はてなキーワード: 創作物とは
それはただの浮気だろ
セックス以外はまともな男がセックスだけ上手い男に負けるから面白いんだろうが
あのな、創作作品のジャンルっていうのは消費者が求める商品を見つけやすくするためのレッテルでしかないんだぞ。
それ以外にジャンルの存在意義が存在するって言うなら提示してみろよ。
生物種の分類ならDNAなどの物理的基盤が存在するが(もちろん歴史をたどればそれだけで生物種が分けられてきたわけではないが)、創作物の分類にそういう客観的なマーカーが存在すると思うのか? ジャンルっていうのは人間の都合でしかない。
で、俺は「NTRを求める客はクズな男から女奪う話を期待してないだろ」って主張してるわけ。
反論するなら「NTRを求める客はクズな男から女奪う話も求めている」と主張してくれ。俺はそうは思わないが、NTRを求める客のニーズについて客観的証拠が提示されない限り、俺とお前の主張は平行線でイーブンだ。
デートDVや「痴情のもつれ」による事件がいくら伝えられても、「恋愛や結婚は自由とは言うけど、やっぱり悪影響はあるよなぁ」とは言われないのよね。
大抵の場合、なぜかそれがポルノコンテンツや創作物の影響論にすり替えられる。
言論が正しいか正しくないか以前の問題として、「問題提起そのものが行われない」わけ。
「どうしても暴力的に見えるコンテンツは、文脈を無視して暴力だけが消費されるかもしれない」
「暴力だけを消費する人の中には、実際に暴力を真似したいと考える人もいるかもしれない」
「実際に暴力を真似したいと考える人の中には、理性のタガが外れていて実行する人もいるかもしれない」
そんなわけのわからないマジカルバナナで創作物の責任を問うという活動は「言論の自由」として正当化されるのに、「恋愛や結婚をする人の中にはDVをする人がいるかもしれない」という当たり前の論理は、決して「だから恋愛や結婚という文化それ自体にDVの責任がある可能性があるのではないか?」という問題提起には繋がらない。
ゲーム配信云々問題、ぶっちゃけVtuberとかだけじゃなくボイロ実況とかも似たようなものだと思うけど
そのへんの実況者はVみたいな問題とか起こしてないものなんかな。
勿論創作物である以上単純につまらんで文句言われる事例とかはあるわけだし、全てが何の問題もないってわけではなかろうけど、
実況すんなと言われた事例みたいなのではあまり見ない気がする
それを言い出したら「正義は必ず勝つ」と言えば悪人の被害に遭った人のセカンドレイプになるし、「家族の絆」を描けば家族を失った人へのセカンドレイプになるな。
そもそもがチンチロリンをベースにしたシンプルなものでもあり、ルールや見せ方に創作性があるとは通常考えられないだろう。例えばNKODICEのように文字が揃うと振る回数とダイスが増えて、無駄に3Dで皿を舐め回すように描写し、「おはな」などの優しい言葉を揃えると役になるゲームを作ったとして、著作権の問題はないだろう。チンチロリンに類似したゲームの表現方法として、一般的に考えうるものであり、特筆すべき新規性もない。
しかしNKODICEにおいての創作性はそれらのルール自体にあるのではなく、「う、ま、ち、ん、こ、お」の六面を持つダイスの意匠と、そのダイスを複数振ることによってくだらない単語が現れるおかしみにある。
この部分において、 たとえばいくつかの文字を減らしたり増やしたり、あるいは形式をルーレットに変えるなどしても、限られた文字列のランダムな組み合わせによって特定のくだらない単語が生成される、という表現においては、創作物としてのNKODICEとの類似性があるものと考えられる。
ましてや本件については名称を偽●こDICEと称しており、前後のツイート等からもNKODICEを意識していることは明らかであり、NKODICEの著作権を侵害していることは疑いようもない。
そんなわけで万が一ゲーム自体を販売していたら、販売の差し止めや損害賠償請求も可能だっただろうね。
ただ今回の場合においては販売などもなく、配信者側が個人で楽しむために制作したものであると解釈できるし、配信で利益を得たことによってが著作権者に損害を与えているとも言い難い。
著作者は「ま」の字に特別な思いもあるようだし、改変で精神的な被害を被ったということでとれるかな?無理筋だよねえ。
当のパロディゲームはそれらを新規に作っているので法律上の問題はなにもない。
「二次創作は原作ありきのお目こぼしブラック所業なのに。普通に著作権侵害で訴えられるだろうけど、この作者さんが望むのはそんな制裁じゃないんだろうな」
→二次創作ではない。著作権侵害でもない。本家の作者も法律上の問題がないことを知ってるから「お気持ち」という言葉を選んでるんだろう。
「二次創作を嗜まない身からすると、全部アウトにすればええやん?と思うけどな。二次創作ダメ、ゼッタイ!にすれば問題は起こらんでしょ(雑」
→そもそも二次創作ではないし著作権を侵害してない物にNG出す権利ない。
「見てないけど、読む限りだと二次創作じゃなくてただのパクリゲーだろ、訴えてええわ」
→二次創作ではないのは正解だけど著作権を侵害してないので訴えても無駄。
「二次創作を作者の許諾なく収益化してリスペクトもなければ怒って当然」
「二次創作ゲーを作って収益化で配信したホロのライバーは事前に許可を取ってなかったのか」
→二次創作ではない。法律上の問題がないように動いてるので許可不要と考えた流れだろう。
「企業が許可無しで二次創作で(間接的なスパチャとはいえ)金貰ったら真っ黒のアウトだろ」
→二次創作ではない。セーフ。
「原作より良い!」は二次創作者側も怒るワードだと思うんだけど…怒らなきゃダメというか
デフォルトアイコンでフォロー0フォロワ-0や登録者0のアカウントに創作物(動画なのか漫画なのか音楽なのかは伏せる)を発表したらたまたま評価されて、
「次回作が楽しみ!」とか「作者がどんな人なのか気になる!〇〇出身なのかな?」とか詮索された上に
ちょっと作りが甘かったりすると期待が裏切られたと思うのか、手のひら返したようにそのミスだけ執拗に叩かれるので認知されたくないの分かる
それ以来変に注目浴びたり変なコメントが増えてくるとアカウント捨てるか消してまた新しいアカウント作る
ツイッターもアカウント(フォロー0フォロワ-0自分から返信した人だけリプ設定)が10個くらいある
これで続編じゃなく単発の作品なのに「前作と作風違うから嫌い、がっかり」とかいう訳の分からんコメントは来なくなった
現実でも最小限の人は仕方ないけど無駄に存在が知れ渡るのも嫌だなーとは思ってる
こっちは預かり知れぬところで勝手に色々言われるのが嫌な感じかなあ
まあ挨拶はするけど
少し前にヘイトクリエイターによって炎上させられたバイクアニメ。あれは飲酒とか2ケツとか何だが、他の例も色々ある。
とりわけ交通ルールに関しては厳しい見方をする人は結構いるらしい。有名だがバイクを扱う際にはどんな悪役もちゃんとヘルメットをするし、強盗や誘拐をしてもきちんとシートベルトを忘れない。
なぜならそういう場面にだけクレームを付ける人がいるためだ。
自分の中にも似た倫理観が存在するのだけど、恐らく作中に対して何らかの優越感を持ちたい人が自分の知っている範囲であり作中において見過ごされている不法行為にキレているんだろうな。バイクで強盗や殺人やひき逃げをするという描写は基本的に悪な上に作中でもそういうことは言及していることが多い。でもちょっとした交通違反は軽く扱われやすいから、見ている人からすると「この作品は交通ルールも知らないのか」と憤ってるんだろう。そういうところにしか目を向けられない人が多数いて、そういう作品全体からするとどうでもいい描写に難癖付けたいんだろうな。
でも作中での矛盾した設定や人間関係とかの荒っぽさとかには言及しない。なぜなら表層だけしか見えてないから。逆に交通ルールとかは誰でも気にすることなので、日常的なものに対する意識が創作物に対しても働いているんだろう。
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
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実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
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実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
https://anond.hatelabo.jp/20210528052915
女子かくあるべしという一面がヘイトを生んだというの、一理ある。というか、それがまさに問題点だと思うんだよね。
3つの話が混ざってるにも関わらず、「創作での違法行為ヘイト」のみに絞って揶揄する声がTwitterなんかで作家から上がってるの見ると危うい感じがする。
元増田が言う通り、アウトローでかつフツーの女性ってのもアリだと思うけど、ハイコンテクスト(文脈及び暗黙の前提が必要)なんだよね。
映画詐欺予告と違って、アニメ版のスーパーカブの告知動画と実際の作品のビジュアルは、近い。
ありていに言えば「新海誠風」だよね。
より正確に言うと「秒速5センチメートル」のビジュアルで、ゆるきゃんよりも「けいおん」ふうのキャラクターで、「スーパーカブ」に焦点を当てたアニメーション。
このビジュアルと音楽のガワで、作中の小熊というキャラクターをアウトローにするのは、かなりの難物になる。
何故かというと、ビジュアルのちからって、アニメーションのわりと根源的なポイントだから。
西岸良平の「夕焼けの歌」や、青木雄二の「カバチタレ!」のビジュアルで、2ケツしたくらいじゃこうはならない。
これは、男女差別ではなくて、そのビジュアルは、どういった印象を相手にあたえるか、というところがポイントになるから。
ここでは各流派については踏み込まないけど、創作物の違法行為が問題視されるのは概ね3つ
漫画やアニメーションには、現実の人間に影響を与える力があると信じるものからすると、どれもまあ批判としては妥当かと思う。
受け入れるかどうかは別として、「アニメは良い影響を与えうる」と「アニメが悪い影響を与えうる」というのは、どちらも正しいと個人的には思っている。
1番のマネする奴がでるってのは、一番創作者にとって受け入れがたい指摘だとは思う。
悪い奴が悪いことをする、もしくは、悪いとわかっていてやることに意味があることを描いていても、指摘されるから。
2番の違法行為が肯定的にってのは、程度問題ではある。文化圏によるものもあるし、時代背景もあるしね。
ざっくり少年漫画少女漫画問わず、現在でも例えば「これ普通に暴行傷害だよな」とか「女性がやっててもこれ普通にセクハラ・パワハラだよな」みたいなのは散見される。
3番がちょっとメタっぽい話になるけど、2ケツって別に大したことないってアニメーションが増えると、そういう認識が広がる、という考え方のこと。
(主張する人たちが概ね3流派に分かれてるよねってことぐらいで、ここは特に踏み込まない)
アニメ版のスーパーカブでは、(ビジュアルと音楽とを取り払ってしまえば)リアリティラインは概ね一定に保たれていると思う。
個人的には、あの地域の高校二年生が、自己矛盾なく一貫した姿勢で物事に向き合ってたら気持ち悪いし、変だと思う。
ないないづくしの天涯孤独の女子高校生が、他人に厳しく自分に甘く、2ケツで気分爽快とか、まあ良いんじゃないの?という。
ココは元増田の話とは違うと思うんだけど、「小熊は2ケツなんかしない!」って話とは、若干違うと思うんだよね。
さっきのリアリティラインの話、純真無垢な箱入り娘のお嬢様じゃねえんだから法律違反ぐらいするだろ、みたいな話は
アニメーションのビジュアルが訴えかけてくるものに反するから、ヘイトを生んでるんだと思うんだよね。
「口では2ケツは法律違反だって言ってるけど、つまるところあのビジュアルでマイルドヤンキーみたいなの受け入れがたいってだけじゃね?」ってこと。
そしてそれは、「受け入れがたいというのは、ある程度しょうがないのでは?」という話。
要は、アニメーション全体で生み出そうとしてるリアリティラインに齟齬が生じてる。
ゆるキャン△でさ、嫌な店主だからっつって万引きしてみんな笑顔で「やっちゃったねふふふ」とかやってたら受け入れがたかろう。
「今日日の女子高生は別にグループ万引きとか普通にするしむしろ知らないのは世間知らず」とか反論はしなかろう。
あのキャラクター造形で、丁寧に遵法精神に欠けるところがあるって演出してても炎上すると思うな。
アニメーションのビジュアルが訴えかけてくる「この主人公はこんな感じです」っていうのと言動が一致してないんでヘイト生んでるんじゃねえのかな。
「このアニメーションは、スーパーカブという原付の良い面を広げる啓蒙アニメーションっぽいんすよ」みたいなのとか
「このアニメを通じて交通安全に思いを馳せて欲しいっすね」みたいなのとかが見え隠れすると、そりゃ反発もされんじゃねえかな。
例えば「ここは退屈迎えに来て」の中でまったくおんなじエピソードが語られたとして話題になるかっていうと、そんなとこ注目もされねえんじゃねえかな。
新海誠監督の時の「天気の子」で出てた法律違反の話と今回の件とは、語られ方がちょっと違うと思うんだよね。
ともあれ、個人的には「フィクションの違法行為にいちいち難癖付けてて乙乙」みたいな茶化し、良くないと思うなあ。
少なくともその層は切り捨てて良い層なのか確認してから揶揄すべきだと思う。
ドウェイン・ジョンソンがワイルドスピードで無茶苦茶するのに笑ってる同じ人間が、今回の件で嫌悪感を示すの別にダブルスタンダードでも何でもないと思うのよ。
俺は、ワールドトリガーのアニメ版で迅さんが原作とは異なる描かれ方をしているのを見てポリコレに屈しやがってとは思わない。客あっての商売よ。
(とはいえ、スーパーカブは切るところ残すところの取捨選択がちゃんとなされてると思うので、まあこれぐらいは織り込み済みなのでは)
これはフィクションです。
愚痴です。長文です。
もう半年以上前のことなのに、自分のことが嫌いな私はたまに思い出しては自分を傷つけてしまう。
だから、気持ちを言語化して人目に晒すことで過去の出来事なんだと実感させて、あわよくばすっきりしたいという目的です。
もう数年の付き合いになるはず。
私はAさんの創作物が好きだった。
Aさん自体も良い人で、他人の悪口や相手が好きなものを下げるようなことは言わない人だった。
私たちはジャンルが同じでも好みが全く違うことが多かったが不思議と話が弾んだ。
Aさんは活動を止めてしまったけど、ジャンルが変わったらお互いに布教したりして付き合いが続いていた。
Aさんは公式だけでは満足できなくなり、pixivを探し尽くし、ついに他人の感想を求めてTwitterでパブサをするようになった。
そして玉を引ける確率はとても低い。
どうしようもない石に多く触れて、しかも自分ではキャラクターの話をしなくなったAさんは、私の目からは少しずつ変わってしまったように思えた。
私が好きなキャラクター(Bとする)について、「B好きの人がTwitterで見当違いの感想を言っていた。これだからBのファンは頭が悪い。パブサする人のために配慮して発言するべき」と言ったり。
ただ内容はどうあれリプライでもない純粋な「感想」のつぶやきに対して、こういう人もいるのかとか、腹立つ!ブロック!とか自己処理できないのならそもそもパブサしない方がいい)
Aさんが好きなキャラクター(Cとする)の話とBの話が、 公式から同時期に動きがあった時に「Bの話どうだった?私はCの話で胸がいっぱいだったから読んでないけど」と言ったり。
(後半は言わなくても良かった)
「Bは何考えてるのかよく分からない」と言うので、私はこう考えてると思うなぁと説明しようとすると「そんなことないよ!だってBは相手のこと全然考えてなくて~」ともはや悪口のような発言をしたり。
(それは苦手ではなくてかなり嫌いの域では)
一番堪えたのは「2.5のこと私はコスプレだと思ってるから」だ。
私の「この前の2.5のBがすごく良くて!」という感想を受けての返答だ。
ある意味では正しい。
コスプレとは、「漫画・アニメ・ゲームなどのキャラクターに扮装すること」だから。
だが2.5が好きな人への発言としては、あまりポジティブな意味合いはないように思える。
そもそもコスプレをしている方にも、2.5の方にも失礼な言葉だ。
そっか、としか返事が出来なかった。
もしかしたら。
見当違いのことを言うB好きがいると他のB好きに迷惑かかるよね、という気遣いだったのかもしれない。
公式からのBの供給に対する私の感想を単純に聞きたかったのかもしれない。
キャラクターへのマイナスの感想って他人には言いづらいから、誰でもいいから吐き出したかったのかもしれない。
2.5じゃなくて原作の話してくれ、という気持ちが爆発したのかもしれない。
なんて前向きにこねくり回してはみたもののやっぱりそうは思えない。
人間関係は必ずどちらかが我慢している、というのを以前見かけたが全くその通りだと私は思っている。
そんなことないと思っている人は、相手が我慢してくれているか、小さな鬱憤を処理するのがお互い上手なのだと思う。
別の個体である以上、摩擦を生まずに付き合うのは到底不可能な話だ。
そして別の人間だからこそ、自分の好きなものが相手の嫌いなものということも多々ある。
逆もまた然りだ。
それ自体はどうしようもないことだし、理解を示すよう心掛けている。
だけど「あなたの好きなものが私は嫌いです」と直接伝える時、求めているのは理解ではなく許容なのではないかと思う。
私は許容できなかった。
今回の出来事は複数の要因があったと思うが、大きく分けると二つの問題があった。
一つは、私が自分が傷付いたことについてAさんにその場で言わなかったこと。
そして、AさんがTwitterの透明な悪意に恐らく傷付いて発言の勢いが激しくなってしまったことだ。
前者は私の問題だ。
冒頭にも書いた通り私は私が嫌いなので、私が傷付いていることにひどく鈍感だ。
なのでその場では愛想笑いで流すものの数日間くらい相手の発言を反芻してもやもやし、数週間後にもしかして自分は傷ついていたのかと思いつく。
その場で怒りを発生させることができない。
随分前のできごとなので、これはもう私が飲み込むしかない。
後者は、私ももう大人なので相手を変えることはできないと知っている。
根本は好きなキャラクターの供給不足から発生している問題なので、
Twitterの感想以上の何かを私がAさんに与えることはできないし、する義理もない。
パブサを止めたらどうか、と言うことは簡単だが実現させるのは難しいと思う。
石は不味いかもしれないが空腹は凌げる。
まあ結局は、積もり積もった鬱憤が爆発するきっかけだったにすぎない。
Aさんは良い人だったけど摩擦を生まない人間関係はないので、私もAさんを傷付けてきたしAさんも私を傷付けてきたのだと思う。
知らない内に小さな傷が無数についていて、たまたま今回の出来事が最後の一撃になってしまっただけ。
ただ一つ、私の好きなものを嫌いだという言葉で、私を傷つけていないとAさんが思っているのなら悲しい。
相手に配慮のできていたかつてのAさんとはこれからも仲良くできたら嬉しかった。
これは愚痴であり、清算のための振り返りなのでどうすれば良かったかなんてことは、あったかもしれないけど既にない。
もう二度と会うことはないだろう。
リアルのプロカードゲーマーの試合には全く魅力がないのに、なぜ遊戯王はウケたのか考えてみた。
・見た目が派手
・興味深いストーリー
この2つがリアルには無い。
キャラクターに関して、武藤遊戯と海馬瀬人の魅力をざっくり考えると
①カードゲームに熱意がある
②かっこいい得意な戦法がある
③宿命を背負っている
④見た目がかっこいい(好みによる)
⑤なんだかんだで勝つ
と、まあこんなところだろう。
理由は以下の通り。
①カードゲーマーならみんな持ってる
②カードゲーマーなら誰でもできる
発売前のカードを使ってリアリティショーをしてもらうというのはどうだろう。
まだ誰も持ってない、使った事のない、正確な強さなんてわかるわけないカードを使って
アマチュアプレイヤーでは出来ないシチュエーションで、なんならちょっと誇張気味の脚本も使って
頂上決戦じゃ無いと盛り上がらない?
プロレスみたいに、これを「世界大会」とか「タイトルマッチ」ってうたってしまえばいい。
そうだね。
本当に強いカードゲーマーの試合って、どこが凄いのかわかりにくいんだよね。あっさり負けたりもするし、イカサマ疑惑も出たりする。
だから、「強い」ってのはプロTCGプレイヤーの魅力にはなり得なかったし、なり得ない。
それならもはや競技的プレイは、勝って賞金や名誉を得たいプレイヤー以外には魅力的じゃないってことではないだろうか。
カードゲームに、競技性なんて要らなかったんじゃないだろうか。
【追記】
読んでいただいてありがとうございます。
テレビ番組は見た事無いけれど、プレイはまあまあした事がある。
ポーカーというゲームは運と実力が重要で、トッププレイヤー達は知的で情熱を持ち、
練習や知識の拡充に余念の無い人達だと想像するのは難しく無い。番組も実に面白そうだ。
本当は同じなのだ。
それはTCGの競技ゲーム性が理解されていないからだとも言える。
始まって20年以上経ち、配信環境や布教活動が整いつつある今でもこの有様だ。
もう、TCGを知的格闘技だなんだと言って売り込むのはある程度諦めるべきなんじゃないか。
・有吉eee
見た。面白い。
俺は「SASUKE」「オーディション番組」「ガチンコファイトクラブ」みたいなのを想像していたけれど
こういう、和気藹々としたものも人気の助けになりそうだなと思った。
ただ、個人の感想ではあるんだけど有吉が面白いだけな気がしないでもない。
有吉並みに面白い人を使わなければ意味が無い、のかもしれない。
・動画
※追記
htr=ヘタレ
ヘッタクソな創作物しか生み出せないゴミカスのこと、下手くそ創作者の叩きスレ発祥
サイト時代を含めて約5年半。1つのカプに執着する期間としては比較的短い方かもしれないが、それでも私のオタク人生の中では最も濃くて幸せな夢を見せてもらった。良い時間だった。
海を見れば潮の匂いを浴びながら夕陽に照らされる夏の終わりの推しカプを想像した。山を見ればキャンプ飯の匂いに腹を鳴らしながらビールを煽る推しカプをそこに登場させていた。
世の中のラブソングは全て推しカプの曲に聴こえていたし、いつも2人のことばかりを考えて行動していた。
24時間365日ずっと日常の全てにカットインしてくるような推しカプだった。腐女子やカプ厨の方なら多少はご理解いただける感情かと思う。
それでも世に出した作品は30足らず。5年半という歳月から見ると相当少ない。遅筆の私は2~3ヶ月に一本新作を出すのが限界だった。どこにも出していないものを含めると100は書いたが、全て納得できずHDにしまい込んだ。
なんせhtrなのだ。ここまで読んでいただいた皆様にはバレているだろうが、とにかく文章の構成が下手だ。語彙の使い方もダサい。てにをはがなっていない。一文が長すぎる。読んでも結局何が言いたいのか全くわからない。
読み手側は起承転結のついた物語や地の文が濃い文章など読みたくはないらしい。
伸びている文、評価されている作品はみな「ほのぼの」「ラブラブ」「わかりやすいセリフが多い」「日常を切り取った2000字ほどの短文」これに気付くのに4年かかった。
私のような作風の書き手は本当に上手い人しか評価されない世界だった。
文章力もなく、面白みもなく、萌えもしない文章など誰が読むだろうか。ここ半年で作品への反応が一気に落ちた。コメントはおろか、ブクマも二桁止まりという有様。
ツイッターで作品アップの告知をしてもいいねは1つも付かない。
もちろん日常切り取り系にも挑戦してみたけれど、どう頑張って削っても8000字前後は書いてしまう(普段が数万字であることを考えるとこれでも私の中では進歩だった)。日常を切り取った中でもまた起承転結を付けてしまう。どうしても「物語」を書いてしまう。
htrのくせに伝えたいこと、書きたいもの、作風は常に一貫していた。読み手の皆様からすれば検索結果に出てくる邪魔なゴミである。
斜陽ジャンルのマイカーカプだから仕方ない……ここで書く人がいなくなったらジャンルが衰退してしまう……なんて言い訳で自分を奮い立たせながら強がって書き続けていたけれど、先日ついに心が折れた。
「普段小説とか読まないから字書きさんのページは正直飛ばしちゃうんだよね」
仲のいいフォロワーさんから出た一言だった。もちろん私が長文htr字書きであることは知っている。そして彼女は神絵師だった。
創作に携わる人間でも普段から小説を読まない人がいる。カルチャーショックだった。
ROMの方なら確かに分からなくもないのだが、産み出す側の人間でさえそうなのかと何も言葉を返せなくなってしまった。
「最後に小説を読んだのは読書感想文の課題だったかな。アニメは見るよ。漫画もたまに読む。映画?うーん、推しが出てたら……」
皆、物語そのものに対して興味がないのだ。読み手が読みたいのは「ほのぼのでラブラブで誰が読んでも理解できるセリフの多い日常の切り取り短文」であって、私のクソ文ではない。
その頃ちょうど、私はまた1つクソ長htr小説を完成させていた。自分で読み返してもわかる。これも伸びない作品だろう。
一度書き上げた作品は推敲したその翌日にアップロードするようにしていた。だけど、今回はそれができなかった。
ジャンルを離れよう。もうここで書き続けていても自分が壊れてしまうだけだ。
ツイッターにはちまちまと絵を投げていたけれどそれも全部消した。
絵も描けないわけじゃない。今まで出した本の挿絵や表紙は自分で描いてきた。そちらの道で勝負したほうが良いのではないかと何度も何度も考えた。
だけどやっぱり私は小説が好きだ。
作品の評価に拘る時間を減らして、これからは私生活を充実させていくつもりだ。
読みたかった本もたくさんある。家族との団らんを素直に楽しんで、今まで以上に仕事にも打ち込もう。幸い、職場はホワイトを極めたようなホワイト企業で仕事内容も楽しい。もちろん創作だって続けよう。
書きたいときに書きたいものだけを書いて、いつかまた活動したいジャンルが現れたときにオンでもオフでもなにか作品を出してみよう。
ジャンル移動というよりジャンル離脱と呼んだほうが正しいかもしれない。
女性向けジャンルは男性向けジャンルとは少し毛色が違い、作家ではなくジャンルに人がつく。ジャンルの切れ目が縁の切れ目である。
現ジャンルは活動者も少なく村社会化しているから、仲良くしていただいたフォロワーさんには少し申し訳ない。ただ、私のようなhtrが消えたくらいで衰退するような場所ではないだろう。
「検索するときこの人の作品が邪魔だなあ」くらいにしか思われていなかっただろうし。
今参加中のアンソロ(脱稿済)の献本が届いたらツイも支部もアカウントを消す。サイトはもう閉じた。
離脱する私が言うのも変な話だが、少しでもジャンルが長く太く息をしてくれることを願っている。これは本心だ。
こんなにもジャンル離脱に体力を奪われるものだとは思ってもいなかった。今から気が重い。いっそのこと、あの人がいなくなってよかったね、くらいに思ってもらった方が気が楽かもしれない。
それも私のわがままだな。