はてなキーワード: 気づきとは
自分は、親の言うことをよく聞く「いい子」だったし、親の言うことこそが真実と思って育った。
母が「○○(筆者の名前)は算数が好きだからね」と言えば、成績は悪くなかったこともあり、そうなのかと納得した。
母が「○○はコツコツ努力できる子」と評すれば、やはり納得し、他人の目にそう映るように行動した。
母が、「○○はお父さんを尊敬してるもんね」と言えば、「尊敬する人」の欄には「父」と記入した。
母ばかりなのは、父とはそんなに喋った記憶がないからだ。いつどこで不機嫌スイッチが入るのかわからず、怒らせたくなかった。
しかし、高校進学を機に親元を離れて、うっすら覚えていた違和感の正体に気づき始める。
自分は全然努力家なんかじゃない。どうにか楽して生きたいし、暇さえあればゲームばかりしていた。勉強も正直そんなに好きじゃないから、テストの類いはコツコツ勉強どころかほぼ一夜漬けで挑んだ。
父のことも別に尊敬してない。見習うべき点はあるかと思うが、それは「尊敬」という感情ではない。
なんのことはない、母は子どものことを理解したうえで言っていたのではなく、「こういう子であってほしい」という願望を言い聞かせていたに過ぎなかった。そして、自分はその通りになるように振る舞っていたので、母の願望は「真実」になった。それだけの話だったのだ。
そう気づいた後でも、自分は親に対する態度を変えることはなかった。高校~大学時代は経済的に親に依存していたので、今までの従順な子どもから急に方向転換するのはためらわれた。
社会人になり、経済的に完全に自立したところで考え方を改めた。
よっぽどのことがない限り、親には頼らないことにした。その代わり、親の顔色をうかがったり、言うことに無条件で従ったりするようなこともしない。
こうして書くと当たり前の話に聞こえるが、当時はそれができていないように感じていた。自分は親離れするので、親にも子離れしてほしかった。
自分が、新卒で就職したところを辞めて転職したのだ。親には転職の相談は一切しなかったが、引っ越しもするし報告しておくか、くらいの気持ちで事後報告をした。
しばらくして、母から返信が来た。曰く、父がひどく怒っていると。
数日後に父本人からも長文メールが届いた。まとめると、「そんな大事なことを、なぜ転職を決める前に親に相談しなかったのか」と怒っていた。
母にも苦言を呈され、お父さんがこの調子では最悪離縁すると言い出すかも……というようなことを言われた。
どうも、
というのと、
というのは、両親にとっての「真実」(願望)だったようだ。
彼らの連絡を受けて頭に血がのぼった自分は、二人に長文メールを返した。まとめると、「あなたたち二人は子離れできていないのではないか」という内容で。
以降、お互いに連絡もしてないし、帰省もしていない。
今思えば、上で書いたような「支援は仰がないけど言うことも聞かないよ」というスタンスを明確に親に伝えていれば、ここまではこじれなかったかもしれない。後悔しても遅いが。
つくづく、コミュニケーション不足な親子なのだと今になって実感している。
(オチはない)
理解力がないフリをして軽薄な煽り言葉でマウントを取り続ける人を増田ではしばしば見かける。
それは相手を諦めさせて言い負かしたように見せるには最善手かもしれない。
だがそのような表面上の格闘パフォーマンスより、「相手の心にどれだけ楔を打ち込めたか」のような見えないパラメータこそ重要だと俺は思っている。
その時に打ち込まれた楔が、ふとしたきっかけで気づきに繋がることもあるだろう。
人は言葉だけで直ちに物事を理解することはできない。だから人生経験が重要で、あとになってから「あの言葉には魂がこもっていた」と理解することが多々ある。
そういう場面で役立つのが、強く真っ直ぐな言葉の力で打ち込まれた楔だ。
楔は一見モノを2つに分かつもののように見えて、その実、打ち込まれたモノを強固に保持し繋ぎ止める役割も果たす。
いつ、どのような役立ち方をするか、あるいはしないのかは、器次第だ。俺はそれを読み手に委ねる。
だから、今理解力がないような露悪的振る舞いをしていても、本当はそうではない、最終的には理性的な判断ができる人が大多数であると俺は信じている。
そしてインターネットを見続ける限り、最終の段に至っていない人ばかりが目につくことになる事実も承知している。
だから得てしてインターネット上に溢れる言葉というのは、無知蒙昧に見える。それは仕方がない。
けれども何かを勘違いして、そこに安住し続ける者が出ないように、俺は楔を打ち込み続ける。
いや、自分が在宅勤務あってるとか「続けたい」とか「やめたい」とかそういうんじゃなくて
なんだかんだうちの会社も今年の3月くらいからコロナ対策で実質ほとんど在宅勤務で、せいぜい1週間〜数週間に一度位しかオフィスに行かなくなった。
出社自体を制限されているわけではないが、蜜を避けるためにできるだけ同一チームで多数の人が同時に出社することはしないように制限がかけられている。
おかげで、うちの部門が全員揃って顔を合わせることは全くなくなってしまった。
元々おとなしい性格で以前からもそんなに覇気のあるようなタイプの人ではなかったのだが、在宅勤務で自宅での孤独な作業があまりあってないのか、ここのところ様子がおかしくなってきた。
オフィスで顔を合わせられればまだちょっと元気がなさそうとか顔色が悪いとかも気づきそうなものだけど、在宅勤務だとそれも全くわからない。
在宅勤務が始まって最初の数ヶ月ではその異変に気づくことができず、先月あたりに彼と音声チャットでやり取りした辺りから明らかに様子が変だった。
こちらかの問いかけにもあまり答えず、発言もなんかたどたどしくなり、話す内容も支離滅裂。
こちらから体調良くないのか聞いても「大丈夫」としか言わない。
ただ、会話があまり成立しないくらいボンヤリした応対しかできず正直不安だけが募る。
あまり断定的な事は言えないけど長く続く孤独な在宅勤務が合わずにメンタルを相当やられてしまっている気がする。
本当は今すぐにでもカウンセリングを受けさせるために心療内科につれていきたいが、当人は「大丈夫、病院に行く必要はない」と固辞している。
やはり、どうしても在宅勤務が合う人、合わない人はいる。
誰も彼もが自宅で働くことが良いわけでない。長引く在宅勤務と外出の制限などで相当にメンタルをやられている人も少なからずいる。
このままで在宅勤務当たり前になるのが、全面的に良いとはとても思えない。
私は両親が死ぬ日を待っている。
母は若くして私を産んだ。
そして弟、妹と次々産み、三人きょうだいをほぼワンオペで育ててくれた。
専業主婦だった。
父も若く、五人家族を一馬力で回していたので経済面はいつもカツカツだったときいている。
(幼い頃、母が「お金がないお金がない」といつもイライラしていた。)
父はギャンブルや浮気こそしないものの、酒タバコを嗜みとにかくお金にルーズな人だった。
そして短気で、暴力的で、一度怒り始めると手がつけられない大男だった。
そのくせ怒りが鎮まると「俺は家族を愛している」というのだ。
よく「褒めると調子のるから褒めないよ」と言われていた。かけっこで一等賞になった日も、めいっぱいおしゃれした日も、受験に合格した日も母が私を認めることはなかった。
ヒステリックで、他人の悪口を好み、周囲を見下して生きていた。
そして毎日毎日悲劇のヒロインのように「ママはかわいそうなの」と口癖のように言っていた。
些細なことで父に怒鳴られ、殴り蹴られる子供たちに対して「助けてあげたいけど、そしたらママがやられるから。」と悪びれもせずいた。
頭を下げれば受け入れてくれる実家もあった。
必死に働けば出来ないことはなかった。
お金がない・パパが嫌いだ・私はかわいそうだと毎日言いながら、抜け出そうとはしなかった。
子供達は成長するにつれそんな家のおかしさに気づき、距離をおこうとした。
私は高校生になりアルバイトをはじめて自然と帰る時間は遅くなり、家に寄り付かなくなった。
すると厳しい門限を設け、バイトの時間を制限されるようになった。破れば父は私を殴り、母は私の荷物をゴミ袋に詰めて外に出した。
大学生になってからはほとんど家に帰らなくなった。奨学金を借りて看護大学に通いながらアルバイトをして、交際相手の家に帰った。
たまに顔を合わせると母は「お前は逃げる男がいていいよな」と吐き捨てた。
交際相手との結婚や同棲は許されず、勝手を働けば勘当すると強く言われ、父が怖くて逆らうことは出来なかった。
情けない人間だったと思う。
ただ働きはじめてからの両親は優しいことしかなくなった。今までの感情の起伏の激しさが嘘のように、引越しを手伝い差し入れをしてくれ、しばらくたつと今までの反対からは考えられないくらいあっさりと結婚も許された。
職場では辛いこともあったが配偶者に恵まれ、何より両親と離れられたことで何物にも変えがたい幸福感を得られた。
ここにいれば怒鳴り声に怯えることも、暴力で苦しむことも、朝無意識に泣きながら目が覚めることもないのだ。
私の家族にとっては初孫だったので、両親はとてもとても喜んでくれた。
絶交すれば良いのに、私は両親を完全に拒絶することはできなかった。
恐怖感もあったし、「お前らから離れた私はこんなに幸せになった。何もかも手にいれたんだ。」とわからせてやりたかった。
どうにかして母に私を認めさせたかったのだと思う。
腹の底にドロドロした気持ちを抱えながら、一見穏やかな親子になった私たち。
父は老いた。孫をみる優しい眼差しに胸がキュッとなった。そんな風に私のことも愛してくれた日があった気がする。
母は私に「あんなに殴られて泣き叫んでたのに、普通に話せてるしトラウマになったりしてないんだねー」と笑って言った。
心の中ではきっと私に申し訳ないと、絶対許されないほど恨まれているのではないかと、ちゃんとわかってくれていると思っていたので、これは心にズシンときた。
両親は何も思っていないのだろう。
「その方がうまくいくから、そういうふうにしているんだよ」とだけ伝えた。
結局私も若き母と同じなのかもしれない。
この薄暗い気持ちは両親が死んだら消えると信じている。
よってここで吐き出させてほしい。
コロナの影響で自粛が推奨され、家で過ごすことの増えた母が、Youtubeに嵌ってしまった。
しかも、Youtuberがまことしやかに陰謀論・極論を語る動画を、毎日長時間漁るように見続けている。
5月頃はまだ、コロナに関連してWHOが~中国が~というレベルではあったが、ここ数か月は「ビル・ゲ〇ツがワクチンにマイクロマシンを入れて、裕福層以外の人口を減らそうとしている!」などの、突っ込み所の多すぎる陰謀論を固く信じてしまうようになってしまった。
なぜそこまで確固として信じてしまったのかというと、例えばAというYoutuberがある切り口で陰謀論を展開する、そして別のBというYoutuberが、Aとは別の切り口で陰謀論を展開する。
このAとBの結論が同じ、または関連・類似していると、「この陰謀論は真実だ!」という結論を容易に導き出してしまうからだ。
また知識欲も刺激されているのだろう。
今まで表面的にしか知らなかった「ケネディ暗殺」「秘密結社」などなど、女性にとっては名前くらいしか知らぬ謎が、陰謀論により全景を明らかにされる(ように見える)のが楽しいようだ。
加えて、本人の素因もあるが、今までの家族関係にも起因しているだろう。
今まで父は、自分のやりたいこと以外の家庭のことを、母に任せすぎていた。
なにかを相談しても「~~すればいいじゃん」と、相談の背景も、求める対応や答えも汲まず、日々スポーツクラブや趣味通いに明け暮れていた。
そんな父に対し、母が信頼を失い孤独を感じていたのは明らかだった。
その流れで自粛。
外との関係は絶たれ、子は巣立ち、父は関心事以外には短絡的反応に終始。
ふとYoutubeを見ると、父とは違い、物事を一つ一つわかりやすく雄弁に話す男性。
逆に「極論だけど…」と明言を避けつつ、視聴者を一つの結論に徐々に導いていく、一見思慮深い男性。
母がそういった人達の話を魅力的に感じてしまうのは仕方ないだろう。
しかし、内容に関してはあまりにトンデモすぎる上に、家の外でも、家人に以外でも、陰謀論に触れ力説してしまうので、私はつい反論し、あまりの馬鹿さ加減に怒ってしまう。
上のワクチンを例にすると、何故かオーバーテクノロジーなマシンが秘密裏に何十億と大量生産され、何故か誰にも見つからず指摘されずワクチンにラブ注入され、邪魔者は消されるはずなのに、何故かどのYoutuberもピンピンギラギラ今日も素敵に陰謀論を暴いちゃうぞ☆、そんなご都合主義ファンタジー極まれり。
でも実際、その陰謀を実現させることは、とんでもなく困難だと容易に想像つく。
世の中はそう単純ではないことを一つ一つ反論しても、母は「でも!」と、反論を別の陰謀論で被せてくる。
過去に1をやった組織なら1000もやる!ついでにあれもこれもやるに違いない!と、全てが針小棒大、妄想のスパイスをトッピング。
あれ…これどこかで見た流れ。
カルト宗教でもそうだが、母は自分が皆の知らぬ知識や真実をたくさん得ており、自分が誰かにそれを伝えなければ相手を救えない!という旨の発言をする。
きっと私のことも家族のことも、何も知らずに悪の結社に騙されている可哀そうな人と思っていることだろう。
長年連れ添った家族の話よりYoutuberの話の方を固く信じ、家族より世界を憂いている現状に、悲しさしかない。
そんな母への対応に、正直どうしたら良いのか悩んでいる。
一番の悪手は反論だろう、それはわかっている。
例えば病気や痴呆などで人格や考え方が変わってしまった場合、時間はかかるが仕方ないと思えるだろう。
実際、以前母に薬の影響で一時的に強い痴呆様症状が出たことがあった。
その時の私はかなりショックを受けたが、すぐ仕方ないと気持ちが切り替えられた。
けれども今回、陰謀論以外は正常な状態なので、私が陰謀論についておかしいと説得し母がそれに気づくことで、陰謀論から離れられるのではないかとズルズル期待してしまう。
2.周りの人が母とは違う考えであることを母が感じてほしいから
YoutubeやTwitterなどでは、同じ陰謀論を信じる者たちが集まっており、周りが賛同者だらけのように感じてしまうが、現実はそうではない。
どんなに母が力説しようと、家族は賛同しないし、母の友人は言葉を濁している。
人間関係において、自分の意見が周囲の大多数の人間と大きく異なった時、「あれ?もしかして自分の意見はおかしいのかな?」と気づき是正することを繰り返していたと思う。
母に於いても、同じ状況を体験することで、現実とネットとの反応の乖離に疑問を持つきっかけになればと思ってしまう。
まあこれは望み薄な気がするが。
恐らく、この話を読んでいて「ごちゃごちゃうるせーな、適当にスルーすりゃいいだろが」と感じた方は少なくないと思う。
しかし私見だが、今の母を作ったのが、上にも書いたように父の「~~すればいいじゃん」という短絡的な問題解決法や先送りスルーが一つの原因となっており、根深い問題と感じている。
少なくとも、突き放したり適当にあしらうことは、孤独を強めてしまいそうで、肯定やスルーをしたくない気持ちがある。
また、私にはアレルギー体質の子があり、ワクチンの副反応に戦々恐々としながら予防接種をすすめている。
できるならしたくないが、子のためでも社会のためでもあるので、毎回祈りながらの予防接種だ。
そういった事情を踏まえてなお、母は「マイクロマシンが入っているからワクチンはしない方がいいわよ」と言ってのける。
上はごく一例なのだが、もうデリケートな話題でもなんでもお構いなしに、自分の陰謀論をもとに他人の行動を変えようと試みてくる。
そういった行動を繰り返しているので母の友人関係や信頼関係を壊す可能性が高い。
更に、盲信の矛先が変わってカルトや高額な詐欺などに合う危険性も考えられる。
そのような警告をすると「私はきちんと情報を取捨選択しているから」と自信満々。
今の母を見ていると、母と似た性格傾向を持つ自分もいつか、子が巣立ち、孤独になった時、同じような状況になってしまうのでは、という不安が募る。
過去の、自分の見える事が全てに思えたような、狭い世界にいた中二病の自分も彷彿とさせる。
↑↑以上のような内容をグダグダと書き連ねていたのだが、肉親の悪口を長々と書いている自分に嫌気が差し、ブーメランな部分もあり、恥ずかしく途中で筆を置いてしまっていた。
後日、考えられる解決策や家族の対応とかを書き足して、増田で良い対応は無いかと伺おうかと思っていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0adbd66b8fd3fffa0472e6fc18dd08dd0f32c5d
???と思い尋ねると、どうも母を含むQアノンの活動のおかげで、コロナワクチンによるマイクロマシンの拡散を一歩止められた!やっぱり私の言う事は正しいのよ!という意味らしい。
ウンソウダネ、トテモスバラシイコトダネ、ワタシモウレシイヨ。
もう私はあきらめた。
昼、職場の近くの店で飯を食っていたら備え付けのテレビで台風の報道をやっていて、ある地方では家屋が暴風で横転したという。画面を見たら、薄いグリーンのヘンテコな色をした民家が横倒しになっていた。
報道によると元から誰も住んでいない建物だったらしい。付近の住民は以前から気にかけていたという。
それを聞いていて、なんとなく何かに似ているなあ、と思った。
別に、特別な気づきとか教訓とかじゃないんだけど、俺はこれ、人間に似てるな、と思ったんだな。
どこの共同体にも、職場にも、あるいは家庭内にも、この建物みたいな「人」がいると思う。
周囲からなんとなく疎まれていて、といってなんかの事情で無視するわけにもいかなくて、じりじりした負の関心をずっと集めている人。
あの人、いつになったら…。
「いなくなるんだろう」「辞めるんだろう」あるいは、「死ぬんだろう」。
単に憎まれてるってのとは違う、周囲でもなんとなくその人との関係性をこじらせちゃった自覚というか、道義的にとるべきアクションを面倒だから放置してる後ろめたさみたいなものがあって、その人がただそこにいるだけで低温でじっくり炙られてるみたいな不快感がある感じ。
そういう人いるよな、っていう。それで、そういう建物だったんだろうな、地元では、っていう、そういうことをなんとなく思った。
退職にあたり職場の人がお金を出し合って私がずっと欲しがっていたプレゼントをくれた。そのお返しとして、デパートで売ってるタオルハンカチを選ぶことにした。
いいなと思ったデザインはラルフ・ローレンポロの青のタオルハンカチだった。模様などがなくとにかくシンプルなのが良かった。最初は人数分それを買おうとしていたが、それが男性向けコーナーで売られているものだと気づき、数枚を戻した。自分的には青いタオルハンカチはジェンダーレスな気がしていたが、それでもやはり女性社員に男性向けに開発され売られている商品をプレゼントするのは非常に失礼で、侮辱に当たるのではと思ったのだ。
これってジェンダーだよなーとか思いつつ、女性社員用にはイブサンローランの生成り色のタオルハンカチにした。こうしてジェンダーは強化されていくのかな。なんだかなあ、な出来事だった。
半年くらい趣味の話をするTwitterアカウントを運営して、FF比2.5くらいの状態でフォロワー数を4桁いくらまで伸ばして気づいた事である。
アルファツイッタラーのような方々には遠く及ばない車輪の再発明的な気づきだし、こんな煽り文句めいたタイトルには不釣り合いな内容かもしれないが、何かの役に立てばよいと思って記してみる。
第一に、散々いろいろなうさんくさいネットメディアで紹介されているとおり、バズる情報発信(私はTwitterで発信を行っているので以下はツイートと書く)には強い共感が必要である。
趣味の話の場合、それは「こんな面白い・興味深い情報があったなんてすごい!フォロワーにも知ってもらいたい」という感情から来ることが多い。
絵のツイートなら、例えばコスメやコーデのブランドや方法論などをキャラと一緒に詳説したり、美術解剖学の見地から正しい人体の描き方を紹介しているような奴だ。
こういうツイートの情報量は大体、「バカでも分かった気になる程度に知的」なレベルであることが多い。以下、どういうことかを説明する。
まず、専門的すぎる・マニアックすぎる知識は、そもそも「面白い・興味深い」と思ってもらえないことが多い。
ポルシェ911の70年式の内装が、他の年代のポルシェといかに違うかについてアツく語られても、大体は「わたしにはすごさが分からないが、なんだかすごそうだ」という所で止まる。
前提となる知識がないからだ。もちろん分かる人にはRTしてもらえるし、分からない人でも拡散してくれないことはないが、あまり伸びはよくない。
かといってあまりに当たり前・調べればすぐ出てくる知識は、当然ながら言われなくてもみんな知っているので、やはり拡散されない。
あるあるネタみたいなものや、意外と抜け落ちがちな基礎知識なら話は別かもしれないが、あるあるネタを延々ツイートして滑っている人を見るとわりと見ていていたたまれなくなる。
よって「面白い・興味深い」と思ってもらえるようなレベルの知的な情報というのは、多少ググった程度では出てこないが、多くの人に理解できないほど専門的でもないものが望ましい。
その情報自体は知らなかった・身についていなかったが、それを理解するための前提知識はある。なるべく多くの人にそう思ってもらえるような内容が、(個人的には)いちばん手軽にバズる。
このような要件を満たすのが、「バカでもわかったつもりになる程度に知的な情報」ということである。多くの人がアクセスできないものの、理解した気になるのはさして難しくない。そういう情報を探してきてポストすると、大体はいい感じに伸びる。
ひとつ重要なのは、「分かったつもりになればいいので、実際に理解させる必要はない」ということである。分かったつもりになるのは、共感するのと同じくらい嗜癖になる快感でもある。
「人体の正しい描き方!」みたいなツイートに「ふむふむ参考になるなあ〜」みたいな引用RTをしてる奴が、実際にその描き方を参考に練習したり創作している例はほとんどない。
めちゃくちゃマニアックな知識しか持ってない…みたいな人は、それをバカにでも分かったつもりになるよう平易に発信するといいかもしれない。見栄えするよう絵と解説に描き起こしてツイートすれば、大体「なんか理解できそうだぞ」みたいな印象になると思う。
少し前に、増田に女性が女性器の皮の切除について書いていた事に気づきを受け、
■スペック
立つ時は剥けた状態になるが、そうじゃない時に皮がかぶって銭湯で恥ずかしいと思って手術を検討
CMもやってる某クリニックが無料でカウンセリングしてくれるって事で予約して訪問。
真性とかカントンと呼ばれる状態は国が"病気"と認定していて、保険で手術が出来るので安いし普通の病院でもできるが、
仕上がりが雑でペニスの包皮に手術跡が残る、
美容整形系のクリニックでやると、そこら辺はうまくやりますよ、という話。
その後、院長にペニスの状態を見てもらい(実際に触られて長さ測られる)手術見積もり。
某掲示板を見ると、真性やカントンで、セックスしても痛くて挿入できない、皮が剥けなくて射精できない、などの悩みが話されていて、
もしかして仮性包茎程度じゃ、手術はいらないんじゃね?と考え出す。
Amazonの本や高須委員長の話を聞いていても、特に支障がない仮性包茎は
■今のところの結論
続き
https://anond.hatelabo.jp/20200911202150
アブラハム・マズローの書いた『完全なる経営』(日本経済新聞出版 大川修二訳)という本を読んだ。
その中では、精神的に健康な人間というものが語られている。平たく言うと、自己実現できる人のことだ。
自己実現とは、本に書いてあった内容によると、こんな感じの人だ。
・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる
・夢中になれる物がある
この対極にあるものとして、精神的に不健康な人間についても述べている。
本文の中で、精神的に健康な人間と不健康な人間が対比されている描写は以下の3つだ。
相当高い発達段階にいる人間は、破壊よりも創造を好むものだ。創造する喜びは破壊する喜びよりも大きい。
ただし、破壊する喜びは確かに存在するし、そのことは看過されるべきではない。とりわけ破壊から強い喜びを得るのは、発達段階の低い人間、つまり神経症患者、未熟な人間、衝動をコントロールできず無意識的に行動を起こす人間、サイコパスなどである。 P.63
彼は予想外の事態に直面しても怖れる気配を見せない(強迫観念にとらわれた硬直した人間は、予想外のできごとを怖れる)。創造的な人間にとって、計画とは先に進む道を探すための足場以上のものではなく、それゆえ、後悔や不安をともなうことなく、やすやすと放棄することができるのである。 P.319
どのレベルの動機づけによって生きているかを判定するには、さまざまな方法がある。たとえば、どのようなユーモアを面白いと感じるかによって判定するというのも、その一つだ。低いレベルで生きている人間は、敵意のこもった残酷なユーモア――老女が犬に噛まれる話や精神遅滞の子どもが他の子たちにいじめられる話など――を面白いと感じる傾向にある。リンカーンが示したようなユーモア――哲学的で教育的なユーモア――は抱腹絶倒するような類のものではなく、むしろ微笑を誘うものであるが、これには敵意や征服といった意味合いがまったく込められていない。このようなレベルの高いユーモアは、低次の欲求レベルにとどまる人間からは、まったく理解されないものである。 P.367
この3つの中で、一番下が気になった。
それって、どんなコンテンツだろうか?自分もこれまでに楽しんだことがあるのだろうか?
気になって考えてみた。
以下は、私の主観で選んだ『精神的に不健康な人間が好きなコンテンツ』だ。
□ 漫画編
この頃のCLAMPはトンガっていた。今の作風からは信じられないほど『精神的に不健康なコンテンツ』だったといえる。個別作品のネタバレはしないので安心してほしい。
人間の手足が千切れる、〇〇の頭部をもぎとって〇〇に見せる、これまで信頼していた人が裏切って主人公をボコボコにして作品完結だったり、自分の部族が皆殺しになるのを割と涼しい顔で眺めている〇〇がいたりと、今に比べれば殺伐とした作風だった。(※もちろん例外はある。「CLAMP学園探偵団」「20面相におねがい!!」「学園特警デュカリオン」など)
このような作品を商業誌で描くということは、当時のCLAMPは精神的に不健康な人間の集まりだったのか?と私は思った。
そのとおりだと思う。
CLAMPに関する情報を集めれば集めるほど確信を深めるようになった。どんな情報を集めたかは言わない。彼女達の名誉を傷つけるおそれがあるからだ。あの〇〇〇〇〇〇を作った奴はどこのどいつだろう。訴えられればいいのに。
CLAMPが今のように精神的に健康なコンテンツを作るようになった境は、『魔法騎士レイアース』『カードキャプターさくら』の辺りだと思う。
この頃からCLAMPの作風が急に丸くなる。魔法騎士レイアースはシリアスな場面が多いが、これまでの作品に比べれば緩い。ギャグも多いし、家族同士の愛情、恋愛もしっかり描いている。
※もちろん今でも殺伐とした物語を描くことはある。BLOOD-Cが好例だ。
作品内容がジェノサイドな方向に行ってしまうというのは、何もCLAMPに限ったことではない。他の有名漫画家にしてもそうだ。それは雁屋哲だったり、板垣恵介だったり――眉月じゅんのような若い作家でもそうだ。
初期の作品というのは、どうしてもそういう方向になってしまう。それは、自分がこれまでに受けた苦しみや、社会への恨みや、一発当ててやるといった決意がそうさせるのだろう。
漫画家として食っていける人間というのは、若いうちは苦労しがちだ。サラリーマンに適合するタイプの人間ではないので、学校で仲間外れにされたり、いじめられたり、日陰の存在になりがちだ。
そんな環境の中で作品を描く力を磨き上げた人間というのは、自分を虐げてきた社会に対する不満を創作活動を通してブチまけてしまうのかもしれない。
あくまで推論に過ぎない。デビュー作品も、今の作品も殺伐とした雰囲気が少ない作家もいる。大御所だと高橋留美子だ。あの人の作品は、初期の物も今の物も人間愛に溢れている。
一般的には、一山当てて名前が売れたり裕福になったりすると、作品内のグロテスクな傾向は薄まっていく。
名前が売れると承認欲求が満たされるし、印税が入って裕福になれば、食事に旅行にファッションに、いろいろと楽しみ放題だ。
「恒産無き者は恒心無し」という故事があるが、まさにこれを地で行くのが人間の性だと思う。
以上は、ほとんどの創作者に当てはまる傾向だ。若い頃に殺伐で辛辣なジェノサイドを描いていた人が、有名になるにつれて人間同士の繋がりを大切にした作風に変化していく。
ここでは個別具体的な作品を扱う。ネタバレはしないが作品の感じは伝わってしまうだろう。
2010年から月刊誌で連載が始まった作品で、2014年にアニメ化された。原作はタカヒロだ。
①グロテスクなシーンがよくある。身体の欠損や理不尽な死は基本。
②読者に残虐なシーンを読んでもらうことを目的とした話がある。特別編の3人娘など。
③グロ以外にも人権を軽んじる描写多数(特に女性と田舎者に厳しい世界だ)
こちらのタカヒロ氏は、ほかにも勇者であるシリーズ(ex結城友奈は勇者である)を手掛けている。この作品も、真面目でいたいけな少女を痛ぶることで読者や視聴者、プレイヤーを楽しませることを目的のひとつとしている。
人は、一体なにが原因でこのようなコンテンツを考えつくのか?
ストレスにほかならない。生きていることが苦しかったり、面倒くさかったり、人が憎いと思ったり――そんな観念が繰り返し脳裏に浮かぶ度に、その邪悪な何かを外に出そうとする。あるいは、他者を自らの仲間にしようとする。
タカヒロ氏のインタビュー記事を可能な限り読ませてもらった。記事内では、常識的な言葉で作品をPRしているように思える。しかし、毒がある。不満であるとは言明しないものの、コンテンツに関する何かに対して、さりげなく毒を吐いている。
さりげないから目立たないだけで、さりげなくない表現を使うとコンテンツの関係者にケンカを売っていることになる。そんなインタビューがひとつ以上あった。
精神的に不健康なコンテンツを作るのは悪いことではない。それが面白いという人がいる限り、価値あるものだ。
私も昔は、そういうコンテンツが好きだったと思う。でも、大人になるにつれて、社会で果たす責任が大きくなっていくにつれて、精神的に不健康なコンテンツよりも、心を健康してくれる、浄化してくれるコンテンツが好きになっていった。(一例として、のんのんびより。ニコニコ動画の再生数を見てもらえれば、私の言っていることが伝わると思う。ニコ動で一番売れている有料アニメだ。あれから一時的に無料期間があったので今は判然としないが、当時は少なくとも1話あたり3000再生は売れていた)
2010年代の前半辺りが最盛期だったと思う。当時は、ふたばチャンネルやニコニコ大百科、pixivなどにゆ虐のイラストや漫画を上げる絵師がいたり、ゆっくり虐待の小説を専門に投稿する掲示板があった。
このコンテンツにおいて示唆されている行為は何なのか?ゆ虐の作品を何度も覗いたことのある方ならお気づきだろう。
ゆっくりというのは、愚かな人間のメタファーだ。そのメタファーを痛めつけたり殺したり、漫画という形で傍目から眺めることで精神的に不健康な人間の欲求を満たしている。
精神的に不健康な人間はこういったコンテンツを好む。一言でいえば、人権侵害をテーマにした作品や論評や意見を好む。
同じ時代でいうと、mixiのニュース引用型日記だ。ニュースを引用して記事を書くことができ、投稿すると下にある引用記事一覧に載る。
今は廃れた光景だが、障がい者や生活保護受給者やホームレス、タクシー運転手に教師、公務員などを扱った内容がmixiニュースで取り上げられる度に、心無い誹謗中傷を述べた日記を投稿するのを楽しみとする人たちがいた。
障がい者が事件を起こすと「殺処分せよ」、生活保護受給者の不正が問題になると「貧乏人は死ね」、タクシー運転手が客とトラブルになると「タクシー運転手は社会の最底辺」など、差別の例としては完成され尽くした日記を投稿する層が一定数いた(しかも彼らは連帯を組んでいる。反論コメントは徒党を組んで煽ったり馬鹿にすることで潰す)。
一番ひどい例だと、東日本大震災が起こった際に、携帯電話の絵文字で津波に流される人々をアスキーアート風に表現した日記を投稿する人がいた。その人自身も、心に問題を抱えているように思える文調だった。
mixiの運営も、一定数の通報が集まるとそういう日記を削除し、ユーザーアカウントも凍結していたようだが、さほどの効果はなかった。
こうした人権侵害を行う人に共通しているのは、「社会に恨みを持っている」ことだ。
私が観察したところ、上記のmixi日記の数名の投稿者は以下のような環境にあった。
・いい大学を出ていい会社に入ったものの、嫁が公然と浮気をしていて、でも子どもがいるから離婚できないという葛藤を抱えている
とにかく強いストレスに晒されている人たちだった。
□ アニメ編
・該当する作品について
※後日追記 強いていえばBLOOD-Cだが、あれはどちらかというとシュールなギャグアニメなのでは・・・?という印象がある。
なぜかといえば、公衆放送なので当たり前なのだが、人権侵害コンテンツなど流せるはずがないからだ。
上記で挙げたアカメが斬る!についても、だいぶマイルドになっている。
アニメを企画する会社や、アニメ制作スタッフらが自主判断でグロシーンをマイルドにしたり、描写自体をなくしている。
あの3人娘は死なない。むしろ最終回で生存描写がある。この改変には痺れた。原作者が精神的に不健康な人間であっても、スタッフには良心があったのだ。
CLAMPの作品もそうだ。初期の作品である『X』には、地震でビルなどが倒壊し、多くの人が犠牲になるシーンが幾つかある。グロシーンも多数だ。
こういう描写が問題になり、漫画版のXは最終回を迎える前に編集側から強制ストップがかかった(もちろんCLAMPは続けたかったらしい)。
アニメ版はだいぶマイルドな描写になっている。残酷なシーンはあるが、気持ち悪さを感じるほどではない。放送コードの力は偉大だ。
今回はこれくらいで。
盗撮犯が目の前にいながら何もできなかった。
隣の席に座っている男が、そいつの斜め横に後ろ向きで立っている女の子のホットパンツと太ももの境のあたりをスマホで盗撮しているのに気づく。明らかにエロ目的だ。
こういうときってどうしたらいいんだろう、証拠として現場写真を撮っておくか?でも隣の席の男を相手にバレずに撮るのは位置的に難しいし、盗撮犯を盗撮したら私も同罪だろうか?などと考えているうちに、盗撮犯は私に盗撮がバレたことに気づき、決まり悪そうにスマホをカメラ画面からゲームの画面に切り替えたあと、盗撮された女の子と同じ次の駅で降りて行った。
この盗撮犯を捕まえるにはどうしたらよかったんだろうか。
私も彼らと同じ駅で降りて駅員に盗撮があったことを伝えればよかっただろうか。しかし、そんなことを考えているうちに犯人だけでなく被害者ももう見失ってしまった。大量の人間が乗り降りする山手線で、一度見失った犯人を駅員や警察は捕まえてくれるんだろうか?しかも被害者はこの場にいないのに。
女の子に、あなた盗撮されてましたよ、と伝えて一緒になんとかしようかとも考えた。でも、盗撮に気づいていない子に、わざわざ盗撮されていたことを伝えるのも躊躇われた。誰だってそんな不快なこと知りたくなかったと思うだろう。
結局、私は何もせずに電車を降りた。
自分も何度か盗撮されたことがあるのだが、盗撮犯を捕まえるのは本当に難しい(気がする)。
まず盗撮犯をその場で捕まえるのは体力差的に無理だし(そもそも指一本触れたくない)、かといって捕まえずに犯人を駅員のところまで連れていくことはできない。
犯人をみすみす逃して、自分以外の目撃者もいないまま一人で被害を申告したところで、駅員は動いてくれるのだろうか?
あるいは、盗撮!!と車内で叫べばよかっただろうか。でもそんな勇気はなかった。席を立って、周りの男の人に盗撮のことを知らせて協力してもらえばよかっただろうか。でも、自分が直接目撃していない盗撮被害に対して、見知らぬ人たちは協力してくれるんだろうか。
どれもうまくいくような気がしなかった。
盗撮犯への苛立ちと、犯罪行為に気づいたのに何もできなかった無力感をそのあとしばらく引きずって過ごした。
こういうのを目撃したらどう動くのが良いのか、はてぶのみなさんの知恵をください。
被害者が気づいていないから、被害を訴えていないからいいという問題ではない。
また奴のせいでいろんな人が被害に遭うのだろうと思うと、ただただ悔しい。