極楽まで届かないらしい。
念仏が。
最近は人工知能の発達でその辺のフィルタリングを大分しっかりされるようになったっておっしゃってたけど、
それでも煩悩に苦しんでる人間たちは後で良いから、その分動植物の救済しなきゃって思って動かれてるんだって。
だからね、やっぱり私達非サンスクリット語圏の外国人は私達の言葉で帰依を求めなければ、救って頂けないわけよ。
そこで私は、
を唱えることを提唱する。
南無阿弥陀仏ではなく、ね。
「〜っス」という語尾も使いながら後輩感をアピールし、仏と大先生という二重敬称で更に気をよくさせる。
これ阿弥陀に提案したのよ。どっすかって。そしたら、「恥ずかしさと無力さでいっぱいになった」って苦笑いしてた。
「南無阿弥陀仏みたいな呪文も全部拾って救うのが本来の阿弥陀仏としての存在ってとこあるじゃん?俺」
だって。
さすが阿弥陀仏ともなると言うことが違うと関心したね。
やっぱり私も死んでも付いてきたいと思ったね。