩のことを表立って糾弾したりするでもなく、あるいは罰したりするでもなく、淡々と日々を送っているのだと。つまり、先輩が悪であると同時に、先輩を裁くことなく静観していた、僕を含めた関係者もまた悪なのだと。
全く以てその通りだと思う。僕は悪の片棒を担いでいるのだ。物事を正しく裁こうとなど決してしなかったのである。
一応、僕は見知っている後輩らが先輩に対して好奇心なり何なりを持っているのを見咎めると、「先輩は悪人だから近付かない方がいいよ」と度々言及していた。(「悪」の具体的な内容についてはここでは伏せるが)
とは言え、一見インテリジェントで気が利いて、かつある分野において顕著な業績を収めた人物である先輩に対して、後輩たちは僕の忠告をあまり深刻には受け止めなかった。あまり僕の忠告は功を奏さなかった。後輩たちの中には、今でも先輩に連絡を取り続けている子もいるようである。まあ、それはそれで良いのだと思う。僕は別に彼女たちを悪し様に思っていないどころか、先輩にだって悪感情を持っていない。彼女たちはそれなりに幸せそうであるし、今でさえ僕は先輩と時々食事をしたり、ボードゲームに現を抜かしたりしている。
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スナッフフィルムについてご存知だろうか?
それは、快楽を目的とした殺人行為を撮影した映像作品のことを指している。特に、商業的意図を以て撮影されたものを指す。スナッフという言葉は、「ロウソクを吹き消す」という意味を持つ動詞であり、同時に「殺人」のスラングでもある。
勿論僕も現物を見たことはない。そもそも、「スナッフフィルムは単なる都市伝説で、実在しない」という論も根強い。
ただ僕は、二十年近く前にアングラサイトで「衝撃! 少女が公園で殺害される映像! 購入は以下のアドレスで!」的な宣伝がされていたのを見たことはある。そのサイトによれば、外国人の少女は公園で刺殺され内臓を引きずり出された後に、ガソリンによって燃やされるとのことであった。そういう宣伝を実際に目撃した人間からすると、スナッフフィルムは実在するという立場から主張するほかない。
(また、中東やロシアでの拷問や処刑の映像も広義のスナッフフィルムとみなすことができると思う)
スナッフフィルムにおいて撮影されるのは、主に少年少女である。
主なスナッフフィルムの内容は、少年少女に麻薬を与え、性的に高揚させた後で凌辱し、その後に殺害する、といったものであるそうだ。僕もよく知らない。正直この知識は既存の創作物から得たものなので、信憑性においては幾分問題があるかもしれない。
いずれにせよ、仮にスナッフフィルムが伝聞の通りに存在するのであれば、それはこの世の悪を煮詰めた存在であると思う。
それは、恐らくそれを求める人間が存在し、また、それを供給し得る人間が存在しているからだと思う。仮に、ある人物が何かを要求し、その対価としての金銭を十分に示せるとして、何者かがその要求された何かを提供できるとすれば、多くの場合そこには商業的取引が実現してしまう。可能な物事が、不可能であり続けることは難しいのである。マーフィーの法則を引くまでもない。
つまり、そのような商業的なやり取りは、人の意志を超えてしまうのだ。それが可能である限りで実現してしまう事柄に、人の意志は関係ない。そこにはある種のシステムが構築されてしまうのである。
そのようなシステムに根差しているのは、明らかに人間の欲望と暴力である。人間にとってのある種の欲望と暴力が可能である時、そこにはシステムが出来上がる。システムは、金銭と欲望達成を媒介に、暴力的に成立する。そして、人の意志とは関係なくそのシステムは自己増殖し、その体系をより確固たる存在へと変えていく。
「人々が欲望し、かつ金銭的対価を支払える事柄は、それが不可能でない限り実現する」これが、欲望と暴力のシステムにおける定言命法である。そこでは人の意志に関わらず淡々と物事が実現する。一度実現したシステムは、当事者の意志で止めることはできない。金銭を媒介に、システムは機能し続ける。
というわけで、世の中にはいわゆる悪が蔓延ることになるわけである。勿論、繰り返すようにスナッフフィルムの存在は都市伝説に過ぎない。「スナッフ」と銘打たれて販売された商品の多くが、作り物であるとも言われる。しかし、僕は「スナッフフィルムは都市伝説に過ぎない」という発言に対して、どうしても疑義を覚えてしまうのである。そう、人の意志とは関係なく機能するシステムが世の中には既に構築されており、そのシステムの内部においては、可能である事柄はすなわち実現するのである。そういった原則を振り返った時に、快楽としての殺人が不可能であると断じることが僕にはできなくなってしまうのだ。
まあいい。とにかく、世界においては、可能である限りで、そしてそこに人の欲望が存在し、金銭的な対価を示せる限りで、ある種の悪や暴力が必然的に実現してしまうという、悍ましいシステムができている。我々は、そのようなシステムに向き合わなければならない。そのようなシステムを糾弾し、ハックしなければならない。その在り方を上手く変更せねばならない、はずだ。
とは言えそのような決意が実現されることは稀である。何故だろう? 我々は多くの場合悪を放置し、看過するしかないのである。それが不可能であるからだろうか? 我々に内在する欲望を媒介に機能するシステムを、我々自身が変更し、打破しようとする行為は、そもそも自己矛盾的だからだろうか? よく分からない。
いずれにせよ、自身の欲望に根差したシステムに変更を加える行為は、決して簡単ではない。我々は、そのような欲望と暴力のシステムをどうしても看過せざるを得ない。
それは、スナッフフィルムに限った話ではない。ある種の極度に暴力的なコンテンツに限った話ではない。我々の身近には、その手のシステムが息づいている。我々は、日常的に、そのようなシステムに触れることになる。我々は暴力と欲望に根差したシステムに、普段から関与し、触れることになる。
例えば、不均衡なコミュニケーションもそれだ。一方の話者の力関係が他方の話者に優越しすぎたコミュニケーションは、暴力的な影絵を描く。そこには権力の不均衡が生じ、そして暴力と欲望充足を生じさせることになる。そのようなシステムが我々の日常では機能しているし、何なら我々はそのようなシステムに組み込まれている。
例えばそれは企業と個人の力関係においてそうであるし、あるいはある種の閉じたコミュニティにおいてもそうである。そのような力関係において、いわゆる弱者が欲望充足の手段とされることは珍しくない。我々の身近に、そのようなシステムは往々にして存在している。
我々はそれを看過しながらに生きている。あるいは、そのシステムを自身の一部として受け入れながらに生きている。
何故なのだろう?
ほーん そういうことか なんかちょっと分かった気がする
多くの人は創作物を消費して自分の人生に反映してる、自分の人生越しに作品を見る感じなんだろうか
だから家族愛とか異性愛とか、一般的に多い共感部分が題材のものとかリアリティがある作品の方が一般的にヒット作になるわけか?
俺は創作物を生み出す側の仕事をしてるから、自分の人生は一旦置いておいて創作物そのものについて色々と考えてしまう
そりゃ楽しみ方も着眼点も違うよなあ