はてなキーワード: 半死半生とは
「撃て!撃てェェェ〜!!」
アク=ニンの声が虚しく響く。
「知らないの?大根は"当たらない"。」
そう呟くと、大根はアク=ニンの頭を撃ち抜いた。
「これが、監視カメラに残っている全てだ……。」
アク=トクは、神妙な面持ちで語る。
恐れをなした彼は、凄腕と評判の護衛を雇った。
蕪である。
護衛蕪オオキ=ナは、力強くそう言った。
「大きな蕪を、一人では抜かせないさ。」
「来たか……。」
トクが気付いた時、部屋に立っているのは、トクとナ、殺人大根だけだった。
対峙するのは、蕪。
刹那のうちに蕪へと発砲する。
だが、蕪は傷付かない。
2発、3発、4発……。
いくら撃っても傷付かない。
うろたえる大根。
「なぜ、そんなに丈夫なんだ……?」
「馬鹿な……!」
がっくりと膝をつくスズシロ。
続けて蕪はささやいた。
「だが、ターゲットが半殺しになったとしても、死にさえしなければ、俺の"カブは下がらない"。」
名字については、夫の方が改姓し、以来、スズ=ナを名乗ることになったという。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
普段から作風が苦手だなー、地雷だなーって思ってる人のツイートを
たまたま見に行く機会があって(きっかけは知り合いが書いたっぽい感想マシュマロ)
裏垢があるというので見に行ってみたら見事にブロックされていました
向こうも私のことが苦手で先にブロックしてくれてたのか
お互い何ひとつ言及してないのにその言及していないという事実と作品だけでお互いに察するものがあったのだ
表垢はまだブロックしないでイケるけどそのうちこちらからするかもしれん
まあぶっちゃけお互い地雷cpですわ、この狭いジャンルでよくそんなん発生したな、しかも半死半生のうちの垢なんかみつけたなと感動する
それだけ衰退して狭苦しいジャンルだということだ
もうひとり地雷なりかけさんがいるんだがこの人は旧作は大好きなのでブロックできずに困っている
長いことジャンルで活動していくとこじらせて(いつまでも初恋話ばかりできんのだろうが)
ドスカやん…
トリガーで監督やるようになった今石と錦織は、樋口真嗣と同じで、人の手足となった時に有能なタイプの人だと思う。
彼等の中には監督として…つまり作品全体の統括としてこれを作り出したい!というほどの作家性はない。
「こういう作画が好き」とか「こういうシーンが好き」とかいうのがあるだけだ。
錦織の新作アニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス(以下フランキス)』は酷い。庵野や鶴巻の影を追い掛けているだけで当人の中に何もない。
「何もない」ってかつてエヴァを当てた時の庵野が宮崎駿に言われてたことだが、庵野はどう小さく見積もっても色んな引用に埋もれずにお話とドラマを構成することは出来ていた。
錦織はそれも出来ていない。『フランキス』は、「エヴァを意識している」といえば言い方がきれいだが、エヴァの展開をバラバラに切りとってパッチワークしてるような酷さがある。ドラマとして成立していない。
『フランキス』1話は庵野作品鶴巻作品のモチーフを散りばめつつ「逃避的な態度だった主人公ヒロが戦いの決意をして敵を倒すまで」の話だが、このシンプルな指針に対する話の構成は無茶苦茶だ。
エヴァのシンジは3度戦いから逃避しようとしたが、それぞれに逃避理由と翻意理由がしっかりと描写されていた。
(1回目)
突然命張れって言われて怖いし言ってる親父ががむかつくので逃避→
包帯だらけの見知らぬ女の子がパイロットとして運ばれてきて見捨てられなくなる
(2回目)
変なおばさん達が偉そうなわりに作戦無茶苦茶で怖いしむかつくから逃避→
おばさん1号が駅まで引き止めに来たのでまあもう少しいてやるわとなる
(3回目)
信じかけた親父もおばさん達もやっぱクソだったのでむかついて逃避→
NERVの人間達のことを知ってしまったので苦戦の内情察して見捨てられなくなる
だが『フランキス』1話はこういう整理がまったく出来ていない。というか、どうもこのエヴァのシンジの逃避の1回目から3回目をごたくそに混ぜて筋書きを作っているのだ。
何らかの挫折を示唆しながら1人森の中でウジウジとポエム読んでた主人公ヒロは偶然出会った羞恥心のない全裸美少女に一方的に粉をかけられ(これがまた何のオリジナリティもないエヴァのマリまんまみたいな粉掛けで、戸松の声までなんだか坂本真綾に寄っている)たあと、組織の人間に同行されながら田舎行きの交通手段に乗るか乗らないかやってたら同じ立場の小清水亜美声の女に「ヒロは諦めんなよ!」とハッパ掛けられてボーっとした顔で見送ったら直後に小清水の乗る列車みたいなものが怪獣によって撃墜、突如始まる怪獣VSロボの大決戦からキルラキルみたいなリアリティラインの低いアクションで逃げ惑っていたら目の前に血塗れのオッサンがドサーッ!
実はオッサンは美少女と一緒にロボに乗って戦うパイロットで、たったいまロボが怪獣にノックダウンされると同時にちょうど避難ダッシュ中のヒロの目の前に排出されたのでした。ドサーッ!(アホか?)
小清水の死にもオッサンの死にもさして心の動いた様子を見せないサイコパスのヒロくん(まあ展開が強引過ぎて冷める気持ちはわかる。「この筋書きはないわー」と思ってたのかもしれない。)、ロボから降りてきた流血美少女を助けなきゃと発奮してオッサンの代わりの共同操縦者に志願、流血美少女とヒロが操縦するロボは見事に怪獣を倒しました。まで。
1話だから当然だが、主人公ヒロのウジウジの背景にどういう葛藤があるのか、まだ積み重ねも説明もない。だからそんなとこを1話の中心に据えられても困るのだ。同じく何の積み重ねもない小清水が勝手に喋って盛り上がってたが、こんなのはもっと話数の進んだ所でやるべき展開だ。
ヒロは元々ロボ操縦の為に選ばれた特別な子供だったが、その操縦の素質が謎の理由で失われてしまって現在落ち込んでいる、までは説明されている。ならヒロに足りないのはやる気や勇気ではない。流血美少女を見て「やるぞ!」がクライマックスになるのはおかしい。
エヴァのシンジが包帯に血を滲ませた綾波を見て乗る気になるクライマックスとはそこまで話の構造が全然違うのに、表面だけなぞっているのでドラマが変なことになっている。
シンジはエヴァを操縦する能力はあるのだ。「親父の態度が引っ掛かる」とか、「訓練もせず戦闘ロボ乗れってこのおばさんもやべえ」とか、「こいつらの『乗れるって』を信じていいのかよ」とか、そういうところで搭乗をためらってただけだ。だから傷付いた少女を見て乗り込むクライマックスはドラマとして正しい。自分都合の引っ掛かりより義侠心を優先したのだ。(その後のシリーズの展開はそんな熱いものではないが…)
一方ヒロは、ロボを操縦する能力がないのだ。体制に従ってるし、訓練はしてきたし、環境に疑問持ってない。やる気はあるのに不能なのだ。だから傷付いた少女を見ても(ついでにオッサンや小清水の死を見ても)、発奮したってどうにもならない。ヒロの抱える問題はやる気とか自信の問題として描かれてないのだから。
話の構成のそういう論理的なチェックも出来ない人間が、エヴァやトップ2やフリクリの影を追いながらしっちゃかめっちゃかな脚本・構成でアニメを作ってしまっている。みんなはエヴァエヴァというが、自分はトップ2の影のほうを強く感じる。今石は露骨だったが錦織も鶴巻フォロワーとしてしか監督の体裁を維持出来ない人だ。つまり独自に言いたいことやイメージなどあんまないのだ。
設定やキャラクターであれだけワクワクさせてくれて、作画も良質であったにも関わらずだ。
超かっこいい絵を描くアニメーター・イラストレーターである吉成曜監督作品だ。
見事に「絵やデザインはかっこいいんだけどね…」という作品になった。
不敬ながら、 吉成曜ですらも監督向きではなく監督の手足となって絵やデザインを担当する時真価を発揮する人だったということだ。「だった」というか、やる前から多分そうだろうなという予感は多いにあった。
やはり作画監督が監督をしたアニメや映画はつまんねえ。これは動かしがたい事実だ。
ペイしてるならどんどんやったらいいんだけどさ。
ちゃんと監督指向で監督向きの人材が監督したアニメや映画がもっと見たい。
msdbkm ヒロに何があったのかはまだ描かれてないだけでこれから描かれるのかと思ったのですけどそれじゃだめなのかしら。エヴァでいうならシンジくんと父さんの間に昔なにがあったんだろうくらいの引っかかりかと。 2018冬アニメ まだ1話しか見てない
そういうこと言ってんじゃねーよ!
通じないなあ。
エヴァ1話では仰るとおり、シンジと父親の過去は明かされてませんし、おばさん達の本格的な頭のおかしさも開示されてません。情報がまだまだ少ない。でもそれは欠陥では無いんです。なぜか?
1話のドラマに必要な分の情報は出てるからですよ。逆に言えば1話の段階で明かせる情報に見合ったクライマックスを作っているんです。
「親父と軋轢がある」「おばさん達が頭おかしい」というざっくりの提示で、「でも目の前のこの女の子を見捨てらんねえ!」とちゃんと葛藤が成立し→打破が成り立ってるわけですよ。ざっくりと「こういう子が目の前に転がってきたら自分の中のムカつきや疑念や戸惑いはいったん脇に置くんだ」という話なんです。無駄も不足もない。
それとフランキス1話を比べてください。小清水とのあーだこーだはエヴァでいう4話ぐらいのことをやってるわけですよ。その積み上げはまだないでしょう?なのにやってる。だから無駄な話であり、不足してるんです。
友達である小清水が目の前でガーンと撃墜されて生死不明になっちゃうのはエヴァの17話とかのことですよ。当然、フランキスには小清水が生死不明の大怪我を負うことで視聴者がちゃんと衝撃を得られるための積み重ねもないですよね?だから無駄な話であり、不足してるんです。
小清水が半泣きでハッパかけたあと半死半生になったのに見てて視聴者は何も感じ取れなかったでしょう?表面的に真似をした表面的に派手なことやってるだけで、構造を理解してないからです。意味もわからず庵野や鶴巻の作品のパッチワークしてるだけで、そのシーンの狙いやシーンが成り立つ要件をわかってないのです。増して自分なりに再構築なんか少しもしてない。これは総監督の器じゃありません。
operator “「逃避的な態度だった主人公ヒロが戦いの決意をして敵を倒すまで」の話だが” ←この認識が間違ってるんじゃ?主人公ヒロは子供の頃から闘うために養成されたけど、戦うことができずに困ってただろう?
2018/01/26
まず”子供の頃から闘うために養成されたけど”の部分、本文中に書いてるよね?
「逃避的な態度」について、能力と自信を喪失して仲間から離れて一人で森でポエム読んでる、パイロットの立場終われることを納得してないのに全力で抵抗するでもない、小清水に何言われても反応が鈍い、これが逃避的な態度。
あなたは「逃避的な態度」をわかりやすく「怖い!戦いたくない!」って泣き叫ぶ態度のことぐらいに思ったのだろうけどそれは言葉のレンジが狭いだけだと思う。
もっと言えば、ちゃんと読んだらこの文の「逃避的な態度」が何を指してるのかは悟れたはずで、
40点
keytrackerkeytracker 703は病院に搬送されて生きてると言われている(本当かはわからない)子供達はパイロット適性がないとお払い箱になる事が読み取れる。これが016が1話で諦めてる原因。これを読み取れないでアニメ偉そうに評価するな
2018/01/25
ナオミが生きてるのぐらい知ってるよ。
これもちゃんと読んだら「半死半生」って書いてあるのを見落とさなかった筈。
子供たちがパイロット適性ないとお払い箱になるのは視聴者みんなわかってるとこだよ。
エヴァでもそうだしましてトップ2トップ2って言ってる人間がわかってないわけないじゃない。
お払い箱の話もそうだが、ナオミが生きてるって情報にいたっては暗喩とかではなく直に出てくる情報なので
それを「ぼくは読み取れた」「こいつは読み取れてないんだ」ってマウンティング材料になると考えたのはちょっとなんでそう思い込んだのかすら不明だが、かなり甘い。
君はアニメの読み取り能力より前に日本語を読み取れるようになれ。そっちのほうが基本だ。
35点
ogawa0071 増田何歳なのかな。95年生まれの自分からすると現代の若者の心情を丁寧に描いてるように見える。小清水とオッサンの死には心動かされないけど、不能な自分に狭い世界の外側を教えてくれる存在だけに惹かれるんだよ。
2018/01/26
なるほど。
こういう反論にはちょっと「そうなのか」以外の言葉がない。こういう反論が読めると書いた甲斐がある。
ただ、そうすると小清水とオッサンが死ぬ(死んでねえ、とかいちいち断らないと冗談がわからず文全体を読み通せない国語の苦手な子達がマウント取れると思って興奮してしまうから面倒だ)必要なくね?閉塞やゼロツーの魅力の片鱗をもっと描くべきような気はする。
80点
wdnsdy "小清水が(中略)半死半生になったのに見てて視聴者は何も感じ取れなかったでしょう?"主人公の心情に添うならそこは何も感じなくていいシーンでは?主人公は自分の進退が最優先で彼女の生死には頓着してないし
2018/01/26
上と同じ答えになるが、それならここで小清水をあんな風にやる必要なくない?
幼馴染っぽい少女が涙ながらになんかを訴えたあとあっけなく目前で死す、というイベントは
おおまかに「主人公に深い衝撃を与える」か「たいして衝撃も受けないサイコな主人公」かを導く訳で
ヒロは別にサイコとか極度の心身耗弱というわけでもないのに鈍い反応で流す。
あれはヒロのキャラクターが示されてるというよりは脚本が効果的になってないだけなように思える
70点
minatonet リトルウィッチアカデミアは面白かったよ ドラマ
2018/01/25
趣味の差だな。すまんな。
正直つまんなかったけどフランキスほど「ここがダメ」って感じじゃないんだよな
60点
2018/01/26
は?え?
でも駿の映画は嫌いじゃないです。マロの映画は見る気もしません。
65点
rag_en 増田の低リテラシーが原因なのに、監督のせいにさせられてるのはさすがに不憫。 増田 アニメ
2018/01/25
0点
unlostable 今石も錦織も監督として十分実績ありますけど?打率10割の人間は居ないってだけ。
2018/01/25
だから言ってるじゃん。ペイしてるならいくらでもやればいいと。商業的にペイしてるなら実績として認めるに吝かでないよ。
50点
homarara これ多分、ほぼ全滅エンドだと思う。2話までのノリとしては、スーパーロボットものよりデスゲームものに近い。
2018/01/25
好きじゃねーよ。
・フランキスがエヴァエヴァって言われてる(それ意外にも色んな引用がある)
エヴァを引き合いに説明する→エヴァについての言及文字量が多くなる→こいつはエヴァが好きなんだ!
アホかと。
ついでに言えば今回引き合いにしたエヴァ1話がさして巧みな構成だとは思わない。
また、エヴァは完全に腐ってるので庵野の余生はシンゴジラ2やナウシカ2に費やして欲しい。
hatorix そんなにエヴァが良いならダリフラやってる時間にエヴァ見てろよ
2018/01/26
「エヴァ1話はフランキス1話よりずっとまとも」と「エヴァが大好き」は全然違うこと。
wosamu エヴァとダーフリ、見る順番が逆だとエヴァを罵倒してそう。
2018/01/26
どっちの雰囲気やデザインが好き、とかに影響されない部分だけを語ったつもりなんだがこれだもん。
疲れるわー。
j080046 ロボットアニメ見てエヴァがどーたら連呼する人は(あ、この人エヴァしかロボットアニメ知らないんだ…)としか思わない
2018/01/26
「ロボットだからにている」なんて話をどこでした?一ミリもしてねえ。
仰るとおり見てませんん。
なんかキツくて切ってしまった。
Coolions 2話見る限りどストレートな下ネタアニメなのでダイミダラーとか下セカみたいな感じで笑いながら見ればいいと思う
2018/01/26
そうかもね。
こう言われるのが1番キツいわ。
70点。
さめぱ @samepacola
その他
読みたいから頼むぞ
rag_en 全然関係ない話題同士だけど、追記がhttps://anond.hatelabo.jp/20180125105759の追記に似てるな、と思った。
読んでみたけど、
「象と牛は似ている!どっちも尻尾で虫を叩く!」ぐらいの大発見な感じ
しかも虫を尻尾で叩くのはそれほど不思議な動きでも希少な動きでもなくね?っていう
ついでに言うと自分はその人と違って非表示にしてるidなんか一個もない
良い意見には良い意見ですねというし、バカな意見にはバカですねという
その際にちゃんと理由説明を添えるから不満があれば更に反論してくれればいい
「非表示してやったバーカバーカ」というレベルの言い合いと一緒にされるのは少々心外だ
natukusa 増田はブーブー言いながらもダリフラはこれまでみれてて、スタドラはきつくてみれないって「趣味の違い」を感じる。自分はスタドラ好きだが、増田と違う視点でダリフラきつくて、まだ見れてるけどこの先わからん。
2018/02/01
ごめん
自分の意見として「あれはダメ」とか言うつもりはないしその資格もない
あとキャラデザのあいつがかなり強烈に嫌い 絵も仕事への取り組みも
これは好き嫌いであって優劣の話じゃないしスタドラに罪はない
https://anond.hatelabo.jp/20200121173620
俺はダリフラ初期にこのように批判して文盲達から噛み合わない盲反論を受けたが
大手メディアは本イベントの批判を「木がかわいそう」などとまとめていますが、実際は「震災の鎮魂と復興と再生のテーマにふさわしいイベントなのか」「実行までの不透明な過程」「主催者の二転三転する説明への不信」などが焦点になっています。
会期も終わり、クリスマスツリーとされた大木は、植樹と言われながら根付くことなく伐採されました。
自分の心を整理するため、主催者に被災者の鎮魂、復興と再生を謳ったイベントの主催としての誠意が全くみられなかった、という点について書きたいと思います。(他の面については他の方が証拠を揃えて書かれていますので、書きませんが、重大な問題だと思っています)
◆◆◆
神戸の街と人々は、22年前に地震という自然の力に否応無しに痛めつけられました。大切な物を喪い、傷つき、絶望した記憶は、街が復興を遂げたとしても癒えるとは限りません。中には望まずして愛する街を去らねばならなかった人もいました。
そのような人々に対して、健やかに山で生きていた大木を功名心とも思える動機で切り出して、にぎやかなイベントのアトラクションとして据えることが、鎮魂の象徴にふさわしいなどと、どうして思えたのでしょう。本来であれば、主催が説明をすべきことですが、彼らはいくら真摯な意見を受けても、説明する責任を果たしませんでした。主催の西畠清順氏は、会期中5回以上のトークイベントを設定しながら、このテーマについて語った言葉は数えるほどしかありません。関係者は説明から逃げ「嫌なら見なくていい」と放言したり、中傷されたと被害者ぶったり、わざわざ直接ではない言い方で「くだらない」「厄介な傷つきやすさのアピール」と侮辱をしたのです。
私には、否応無く採取と輸送で痛めつけられ半死半生で潮風にさらされる木が、150年以上にわたって自らを育んだ地から強制的に引き剥がされた木が、被災した神戸の人々に重なってなりませんでした。震災を経験した方の中にも、そのように感じ、つらい記憶が生々しく蘇って苦しんだ方がいらっしゃいました。それは、西畠氏が仕掛けた「この木への感情移入」に少なからず原因があったと思います。
また、何より許し難かったことは、被災地の子供たちに願いを書いてもらったオーナメントが無残に風にちぎれ飛ばされていたことでした。主催にとって、「鎮魂と復興と再生」というのが単なる都合の良い大義名分以上のものではないということを如実に示していました。
私は、悲愴な記憶を「もう○年前のことだから」「自分には権利があるから」と、踏みにじってもよいもの、利用してもよいもの、軽んじてもよいもの、として扱う鎮魂ビジネスを断固として拒絶します。
そしてその姿勢を是とした西畠清順、糸井重里、そら植物園、フェリシモ、神戸市等への不信感を決して忘れません。
いつか、東北や熊本で同じようなことを企む輩が出るかもしれません。震災に限らず、聞こえのよい大義名分のもとに、メディアに守られたならず者が土足で人々の思いを踏みにじることがあるかもしれない。
その時には亡くなった者、傷ついた者の尊厳を守るために断固として戦わなければならないと思いました。
参考)
有川浩さんのブログ https://ameblo.jp/arikawahiro0609/entry-12336781681.html
いいなさんのブログ(本企画の時系列) http://iina-kobe.com/entry88/
そこは勘違いだよ。徴税は私有財産権の侵害にほかならない。ただ、私有財産権は公共の福祉の制限を受けているから、実際的には私有財産権の完全な発露を抑制されている状態ってだけなんだよ。公共の福祉のためにということで個人の財産の一部を徴収するのが税というシステムだと言いかえることもできる。
税金を払いたくない(多くの人はそうだろう)に対してそれを徴収することができるというのは、これは前記事でも触れたとおり「暴力」なんだよ。前記事やここで「暴力」としているのは「対象の意志を無視して自分の意志や行動を強行/強要する能力、行為全般」だ。
もちろん公共の福祉という概ね良い目的のために、国民が監視可能な形で、適切に運用されているから課税/徴税は現代日本において「悪い暴力」ではない。
でも歴史を見れば分かる通り、財産の徴収が国家独裁者の一方的な都合で行われて、戦争などに使われた例なんてざらにあるわけ。だから、「徴税は暴力ではない」なんて詭弁だよね。まさに暴力にほかならない。大多数にとって納得できて現代日本の社会では善として扱われている(あるいは近代国家運営のための必要悪)だけであって、暴力であるのは否定できない。これは警察(治安維持)なんかもそうで、僕らの日常にも暴力は溢れているわけ。
選挙を始めとした多数決だってアレは暴力だ。数が多い事をてこにして少数者の意見を踏みにじるためのツールだ。もちろんその暴力が適切に、みんなを幸せにするために使われることはあるし、事実現代日本では多くのケースでそうだろう。でもだからといって、そういう暴力性を無視しちゃいけないんだよね。無視したところから民主主義の崩壊は始まる。だからこそ多数決で勝った側が負けた側
少数者)の声に耳を傾けることが重要なわけ。民主主義=多数決ではなくて、むしろ多数決をした後あるいはする前の合意形成技術や、それを支える民度が民主主義の精髄だ。
さらに例えば、経済的な地位を濫用して企業が労働者を搾取するってのも(経済的あるいは社会権力的な)暴力だ。暴力だからこそ法で規制する必要があるわけだよね。またその逆側の、労働者が数を頼んで選挙やストなどで他者(多くは富裕層)の財産や権利を奪おうとするのも、これまた暴力だ。
人間社会は(先進国では概ねちゃんと制御された)暴力の応酬で形作られている。長い歴史の中で人間は(人間の政治は)暴力の範囲を限定してきた。ロングソードで農民の頭蓋骨を数個割れば村の徴税権ゲットだぜ! なんて時代に比べれば文明的になった。
でもブコメなんかに見られる「現代日本で暴力は駆逐された」みたいに信じている人のそれは正しくないんだよ。むしろありとあらゆる接触に暴力が上乗せされているのが現代社会というものだとおもうよ。
多少ひねくれた表現が許されるのならば、政治とは「利益の異なる個人や集団の暴力の相克を、なんとか社会崩壊しない範囲内で収める術」だと言いかえることもできると思う。それに失敗すると、ベネズエラとかジンバブエになるし、その手前の「社会の分断」段階でもEUやらアメリカみたいになる。
「富裕層から税をぶんどれば良いんだ」「AIに課税してしまえばいいよ」「共産主義にして金持ちの資産を国有化しよう」これらはすべてコメにあった無邪気な意見だけど、それらは「あいつを殴って奪おうぜ」という暴力肯定の意見だとちゃんと自覚して発言しているのか、そこが疑問だ。別に富裕層をかばうつもりは全然ないんだけど、「あいつを殴って奪おうぜ」に賛成するのならば、当然に「自分が殴られてすべてを奪われる」覚悟が必要だよね。
一番最初の記事(https://anond.hatelabo.jp/20171115141727)に感じたのもそういう懸念だったんだ。「俺はあいつを殴っても殴り返されないし許されるだろう」みたいなふわっとした(悪い意味での)信頼感。
いやいやとんでもないそれ暴力だから。記事中ふれたように暴力は社会のあらゆる場所に(表面的にはあたかもそうではないようなカモフラージュをされて)存在するものだから、殴るなとも暴力を振るうなとも全く言わないのだけど、でも振るうのならばせめて自覚しないと危険だよ? と思った。
全力で殴り返されて半死半生になった後に「そんなつもりはなかったのに」って言っても手遅れなわけで。
絶賛の嵐、っていうほどなのか。シン・ゴジラの方が、熱いコメントよく見た気もするけども。
これ、共感してるのは、男もなのかな。
どこらへん?
どこら辺ツボった?マジで?
どんな風に面白くしてくれんのかなって、見てたんだけど、
入れ替わって、まあ、わかる。
そんな感じでリアクションするかもしれん。うんうん。
お互い入れ替わって、だんだん惹かれ合う。ふむふむ。
でもこの段階。この段階も、実は違和感がある。
完全に一時的に、自分の体になってる、っていうのが、想像難しいけどさ。
それでそいつを好きになるのだろうか。
おっぱいもんで、ちんこもある程度触っているわけでしょ。お互い。
なんか、そこですんなり好きになるのかな。自分好きになるみたいじゃん。
なんていうか、体を何されてるかわからなかったりする、
変さって、あるんじゃないっていう。知ってしまってるだけに、恋愛感情になり得にくくない?
で、まあ、いろいろあって突然入れ替わらなくなるんだけど、
好きっていう感情は残ってるのに、住所に全く関心示さなくて、全くわからないっていう。
それもなんかね。いやいやいや、どんだけだよ。なんか、なんかしら手がかりあるでしょ。
と思わなくもない。記憶に残ってるものと、残ってないものが都合よすぎるというかね。
で、なんとなく思い出したから、行ってくる、ってなって、
女の先輩と友達、入れ替わっていた事実をあっさり受け入れすぎてるっていうか、
何なのそのリアクション!あっさりしすぎじゃない?もっと、こいつ頭おかしいんちゃうん、って思うでしょう。
なら出すな。絡ますなっていう気がする。
で、村民を助けるっていう流れ、わかる。僕らの七日間戦争的な、あれでしょ。わかる。
わかるんだけど、前段階で、結構ふわふわしちゃてるからもう、なんか全部、ふわふわしてきちゃって、
茶番に見えるというか。
真実を知ってるのは主人公なんだけど、説得しきれてない。証明できてないよね。
でもあそこまでの犯罪に手を染めるというのがね。
何でやねんって思わなくはないですよ。
3年前に髪を結ぶ紐を渡す、っていうのもね、わかる。その感じ。
ドラえもんのび太の魔界大冒険の序盤で、石になってるドラえもんとのび太の伏線の回収みたいなあの感じわかるよ。
冷めてる。
で、最後、わかるんだよ。
いろいろ、全てが終わって会っちゃう。どうしても出会ってしまう。赤い糸だからね。
わかる!わかるんだけど。
でも隕石回避、ただ走って伝えるだけで、セッテングは友達がやってたわけだしね。大して何もしてない。
それにお互いをどうやって好きになったかって、
決定的に、お互いに、何か心の隙間を保管するようなことがあったわけでもなくて、
頼りになるのは、何となく好きかもっていうなんかよくわからない、気持ちだけ。
そんなんで、思いを募らせる何かがあるんか!みたいな。
なんか一悶着あって離れ離れなら、もう日がな考えてフワフワしちゃう。
でもめっちゃ記憶薄いからね。なんか運命の人、いるかも、程度でしょ。
しかも最後なんて、ただのリーマンじゃないっすか。もうめちゃくちゃただの日常だし。
みたいな。
なんか言うほどの恋愛なのっていう。
ピンチになってるけど、隕石回避してるだけで試練でも何でもないしさ。
いや、もう、燃え盛る山にボロボロになって突っ込んで助けに行って半死半生とかなら、
まじかよ、そこまでしてくれたなんて、めっちゃ好き!!っていうのもあるけど。
そんだけ。
説得しただけ。
シンジを見ろよ。めっちゃエヴァ乗るの嫌がってて、もう死ぬほど怖い思いしてるよ。
すごいじゃん。
とか思うんだよね。
途中で恋愛的に凹むことがあるわけでなくて、なんか、ヒロインがあえて、自分で女先輩導いちゃってるし。
アホかってしか思えんし。
というのもあるわけ。
まあでも、泣けるのかな、泣けんの?本当に?
せめてロミオとジュリエット的な、どうしようもない運命に引き裂かれてるとかならわかるけど。
とまあ、もう、突散らかしたけど、俺は共感できなかったんだよ。
なんなんだよ。100億超えただと?なぜ!なぜなんだぜ?
目の前がくらくらして、心臓が冷たい鼓動していて、頭に血が上って、喉元が焼けるように熱くて、目から水が出そうになって、ぶるぶる震えている。まさかこんな、漫画だか小説だかの状態になるなんて。おかしい。そんな人生なのか今は。悔しい。悔しすぎる。生まれてきて一番悔しい瞬間だ。本当にもう、こんな思いは二度としたくないってぐらい、悔しい。そして、嫌だ。今この舞台に立たなければならないのが嫌だ。誰にも何も干渉されない恐ろしい場所だ。こっちから手を伸ばす事も出来ない。狂ってる。この場所は狂っている。
今なら誰かに殺されても成仏してしまえそう。嘘。死にたくない。多分今が、人生の最底辺なんだろうと思う。
大好きな応援歌を聞きながら、今この状況に震えている。本当にもう、だめだ。死ぬか生きるかの瀬戸際。坂口安吾で言えば堕落。超堕落してる。こっから這い上がるしかないのだな。もう、なりふり構っていられないんだろうな。今したいこととか捨てて、せめて一ヵ月後は、一ヵ月後は希望が見えるようにしたらいいんだな。今あいつらが楽しんでる事なんか気にしちゃいけないんだな。そうだ。今この瞬間はまだこんな文章書いていられるだけの時間があるけども。
残りの時間は、震えながら自分の慢心とか怠惰とか希望とか夢とか絶望を刺し殺していこう。すべてが終わった後、洗練された何かが生まれてきますように。この夜は自分を殺す。