はてなキーワード: 似て非なるとは
いきなり装いが変わっていた。
それは愚鈍な自分であっても、誰でも一目見て分かる変化だった。
これまではずっと慎ましやかに肌を隠していたのにやけに肌が見え、あけすけだった。
しかしこれまでの信頼と、共に過ごしてきた歴史というものがあったし自分も大人だ。
遠くにもやっと浮かびかけた不安感に臆することなく軽くポジティブに捉えた。
もうすぐ春だし、イメチェンかな。
でも、中身が。肝心の中身が違うのだった
自分の動物的感覚なんてあてにしていなかったのに、かすかに、でも確かに感じてしまった。
もう無理だ。
終わった。
天を仰ぎ何もかもが嫌になった。
ずっと、お前とはずっと一緒にやっていけると思ってた。
あの界隈は総じてレベルが低い手をつけたくない、なんて巷に言われていても、
ところがこいつは違うんだよな。オレは知ってる。と誰に主張するでもなくほくそ笑んで幸せな日々を送っていた。
放置さえしなければ、すっぴんで熱をいれてやるだけでもそこそこいける。十分いける。
ストレスが溜まった日などは無茶をしてしまい一晩に5なんてこともあった。
それでも体調以外では罪悪感を感じる事もなかった。
自分にとってはありがたく丁度いい。まさに相性が良いというやつだった。
なのにこのザマ。
突然、こんなにもあっさりと終わりが来るなんて。
でも気付かないふりはできない。
粘着な自分は、己の感覚だけでなく、事実を確かめてしまったから。
もうあの存在を目にする事はあっても、その横を他人の顔で通り過ぎるだけだろう。
・2月1日リニューアル新発売になったものと従来のものの原材料名を見比べたら、実際がっつり変わっていた。
・ちなみにネーミング、「毎日の食卓に(小さめの字) 食パン」だったのが、「毎日の食卓」になってた。
主役の食パンが消えちゃったんだな。納得。
・安いパンの中でも買いたては素朴ながら十分いけて、トーストすると全然おいしかった。
なのにヤ〇ザキの安いパンの中で、特有のくせというか風味のある苦手な方の味になってしまった。
・逆にこっちがいいって人もいるんだろうけどさ。
女性向けソシャゲ市場であんさんぶるスターズ!の二匹目のドジョウを狙いたいソシャゲ会社ーーーーーー!!!!!!!!
まず絵をアニメ寄りのかわいいやつにしろーーーーーー!!!!!!!!
有名イラストレーターに頼むとネームバリューにファンがついてるけどその個性故に敬遠する客もいるぞーーーーーーーーーー!!!!!!!
乙女ゲーによくあるくどくて使い古された絵柄は乙女ゲーに抵抗のない客層にしか響かないぞーーーーーー!!!!!!!!
さっぱり目のそれこそ京アニとかに寄せたような絵柄にしろーーーーーーーー!!!!!
ガチャの単価を下げろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
乞食って言われそうだけど、一般的に女性の平均年収は男性の平均年収を下回ってるから、男性プレイヤーが主要顧客のアプリと同じくらいのガチャ単価に設定してるとそれだけでちょっと敷居がいんだと思う。
中にはじゃぶじゃぶお金をいれられる廃課金の女オタクももちろんいるけど、微課金層を取り込んでいきたいならガチャ単価は1万円で30連じゃなくて1万円で40連に調整するといいよ。
ちなみにあんさんぶるスターズは5400円でダイヤ360個買えるので、ダイヤ135個使う10連を2回回してもちょっとダイヤが手元に残るくらいの感覚だぞーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!これめちゃくちゃ絶妙だし課金への敷居さげて微課金層増やす要因になってると思うぞーーーーーーーーー!!!!!!!
あとピックアップガチャのピックアップ確率を上げろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
☆5とかURの排出テーブルにのってもほしくもないキャラの恒常高レアがきたところでドブはドブだーーーーーーーーーー!!!!!!
そこで絞るより最高レアのテーブルにのったら確実に限定カードが出るくらいの調整の方が女の財布の紐はゆるむぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!
あと乙女ゲーは女オタク至上ではニッチ市場な部類だから完全にオタク女を狙うなら無理にキャラクターとの恋愛を推さんでいいしキャラクター同志の関係性を描けーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!
腐女子の食いつくCPとかを狙わなくていいから普通に人間関係とかを描けーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!勝手に食いつくから少年漫画みたいな作風を目指せーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!
イケメン○○みたいな乙女ゲーっぽいのに食いついてる女性客と、女性オタクの客層は似て非なるものだと思うぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
普通にあんスタageてガチャゆるめてほしい乞食のたわごとだと思われそうだけど、あんスタがどうして微課金層を幅広くつかんで女性向けアプリらしからぬ売上を維持しているかの理由は、プレイしてドはまりした自分や身の回りの経験から
・気軽にガチャに手を出しやすいガチャ単価・ガチャ内訳の設定と、イベントを走れば確実にもらえる☆5報酬の設定
・匂わせはあるけどがちがち恋愛要素絡めた乙女ゲーにしないキャラクターとプレイヤーの距離感
あたりがでかいのではと思っているという話で、ヒットしてそろそろ2年たつのにいまだに後追いゲーが出てこないのなんでだろうなあって不思議に思っている。
あいにくそんなアンチというなの熱狂的ファンにすらなれないくらい、
特にこれといって語ることのない内容(「無い内容」ではない、たぶん)だった。
くらいに中身のない上に新しくもない自分語りをツラツラと聞かされたが、
まだあちらよりはこちらの方が行動していたので調べてみると違うらしい。
でもこのクドクドしたのが好きなやつは手放しで絶賛して、しかし金は落とさないのだろうな、
5年以上前から俺は作品を観るときは作品そのものではなく製作者やどれぐらい儲けたかとか、
これは続編を作れる構成なのかとか、原作者とスポンサーと製作陣とでどういった摩擦があったのかとか、
そういう作品を取り巻く周りばかりを気にしてまともに楽しめなくなってしまっている。
俺は
サンタがいないと知ったら、普通に落ち込むような面白味の欠けた人間だ。
サンタは父親か母親だろうが、その年収を知っても特に面白いことはない。
嘘を真実だと信じていたからこそサンタというものの価値がそこにあったのだと思い返すだけだ。
俺の人間的強度が嘘を嘘として愛せるほど頑丈ではなかった。
俺は家族で鍋を突いて日曜に観るサザエさんが好きだったのであって、
その裏で姑や小姑からいじめられる母親の存在を愛していたわけではなかった。
この話はどうでもいい。
丸2日寝てないせいで脳が制御できていない。
だっれかがNHKにようこその続きだと言ったがふざけるな。
NHKにようこそのテーマは外の拒絶からの自分でベクトルを生み出す創造の尊さがテーマだ。
四畳半はただの人恋しさからのコミュニケーション欠乏症に陥った末のリア充デビューだ。
NHKは引きこもりが外と交流したけど結果として自分の意志を持たないと駄目だと気づいた話で、
四畳半は外と積極的に交流しようとしたけど上手くいかなくて引きこもったけど上手くいかなくていいと開き直った話だ。
四畳半は躁鬱が躁状態に突入しただけで、自分なりの哲学を作ってないからあれは簡単に鬱に戻る。
子どもが子どものままウェーイw状態に突入しただけで好機がなくなれば加齢でただのオッサンになるのは目に見えてる。
四畳半はあれは蔵の中に閉じ込められて泣いて親に反省したから出してくれって言わざるを得ない状況に追い込まれただけ。
ただそれだけ。
自分なりの壊されないものを作り出さなければ人は真の孤独からは脱出できない。
あれには形が無いし時もない。
NHKにはそれがあったように思える。
失礼。
今までNHKにようこその名前を出していたがアニメではなく漫画のほうの話。
アニメは金を出さずに消費できるやつが多いのでNHKのアニメはよく語られるが
とにかくここまでだった。
1円ライターから見た、キュレーションサイト「炎上」の現場
http://magazine-k.jp/2016/12/08/writing-for-curation-media/
なるほどキュレーションライターの現場のいまが垣間見えるポストだねぇ。。
この文章を読んでて思ったのは、いい意味でも悪い意味でもキュレーションライターの文章だなぁと言うこと。
ふむ「高級ライター」と「1円ライター」か…もしそう言うマインドで有償物書きをしてるとしたら、
金をとる文章の重要な価値(要素)の一つに「推敲を含む編集スキル」があると思っている。
つまり記事の内容(クリエイティブ)とともに 文章の品質が担保 されていなくてはならないと。
だが大勢のキュレーションライターの書く記事にはその部分のスキル・品質が欠如しがちという印象がどうしてもある。
ネットの即時性に合わせたクロックのライティング…粗製濫造。そこには高級も一円の格付けもない。
しかし今回のことで語られるのは、記事の内容やリテラシー、掲載PVに拘泥するものばかりだ。
もしかしてそれは寿司と回転寿司が似て非なるものであるように、文章そのものが別の物、
非常におもしろかった。
たとえば古語でも、黄昏(たそがれ)時と「かわたれ時」っていう、音韻からみても字数からみても意味から見ても非常に混同し易い言葉を日本人は山ほどつくってはそれで遊んできたんだけど、それを急に脈絡なく口に出すと自分にはとろけたチーズの糸みがいな文脈がつながっているのに、相手にはワープもいいところで連想が追いつかず迷惑になるというやつね。とかいう例えまみれの長文をしゃらっと作れる自分もちょっと短文になるとどこまで剪定していいのか未だに苦労はする。たとえが先に思いつくんだ。
糖質のワードサラダは、体験をつくっちゃって不愉快なんで、似て非なるものだと思う。というかうーん、色彩が違う。
だけど、その糖質の友人と自分のちょっとトビ気味の話題についてきてくれる共通の友人がいるんだよね。
一度どのように相同性があるとみえるかきいてみたいな。
大卒の人が大卒は正しいと喚く記事を読んで、学歴コンプレックスっていうコメントを見たわけだけど、これって学歴コンプレックスとは違う何かじゃないかなあ。
抽象的なはなしだけど、多分その記事の筆者は(そして多くの人は)「幸せが確定するチケット」を求めていて、この20年位、それは大卒の肩書だと思われていたし、購入者もそう信じていたのではないかな。
彼が記事の中で肯定しようとしたのは「大学卒業資格は人生を幸福にする」ということそのものではなくて、「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」ということなのだとおもう。
彼が守ろうとしたのはは「大学卒業資格は人生を幸福にする」という事実ではない。もちろん「幸福」ってのは主観的なものなので、統計で一刀両断にはできないんだけど、経済的な側面で言えば、大卒資格者のほうが高卒資格者よりも、生涯賃金が大きくなるというデータが有るのでそれですむ。示す必要すらなくて、彼自身がその統計を見て「そうだな」と思えばそれで済むので、そもそも記事を書く動機にはなりえない。
そういう経済面に限れば、大学卒業資格というものが、100%確定ではないにせよ確率論的にはある程度効果のあるチケットだったっていうのは有る。しかしそれは同時に、「確率論的」「ある程度効果のある」にすぎないわけでもある。「それを購入すれば購入者は確定した幸福を保証される」わけではない。効果の程は購入者によって程度の差がある。
(そもそも大学というのは研究/教育機関なわけで、そこに「幸せ」なんて主観的な、しかもチケット一枚で生涯を保証するようなものを求められても、大学側は「知らんがな、困るがな」でしかない。この件で大学が悪いわけではない)
筆者が守りたかったのは、「俺は大学を出て幸福だ」という以上の、もっと広範な「大卒チケットを購入した人間は幸福になれる」という「世界観」だったのではないか。それはすなわち「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」という保障でも有る。もうちょっと踏み込むと、「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想なんだとおもう。そして、これは、すごくわかる。
人間は日々を生きる上で脳みそ空っぽで生きるのは難しい。どうすればうまくいくか考えちゃうし、試行錯誤しちゃうし、うまく行けば嬉しいし、失敗すればなにが悪かったか考えてしまう。「セカイには攻略法が有るはずだ」って思想は人類進歩において巨大なアドバンテージだった。それは、自然科学分野においてはおおむね正しい。背景には物理法則があって、同じ入力には、同じ出力が返ってくる。技術研鑽や職人的な人生においても、概ね正しい。そういう態度で経験を扱えば、一定の知見が得られる。
だから「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想はすごくわかるし、自分を点検しても、この類型は形を変えていくつも発見できる。
でも実際問題、本当にこれが正しいかって言うと、ぜんぜんそんなことはない。人生という関数は入力が同じでもその個人ごとに出力がぜんぜん違うようだ。そもそも「同じ入力をする」ということ自体が人知では制御できないほど難しい。双子なのにぜんぜん違う人格になったり将来を迎えたりするわけで。人生という巨大関数はすくなくともワンチケットでフリーパスになるほどちょろいものではない。信用できるデバッガもない。
でも、その事実はかなり痛みを伴う。「人生に攻略法がない」というのは(もちろん確率論的にだが)「どんなに頑張っても不幸にしかなれない人間が存在する」ということを意味するからだ。
(※もちろんこれは一部宇宙の事実と異なります。瞑想とジョギングと野菜はすべての人生を攻略します。Yes、ぶくまますたー!)
そんなわけで、件の記事はなんだか悲鳴のようにも聞こえた。「この世界に攻略法は有るよ、ぼくらが幸せになれるチケットは実在するよ! ボクの過去の努力コスト支払いは間違ってなんかない! なぜならボクはいまそのチケットで暮らしているからだ!」――あの記事で筆者が説得したかったのは、誰より筆者自身だったのではないかと思う。
同様の光景はあちこちで見ることが出来て、それが先鋭化すると、論理が逆流を始め「(大卒資格が幸福チケットであるという)世界観を守るために、高卒以下の人間は不幸でないとならない」な方向に拗れてしまう(連中は全員DQNみたいな発言)。そうなると地獄の二次生産だ。だがどちらにせよ、それは学歴コンプレックスと言われているものとは、隣接しているけれど、もっと何か違うものなのじゃないかと思う。
かつて、Second Lifeでクーロンズ・ゲートの世界観を再構築した『KOWLOON』SIMがあった。
オリジナル版でアートディレクションやキャラクターデザインを手がけた方々が作ったものなので、準公式とも言えよう。
当時、期待いっぱいで遊びに行ったのだが、そこはオリジナル版を遊んでいた時の緊張して怯えながら散策する楽しみを味わう空間ではなく、良くも悪くも「クーロンズ・ゲートの世界観を模したテーマパーク」だった。
オリジナル版で表現されていたあの怖くて魅力的な世界は、表層だけ真似ても再現できないのを知った。
クーロンズ・ゲートの魅力はグラフィックや音楽だけにあるのではなく、小道具や地名の名付け方、脚本のセリフ回し、物語の展開、そういったものすべてが組み合わさって存在している。
それらを構築した人物抜きでオリジナル版を愛したファンを満足させるコンテンツを作れるのか?
今回の「クーロンズゲートVR」はSecond Life版と同じ方々が主軸になって作っているそうで、個人的にはまた「似て非なるクーロンズ・ゲート」になるのではないかと不安に思う。
クラウドファンディングのページには
を作ると書いてある。
今回作るのは「クーロンズ・ゲート」なのか、「クーロンズゲート」なのか、「クーロンゲート」なのか?
間違えないでほしい。
ナカグロ(・)が抜けてしまうのは百歩譲るとして「クーロンゲート」は看過できない。
オリジナル版のタイトルの誤記を見過ごすようなプロジェクトは、一体どんな成果を出すのだろう。
2016年度全国キャンペーン:ライバルは、1964年|ACジャパン
ACジャパンが今年7月1日より開始した『ライバルは1964年』というCM。
自分がよく聴く民放ラジオ(基本的にTBSラジオ)では結構な頻度でこのCMが流れている。
自分はこのCMを耳にする度に、得も言われぬ不快感に襲われる。
とはいえ単なる根拠に乏しい繰り言でしかないので、そこは留意してほしい。
このCMにおいては、「笑顔」や「夢」、「思いやり」といった根拠の不確かな理由で過去を美化している。
加えてこのCMには「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢、思いやり、心の豊かさで負けているのではないか」という言外の意味も込められていると考えられる。
そうでなければ、律儀にあの頃の日本人と今の日本人を比べる必要なんてないはずだ。
つまり、居酒屋談義としての「昔はよかった」の変奏でしかない。
また、この10年ぐらい俗流の「昔はよかった」に対するカウンター的な言説も勃興している。
これらのカウンター的な言説の場合、だいたいは統計などのデータを用いた上で「昔はよかった」的言説の欺瞞を浮き彫りにしている。
『ライバルは1964年』で提示される「昔はよかった」を構成する要素のうち、「思いやり」は犯罪件数の推移をもとに論駁が可能であるかもしれない。
しかし「笑顔」や「夢」の場合、犯罪統計のような定量データは存在しない。そのため、「笑顔」や「夢(の大きさ)」を昔と今とで比較するのは至難の業である。
結果「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢で負けているのではないか」というCMのメッセージに論駁することすら叶わなくなる。
論駁不可能な概念を持ちだすということは、それだけ「昔はよかった」ことをゴリ押ししたいのだろう。そこにはある種の狡猾さすらも感じさせる。
このCMにおいては、東京で五輪が行われた1964年と東京で五輪が再度行われる予定の2020年とが対比されている。
2020年に向けて日本を考えようというのは、東京五輪に向けた行動をとれというメッセージを婉曲して表現しているということは容易に推測できる。
また、ACジャパンの公式サイトの記載より、「日本を考える」ことは具体的に「(東京五輪に向けた)ポジティブなモチベーションと、日本人の活力を高める」を指すようだ。
今の日本において、五輪は政治的な意味合いが強いイベントとして意識されているようである。
例えば、2012年に取りまとめられた「スポーツ基本計画の策定について」には以下のような文言がある。
(中略)
国際競技大会等における我が国のアスリートの活躍は、国民に日本人としての誇りと喜び、夢と希望をもたらし、国民意識を高揚させるとともに、社会全体に活力を生み出し、国際社会における我が国の存在感を高めるものである。我が国のアスリートによるメダル獲得は、その一つのあらわれである。
また、2009年には塩谷立文部科学大臣(当時)が以下のような発言を行っている。
2016年のオリンピック招致については、立候補ファイルを2月12日までに国際オリンピック委員会に提出することになっていまして、そのために今準備を進めているところですが(中略)やはり、国威発揚ということも含めて、ぜひ、招致を実現したいと思っています。
これらのことを踏まえると、今の日本において五輪は政治的意味合いが非常に強いイベントと位置付けられているようだ。
特に「国威発揚」や「日本人の誇り」といったナショナリスティックな意識の醸成のための手段として強く意識されているようである。
これは、IOCの掲げる「政治的・商業的利用がなされない五輪」という理想とは大きくかい離したものである。
さて、ACジャパンの行うCMの特徴として、政治的・宗教的な事柄は一切扱わないということがある。
(中略)
一方『ライバルは1964年』においては、政治的意味合いが強いイベントである五輪に向けた行動をとれというメッセージが提示されている。
解釈によっては、「日本人の活力を高める」ということもナショナリズムと連関したかたちで捉えられる可能性もある。
このことから、『ライバルは1964年』は政治的・宗教的な事柄は一切扱わないというACの方針とは大きくかい離したCMであるといえる。
可能性として一番高いのは、制作者サイドがIOCの提示した「政治利用されない五輪」という理念を無邪気に信じ込んだということである。
一方、五輪の持つ「国威発揚」や「日本人の誇り」といった事柄は政治的事柄ではないと誤認している可能性も完全には捨てきれない。
愛国心の醸成といったイデオロギー丸出しの教育が「偏向ではない」と見做される時代である。
なお、2002年にも公共広告機構(当時)は『ニッポン人には、日本が足りない』というCMを放映していた。
しかしこれは国際交流の推進を目的とするものであり、『ライバルは1964年』とは似て非なるものである。
ACジャパンの公式サイトに新聞広告の画像データが掲載されている。
小学生が作ったような(プロとしては)粗雑なコラージュに、テレビCMのナレーションが文章としてこれみよがしに綴られている。
せっかくのクリスマスに催眠オナニーもできずに恋人とラブホへ行くホモサピエンスがいることを思うと、私は彼らが心底憐れでならない。
ディズニーランドでカップルたちが手の形をピースにして記念撮影に腐心しているまさにその瞬間、私はアヘ顔ダブルピースで機械姦催眠によるマルチプル・オーガズムに達しているというのに。
まったく催眠オナニーの素晴らしさを理解していない人類は、人生の愉しみの99%を知らないでいる。
しかしその快楽がどれほどのものだとしても、催眠オナニーを前にすれば取るに足らない存在で、それはまさに月とすっぽん、いやバームクーヘンとアウフヘーベンくらいの違いはあろう。
こういうことを言うと「いや、セックスには愛があるが、オナニーには愛がないじゃないか」と抜かす信天翁たちがいるのだが、笑止千万。
「愛」だなんて、そんなもの、催眠術にさえかかれば愛することも愛されることも容易いのである。
エロ漫画の話ではなく、実際的な話「恋愛感情」は催眠でいとも簡単に操れる。
イヤホンから聞こえてくる姿の知らない相手を心の底から愛して「好きだよ」と呟くたびに絶頂してしまうような多幸感が訪れる。
催眠オナニーには、射精を伴うウェットと、射精を行わないドライの2つがある。
催眠による真なる快楽を享受したいのであれば、これはドライに限る。
冒頭で述べた機械姦系の催眠の場合は、女体化してアナルに入れられながら母乳を吹き出して絶頂するということを「想像」する必要があるが、催眠の手を借りれば想像だけで達するのは難しくない。
しかも数十回、数分間に渡って絶頂を繰り返すので、終わった頃には体力が尽き果てビクンビクンと痙攣が止まらず、指の一本も動かせないほどだったので死ぬかと思った。
そもそも催眠によって心臓の心拍数を赤子の手をひねるより簡単に操作できてしまう、という事実がまず恐ろしい。
我々催眠オナニストの活躍はめまぐるしいところがあるが、近年では「睡眠オナニスト」の進出も目を見張るところがある。
催眠と睡眠、似て非なるものであるが、私と彼らが「人類の高み」を目指している点では同志である。
睡眠オナニストは明晰夢、あるいは体外離脱によって、夢のなかでオナニーをしようとする。
常に夢精する危険と隣合わせだが、一度それを会得すれば何回でもどれだけ長時間でも、夢のなかで絶頂できるという。
私もまだまだ修行が足りない。
http://anond.hatelabo.jp/20160728092826
aoi_tomoyuki 安楽死出来るようになったとしても、余命宣告受けてるレベルじゃないと使えないでしょ。家族の負担だからって安楽死できたら、邪魔な人間を処分するのと変わらないし。
オランダではうつなど精神疾患の人でも利用できる。邪魔な人間を処分ではなく本人の希望かどうかが問題なんだよ。
aoi_tomoyuki 検索したら精神疾患でもいっぱい安楽死してんだな。日本の判例で出てる安楽死の条件が、死の直前ってあるから日本じゃ精神疾患は認められそうもないのかな。
そのとおり。身体だけでなく、精神においても苦痛に耐えられないほどの人生を終わらせるのは人権のひとつという考えがあるのだ。日本においては「苦痛な人生を歩むのは自己責任」+「苦痛な人生でも死ぬのは禁止」という地獄コンボが発生する。家族の負担だから安楽死はもちろん許されないが、本人の希望があるならOKにするべきなのだ。
ChieOsanai はぁ? 手足が動かないひとならともかくおまえはすぐにでも自殺できるだろ。自殺はしたくないからひとに殺してほしいとか甘えすぎだろ。
安楽死において楽にかつ他人の手を借りずに死ねる方法なんていくらでもある。苦痛があるより無いほうがいいに決まってるだろ
ncc1701 安楽死と自殺幇助は似て非なるもの。
はいマイルール。外国では本人の苦痛が大きければ安楽死となる。身体や精神に伴うどうしようもない不自由という点で、病気で苦しんで安楽死を望むのと全く一緒。どうせすぐ死ぬ場合だけ安楽死はOK!とか考えてるなら末期患者への病的な差別観をお持ちですねと笑ってしまう。
ChieOsanai “他人の手を借りずに死ねる方法” それただの自殺じゃねーか
他国の安楽死とか全然調べたことないのにボケーっと口動かしてるんだろうな、薬だの方法はいくらでもあるから。ちゃんと下調べしてからコメントは書こうな。
bedtown 人の意見は的外れでもいんだよ
その場その場で脊髄反射で口を開いて的はずれなバカは実生活でもそうなんだろうな
元増田です。
面白い。そうするってぇと、ヴィオラの人が比較的穏和な気がするのはどういう事か、増田がご存知なら、それも教えて欲しい。いや、私の観測範囲が狭いだけかもしれないけど。
その感覚、非常に正しいです。どこに行ってもヴィオラの人は、少なくともヴァイオリン組よりは穏やかでおとなしめの人が多いですね。
ヴィオラ、遠目には、或いはケースに入っていると、まずヴァイオリンと見分けがつかない楽器と言っていいが、その中身は完全に似て非なるものである。
その中でも最大の違いは、「初めて楽器を手にした年齢が決定的に違う」ことだろう。
プロでもアマでも、生まれて初めてヴィオラを弾くのは、早くても小学校高学年以降、即ち、ハッキリと自分の意志で楽器に出会える年齢なのだ。
これこそが、「子供がよくわからないうちに親が与えてしまう」アーリー型のヴァイオリンと大きく異なる点だ。
そこに、ヴィオラはアンサンブルにおいて内声部、例えるなら常に出汁の役割を担うという、これまたヴァイオリンとは全く違う特性が合わさった結果、「比較的穏和」な性格が形成される、或いは「比較的穏和」な性格の人がヴィオラを選ぶのだと思われる。
なお、「生まれて初めてヴィオラを弾くのは、早くても小学校高学年以降」という謎めいた事情は理解し難いと思われるので、以下に説明。
まず、最初からヴィオラのプロを目指してレッスンを開始するという人は殆どいない。
ヴァイオリンのプロを目指していた人が、音大の在学中辺りで「転向」するパターンが大多数なのだ。
その理由は様々だが、ヴィオラ弾きの名誉のために言っておくと、「ヴァイオリンで食えそうにない」などという撤退戦の一環としての転向は皆無である。
そうではなく、
「元々チェロを習いたかったけど近所に先生がおらず渋々ヴァイオリンを習い始め、やがてそんなことすっかり忘れてプロ目指してる途中でたまたまヴィオラを触ってみたらしっくり来た」
「プロ目指してヴァイオリンを習い始めたはいいが、ヴァイオリンの命である輝かしい高音にどうしても馴染めず、そんな中たまたま(ry」
そもそも「似て非なるもの」と書いた通り、ヴァイオリン弾きというだけでまともにヴィオラを弾けるような話ではないし、それにヴァイオリンで食えないなら、それでも教室で生徒が取れるヴァイオリンに留まっていたほうが得策なわけで。
また上述の転向は、大学オケに入ったタイミングでヴィオラを始めるアマのアーリー組ヴァイオリン弾きにも当てはまったりする。その中には元増田で書いたモーツァルトまで行かなかったけど、それでもなんとなくヴァイオリンを続けてきた、というか辞めなかったみたいな人もいたり。
次に、最初からヴィオラのプロを目指して、もしくはヴィオラやりたい!と言い出した子供が将来の趣味として(要するにアマチュアとして)レッスンを開始するという、いわゆる激レア物件ではどうかというと、それでも最初からヴィオラを弾く事は絶対にない。
なぜなら、ヴィオラは子供用サイズが存在しないので、大人用フルサイズのヴィオラが弾ける体格になるまで、ヴァイオリンで基礎を学ばざるを得ないからなのだ!
というわけで、いわゆるレイトは勿論、アーリーに分類されうる人達であっても、生まれて初めてヴィオラで音を出すのは、フルサイズの楽器を演奏できる体格になる目安である、小学校高学年以降と。
ちなみにヴィオラに子供用サイズがないのは、フルサイズの楽器からしてヴァイオリンやチェロのような、音響的に合理的なサイズではないため(合理的なサイズで作ったら大きすぎて演奏出来なくなる)、そこに来て子供向けに単純にサイズを小さくすると、大人用と音が変わってしまうという理由らしい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例外もあることは分かるので、保険のためにそれっぽく答えただけだからなあ。
後付けでよければ、捻り出してみようか。
そうだなあ……色々あるが、私がザックリ説明できるものは大きく分けて二つかな。
一つ目は、「売買に参加できる買い手を、結果的に選別できるシステムがある」こと。
……え? 「お金を払う人々を選別できない、してもいけない」んじゃないかって。
まあ「結果的に」、だ。
その商品が嗜好品などの生活必需品ではなく、かつ高所得者しか買えない価格のものなら、それは「買える人を結果的に選別できる」だろ?
生活必需品でもないのに借金してまで買う低所得者もいるだろうけれど、そんなこと私は知らんよ。
まあ、そんな品物を分割で売ったり、数回かけて払わせる形式も有名だ。
ただ、30万円×1で売るのと、300円×1000で売るのとは、似て非なるものだということは知っておいてくれ。
後者は低所得者も買い手として参加しやすくなるから、買い手を売り物で選別できていない可能性が上がることになる。
この場合、売るものや総合的な価格によっては、商売として問題だと見なされることもある……らしい。
二つ目は、「その商品の価値の担保、様々な『なぜ』に答えられる理由を説明可能か」あたりかな。
例えば世界有数の美術品だとか、素材に拘り技術の粋を集めた高級品だとかだな。
美術品なら、有名な芸術家作だとか、故人だったりで有数である価値が説明できる。
高級品とかは、作るのに技術がいる、量産が困難、素材を拘っている。
様々な「この値段で売る理由」を性質含めて説明することが可能だ(それを買い手が納得するかってのは、また別の話だが)。
その上で、一つ目で挙げた生活必需品ではなく、かつ買い手を商品の値段によって結果的に選別可能であれば成立する。
後は、買い手の値踏み次第といったところかな。
まあ、お金とモノの価値の考えた方については個人差が大きいけれど、何にしろお金を払った以上は有意義であるという心構えが大事なのは同じだな。
後悔しなければ……後悔しなければいいのさ。
もう10年近く前、私が最初に入社した会社の同期に、すごい美人がいた。
A子と呼ぶ。
どのくらい美人かといえば、男を連れていても、「初見だけど一目惚れした!」と飲食店の店員が乱入して告白してくるくらい。
素っぴんでさえ佐々木希よりも神々しい。
その場にいるだけで、空気が華やぐ。
A子には、身なりに関して思い切りの良さがある。
はじめてあった時は入社式の時。
お尻まで届く長い髪だったのに、次の週にはショートカットになっていた、
A子は1度も髪を染めたことがないという。
ピアスをあけたこともないという。
私は毎朝前髪に悩み、髪色を変えたらオシャレになれるかなと思ってジタバタしたりするのに、A子はたぶん、そういう悩みがないんだろうな。
もちろん、A子だってオシャレに興味はあるのだろうけど、似て非なる悩みだと思う。
私は、どうにかしてマイナス100をゼロに、あわよくばプラスにできるかの悩み。
A子はお母さんと洋服を共有するという。
どんな服を着たってかわいい。
A子がRV車を運転したらセレブに見えるし、コンパクトカーを運転しても都会的でスマートに見える。
少し前に、FBでA子とつながることができた。
A子は証明写真のような無表情で正面からパシャリしたものをLINEやFBのプロフ画像にしてる。
実物がもつオーラのようなものはないが、そんな写真なのに十分すぎるくらい美しい。
A子はまだ独身だった。
恥ずかしい話だが、A子より先に結婚したことを誇らしく感じる自分がいた。
女の本性は、ホント醜い。
A子は、勝ち負けなんかじゃなくて、純粋に恋愛できるんだろうなと思うとうらやましい。
一方で、あれだけ美しすぎると、好まざる男も惹きつけるだろうから、それほどイージーモードではなくて、だからまだ独身なんだろうなともおもったり。
もう、誰かと比べたりせず、夫と子供を大切にして生きていこう。
グループKとSのファンなのだけど、なんだか色々と大変なグループを好きになるなあと思うこともある。
でも彼らのそういう問題に対するファンへの対応とかもろもろとか、それは全く違うなあと思った。
Kは今まで人数を減らしながらも圧倒的なものを持って、ファンを安心というか納得させてきたと思う。
なんというか本当に海賊みたい。
船長たちは前で戦う舵を切る。その背中は心配させない、うそはつかない。
違う選択を持ったら袂を分かつ。それでも同じ海のどこかで違う目的を持って、違う方法を持って戦っている。
そういう感じ。
一方Sは、責任をいっぱい抱えてる。守るものをたくさんもってる。
こちらは王国って感じ。
どちらかを選べばどちらかを失う。そういう選択に正誤はないから、苦しんでも苦しんでもいっしょに苦しんで良き方を目指す。
あり方(でかい)は決められているけど、変えていくことはできるかもしれない。
だから僕たちといっしょに幸せな輝く国を作ろうよ!っていうイメージ。
ファンは国民。だから国は彼らを守る責任を持っていると思っている。それぐらい大事にしているなあと思う。
彼らは国そのものであり、彼らの意見は尊重されるべきってぐらい、ファンへの言葉をよく発するなあと感じる。
でもそれぞれの王様にも個性はあって、もちろん支持する王様によっては国民は違う意見を持っているわけで…みたいな。
全く似て非なるグループだけど、両方とも真剣で不器用なほどまっすぐ人たちなところが好きです。
きっとSは大きく輝けるし、Kはいつまでも私たちを驚かせ引きつけてくれると思う。
比喩が楽しすぎた夜中の遊び。
そう思いませんか?
一般的な常識に対して「何でそんなことしてるの? 信じられない!! バカじゃないの???」としか考えられない人は、言葉のインパクトを強くするために挑発的な態度をとっているんだと思う。これは常識に対して無礼な態度だし、どうしても幼稚に見えてしまう。
「常識を疑う」っていうのはなぜその慣習・慣例が生まれたのかを疑問に持ち、そのルーツを調べたうえで意見をする態度や行動だと思う。そうであってほしい。
常識に無礼な人は、何らかの常識によって傷ついた過去があって攻撃的な態度をとるんだろうけど、その態度が前面に出過ぎちゃって、意見自体が正しいか判断する前に不快な印象が先に来ちゃうからもったいないよ。