はてなキーワード: ありがちなとは
「東京都」との関係というよりも「東京在住者」にありがちな無意識の傲慢というか中心主義が気になるんじゃないの。
よく言われる例だけど米国人が出身を他国民に聞かれたときに、米国ではなく州の名前を言いがちってやつとか。おまえの国での常識は他国やインターネット上の常識ではないって話かと。日本語圏のインターネットは東京在住者がデフォルトではないってだけじゃないかな。
言葉で説明するのが難しいけど、鏡で自分の真正面の顔を見るとして、
大抵の人間は顔の輪郭、顎と耳の角のラインからそれほど離れずに首筋のラインが下に伸びている
これで何が問題なのかというと、下からのアングルを描いたときに頭に対して首が細すぎてかなり違和感があるのである
違和感を感じないためには絵柄を変えるしかなく、例えばイデオンやダンバインの湖川氏のような絵では破綻しない
アニメ顔の原点は少女漫画にもあると思うのだが、最近でなくても松本零士のような絵でも女性の首は特に細すぎるのである
自由なアングルから描けないということは表現が制限されることに他ならない
最近話題のエヴァであれ何であれ、そのへんをどう記号で誤魔化すかというのも腕の見せ所であろう
エロ漫画でも女性が絶頂したときの記号として、顎しか見えないようなアングルを描き、
逆にいえば、中途半端に顎を上げたアングルを描くのは困難になってしまい、
鼻の穴側の面や、眼球も球体として強調しないとおかしくなる、
そして最初に述べたように首が細すぎるため顎と耳の角のラインとの間のスペースが目立ちすぎて、違和感を隠せない
それはバービーやリカちゃんのような人形でもMMDでも同じで、
首を細くすると正面顔は少女漫画的にも記号として成立し可愛く感じられるのだが、
MMDなどでカメラアングルが下からになると、人体としては奇怪に感じられ違和感があるようになってしまう
といっても、人体をリアルに描けば可愛気がなくなり、これはこれで日本では売れない絵になってしまう
どこまでウソを混ぜるか、その混合の比率みたいなのが問題のように思う
例えば、記号としてありがちなのとして、キャラクターの横顔のときは口が横に移動しているというのがある
こういったウソをどう3DCGで描くかは難しく、結局は人間が口の穴を横に空けることなどで対処していたりする
しかし、こういった記号のためにありえないパースのために人体を捻じ曲げたり、すべてのカットでやるのは面倒である
嘘パースは例えば初代ウルトラマンの変身シーンもそうらしく、パースのキツい人形を最初から作って対処している
この場合はカメラ、レンズの問題であるが、アニメはもっと表現が自由である、
どんな現実にはありえないパースだって面白ければありなのである
しかし、こういったアニメ的表現は著しく効率を落とすものであるとも言えるわけで、
そうなると視聴者には少しつまらなく思われるかもしれないが、手描きやCGにおける立体で破綻しないでありながら、
かつ、どれだけウソを混ぜるか、例えば目の大きさを現実よりどれだけ大きくするべきか、みたいなバランス感覚で、
ウマ娘の権利元であるCygamesが、エロに対して厳しめの規約を発表するや否や、
過去繰り返し「何がエロかわからない」を連呼していたオタク達が一斉に何がエロかを理解して明確にわきまえました。
https://anond.hatelabo.jp/20210318224253
「わからないふりをしている!」「出来ないと嘘をついた!」
D_Amon 「「何がエロか」考えられるんですね」とあるように元ツイは「わからないふり」を皮肉っているのに、
増田は信頼関係の話にすり替えて反論している。ありがちな藁人形論法。「わからないふり」した不誠実を自省すべき
2021/03/18
18禁か否かはほとんどのキモオタは判断つくだろーし、つかないと言ったこともないんでねーか?
あんたらオタクヘイターによる無限の検閲欲に基づいた「性的」「環境的セクハラ」の範囲はキモオタでなくともさっぱりわからんけど。
それで「具体的なラインを示してください」って言われるとあんたらは自分達の基準の提示を避ける。難癖だからね。
rna 「線引きできない」が嘘で「お前なんかのために線引きなんてしてやるもんか」が本音じゃんって皮肉では?
あれほど言ってた「表現の自由」どこ行った?って話。それこそ「お気持ち」の話なら権利の話なんてするなと。
2021/03/18
同上。
フェミニストや表現規制派は何故自分達の線を示せないんだろう?
「線も理路も示さずズルズルと人の自由を制限していくことを楽しみたいから」のよーに見えるんだけど
違うってんなら行動で示せるよね?
https://anond.hatelabo.jp/20210318235955
ウマ娘学級会のやり玉に上がっているのもだいたいウマ娘の性行為を描いたヤンチャなイラストレーターであり、
半乳とか前屈みとか男性オタクにとって『健全な』イラストは大手を振ってRTされている
一方ではてフェミさん達がこれまで抗議してきた物は「宇崎ちゃんの献血ポスター」「ラブライブ!のみかんポスター」「タイツコラボのイラスト」である
これらは男性オタクにとって『健全な』イラストの範疇と思われている
(個人的にはタイツのイラストはなしだと思うけど、それは飽くまで購買対象の好みを無視したマーケティングの問題)
これらを指して『性的な』描写と言われた場合、自分の尺度とは違うと感じて「基準はどこだ」と問いかけてる人が多いんだ
- まとめ
cubed-l 怒られるかどうかでしか判断してないってことでしょ
2021/03/18
そうか?
怒りんぼランキングなら常にフェミニスト・表現規制派の優勝だと思うけど
怒りまくってるのに全然言うこと聞いてもらえてなくない?
unhappychoice_eunhappychoice_e
事実ではなく言う相手で態度を変えることの指摘に、そうです人間だから手のひらくるくるしますよ、
と言われても感 まあそりゃそうなんだろうけど 関係ないがそういう行動の積み重ねは差別とかにつながる気がする
2021/03/18
友好的な取引相手とクレーマーとで対応時ガードの高さを変えるのは不審なことや不当なことなのかな。
Hagalaz 別にこの件に関して問題は感じないけど、表現の自由が好感度で決まると言われるとそれはどうかとは思うな
2021/03/18
いや、彼等は明らかに好感度で出したり引っ込めたりしてますよ。
自由を自分の判断で引っ込めるのは各人の勝手だろうから私も問題は感じませんが。
agricola 二次創作表現の自由を制限するのはウマ娘公式もフェミナチ()も同じなのに
後者には「基準を出せ」前者には成り代わって「皆の衆エロ同人は全部ダメじゃ!」と非公式な基準を触れ回るのが無矛盾ですか(呆
2021/03/18
同じじゃないってことを相当長々説明したんだけどね。
ウマ:ふんわりしたお願い、具体的なアウトが不明ながら18禁レベルのモロなグロやエロがダメなのかなライン、根底は「馬主さんの手前行儀よくせーよ」
表現規制派:基準を示さぬ強い検閲、着衣&何ら性的行為してない宇崎もアウト判定、公的キャラが女の子なだけでもアウト判定、根底はオタク憎悪
今度は読めるかなー まあたぶん上の2行の文量もアグリんの脳には高負荷なんだろけど。
あとフェミナチ()が制限を目論んできたのは二次創作表現の自由ではなく一次の自由の方ではないか?
アグリん相手に複数の論点を提示するのは残虐なブレインファックに値するのかもしれないが気になった。
D_Amon 「「何がエロか」考えられるんですね」とあるように元ツイは「わからないふり」を皮肉っているのに、
増田は信頼関係の話にすり替えて反論している。ありがちな藁人形論法。「わからないふり」した不誠実を自省すべき
2021/03/18
18禁か否かはほとんどのキモオタは判断つくだろーし、つかないと言ったこともないんでねーか?
あんたらオタクヘイターによる無限の検閲欲に基づいた「性的」「環境的セクハラ」の範囲はキモオタでなくともさっぱりわからんけど。
それで「具体的なラインを示してください」って言われるとあんたらは自分達の基準の提示を避ける。難癖だからね。
rna 「線引きできない」が嘘で「お前なんかのために線引きなんてしてやるもんか」が本音じゃんって皮肉では?
あれほど言ってた「表現の自由」どこ行った?って話。それこそ「お気持ち」の話なら権利の話なんてするなと。
2021/03/18
同上。
フェミニストや表現規制派は何故自分達の線を示せないんだろう?
「線も理路も示さずズルズルと人の自由を制限していくことを楽しみたいから」のよーに見えるんだけど
違うってんなら行動で示せるよね?
あと「表現の自由どこ行った?」みたいな間抜けな泣き言はやっぱり非モテミソ男っぽいんですよね。
たとえば女性には気に入らない男を撥ね付ける地涌があるけど、それは気に入った男にOK出す自由を否定するものではないわけです。
自分を振った女が別の男には振る自由を行使しなかった、なんでなんでなんで~~~って泣き喚いてる感じ。
お前が好かれてないだけだよ。何度も言わせんな恥ずかしい。
kralica 「できないからやらない」と言っていたことが実際はできたという点に皮肉を言われていることに
最初から「お前の言うことに従う筋合いない」と主張すればよかった話。
2021/03/18
同上。
そういう次元での出来る出来ないの話なら、「フェミニストの靴を舐めて自殺しろ」という要求に従うことも出来たよね。
「あらゆる犠牲を払ったとしても物理的に不可能です」と言う意味ではなくて、
「あなたとwin-winの関係を築くことは出来ないようです」って言う意味なの。
フェミニストの人達の主観とオタクヘイトによって発動するアウト判定に対応をすることは出来ないっていうのも、
そりゃフェミニストの召使になる覚悟のある人になら「出来る」でしょうよ。
こういう言葉遣いの含意は社会のどこへ行ってもこのようなものです。
勉強になったね。
私はあなたたちに、煽りとか侮辱とかではなく真面目にちょっと、
認知やコミュニケーションに関わる何らかのトラブルの匂いを感じるんだけどね。
murilo 今まで二次創作放任してたサイゲがウマだけ釘刺したのは馬主や競馬ファンのお気持ちに配慮したからだろうに。
男社会に漠然とビビってんのかお気持ち揶揄大好きなオタク達が悪ノリ封印して粛々と従ってんの馬脚出てる
2021/03/18
キモオタ達は昔からコンテンツホルダーの好感度で態度を激変させています。
けもフレなんて1と2で態度が激変して、2ではスタッフや原案者を揶揄する二次創作すらバンバン出てました。
だから「著作権がすべて」「フェミは権利がないから」的な説明は私は疑問があるんですよね。
ただしキモオタ達がフェミニスト達に塩対応なのは別に不当でもズルいことでもないと思います。
逆にフェミニストの皆さんは、自分達に粘着質に嫌がらせをしてくる悪意丸出しの気持ち悪い奴にも好きな人に対するのと同じ態度で接するのでしょうか?
death_yasude そうやって挑発的な態度とってたらこれもう規制するしかないよねってなるわな
道理なんてふっ飛ばしてオタクへの嫌がらせを第一に活動始めるだけでしょう
2021/03/18 リンク
「道理なんてふっ飛ばしてオタクへの嫌がらせを第一に活動始めるだけ」←もう始まっとる!
あと、フェミニストや表現規制派の良心に期待してるキモオタなんて私は見たことがない。
kusigahama 増田がお気持ちの大切さに気付けて良かった
2021/03/18
mizul つまりお気持ち次第ってことね。もうお気持ち批判できないねww
2021/03/18
フェミニストの人達がよく「お気持ち」と言ってバカにされてるのは
人の自由に制限かけようとする根拠が「わたしの感覚」「わたしの気持ち」だけだからであって
あなたたちが何かの気持ちをもつことそれ自体が否定されてるんじゃないと思います。
「お気持ち」と言う批判の内容が理解できないフェミニスト勢の話は前にもあったので
https://anond.hatelabo.jp/20201029220350
等を参照してください。
quick_past フェミが言うから従う必要もない、権利関係者が言えば聞く。という党派性丸出しのトップコメ。
同じ問題を誰が指摘してもそれは同じはずだけどな。まあ、権利関係者が怒っても逆ギレしたケース、いくつも知ってるわ
2021/03/18
キモオタの行動を「著作権尊重」で説明するトップコメには私も不同意なんだけど、
それは「党派性」ではないと思うよ。
権利者の言うことには従う、権利のないクレーマーの言うことは相手しない、それって「党派性」か???
たぶんquick_pastさん自身が批判的に「党派的」「党派性」って言われてその言葉を覚えたんだろうけど
新しく覚えた言葉はあてずっぽで使う前に辞書を引こうよ。せっかくこないだなんか反省してたんだから。
そしてそういう権利の有無を脇においても、
「ウマ娘公式のおねがい」と「あなた達が欲望する検閲」は、動機も内容も少しも「同じ」じゃないよね。
dimitrygorodok 自民党に蔓延するネポティズムにも通じる思考。当然ながら他者はそれに突き合う道理なんて一欠片も無かったりするのだが。
夜郎自大も大概にして欲しいな。 ギャンブルGAMEコミックオタクせ:性ひ:表現これはひどい
2021/03/18
そうねおじいちゃん。ぜんぶアベが悪いわね。
zyzy とうとう「俺達は女子供とそれを守るフェミに対して差別とヘイトをしている差別主義者であって、強い者に媚び弱い者を叩きたいだけ!! 強い者は好感度が高く女子供は叩いて良い好感度が低い者」って自白してて笑う 考え方
2021/03/18
nanamino なんでそこまでフェミ叩きに熱心なの…?
2021/03/18
叩いてるように見えるのかなあ。
私はあの人達の特徴的な認知を結構理解しようとしてる人間だと思うけど。
amatat 正直この増田も、好感度とかの気持ちの問題に落とし込もうとしてるところとか、
オタクを代表してる感出してるところとか、人種的にはクソフェミと同じに感じられて自分には受け入れられなかった
2021/03/18
落とし込もうじゃなくてキモオタ観察の結果好感度だろうと推測している。
ChieOsanai 権利者だからでしょ。好意とか信頼とか的外れなこと言ってる増田も馬鹿。 増田
2021/03/18
キモオタ達が必ずしも権利者に服さないという実例は山ほどあります。
フェミニストたちをぶちのめすには「お前等に何の権利もねーよ」の方がシンプルでいいのでしょうけど
そういうのは私の関心とはちょっと違うというだけ。
rgfx 公式のお願いすら聞かないオタクが出てくるせいで毎日ウマ娘学級会やってるよなあの界隈。 まあがんばれ
2021/03/18
もしもウマ娘が艦これみたいに慢心運営で落ちぶれたらどんどんそういうのは増えます。
まあお願いの狙いは現状そうやってオタク内学級会で掣肘してくてるぐらいで達成されてるんだろうけど。
casm 著作権により強制力を持つ存在なので「ウマ娘公式のお願いなんて聞かなくてもいい」という増田の認識が誤り。
"表現の自由派"の多くは、実際には"法律の範囲内での自由"という明治憲法的人権観で動いてるのよ。
2021/03/18
その説明も一つの事実だしまるっきり否定しはしないけれどもそれでカバーしない部分があると感じてて
私の関心はそっちの部分なんです。
どうせ「複雑なことを認知するのが苦手な人」相手に説明するには適切かもしれないとしても。
z1h4784 外野にエロを規制する権限は無いがコンテンツホルダーにはあるので、
表現の自由という観点から言うとコンテンツホルダーの方により強く規制反対の声を上げないといけない。
2021/03/18
そして私は実はラディカル表現の自由戦士なのでそもそも著作権が表現の自由の上に立たないと思ってる。
ただ実際問題としては、
権限なんぞなくてもクレームや嫌がらせによって自由を抑圧する手段はいくらでもあるので、
まあ一番警戒されるのは日々オタクヘイト欲で過ごしてるフェミニストや表現規制派の皆さんと言うことになりますわよね。
fut573 はてブでの運営叩きのように関係構築の失敗やユーザーの質によってお願いが届かない公式は多い。/人気ブコメについては供給能力と規制能力を混同してるんじゃないのとしか。東京都健全育成審議会は同じことできん
2021/03/18
だよね。
hatebushine 「なんでカレーは食べるのにうんこは食べないんだ!」って言われてもなぁ、バカか?としか言いようがない
2021/03/18
簡潔にして気力ある言い分といい、きよらかなidといい、なんたる好漢か。
こういう人物に出会えるならはてなもまだまだ捨てたものではなかった。
「なんでも調べられること」に疲れた (https://anond.hatelabo.jp/20210119234225) を書いた増田です。
思ったより大きい反響があって、その後リアルでもいろいろあって1つ気づいたことがあるのでここに書き留めておきたい。
タイトル通りである。どうやら私は、人生に、正解があると思い込んでいたみたいだ。
例えば、就職。今いる会社は自分なりに考え、納得して入った会社だ。やりがいもあるし、待遇も良い。
ただ、それでもやっぱり不満を覚えることがある。それは、中小企業であったり、考え方が古かったりなど、ありがちな不満だ。
そんなとき、100%満足することなんてないとわかっていながら、誰でも知っている大企業に同級生が勤めていると聞いたとき、
「あ、人生の正解はこっちだったかな」と思ってしまう自分がいた。
正直、その大企業の事業に興味はないし、自分の興味がある分野はちょっと特殊なため、そもそも業界内に大企業が存在しない。
そこまでわかっていながら、インターネットで「大企業の総合職は勝ち組」なんて記載を見ると、もやもやと妬んでしまう。
おそらく、自己承認欲求の方向と興味の方向が一致していないのだろう。興味がないのだから、今の私が何度就活をやり直したところで私が大企業に行くことはない。
自分の興味のある分野で、そこそこ良い待遇で働けているのだから、そこで今の状況に納得すればいいのに、私は「みんなに羨ましがられるような企業に興味を持つのが正解なんだろうな」と思ってしまう。
理由は、多くの人が、インターネットでもリアルでも、大企業の素晴らしさを説いているから。
そんなどうしようもない後悔や妬み、嫉みがぐるぐるしているときに、「あ、私は、『正解』に縛られているな」と思った。
インターネット上で私がよく見るまとめサイトでは(そもそもソースがまとめサイトな時点で間違っているのは重々承知の上で、これは麻薬みたいなもので読むのをやめられない)、とにかく【コスパ】のいい人生が賛賞されているように思う。できる限り少ない努力で、できる限り「羨ましがられるような」生活を送る。テンプレとして上げられるのが、都会の大学→大企業だと思う。
私は、自分の意思でそれとは違う道を歩んだにもかかわらず、「大多数が望む進路」に興味をもてなかったことに、後悔しているのだと気づいた。
大多数が望むことこそが、「正解」ではないかと思うようになってしまっていたからだ。
だから、そんな「正解(のようなもの)」が多く見える、現代の、「なんでも調べられる生活」に疲れていた。
でも、それは、「正解」じゃないんだなと、今更ながら気がついた。
チーズでテンションが爆上げになるの、大体女子というイメージがある。
ちょっと前だとチーズトッポギなんか、「女子受け」する食べ物として盛んに取り上げられていた。
実際、俺の体験でも「ピザにエクストラチーズをトッピングしよう」と言い出すのは全員女だった。
俺も別にチーズは嫌いじゃないが、ピザのチーズ増しに関しては「よく分かんね」というのが正直な気持ち。
男は逆に、ピザで言えばプルコギやらテリマヨやら、ガツンと濃くて体に悪そうな味を好むというのが、ありがちな傾向だろう。
こういう時、「俺はそうじゃないが?」みたいな感じでしゃしゃり出てくる奴がいるが、お前個人の話に興味はない。
今、俺は傾向の話がしたいんだ(だから自分の周りの傾向はこうだった、という話なら聞きたい)。
まあ年代にもよると思うから、10~30代くらいに絞ってみるか。
・男はスタイルなどに比較的無頓着なので、肉や脂を遠慮無くガツガツ食う
・女は美容などへの意識が比較的高いので、本当は肉や脂を思う存分食いたいが、我慢して敢えてチーズでテンションを上げている
んじゃないか、ということ。勘ぐりすぎだろうか。
それとも、本当に性別によって味の好みが違うんだろうか。
男女は身体のつくりに違いがあるから、それも全然不思議ではないと思う。
性別による味の好みの違いって、本当にあるのか。
内容はよく私分からないわ。
でもグラミー賞!っていいたいのよね。
今年のは美味しいらしいわよ!って言うと
人はいかにして雰囲気で生きているかって事を体現しているわね。
これも薄手にトーナメント方式でめちゃ盛り上がる少年漫画であるバトル漫画ものの展開でありがちなパターンよね。
そんで、
未開封のCDの後のバーコードを戦わせるという単純明快なルール!
でもこれだから今年のグラミー賞はまだギリギリまで分からない息を呑む感じなのよね。
きっともう内容なんて
全てはバーコードありき!
だれもが納得よね。
もう映画の内容はともかく、
むしろそれを映画化した映画がすごい映画の賞を受賞しちゃって、
下町ロケットみたいに
無敵のバーコードの開発秘話をもう映画化した方がいいかもしれないわね。
全ての世の中のことがらはバーコードで回ってるって、
結局はバーコードかバーコードじゃないかって話しだけじゃない。
縦書きの英数字が羅列してなんかスゴいプログラミングしているような画面。
あれって監督がまさか日本人はプログラミングも縦書きかよ!って思ったに違いない誤解から生まれた演出であり
はごろもフーズのシーエムの終わりらへんに出てくる
水面にしずくを音して
でそれに興じたお客さん達が、
マーケットに群がるけど、
シーチキンと言えども
本当にファンキーな話しよね。
でね、
むしろ賞味期限が切れた方が缶内で何かが熟成してるのか分からないけど、
時間が経った方が、
美味しいんだってよ。
桐島、シーチキン賞味期限切れた方が美味しいんだってよって映画あったら観ちゃうわ。
そのぐらいの話しみたいよ。
賞味期限が切れて食べ頃ではないけどその逆に意味で食べ頃なのよ!
でも私はその新しい製造の缶詰と古い時間が経った缶詰との味の違いがポンコツな舌では分からない気も知れないので、
ほら!人はいかにして雰囲気で生きているかを体現するかのようなことになると思うのよね。
まあ食べてからのお楽しみなわけなのよ。
そんなシーチキンの話をしていたら、
でもさ、
食材を適当に検索したら何かしらその検索ワードで用いるレシピが絶対に出てくるから、
もう世の中どんだけクックパッド的なもので世の中網羅されているかってことも思い知らされるわ。
もう世の中の人は雰囲気とクックパッドだけで生きているようなものね。
なんて!
うふふ。
特に験担ぎって大袈裟なほどではないけど風呂敷は広げてみたわよ。
美味しいものを頂いてニッコリよ!
朝からションテンあげて行きたいじゃない。
買った、ちゃんと買ったやつよ。
割引シール貼ってあって
なおかつラッキーだったわよ!
一番デトックスウォーターのなかで味で言うならこのイチゴストロベリーウォーラーが一番まともに美味しいと思うわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
買い物を終えて出発すべく、車がクリープ現象で動きだしたところで子供が飛び出してきた。反射でブレーキを強く踏み事なきをえた。危な。
慌てて母親がやってきて謝られる。
いやいや大丈夫です、とジェスチャーして出発しようとしたら、親御さんが幼児をひっぱり平手で子供をはっ倒すのが視界に入った。
間髪入れず怒鳴り声が車にいても聞こえてきた。
エンジン止めて車から降りると、座り込んで泣く子供にお母さんがもう一発いくところだった。
少し離れたところにこの子より一回り大きい子供がいた。お兄ちゃんだろう。
親がブチ切れたのが怖かったのかこっちも泣き出している。
手招きしてお兄ちゃんの方も呼ぶ。
謝りっぱなしのお母さんに「男の子2人ですか。大変ですね」というと、「いやもう本当そうで」と言いつつ子供に「だからアンタって子は!!」と続く。「いやいや、わたしももっと確認すべきでしたから」と遮る。
子供達に怖かったね、駐車場は危ないからね、お兄ちゃんと一緒にいようね、お兄ちゃんはお母さんと弟くんをちょっと手伝ってあげてね、と諭すうちに落ち着いてきたのか涙目程度になっていた。
その頃には子供らの母親は落ち着いたのか、手を上げるような素振りはもうなく、多少は冷静になっていた。
怖がらせてごめんね、仲直りしようね家に帰ったら手を洗ってね、と最後に子供達と握手して別れた。
日曜日の午後、小さい子供2人に母親1人。詮索は良くないけど、緊急だったし、心配する気持ちや無事だった気持ちが色々まざって手が出たんだろう。ただお兄ちゃんの泣いた反応を見るに手が出ることは多々あるんだろう。
あれから自分の運転見直して、安全運転の徹底をはかってます。ご安全に。
あとは俺は良い奴と言ってくれるのはありがたかったけど、普通に悪い奴なのでブクマやコメント関係は批判的な内容の方が響きました。ありがとう。特に俺の運転の仕方ね。
書き方が悪かったけど、教育として「叱る」の範囲とか手が出る是非の話は家庭によるので俺の考えは書かない。ただ、自分にも覚えがあるだけなので(母子家庭でまあまあ手を出されながら育った)
あの時邪魔すんなと言われりゃ何もしなかったよ。泣いてる子供と激昂する母親が落ち着いてくれりゃそれで良かった。今もこれからも地域の一員として地域の子供達が無事にスクスク大きくなることを祈ってます。
実際のところ、母の戦いがシックスティーンにどれほどの打撃を与えたかはハッキリしていない。
だが歴史の一ページを切り取るならば、この時シックスティーンは明らかに勢いを失っていた。
やることなすこと上手くいき、それだけで本が一冊書ける成功のノウハウが、現在では“しくじり”の見本市と評価されている。
前向きに解釈するにしろ、せいぜいリバウンドした人間のダイエットプログラム、メガネをかけないメガネ売りってところだ。
結局は客体、実績ってことなんだろう。
この戦いの有り様は、シックスティーンの栄枯盛衰を象徴していたのかもしれない。
その状況を何よりも痛ましく思っていたのは、シックスティーンでもラボハテでも、ましてや母でもなかった。
「やめろー!」
で、この時に現れた奴が、まークサい言い方をするなら母の“運命の相手”ってやつだ。
つまり俺の父だな。
「なに考えてるの! 危ないじゃない」
「危ないのは君もだろう」
「はあ?」
この頃の父は、なんというか……その……義侠心に溢れた若者というべきか。
根っこの善良な部分は今でも変わらないとは思う。
ただ、それを現実や他者とすり合わせるプロセスを、若気の至りでスキップしちゃうというか。
だからこそ、母が己の身体をいたわらないこと、復讐の不毛さ、企業間のしがらみ等など。
その辺りを全部ひっくるめて、いてもいられなくなったらしい。
「私の身体はほとんど機械だから、多少の衝撃はなんともないの」
「でも、心が傷つくだろう!」
自分の父親だから、あまり悪く言いたくはないんだが……クサいセリフだなあ。
「心が傷つく……」
だが意外にも、その言葉は母の心に響いた。
父がそういうセリフを真顔で言える若者だったように、母も同程度には若者だったらしい。
ただ、今となっては黒歴史らしく、この時のことを嬉しそうに語る母の横で、父はバツが悪そうだった。
あの時の父の絶妙な顔は、「バツが悪い」で画像検索したらトップで表示されるレベルだろう。
波長が合うってやつなんだろうか。
「君は人間でもあり、ある意味では機械ともいえる。個人的な復讐のために、サンドバッグのように機械が作られる。それを壊すのは何ともないのかい?」
「そっか、確かにそうだね。シックスティーンを倒すことばかり考えてて、そんなことを考えたこともなかったな」
父と言葉を重ねる度に、母の心境に緩やかな変化がおきていた。
“自分をヒトに戻してくれた”
この頃の思い出を、母はそう語っていたが、やはり父はどこか居心地が悪そうだった。
で、それを聞いている俺はもっと居心地が悪い。
すまないが、このあたりのやり取りは甘さと酸味に加えて痒みが伴うので省略させてもらう。
語り手として不甲斐ない限りだが、やはりティーンエイジャーの息子にはキツい。
自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。