はてなキーワード: 孤立とは
奥さん良く見てる。
私見だが新型鬱で合ってると思う。
(おなじ症状を「女性の発達障害は男児とちがってティーンから顕在化しているのだ」ととらえる向きもあるが、
とにかく真面目すぎるほど真面目な子に多いんだととらえてほしい)
症状としてはとても疲れる。
ほっとくと1日12時間以上寝る。マジで。サボりでもなんでもなく。
当然宿題や通学が人並みにはできない。
起きてられないんだもん。
ただ、鬱にしろ発達障害にしろ、はっきり区別をつける必要はない。
というのも、中学1年生の子供が飲める完全に安全な抗うつ薬がまだない。
当然、薬はまともに効かないと思ったほうがよい。
(入眠困難も出ることが多いけど、睡眠薬も同じように使い方が難しい)
ので、とりあえず、ケチらないで甘やかしてやってやりすごさせて、ニートにしてやってもいいから。
「友達をつくれそうなところならどこでもいいぞ、
おまえなら余裕をもって入れる学校がかならずあるぞ、
大人になったらちゃんとした抗うつ薬が飲めるからって本人にも親同士でもいいきかせて。
高校は年齢制限あるけど通信の高校も今はたくさんあるしそれでもいい。
大学なんて20代のうちにいけたらそれでいいやくらいで。
ただ、親が「うちの子はニートでいいや」と甘えてしまって孤立させると
その後がとても難しくなるので、
「とにかく起きていられるようにする、外出もさせる」
「起きている間に友達を作らせる(しかし体力の問題で友達と全く同じ行動はできないと納得させる)」ことが最優先。
で、医者に行くために頻繁に体力つかってしまうとまた体力を使い果たして学校へいけなくなるので、
行ける時に行けて1箇所でなんでもしっかり教えてくれる便利系な医療機関に絞るべきなんだが、
まず、場所が遠ければそれで土日2日分の体力がゼロになってほかに行きたいところに一歩も出られなくなったりするし。
よく考えたほうが良いぞ。
とりあえず、もののわかった若い目の女医精神科医がいればそういうとこがいいよ。
あと、たまに本人が
「自分は不甲斐ない。あれもしたかった、これもしたかった!」と欲望の大渋滞パニックになるから。
体力ない人には無理だと親が整理してやれ。
日帝時代に朝鮮人を強制徴用した主体は日本政府だったのに、補償は韓国政府がしろと?日本の河野外相がこのような妄言をいった根拠は、
1965年に締結した韓日協定である。当時も野党と大学街が屈辱外交だといって反対したが、朴正煕はこれを推進した。
彼の政治的野心のせいで、歴史清算が台無しになり、多くの被害者がため息をついた。首脳の間同士でも、
顔を赤くして怒るべきことは怒らなければならない。強制徴用補償の件については、韓日首脳は刺々しくなるしかないだろう。
だからといって、私たちが屈服してはならない。日本は中国には謝罪と補償をしているのに、韓国のことは差別している。
対日屈辱外交は朴正煕時代で終わらせなければならない。あえていうならば、国際情勢で孤立するのは日本のほうである。
小学生の頃、感情を抑えきれないワガママで暴れん坊だった。
結果、孤立した。
中学生になると、それに加えてエゴと自尊心が肥大化した。ついでに体も。
当たり前だがイジめられて嫌われた。
高校生になった頃に、同郷がほとんどいない高校に進学し、ウェイ化した。
同時に自分からふざけることで笑いを取って結果的に好かれる(様に見えるだけだろうが)人間を目指した。ついでに運動部で鍛えて体を絞った。
小中の嫌われぶりが嘘みたいになった。でもピエロを演じ続けるハメになった。
大学に入ってからもしばらくその路線で頑張った。が、結局抑えきれないエゴが道化師の振る舞いを求められる風潮に我慢できず、色々あって友人を失った。
情緒不安定のメンヘラクソ野郎と化したが故に、不健康なガリガリになった。
今仕事をしている。身の丈に合わないピエロ役も、感情を暴れさせるアンタッチャブルも、自分を苦しめるだけなので、自分を守るために得た手段は感情表現を極力減らす事だった。
当然だが硬い人間と言われた。これなら嫌われない。もちろん好かれもしないけど、またやらかして失うぐらいなら最初からいないほうがいい。
体型はガリガリのままだ。
後輩に「ロボットみたいな人」と言われた。前の自分ならきっと怒り散らしてたかもしれないのに、何も感じなかった。驚くほど穏やかだった。
俺の正解はこれだったんだろうか。失敗して得られた答えと見て良いのだろうか。
ここからは毎回お願いしている部分……だったのですが、女性島について様々ご意見をいただき、次回からは女性島という大規模な配置寄せは廃止することにいた致しました(続く)。
C80まで男性向ジャンルでは、ジャンルの特性上、申込責任者が女性のサークルを独立させて配置しておりました。担当者内では通称「女性島」と呼んでおり、女性島内でさらにジャンルを分けて配置しておりました(続く)。
女性島につきまして、同ジャンルのサークルが周囲に少なかったり、売り子さんが全員男性等の理由でサークル内に男性が多い場合には周りから浮いてしまう、また、作家さんが女性であることを対外的に公開していないサークルもいる、という観点から、問題がないわけではありませんでした(続く)。
男性向に女性サークルが極端に少ないことからスタートした女性島ですが、男性向での女性サークルの増加が顕著な昨今、メリットよりもデメリットを感じる方のご意見を多くいただく形になっておりました(続く)。
ここ数年の間、様々な検討を重ね、今回女性島の暫定廃止を決定しました。暫定としているのは、強い要望があれば復活の目を残すという意味です。可能な限り多くの参加者にとって気持ちの良い参加をお手伝いするのが配置担当の役目じゃないかなと思っておりますので、思考停止せずに検討していきたいと思います(続く)。
ただ、男女比としては傾きが大きいので、女性サークルが孤立しないよう配置配慮はできるかぎり行なっていきます(続く)。
今回の女性島廃止により「男性島希望」などの記載は不要になります。よろしくご承知おきください。また、お知り合いのサークルさんなどにもお伝えいただけると助かります。
遊びに誘って相手からデートの予定があると言われても普通にじゃあ一緒に行こうとか提案して断られたら逆恨み&彼女ごと敵認定。
休日に一緒に遊べるほど相手と関係性が深まったら深まったで本性が出てマウント&失礼なコミュニケーションしか取れなくなる。それでフェードアウトされたらやっぱり敵認定。
これで仕事だけは異様にできるとかだったらまだ救いがあったけど現実は甘くなく、職場では「例の人」呼ばわりの腫れ物扱いで味方がいない。新卒入社の連中のお守りを買って出てサークル的な居場所を作ろうとするも、馴れ馴れしいのと休日も一緒にいたい病を隠せずに1ヶ月そこらで避けられ始めるというのが春の風物詩。
そんな振る舞いによって自業自得的に身近な人間関係が消え尽くしたら今度は飲み屋とか社会人サークルとかに行き始めて新しい人間関係を獲得しようとする。が、やはり「俺を見て!俺を褒めて!俺が楽できる気遣いなしのコミュニケーションを許して!」という本能は相変わらずなので孤立。30歳くらいで世の中を恨むようになる。当然独身だし彼女ができる気配すらない。
これらは全て俺のことだ。
再起を果たしたい。
最近高校の頃の同級生10人くらいでちっちゃな同窓会?的な集まりがあって、
今何やってるかだのあいつはどこに就職しただの皆が憧れてたあの子はもう二人子供産んでるだの、
近況報告と当時の思い出話で盛り上がってたんだが
俺はふと思い出して
「あの女の子いたじゃん、いつも孤立してて一言も喋んなくて滑り止めの大学全部落ちてた冴えない感じの眼鏡の子。あの子も元気でやってんのかなぁ。」
って言ったんだが、
「え、誰だっけそれ」とか「いやそんな奴いないだろ」とかみんなが微妙な反応をしだした。
いや、確かにいたよなと思って反論したんだが、覚えてる人もそこそこいるらしく、どうやら俺の記憶は間違っていないらしいことがわかった。
みんなの話を聞いたところ、存在は覚えているけど名前を思い出せないのが4人。存在自体を忘れていたのは6人(そのうち途中で思い出したのが2人)
思いの外その話題は盛り上がってしまって、存在しない派と存在する派で議論をしながら当時のクラスメイトを振り返ることにした。
この集まりは高校3年生のとき同じクラスだった男子の集まりで、その女の子もそのクラスメイトの1人。
当時のクラスは割と皆仲良い方だったと思う。
自分らが所属していた3-Bクラスは計35人。それは覚えてた人がいたので、出席番号順に名前を振り返ってみた。
野球部エースの江籐、女にモテた及川、ぶりっ子で女子から嫌われてた春日野さん。ざっくりしたプロフィールと共に五十音順の名前を振り返っていく。
結果、ほとんどのクラスメイトの名前は思い出すことができた。34人。
ただ断片的にはわかった。出席番号は13から17番目くらい。名字はさ行から始まる。
連絡先がわかる当時の同級生に追加で3人と連絡して聞いてみたのだが、やっぱり名前は誰も覚えていない。
卒アルで確認すれば一発じゃんと思って実家の押し入れから引っ張り出してみたんだが、何故か彼女は載っていなかった。
どうやら卒アル用撮影するような高校生活終盤、彼女はちょこちょこ休みがちになっていたから撮影に参加していなかった + 本人の希望で卒アルにはあえて載らなかったようだ。
ここまでくると完全に詰みだ。
13人に聞いてみて誰も思い出せないって逆に凄くないか。
事前にブロックする理由を告げられ、それに了承し、ブロックされることとなった。
理由は憧れの絵描きが「劣等感に耐えきれなくなった」というものだった。
作品に触れ、あらためて彼女の絵を見て、なんてこの人は作品の魅力を写し出すのが上手いのだろうと思った。彼女自身の絵の魅力と、作品の魅力の調和は素晴らしいものだった。
半年ほど鍵からROM、もといストーキングしながら、10年前に折った筆を引っ張り出しひたすら絵を描いた。描く楽しさを思い出させてもらった。彼女の絵が、たまらなく好きだった。それを伝えたくて新規にアカウントを取得し、フォローし、はじめてリプライを送った。
彼女と私は相互になった。様々なことを話すうち、彼女は私が絵を描くことを知った。
私は自分の絵を公開する勇気がでなかった。それでも彼女は私に色々なアドバイスと勇気をくれた。
投稿してわかった。
彼女は私が筆を折る前のファンだった。彼女は私の絵を切っ掛けに、絵を描き始めたのだった。
絵を投稿するまで7人だった私のフォロワーは一気に増えた。彼女のフォロワー数を一気に追い越し、私の落描きが彼女の素晴らしい絵の10倍の評価を得た。
しかし彼女の絵を評価してくれる存在はほんの一握りだった。「彼女の絵を褒めればフォロバしてもらえる」と噂がたっていた。
一年ほどすると私が絵をあげる度、彼女はスランプに陥るようになった。
『好きなのに見ていると辛くなる』、『自分が描ければよかったと思ってしまう』、『どうしても意識して似たような絵を描いてしまう』とtosで嘆いてはツイ消しを繰り返していた。私の折れた筆を直してくれた彼女の筆を、私が折ってしまいそうになっていた。だが、どうすればいいのかわからなかった。彼女はただひたすらに孤立していた。
その頃にはリプライにも絵にも反応がなくなり、ピクシブのまとめにブックマークがつくのみになっていた。
私は彼女の絵が好きだ。絵を描くことも。彼女が私をミュートしたとしても、それで彼女が平穏に過ごせるのならそれで良かった。たとえ彼女に伝わらなかったとしても、伝えずにはいられなかった。描くことをやめられなかった。10年前、孤独に耐えきれず筆を折り姿を消したことを思い出していた。
私を通じ彼女のフォロワーも増えた。だが彼女は、それを自分のフォロワーだと思えず嘆いていた。虎の威を借りているようだと。
私は虎ではない。虎であったとしても、私は彼女の絵が変わらず好きだった。
スペックの欄に書いた通りうつ病を患っている。そのため仕事ができない。
原子力関係のシンクタンクで働いていたところ、ある日ストレスの多さから突然自殺未遂をし、以降休職している。
しかし先日、精神障害があるのでこれ以上雇えませんという宣告を勤務先から受けた。
ハローワークに行って障害者枠で仕事を探そうとしたが、「主治医から『仕事ができる』と言われないと仕事探しは出来ない」と門前払いされた。
大学の非常勤講師にでもなるかと思ってJrec-INを見てみても、能力的な面や専攻的な面、そもそも業績を上げていない(零細学会で一回発表しただけ)より、自分が出来そうな講師職はなかった。
理系の研究職ならまだあるだろうが、文系で「若者の『地元意識』を数理統計的アプローチから明らかにする」という謎研究を修士課程でしていた身としては、研究を生かせる職があるとは思えない。
SPSS(重回帰分析・二項ロジスティック解析)とかEXCEL太閤、KH CODERなら何とか使えるが、それらが使えても何の足しにもならない。
プログラミングや数学(高校時代文系クラスだったため数ⅢCは受けていない)、英語が出来ないため、プログラマーとして働くこともできない。
実家に帰って仕事を探すにしても、実家は熊本の山奥である。一件だけ工場のライン工があったが、体力がないので長続きはしないだろう。土木作業員や警備員も同様の理由から候補から外れる。
普通免許も持っていないため、できる仕事も限られてくる。外回りの営業職はまず無理だろう。
そもそもコミュニケーション能力が皆無だと医者から言われたため、高度なコミュニケーションや感情労働を要する仕事(コンビニやファミレス、居酒屋の店員、営業職)も向かないだろう。
結果できる仕事もほとんどないことになる。フリーターすら無理である。バイトすらできないなら詰みである。
しかし家賃(6万7000円)を払うのもやっとで、生活できるとは思えない。
親に金を無心するにしても、実家もお金がほとんどないとのことなので、お金を無心することは出来ない。
社会保障の緊縮化が叫ばれる中、生活保護を受給するのも難しいだろう。
貯金も尽きそうになる中、お金がないのは致命的である。東京の自宅を引き払って実家に戻るにした場合、恐らく二度と東京には戻れず、実家に軟禁され続けることだろう。
その場合仕事もないし一生ニートになるしかないが、その場合貧乏な実家にさらに迷惑をかけてしまうことになる。
宝くじ一等当たれば話は別だが、そうでないなら人生詰みである。
コミュニケーション能力がないためコンビニバイトすら務まらないということは先述したが、コミュニケーション能力の欠如は友達がいないという形でも顕在化する。
友達がいなければ自身が抱える孤独とかを吐き出せる相手もいないということになる。また、友達がいないことは社会から孤立していることを表している。
社会から孤立している人が人的資源を使って今の窮状から脱することは出来ない。詰みである。
大学時代、オタクコンテンツの消費者のインサイトを探るための参与観察の一環として漫画研究会に所属していた。そこで友人関係を築いておけばよかったと後悔することしきりである。
うつ病をり患しているという事情も勘案せねばならないが、それを差し引いても日々の生活の楽しみがまるでない。
戦隊モノや仮面ライダー、ウルトラマン、一部の深夜アニメ(日常系)が好きだったのだが、最近そういうのを見ても面白さとかを感じることはなくなった。ゲームも同様である。
成城石井に行くために秋葉原に行くことが結構あるのだが、そこでアニメや漫画、ラノベ、ゲームを楽しんでいる人を見ると嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。
そのほかに楽しみがあればいいのだが、それもない。大学学部生の頃までは鉄道模型とかトンネル巡りとかしていたのだが、お金がないせいでそういった趣味にももはや手を出せない。
楽しみがなく生ける屍になっている。楽しみがなければ生きる希望もない。生きる希望がないことは人生詰みである。
自殺すれば楽になるとは思っている。他人に迷惑をかけ続けている以上、けじめとして自殺しなければならない思っている。しかし自殺すらできない状況である。
先日も神奈川県のダムで自殺未遂をして警察に保護され、父親が迎えに来たが、熊本から神奈川まで往復数万円かかった。そういった経済的支出が出来るほどの余裕は実家にはない。
今度自殺未遂したら一生実家に軟禁するぞと両親から言われた。実家に軟禁されれば仕事することも、金を稼ぐことも、鉄道模型やトンネル巡りもできなくなる。
実家の通信回線は貧弱なので、アニメや特撮をインターネットで見ることもできない。
つまり、今度自殺未遂をしたら仕事もお金も友達も楽しみもすべて親により永遠に奪われることになる。それだけは何としても避けたい。
今年末にスピリタスを一気飲みして自殺しようかと考えていたが、それもかなわぬ夢となりそうだ。
家族や周辺の人々に不幸をまき散らしている自分がいてよい道理などない。詰んでいる人生から離脱することすらできない。これを地獄と言わずに何と言おうか。
実家に戻ったら二度と東京には戻れないし、働けるような職もない。つまり一生ニートでいることが確定である。何としてもそれは避けたい。
だからと言って東京にい続けるにしてもランニングコストがかかりすぎて、お金を費消することになる。お金が無くなれば生活できなくなり詰みである。
次自殺するような真似をすれば実家に一生軟禁確定である。だからと言って無駄に生をむさぼっていても詰んだ状況から脱出する術は一向に見いだせない。
結局自分の人生は詰んでしまったのだ。自殺できないので、来世に期待すらできない。
クソみたいな人生なので皆さん嗤ってください。
『若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこの作品は書籍版漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。
これは120点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。
演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思います。ふるぼっこだドン。
この映画に関してはTwitterで児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。
じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。
初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいます。トランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイトに挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります。
『若おかみは小学生!』って言うタイトルだから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。
「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽や美術の演出とあいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術のレベルは高かったです。
でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。
小学生の児童にとって、両親を失うというのは、最愛の家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界の崩壊とかいうレベルでの悲哀なわけですよ。
にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。
異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故のフラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。
あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。
そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます。祖母である旅館の経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館の雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。
事実おっこの若女将は雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的な社会人の価値観からすれば)行き過ぎな面もありました。
でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将は労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。
たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所も自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実上ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。
おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働を危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供に接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから若女将をとりあげて、じゃあ不安定な彼女の精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。
だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてものは現代社会において、大学を卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。
そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点の傲慢な物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。
おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女が孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います。
おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである若女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去をある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます。
幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデルと出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。
まずは旅館の女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女の個人人格と職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います。職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとホロリとしました。
二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野で旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢な物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います。
(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)
三番目は宿泊客である占い師・グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこの宿泊客は、都心部に事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています。
抑制的な演出で描写される彼女の鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女の着付けを手伝います。浴衣初経験のそんな彼女の艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。
ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?
私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来の自分」「目指すべき形」です。
祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師が自分の仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。
ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊の少年やおませな幽霊の少女と出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこの幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます。
でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所を確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便の黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。
見終わってから気づいたのですが、この作品の幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています。
おっこは自分の中の勇気やかしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。
すべてのフィクションはファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学に入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館業から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。
でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチュームや身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係と自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います。
皆さまどのような連休を過ごされたでしょうか。
ほぼ引きこもっていました。
もう出かける気力がないのです。カラダが重いのです。
かと言って連休中ずっと寝ていれば疲れが取れるかと言うと、
そんな事もないのです。いつも疲れてダルいのです。
40代独身一人暮らし。絵に描いたような おひとりさま です。
決して収入は高くありませんが、なんせ欲が年々枯れて行くので
貯金は一応は老後のためと思ってますが、投資するでも無く塩漬けです。
私は日頃は家と会社の往復。
自分の身に何か起きたら、即、死です。
最近、鬱っぽいです。
過去にも抗うつ剤を服用していた時期があったので分かるのですが、
これが長く続くとヤバイです。
何をすれば良いのか分かりません。
人と会うきっかけで一番手っ取り早いのはお酒だと思うのですが、
私は下戸なのでそれも出来ません。
飲めないので飲み会にも行きませんので、
ご静聴ありがとうございました。