はてなキーワード: 自覚的とは
BE:FIRSTのファンを眺めていて思うことを殴り書く。
もうくるところまできた気がする。
くそキメェんだよこの風潮。
そろそろ「はい! いったんこれやめやめ!」って誰かアーティスト自身が自覚的に止めないと終わらないよ。
10代から20代にかけて、バンドとかソロアーティストにはハマってきました。
当時はバンドのオフショット風映像とかのコンテンツが豊富じゃなかったから、ライブでの完成された姿しか見られなかった。
だからファンがそれぞれ妄想するしかない、「こんなだったらいいな」みたいなメンバー同士の仲を描く薄い本も、「こんなこと考える人がいるんだなあ」とおもしろく読んできし、たぬきに書かれた自称カキタレによる「あいつらクソ仲悪いよ」みたいな書き込みも、「まあそうだよね」なんておもしろく読んでいた。
そのうちプロ野球にハマって、野球界のMyojoこと「プロ野球ai」には、芝生で寝転がってスキンシップする2人の野球選手……みたいなグラビアが豊富に載っているという世界観を知り、それに湧く女性ファンがいることも知った。
テレビや雑誌で垣間見ることができる、メンバー間の関係性プラス自分の願望を添えたホモソーシャル妄想をよく聞かされて、おもしろいなあと思っていた。
余談だけど、サブカル系の雑誌に載るような、ジャニヲタが書くジャニーズ愛を切々と書き綴るコラムはとびきりおもしろいと思う。
ツイッターに「#BTSで18禁妄想」があるのはよどみなく受け入れた。
だって完全な妄想だもん、自分のヘキを好き勝手書いて楽しんでいるだけだし、わたしが10代の頃に知った薄い本と同じことをやっているだけだし。
やたらと「兄弟(キラキラ)(ハート)」でくくって、それぞれの相関関係を描いて楽しむのは、KPOP特有の文化なのかなと理解していた(儒教が根底にあるの? 知らんけど)。
「長男なのにマンネにいっつもイジられて尊い(キラキラ)(ハート)」とか。
それは彼らのキャラクターを愛でるうえでは欠かせないのだと思うし、彼らはプロとしてわたしたちを楽しませるために、たとえば”仲良の良さ指数”10を100に演出してくれているんだろう。
(なによりBTSはユンギがいるから冷静に見ていられる。彼は、ウソ・大げさ・まぎらわしい、をむやみにしないひとだと信頼できるから)
だがよ、「THE FIRST」にハマってみたらよ、なんだよこのザマは?
オーディション番組として生身の人間関係を純粋に楽しんで、それぞれのメンバーにも魅力を感じて、楽曲もダンスもループで聞けて見れてアイドルってほんと楽しいなあ!って思ってても、毎回You Tubeのコメント欄が目に入ると嫌悪感に侵される。
「パフォーマンスはバキバキにカッコいいのに、普段は小学生のようなBE:FIRSTの皆さん。推せる」
You Tube撮影用に形つくってんだよカメラ回ってないところでやるわけねえだろ。キメェ。
「ソウタに抱きついたりリョウキの腕に自分の腕絡めていくシュントとか、彼女かのようにリョウキの足の間に座るマナトとか、本当になんなのこの子達は。仲が良過ぎて嫉妬すらしないわ」
いちいち一挙手一投足をキモく強調して取り上げるなよ。こいつらマジこういうとこある。「○○とか、○○とか」っていちいち並べて最後に「推せる」と締めるお花畑文体、キメェの極み。
「リョウキにもたれかかってるマナティ、子供みたいで可愛すぎるんだが!?!? 絡みついてるシュントも肘置きたいジュノンも全員まとめて可愛すぎるんだが!?!?!?」
口調がキメェ。
「ちょっとーーー!! なんでリョウキのお膝の間にマナトが座ってるーーん」
お膝て! キメェ。
「ジュノンがマナトとリョウキに肘乗せながら、目をコシコシ擦りながら、『座んね』って言うの、めっちゃかわいい」
ただ目がかゆかっただけでこのキメェ言われよう、かわいそうすぎる。
「このみんなだと改めてYouTube用に撮影しなくても素を撮ってもらえるだけで最高に面白いものが出来るから安心だね」
いやYouTube撮影用じゃなかったらなんの茶番だよ。逆に彼らに失礼だろキメェ。
むせ返るようなお花畑に野糞したくなるのと同じで、軒並み低評価を押していきたい衝動にいつもいつも駆られます。
あとさあ、アイドルを見るときいつも気になるんだけど、彼らってやたらとスキンシップしますよね?
ジャニーズとかBTSのジミンとか、プロアイドルならわかるんだよ。
「こういうのをお求めですよね? さあさあどうぞ! お楽しみください!」ってエンタメでやってるのがわかるから。
でもBE:FIRSTみたいな、決してプロアイドルではない男性たちが大げさにスキンシップしてると、「え、これって20代男性のデフォなの? 女子校&女子大出身でこの世代の男性群に触れてこなかったわたしが知らないだけで、みんなこうなの?」って錯覚する。
コメント欄にも、
「普段の姿が、ほんと近所の戯れてふざけ合っている男の子達となんら変わらない事がすごーーく良い」
てあるし、わたしは近所の戯れてふざけあってる男の子たちなんて見たことないけど、実際にはあるのか?
けど夫にその疑問をぶつけると、「普通にそんなことしない。パーソナルスペースが近いヤツは、『こいつ近っ』って思って離れる」と言う。
罪だと思う。
限りなく”素”ですよ〜って匂わせるこういうコンテンツ。
生身の人間を堂々とBL視してそれをキメェと自覚できないお花畑が増えてしまう一因が、ここにあると思うんです。
だからわたしは、ファンが求めるBLを体現できないコミュ障のリュウヘイが好きだし、このまま馴染まずにいてほしいし、とはいえ果ては「ももクロの緑」みたいになってもいやだなあ……。
その子は、とにかく故郷というものが嫌いだった。話を聞く限り、主に家族関係が上手くいっていなかったらしい。
例えば、その子は国立大学の学費を殆ど奨学金とバイトによって賄っていた。恐らく親からの援助が見込めなかったのだろう。
時折Twitterで、田舎のしがらみや桎梏に悩む人間が描かれた漫画に対していいねやリツイートを行っていた。彼女の行動の端々からは、故郷や土着的なモラルに対する拒否感が滲み出ていた。
とは言え苦労人の彼女も、最終的に修士課程を満了し、そのまま国有系の企業に就職した。知的な能力が高く、自分自身の人生を自分で切り盛りする自立性を兼ね揃えた子だったから、その結果を予想することは容易だった。仕事においても、時に人間関係での衝突や様々なトラブルに直面していたようではあったけれど、最終的に本社のある某都市への配属が決まったらしい。単に大学の同期で、多少会話を交わす機会があっただけにも関わらず、そういう話を伺っていると誇らしい気持ちになる。何故だろう。
いや、彼女自身の人生に何らかの大きな転機があったというわけではない。彼女の人生に、取り立てて悪いことが起こったというわけではない。
とは言え、それは明確な変化だった。
数年ほど前から、彼女は裕福な家庭に属する人々に対して、憎悪の念を時折滲ませるようになったのである。
というか、はっきり言えば僕自身に対する憎悪を、Twitterを通して仄めかすようになったのである。
彼女と比べれば、僕は裕福な家庭に生まれた。物心ついた頃には家にグランドピアノが置かれてあり、子供時分には英会話教室やらピアノ教室やら水泳教室にやら通っていた。
特に金銭面で苦労をしたという記憶はない。取り立てて贅沢をさせてもらったという記憶もないが、かといって吝嗇を旨としていたわけではない。誕生日やクリスマスには大抵望んだものが与えられた。
そんな、特徴のない、ありふれた裕福な家庭に僕は生まれた。
大学入学後は、仕送りによって生活していた。免許を取るための代金は、家族が捻出してくれた。
そういったありふれた裕福さを、僕は当たり前のこととして享受してきた。
きわめつけに、僕は今定職についていない。
フリーターをしながら日々の生活を送っている。別に収入がたくさんあるわけでもない。それでも、安穏とした日々を送っているのは、要するに実家が太いからだ。仮に、自分の手に負えないような何事かが起こったとして、その時には、まず頼るべき実家が存在しているからだ。
はっきり言って、僕の人生は他の人々に比べれば楽だと思う。
時々苦痛なのは、そういう生き方をしている僕に対して、露骨に軽蔑の視線が浴びせられることである。それはある意味、当たり前のコストだ。裕福な人間は、あるいは、人生を真剣に生きているとは思えないような人間は、折々に軽蔑の視線を浴びせられる。そして、それに対して言い訳をすることができない。その軽蔑の視線に対して、「確かにその通りだ」と頷くことしかできない。
とは言えそれは(繰り返すように)、僕のように中途半端に裕福な家庭に生まれて、ちゃらんぽらんな生活をしている人間にとっては当然のコストであり、受け入れるべきコストである。苦痛は苦痛なのだけれど、かといって、そのような視線を振り払うために定職につきたいかと言われれば、そんなことはないし、僕は雑に生きていたいのだから。
そういう意味で、それを不当なことだと訴えるつもりは僕にはないし、そもそもそんなことをするだけの権利は、僕にはない。
いや、少しだけ嘘をついた。
僕は、彼女にだけはそういう立場を取ってほしくはなかったのである。
彼女は僕のことを金持ちだと言う。ここ数年の間、彼女は主にSNSを通して、僕に対する様々な当て擦りを行ってきた。
僕が察しを付けられるような嫌味、振る舞い、そういうものを、彼女は自覚的に行ってきた。
そういう振る舞いをされることは、ある意味僕には当たり前のことだったけれど、それなりに僕は傷つくことになった。
他の人間が同じことをするならばともかく、よりによって何故君がそんなことをするのだ? と僕は思ったのである。
彼女は彼女の生まれた土地の、土着的なモラルや、あるいはその純粋な資本の無さに苦しめられてきた。
だからこそ、彼女が僕を毛嫌いすることは、ある意味では当たり前のことである。そこに、僕が拒否できるような理由は存在していない。
それどころか、僕は彼女が我が身の理不尽さを、どんな形であれ承服してはならないし、何らかの形で表出するべきであるとさえ思うのである。
例えば、彼女は奨学金の返済をする必要があった。例えば、彼女にはちゃらんぽらんな暮らしをし、あやふやな夢を唄って生きる暮らしは許されなかった。そう、僕のように、文筆の夢をふらふらと唄い、そのくせその努力を身を削るまでに行っているかと言えばそうではない、そんなちゃらんぽらんな人間を拒否し、排斥する行為が、彼女には必要だったのではないかとさえ僕には思えるのだ。
とは言え、彼女の行為を僕が受け入れられない理由の一つは、別のところにある。
つまり、煎じ詰めれば彼女のやっていることは、彼女自身が忌み嫌っているところの、「土着的なモラル」の継承なのではないかと思うのだ。
恵まれている者に対する敵愾心、その誰かを貶めようとする気持ち。
楽しそうに飛び、楽しそうに歌う鳥に向かって石を投げる行為。そんな鳥が地面に落ちて這いずり回ることを、志向する行為。
「県外の大学になんかいかずに、地元の学校に通え、あるいは、就職をしろ。金銭的な支援は期待するな。お前に一人で切り盛りすることは無理だ」
教育的資本によって支えられる生活というものを、イメージすることができない人間に、彼女は囲まれていたはずだ。
だからこそ、彼女は自身の力で自身の人生をやりくりしなければならなかったのだから。
そういう力が、土着的なモラルの中には含まれているし、そのような力が、彼女の身の回りには実際に存在していたことと思う。
もちろん、彼女が僕に対して向けている暴力は、そのような暴力と完全に同種のものではない(というか全然違う)。
むしろ、彼女の受けた暴力とは違って、僕の受けている暴力は、ある意味では正当な暴力ですらある。
不当に恵まれている者を攻撃すること、それは、ある意味では正しい。僕は不当に恵まれているのだ。それに対して、少々のやっかみが向けられることは、ある意味では当然のコストなのだ。少なくとも、そのようなやっかみを前提とせずに生きることは、不可能なのだ。
とは言え、彼女は周囲から引きずり降ろされそうになり、それを拒否することができた人であるからこそ、僕は、彼女にそんな暴力を(彼女が受けたものとは違った形であれ)継承してほしくなかったのである。
自分より恵まれている人間に対して、石を投げるという行為が正当化されるところのモラルは、普遍的なモラルではありえない。そのモラルは、ある人の人生から生じたところの、ある人の生育環境から生じたところの、相対的な、つまりは土着的なモラルに他ならない。
彼女は、そんな土着的モラルを拒否することを、生活の旨としていたように、僕には思われるのだ。
そんな彼女が、何故土着的な、普遍的ではないモラルに身を任せ、自分の暴力を正当化し、他人を傷つけなくてはならないのだろうか?
繰り返し述べる通り、僕の人生においてそういう暴力は日常茶飯事であり、それが存在することを拒否できる立場に僕はいない。そういう立場には全くない。
嫌な予想ほどよく当たる。私と弟は共に、共通する特殊性癖を持っているような気がする。
単刀直入に言うが、私は他人の嘔吐が好きだ。嘔吐にはかなり昔から興味があり、保育園の頃はひとり遊びのおままごとで、ぬいぐるみに吐き気や嘔吐の頻度、吐瀉物の色を事細かに語らせていた。
小学生の頃は家族共有のパソコンで「嘔吐」と調べてはYouTubeやWikipediaを漁っていた。この時「履歴を消す」という概念は無かったので、もしかしたら親は私の特殊性に気づいているかもしれない…。
中学生になりインターネットを自由に使えるようになると、エメトフィリア(嘔吐性愛)という名前も覚えた。視野が広がり、自分が興奮するものも客観的に見ることができるようになり、分類して言語化しやすくなった。オカズ(動画やpixiv)を漁る手も捗って、私の性生活はかなり充実してきたが、同時に慎みを覚え、誰にも知られるまいと口を閉ざすようになった。
とまあ私はこのようにして業を深めていったわけだが、中学二年生の弟が今まさに、この過程を辿っているような気がしてならない。性癖に自覚的になり、自ら「嘔吐」の話題へ積極的に近づいているように思える。そして、まだその特殊性に気づいておらず、家族間での話題に「嘔吐」を持ち出すことを躊躇わない。
私の母は吐きやすい体質なのか、すぐに気分を悪くしてトイレにこもるのだが、これを優しく看病するていで、弟は症状を執拗に問いただしているように見える。
「おえってなった?」「吐いた?」「また吐いた?」「ゲボするの?」「夕食全部出た?」
これらの質問は、嘔吐性愛(の一部)ではほとんどAVのインタビューみたいなものだ。
「何回イった?」「オナニーするの?」
みたいな。卑猥な言葉を口にして自分が興奮するためでもあるし、相手の嘔吐や体調を再確認する行為でもある。YouTubeの嘔吐動画のコメント欄でも、心配している風を装って「何回ゲップしましたか?」などと聞いているやつを見かける。
それから、自分が嘔吐すること、えづく音なども、隠さずに周囲に言ってまわる。自分の嘔吐が好きなタイプに多い行動だ。Twitterで界隈を覗くと、動画や写真に添えて吐いた量や回数、吐き方、内容物を事細かにコメントしている人が沢山いる。
最もゾッとしたのは、弟の見ているYouTubeをチラッと覗いた時だ。流れていたのは、体調不慮のフリをして、口に含んでいた液体をメンバーの前で吐き出す「嘔吐ドッキリ」。
私が一時期、狂ったように再生していた動画だ。イヤホンをして、大音量でえづく所を再生しまくった。
血の気が引いた。
中学生の頃、同じようにリビングで、なんの後ろめたさもなくこれを再生していた。画面を見つめる弟の目が熱を持っているようで何となく怖い。
「何ていうグループ?」「しらない」
私が質問すると、弟は上の空で答えた。
そこで私は確信した。
そうなのだ。嘔吐性愛者は合法的に嘔吐する姿が見れる「嘔吐ドッキリ」という企画が好きなのであって、出演者に特別な思い入れは無い。メンバーの名前ならまだしも、グループ名など覚えない。少なくとも私はそうだった。
弟は、私と同じ嘔吐性愛者だ。私が他人の、えづく音が大人しいタイプの嘔吐が好きなのに対して、弟は自分も含めた激しいタイプの嘔吐が好きなのだろう。
考えすぎだろうか?しかし一度そう決め込んでしまうと、全ての行動がそれを裏付けるように、意味のあるもののように思えて仕方が無くなるのだ。
そうして私は、最悪な考えに辿り着いた。
私と弟が遺伝的に同じ癖を持っているとして、元を辿れば誰に行き着くのか?
考えるまでもない。母である。
母は吐きやすい体質だ。よく人前でえづく。吐きそうなことも、吐いたことも公言する。よく吐く。これを「性癖」と決めつけるのは些か根拠にかけるが————いやちょっと待て。
私は他人の嘔吐に興奮する。産まれて初めて立ち会った「他人の嘔吐」は? 記憶はないが、多分母だろう。母は大人しくえづく。弟と違って吐いている時もほとんど音を立てない。
私の性癖はどこから来ている?遺伝か、もしくは「幼少期に見た光景」に影響されている?もしかして弟も?
ここにきて場違いな告白だが、私はこれまで他人の嘔吐で何度もオナニーをした。えづく音を妄想して興奮した。でも、その最も根源にある「嘔吐」は誰のものだろう…幼少期、まだ本当の赤の他人の嘔吐を見たことがない時、妄想の参考にした音は…?
私はこれまで、いったい何に興奮してきたのだろう。
無自覚に母親の嘔吐でオナニーをしてきた私は、もう自分の性癖を抑え込むことが出来ない。「嘔吐」を気にしないでいることは無理だ。
全て「気にしすぎ」であればいい。弟は嘔吐性愛者でないし、私は生まれた頃から嘔吐性愛者であ
ればいい。
致死率が高い病気は、その致死率の高さが逆に幸いして広まらなかったりしましたし、何より現在の新型コロナが持っているような、発症する前から感染力を持つ、もしくは感染しても無症状のまま感染を拡大する能力を持つ、といったウイルスや病原菌はこれまでありませんでした。昔は研究するすべもなく、気づかれなかっただけなのかもしれませんが。
新型コロナでは、自覚的に感染を広げてる人より、無自覚に広げている人が多いから治まらないわけです。どっかに旅行に行って無事に帰ってきた、今日も無事に職場から帰ってきた。そういう人たちの中にも感染を拡大させている人が一定割合でいます。しかし、それを責めるのも難しいと思います。私だって自覚してないだけで、これまでに感染してそれを広めた可能性がないとはいえません。
少なくとも30代より上の人は自覚を持とう
今の若い人たち、新劇場版はめちゃめちゃみてるけど、新世紀エヴァンゲリオン見てないって人、普通にいる
新劇場版だけで、キャラ愛やストーリーや世界設定や映像技術を読み解いて、それで熱狂してる
シンエヴァ自体も、そういうふうに旧作との切断が可能なように表現されてたでしょ?(そうじゃなかっただろと思うおじさん、画面や台詞の読み込みと咀嚼が足りてないか、思い出バイアスが強すぎるぞ)
そういう若い人たちの解釈が的を外しているかというと全然そんなことなくて、むしろ旧作のイメージに引きずられてない分、まっすぐ新劇場版の物語や設定や映像技術に向き合えてるのよ
もちろん映画としてよかった部分も悪かった部分のどちらもについてね
若い人との交流がないと、このアニメを見てるのは自分たちだけで、懐かしアニメの新作という文脈で語りがちなのはわかる
でも新劇場版のメインのファン層ってぶっちゃけもう移ってて、おじさんたちはなんか文脈の外の情報を変に接続して的を外したこと言ってんな〜っていうのが新劇場版まわりの状況なんよ
おじさん語り自体は別に悪いことじゃないと思うので、現状をしっかり把握したうえで自覚的にやってほしい
おじさんたちに届け〜
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え 12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707317222287335970/comment/ounce
ounce 増田を批判する自由はあるが、口汚い言葉で増田を罵っている人々には、自分の八つ当たりに少しでも自覚的であって欲しい。いかに傷つけるか、見下すか、腐心するその品性。人の知性をどうこう言ってる場合だろうか。
具体的にいうとこういうやつ。
mackrosagi ワクチン一回接種したから感染しないしキャリアにもならないぜ!って。。。こんなレベルの知性の連中を集めたのがフジロックなんだろな。クラスター化不可避やわ
bukomekusa 「ワクチン一回目で副反応でたから既に無症状感染した可能性が高いと聞いた」って書いてる時点で笑える。こんな根拠のない話を少しでも信じてる時点で恥ずかしいよ。増田にコロナ移される人にも人生あったのになあ
rinko_ami 申し訳ないが、ワクチン一回接種したから大丈夫も、金がない潰れると事前に言ってて金儲けが目的じゃないも、意味不明すがて理解不可能。あなたが身勝手な人なのはよく理解できました。同僚も可哀想
studio-conquer 自分はコロナ対策したぜ風だけどガバガバすぎて草も生えないし、こんな奴がかいてる会場の対策もバイアスまみれで嘘なんだろなとしか感じなかったな。
bluedac は?一回ワクチン接種したから無敵とか、どこの小卒だよ。マジふざけんなよな。そんな体でウイルス運ばれちゃ大迷惑なんだよ。潰れるのが心配なら寄付だけしとや。そんな好きなら5万くらい出せるよなあ?
一つ問いたい。
率直に、今でも朝日新聞、読売新聞、日経新聞など新聞紙1紙のみ、1テレビ局のみから情報を得ていると言う人はいるだろうか?
例えば私であれば、テレビは持ってないから見ないし、同一ニュースは参照できるなら海外のニュースソースも参考にする事が普通になった。
多くの人も朝日新聞だけ、読売新聞だけって情報の受け取り方をしてないだろうと推測する。自分の周りには、自覚的に複数ソースを見る人が多い。
私も自覚してそうしているけれど、その理由は「メディアは嘘をつくし、真実を書かない事もあるし、客観性と言う点では信頼に値しない」と感じているから。
時事通信、共同通信などは、速報性は認めても、事実は後で複数のソースから確認すべき存在としか思えないほどだ。
とは言え、ニュースを伝えるメディアが全く必要ない訳でもないし、多くの情報を集めることは1個人で出来る事ではない以上は、その存在には価値はある。
ただ、自社あるいは記者が都合がいいように曲げた情報を乗せるという前提でしか受け取ってないので海外ソースとも比較は避けられないというだけだ。
特定の報道機関のみを信じてますって人は、もう希少種なのでは?と思うがどうだろう。
自分よりは年配の方はもっと前からそうかもしれないが、自分にとってはこの10年ほどでその傾向は強くなった。
何故か?近いところで例を挙げてみると、コロナウイルス感染者数に関する報道がある。
感染者数の増減が一つの重要な指標であるには違いないが、それ以上に重要なのは、重症者の数、死者の数だ。
しかも、感染者数と重症者数は必ずしも一定の法則で比例する訳でもない。
現に、4000人の感染者がいても現在は死者数名だが、1月ごろは2000人の感染者でも20名から死者がいた。
この間の差はワクチンの接種が、高齢者に対して進んだことで生まれたのは明白だ。コロナ対策は確実に決定的な効果を生んでいる。
このように、何を伝えるかで国民の多くの感じ方を操作できるのは明白だ。コロナ対策関連では、報道の恣意的な姿勢の例は枚挙にいとまがないく、もう全く信頼できない。
今、警戒感と自粛意識を薄くすることは危険なので、特に感染者数にフィーチャーして報道を行うことは理解できる。恐怖で自粛を選ばせる事は全体の利益に繋がる。
だが、一部の報道機関は、この感染者数の増加を一方では死者数が減っているし致命的な結果を招く割合は下がり続けているという状況を伝えることなく、人々の恐怖感を政治的に利用している。
情報を制限し耳目を塞いで起きながら、恐怖をあおり、その恐怖の矛先を自らが望む方向へとむける論調でいる事が、私が報道機関を信じがたくなる理由だ。
コロナに関しては興味も、情報取得に割く労力も高いから、矛盾や嘘に気付けるが、他の興味が薄い案件であれば、私も騙されてしまう事があるかもしれない。
そう考えた時、複数の報道機関の、必要であれば海外ソースをも見て、それぞれに深度に差がある角度付の報道を見る必要を感じることになる。そうでなければ、矛盾に気付くことができない。
良い報道とは
こういう事だと考えるが、限りなくこれに近い事が出来ているのは、現状ではNHKだけだろう。
世の中の事ってのは、何か一つだけを見ていればいい程簡単ではないし、様々な情報を意図的に我々が取得するべきだ。
恣意的に角度をつけて誘導しようとする報道にNGを突き付けて、必要な情報を多角的に取得して、論理的に帰結を考え、合理的な判断を下す事を多くの国民が出来れば
報道機関の側で変わらざるを得なくなるだろう。いいように操れて多額の利益を得られてしまっている間は、報道機関に変わることを期待するのは難しい。
アフターコロナの世界で、メディアを改めて査定すべきだろうと強く思う。だが、同時に我々は自分たちについて考えるべきだ。
報道機関を信頼出来ないという事実は、翻ってみれば、我々自身のお互いの知的能力を信頼出来ないという事でもあると思う。
国民が変わっていくためには、やはり大事なのは教育だ。もっと家庭での教育、学校での教育を改善していくべきだなと感じる。結局は、そこに帰ってくる。
SFCのシレン遊んだことのある人なら知ってるだろうが、ジェノサイドの巻物ってアイテムがあってな
敵に投げつけるとその冒険で同種の敵が一切出現しなくなる
別に小林賢太郎を擁護するわけじゃないけど、件の開会式に使われたBGMも元ネタを具に辿ればそういうのがいくらでも見つかるんじゃなかろうか
ロンドンでポールマッカートニーが歌うことだって、彼の過去の言動からそこに色々な曰がつけられて然るべきだっただろう
要は…自分は何が言いたいのか?
そのイベントは「平和の祭典」を標榜しているが、あんな大きなイベントが真の意味で平和的に解決されることは決してない
それは「平和の祭典」である以前に、どうしようもなくデカいプロジェクトだからだ
デカいプロジェクトには道理も裸足で逃げ出すような無理がどうしたって紛れ込んでくる
それこそ死人も出るだろう、限られたヒトモノカネのリソースの中で、曰く付きの人選が行われることもままあるだろう
別にIOCやJOCを批判するわけでもないんだ、デカいプロジェクトを制御しようと思ったら、誰がやってもああなるんじゃないか?
俺たちは子どもの頃、ジェノサイドの巻物に腹を立てていたか?俺たちの親はその言葉遣いの違和感に自覚的で、それを理由に子どもである俺たちがシレンをプレイすることをやめさせたか?
シレンがWiiに移植された時だって、ジェノサイドの巻物という名前はそのままだったはずだ、誰かそれに抗議したか?元を辿れば、任天堂だってevilじゃないのか?
親は親で、俺たちを育てるのに必死だった、俺たちを育てるというデカいプロジェクトの最中にいた
デカいプロジェクトの最中にいると、多様性のるつぼが渦を巻いて轟々やってきて、逃げる暇もない、にっちもさっちも行かなくなる瞬間が必ずやってくる
差別反対を掲げる差別主義者が、「私の発言は差別じゃない!その理由はこうこうこうでフンダララだから!」みたいな発言をしたり、しれっと削除して無視してるのを見るたびに、本当に「品がない」と思ってしまう。
差別反対を掲げる人間が、人間は差別するものなので「差別したい人」少なくとも辞めて、「差別したくない人」になりましょうね、っていう考えに至ってないわけがないと思いたいんだが、どうやら反差別には「私は差別しない高潔な人間!(だから私の発言が差別なわけがない)(だから差別発言なんて存在しないけどお前らがうるさいから消した)」を自称する奴のほうが多いっぽい。本当に品がない。
当然ながら、人は差別する生き物だから、私の差別は真っ当なもの、みたいな奴は根本から品がない。んで、こういう奴らに対して声高に「反差別こそ差別主義者!」みたいな喧伝をするやつも品がない。
「品がない」、万能すぎる。万能すぎるが、品がない以上に的確な言葉が思いつかん。語彙力の衰えを感じる年頃になってしまったので、これ以上のものが思いつかんというのが正直なところだ。
同じことばを繰り返すのも「品がない」ので、どうにか品の良い罵倒と軽蔑をしたいところだが、行き着く先は京都になってしまう。これは京都差別だ。差別に自覚的だからOK、なんてルールもないので、これは品がないとかじゃなくて地域差別。これを「差別ではない」とか言い始めたら品がない反差別モドキのカス。
やっぱ「品がない」は万能すぎる。しばらく禁止ワードにしたい。結論に「品がない」が来たら、一回休んでからもう一度考え直すようにしたい。
わから~~ん。
というわけで考察してみました。
うーん速攻で論破して~~。
でも気持ちはわかるわ~~。
わざわざ障害者なんかのために高い金出してみんな仲良しみんな友達ってイベントやって、不満たらたらの障害者に対してガス抜きをちゃんと行えるときにやっておきたいってのは事実だわ。
虐げられるべくして虐げられる無能にこそ救いの手を、さすれば犯罪率の低下に繋がり社会的に利益がもたらされるであろう。
とはいえねえ、結局は「たまたまスポーツ適正があった障害者だけ」が持ち上げられるイベントだからねえ。
むしろそういうの駄目な障害者はかえって疎外感を感じることになりかねえんじゃねえかな。
結局はガス抜きと新しいガスの注入が半々になりそうだよねえ。
そもそも論として「障害者を見世物にして楽しみつつ、表向きは障害者とも仲良しこよしを演じる」っていう超絶悪趣味な上に、障害者を見下したイベントなのがどうしようもねえよな。
言ってる奴らは騙されるのがお上手ですよ。
いや~~人生が上手くて羨ましい。
俺もそれぐらい幸せに生きていた~~~い。
納得感はあるよね。
俺も結構ネットで色々やってきたし、そもそも今回みたいに松明持って(比喩表現だぞ)界隈にみんなで押し寄せる行為自体がリンチやセカンドレイプの一種じゃないのかって言われたら反論は難しいわ。
今はともかく20年後の価値観でどう裁かれるか分からんしなあ。
そのときに「価値観が変わりました。ゴメンナサイ」と言っても、今回価値観が変わることが予測できるようなことが起きてるのにネットリンチに加わってるなら結局は自覚的だよねって言われたらもう言い訳のしようもないね。
あとあと御免なさいして許してもらえるかよく分からん以上は、「今回僕たちがコイツを皆でボコボコにしているのは、『これがパラリンピック関連という異例のパターンだから』なんです」と宣言しておけば、あとあと何かあっても「え?アレはパラリンピックという特殊な状況下だったからですよ?」で無限にとは言えずともかなり逃げやすくはなるよね。
先々のことを考えてこっそり線引きをしておくってこういうのを言うのかな?
上手いよね。
ひとまず3つ仮説を立ててみるんだとしたら最後はこれかなあ。
自分が好きなアーティストが同じように後ろ暗い過去があって、でもそこにまで飛び火してほしくないから『パラリンピック』という囲いを作る。
いわゆるダメージコントロールってやつかね?
議論の場に防火扉のようなものをこっそり建設していくような感じ?
確かに『あーちすと』の類ってのはどうもイキり癖が強いからねえ。
なにより普通の社会よりもいい作品作ってりゃ許されるってルールが強いせいで過去の悪事とか強気に暴露するもんね。
「こんな人社会的に認めちゃ駄目ですよ!いっそ今からでも刑務所に入れ直しましょうよ!」みたいなこと言い出したら世の中のクリエイターの何%かは本当に捕まっちゃいそうなぐらい余罪あれこれ持ってそうだしねえ。
そこに好きなアーティストがいたり、今既に後輩イジメだとかコロナイキりとかで爆弾抱えてたら、ファンだったらそっと逃げ道を作っておきたくなるよね。
いやーなんのかんの言って皆お上手だね~~~。
ポジショントークとかあえて洗脳されていくとか都合よくゴールをズラすとか色々お上手。
はてなの人たちってやっぱり頭いいんだね~~~~
大人からの評価と企業への影響ということで考えれば、それこそ、その作品は子供が見るものという認識が制作者含めた多くの人の根底にあるということを理由に、その認識に基づく違和感を持たれるのを恐れている感じがする。
(大人でアニメ好きな人でもアンパンマンとかデジモンとかを大人向けと謳われたらそういう違和感を感じる人はいたりするのだろうか。もしそうなら貴重な大人の視聴者の心も離れてしまう危険が確かにある。自分の立ち位置に対して自覚的か否かというか。そのあたりは見当もつかない。)
そもそもなぜ、子供向けのアニメ、という観念が生じるのか。そこから考え直したくなる。
子供でも「理解できる」という意味で消費できるならば、当然大人にも消費可能であるが、子供にも消費できる娯楽は相対的に稀少という意味で「子供向け」なのか。つまり演繹的な認識なのか。