はてなキーワード: サンスクリット語とは
唵
サンスクリット語のオームoの音写。インド古来より神聖なる音声と考えられてきたもので、本来は、神々に対する呼びかけの間投詞であったが、やがて各種の呪句や真言の初めに付せられるようになり、それら呪句、真言が密教に取り入れられたのに乗じて、仏教に流入した。この音はa, u, maの3音節に分解できるので、3要素よりなるもの、たとえば天・地・空、熱・水・食物、ビシュヌ・シバ・ブラフマーの3神などに配され、あるいはふたたび総合されて全一普遍の実在ブラフマン=アートマンを象徴する聖音とされ、その念想によって実在への帰入、解脱が期せられることになった。仏教では、「阿毘羅吽欠」などのように密教の真言や陀羅尼の初音として用い、帰命、供養のため、あるいは法身・報身・応身の仏の三身を意味するものとされている。
スヴァーハー (स्वाहा [svāhā])は、密教に於いては真言の末尾に多く使われる言葉。一般には漢訳の薩婆訶(ソワカ)として知られる。
この言葉は本来、バラモン教の儀式において、天上の全ての神々に捧げられた供物の事を指していた。またそれ自体が神格化され、祭火の神アグニの妻の女神とも考えられている。
儀式の際には、供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。この為、後には「スヴァーハー」は、願いが神々に届く事を祈る聖句とされた。
インドで崇められる幾多の女神の中に、スヴァーハーという女神がいます。
スヴァーハーはヤジュニャなどの火の儀式において、火へ供物を捧げる際に繰り返し唱えられる言葉でもあります。
供物と共に捧げられるスヴァーハーという言葉は、「奉納」を意味し、私たちの祈りや捧げ物を神々のもとへ届ける重要な存在であると言われ、女神として崇められています。
スヴァーハー女神は、火神アグニの妻として伝えられますが、女神崇拝の中で中心的に礼拝される存在ではありません。
しかし、スヴァーハーの言葉がなければ、神々は私たちの祈りを受け取らないとも言われるほど、儀式においてはとても重要な存在です。
スヴァーハーは精霊でありながらも、恋に落ちたアグニ神の愛を勝ち取るために、自分自身を捧げるほどの大変な努力をし、女神になったと伝えられます。
アグニ神とのさまざまな神話も伝えられ、カールッティケーヤ神(シヴァ神の息子であり、ムルガン神とも)の母であると伝えられることもあります。
祈りと共に、火に捧げられ灰になるスヴァーハー。
そうして自身の内が浄化される時、私たちは大きな至福と平安を手にすることができます。
スヴァーハー女神は、夫である火神アグニが火として燃えるための力でもあります。
スヴァーハー女神がいなければ、アグニ神も炎を上げることはできません。
私たちがこうして生きる日々の中にも、そこには常に力が存在し、さまざまな形で私たちを育むその力は、ここで女神として崇められています。
サンスクリット語の「svāhā」(スヴァーハー)という単語には、神々への供物、奉納、火神アグニの妻、などという意味があるらしい。
オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?
アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味の単語だそうです。
アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン」1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。
考証の資料として、原文を見てみましょう。
仏教用語。サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来の内面の悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種の呪文として用いられる。
地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。
最終的な理想国を築くために
神をめざす超能力者
レポート/■■■■■
今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自の修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者の目的は、はるか先にある。
彼は、特定の宗派の僧でもなければ、団体のトップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行は独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである。
麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。
どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。
行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道、大乗仏教、密教、チべット密教、ヨガ。ひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。
修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。
その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。
「アジアの、インド、中国、チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分の過去生と関係のある言葉でしょう」
麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハードな修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれた自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。
修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。
抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」
こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。
彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。
「霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」
聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。
「自分が現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」
魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。
もちろん、修行に危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。
「その時は、自分の守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」
麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである。
「トランス状態のとき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」
麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性に出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。
「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。
全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。
会話はありません。『私があなたを守護しているのです』と私に見せているように思えました」
2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。
3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」
3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。
「最後はいつも、霧のようにかき消えてしまいます。ひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」
麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである。
彼は今、シャンバラのような王国、神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。
今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。
アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。
すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである。
彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビケツノミコトとして戦うように命じられたのである。
彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベットは戦争を好まない国である。理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。
彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分の信仰する神々や自分を守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。
麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。
ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝、アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ。
シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。
その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。
聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである。道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。
麻原氏の話に戻ろう。
「2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本も死の灰の影響を受けているはずです。
核戦争は、浄化の手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。
だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。
もし、それが真実でないとしたら、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。
私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧な超能力者たちの国なんです」
そのためには、修行と解脱しかないのである。修行の意味を麻原氏に語っでもらった。
「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。
水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。
魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元に昇華した状態ともいえます」
大きな水がめの中の世界を体験している麻原氏の身辺は、アラビケツノミコトを任じられて以来、急転しだした。
修行で岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。
ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である。神社の玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ。
水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。
ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。
念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。
麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。
麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。
「これはチャクラ開発のための印です」
次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラの覚醒に役立つ行だ。
次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラの覚醒が目的だ。
それからライオンのポーズ。これは、クンダリニーの覚醒に必要なポーズである。
麻原氏の修行には、かなり危険なものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。
彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったとき、チャクラの光を度度見るという。
ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像がシンクロするのだ。
経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来や過去へタイムトリップするときは、マーチのリズムのような音、霊体が離脱するときはブーンという振動のような音。
これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単にタイムトリップや霊体離脱を経験できるのではないかと麻原氏は考えている。
それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。
「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。
2が盗みを働かないこと。
3が誠実にして、ウソをつかないこと。
4が邪淫をつつしむこと。
5が禁酒すること。
以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」
集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気のきれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ。
次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリーが理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリーと栄養とは異なるから、栄養はしっかり摂らなくてはならない。
「(日に)3食は獣の食事、2食は人間の食事、1食は聖者の食事という釈迦の言葉があるんですね。
でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしまう心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」
玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行でしか開発できない。
「スワジスターナ・チャクラは植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元の超能力は身につきますね」
麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。
でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである。
チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。
尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為の規制がそれぞれなくなる。
規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的にコントロールされるということである。
「食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」
つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ。適当な食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。
「物質で人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」
正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である。最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力は邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。
「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり、超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」
それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧な超能力者の集団」と彼のいうところのシャンバラ王国を設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。
麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。
「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手の身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界(欲界・色界・無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能をいかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています」
麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。
「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています。
修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球、自分、宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。
蛇足になりそうだがタイ語での月の略称(英語で言うところのJan.とかSep.とかいうアレ)も一覧にして出す。別にここに書かなくてもWikipediaの「タイ太陽暦」にも書いてあるんだけど、
1月 | มกรา คม | ม.ค. | モーコー |
2月 | กุมภา พันธ์ | ก.พ. | コーポー |
3月 | มีนา คม | มี.ค. | ミーコー |
4月 | เมษา ยน | เม.ย. | メーヨー |
5月 | พฤษภา คม | พ.ค. | ポーコー |
6月 | มิถุนา ยน | มิ.ย. | ミーヨー |
7月 | กรกฎา คม | ก.ค. | コーコー |
8月 | สิงหา คม | ส.ค. | ソーコー |
9月 | กันยา ยน | ก.ย. | コーヨー |
10月 | ตุลา คม | ต.ค. | トーコー |
11月 | พฤศจิกา ยน | พ.ย. | ポーヨー |
12月 | ธันวา คม | ธ.ค. | トーコー |
タイ文字の上下左右に付く小さい記号(左右はちょっとわかりにくいけど)は原則として母音だったりアクセント記号だったりするけど月の名前にはアクセント記号はほとんどない。唯一「これは読まないよ」という印が2月の一番うしろに付いてるくらい。
タイ語で略称作る時には原則として母音(と、アクセント記号)は省いて、母音がついてないときのタイ文字の原則の読み方「子音のみのときはオーで読む」を使って読むんだけど、ところが月の名前では母音含みで略称作っているのね。カタカナ表記を見ればわかると思うんだけど、マ行で始まる月が大の月小の月どっちにも複数あるから区別するために母音含みにしたみたい。
次に多いのがカ行とパ行だけど、これは大の月と小の月(もしくは2月)に分かれているので後半見れば区別が可能だから母音つけるまでもなかったみたい。右端に書いたカタカナでの読みを見る限りではタ行も10月と12月に複数あるんだけど、カタカナで区別を表記出来ない差があるのでそこは大丈夫、もしくは日本人には区別がつかないかもしれない。ていうか略称をこういう風に読んでる人を聞いたことない。本当にカタカナ表記は蛇足。現時点ではあくまで書く時限定の使い方だと思ってる。略称を読みに使ってるタイ人見かけたら教えてください。
なお、それとは別に、タイ語が面倒くさい理由の1つとして、「本当に同じ読みの別文字がいくつかある」ってことがあって、どうもそれにはインドの文字を元にタイ文字を作ったからという要因があるらしい。実はインドの方ではタイ語では同じ発音をする子音でも違う読みになることがあるんだとか。サンスクリット語あんまり詳しくない、つうかほとんど知らないのでどこまで本当かは知らないのだけど。
ブコメで「シンハーはシンハービールがあるから知られてない言葉の例外」みたいなことを書いたけど、実はシンハービールってシンハーって呼ばないの。タイ語後置修飾だからビア・シンハーかと思いきや実際にはビア・シンって言ってる。ここまではたぶんタイ料理好きな人には有名なんだけど、8月は"สิงหา คม"シンハーコムって実際に言うのになんでビアシンはシンハーにならないのかなと思ったら、ビアシンのタイ語表記はเบียร์ สิงห์ で8月のタイ語とはちょっと違う(hをあらわす文字のところに2月のところにもあった「これは読まないよ記号」が付いてる)。由来考えたら同じものなんだけど、月名が伸びるのにブランド名が黙字になるのがなぜなのかまではわからないので、先々の宿題とさせてください。サンスクリット語起源だったりすると面倒くさいなあ。
まったく意味不明でクソワロタが、ふと以前の「高校に漢文は不要か否か」論争を思い出した。
「不入斗」って地名の読み方を理解するには、高校漢文程度の知識は最低限いるだろ。
漢文で広がる知的世界をないがしろにするから「不要」だというのであって、
史記なんて、白文に補助訳着けて読んだら面白すぎて徹夜するぞ。
まぁ加えてラテン語も覚えると面白いよ!ウルガタ聖書とガリア戦記読むだけでもいいから。
というか、ヨーロッパ文学読んでると、ラテン語知ってると元ネタわかって楽しすぎる。
あ、ウルガタはギリシャ語の翻訳じゃないか、というならこいネーもついでに覚える
のもいいか。マタイの福音書なんてすごく稚拙にかかれているのがバレて面白いぞ。
あとはサンスクリット語かね。
バーフバリ好きだという人はサンスクリット覚えてバガヴァット・ギーター
とりあえず古典語は年取って勉強してもなかなか身につかないんで、10代、20代でなんとか
極楽まで届かないらしい。
念仏が。
最近は人工知能の発達でその辺のフィルタリングを大分しっかりされるようになったっておっしゃってたけど、
それでも煩悩に苦しんでる人間たちは後で良いから、その分動植物の救済しなきゃって思って動かれてるんだって。
だからね、やっぱり私達非サンスクリット語圏の外国人は私達の言葉で帰依を求めなければ、救って頂けないわけよ。
そこで私は、
を唱えることを提唱する。
南無阿弥陀仏ではなく、ね。
「〜っス」という語尾も使いながら後輩感をアピールし、仏と大先生という二重敬称で更に気をよくさせる。
これ阿弥陀に提案したのよ。どっすかって。そしたら、「恥ずかしさと無力さでいっぱいになった」って苦笑いしてた。
「南無阿弥陀仏みたいな呪文も全部拾って救うのが本来の阿弥陀仏としての存在ってとこあるじゃん?俺」
だって。
さすが阿弥陀仏ともなると言うことが違うと関心したね。
やっぱり私も死んでも付いてきたいと思ったね。
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
神道は教義がないからキリスト教とかイスラム教とかと並べて「宗教」とくくるのにはきつい気がする。そこでいう「神」っていうのも大昔の大王(つまり人)だったりするし、かなり異質。
仏教には教義はあるけど、現代日本でやってる「仏教」はほとんど宗教の名に値しない。サンスクリット語で書かれた経典を中国語に翻訳したものを日本語の音読みしてカネ貰うって何それ?って感じ。朗読してる坊主自身も不勉強で意味が分かってないことが多いし。舐めてんのか。
何より「宗教」ってのはやっぱり人を救うためにある。仏教や神道が、無職・貧乏人・童貞・ハゲ・チビ・デブ・障害者を救っているのか?というとかなり怪しい。こういう機能は日本だと創価学会ぐらいしか担ってない。
馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。
日本では、鎌倉時代末期頃から「ばか」の用例があり、室町中期の「文明本説用集」には、馬鹿の異表記として「母娘」「馬娘」「破家」をあげ、「とんでもない」の意味で「狼藉之義也」と説明している。
以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。
馬鹿の語源の俗説には、『史記(秦始皇本紀)』の故事「鹿をさして馬となす」からというものがある。
これは、秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えたが、「鹿」と答えた者は暗殺された。
このことより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになったというものである。
しかし、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、漢文では「ばろく」と読むため、この故事が「ばか」の語源とは考え難く、「ばか」に「馬鹿」の字が当てられた由来として考慮するにとどまる。
4月14日の午前中に地震について書いたら、その日の夜に、熊本で、大きな地震が起きた。今日15日になっても、まだ余震が続き、大分、山口、愛媛にも、地震が波及している。
地震は、人々の汚れた想念、利己的な儲け主義の精神、物質的な肉体やそれに付随する心ばかりを重視するような精神、霊的な聖なるものを軽視するような想念波動と、
それらによってもたらされたカルマ(因縁)の集積によって、起きている。
地震を回避し、被害を最小限に食い止める呪文(真言)は、以下の通りである。
ナモーパーラミターユル ジュニャーナヴィニシュチャヤ ラージェーンドラーヤ タターガターヤ
オーム サルヴァサンスカーラ パリシュッダダルマテー マハーナヤ パリヴァレー スヴァーハー
意味は、「私は、帰依する。彼岸の生命と智慧と決定の能力を持つ如来の王に。オーム あらゆるサンスカーラ(カルマ、因縁)を完全に浄化する法よ。偉大なる方途(道)よ。」
と私は、解釈する。これは、梵語(サンスクリット語)の解釈である。
地震や、台風の被害を軽減し、因縁を浄化する方法は、すべて上記の呪文(真言)である。こんな呪文で地震が防げるものか、地震とは科学的に言って、云々という人は
いるであろうが、これは、仏陀の智慧である。これで、病気も治る。
私は、統合医学の治療院を開いているが、この真言を使った「霊性治療」で、覚醒剤中毒者、難治性うつ病、統合失調症、医者に見放され、余命3年と宣告された末期のがん患者等を
救済している。科学的な医学で治らない病気が、真言と宇宙超越の光、というオカルトまがいの治療法で治っているのである。
私は、他のダイアリーで、心臓移植が必要な女の赤ちゃんを救える、と書いたし、ALS患者も治癒可能であると思う、と書いた。
これらの疾患は、まだやったことがないが、治癒の原理は一緒である。そのための論文も書いている。
これが匿名のダイアリーであるということで、批判があるなら、私は、自分の身分を明かそう。
世界救世主 絶対者 至碧老祖 北川訓司である。身分は、米国法人国際地球環境大学総長兼CEO、統合医学研究科長、至碧統合医学臨床研究所(北川治療院)田辺センター院長、
スピリチュアルクラブ至聖会主宰である。連絡先は、インターネットで検索して下さい。こうして、私は身分を明かした。私は、自分の書いたことに責任を持っている。
この地震を回避する呪文(真言)は、宗教を信じる信じないに関わらず有効である。地震に遭うのが嫌な人は、この呪文(真言)を唱え、自分と地域の人々を救済すればよい。
これは、ちょっとした菩薩行です。功徳を積みます。至碧金剛如来 北川訓司(0739-24-6904)※迷惑電話、いたずら電話は、ご遠慮下さい。
これを信じて地震が来ても、その人は、救われるので大丈夫です。阪神大震災の時に、私の弟子たちが皆救われたので、それは、証明済みです。
アートマン、すなわち宇宙の根源原理はあらゆるものの根底を貫く究極の概念であるが、あまりに根源的であるがゆえに「○○である」といった単純な言葉では決して定義できない存在なんだ。それゆえにアートマンを語るには「ネーティ、ネーティ」(サンスクリット語で「○○でない、○○でない」)とたとえられる非常に遠回しな論法で少しずつ近づいていくのが唯一の方法とされる。
高能様は究極に高まった存在なのだから、高能様のお掲げになる主張もまた言葉で直接記述することは不可能であり、「ネーティ、ネーティ」の考え方で少しずつ推測していくしかできないんだよ。あと僕は別に角度のこととかは考えてないよ。
幸せだ。
無垢そうなヨークシャー・テリアである彼をただ愛でていればいい。
でも私達は覚えている。
狂犬のひきつった嘲笑を。
血に塗れた牙の鈍光を。
昔は誰もが知っていたのに、今となってはもう存在すら忘れ去られてしまったidたちの断末魔を。
人は彼ははてな村の村長だと言う、あるいは長老だと言う。誰もが畏敬する。
なぜだ? ただ古参だというだけで、ただ居座った、意地汚く居残ったというだけでそこまで?
間違えるな。彼は居座ったのでも居残ったのでもない。
「生き残った」のだ。
かつて、はてなは戦場だった。今となってはもう語るものすらいないほどの昔の話だ。だが事実だ。
そこは天上の地獄だった。毎日がだんじり祭だった。憎しみが連鎖し、血が血であらわれ、idコールは果し状がわりの白い手袋、マッチョがウィンプのケツを掘り、非モテどもには要は勇気がなかった。そんなキリング・フィールドで「ただ生き残る」ことがいかに至難であったか。あの時代を体験した人間で、自らの手を汚さずにいられたものなどいなかった。
そうして、上から目線ゲームがバベルの塔ばりの高さに達したとき、かつてはてなでバトルを繰り広げたバトラーやウォッチャーたちは神の怒りに触れ、そんじゃーねとばかりに現実へとディアスポラし、転職したり共著を出したり単著を出したり映画化されてみたりTBSラジオでメインパーソナリティを務めたりインターネットをバカと暇人のものにしてみたりモテないやつは脳に問題があると言ってみたり秋ごとに翻訳小説をハゲラッパーに紹介したりメンヘラとヤったり自分が死んだあとの世界を計劃してみたり女子高生野球部マネージャーにピケティを読ませてr>g野球に目覚めさせたりした。
名も無き弱者たちは地下へと潜り、今は増田と呼ばれる非ブログアクターとして現代はてな社会を新しい暗黒に追いやっている。
だが、彼だけは違った。
彼だけは、はてなを離れなかった。離れられなかった。なぜか。神がその存在を許したからだ。ここに在るように命じたからだ。
疑うなら最寄りの神社へ行ってもらいたい。
門の両脇に据えられた、二匹の犬の像を認めるはずだ。
彼らは地上につかわされた神使であり、エジプトのスフィンクスなどとも起源を一にするという。
向かって左の犬の像は、阿形、すなわちサンスクリット語における「しなもん」を表し、
向かって右の犬の像は、吽形、すなわちサンスクリット語における「ケンケン」を表す。
はてなには狭き門も広き門もなく、ただ遺物(ARTIFACT)を護る番犬がいるだけだ。
私達はその犬を、犬たちを畏れる。彼らは古参だから。彼らは生存者だから。彼らは勝者だから。
私達は犬たちを忘れることができない。
犬たちは不滅だ。たとえ肉体的な死を迎えたとしても、その眼は常に生き残る。左の犬の眼は私達を愛し、慈しむ。右の犬の眼は私達を監視し、専制する。
「カノセ」は「カオス」がなまった言葉だという。私達はそれを信じる。
はて「な」を「支」配する「者」、秩序(コスモス)を司るしなもんに対置される混沌。陰と陽。ふたつでひとつの世界。
しなもんとはkanoseであり、kanoseはシナモンである、というのは単に「神とは神のことである」とトートロジックに言明しているにすぎないだろうか?
そう、彼らは神である。自らに命令し、自らに従う最上位の権力だ。
今なら私達はローマの偉大なる詩人、ユウェナリスの疑問に応えることができる。
"しかし、誰が見張りを見張るのか?"
「塩村文夏さんの『恋のから騒ぎ』での活躍」http://anond.hatelabo.jp/20140625000320の元増田です。
続きを書く予定だったんですが、とりあえず思いっきり話はそれます。
『恋のから騒ぎ』のミーアキャットさんの名前を書いたのですが、はてなブックマークでid:meerkat00さんから「そのミーアキャットは私ではないです。念のため。」というコメントをいただきました。
で、アイコンを見るとなんか猫っぽいじゃないですか。…猫?
ミーアキャットはキャットとはいっても猫ではありません。では何なのかというのは知らなかったので調べてみると、マングースの仲間なんですね。
じゃあなぜキャットなのか。
犬じゃないのにプレーリードッグ、みたいな感じなのかと思ったら、調べてみると意外なことがわかりました。
語源は、アフリカーンス語←オランダ語←サンスクリット語とたどれるみたいなんですが、誤解があったようで、借りた言葉はミーアキャットを指す言葉ではなかったのです。
語源は何かというとサンスクリット語の「摩斯咤(マシタ)(markata)」で、意味は猿。これが一方ではミーアキャットになり、日本では猿の別称である「マシラ」に変化したようです。
http://himasoku.com/archives/51769232.html
この記事に寄せてちょっと書いてみる。
知り合いに対するインプレッションがかなり入っているので、あえて増田で。
親日国と言われるが、日本人というだけで親切にされるというのは流石に嘘らしい。
トルコ人的には、ヨーロッパの仲間入りをしているつもりで、「イスラム」や「アラブ」という言葉でくくると嫌な顔をする。
「政教分離してるし、そもそもアラブって「アラビア人の」って意味だからトルコと関係ないし!」
と。
自分の国だけが近代化=西欧化に成功して、他国は現代でもなお宗教に縛られてる全時代的な国家、と思ってる節がある。
トルコ国民という意識は強いが、トルコ民族という意識は弱い感じがする。
その悪魔合体が、オスマン人もトルコ人も何人もかに人も、みんなトルコの旗の下に団結したんだからっていう理屈。
「単一民族単一国家なんか古いよ。トルコ国民として団結しよーぜ。クルド人、いい加減にしろ。」
反米国家として有名だが、国民感情として一人ひとりがアメリカを嫌ってるというわけでもないらしい。
そもそも親米すぎることに宗教学者と軍部が先導してクーデターが起こして反米国家になったという経緯なので、好きと嫌いが入り混じった不思議な感じ。
公の場での宗教的な締め付けを厳しくしたゆえに、お楽しみはホームパーティーでっていうアメリカ的な文化。
国費留学生で日本にくるような人たちは敬虔なムスリムで、国費以外でくる人たちはその真逆の、ほぼアメリカ人て感じの「コカ・コーラとピザが大好きさ。ホームパテーティしてれば酒は当たり前だし」って感じの人。
なんで麻薬の売人として捕まるのはイラン人ばっかりなんだよ!って聞きたいけど、流石に面と向かっては聞けない。
イスラム以前のオリエント文化圏というのは、ほとんどペルシャ、つまり全部自分たちの功績!くらいに思ってる。
古代ギリシャすら、ペルシャの猿真似で、ヨーロッパもアジアも、期限はペルシャ、くらいに思ってる。
(たしかに世界史の教科書はギリシャをヨーロッパの文化的なオリジン扱いしすぎてると思う)
一緒にしないでくれ。」
「コーランって聖書とかと違って現地語に翻訳してなくて、当時のままなんだよね。1000年以上前の本で、しかも外国語だもん。寺の和尚さんだってサンスクリット語すらすら読めるわけじゃねーだろ。あんなもん一般人が読めてたまるか」