はてなキーワード: フロッピーディスクとは
パソコンってきっと今後も自分にとってはかかせないものだよなって思って、自作PCに興味持ち始めて数年。未だに作るに至ってない。
どうせならハイエンドが欲しくて(3Dモデルを触りたいから)色々見たりするけど、中々重い腰を上げられない。
ハイエンドPC組んでるお金が無い、っていうのももちろん理由の一つだけど、周りに組んでる人間がいなくて困ったときに相談できないんだなっていうのが一番自分の中でネックなんだと思う。
あとPCショップの店員さん、どこに行っても私と目を合わせて喋ってくれないのなんでだ?
PC詳しい人に色々対面で教えてもらいながら自作PC作ってみたい。
■追記
枝は絶対言われると思ったww
これは個人的に感じてるだけで実際は自作したことが無い素人の意見なんだけど、ハイエンドならBTOのほうがいい気がするけど(後々カスタムしていくのに幅が広めに作られてる気がするから)ローエンドでBTOってコスパ悪すぎない?気のせい?
ハイエンドBTO→自作できる人にも向けて組まれているから後々の拡張性が高い
っていう印象だけどどうなんだろう?
本当に本当にワープワ貧乏人なのでCeleronの一番新しいやつ買ってマザボにお金かけてSSDつんでおいてi7もうちょい価格落ちたあたりでかえるとかどうなのかなーと思いつつ。
こういうことを!!!リアルタイムで!!!相談したいんだよ!!私は!!
でもブコメ読んで孤独に戦っている人いてなんか…仲間意識を感じた……
枝やブコメ読んだけど、ケース拘れ!今後のことを考えるならマザボだ!いやいやCPUだろ!!!SSDだHDDだ!!グラボだ!!!自作してる人たちでもどこにお金かけるかぜんぜん違うの面白いなーと思いながら読んだよ。
自作のメリットあんまりないよってコメントなんだけど、価格的にはBTOのほうがいいのはわかってるんだけど、ブコメにあったとおり「壊れた箇所だけ治せる」とか「ちまちまパーツ変えていけば長く使える」とか目的はそっちなんだ。
ちなみに大阪在住だけど、東京で言う秋葉みたいな電気街は電車で15分もかからないから土地的なデメリットとか特に無いかな?めちゃめちゃ急ぎじゃなければ通販もできるしね。
自作PCを考えてるのはローエンドBTOのカスタム性が悪くないか?って思ってるからなんだけど、パソコン作って中身理解しておきたい、は本音だよ。中身知っておくとか知識や経験で対応できることもあるんじゃないかなって思ってる。まぁ実際に問題がおこったら「キィーー!!」ってなるんだろうけどwww
今あるものカスタムしてみなよってコメだけど、今使ってるのがノートPCなので……素人がノートからは勇気がでないです…
あとはちょっと今は詳細わからないけど、十年ぐらい前に買った当事カックカクした動きでほとんど使わなかったデスクトップPCがあるぐらいかな……情弱だったので電気屋でソーテックのセット買ったけど色々アレすぎて後悔したトラウマがあるww
ハイエンドが欲しい!→お金がない!ショッピングローン組みたくねぇな!→作るか!中古も含めてパーツごとにわけて買えばローン組まなくてもそのうちパーツ揃うだろ!→調べる→やべぇソケットが同じじゃないとダメぐらいしかわかんねぇ→自作動画を見る→まてまてまてはやいはやいまてまてまて、ゆっくり!ゆっくりってば!!
っていうのがここ一年ぐらいの流れかなww
使ってるノートPCが異音を立て始めたのでお釈迦になるまえに新しいマシンが欲しいんだけど、ハイエンドには手が届かないっていうのはずっと悩んでる感じ。
MMD触りたい、動画編集したいっていうとグラボ必須だしでもグラボ積むと電源もお金かけなきゃいけないってなるからとりあえずMMD初心者だしここはパスして、もしガチでやりたくなったらお金かけて後からつめばいいかなって思ってる。
なので今後そこを拡張しやすいパーツでとりあえずネット閲覧とオフィス触るのにストレスのないローエンド組むべきなんだろうけど、ケースの拡張性に気をつけてマザボにお金かけておけばあとはなんとかなる感じかな??
SSDの恩恵あんまり受けられないタイプの使い方だからSSDはCPUけちった場合の補助かなぁという感じ…
こういうの考えるのすごくわくわくするんだけどパーツ選びの正解がわかんないんだよなぁ!!!!!だから!!ちょっと相談したりできる人が欲しかったんだけど!!!増田みんなコメントくれて感動した。
■追記(8/2 22:30)
「参考にパーツあげてみたら?」というお言葉に甘えてパターンをピックアップしてみた。
面の皮が厚いと言われようとも相談できる人が今までまったくいなかったのでお暇な方よければ相手をして頂けると大変助かります。
あと「敷居の低さが相談できる男の数なの?」ってコメントめちゃめちゃ笑った。私は相談できる友人が欲しい、とは言ったけど性別の限定はしてないよwww男でも女でも実際ここだと性別もわかんないけど、ここはどうとか、今後の話とかできれば性差は関係ないです。
ブコメのMMD失敗については今のノートでカックカクだけど動かしてみてるんだ。で、実際になんとか動かしてもっと滑らかに遊んでみたいな、と思ったので現在悩んでるところ。心配してくれてありがとう。
◇前提希望
デスクトップのように失敗したくない。(とにかく動きが遅くてタイピングに文字表示が追いつかない/ファンが動画視聴の邪魔するぐらい煩い)
今のノートPCよりはさくさく動いて欲しい。たぶん今が酷いからさくさく動くと思う。
とにかく現状が貧乏なので最終的に金が掛かろうとも今のスタート予算を押さえたい。
後々のちょこちょこパーツを追加していきたいので今後のことを考えて組みたい。
celeron R 550
NECのリサイクル?パソコン?なんか家にネット回線の営業来てしつこくて断りきれなくて契約したときに貰った。
フロッピーディスクいれるところがある。
celeron D 336
多分これかな…?
http://kakaku.com/item/00103019236/spec/
◇
メモリ:8G(4×2)
HDD:DT01ACA100 [1TB SATA600 7200]
電源:TR2 500W V2 -Bronze- PS-TR2-0500NPCBJP-B-V2
全部価格コムで見たけどこれでOS買い足しても5万ぐらいかな?
それぞれのパーツが問題ないのか?というのと、一番の心配は「このスペックで文字を打つことに不自由はしないのか?」ということです。
普段の使用用途はワードと画像のちょっとした処理です。(フォトショとか開いてガチガチな感じじゃないよ!)
ただ上記に関しては今のノートでなんとかまったり出来ているので……このスペックなら少なくとも今と同じぐらいは確実に…動くよね…?
まってなんか足りてないパーツあったりする?やばい不安になってきた
ノートが死ぬ前に新しいマシンが欲しいのでceleronはあくまで繋ぎのつもり。Pentium>celeronなのは知ってるけど、どうせ落ち着くまでだしそれなら安いほうでいいかな、という考えで選びました。
ゲームをしないのでMMDを触らなければi7とかGTXとかは基本オーバースペックなんだ。
これだと多分触ってるうちに不満がでてくるから、CPUかグラボの増設はするかなぁと。
SSDをつむか迷ったけど今も無いしとりあえずまだいいかな?と思って削りました。今が本当に酷いスペックなんだけど、それでもイライラするのはスパイダーソリティアがかくついた時ぐらいなので。
これぐらいのスペックをBTOで買うとスリムタワーが多いんだよね。それでスリムだから電源が弱いこと多いなっていう印象。
あといくら足してこれ買え!とか、後々足していくならここもう少し拘ったほうがいいよ、とか各パーツでオススメとかあったら教えて頂けると助かります。いやほんと付け焼刃の知識なのでものすごく頓珍漢なことしてたらすみません。
あと海外のサイトつかってパーツ組んでくれた人ありがとう。他人が考えてくれるなんてなかったからびっくりした。魅力的だなぁ思った。すごく嬉しかったです。
初カキコ、ども。
俺みたいに新卒で入った会社辞めた腐れ野郎、他にいますかって、いねーか、はは。
あの流行りの風邪つらそう、とか、深夜に来た患者がヤク中っぽいだとか
ま、それが普通ですわな
It's a Burakku kigyou.狂ってる? それ褒め言葉ね。
なんつっている間に0時っすよ(笑) 宿直勤務の辛いとこね、これ。
病院に勤めて今年でx年になるのだが、一向に残業や夜の勤務(宿直と言われるアレ)が減ってくれる兆しもないしそろそろ退職しようと思う。
自分が就職活動をしていたのは少し景気が上向きになりつつあった20XX年頃なので、今とは少し勝手が違うかもしれないが、病院事務員として働こう! などという狂った思想を持つ若者を少しでも減らすべくここにその実態を書き残しておこうと思う。もちろん、これらすべてが真実ではない。が、すべてが嘘ということでもない。そこらへんはうまいこと察してほしい。
自分は田舎の病院に就職したので、基本給は安い方だった。地銀と同じくらいかな。
公表されていた額は基本給19万円強だったが、実態は基本給が約16万円でそこに種々の手当がついて19万円、といった感じ。
・医療事務系
うちの医療事務は少し特殊だったのでぼかして書くが、同業種ならなんとなく察してもらえるのではないだろうか。
未収患者の督促と、入院している患者の処理が主な業務だったのだが、月末月初はとんでもなく忙しかった。10日前後に土日祝日が被っていると強制的に休日出勤になるのもつらい。が、こちらの仕事はきちんとデジタル上で行われていたので、総務にいた時に比べるとストレスとは少なかったように思う。
面倒なのは、患者のクレーム対応もこちらに回ってくることだ。窓口にいるのは基本的にパートの人たちなので、クレームが入るとすぐにこちらに電話して来て自分たち正職員が対応するという謎ルールのせいである。すぐに終われば良いのだが、もちろんそんなことはめったにない。
就業時間だが、月の繁忙期はみんな11時ごろまで仕事していたとだけいっておく。が、朝はゆっくりできたので、そこまで辛くはなかった。残業代が全て出てくれていたら、辞める気は起こらなかったように思う。それ以外の時は定時で帰れた。と、いっても、月に2.3日だけだが。
・総務系
主業務は経理及び給与。1000人規模の事業所だった上に、給与の計算の方はそのほぼすべてがExcel(しかも紙データを手打ち)だったのでかなり辛かったことを覚えている。経理の方はデジタルデータばかりで楽だったが、クレジットカードの計算だけレシートを手打ちしていたのでそれはかなり面倒だった。あと、どちらの業務もフロッピーディスクでデータのやり取りをしていたのだが、他のところはどんな感じなのだろう。
就業時間は9時から18時だったが、自分の部署及びた部署の鍵開けも自分の担当だったため、7時半〜8時には出社するように求められていた。当然ながら、その間は無給である。
さて、勤務時間についてだが、基本的に定時で終わることはない。総務の仕事は18時から、というのが、上司に言われた最初の言葉だったのだが、まさにそんな感じだ。通常の勤務時間内は、他部署から回ってくる雑用のせいで自分の席にいることができないと思って良い。診察の時間が終わると少し静かになり、自分の仕事ができる。繁忙期でなければ9時には帰ることができるが、年末調整や決算期だと余裕で午前に突入する。残業代はその時の運によって決まる。上司の機嫌が悪いと出ない。タイムカードなんてなかった。
・宿直について
病院は診療時間がいでも人がひっきりなしに来るところなので、必然的にその対応をするために人員が割かれる。自分の病院では、18時の勤務が終わったタイミングでパートさんと交代し、その人たちが再び出勤する翌日朝9時までが自分たち事務員が代わりに窓口で働いていた。
小児及び産婦人科の救急患者は全てうちでの引き受けだったので、基本的にほとんど眠ることはできない。ひっきりなしに電話が鳴るので、宿直の番になった事務員は皆その時間に自分の仕事をやっていた。自分とて例外ではない(上司からもそのように指導される。もちろん残業代は略)。ちなみに、次の日は有給を使わないと通常勤務である。
夜18時から朝の9時まで、通常の業務を含む諸々の作業をこなしても支払われる手当はたったの三千円程度である。これは違法だと思うのだが、労基に相談したところ「すべての職員の時給を求めて、手当がその1/3以下であると立証できない限り違法ではない」と言われた。総務にいる頃に一度計算したことがあるが、もちろん下回っていた。が、そこから労基が開いている時間に仕事がなかったことがないので結局告発していない。
この形態の勤務が月に5〜6回程度あり、それが繁忙期と重なると地獄であることは想像に難くないと思うのだが、いかがか。
メリットについて
さて、こんな仕事がだが、もちろん悪いことばかりではない。そうでなければ、x年続けることはできなかった。
まず、病院は一般的に福利厚生がとても手厚い。看護師の方が働きやすいように、という配慮からか、育児休暇や産休が取りやすいよう環境が整備されている(有給は不可)。保育園も併設されているので、子供が生まれてもなんだかんだで復職して来る人が多い。
また、副業がフリーなのも大きい。うちにもいわゆるスーパードクターみたいな先生がいたのだが、思うに公演や印税の方が給与よりも多かったのではないかと思う(邪推)。仕事ができる人間はどんどん稼ぐことができるが、そうではない凡人、例えば自分のような人間は一生奴隷のごとき労働条件で働くことになる。
何より大きいのは、医療費がかからないことだろう。事務員の場合、入院しても病室で仕事ができるので、有給を使うことなく治療に専念できる。もちろん、入院中に調子が悪い時は有給を使うこともできたが。
自分は無能なので役職はつかなかった。もし、役職があり、責任のある仕事を任されていたのであれば、もっと続けよう、という気になったかもしれない。が、若い間はともかく、高齢になった時にこんな生活を続ける気は無いし、自信もない。今ですら徹夜明けの通常勤務はかなり身体にこたえる、というのが正直なところだ。現在は、次の決算期が終わったあたりで退職するべく準備を進めているところである。
誤字脱字が多々あり、読みづらいとは思うが、ここまで読んでくださった増田の方々には感謝しかない。ありがとう。
それから、病院を就職先・転職先に選んでいる方たちへ。悪いことは言わない。やめておきなさい。
いつも、ありがとうございます。
宿直明け勤務に戻ります。では。
カセットテープ・・・親が使っていたので知っている。進研ゼミの付録についてきた。A面とB面がある
長州小力・・・長州力(プロレスラー?)のものまね。キレてないっすよ
ヒロシ・・・ヒロシですの人?当時はやったのは知らなかった。中学の時に初めて知った。
https://anond.hatelabo.jp/20170621224255
最近、高校生と会話する機会があると「あの言葉知ってる?」と片っ端から聞いてしまう面倒なおじさんになってしまった。
で、高校生数名に聞いて理解されなかった言葉をただ並べていく。
「カセットテープ…?」
「MD…?」
「VHS…?」
「フロッピーディスク…?」
「テレホンカード…?」
「ポケベル…?」
「PHS…?」
「ゲームボーイ…?」
「だんご三兄弟…?」
「ジャイアント馬場…?」
「ノストラダムス…?」
「風太くん…?」
「オウム真理教…?」
ちょっと前まで現役で使ってたモノは大抵知らないし、
10年前の芸人ブームだった頃(2002~2007年くらい)に流行った芸人は当時幼稚園くらいで記憶になく、どういうネタをやっていたかも知らない。(長州小力、波田陽区、ヒロシ、ダンディ坂野、あたり)
極楽とんぼ山本は見たこともなく、加藤は芸人でなくアナウンサーだと思っている。
最近よく出るようになったヒロミは何者なのか全く知らないでテレビを見ている。
よく芸能界辞めたあとはスポーツジムの経営をしていたみたいな話をするので、
ヒロミのことをホリエモンとか与沢翼みたいなもんだと思っている。
有吉がコンビだったことも知らないが、SMAPが6人だったことは何故か知っている。
面白かったのは、俺の観測内では「アントニオ猪木」の知名度は100パーセントだったのに「ジャイアント馬場」の知名度はゼロだったこと。
ノストラダムスについて、当時本気で地球滅亡すると思って犯罪に走った奴が相次いだことを伝えると「日本にそんなのを信じる奴がいたなんてとても信じられない」だって。
1999年当時の話は、彼らにとって、とても野蛮な発展途上の時代のように聞こえるようだ。
「オウム真理教」の知名度はゼロ。自分が生まれる前の事件だし、そりゃそうか。
「オウムを知らないので、よくわからないまま入信する大学生が増えている」と5年前から聞くようになったが納得。
大学内でオウムが「ヨガサークルでーす」と勧誘しているそうだ。原点回帰しただけじゃねーか!
あと、女子高生で「わたしアニオタなんですよ~」「BL好きなんですよ~」「コスプレするんですよ~」とか聞いてもないのにアピールしてくる奴ほど、ニコニコ動画と2ちゃんねるを知らない。
フェイスブックはオッサンがリア充アピールするためのキモいSNSという認識。
ちなみに俺は28歳だが、高校生と会話が噛み合わなくなってきた。
もうオッサンだなあ
したがって
などの表記は計量法の第8条第1項に抵触する法令違反であり、正しくは
などの表記に改められねばならない。
ゆえにApple Japan合同会社(社長 ダニエル・ディチーコ)におかれては、同社商品の販売において公然と行われている法令違反について速やかに是正を行うことを求める。
「搾取側」=昭和生まれのことなら、そうとも、昭和生まれ率めっちゃ高いよ~。
なんでか教えてあげようね。
今40から上の人たちは、生まれたときにパソコンもインターネットもなかった。
高校でも学校に情報の授業がなかった。技術家庭で電気スタンド(わかる?あの机の上におくデスクライトだよ)つくっておわりだったんだよ。
ワープロ検定なんてものが書道よりいいんじゃないかなんて話もあった。
大学。25MBしかHDDのないパソコンでも、HDDそのものが珍しかった。
フロッピーディスクよりは読み込みが早いモノが搭載されているというだけで
そのパソコンを25万円で買ってる先輩がいていいなーって触らせてもらいにいった。
そういうなかでコンピューターに興味もってた人がふきだまったりあつまったのがniftyserve、そして移住先がはてな。
だからね、ぼくらも60代以上に年金クレクレって搾取されてるけどね、
やつらはもっぱら電話で「搾取した♪」って話してるのではてなにふきだまれるだけのIT知識はほとんどない。
(たまーにいるよ、70ではてな人力検索の回答者を無理にやってるけど難解度お経レベルなもんでガン無視されてる人とか)
で、僕ら40代くらいの指摘は本人たちにいつなにいってもつたわらないし。
やつらへの一番の対処は投票と着信拒否。なにをどう話してもネット出現以前では常識がかわってしまったから無駄。本当に話にならないんだ。
「ネクタイ送られて感謝でもやめたの会社」みたいなあんな理屈の通じるおじいちゃんなんて現実にはいないからね。
もちろんぼくらも搾取されてるってことがネットでコミュニケーションとる平成生まれまで伝わらないの。
増田のものは増田に、というわけでちょっと気が早いけど、ことしの増田ランキングをお伝えするぜ!基本的なお約束はトラックバック元を見てくれ。なお、高速化のために、
させて頂いているので、ほんによろしゅう♪
年月 | ブクマ | スター |
---|---|---|
01月 | 22964 | 15000 |
02月 | 23689 | 14865 |
03月 | 24325 | 18393 |
04月 | 22190 | 18358 |
05月 | 26208 | 21127 |
06月 | 29722 | 32095 |
07月 | 31020 | 26995 |
08月 | 29680 | 28640 |
09月 | 33924 | 34595 |
10月 | 27361 | 26418 |
11月 | 33787 | 32554 |
12月 | 22384 | 24650 |
まずは全体の月次推移から。ブクマ数・スター数とも、概ね増加の傾向が見て取れる。
カテゴリ | 件数 | ブクマ | スター |
---|---|---|---|
世の中 | 111 | 32377 | 32416 |
政治と経済 | 57 | 21520 | 12940 |
暮らし | 785 | 184272 | 172097 |
エンタメ | 52 | 13396 | 8581 |
学び | 48 | 12131 | 8652 |
テクノロジー | 86 | 23889 | 18639 |
アニメとゲーム | 136 | 26071 | 23535 |
おもしろ | 68 | 12323 | 15006 |
お次はカテゴリ別データ。すべての面において、『暮らし』が圧倒的に強い。記事あたり平均スター獲得数でいえば、『世の中』も中々強い。
ベスト30まで拾ってみた。URLが紫色のも何件か。しかし、ベスト30でブクマ数863って少ないなあ。1000超えはベスト20以上。
お次は、記事ごとのスター数集計。なお、カラースターと同一ユーザーからの2個め以降のスターはカウント外。こうやってみると、『ブクマを集める記事』と『スターを集める記事』が一致していないことがよく分かる。
一年前の私自身はフィルムカメラを所有したことはなくデジカメ一本だったが、大学時代の研究室では毎日のようにフィルムの現像をしたりしていたので、興味深く拝見した。
フィルム写真の様々な要因が絡んだ衰退っぷりが、大筋では光記録メディア(CD・DVD・BD)が現在たどっている軌跡とかぶり、時代の趨勢とはいえ、光記録メディアもいずれ同じように衰退していくのであろうと感じた(コダックや富士フィルムのようなフィルム写真メーカは光記録メディアメーカでもあった)。
記録メディアというと、テープ、磁気ディスク(フロッピーディスク)、光ディスク(CD・DVD・BD)、光磁気ディスク(MD・MO)、HDD、FLASHメモリなどがあげられる。
現在ではHDDとFLASHメモリが圧倒的で、そのほかはニッチな市場を残し衰退しているか衰退しつつある。
光記録メディアは、1980年代に普及を始めたCDを皮切りに、音楽、映像のみならずあらゆるデジタルデータの保存場所としてそれなりの地位を得ていた。
それに加え、CD-RやDVD-Rの登場で、録音・録画の受け皿としてテープメディアを置き換えていった。
そして満を持して登場したBlu-ray Disc(BD)であったが、CDやDVDのように成功しているとは言い難い。
DVD-Rも全世界で年間十億枚単位で売れているものの減少率は20%を超え、BD-Rに至っては普及しているのは日本だけという状態であり、書き込み型の光記録メディアは近い将来ほとんど見かけなくなるであろう。
このように急速にしぼみつつある光記録メディア市場を象徴する出来事としては、業界団体である日本記録メディア工業会2013年3月末に解散したことである。
建前上は「目的が達成された」ための解散であるが、実際は光記録メディアの関連企業が主な会員を占めていたため、光記録メディアの市場縮小で業界団体を維持できなくなったというのが実情であろう。
このような光記録メディアの衰退を招いた原因は多々あるが、私が主因と考えているのは以下の4つ。
・BDとHD-DVDの規格争いとBDの勝利と映像圧縮技術の進歩
それぞれ背景を見ていく。
4つの主因としたが、実際はこれが主因と言ってよく、他はすべて副因にすぎない。
記録メディアはあくまでもデータやコンテンツの箱に過ぎず、はっきり言って何でもよい。
記録メディアの要件としては、データを書き換えるか否か、読み書きの頻度と速度、容量、可搬性、保存性などである。
データを書き換えるか否かでROMとRAMのように別れ、読み書きの頻度と速度、可搬性、容量、長期保存するかによってテープメディアとFLASHメモリ、メモリサーバとSDカードのように使い分けることになる。
光記録メディアは書き換えるか否かを選べ、読み書きの頻度と速度、可搬性のいずれも真ん中に位置し、量産効果によって100円程度に値下がりするなど使い勝手はよかったと思う。
しかし、裏を返せばそれは中途半端でもあり、読み書きの頻度と速度に勝るHDD、可搬性に勝るFLASHメモリの大容量化、低価格化によってあっさり取り替えられうる脆い優位性でしかなかった。
・BDとHD-DVDの規格争いとBDの勝利と映像圧縮技術の進歩
世間を騒がせたソニーと東芝によるBDとHD-DVDの規格争いはBDの勝利に終わった。
BDは確かに優れた技術であるが、規格争いによって年単位で開発が遅れたうえ、優位性を競うあまり未成熟な技術が山ほど投入され、それらを十分に検証することもなく市場に投入された。
たとえば記録層の上に被せる保護層と、保護層を保護するハードコート層をスピンコートで形成する構造は過去の記録メディアと大きく異なっており、販売して数年後に不織布ケースでの保管に適さないことが判明するなど大量生産する工業製品としての成熟度に欠けていた。
さらに、規格競争によって発展した映像圧縮技術の進歩も災いした。
BD、HD-DVDとも当初はDVDやデジタル放送で採用されているMPEG-2という映像圧縮技術を想定していた。
これは30万画素の映像(SD映像)であれば1GBで24分程度、100~200万画素の映像(HD~フルHD映像)であれば1GBで数分程度の映像が保存できる程度の圧縮率であり、普及が予想されたHD映像はDVDでは数十分しか収められないからこそ、DVDよりも容量の大きい次世代光記録メディアが必要だという理路であったはずだ。
しかし、BD、HD-DVD両陣営とも規格競争で優位に立とうとしてMPEG-4.AVC(H.264)という新しい映像圧縮技術を盛り込んだ。
この映像圧縮技術は計算が複雑でより高度なハードウェア、ソフトウェアを必要とするものの、MPEG-2に比べ2倍以上の圧縮率を実現できる。
BD、HD-DVDの両陣営とも、MPEG-4.AVC(H.264)の採用で圧縮率の低い美しい映像を実現できるとアピールしていたが、特に書き込み型のBD-Rでは数十GBの容量は明らかにオーバースペックとなっていた。
さらに、MPEG-4.AVC(H.264)の採用によって、ハードウェア、ソフトウェアレベルでの対応と普及が急速に進み、安価に使用できるようになったうえ、圧縮率の向上は通信環境への負担を減らし、ネットワーク経由でのHDD録画再生、ビデオオンデマンドのような競合を利する結果となった。
個人的な話になるが、私はDVD-Rを年間数百枚は購入しており、実家の親や親戚も韓流ドラマにはまりこれまた数百枚単位(ひょっとすると千枚以上)で購入していたと思う。
今はどうか?
今はBD-Rを使用しているが、実家の親のための子供のビデオを年間数枚程度、そのほかにスポーツ・アニメ・バラエティで10枚程度だと思う(数えたこともない)。
個人的にはもっと使いたいとも思うが、記録メディアに焼いてまで見たいとは思わなくなった。
年齢のせいもあるかと思うが、やはり大きな原因はコンテンツのレベルの低下、そしてコピーガードであろう。
アナログ時代はゲーム機などにも保存しどこでも見れるように工夫していたが、今はおいそれとはできない。
実際には、その機能もあるし使ってもいるが、いろいろ工夫することはなくただ使うだけとなった。
録画した機器とは別の機器で再生できるかどうかもやってみなければわからない、前は出来たのにできなくなるなど使い続けるのに二の足を踏むようなことがたびたび起きた。
こうなると、仮に問題が解消されても、試すことすら面倒くさいのでもはや使う事はない。
正直、今使っている機器が壊れた後、光記録メディア機器を買いなおして使うか?といわれるとおそらく使わないだろうと答えるしかない。
年間数百枚単位で使っていた私ですらこれなのだから、一般の人はさらにその思いは強いのではないだろうか?
ではどうすればよかったか?
いくつもの目論見違いが重なり業界自体が消滅の危機を迎えている。
一番の問題は、現在のコンシューマ向けの消耗品の大部分と同じく光記録メディアは設備産業で、ある程度規模がないと儲からない構造となっていたこと。
そのため、わずかな販売の減少であっという間に赤字に転落してしまう。
CD、DVDの減少は想定されていたよりも急で、BDも規格争いで遅れ普及も低調だった。
赤字を避けるためにはそれなりに利益があった時期に撤退を決断する以外になかったかと思うが、営利企業としてそれは不可能であったろう。
これ以降は後知恵になるので、当事者からすれば何もわかっていないとの誹りを受けるだろう。
敵は身内ではなく外にあり、普及しているというアドバンテージも劇的なスピードで進むHDD、FLASHメモリの進化の前には風前の灯で、規格争いのような内輪もめしてる場合ではなかった。
今思えばソニー・松下よりもHDD、FLASHメモリも製造していた東芝のほうが状況を正しく認識していた。
しかし光記録メディア業界として、「フルハイビジョンの美しい映像」、「著作権業界に配慮して完璧なコピーガードを」なんていう身内の論理を優先し、「見たいときに見たいものをボタン一つで(それなりの画像で)」を実現しようとしていた外の業界に対する危機感がなかったとしか言いようがない。
光記録メディアが生き残る可能性が多少でもあった選択としては、規格争いはせずHD-DVDをMPEG-2のみ対応とし、コピーガードはやむを得なかったろうから、できる限り次世代規格の製品化を早め、2011年のデジタル化までに互換性の向上とネットワークへの親和性を高めることに努めていくしかなかったのではないかと思う。
これはまさに当時の東芝の目指していたものではあったのだが、業界からは東芝だけが儲かると警戒されてしまった。
光記録メディアはあくまでコンテンツネットワークの一部にすぎないし、寿命を先延ばしすることしかできなかっただろうが、それでも墜落を避けソフトランディングできたのではと夢想する。
WWDC2015観たがApple大丈夫か?みたいなのと、そのブコメを読んで、急にスッキリした。
Appleは、表で魅了するビジョナリストと、影で徹底するリアリストの両輪の会社だったんだな、と。
Appleは、特にジョブスが追放後に復帰してからは、「Cool」なブランドイメージの構築にシャカリキだった。
だからこそ、クールで無いモノはアッサリと捨てられた。皆が早すぎると思うタイミングで。
フロッピーディスク、Flash、CDドライブ、イヤホンジャック以外のインタフェース。
逆に言えば、それ以外の「基幹的な技術」は、大したことが無かった。
Appleはクールなブランドイメージとは裏腹に、絶対に逆鞘にしない会社だった。
どんなに高いと言われようが、利益にならない製品は売らなかった。
逆に言えば、凄まじい勢いで、見切って行った。
そして、クールな製品が安いと判断された時点で、市場を制覇できた。
ジョブスの変質的な「今まさに必要な製品を市場に出す」コダワリは、ほどよく成功した。
iPadではなくiPhoneから、MacOSではなくiPadから。
忘れがちだが、ジョブスのファナティックな執着は、それほどの熱狂を生み出さないこともあった。
歴代のiPod nano、Apple TV、いくつものOSのギミック。
また、ジョブス本人も「これ何に使うんだ」と思っているものが売れることもあった。iPod Touchが良い例だ。
そして、デザインやクールさに金を出す、空前のベータテスター達が生まれた。
繰り返しになるが、Appleの製品に逆鞘は無い。必ず売れば売っただけ儲けが出る。
どんなに性能が低くても、使い道が不明でも、不満が生まれても、売れさえすれば儲かる。
だから、事実上のベータテスター達が大量に居ることで、儲かりながらテスト出来る。
Apple Watchは、後発の時計メーカーとしては凄まじい勢いでスタートした。
Appleは、そのクールさが維持できている間は、ホトンド無敵のハードウェアメーカーだ。
AppleWatchしかり、Macbookしかり、どんなに欠陥があっても、アーリーアダプターであろうとする人達が買う。
そして、その不満点や運用上の問題点を取り込んで、高速に改良品を作り上げて販売する。
3,4世代もすると、こなれた製品になり、一般消費者もこぞって買う。
そこまでに、Appleがハードウェアを販売することで損することが無い。
とんでもないレッドオーシャンに後発組としてドヤ顔で乗り込んでいって、そして成功する。
(失敗したとしても損することだけはないので、簡単に切り捨てていける)
AppleはAmazonとは真逆の経営方針で運営されている。
MicrosoftやGoogleのように、ビジョンを全面に打ち出す必要すらない。
売れば売っただけ儲かる。売ったものからフィードバックを受けて改良する。
ハードウェアメーカーの王道であり、恐ろしいリアリストが経営している。
機械学習やIoTのような「今すぐカネにならない」ことを吹聴せずに着実に儲ける。
「これからはウェアラブルデバイスだ!」とAppleが言う時は、利益が出る製品を出す時だ。
GoogleやMicrosoftや、その他未来の技術を謳う企業は、プロシュート兄貴に怒鳴られると良い。
「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!
長年付き合っていた彼女と別れた。
思い出の品を整理していたら、フロッピーディスクが出てきた。
なんのフロッピーディスクディスクかなと思って、デスクトップパソコンを出してきて入れてみた。
中にはなんにも入っていなかった。
このフロッピーディスクまだ使えるのかなと思って、デスクトップ背景に設定してあった二人で手をつないでデートしている写真を保存しようとした。
すると、
「容量が一杯です。」
これじゃ使えるのかわからないな。
取り出そうとしてマイコンピュータを見ると、容量満タンみたいな表示になっていた。
え、入らないんじゃなかったの?
と思って、フロッピーディスクを開いてみると、写真が一枚保存されている。
あれ、、、
クリックして開く。
そこには、写真の右半分、手をつないでいるところから切り取られ俺だけの写真が保存されていた。
そんな保存のされ方あるかよ。
お前に言われなくても解ってるわ。
せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分のブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。
ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECのPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称が統一されていなかった時代でもある。記録媒体はカセットテープ。ゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとでロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。
市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。
当時はまだ、パソコンのメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーのパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だから、NECのパソコンのソフトがシャープのパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001はPC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者のプログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。
その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンはPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチのフロッピーディスクになり、一瞬でセーブやロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。
せっかくの新マシンではあったが、やはり用途はゲームだった。雑誌に掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。
なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANやアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響カプラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。
中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコンで受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤーは経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲームと勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである。
高校に入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまったからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。
ちなみに、ぼくとほぼ同年代の英国人ライター、スティーブン・プールには『トリガー・ハッピー』(2001年)というテレビゲームの歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代にゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。
しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPGの製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。
技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲームの目標を大学合格に切り替え、パソコンのメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムやイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3を受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである。
1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京の私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京の学生はポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通の学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。
入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京の進学校の出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生のあいだでポケベルが流行っているというのも別世界の話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。
その一方で、大学に入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話は重要なツールだったのではなかろうか。
あるとき、風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。
ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったから1994年のはずだ。日本でもインターネットの商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学のパソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。
大学2年生の終わりごろ、ゼミの選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。
しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話・PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。
当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモの携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。
他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年、ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口に膾炙していった。大学のパソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念を理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。
ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネットに接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットでホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブで自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである。
もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信の時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。
ぼくが参加していたのは朝日ネットのフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネット上からはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信のログに残っていることを主人公が発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。
その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネットの時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねる」である。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。
…と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。
たこ八郎って水死してたの?知らんかった
オウム事件の時はなんかさっぱりわけわからんかったなあ。ショーコーショーコーとか歌うざかった
昼夜逆転してて朝まで起きてベンキョしてたら大阪ではものごっつ揺れたんだよね。
けっきょく浪人してその年は予備校に1時間かけて通ってパニック障害になったなあ。
いやな思い出ばかりだった
数年後はglobeとかタイタニックとか流行ってなかったっけか
そのあとはアルマゲドン
ハリポタやロードオブザリングは当時はスルーしてたなあ・・・・
自分的にミレニアム結婚とかはやってたり2000年問題とか漫画や新聞にひっきりなしにでてたのも覚えてる
win95はでた2年後に買って、生涯初めてのPCだったのを覚えてるよ
大学入学で生協で購入して31万。フロッピーディスクがはいるやつで、モニターとかでっかいのなんの。
引越しで持ち上げて腰抜かしそうになったの覚えてる。
初めてそのときインターネット接続して、メーリングリストでRPGとかはやっててよくわからんままDQNネームで参加してたらいっぱいメールがきて読まなくなった。
そんで、自分でサイト立ち上げ用にもやり方わからんからジオシティーズで無料でカンタンに作れるHPできてなんかわけもわからず熱中してたっけ。
ネットで知り合ったオタ友とはIRCチャットやポストペットとかやってた
いろいろBBSがさかんだった当時を思い出したよ