はてなキーワード: 制裁とは
これは何とか出来るやろ?
と粘られてしまう。
さっさとビビらずにNATOがフルコミットしておけばプーチンも負け戦を認めていた。
あからさまな敗北を強要せずにプーチンの面子を立てておけば、さっさと負けるための形作りに移行したのは間違いない。
負けるとわかりきっている戦いは絶対にしない。
核も使わない。
プーチンは負けるとわかっている戦いはしない。
長らくの間、外交面において米国に服従していたのはそのためだ。
そこからどうなるのか?
プーチンは考えた。
しばらくすれば西側の結束はいつものように崩れるのはわかりきっていた。
軍属とは違い、優秀で信頼できる経済官僚たちは西側の制裁を乗り切れる施策を次々と立案した。
ちょうどウクライナの小麦を必要としているようにロシアの石油は必要なのだ。
それを無かったことにすることは出来ない。
経済は試練を乗り越える目算がついた。
では戦いは?
これは結局、規模の比較になる。
それは動員力の違いだ。
質の面では士気も含めてウクライナに仮に劣っていたとしても、量では絶対に負けない。
どちらかが大きく劣っていれば勝てない。
これは過去の戦訓にもよる。
(賭博としかいいようがないマッカーサーの作戦が成功しなかったら韓国の領土はもっと小さくなっていたか存在していなかったかもしれない。)
そしてロシア軍は質の面でも大きくウクライナ軍に劣るわけではない。
少なくともイラク戦争のときのような革命防衛軍と多国籍軍ほどの顕著な違いがあるわけではない。
多少の優劣があっても僅差だ。
それならば量で勝てる。
それが残っている限りプーチンは戦い続ける。
もちろん難題はいくつもあった。
たとえば、倒れた女性を救命するための、CPR(心肺蘇生法)やAEDの使用、それに伴う脱衣や身体接触は問題ないというのはみんな合意してくれると思う。
しかし、同時に、倒れた女性に性的な意図を持って接触することを目的として、CPRやAEDの使用を装った脱衣や身体接触を行うことはNGだというのも、まあ同意する人が多いだろう。
朝の挨拶を近所の小学生にするのでも、誰かに道を訪ねるでもいいけど、目に見えない意図でOKまたはNGが決まることは多い。
これは、炎上や晒、私人逮捕系、キャンセル・カルチャーのような私的制裁、社会的制裁が無定見に拡大する社会においては、非常に危ういと言うより他はない。果たして、このOK、NGの判断を明晰に説明できる人はいるのだろうか? あるいは、恣意的に判断できるというリスクを許容していると言うならば、その結果について文句を言わない程度の覚悟は求めてよいだろうか?
…この時点で不平等だよね?
ここまではまあ分かる。「炎上という名の現代の社会的制裁が必要(必要悪)」という結論も同意。その間が論理としておかしい
冒頭の不平等というのは、加害者側が不利という内容。(やってない証明の方が難しい=悪魔の証明って書いてるよね)
加害者側が不利なのに対して社会的制裁(加害者と目されている側を制裁すること)が必要という論理は意味不明だ。元々不利な方をさらに追い詰めることがどう全体に対して利するか、この文章からは読み取ることは不可能だ。
単なる誹謗中傷を社会的制裁などといって正義を気取るやつは相当な馬鹿だと思っている。増田においては論理的思考力に深刻な問題を抱えている人物が多い(もしくは少数のそういう人物による書き込みが多い)。きっと、現実世界が上手く行かない鬱憤を晴らすために正義を気取ることで訴訟リスクを背負っていることを理解していないのだろう。ただ、今の世の中にあっては必要な存在だと思う。
今の日本は正規ルート(芸能関係の問題に関するマスコミ、政治関係の問題に関するマスコミと検察)がハックされているので馬鹿どもが手前勝手な正義の元に誹謗中傷しまくることでしかお上が動かないので、社会的制裁(と馬鹿が呼ぶもの)が無いと(真の)加害者が断罪されないケースがあるので必要悪だというのが俺の意見。容易にえん罪が発生するので無くなるべきだが、それと同時に正規ルートの再整備がなされなければならず、そんなことができる強力なリーダーが早く現れることを願うばかりである。
ネトサヨ、もういち早く「海外も大々的に報じるぞ」「BBCなら報道してくれるはず」の大合唱してたけどさ。
山崎雅弘(歴史研究”家”。学歴なし)の「まず間違いなくBBCは報じる」(キリッ)とかなんだったのか?
BBCが松本人志に紙面を割く可能性はジャニーズより圧倒的に低い。
なぜなら、「ジャニーズ」は韓流華流と合わせてある程度知名度のある「東アジアのアイドル文化」の一旦だから、それなりに読者の興味を引く。
一方で、日本のお笑い文化なんて海外では殆ど興味を持たれてない。その中のマイナーメジャーを取り上げて誰が読むと?
ネット左翼はいつになったら、そもそも海外の『報道』は陰湿日本みたいな「晒し」「制裁」じゃなくて、「読者のニーズに応えた情報」に過ぎないということを理解するのか。海外の報道がリベラルなのは、意識の高い読者が金を払うからです(日本は払わない)。
「海外報道」が「日本のための正義の外圧」であるだなんて全体主義左翼に都合の良いファンタジーから、お前らはいつ目覚めるのか。
https://anond.hatelabo.jp/20231224205347
宗教と科学が対立するものとして所与のように扱われているが、実態は異なる。人類の長い歴史のほとんどの期間において、宗教は真理を追究するという目的のため、教育や研究を提供する場として存在してきた。中世では科学の最先端はイスラム科学であり、ヨーロッパで近代科学の誕生のきっかけとなるルネサンス運動が起きたのは、十字軍がそれを中東から持ち帰った結果である。
歴史的経緯はさておき、近代に科学的手法が発見されて以降、宗教が科学に負けつつあると考える人は多い。真理の追求という意味ではそうかもしれないが、それは宗教の一つの側面にすぎない。宗教の影響力が決定的に弱まっているのは、科学のせいではなく、ナショナリズム信仰のせいである。
ナショナリズムはあまりに成功しすぎたせいで、最早それを疑問視する人間はほとんどいないが、ナショナリズムほど宗教臭いイデオロギーは存在しない。生まれた時から勝手に入信させられ、"税金"の名のもとに資産を収奪される。改宗することでしか棄教できないが、大抵の"国"では入信のハードルが異常に高く設定されており、容易に棄教することはできない。幼少期から学校教育により、"国語"/"歴史"/"道徳"などの授業を通じて義務的な洗脳を施され、"国"が決めた正しい言語、言葉遣いを強制させられる。憲法というドグマとそれに基づいたおびただしい数の法令が日常生活において恣意的に適用されるが、その内容全てを理解しているものはいない。それらを破ると投獄されたり、罰金を払わされたり、社会的に制裁されたりする。信徒によっては"国"の方針に盲目的に追従したり、逆にその行動を批判することこそあれ、アイデンティティの核として"国民"であることそれ自体を疑問に思うことはない。
宗教は、心の拠り所としてだけでなく、出自の異なる人々をまとめあげる共同体として、また教会を通じて様々な福祉を提供する役割を持っていた。"国"はそれらの機能や権力を宗教から取り上げ、政教分離の名のもとに精神的領域へと押しやった。
「テレ東『アド街』で局アナが「サンタいない」発言、家族で見ていた視聴者から大ブーイング」というニュースを読んだ。
→https://www.cyzo.com/2023/12/post_360904_entry.html
こういったサンタクロースの存在可否について思い返してみると、90年代はそこまで世間は熱心ではなかったと思う。
精々「いい子にしてるとサンタさんがプレゼントくれるよ」程度であり、本気で信じ込ませる気概のようなものは無く、あくまでそういうイベント設定を楽しむような物であった。
00年代に入るとノリが変わってきて、大人が本気を出すようになっていった。
ベランダに足跡を付けて「サンタさん来てたよ!」と言ったり、正体を父と疑う子供のために太った友達にサンタコスで登場させたり、
といった話が「子供のために奮闘する大人って良いよね」という流れで消費されるようになってきていた。
それでもバレる時はバレるが、その時は「あちゃーバレちゃったw」と笑い話になるような緩さがあり、そういう雰囲気も含めて楽しんでいた。
「サンタは子供の夢であり、疑わせる行動を取るべきではない」 「子供にサンタの存在を信じ込ませることは大人の義務」
といった妙にクソ真面目な考え方を持つ大人が増えてきて、やたら息苦しくなってきたように思う。
そしてうっかり「サンタはいない」とでも言おうものなら子供の夢を壊したな!と怒り狂うのである。
何というか道徳の領域に足を突っ込み始めて異様さを感じるようになったのがこの辺りだ。
「サンタが居ないと知って悲しむ子供」という構図が「子供の成長過程あるある」ではなく「可哀想、同情すべき悲劇」として大袈裟に使われるようになり、ますます狂気じみてきた。
親戚の爺婆が悪気なく「正体はパパだよ」口を滑らせたりしただけで制裁として出禁にしたという話を聞いた時は驚いた。
正体バラしたら絶対に許さないというのは明らかにやり過ぎである。
最早そこにサンタクロースのイメージにあるような寛容で慈悲深い精神などどこにも無い。
そもそもサンタの存在などちょっと油断すればすぐバレる雑な嘘である。
真実を知って傷付く事がわかってるなら最初から嘘をつかなければ良い。
嘘が明らかになる前提なら、軽いノリでやればよい。
しかし近年のサンタ信じこませ界隈はどうもその辺分かっていないようであり
「サンタは信じ込ませるモノ」という目的不明の原理主義のようなものに従い脳死で動いているように感じる。
率直に言って最近のこの風潮は気味が悪く受け入れられなくなってきている。
12月22日に発売された公式ガイドブック、The Report of 機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2を読んだ。
スレッタ・ミオリネ・グエルの親が全員毒親かつ、大河内節全開な描写が非常にキャッチーであり、
シャディクとサリウスは養子と養親の関係だったこともあって、「親子関係」で注目されていた水星の魔女。
監督インタビューによると、親子関係の辛さに限定せず敷衍して、今の人たちが抱えた様々な「生きづらさ」を重ねて見てもらい、
その「生きづらさ」の克服や救済を描きたかったのが今作らしい。
それが親子関係に「矮小化」されてしまったのは大きな反省点であると言っていた。
監督的には、「毒親バズのガンダム」という受け取られ方は意図しないものであったらしい。
水星の魔女を「毒親もの」と受け取り、生きづらい自分、虐待被害者である自分、などを重ねて見ていた層は、
親世代の因果や大量殺人をなんやかんやで子世代が肩代わりして償うようなエンディングを見せられて、
生きづらさを克服して救済されるどころか最終回後に呪詛を吐き始め、炎上していた記憶があるが、
全体的に「監督としてはそんなつもりはなかったのにそうなってしまった」という印象があるインタビューだった。
監督は「司法から外れた主観的な正義・制裁行為の横行」に対して問題意識を持っており、
シェイクスピア「テンペスト」の主人公プロスペローが見せた「赦し」を今作で描きたかったため、
デリングやプロスペラが死をもって罪を償う終わりにはしたくなかったそうだ。
しかし今作の世界観は、司法制度が機能していない、鎌倉時代レベルの自力救済の世界だ。
貧民で人体実験して殺していたペイル社のCEOは、殺人の罪で司法に裁かれることもなく自由に暮らしている様子で、
特に贖罪などの描写もなく、殺されていてもおかしくなかった5号も彼女たちを赦したようだ。
(5号はベルメリアにはキレていたが、ベルメリアにそうさせているCEOにはキレるシーンすら無かったんだよなあ…)
シャディクは逮捕されたが、やっていない罪を背負って司法制度をハック(?)している。
ニカは三年服役したが、シャディクガールズは無罪という、この…。
司法制度と加害者の贖罪、両方を非常に軽視したエンディングを出しておきながら、
「私刑反対」とだけ言うのは、「人が何に苦しむところから私刑が生まれてしまうのか」についての考えが浅すぎるのではないだろうか。
被害者は加害者を許すべきという強い思想が先行しており、「自力救済の蔓延を防ぎ秩序をもたらすための司法制度」という前提の欠如を感じた。
監督自身も自覚があるようだが、親世代が実質的に勝ち逃げして、子世代がやってない罪で大きな負債を背負いながらも
親世代を赦しているというのは、結構強烈な主張であると感じる。この価値観を、日5のティーン向け作品で?
公式ガイドブックに載っていて驚いた記述が、ラウダはグエルに密かにコンプレックスを抱いていたのが爆発して殺しかけたというものだ。
てっきり、ペトラ危篤に錯乱して、ラウダ本人も自分が何をやっているか分からない状態になっていたのかと思っていたが、違ったようだ。
しかしミオリネを殺そうとしてグエルを殺そうとするのが、錯乱でなくて何だというのか…謎戦闘にもほどがあるだろ。放送時に充分に叩かれてはいたが。
また、ブルーレイの特典コメンタリーで、ラウダの襲撃は弟を放置したグエルに責任があり、グエルがダメな兄であったことを皆に謝罪する一幕があるらしい。
何を言っているのかわからない。弟に殺されかけた兄が、弟を暴れさせてしまった責任について皆に謝罪…?
思えば本編23話のフェルシーのセリフからして、弟に殺されることを受け入れたグエルに「何を死のうとしているんだ」と叱るような姿勢だったし、
一方的に攻撃されてグエルが防戦していたのに「兄弟喧嘩」と認識されていたのも、違和感があったのだった。
監督のインタビューによると、魔女とは生きづらさを抱えガンダムを用い、魔女狩りに糾弾される者であるらしい。
ジェターク兄弟の話は、あくまでラウダの生きづらさ(兄に並べないコンプレックス)に寄り添うもので、
ガンダム無しでも優れたパイロットである兄とガンダムを用いることで拮抗、「救済」されて、「健やかな精神」を手に入れて「自分の道」を歩めるようになる話だったのか。
グエルはなぜ長男というだけで次男のためにここまでやる義務を負うのか…? 令和の日本は炭治郎に呪われてないか?
しかもこの価値観、監督一人だけおかしいといったことはなく、本編(監督・脚本)・コメンタリー・ガイドブック編集など公式の姿勢は統一されているようなのだ…。
シャディクが、ミオリネがクイン・ハーバーの件で報道されているのを見て「ミオリネを穢したな」と、グエルの責任であるかのように認識していることにも引っかかっていた。
マルタンがニカの連絡係疑惑についてフロント管理社に報告したことも、寮長なのにチクったマルタンの罪とみなされており、この作品の姿勢が理解できずにいた。
どうにも、マルタン・シャディク・グエルといった「男性の長」が、他人の分まで責任を引き受けて罪を背負い謝罪すべきという、個人主義とは違う感覚が公式に通底して在るようだ。
ペイルCEOやプロスペラやミオリネは「女性の長」だが、これに当てはまらない。監督はジェンダーを意識していないとは言うが、非常に引っ掛かりを覚えるエンディングだ。
やっと提示された監督による答え合わせが独特すぎて、追いつけないスピードだ…というのが個人的な感想だったが、
「10年後20年後、古臭い価値観に満ちた作品に見えるのか、課題に対する解答の糸口となるエッセンスを持っていたのか、確認できたら」
と監督の言葉にあった通り、今後価値観なんてどう変わるかわからねえからなあ。
でも今は怖くて飲み込めねえわと思った。特にエラン4号・グエル・シャディクのポジションなんか、誰も引き受けたくないだろ、って。
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
5chだろ?というツッコミはなし
いや、夢中にはなってない
動画の内容が、なんというかソシャゲで周回プレイをしながらPCで見るのにちょうどいい頭の悪さであり、程よくスカッとする話でもあるから、ソシャゲを周回プレイしてるとそんな動画ばかり再生しているというのが実態だ
その中でもよく見ているのは不倫した妻をスレ主が法的に制裁する話で、
実体験を他者に伝える時、伝達能力が未熟でも経緯をテンプレに落とし込むことで伝達が容易になるということはあるのだ
まあ、そういうのは事実から大事な部分が欠落したり、逆に事実から外れたことを盛られたりするんで大事な話では勘弁してほしい
とか思ってたんだけどついさっき、もしかして2chスレまとめといいながら実は動画投稿者がストーリーを考えたんじゃないかという疑念を持つに至った
それともうひとつ
それぞれ別の投稿者が投稿したある二つのまとめ動画において、「スレ主の住む家の近所で空き巣が出没するようになった頃、復縁を迫っていた元妻がスレ主に送ったジュリメを無視され続けることに耐えられなくなってスレ主の愛車を盗み、スレ主からの抗議の電話を受けた後に交通事故を起こし病院でスレ主を迎える」と同じオチがついていた
同じスレをまとめたのなら同じオチになるのは当然なのだが、前述した通り元スレが明示されておらず、オチに至るまでのストーリーが異なる上、一方の動画では空き巣は他人だがもう一方では困窮した元妻であり(ああ、近所に空き巣が出没するようになったのは、車を盗んだ犯人を元妻と特定するのに必要な防犯カメラを設置する動機が必要だったからですね)、盗まれた愛車も一方は自動車でもう一方はバイクである
これ、2chまとめ動画の投稿を薦める情報商材に、ストーリーのテンプレと素材、あるいは往年のゲーム『サイバリオン』に実装されてたようなストーリー生成プログラムが付属してんじゃないかな
そんなものでほどほどに面白い話が量産できてしまうのかと思うと元作家ワナビとしては複雑な気持ちになるのだが、こうして書きだしてみるとこんなものをほどほどに面白いなどと思う自分もなんだかなぁという気持ちにもなったりもする
謝ったとは言うが、あんな紙っぺら1枚で謝罪になるかといいたくなる
自分たちが何をやったのか、どういうつもりだったのかを詳らかにして、謝罪と合わせてもっともっと人目につくとこに掲示し続けろ
代表者、賛同者、燃やした奴らの顔を晒して、土下座してる姿と一緒に掲示し続けろ
それくらいの恥をかけ
大恥をかけ
いつまでそれをやればいいかといえば、それはこっちの溜飲が下がるまでだ
詳しくいうとするならば、お前たちに怒りを感じていた者たちから「もういいよ許すよ」と言う声が上がるまで
「いいやまだ許すな」という声に対して「いやいや流石に許してやるべきだ。それくらいの制裁はうけた」という庇う意見が主流になるまで
そこまでやれ
西側諸国メディアは今回の大規模なパレスチナ侵攻ではじめてイスラエルの非道を報道したが、
もとより「アメリカの子分」ではない中東や中南米やアフリカ諸国では前々から普通に報道されてみな知ってたので、
ウクライナ侵攻に対してアメリカと欧州が憤怒して騒いでるのを冷ややかな目で見てた。
「ゆうてお前らイスラエルの非道は批判も制裁もせず、それどころか支援してただろ」って。
西側諸国のいう「国際法違反の実力による現状変更はダメ(←イスラエルも何度もやってきてる)」とか、「侵略はダメ(←イスラエルが植民地拡大で繰り返してる)」とか、「人道犯罪だ(←イスラエル軍が民間人を意図的に殺害して何度もやってる)」とか、おためごかしの建前で、実際にはアメリカの国益を守るための代理戦争だろって見抜いてたんだよね。
テストの点数1点落とす度に10回ぶたれて鼓膜が破れる事もあると言う話を聞くと虐待だと思う人はいると思うが
それが、100点以外取らないという親との(一方的な)約束で、約束を破った場合の罰として、点数1点落とす毎に10回殴る という躾だった場合、それは親との約束を破った子供の方が悪くて、もう二度と約束を破らないための躾だから助けを求めても児相から保護して貰えない事がある。
まず大人や親ができた人間じゃないのが殆どだから暴行を加える口実を与えてはいけない。
暴力による恐怖を覚えた判断能力の低い子供や大人は自分より弱い存在に対して暴力で恐怖を植え付けようとする。
正しい暴力とは何か?どこまでが躾なのか?
どのくらいの悪行に対してどのくらいの制裁なら釣り合いが取れるのか?
躾のための暴力を良しとするなら、ここら辺を明確に定義できない限りは許すべきでは無い。
普通は成長過程で周りを見て学べる。自分の小さい頃の悪行、暴力で躾られなかったものは正されてないということは無いし、暴力で躾られても治らなかったものもあると思う。
それに社会から排除されたとしても、排除された同士のコミュニティがある。
人を殺さないと教えられても殺される事はあるし、人を殴らないと教えられてもすれ違いざまに知らない人間から殴られることもあるが、これらの予防接種を受けたいとは思わない。