はてなキーワード: アンビバレントとは
内容はともかくとして反応ありがとう。君の怒りはほぼほぼ想像がつく。おれもそこまでお人好しじゃないから自己解決をたのむよ。
それはそうと「一触即発の矛盾」って概念があってね。一種の手口だな。人間はアンビバレントな感情とか認知的不協和といった
ものにまことに弱い生き物だ。平たく言えば我々は「気になる」ことにとても弱い。気になる刺激に弱いとも言える。
メールの返信が気になる、ドラマの続きが気になる、ネットの掲示板が気になる、とかな。心当たりあるだろうが。
この「気になる」同士が衝突することで気持ちに「対立」が起きてそこから論理矛盾を抱えた認知に行き着くわけだよ。分かるかな?
そしてどう頑張っても論理矛盾のあるものは理解できないから、攻撃行動に出たり見て見ぬフリしたりするわけ。心理学では闘争か逃走と言う。
なるほど確かに闘争か逃走するのがその時は妥当かもしれない。けど未来永劫それを先入観として抱え続けるのは果たして正しいことなのだろうどうなのだろうか?
これらを見事に解決する魔法の言葉があってなそれを教えよう。「こまけえこたぁいいんだよ」。これである。もう1つ。「まいっか」。これもである。
どんな困難に陥った時も「気になる」対象に対して頑張るのではなく、逆に「気にしない」ことを頑張れば未来への扉が沢山見えてくる。
その扉に飛び込めば解決できるかはわからんよ?けど解決できないとも断定できまい。行けば分かるさ。お互い頑張ろうじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20140824121313
http://anond.hatelabo.jp/20140824123922
アホ言うな。女女ちゃんはカワイイやないか
私すっぴんな事が悔やまれる(´・_・`)10;プロレスラさんと撮ってもろた(≧∇≦) pic.twitter.com/EcCaEVqIqZ— アンビバレント女々 (@mememememiti) 2014, 8月 19
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
なんか起きたら視野が狭くて目が変と思ったらめっちゃ腫れてとる10;何で!?(´・_・`)10;目が見えんから仕事休んだ pic.twitter.com/QP9sdwk6JC— アンビバレント女々 (@mememememiti) 2014, 8月 17
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
ぱろぺろさんに便乗♪( ´▽`)10;ウォッカうまい誰か再婚して♪( ´▽`) pic.twitter.com/z5ZQLq9Nax— アンビバレント女々 (@mememememiti) 2014, 8月 8
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
女女ちゃん結婚しちくり~
奥さんの(ネガティブな)個人情報をたれ流しネット民に奥さんを叩いてもらおうとするも、その卑怯なやり方をネット民に見抜かれ軽蔑される。
同情を引こうとする甘ったるい構成と文体が最高に不快。斉藤の弟子であるコウモリが同じように奥さんを戦場に晒して傷つけているのも納得である。
ナースの個人情報を最低限守り、またナースの悪口も一切言わない青二才とはまことに対照的である。
http://www.open.sh/entry/20140823/1408793409
齊藤貴義 https://twitter.com/miraihack
謎の立ち位置。斉藤やコウモリの仲間かと思えば、斉藤やコウモリが炎上すると、他のブクマカーの尻馬に乗って一緒に叩く。
「自分に責任は無い」「自分には関係ない」というスタンスを保ちながらイッチョ噛みをしようとする無責任男の典型である。
何かにコミットしておきながら一匹狼というのはありえない。フラットな立場に居たいのならもっと孤高であれ。
コウモリよりもコウモリっぽい言動の数々では信頼は得られないであろう。
こいつの「○○は織り込み済みでした」は、青二才の「それは意図的にやってます」と同じで
根拠のない無敵の防御法であり、そんなものを使う人間が信用されないのは当然のことなのである。
shields-pikes のブックマーク/2014年8月23日 http://b.hatena.ne.jp/shields-pikes/20140823
netcraftとshields-pikesの違い http://anond.hatelabo.jp/20140823010629
憧れのはてな民たちがやっている青二才へのツッコミを自分もやろうとするが、青二才の何がダメなのかを指摘することができず返り討ちに会う。
はるかぜちゃんと同じく、他者に対して無礼に振る舞って一気に距離を縮めようとする怠け者である。
論理的なやり取りはできないものの、「ほのめかし」は非常に上手いので、ほのめかしを無視できないタイプの人間はたちどころにやられてしまう。
青二才と同じく、他者の言っていることを50%くらいしか理解しない。
自分の急所に刺さるような言論は曲解を用いて緊急回避してしまうので(無意識の防衛機能なのだろう)、いつまでたっても相互理解が進まない。
しかしid:mememememitiの小学生レベルのちょっかいには耐え切れず精神を崩壊させる。
小学生レベルの単純な攻撃の方が「曲解」を用いることができず、モロに精神に刺さってしまうのではないか。
私論:
斉藤がここまで自分の人生のおもしろエピソードを披露してきたのも、全ては奥さんとの離婚をみんなに祝福してもらうためである。
斉藤の人生の整理にはてな民はつき合わされていただけなのであるが、そういうとこに気づかないサイコパスのカモのような人間は斉藤に好感を持ってしまうわけである。
奥さんが胃がんであるということを奥さんの了承も無くネットに晒している。
嘘であれば、斉藤はただのオオカミ少年であり、これまで披露してきたビックリ人間エピソードにも疑いの目を向けざるをえない。
何が本当で何が嘘かわからないのである。こういう不誠実な人間に人生の切り売りをされても嬉しくはない。
http://www.open.sh/entry/20140530/1401459085
2014-06-24 離婚しようと思っている。二次元に撤退しようかな
http://www.open.sh/entry/20140624/1403544679
http://www.open.sh/entry/20140627/1403812332
http://mememememiti.hatenablog.com/entry/2014/08/13/062706
(魚拓)http://megalodon.jp/2014-0826-1358-04/mememememiti.hatenablog.com/entry/2014/08/13/062706
http://anond.hatelabo.jp/20140823191814 http://anond.hatelabo.jp/20140824015126
http://anond.hatelabo.jp/20140824145002 http://anond.hatelabo.jp/20140817161450
http://anond.hatelabo.jp/20140826213912 http://anond.hatelabo.jp/20140827103952
http://anond.hatelabo.jp/20140828041612 http://anond.hatelabo.jp/20140828104837
http://anond.hatelabo.jp/20140927134224 http://anond.hatelabo.jp/20140927171856
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アカレンジャー 齊藤さん(id:netcraft)
___ / 1 \ / / ̄v ̄ヘ |(:::::::::| Web業界黒歴史なら任せろ!汚物は消毒だ~!いちじくアタック!! 「「「「|\_个_ノ ヒ_つ、 | / ト-丶_>ー亠イ、 `\_ \\ //丶 / 丶 \Y/ || / |__|_{ミノ ~~|_《‥》Y
___ / 2 \ / / ̄ ̄\ ヘ |<::::::>| 言いたくないけど、経済とエロスに強いはてなブロガーといえば僕のことだよ | ⌒|::|⌒"/ く\ |::| ノ7 >`ー―イ―ヾ、 ( |\_/| 丶 /丶\\// イ〉 ) / /|_\/_/^/ ~(ッ|《个》(_ )
キレンジャー コウモリ(id:Rlee1984)
___ / 3 \ / ____| |(:::::::) 僕は高卒のほうが東大卒より価値が高いと思っているのであえて学歴を捨てて… <丶 ̄ ̄ ̄~/> (⌒\__/⌒丶 `/>、 ~~~⌒γ⌒) / | `ー――^ーイ
モモレンジャー アンビバレント女々(id:mememememiti)
___ / 4 \ /(⌒v⌒丶ヘ |丶 / | 怖いからシーサーブログで書いてます。うちに近付かんほうがええよ。ほなね~ 丶 \/ ノ く >ー―イ> /⌒ ⌒丶 `/(/\y/丶 ) \ ( 丶\Y///> ) ノ\^)\ / (ミ^_ン\ ゙-[(^^)二ニ]~
___ / 5 \ /r^、 /^ヘ| |ヘ::\/::/| フクシマのメルトスルー問題を直視しないはてな民はメンヘラ。恐ろしい恐ろしい 丶 \::::/ / <丶 \/ /> {々)r->ー―<ー、 |-レ′|\ /| 丶 L_/|\\//|) ) / |\\//{ミソi ゙~~[二{V}二]~~′
俺らはメンヘラ。
読者もメンヘラ。
敵は弱い心、そうだ心のなかの弱い自分と向き合え!!
なんだバトルか、最初は批判、次は因縁つけて罵倒、おっと上から目線の冷笑か!
ちきしょうやりやがったな、今度は倍にして返すぜ!
はてなブログもはてなブックマークもTwitterも非公開に。
http://mememememiti.hatenablog.com
http://twitter.com/mememememiti
Seesaaは生存確認。
http://memeadiction.seesaa.net/
はてなーは生きのいいブロガーさんを見つけると、なんで潰しちゃうのかな?
いじめてない、いじっただけとか考えていたら大間違いだからね。
特にid:kiku-chanとid:takahashiakemiとid:topisyuはちゃんと胸に手を当てて考えてみなさい。
女女さん早く帰ってきてー。
なんて言うかアンビバレント女々さんの強がってるけどナイーヴ丸出しな感じが女性のスタンダードって感じで微笑ましい。
別に馬鹿にしてるわけじゃなく女性の殆どがこうだよなって。女性なんてさ 理屈なんて通じないでこんなもんなんだなって割り切った上で
支えるんだよって若者に伝えるための教材みたいな人だよね。
会場では遠目に見ていただけでヒトコトも話しませんでしたが(わたしは絵に描いたような増田なのでコミュ障です)、
彼女は本当に35歳とは思えないほど美しかった(25歳かと思った)。
女・28歳・一人暮らし・貯金850万・フリーター・バツイチ。
seesaaやアメーバでブログをやっているけど、普段の読者には読まれたくないことを書きたい、かつ反応が欲しい、とか、
そういう人たちの場でもあるということ。ここ増田が。
決して、idを出さない卑怯者の巣窟とか(そういう人もいるのかもしれないけど)、それだけの場ではないということ。
増田がなければ、女女さんがはてなでブログを書くこともなかっただろうということ。
そういうことを言いたかったです。
たたかれ過ぎのような。
ぼくがプロレスを本気にし過ぎてるだけなのかね。それならいいんだけど。
青二才さんのオフレポの最後の一文「言いたいことは…察して」の本意が分からん。
最初読んだ時、ぼくはコウモリさんへの祝福の意だと解してたんだけど、違ったのかな。
「何かもっと軽いノリで、キャッハウフフ&うぇーいしてる人達と、それを遠めに三角座りして見てる人達がおるみたいな感じやと思てたわー。」
って書いてて、まさにプロポーズはオフ会をそんな感じにさせる燃料になってると思うんだけどなぁ。プロポーズは軽いノリを越えてたのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20140628125458
ちなみに私はアンビバレント女々さんがOKなら結婚も考えていますよ。
いつも疑問なのですが、みなさんの思う一般的な純粋な出会いとやらで何年も続いてるカップルがどれほどいますか?
http://anond.hatelabo.jp/20140627152631
みなさん茶化してますが僕は本気ですよ。
もしアンビバレント女々さんがOKしてくれるなら匿名をやめる予定です。
ただ、万が一アンビバレント女々さんがOKしてくれた場合、問題が発生します。僕がオフ会に言ったら「こいつはこの後セックスできるんだ」と男性陣に嫉妬されます。余所余所しい空気になること間違い無しでしょう。
なので、良い事を思いつきました。はてなの非モテ諸君は勇気を出してセックスがしたいと叫びませんか?セックスがしたい知的なはてな女子も大勢いるでしょう。みんなセックスして楽しみましょう。不健全ですか?でもオフパコってそんなに悪いことでしょうか。結局のところ人間勇気を出して一歩前に行くかどうかですよね。イケダさん的に言えば「いつまで一歩前に踏み出さず非モテはてなで消耗してるの?」って話ですよ。あ、赤木智弘さんもセックスがしたいと一緒に叫びませんか?
ちなみに僕のスペックは28歳で性欲が強いフリーターです。好きなAV女優は成瀬心美で、好きなアイドルはももクロのあーりんとモー娘。の譜久村聖です。この計画の問題点はアンビバレント女々さんがOK出した瞬間に僕の偽物が複数名乗り出ることですね笑
その1:「私が交際相手を得られるわけない。得られない相応の理由があるし自分からも得ないようにしている」とtwitterでつぶやいたり、会話の中で言う人ほど意外と異性への関心があって異性との交際にこぎつけ上手く行ったりする。自分のことをモテナイ、「喪」なのだと言う人は、モテたい欲求が充分にありやがては目標に到達する。
その2「私は○○(ここには職業とかが入る)志望です。それに向けてこれこれを今は頑張ってます」的なことを言う人は意外とそれになれない。最初から志望していない人が紆余曲折を経てそれになる場合が多い。
と27年生きて人を見てきて思う。なんか整合性があるようだしアンビバレントな気もするし…、ま、ともあれそんな感じがするんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130529230131 の続きです。長くて途中で途切れるため分けました。このエントリで紹介するのは以下の本です。
影響を受けたブログは20冊の本を取り上げていた訳だが、自分で真似をしてまとめていく内に20冊よりもずいぶん多くなってしまった。なので、上記4冊は似たテーマなのでまとめて紹介することにする。この節は日本人の自伝だ。
「名人に香車を引いた男」は昭和の将棋指し(棋士)の升田幸三名人の自伝。羽生善治さんがもし生きていたら是非将棋を指してみたい棋士の方だと聞いたことがある。
生き方はなんとも痛快。昔の人のバンカラな感じというか、そういう感じが良く出ている。この人のように、どんな人にも自分の本音を話せる人は今日本の中にいるだろうか。そして、名人になった時の一言が心に残る。
「八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語」は糸川英夫さんの自伝だ。この方はロケットが専門の研究者で、戦時中は戦闘機の設計に関わっていたり、戦後もロケット開発に関わっていたりする方だ。戦後間もない時期は失意に沈んだ時期で自殺も考えるほどの状況だったが、バイオリン製作がきっかけで少しずつだが自分を取り戻していく。そのバイオリン製作には完成までに40年以上もかかった。そのバイオリンとは――。
升田幸三名人、糸川英夫さんの両氏とも戦争の影響が人生に大きくのしかかる。その点でまとめさせてもらった。それと、両氏の著作とも読んでもらえばわかるが、自由だ。それ以外はあまり共通項はないけれど、読んで楽しい本だ。重い話はないし、読みやすい本なので手に取ってみてほしい。
「記憶の切繪図」は「フェルマーの最終定理」の中で登場する志村五郎博士の自伝。「フェルマーの最終定理」の中でサイモン・シンさんは志村さんにいろいろインタビューしている。その中で数学における「良さ」とは何なのか、それに答えるシーンがある。その答えが簡潔なのだけれど、それ以上無いくらい志村さんの数学のとらえ方を表しているように思え、興味があって読んだ。
この方も上記二人に劣らないくらい自由だ。Amazonのレビューには高木貞治さんを愚弄しているという指摘がある。しかし、だからといって謙遜して書いてもらっても一読者としてはおもしろくも何ともない。むしろそのまま出版してもらって良かった。
こう書くと志村博士はずいぶん口の悪い人で、ある種の暴露本に思えるかもしれないが、そうではなくて、要所要所に意図して書かないことがあったり、感情を押し殺した表現がちらちらあるのだ。それがあるから、志村さんの人となりがわかった。良い自伝だ。
「弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖」は少し前に東京都知事選に立候補されたり、弁護士会の会長をされていた宇都宮健児さんの自伝だ。まだ自伝を出すには早いと思うので、半生を綴った本としておいた方がよいか。
決して飾らないその人柄は文章にもそのまま表れている。豊田商事事件、オウム真理教の一連の事件、カード破産の話など、弁護士として関わった事件の数々。それらを振り返りながら、今されている仕事にも言及している。自分は法律のことは全くわからないが、こんなに多様な類型、しかもその事件が発生した時点では立法そのものが不整備だったり、法解釈が分かれていたりといった、未開拓の問題に対処するのは並大抵の法律家にはできないように思える。それをまるで飄々とこなしているような姿は、武道の達人のようだ。
気負いのなさと実直さ、そして執念を感じる本だ。宇都宮健児さんへのインタビューが下のURLにある。興味のある方は見てほしい。
この本は学生時代に講義で先生がおすすめされていて読んだ本だ。著者は高橋秀実さん。
高橋秀実さんはルポライターで、自分の体験を元に本を書く方だ。ただ、ルポライターではあるけど、少しほかのルポライターと毛色が違う。本来ルポライターは事件や事故が起きたら素早く現場に赴き、当事者にインタビューをして、それらを記事や本にする。高橋さんはそれらの事件や事故が起こって、ほとぼりが冷めたあたりでインタビューに出向く。時期がかなり遅いのだ。
元のブログでは物事には多様な見方や解釈があって、一元的に判断することは危険なことを理解するための本として「バカの壁」を挙げていた。その点では、この本も内容は似ている。面白いのは、この本ではそれが「実例」でいくつも挙げてある所だ。
ニュース番組や新聞では、大きく取り上げられていた事件・事故が、実際に現場に行ってみると「あれ?」と思えるくらい当事者たちは冷めていたり、むしろその状況が続くことを望んでいたり――。読み進めていくうちに、不謹慎かもしれないが笑ってしまうような話になっていったりするのだ。某映画の台詞の反対で、むしろ事件は会議室でしか起きていないんじゃないか?、という気持ちにもなる。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。解説を村上春樹さんが書かれていた。(はずだ。確か)
堅苦しい話ではないので、気楽に読んで、何度かたまに読み返すとその度に不思議な気持ちになる本だ。
著者は西前四郎さん。半分が小説で半分がノンフィクションといった感じの本だ。
デナリというのはアラスカにある山の名前で、日本では「マッキンリー山」と言った方が通りがよいと思う。この山を登る登山家チームの話だ。ちなみに、植村直己さんはこの山で行方不明になった。(この本のチームとは無関係だろう)
厳寒期の冬山を登る人の気持ちは自分には想像もつかない。だけれども、そんな自分にも山を登るチームワークの大切さと難しさ、軽く見積もった事象が後にやっかいな出来事にふくらんでいくその状況判断の危うさや過酷さ、そして生きることへの執念といったもろもろが、響いてくるような本だ。
今の登山の装備と比べると、重かったりかさばったりしてその面でも大変だったはずだ。写真のページを見ると、そんなところも気にかかった。
この本のあと、山登りの本は植村さんの本(「青春を山に賭けて」)も読んだけれど、こちらの方が山について全く知らない自分には印象に残った。所々で登山の道具の名前(ハーケンとかザイルとか)が出てきて、イメージができない自分のような人は、出てきたところで、ググったり辞書で調べて簡単な絵を紙に描いておいて、再度出たときにその絵を眺めたりしながら読むとより読みやすいと思う。
この本は椎名誠さんが著者だ。椎名誠さんは今はエッセイや世界各地を回った紀行文を書いたり、写真家であったりとマルチ作家だけれど、この本が出たのはそうなり始めてすこし経った頃だ。
冒頭から危機的な状況である。にもかかわらず出発するのだ。この判断は本当だとしたらすごいことだ。何が危機的なのかはここでは言わないけれど、読めばすぐわかる。
全体として、椎名さんが書く紀行文は自分で感じたことをズバズバわかりやすく書いていく方法なのだが、この本はそこまでズバズバ書くと言うよりも、なんとなく「岳物語」につながるような、私小説風の書き方をしている。その書き方もあるし、パタゴニアという場所のせいもあるからか、行き止まりに向かって進んでいくようなやり場のの無さを感じる。それが途中ですっと消えて静かな感じで終わるのだ。自分はそこがとても好きだ。精神的な閉塞感がふと消えて、やさしさが残る本だ。
冬から春にかけて寝る前に少し読むのが似合う本だろう。この本は文庫版もあるけれど、ハードカバーの装幀が自分にはしっくりくる。
カヌー犬・ガクというのは、前に挙げた椎名誠さんの飼っている犬の名前だ。その犬は手こぎボートの船頭に座って川下りをするのが得意という、ちょっと変わった特技を持つ。
その犬と椎名誠さんの友人の野田知佑さんが、日本や世界の各地を巡ったときの話をまとめたのがこの本だ。著者は野田知佑さんご自身。
カナダのユーコン川を下ったり、北極(か、南極か忘れてしまったけれど)に行ったり、といろんな所に行って危険な目に遭ったり……、南国に行ってのんびり過ごしたり。少し羨ましいけれど、いざ自分が行くとなるとそんなところはとても怖くていけないようなところに行く。
犬を人間と同じように扱うという著者なので、犬が好きな人はより楽しめるだろう。元のブログとの対応としては「深夜特急」にあたるかな?(やや無理矢理だけど)
著者はM.B. ゴフスタインさん。翻訳は末盛千枝子さん。絵本だ。(やや字が多いけれど)
小さな女の子が主人公。おじいさんがピアノの調律を仕事にしていて、おじいさんとしては女の子にピアニストになってもらいたいのだけれど、女の子はおじいさんのようにピアノの調律をしたくてたまらない。そんなときに、ピアノの調律を頼まれるのだ。
あらすじで書くとそんなに心惹かれる感じは無いかもしれないが、絵の良さ、そして言葉の良さ。二人を取り巻く登場人物の面々もすばらしい。
「謎のギャラリー」のところで言及した「私のノアの箱舟」も同じゴフスタインさんの絵本だ。こちらもすばらしい。ゴフスタインさんの本はほかにも何冊か読んだけれど、この本が一番絵本らしい絵本だと思う。絵の良さはいくら文章にしたところで伝わるものではないので、図書館で借りたりして手に取ってみてほしい。もちろんM.B. ゴフスタインさんのほかの本を読むのも楽しい。
中学校で習う数学を、苦手な人も得意な人もできるかぎり楽しく考えていこう。それがこの本のテーマだ。中学生向けの数学の月刊誌で連載していた読み物をまとめた本で、著者は小島寛之さん。はてなダイアリーを利用されている( http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/ さん)ようだ。
数学は、学習が進むにつれてどんどん(指数関数的に?)難しくなっていき、小学校や中学校では好きだった人もだんだんと距離を置いて離れて行ってしまう……、そんな科目だ。なかなかずーっと数学が好きで好きで……、という方はいないのではないかと思う。おそらく数学のプロの方(数学者のような)でも、そのキャリアのところどころで難問にぶち当たり、歯がゆい思いをするのだろう。(そういう話は前に挙げた「フェルマーの最終定理」にちらっと出てくる)
そんな風にだんだんと一般人は数学から身を引いていきがちになるわけだけれど、この本は、わりと数学や算数を学び始めた頃に不思議に思えたことを延長して話をすすめようとしていく。こういう書き方はやろうと思ってもとても難しいはずだ。著者は数学が好きな気持ちと、一方で嫌いな気持ちの両方を持ち続けているような、そんな状態になるだろうから。嫌いな人の気持ちになって、そしてそのどこが嫌いなのかを共感した上で話を進めつつ、好きな人も読めるようにする配慮を怠らない。そんな書き方がされている。
この本が持つ数学へのアンビバレントな思いは、いわゆる数学(の歴史を中心とした)解説本でもなく、かといってとっても難しい数学のドリルみたいな本でもなく、わかりそうでわからない絶妙な問題の難しさと相まってなかなか類書がないと思う。くわえて、ところどころに経済学の話とかもでてきたりする。好きな人もそうでない人も読んでみてほしい。なんとなくわかりそうで手が出ないあの「数学の感じ」を思い出すはずだ。
同じ著者の「解法のスーパーテクニック」も良い本だ。ただ、一冊にしろと言われたら「数学ワンダーランド」かな。ほかにも小島寛之さんの著作はいくつかあるのだけれど、自分が読んだのはこの2冊だ。なのでほかにも良い本はあるだろう。
元のブログとの対応としては細野さんの数学の本としておく。(その本を読んでないのでどこが?といわれると、単に数学つながりなだけだ)
この本は幻想小説というのだろうか。ファンタジーだ。著者はピーター・S・ビーグルさん。翻訳は山崎淳さん。
この本はとても雰囲気がよい。あらすじはそんなにたいしたものは無いんだけど、夏の早朝のような爽快な感じがある一方で、なんか少しじめっとした感じもするのだ。
Amazonのレビューがこの文章を書いている段階で4つある。で、そのどれもが作品の魅力を的確に紹介しているのだけれど、なんだかそれらのレビューだけではこの本の良さを伝えきれない感じが残る。言葉を連ねてもなかなか伝わらない感じがする本だ。
この本を自分は夏の終わりの頃に読んだのだが、その頃の陽気にとてもよく合う本だった。光の強さと日の入りの早さがこの本の主題に合ったものだからだろうか。「リプレイ」が動くSF小説に対して、この「心地よく秘密めいたところ」は静かにじっとしている感じだ。でも、どちらを読んでも同じ思いに至るはず。不思議だけれど。
著者は伊勢崎賢治さん。この方は日本の大学を卒業されたあとにインドで民衆のグループのリーダーをされて、その実績を買われ、国連の要請で東ティモールに赴任する。(下のURLに伊勢崎賢治さんへのインタビューがあるので詳しいことを知りたい人は読んでみてほしい。)
こういう日本人って(自分が不勉強なせいかもしれないが)あまりいないと思うのだ。杢尾雪絵さんくらいしか自分はほかに知らない。
ずいぶん前に読んだので細かい記述は忘れてしまったけれど、この本の良さは著者が見たこと、感じたこと、やったことが率直に書かれたところ。そして日本に住んでいる限り想像できない「危険」な東ティモールでも、危険な所もある一方で、そうでないところがあるといったような、現実の姿が伝わってくるところだ。
外見はなんかどこにでもいそうな感じのおじさん(もし本人や関係者がこの文を読んでいたら失礼で申し訳ない。すみません。)だ。だが、インフォーマルな組織における統率の方法や、戦争犯罪者をどのレベルまで処罰するのか、など、繊細な問題への対処。こういうのは前者は経営学とかで少し研究されているようだけれど、じゃあそれが実地で適用すれば問題は解決するのかというと、そうでも無いと思う。そういった「答えが見えない問題」へどうやって取り組むのか――。しかも異国の地で。
そういうことを知りたいときに読むとよいかもしれない。自分も詳細を忘れていることに気がついたのでもう一度読むことにする。それにしても久しぶりに上のインタビュー記事を読んだけれど、タフな人だ。
著者は藤本研さん。この本は、藤本研さんがおよそ半年をかけて日本を歩いて一周をした旅行記。旅行記というよりも生活記録といった方が良いかもしれない。
生活記録なので、朝は何時に起きたとか、午前中はどうしていた、お昼は何を食べた、などなどそっけない記述が中心だ。でも、そのそっけなく感じる記述が妙なリアルさを出していて、読んでいると日本ってこんなに広いんだと思わせてくれる。それと歩いてたどり着いた各地の景勝地を見るとか、そういうことも無くて、そこもこの本の特徴だ。タイトルに「大貧乏」と付くのは、宿泊をほとんどを野宿やお寺の本堂の隅を借りたりして無料でまかなうことによる。食事もとても簡素なものだ。
本のはじめに藤本研さんの歩行ルートが日本地図と一緒に図示されていて、その後にスケジュール表があって、それをみるのも楽しい。たんたんと書いてある中の楽しさ、と言って伝わるだろうか。
たまにアクシデントに見舞われるのだが、そのアクシデントがなんとなくユーモアがあるというか、おだやかな感じだ。日本一周するからと言って、気張らず、藤本研さんはたんたんと歩いて行く。歩いている途中で同士がいたりする。そういう記述もなんだか一緒に日本一周しているような気持ちにさせてくれる要因だろうか。
自分は今まで挙げた本はだいたいは図書館で借りて読んでいる。この本もそうだ。再度読みたいのだが、図書館で借りようとしたらいつの間にか消えてしまっていた。残念だ。
(まだつづく、かも。)
貴方は瀬名さんですか?www
必ずしもガチガチの護憲派ではないが、変な風に変えるぐらいなら現行のままで良いと思ってくるぐらいの緩い「護憲派」からの返事。改憲といってもいろいろ論点があるが、とりあえず9条に関心がありそうなので、そこにポイントを絞る。
憲法というのは、一種の努力目標なんだと思っている。憲法には様々な人権に関する規定があるが、それらが今の日本で守られているかと言えばそんなことはない。たとえば、第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるが、健康で文化的な生活を送れていない人などいくらでもいる。だからと言って、現状に合わせて健康で文化的な生活を送らなくても良いように憲法を改めようということにはならないよね。
9条も同じ。世界の現状を見れば、戦力を持たないわけにはいかない。誠に残念なことに中国や北朝鮮との緊張関係もあるし、それ以外の国々でも少数民族に対する弾圧等を止めさせるために戦力での威嚇が必要なこともある。なので、いますぐに戦力を放棄するわけにはいかない。
しかし、他方において、戦力の行使には制約があったほうが良いとも考える。近現代において戦争はたいてい「自衛」や「自国民保護」のために遂行されてきた。ナチスドイツだって「ドイツ民族の生存」のために周辺諸国をどんどん侵略していったし、「自分たちは平和を望んでいる、戦争を望んでいるのは他国だ」と主張していた。「自衛のためなら武力行使も許される」という発想だけでは、実質的には戦争抑止にならない。
こうした意味で、9条の重しはそれなりに有用なのではないかと思う。9条があることで戦力の行使は最後の最後まで避けるべきことなのだという価値観が強化されてきたのではないだろうか。戦力の行使にはそれぐらいの慎重さが欲しい。先の大戦にしても、好戦的なマスメディアや世論に軍部が煽られた部分がかなりあると聞く。9条そのものが戦争抑止に役立つとは思わないが、戦後の日本で「戦争は良くない」という価値観が培われたのは良いことだと思う。
また、いまの改憲派の少なからぬ人たちが歴史修正主義的な価値観を持っているように見えることも怖い。石破さんあたりはさすがに慎重だが、脳天気に戦前日本を持ち上げる人たちを見ると改憲にはどうしてもイエスと言いにくくなる。内外の多くの人たちを苦しめ、泥沼に入り込んでしまったことに対する真摯な反省もないまま、国防軍への改組というのは怖すぎる。しかも、そうした反省なき改憲では、欧米諸国の理解も得にくいし、中国国内でも対日強硬派がさらに発言力を増すことになってしまう。
むろん、9条があることで、自衛隊をアンビバレントな地位に置いてしまうことは問題だとは思う。「憲法では許されていない組織」といったスティグマが自衛隊員に貼られることは良くない。しかし、先の震災での活躍もあり、自衛隊に対する国民の信頼は高く(http://www.crs.or.jp/data/pdf/trust12.pdf)、もはやそうしたスティグマを心配するような状況でもないだろう。その一方で、自衛隊内部にも歴史修正主義的な思想が浸透しているということもあり、そこには不安を感じる。自衛隊の元トップがコミンテルン陰謀論を論じているのとか見ると冗談としか思えない。
というわけで、ゆるい「護憲派」からすれば、(1)努力目標として9条を維持することは支持したい。永久に実現しない目標かもしれないが、戦力に依存しない国際秩序を目指すことは自体は悪くないと思う。(2)それでも、どうしても9条の改正が必要ならば、歴史修正主義は全面的に放棄して欲しい。
という感じ。以上。
子供のころ、というか思春期にイジメられていた。小学校4年生のときがいちばんひどくて、クラスの男子にも、女子にも、先生にも味方がいなかった。学校でも家でもひとりぼっち。理由は、私に発達障害があったから、だと思う。いまでも人間関係はひどく苦手だ。
5年生になってクラス替えがあって、イジメは少しましになった。マシになったもう一つの理由は、4年生の最後の日、担任が「◯◯さん(私)は一年間よくがんばりました」とか学級会で言ったからかもしれない。あのときの気持ちはたぶん一生忘れない。晒し者にされた気がして屈辱的だったし、なんか自分がその場にいないみたいにものすごくしらけて、なんだよ、いじめに気付いてたのかよ、って二重に裏切られた気持ちになった。イジメに気づいてなかったんなら、許せた。でも、この大人は、私が一年間傷つき続けるのを、ずっと見てたんだ。見てて、何にもしなかったんだ。
まあ、それはいい。そのあと、イジメの中心だった女の子から謝罪の手紙をもらったりもした。そのとき自分でもびっくりするくらい、何にも感じなかった。いじめっ子に勝った、ていう喜びも、今さら何を言ってるんだっていう怒りも感じなかった。あのころの私の心は完全に死んでたんだな。もうなんにも感じなくなってた。
でも、とにかくこのイジメ体験で懲りて、自分を守るために少し社交的になった。仲の良い友達もできた。女子からのイジメはなくなったんだけど、からかいや蔑みという形で男子からのイジメは続いていた。イジメで一番傷ついたのはこの頃なのかもしれない。
そのころみんな思春期真っ盛りで、誰が誰を好き、とか誰が一番人気とか、男子も女子もそんな話ばっかりしていた。人気者って言っても、子供のことだから、みんなが可愛いとかかっこいいというのに乗っかってわーわー言っているだけだったんだけど。で、学年で2,3人スター並にモテる子がいた。それがたまたま私の仲のいい子だった。
いつも仲のいい友だち3人でいたんだけど、一人がとにかくすごく人気があって、もう一人もけっこう人気があった。だから男子がいつも寄ってくる。寄ってきて、おしゃべりをするんだけど、あとの二人と私に対する態度がぜんぜん違う。あとの二人をちやほやしまくって、返す刀で私を落とす。それまでニコニコしてた男子の顔が、私がなにか話した途端豹変する。「誰がてめーなんか好きになるかよ。キモいんだよ」
そんなことが続いた。言葉でも態度でも。悲しかった。世界中に味方が誰もいないって感じてたときより、辛かった。今思えば、心を開いているときのほうが、人って傷つきやすいんだよね。
イジメって集団のなかの序列づけっていう機能がある。毎日、毎日、そうやって自分の序列をすりこまれていった。私の友達は上位、私は最下層、気がついたら、自分のことを醜くて、汚くて、不潔で、キモくて、誰にも愛されないモンスターだと感じるようになっていた。もともとアスペで言葉を額面通りに受け取りがちだったしね。中学入る頃には立派な醜形恐怖症のできあがり。私は醜いんだ、誰にも愛されないんだ。でもすこしでも、人に不快感をあたえないようにしなくちゃ、いつもニコニコしてなくちゃ。仮面みたいにほほえみを顔に貼り付けて生きてくようになった。その後いろいろあったけど、割愛。
なんでこんなことを思い出したかっていうと、この頃の体験に今でも自分の恋愛観が影響されてるって気付いたから。私には今でも恋愛を序列で見る癖がある。自分の序列より上の男性を好きになってはいけない。もしそんなことをしたら何をされても、どんなに傷つけられても、みんなに嘲笑されても仕方がない。そんな感覚がどこかにある。一方で、好きではない男性に告白をされると、とても落ち込む。私なんかを好きにさせてしまってごめんなさい、って思う。だけど同時にその男性が気持ちが悪くて仕方がない。その気持ち悪さってなんなんだろうなって思う。多分「私なんか好きになる価値なんてない」という感情と、「私はこの程度の男性にしか相手にされない、価値のない女なんだ」ていう感情がアンビバレントに絡まり合って、訳わからなくなってるんだと思う。だから、自分にとって魅力的な男性も、魅力のない男性も、同じように両方怖い。
人間に序列なんて、ないのにね。男にも、女にも。
ヱヴァンゲリヲンのQをみた。東信者である俺は村上裕一×坂上秋成×さやわかによるQ最速座談会ももちろん聞いたし、風花でのあずまんと坂上村上ustも見たし、はるしにゃんとあずまんのtwitterでの絡みもチェックしたし、文学フリマでのQの感想を言いたくて仕方ない空気もしっかり感じた。相変わらず、文学フリマは「東浩紀不在の存在感」しかなかった。
さてQの感想はというと最初は「あれ?もう終わりか」というあっさり感。やけにシンジとカヲルいちゃついてんな、くらいが印象的だったのと、短いのもあってまるでTV版を見ているような感覚だった。劇場は満員で、上映が終わった後の観客の態度もなんだかしっくりきてなく見える。ロフトのイベントに出る直前のQを見たあずまんの感想が「僕には退屈だった」というのもあり、まあこんなものなのかと大して感動もないまま家に帰る。
避けていたネット上の色んなネタバレ感想をチェックしているうちに、Qは旧エヴァを見ている人間ほど思う所が強く、新劇場版から入った人間ほど低評価、という傾向にあるようだ。低評価の人間に多く共通しているのは「ミサトさん達ひどい」だ。シンジに共感している人が多い。確かにミサトはレイを助けるシンジの背中を押したくせにあれだけシンジに嫌悪感を見せるのはひどい。他のヴンダーのメンバーも気持ち悪いくらいシンジを否定している。そりゃサードインパクトを引き起こした張本人を前に友好的になれってのは無理な話かもしれないが、シンジだって使徒止めたしニアサード引き起こしたのはマークシックスなんちゃうん…あとシンジがエヴァにさえ乗らなければフォースインパクト起きないんだからちょっとは優しくしとけよ。自分だけ14年置き去りにされて(28)や(43)にあんだけきつくあたられたらそりゃネルフ側に行くわ…と突っ込み出したら切りがないが、14年という年月の間に明かされてない事が多いのでどうとでも解釈できる。ミサトさんもヴンダー立ち上げるまでに色々あったんだろうし43なら更年期障害とかあるかもしれんし、部下の前で弱い所も見せれんかったのかもしれん。
ひと通りネット上の感想を見た後で坂上村上さやわかQ座談会も聞く。三人とも旧エヴァからのファンで、Qにかなりの衝撃を受けた直後からの感想が生々しくて実に良かった。彼ら的にはQは決して高評価でなく、エヴァを見続けている人間として胸をえぐられた気持ちになり、傷つきつつも、座談会を通して次作のシンエヴァを待つ気持ちにようやくなれたということらしい。しかし他の低評価の人たちに比べたら随分高評価だと言える。聞いていて庵野信者とはこういうものか、と納得できた。
その後続けて風花のあずまん坂上村上ustをみる。こちらはゼロ年代の風景が再びといった面子で東クラスタ的には涎が止まらない。重要なのは坂上がtwitter上で思想地図β2の震災特集号の巻頭言に大して上から目線感想をし、あずまんがカジュアル破門をし、その後坂上が宇野常寛陣営に下った後の初の二人の対面という構図だろう。
人間関係においても時間という薬は効き目が抜群で、あずまんと坂上もあのカジュアル破門の一件から一転して普通に話している。しかしどこかギスギスしている所は否めない。坂上の立場としてはとても難しい。宇野との関係がある以上あずまんと必要以上に交流したら立場として面倒くさくなるのは明白だ。それでもこのustで坂上が冗舌なのは彼だって東信者だからである。あずまんを尊敬して、でもあずまんの強烈すぎる人格性に耐えられなくて逃げて、それでもあずまんが諦めきれないのだ。俺がustの一連の坂上の発言から読み取ったのは「俺を認めてくれあずまん!」というメッセージに尽きる。でもあずまんはもう坂上に大して興味がないしQにも興味がないのだ。坂上が言うQの解釈というのはあずまんにとって遊びでしかない。ゼロ年代的な言葉遊びに辟易した彼からしたら坂上の仕事は頑張っているとは言えても世界を変えるまでには至らない、とるにたらないものだろう。それでも坂上の仕事はあずまんの影響下にあるもので、「よく出来た劣化コピー」のような、あずまんから見たら愛憎交じるアンビバレントな思いもあるだろう。だから彼はゲンロンカフェの話を持ちかけた。これは坂上にとって良い話なので、当然受けるだろう。これは同時にあずまんから宇野に対する牽制でもある。仮面ライダーの話をした点からも明らかだ。坂上の「仮面ライダーなら村上さんも語れますしね…」と力なく呟いたのが印象的だ。そこは明らかに宇野の名前が出るはずなのに、出なかった。出せなかったのだ。まったくもってめんどうくさい話である。
あずまんはなぜQに感動しなかったのか。彼と坂上および村上の間で共通している見解としては「庵野が旧エヴァのような事を再びQでやった」である。破で宮崎駿や押井守に負けるとも劣らぬクオリティの高いエンターテイメントを提供した庵野が、敢えてそれをぶち壊すような所にシビれ、憧れたのが坂上であるが、あずまんはそこに反応しなかった。いや、一定の評価はした。そんなことをしてしまう庵野さんは誠実な作家だし、評価されるべきではある、と。しかし、旧エヴァのようなことをして、それで出てきたものがこれだった、それだけの話だと。つまり、あずまんは庵野が破で得た物を失う覚悟で旧エヴァ的な事を再びやろうとしたQを理解している。坂上と見解は一緒なのだ。その上で退屈だったと評しているのだ。ここでのあずまんのQに対する低評価は謎だ。新規のエヴァファンが破のようなエンタメを期待してQでがっかりするのとはわけが違う。旧エヴァからのファンが庵野の再暴走に困惑されながらもさながら90年代の頃のように「それも庵野の手の平の上で踊っているにすぎない」と自覚しながらも難解な解釈を並べ悦に浸る様子とも違う。旧エヴァからのファンでもあるあずまんはすべてをわかっている上でQを評価していないのだ。そこには坂上と同等かそれ以上のエヴァに対する愛がある。愛がある上での諦め。庵野さんはこの程度だった、という残念感。それはなんなのか。あずまんは純粋に作品から狂気が感じられなかったとも言っている。一方で坂上は破を見せつけた上でこんなことをしてしまう(旧エヴァからのファンに大して14年時間を飛ばすという暴挙を突きつけてしまう等)庵野さんからはやっぱり狂気を感じた、と村上さやわか座談会で述べている。坂上が感じたこの狂気はゼロ年代的である。あの作品があったから感じられる庵野さんの狂気、という文脈ありきの話である。これは言ってしまえば島宇宙内での狂気、カタルシスだ。座談会でも述べられていたが、Qは海外で評価される可能性は限りなく低いだろう。ガラパゴス化したエヴァファンの間で熱狂的に批判され、評価され、むさぼられるのは目に見えている。あずまんが興味があるのは世界を変えるレベルのことなのだ。Qによってその可能性を落とされたエヴァに対して興味が薄くなっているのも無理はない。彼がエヴァで興味のあることとしたらそれによって動員できる人員、客および金と若い芽くらいだろう。シンエヴァによって変わる可能性も否めないが、現時点ではわからない。
大量に書いてしまったが、この二つの座談会とustを見ることで俺個人では感じれなかった旧エヴァ時代からの熱いファンの解釈を知ることができた。それが何よりの収穫だ。みんなも罵倒しながら見るといいんじゃないかな。
苦労してこられてたんですね。文章を読んで今もとても辛いこととお察しします。
脳は孤独を常に望んでいるんだそうだ。
日記からは、このようなASD的断定(想像力の欠落)、独特な思い込み(認知の歪み)、そして辛辣さ(感情コントロールの難しさ)が、ADHD的な衝動性を伴って現れやすい事が継続的な人間関係を築くことの障害になっているように感じられます。
このような人間関係を築くことの障害は、ディスクレパンシーの大きさからも顕著に現れそうです。
それでも、医師や心理士とWAISなどの発達検査結果と自閉症的エピソードとともに評価して、粘り強く薬物療法・心理療法を続けてゆけば、改善されていきます。
例えば、経験から学ぶことを苦手にされている一方、高い言語性の知的能力をお持ちと思います。改めて経験を振り返りながら言語性の高さを活かして対処パターンを見つけるなど、強い部分で弱い部分を補っていく方法を見つけられると改善につながっていく事でしょう。また、処方名は伏せますが、薬物療法でも効果のある薬がいくつかあります。
「脳は孤独を常に望んでいる」としながら日記で気持ちを伝えたいというアンビバレントな感情は、辛い一方で、継続的な療法の支えともなります。
http://anond.hatelabo.jp/20120907100928
「這い上がる」っていうけどさー。
朝の六時半にはオフィスにいて、日付が変わるくらいに帰れれば御の字で、ゼロの数如きに振り回されて
四年目の夏にリフレッシュ休暇を使って3泊5日でニューカレドニアに行くような暮らしの
どこがアッパーなのか全く理解できないんだよー。這い上がった結果があれじゃやってらんないよ。俺は底辺がいいんだよ。
あんだけ頑張って頑張ってボロ糞になって得たカネの数十倍数百倍をぽやぽや持ってる奴に
少々憎まれ口たたいたっていいじゃねえかよー。そんなのいちいち目くじら立てるなよー。
ノーブルなんちゃらだと思って見逃せよー。昇ってもだめ底辺もだめとなったらもう、平日朝の増田で愚痴るしかねえじゃんかよー。
それくらい許せよー。もう昇る気もないけどやっぱ天上人は見たら目が痛いんだよー。許せよそれくらい。
寛容な心でよー。説教カマすくらいアッパーな階級の人間ならよー。
「うわあ、ひき肉がしゃべった!」くらいの優しさを持てよー。金持ち様ならよぉ。
おれは石の裏で哀れなひき肉としてぶーぶーわめきながら暮らしたいんだよ。ほっとけよー。
と、まぁ色々言ってみたんだけどさ。
資産と知識が釣り合ってない人間が、俺の小賢しい知識と経験にカネ払ってもらうおかげで食ってるっていう
気に入らない相手に寄生してなんとか口に糊してる現状が、ちょっとアレってだけの愚痴なんだ。
そんなマジになるなよ。わかってるよ、イノセントで無知なお金持ち様のおかげで、哀れな負け組の俺がお金貰えてるんだからさ。
神聖かまってちゃんというバンドを知ったのは、おそらく、二年ぐらい前だったと思う。インターネットを徘徊していたとき、あるブログで神聖かまってちゃんというバンドを知ったのが最初だった。神聖かまってちゃんに対して最初に関心を持ったのは楽曲ではなく、ボーカルのの子が配信していた路上での突飛なパフォーマンスだった。渋谷の駅前で大声を上げて歌っている様子を配信している動画だったと思う。それをきっかけに神聖かまってちゃんというバンドに興味を持つようになった。「23歳の夏休み」という曲をYouTubeで聞いてみた。青春への鬱屈した感情がノイズにまみれたポップでキラキラしたメロディにのって流れてきて、僕はたちまちこのバンドの虜になってしまった。
神聖かまってちゃんを好きになったのは、曲が世の中を上手に渡っていけない人間の目線で作られていたからだ。
「どうしようもないだろうね どうにもならないだろうね」(黒いたまご)
「男にも女にもなれやしない 僕だから 髪型も生き方もロックしたい」(自分らしく)
僕は、全能感にあふれた前向きな歌や、「会いたい」を連呼する恋愛ソングを聞いても共感できなかった。僕は何をやってもうまくいかない無能な人間で、抱きしめる相手もいないからだ。だからこそ、勝者のための音楽の世界では救われない人間にスポットライトを当てている神聖かまってちゃんを好きになった。
公式HPからダウンロード出来る曲は全てダウンロードし、ミニアルバムをすぐ買った。その後出たシングルも予約して発売日に買った。ミニアルバムやシングルは正直あまりいい出来ではないと思ったけど、お布施ぐらいの感覚で買ったのでしょうがないと思いもっぱら公式HPからダウンロードできるデモ音源を聞いていた。
それから暫く毎日公式HPやバンドがやっているニコニコ生放送をチェックするほど熱心に入れ込んでいた。毎日電車の中で聞いていた。神聖かまってちゃんの名前をインターネットや音楽雑誌で見かける頻度がだんだんと高くなってきているように感じていた時、突然メジャーデビューが発表された。僕はバンドが変わってしまうのではないかと不安になった。
変わってしまう前の姿を見ておきたいと思い、何度かライブに足を運んだ。グダグダな演奏やMCも含め、ステージ上の彼らは輝いて見えた。僕が知っている神聖かまってちゃんの姿で安心した。観客がたくさんいて、人気あるんだ、と思ったのを覚えている。
時は流れ、メジャーデビューアルバム「つまんね」と「みんな死ね」が発売された。発売日に、今は亡き渋谷のHMVで「つまんね」「みんな死ね」を聞いた。中途半端な出来だったミニアルバムとシングルに比べ、スタジオアルバムとしてきちんと完成していて、驚いた。しかし、綺麗でまとまった音に、荒々しいノイズの混ざったデモ音源を聞いた時に感じた感情の高ぶりや共鳴を感じることはできなかった。なにか違うと思って結局CDを買わずに帰った。
断続的に曲が発表されるたびにチェックしていたが、曲調や歌詞はどんどん前向きなものへと変わっているように思え、自分との距離が広がっているように感じた。それから、あれほど好きだった神聖かまってちゃんの曲を聞くことが減っていった。
メジャー行くまでは良かったんだけどな……ヴィレッジヴァンガードを好むサブカル気取りが言ってそうなことを思うようになり、だんだんとバンドに対する気持ちは薄れていった。そんなに好きではなくなった理由は、全く成長しない自分の、成功への嫉妬のかもしれない。バンドの方は今ではすっかり有名になってアルバムがオリコンにチャートインしたり有名なアーティストとコラボしたりしているようだ。自分が童貞のままなのに気づいたら友達が童貞捨ててた、みたいな感じなのかな。
僕にとっての神聖かまってちゃんの一番の魅力は、後ろ向きな感情と前向きな感情が絶妙なバランスで混在している所だった。バンドの作詞作曲を手がけているの子には幸せになってほしくなかった。感情がほとばしったような荒々しいサウンドで叫ぶどす黒い感情からにじみ出る、幸福への渇望感が好きだったのだ。成功し、幸福を手に入れてしまったら、生まれる音楽はそこら中に転がっている前向きな歌や恋愛ソングと一緒になってしまう。
今はこのバンドが好きなのか嫌いなのかよくわからなくなってしまった。昔ほどの熱意はないにしろ、昔良く聞いていた曲は今でもたまに聞く。この文章を書いて読み返しているうちに、一方的な思い入れがこじれているだけのように思えて気持ちが悪くなってきたので、このあたりで書くのをやめて、The SmithsのThis Charming Manを聞こう。