はてなキーワード: 所得とは
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
小学校から高校までに国が投入する税金って1000万超えてるんだぜ。
大学4年間で700万
合計すると3000万くらいの税金が投入されている。
OECD加盟国で日本は教育費が最低って言うけど、他の国は1人あたり3000万以上使ってるのか?
普通に考えて、例えば加盟国のギリシャやチリやエストニアが1人に1000~3000万以上使えるわけが無いと思うんだが。
GDP比だという指摘だけど、GDP比だとして、アメリカは大学まで行く1人に5000万以上かけてるのか?
子供が多い国、少ない国っていう事も関係してる気がする。日本は子供が少ないので、使う金も少ないみたいな。
0歳児保育には1ヶ月40万前後、1歳児月20万前後、2歳児以降も月10万前後の費用がかかる。親が払う保育料は別でな。
有るならぜひ政治家になって実行してくれ。無いなら勘違いしているのはお前だ。
http://synodos.jp/education/1356
就学前教育と高等教育の支出がGDP比で少ない傾向に有るのはわかった。
それでも思うんだが、3000万かけて教育してもらうに値するほど優秀な人って、そんなに居なくね?
再分配の意味も有るのかもしれんが、国に3000万出してもらって、なお寄越せって言うのは違和感有るわ。
だってそういう事言うヤツって所得税で3000万も払わないじゃん?元が取れないよ。
そりゃそうなんだけど、一生で所得1億程度の仕事なら、中卒で十分だよね?
20万×12ヶ月×44年で1億超えるし。大工とか工場勤務で所得2億超える人もいくらでも出るだろうし。
偏差値30でも高校行かせて、Fラン大学に入って、それで税金1000万単位で無駄にしてるのは無くすべきじゃね?と思うよ。
こういう費用対効果至上論で日本の大学などの高度研究もどんどん痩せていってるんだが。の人
バブル期の予算が潤沢な頃から、すでに日本の大学教育や研究機関は遅れていた。今ノーベル賞貰ってる日本人、海外在住だらけじゃないか。
十分な予算を貰い、今より多い志願者の中から優秀な若者を選抜しながら、優秀な頭脳を海外に流出させていた大学が、どの面下げて費用対効果論に文句言えるのかな?
日本学生支援機構の人間じゃないが、関連業務に就いてる人間です。
http://news.yahoo.co.jp/feature/118
最近こういう奨学金を巡る話題が姦しいが、実際の滞納整理の担当者の視点から現実について語ってみる。
件の記事のように裁判所から呼び出しがかかるような人を被害者として報道するのは現場担当者の目から見て非常に違和感がある。
返済の遅延はまず一ヶ月でも遅れれば支払催促の手紙などが届き、そこには返せないなら連絡するようにという添え書きもしてある。
上記の記事の2枚目の写真にもハッキリ写っているが、督促の段階であっても「連絡してください」と書いてある。
返済が困難な場合は事情を聞いて証拠集め(資産状況等)を把握して一定の猶予をする制度がちゃんとあるからだ。
http://www.jasso.go.jp/shogakukin/henkan_konnan/index.html
相談しても返済する必要はあるが、リスケはサラ金よりも遥かにゆるいし金利も低い。
が、裁判所から呼び出しがかかるケースっていうのは、相当に悪質なケースだけなんだよね。
具体的には
3.呼び出しの連絡にも応じない
もちろん返済は出来る限りして欲しいが、所得状況を調査するとちゃんと定職にもついて支払い能力はありそうなのに全く支払わない。
ようやく連絡がついて支出状況を尋ねるとスマホのガチャや競馬、パチンコなどのギャンブルで返済資力を消耗しちゃっているなんてのはよくある。
または、手紙を全く読みもせず考えもしないなんてのは一番多い。
女性だと結婚して苗字変わればリセットだよとか、バカな漫画の嘘を信じて婚約者に借金黙ったまま結婚して知らん顔しているケースも有る。
借金だからまずは返すべきだが、いろんな不運が重なって払えなくなることもあるだろう。
しかしそこには本人のちょっとした電話や相談で改善できる事も多いのに、それをしない悪質なものだけが裁判所に訴えられる。
報道されて被害者面している人間の多くは、相談したり調整したりするチャンスを数々自分で潰してきた輩ばかりだ。
ちゃんと相談をしてくれれば、状況によっては自己破産をすすめるケースも有るし、その後のリスタートについても事前に説明しているが、
そういう輩はギャンブルで借金を膨らましていたりするので、自己破産すら出来ない事も多いんだよ。
借りたら返すこれ当たり前。
でも返せないならちゃんと早めに相談して欲しい。
100社エントリーしましょうとか、サークルの代表やった!バイトリーダーやった!とか謎の自己PRするとかおかしい。
http://toyokeizai.net/articles/-/106615
就活ではなるべく正社員で、って指導されるらしいが、もういまの社会構造として、一定の割合は「非正規」の人が担っているわけで、
全員に「正社員になれ」って言うこと自体がナンセンス。せいぜい、それがいえるのトップの大学だけだろう。
少なくとも派遣会社つかったら、ほぼ経験ない新卒同等でも最低3000円くらいかかる。8H×20日で48万円!
つまり、会社からすると、正規と非正規にかかるコストってそこまで変わらない。
企業が3000円払っていても、本人がもらえるのは1000円台。そりゃ、賃金格差うまれるよ。
欧米のように、会社がもっと労働者を解雇できる自由(権利)を認めたほうがいい。
会社がほぼ同じ金払わなきゃいけないのに、どちらかというと非正規を選ぶ理由。それは、人材が不要になったら簡単に契約切れるから。
今の日本の法律だと、正社員でそれはできない。(できるけれど、非常に会社が不利な立場になる。)
だから、コアな部分だけは正社員にするけど、プロジェクトの状況/事業の状況によって増減できる非正規のほうが都合がいい。
これを「会社から解雇できる」ようにしたら、わざわざ搾取されると分かってる派遣会社つかう必要がない。
http://anond.hatelabo.jp/20160229103456
お前何回似たようなこと投稿してんだよ。
30代以下の有権者が投票率100%になっても、それ以上の世代の投票率50%以下の投票数にしかならないんだから
政治家が合理的に行動する限り、どう考えても若年層なんかに配慮するわけがないだろ。
大体、政治家は投票活動だけを見て政治行動をするわけじゃない。
後援会や地域のイベントなんかに参加して地域住民との対話の中でも何をすべきかを見つけるんだよ。
で、後援会や地域の公民館での集会に参加できるのなんて退職した高齢者層だけに決まってんだろ。
たとえ若年層が参加して政治家に「子育て支援して」なんて主張しようもんなら、文字通り四面楚歌。
高齢層の参加者から(「甘えるな」「私も若い時は大変だった」といった言葉で)袋叩きにされるだけ。
若者支援を表明する政治家の事務所に苦情の電話・投書が来るなんて珍しくないんだぞ。
すでに日本の人口動態は、若年層が政治から何かを勝ち取れるような状態にはないんだよ。
俺、フリーランス5年目。
「やよいの青色申告」とか「freee」とか使って。
そして所得に付随して、個人事業税、復興特別所得税、市県民税、健康保険料・・
すべてが跳ね上がった。もちろん消費税も収めなければならない。
もうこれはもう一人では無理と判断し、昨年知人に会計事務所を紹介してもらった。
それで約1年見てもらって、今年の確定申告はというと。
所得税、8万5,000円だった。
すげえ。
しかも申告所得が減ってるわけだから、市県民税も健康保険料も大幅に下がる。
会計事務所に10万〜15万ぐらい支払っても、全然お釣りが来る。
やっぱり餅は餅屋なんだと思ったよ。
そして会計処理を自分(もしくは家族)で行っている個人事業主の皆さん、
会計事務所に頼んでも、思ったより高くないですよ。
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/donald-trump-america_b_8892664.html
最後に、戦争に疲弊し、庶民の所得は低迷、政治に絶望し、排外主義が覆い、強力な指導者を待望する今のアメリカは、
ヒトラー登場前夜のワイマール共和国に似ていないかと警鐘を発する、
NYT紙の古参コラムニスト、ロジャー・コーエンのコラム「ワイマール・アメリカ」を紹介する。
即ち、欧州の持つ危険性がアメリカにもあり、ヒトラーのような破壊的政治家を生みださないとも限らないと論じる。
えーっと……今回のスケープゴートは?
紺綬褒章だな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%92%E7%AB%A0#.E7.B4.BA.E7.B6.AC.E8.A4.92.E7.AB.A0
所得が多い人は寄付をするとその分が減税される。そこで公共機関や公益法人に500万円以上寄付をすると、この紺綬褒章がもらえる。
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1456192753/2
2 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウ Sa55-fj0X) sage 2016/02/23(火) 10:59:28.83 ID:TdVNsbH3a
【確実に支持を得られて実現できそうなもの(候補)】
・育休取得義務化
・透明性の高い第三者機関の設置(特定秘密保護法、科学技術予算などへの支出を専門的に精査し判断)
・天下り団体の透明化(★11)(どこが天下り団体なのかなど可視化)
・統計局の独立化(★11)(欧州では主流、なぜGDPが下がったかの分析等も行う)
【議論中】
行政とか慣習とかモテなさとかに不満がある人はたくさんいるだろうけれど
どこいっても信用のあるパスポートだし、
多くの人は食べるに困らない所得があるし、
そんなに死ね死ね言うもんじゃないよ、そこはかとなく良い地域だよ、日本は。
もうすぐ暖かくなって桜が咲くから。楽しみに待ちましょう。
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65854456.html
読んだ。以下長い。
まずミスドがじわじわ削られてる理由だが、これは「選択肢がミスドしか存在しなかった」状況だと、商圏がもんのごっつ広大だったのが、コンビニでも(質はどうあれ)置いてあるとなると、遠方の人間は「しょうがない、コンビニでいっか」ということになるからで、実質的に商圏が狭くなっているせいだと思われる。
商圏ってのは物理的な距離もそうだが、心理的な距離も影響する。たとえば東京都内に住んでいて「徒歩25分」は論外で商圏外だが、田舎に住んでて車で25分は商圏になりうる。で、物理的心理的な面を含めて商圏から外れた人たちからミスドから離れていくということである。行くの大変だから。
ミスドの売上が「じわじわと」削られている理由はそんなところかと。
で、実質的にコンビニとミスドでドーナツが競合しているかというと、俺はかなり怪しいものだと思う。というのは、買う理由がぜんぜん違う。ミスドに行くときに「ドーナツは目的じゃない」という人はわりと少ない。わりと、というのはミスドは業態として「コーヒー一杯でゆっくりする」というのも店舗によってはけっこうあるからだが、売上全体に対しての比率としてはかなり少ないんじゃないかと思われる(ここ完全に憶測)(データ知ってる人いたら補足してください)。
ということは、ミスドに行く人は相当の高確率で「ドーナツを買うよ!!!」という気で行くということだ。対するに、コンビニで「ドーナツを買うよ!!!」という人はかなり少ない。ほとんどがレジカウンターに什器が置いてあることによる衝動買いだ。つまり「買う気がなかった人が買う」ということになる。もしそれが潜在的にミスドの客になりうる人間だったとしたら、とりあえずその人のドーナツ欲みたいなものは収まるので、結果としてミスドの売上を削ったということはいえるかもしれない(現状ではまだその比率は無視していいほど低いと思ってる)。
で、さて、コンビニのドーナツが売れない理由なのだが、実は味はあまり関係ない。味や、健康へのよしあしについては、そのことに意識的な人間が客層として多く含まれる場所に限って影響する。つまり都心のオフィスや、比較的若い客層が多い場所などだ。あとはあれか、新興住宅街とかで平均世帯所得が比較的高い地域。しかし日本にはそうでない場所のほうが圧倒的に多いし、そうでない人口も相当の比率を占める。そっちのほうが多数派なんじゃねえかな。とりあえず「ロードサイド」っていう言葉でも放り込んでおきますね。
で、そういう層に対してより意味を持つのは「味強い」「甘い」「食いごたえある」のほうである。なんだかんだいって健康にいいものって売れない。たとえば、週に100個単品で売ろうと思ったら、よほどのオフィス立地でない限り難しいはずなのね。でも健康に悪いもの100個売るのは、展開によってはわりと簡単。これは上述のオフィス立地を含めての話。
そういう意味ではセブンのPBでもヤマザキでもなんでもいいんだけど、ああいう菓子パンベースのドーナツって実はけっこう強い。なにしろ甘くてくどい。そりゃミスドとコンビニのオールドファッション並べて食いくらべたらミスドのほうがうまいってのはだれにでもわかることなんだけど、そもそもコンビニのメインの層のうち、何割が「ミスドのオールドファッション」の味を記憶として保持してるのかって話。なにしろ母数違うから。ミスドは老若男女だれもが頻繁に利用する場所じゃない。コンビニはだれもが頻繁に利用する場所。
つまり、母数が違っていて、しかもコンビニにおけるその母数の大部分が「味とか大して気にしない」「ミスドを日常的に利用しない」層である以上、コンビニのドーナツはそれらの客にリーチする可能性はあるってわけ。
でも現実的にはしてない。売れてない。らしい。
じゃあなにが問題なのかって話なんだけど、ひとつにはやっぱブコメにも指摘があったように「ミスドというブランド」が強すぎるんだと思う。味の直接的な記憶はなくても「ドーナツっていったらミスドでしょ。次にミスド行く機会があったら食えばいい」ということになる。つまり「ミスド=美味しい」っていう信仰だよね。買うか買わないかっていうのは、ものすごく細い尾根道を歩いてる人をどっちに突き落とすか、みたいなところがあって、わずかな揺れで買うほうへ、あるいは買わないほうへ転がっていく。そこでミスドが抑止力になってるんだとしたら、このブランド力はすさまじいということになる。
次に単純にオペレーションの問題。早い話「買いづらい」。レジにおける客の動きとか雰囲気ってここ10年くらいでえらい変化した。昔は2台それぞれに並んでいるどころか、どうかすると1台のレジで4人並んでいてももう1台を開放しないところなんかザラだった。ところが現在ではけっこうな確率で櫛型に並ぶし、客のほうも列を維持することに自覚的。そして自覚的であるぶんだけ「ルールを守らない人間」を非難する空気は強くなってる。レジで揚げ物を買いづらいなんてのもこのへんが理由になってるフシが強い。
ましてドーナツである。それ単体で何種類もある。どのタイミングで種類をチェックすりゃいいのか。上にメニュー看板があるわけでもない。単純にいうと、衝動買いメインである商材なのに、その衝動買いを起爆させるための導火線がまったく設置されてない。導火線は基本的に揚げ物なんかにつながっている。客の店内における動線ってのがある程度は定まってる(そういうふうに売場は作られている)以上、導火線も何本も設置するわけにはいかないんである。そして衝動買いが発生しない以上、その先にある目的買いも発生しない。そういう理屈になる。
つまり、客に買わせるためのシステム作りが拙い。俺はそう考える。種類がある商品は「選ぶ」という行為と「買う」という行為の距離が近くないとだめ。コンビニにおけるドーナツは、その二者のあいだに距離がありすぎる。
じゃあどうすりゃ売れるのかということになるんだが……。
いくつか考えられるが、どれも現実的ではない。
・価格アホみたいに下げる
・店内調理を取り入れる
・客がセルフで取れるようにする
とまあ、ざっとこんなところだ。ほかにもまだあるが、ネタの領域に近づくので書かない(まあ現実的にはその「ネタとしか思えない」の領域から新しいやりかたが出てきたりもするんだが)。
そんで、俺の考えるコンビニのドーナツの今後である。基本的に業界の動向を決めるのは某7の数字がつくチェーンなので、あそこの動向だけ見ていればよい。
とっとと諦める可能性はゼロではない。あの程度の投資など撤退したところで別にどうってことないだろう。あのチェーンなら。扉のない平置きタイプの冷凍庫なんてドーナツ什器とは比較にならないくらい高い。そういうもんを、増えた電気代もろとも吸収するチェーンである(もちろんそのぶん売上は上がってるだろうが)。ドーナツ什器くらい「だめだった♪いっけなーい♡」くらいの勢いで捨てる。
諦めなかった場合だが、店内調理とか価格破壊なんかは比較的可能性が低い。あのチェーンは伝統として店内調理に関心が薄い。某青いチェーンとかヤマザキデイリー(特に後者の一部店舗)が店内調理に関して、進化の袋小路みたいな実験を繰り返し、その一部をレギュラー店にも還元しようとして失敗してるのを横目に、某11の数字がつくチェーンはほとんどそういうことしない。
可能性としていちばん高いなと思うのは「新しいドーナツ体系」を作ってくるということだ。それがどんなもんかは俺にもわからん。が、あのチェーンの歴史ってのは基本的に「消費者の潜在欲求に触手を伸ばしその触手から”君が欲しいのはこれだね……これなんだね……”といやらしい粘液を送り込んで消費者を触手なしでは生きていけなくする」という手法で成立している。あのチェーンがすごいのは、その触手の性能である。太くて、長くて、しかも粘液の量多い。絶倫である。ほかのチェーンはや業態もあわててまねをするのだが、しょせんまねごとの触手であるため、かえってオリジナルの養分にされて終わる。「やっぱセッッッッブンイレブーーーーーンヌだよね!」という消費者の暗黙の賞賛を売上というかたちで得てしまうのだ。
もしドーナツについて例のチェーンが本腰を入れてくるなら、その「だれも考えてなかったが、いわれてみればこれだった」という手法を何年かけてでも見出してくるに違いない。
そう。何年かけてもだ。あのチェーンほんといやな。ミスドがんばって。
なんてブコメに突っ込んでみる。
まず都心部で幼稚園がガラガラってのは無い。むしろ幼稚園も足りないという地域も多い。
そして幼稚園は3歳以上でないと入れないので、保育園の代わりにはならない。
でも最近の幼稚園は保育園並みの延長保育がある所が多いのと、幼稚園の方が一般的に子の教育に優れている所が多いこと、
自治体にもよるが高収入だと保育園より幼稚園の方が安い場合が多いこと(保育園は親の所得で保育料が決まるが幼稚園は一律なため)のもあって
高収入かつ時間に余裕がある(幼稚園は一般的に保育園より役員や行事参加などの親の負担が多いが、それをこなせるような理解のある職場勤めの)親だと
そういう地域の保育園って、3歳未満と3歳以上で格差が出来ていそう。
3歳未満は保活に勝った高収入家庭ばかりだけど、そういう子の多くが3歳になると幼稚園に転園してしまって
抽選じゃないんだけど、確かに受かるか外れるかで差が大きすぎるってのはあると思う。
保育園側に公費援助をするんではなく、親の方にニーズに応じた補助を出すってのは出来ないんだろうか。保育料は園がペイできるレベル(0歳児なら15万~20万/月とか、3歳児なら7~9万/月とか)に設定されるんだけど、所得が低い家庭なら7割援助が出るとか、ある程度所得がある家庭なら3割援助になるとか。いわゆる教育バウチャーという形にしてもいい。今の保育料所得スライド制と違うのは、保育園の新設が公費予算によって制約されないこと。最低限の安全基準は必要だろうけど。
今だと、認可保育園でなければ公費なしでいきなり保育料上がる&質が下がる、のコンボでしょ。「設備充実で人気がある園には入れなかったけど、設備が劣るけどちょっと安い園に入って行政の補助も受ける」といった選択肢がある方が柔軟じゃないかなあ。
デメリットとして世帯ごとに援助査定をする手間ってのが考えられるけど、今でも保育園に入れるかどうかの審査で点数つけたりとかでかなり手間かけてるんだから、その手間が無くなるのとだいたい相殺されるんじゃないかな。(補助を受けられるかどうかと希望の園に入れるかどうかが独立するので、園側のセレクションは抽選とかでいい。)
俺の嫁が二十代前半で俺と付き合い出した頃は貧乏生活してたなあ(さすがに手取り10万よりはマシだったと思うけど)。
10年経ったが、ここ数年は年収500万くらいじゃないかと思う。正確には知らないけど。
転職するとき、よく分からないし不安だし…みたいなことを言ってたので、一般的な考え方として、採用する側が何を求めてるのか、どういうことができる必要があるのかなど色々教えてあげて転職し、今ではある意味では俺なんかよりずっと上手くやってる部分もある。
結局「社会で(それなりに)上手くやっていく」ということがどういうことなのかの実感が無いのが問題だと思うんだよな。それが分からないから間違った想像で間違った結論を出してしまう。
上位10%以上くらいに稼ぎたいならある程度特別な能力も必要になってくると思うけど、東京で30歳そこそこで年収500万程度でいいなら特別なものはいらないと思う。頭悪すぎるのは困るけど。
親世代は時代に恵まれた世代だから、どうしたらいいのかなんて訊いても無駄だろう。何もしなくても十分に暮らせるのがある意味当たり前の時代だったわけだから。
※腹が立つことがあったので再掲。
そんな当たり前の話なんだけど、「貧乏人は麦を食えと言うのか!」とよくわからん横槍で炎上した過去の事例。
しかし、まあ麦は相対的に高価になったのでおいておくとして、所得に見合った消費は必要だろ。
一人前十万円の夕食を毎晩食っても(胃腸が丈夫なので)屁でもないという人は、食えばいいんだけど、全国民が同等のサービスを受ける必要はない。
ウナギが高騰して、庶民に手が出なくなったんなら、手を出さなければよいではないか。
日々のパンに事欠いているわけではないのだ。たまに食うウナギが高くなったからこまる、それは贅沢な悩みなのだ。
海老が高いなら、食べるなよ。そんな話。
事に食料品であれば、なぜか高級嗜好品でも生活必需品の様なイメージを受けてしまう。
年にたった三回、家族で海外旅行も出来ないなんて、政治が間違っているのか?
生きることは大変だが、贅沢に生きることはもう少し大変なんだってことを考えるべきだ。
同じくアラフォーだけど、うちの母親は服は子供服含めて常にデパートで買ってて美容院も定期的に行ってたし
周りも鳥の巣みたいな母親だの鼻水たらしてボロいお古来ている子供だのはいなかったよ。
勿論当時の服は(今の基準で言えば)ダサいし美容技術も発達していなかったから、今よりはダサいけども。
でも田舎に行けば、今でも鳥の巣は居ないがプリン頭ならいるし、安っぽくどう見てもお下がりな服来てる子もいる。
それでも昔よりはマシにはなってるんだろうけど、それもデフレで安い服のレベルが上がったからってだけだ。
単なる地域差だよ。