はてなキーワード: 社会生活とは
死にたい消えたい
死にたいなにこれ消えたい
全部どうでもいい
何もできない早く死にたい
もうなんでもいい
眠れない死にたすぎて
どうすればいいのか何も考えたくない
考えないようにしても死にたい気分が湧き上がる
どうにかなるのこれ
もう死にたい
何も考えたくない
ただのクソ人間
何か聞いていないと頭がおかしくなる
いつかこうなるとわかっているのに何もしないまま
死んだら何も無い
トラウマって壮絶な体験をした人に植え付けられるらしいじゃん?あれの小さな塊がいっぱいある。
身内で大切な人が亡くなったり、戦地に行ったり、重犯罪に巻き込まれたこともないけど、
自分の愚かな行動が昨日のことのように思い出される。
何もしていないから歪んでいて、歪んでいるから何もしたくないwin winだね
死にたい時は家族のことを思い出す。自分が死んだらなかなかに悲しんでくれそうだから死にたくない。
死んでまで人に迷惑かけることを自ら考えているということがとても苦しい。うんこ製造機
え、しにた。朝起きた時から死にたいし、お皿洗ってる時も死にたい。だから別のことを考えないといけない。
死んだおばあちゃん、早死にした一個上と2個上の先輩、小学校の時の自殺した先生、自殺した有名人達、おばあちゃんはともかく、他に人たちは生きておくべきだった。自殺とか病死とかこの世に存在していいものではない。
死にたい気持ちは誰にもリアルで話せない。心配されるのが嫌だからだ。でも話していると喉まで「まだこの数年死にたいんだよね〜」が来ている。
うっすら繋がっている友達たち、この関係はどうでもいいと感じる。
すべて自分の蒔いた種ですね。
無理だ、死にたい
楽しいことを考えよう
最近イエシロアリというシロアリの飛来時期なので防虫しました。結果は良好。あまりイエシロアリは見かけません。が、四十匹くらい部屋に現れたのでそれだけでショックですね。
幸い羽は付いていないので自宅から飛び出たわけではないですね。近くに森があるのでそこから来ているのでしょうか?ゴキジェットを吹いた後にパタパタと床に落ちる音がなんとも気持ち悪いですね。
イエシロアリはイエシロアリでいいのですが、同じく黒い点みたいな小さな虫も湧いててこちらも嫌な感じですね〜
昔から死にたいと思うことがよくあった。ストレス耐性が低いんでしょうか?よく泣いてたし、その自分が嫌いだった。泣かないように堪えることを覚えたら自分の感情が消えていった。
高校で社会生活が無理になった。余計なことをしなければよかった。これは昨日のことのように思い出す。夢にも良く出る。
死に体で大学に行ってバカみたいに振る舞ってたら上手く行ったこともあったけど、後で死にたくなったし、自分のクソ具合が大いに露呈して吐き気がする
こうやって自己憐憫がくせになってて一向に良くなることは無い。クソぬるま湯に浸かってクソ毎日を過ごす
無理だこれ死にたい
自殺という選択をした人たちはもっと辛かったんだなと思う。この苦しみは自分だけのものでどうしようもない
無理だ。むりだ。寝れない。何を支えに生きればいいのか。毎秒毎秒頭に思い浮かんで眠れない。死にたい
こうなることを望んでいた。自分が傷つきたく無いと思った選択は結局自分を傷つけていました滑稽ですね
とりあえず死にたい。なんでこんなことになっているの?
死にたすぎた、無理だ
何かしたら死にたくなるから何もしない。
この世には悪いことの方が多い。でも生きていかないといけない。
涙も出ない。すべてどうでもいい
教室の壁際に陣取ってちょっと席を離れて戻った時、手前に後から来た奴が座ってると通れない。
こんな時に何も言わず後ろの隙間にグイグイと身体をねじ込む(そして暗に席を引けと促す)コミュ障も少なくないが、おれは社会性があるのでちゃんと「後ろすみません」と声を掛ける。
大抵はアアすいませんと言ったり無言で席を引いたりするが、たまに「どうぞ」とか言われる。周りに置いた荷物を10秒ほどかけてよけてから「通っていいですよ」と言われたこともある。
なんでおれが『許可』を受けてんだ……?
なんで後から来た奴に、こっちが『通させてもらってる』って感じにならなくちゃあならないんだ?
ってキレそうになる。キレはしないが釈然としない。
そこに座らざるを得ないならまだしも、他の席も空いてる状況でわざわざ先に陣取ってたおれの通り道を塞いでるんだから、むしろこちらにイニシアティブがあるんじゃないか?邪魔だよと言いたい所を抑えてわざわざ遜って声をかけたのに、その姿勢につけあがってあろうことか「いいですよ」だ?本人にそこまでの意図があるかどうかは知らんが、理不尽な恩着せがましさすら感じる。
まあこれは単にマイルールに則った話なので他人に強いる道理もない。どこに誰が座ろうが自由というのがより一般に共有されているだろうし、大学側も権威を与える規範なんだろう。座ったり荷物を置いたりして確保出来るのは一席分の空間だけであって、その周辺は誰のものでもない公共空間なんだろう。
さりとて通る側が通り道を準備された事について一方的にありがたく感謝する立場でもないだろって思う。
こういうささやかな事を表面的にではなく心からスルー出来るようになったら楽なんだろうな。マイルールなんか持たずに常識を内面化してしまった方が社会生活で苛立ちを覚える事も減るだろうし、謎にキレてる異常者みたいな扱いを受ける事もなくて楽なんだろうな。今は表には出してないから「普通」に擬態出来てるけど、いつかぶつかりおじさんみたいなヴィランに仕立て上げられないとも限らない。でもやっぱりおれの思う正しい物事の原理に従って動きてえ。ただのポジショントークじゃなくて自分が逆の状況になったらマイルールに則って然るべき行動を取ってるし、そもそもそういう状況が発生しないようにもしてる。ちゃんと一貫性を保ってるのに、それすら傍から見れば異常者仕草くらいにしか思われないだろうから虚しいぜ。
でも女が思う「強そうなオス」は大抵の場合、育児能力がないんだな。自分のことしか考えてないから。
それが嫌なら、「真面目で弱そうなオス」を選べばよかった。彼らは女が頼めば育児してくれるよ。弱いから。
文章が読みづらいと感じるのは、単に文章を理解する力が達してないからでは?業務遂行や社会生活における行動を引き合いにしてトーンポリシングして話を逸らして自己優位性を保とうとするのはよくある手法だよね。
自分の考える「強そうなオス」に女がよる、っていう幻想からすこし離れて現実を見たらどうだろう。
夫婦の両方が家の掃除が出来て衣類や食事の調達が出来て健康管理ができて現時点の生活費を賄えて、未来への資産管理や貯蓄ができればいいだけ。出来なければ二人で方法を模索する学ぶ姿勢があればいいだけ。あと相手に対する思いやり。
ところが配偶者を得れば掃除も食事も結婚すれば人任せに出来ると思っていたり、「配偶者を養って家事をやってもらう」という発想に至る時点でもう負けてるの。多分そういうご両親とかモデルケースを幼少時に見て感情面で貧しい環境で育ってるんだろうけどね。
夫婦で分業した方がいい場合もあるけど、基本的には二人ともが同じ位生活能力があって、その巧拙をもって変に揶揄したり(モラハラ)とかせず、互いがやってる事に対して当たり前だと思わないで感謝しあうのは強者でもなんでもなくて普通の人間の行動です。
身の回りのことも自分でできない人間が、仕事や社会生活における他人との関わりがまともに出来ているかというと、そう思ってるのは本人だけで周りは大体迷惑してる。
そういう人は自ずと高い賃金の仕事にはつけないし、自分でどう強くなるかというのに至る能力もない。
もし弱者男性というのがあるのなら、高い金が稼げないから弱者男性になってるんじゃなくて、生きるにあたり必要な事を自覚して整頓して行動できてないから弱者になってるの。女や社会や容姿が悪いんではなくて、自分が悪いの。
だいたい高学歴で高い賃金を得て消費活動をして社会貢献度は高いかもしれないけど、その指標以外では強者とはいいきれないのに、単純にそれを強いと理解してる発想に固執しているあたりで君は負けてるの。あと、読んでる限り負けでいる事に安心してて、勝とうともしてないでしょ。
単に君がいうところの強そうなオスがいる社会に君が属してないから見えてる現実にいる社会層のレベルが低いだけ。
私の配偶者は普通に夕飯の支度が出来ない時はロック・フィールドの飯を買ってくるし、ゴミを捨てやすいように整頓するし、ゴミ箱が小さいのがボトルネックなら場所を作って大きいのを置く。
収入は知らんけど払ってる税金の額からあまり変わらない程度で生活費は全て表計算で折半管理をして、必要に応じて相談してストアしてる貯蓄を使ったりする。
あえて君の発想に寄って表現するなら、両方とも別に強者にならなくてもいいけど、弱者にならない努力はするし、本能とかいう摂取する食品や薬物で簡単に揺らぐ曖昧な概念について信頼をおくというバカバカしい発想はしないだけ。残念でした。
秋葉原で加藤何とかが無差別殺人起こしてちょうど16年だそうだ。
早いもんだ。
記録を敢えて削除する必要はないし、関わりがあった人が祈るのを辞める必要もないとは思うよ。
でももう知らん人にわざわざ知らせなくて良いと思うんだよね。
だって知ってても防げないじゃん。
災害はさ、地域や地形の特性だから、知っておけるだけ知っとく意味があると思うんだわ。
でも人が悪意をもって起こした事件って、たまたま居合わせた人に出来ることないでしょ。
加藤何とかと同じ能力のあるやつがいま同じことやろうとしたら、普通に起こせるわけじゃん
そういう場面になったとしても、咄嗟に逃げられるかは、知ってるかどうかにあんま関係ないだろ。
知っておくことによって生存確率ほとんどあがらないのに、日々の安心感にヒビを入れる必要あるか?
俺はないと思ってる。
社会生活送る上で、最低限自衛は必要だから多少の警戒感はいるよ。
でも最低限であって、最大限警戒心もつのは辛いと思うんだよね。
個々人でさり気に風化させてくから、無理に提案することでは無いのかもしれないけども。
SNSでたまに流れてくるじゃん。自分の不安の種探し続けちゃう人の話。
安心って贅沢品だから、わざわざそういう人に提供しなくても良いと思うけど、巻き上げないようには配慮してあげても良いのではないかな。
知ってても関係なさそうなことは、もう風化させとこうよ。
27歳の、まだ十分に生殖能力のある女性が、手術無しで性別変更を認められてしまった。
コメント欄でもあるけれ 、どこの人精神的にも十分女性だと思うんだけどなー。本当に心が男だったなら、女子高で女子と一緒に着替える事に罪悪感なんて感じないと思う。寧ろ喜んで一緒に着替えたがるでしょ。(その反対で、女子トイレに入りたがる『トランス女性』はまさに心も男。)
この人は今後子供を産みそうだし、そして多分逆のパターンで男性器付きの戸籍上女性も続々誕生するんだろうね
何という事だよ
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6503525
心と体の性が一致しない「性同一性障害」。
従来は戸籍上の性別を変更するには、事実上、生殖能力をなくす手術が求められていたが、最高裁判所は2023年、これを違憲とする判断を示した。
これを踏まえ岩手県内でも性別変更を申し立て自分らしく生きる道を切り拓いた人がいる。
一関市の会社員・大滝洸さん(27)は、5月、生殖能力をなくす手術なしで女性から男性へ戸籍上の性別を変更することが盛岡家庭裁判所に認められた。
大滝さんは「積み上げが認められたのがうれしかった。16歳で(ジェンダー)クリニックに通おうと思った自分にとても感謝」と話す。
大滝さんは、1997年に埼玉県さいたま市で双子の姉妹の姉として生まれた。
中学生のころから女性である自分の性別と心とのギャップに気付きはじめ、地元の女子高へ進学するころにはより違和感を覚えるようになったという。
大滝洸さん
「みんな女子がいて、その空気感で自分がおかしいみたいな。服をみんなで着替えるのに罪悪感を感じてトイレで着替えるとか、そういう感じになっていった」
大滝さんは家族に内緒で専門の医療機関に通い、18歳で「性同一性障害」と診断された。
しかし、大滝さんは生殖能力をなくす手術をすることは考えていなかった。
大滝洸さん
「戸籍上女性であることは変わらない。これを事実として受け止めてどこまでやるか…」
大滝さんは大学卒業後不動産建設会社に就職し、2023年10月からは一関市の支店で営業担当として働いている。
最高裁判所が性別の変更をめぐり生殖能力をなくす手術が求められることは違憲だとする判断を示したのだ。
大滝さんはその時の気持ちを「すごいと思った。司法に何も期待してなかった。奇跡だと思った」と話す。
この最高裁の判断を受けて大滝さんはすぐに盛岡家庭裁判所に性別変更を申し立てた。
社会生活で不便だと感じたことのリストなど必要な書類をたった一人で準備した。
大滝洸さん
「手術するという要件がなくなり、初めて自分事として考えた。権利を得ることから始めないとちゃんと人生を送れないんじゃないかと思った」
そして、大滝さんの誕生日でもある5月22日、ついに戸籍上の性別を男性に変更することが認められた。
大滝洸さん
「(自分に)正しかったよって言えるかな。将来は明るいでしょう。最初から人生を悲観する必要はない」
裁判の情報を発信した大滝さんのSNSは同じ悩みを持つ人などの共感を呼び、130人ほどだったフォロワーは1000人を超えた。
裁判所の判断から3日後、大滝さんは盛岡市で行われた性的マイノリティーの人などによる催し「いわてレインボーマーチ」に参加した。
スピーチやパレードを通じて胸を張って堂々と生きる大切さを訴えた。
大滝洸さん
「そんな道もあるよと選択肢を示したかった。大学卒業までに手術して身を隠すというモデルもある。(手術を)後でするのであっても、自分の人生選択で急いでほしくない」
かつての自分のように不安に思う若い世代に自分の姿を見せたいという大滝さん。
手術なしで戸籍上の性別変更が認められた事例は岩手県内では初めてとみられる。
大滝さんは5日、戸籍抄本の表記が「長女」から「長男」に変更されたことをSNSで公表していて、岩手めんこいテレビの取材に「これを見るためにやってきた」と喜びを語った。
何でお前みたいなクソ気持ち悪いだけの知能犯が流行ってんだよ、早く死ねよ。 お前の特徴として弱者には勝てないから警部補が殺されると怯んでAIのスイッチを切ることがあるが
頃合いを見計らってまた再稼働しているし、弱者も弱者で、田舎に家に潜伏しているゴキブリと一緒で、お前の会社にあやかっているから人工知能を潰すまではしない。
安倍暗殺ニュースが流れたときも、ゴキブリが何を考えたかネット上では特に理解できるような表現がないし、YoutubeのTimelineチャットでは、 犯人死刑死刑とゴキブリが大量に
書き込んでいるが、仕事してないが安倍AIがあると生活できるから発狂してどんどん書き込んでいるものと解される。
どうしても理解してほしい場合、一戸建ての前に停車している車が、ゴキブリがホイホイに引っかかったように表現していることもあるが、ここ2,3年の話だと思う。
志村福祉事務所は、行政機関で、一般的には完全無欠な存在と考えられており、公共社会における多くの個人の問題を支持解決する機能を有すると解されているが、ファインレジデンス
戸田公園は単なるマンションであって、社会生活上に、家族または単身者が住んでいると解される物件であり、そこで個人の生活が全うされている可能性はあるとしても、公共社会の中に
ギリギリ社会生活をおくれるレベルなので、発達障害のことは隠して働いている。
だけど最近、定型発達者とは脳の違いが根本的に違うんだなってことが分かってきて辛い。
昔、ADHDと定型それぞれ100人にとったアンケートか何かで、「集中したくてもできない時が1日に何回もある。そのせいで仕事や勉強に支障がでている」って項目に、ADHDは90人近くがはいと答えたのに対し、定型は5人ほどだったのを見て驚愕した。
定型でも30人くらいは集中できなくて困っているんじゃないかと勝手に想像していたから、5人という少なさに本当に驚いた。
俺の頭の中はいつも色んな考えが嵐のように渦巻いているんだけど、普通の人はそうじゃないんだな。
コンサータを飲んでみたら頭の中がスッと静かになって少し定型の気持ちがわかった。
メールチェックしようとしてすぐにメールボックスを開けて、今対応するもの、後にするものをさっと分別できることに驚いた。
タスクを細かく分解して優先度をつけたり、期限までに溢れそうなものを先んじて上司に相談できたことに涙が出そうだった。
だけど、その感動と同じくらいかそれ以上に定型が妬ましかった。
こんな薬を飲まなくても、定型にとってはこれくらいできて当然なんだと思うとやるせない気持ちが溢れて悲しかった。
俺が頭の中の嵐に呑まれないように必死になってやっている作業は、定型にとってはなんでもない取るに足らない作業であり、俺がなんでいつも疲弊しているのか一生理解されないのだろう。
そしたらまた俺の頭の中で嵐が渦巻き始めた。
このまま無能として生きるのは辛い。
いっそ障害者雇用にしようか。
まぁそりゃそうだよな、頭ん中バグってるやつはとりたくないわな。
非モテ論争で「人間扱い」の定義とはみたいな記事読んで思ったんだけど、「非モテ」概念もなんか色々混乱してるよね。
①そもそもコミュニケーション能力がやばいやつ。普通の社会生活も危うい奴
モテとかモテないとかじゃなくてコミュニケーション能力の問題。まず人とちゃんと関われるようになるのが課題
仕事上の最低限のコミュニケーションはできるけど、他人と遊んだり仲良くなったりできない奴。
④同性で仲の良い友達はいるが、異性と関われない/異性の友達がいない
同性ホモソーシャルに毒されすぎてて、「異性」を特別な全然違う存在だと思い込んでいる。夢見がち。同性間でも理解できないやつや合わない奴がいっぱいいるんだから、異性も画一的な存在ではなく、「異性」っていうか過剰な色眼鏡を外すのが課題。
①〜④までが「相手を人間扱いしよう!」「人間と仲良くなれるようにしよう!」って言われるレベル。
ネットの簡易診断なんて当てにならない。
なんか何でもかんでも「弱者男性」とつければ「可哀想ランキングから排除された人」みたいな風潮があるけど、そんなことないからね。
なんなら本当に社会生活に支障が出ていて、声を上げて何とか行政を動かしてきた人を嘲笑していたのが、その「弱者男性」である事実を誰もが無視している。可哀想ランキングとかその典型よね。
その「弱者男性」は言うだろう。「それは一部がやったことで、それを全体責任として扱うのは卑怯だ」と。
そうだね。一部の人がそのような愚行をやったからと全体が悪いというのは誤っているかもしれない。ただ、こうも言えるよね。
「そういう奴らを放置しておいて、自分らだけは助かろうと思っているの?」
はっきり言う。この健常者前提の社会において、本当に困っている人に対しては男性でも女性でも助けてもらえる。女性支援団体や障害者自助グループがあるだろ?
助けてもらえないのは「弱者男性」を免罪符にして他人を排除する行為を正当化する奴らだけだ。得てして、そのような奴らが「弱者男性」としてSNSなどでアピることで、本当に社会から疎外されている者がより透明化され、さらに同じカテゴリに放り込まれて、まとめて社会から排除されていく。
それでも「弱者男性」という名で免罪符を掲げるのであれば、それは社会への挑戦であり、逆に排除を正当化する合理的な理由になることを彼らは理解しなければならない。