はてなキーワード: 乗客とは
海外から帰ってきて、空港に到着したとき、飛行機の扉がひらいて乗客がゾロゾロと出てきて列を作った。どこまでも続くと思われる廊下をさっきまで乗っていた飛行機を横目に見ながら進むと、そこで列は2つにわかれるのだった。片方の列は日本のパスポートを持つ人、もう一方は持たない人。普段意識をしないものの、不意にこのときばかりは自分が日本人なのだなと思い知らされる。空港では様々なパスポートの色や図柄がかいてあるのを見つけるなかで、自分のパスポートには「日本国」と書いてあることが自分が日本人であることに対する、まるで唯一のよりどころに思われた。
灼熱のアスファルトをトボトボと歩き、やっと公民館の投票所へつくと汗はダラダラと吹き出していた。入り口に掛けられた蚊取り線香からかすかな香りを感じながら廊下を歩くと、老若男女とすれ違うことによって国民の誰もが選挙権を持っていることに気付かされる。整理券と引き換えにもらった小さな紙と、銀色の台に置かれた鉛筆、それからひんやりとして鎮座する投票箱。これが民主主義とやらを支えているのかと思うたびに、なんとローテクなのだろうと思いつつ、民主主義という人類の発明に思いを馳せるのだった。
「どうせ自分が選挙に行ってもなにも変わらない」という意見がある。それには全く同意だ。なぜなら、自分の意志で選挙の結果(当落)を左右できるひとは、大量の動員ができるごく限られた人たちだけだからだ。きっと自分の入れた一票は死票になる。それでも、自分はついつい選挙に足を運んでしまう。ふと隣国に目を向けると、日本とは異なった選挙のない(あるいはほとんどない)政治システムで動いていることがわかるし、世界の歴史を振り返れば普通選挙が始まったのは「つい最近」のことだった。例えばアメリカでは1970年代になってやっと黒人の多数が選挙に行くことができるようになったことが示すように普通選挙は歴史・地理的に見てそれほど普遍的なものではないと思う。選挙にいけば、教科書で見た間接民主制が目の前にある。たしかに、いま自分は間接民主制を採用する国に生きているんだなあ、というのを実感するために選挙に行っている。
今日の夜は一杯呑みながら、選挙結果を聞いて楽しむことにする。オヤジが贔屓の野球チームの勝敗に一喜一憂するように、自分は選挙速報を見ながらリラックスしたひとときを楽しむことにする。どうせ無駄とわかっていながらも投票してしまったがゆえに、その一票がどうなるのか気になって仕方がないのだ。
1.急病人や線路に物落とし、踏切に人が立ち往生が発生して数分遅れる。
↓
2.その数分のうちに通常より多くの乗客が溜まる。
↓
3,通常より混みすぎてなかなか発車できない。
↓
4.さらに遅れる
↓
5.電車の本数を極限まで多くしているので後続電車も駅に入れず渋滞状態になる。
2~5の繰り返しで最初は数分の遅れだったのが終点に着くまでに10分以上に拡大。折り返し電車にまで影響が出るため、午前中ぐらいまで引きずる。
急病人と聞いて「無理をせずに降りて少し休めばいいのに」といつも思います。
もちろんそうもいかない方々がたくさん満員の通勤電車に乗ってるのは知っていますが。
「いつも遅れるじゃないか!」とお叱りを頂くことも多々あります。
もちろん増発することや、車両を増やすなどの対策を鉄道会社も講じなければと思いますが、遅れる原因は乗客に起因することが多いという事実を知っていただければ…。
階段でスマホをいじってるやつにぶつかって、そいつが転落して死んでも無罪になる。慰謝料などの請求も一切されない。
逆に、ぶつかったこっちが怪我した場合は、多額の慰謝料を請求できる。
横向いて歩いててぶつかってくるやつは殴ってもよい。
電車に飛び込んで、ダイヤを乱したやつは死刑。なお、鉄道会社への賠償金だけでなく、乗客全員に賠償しなければならない。
相場は1000円~100万円。ただ乗ってただけなら1000円、会社に遅刻したなら給料分+α、受験、就活面接の場合は30万程度を請求される。
センター試験の日はおとなしくしてないと、末代になっても返せないほどの借金を背負うことになる。
痴漢と間違えられた方は人生を棒に振るわけで、冤罪を仕掛けた方は殺人並みに罪が重い。痴漢の比ではない。
というか気づかないフリをしてやってくれ。ドアが開いたらみんな横にどいて、そいつが早くトイレに行けるようにしてやってくれ。
あまり気軽に使われると、緊急時に使えないかもしれないので、自重しましょう。
車間距離を詰めてくる車には安全確保のため、急ブレーキをかけて止まりましょう。
ぶつけられたら、相場の10倍の慰謝料、損害賠償を請求できる。
溝に捨てられたタバコの気分を味わわせてやればよいのです。
もやもやした。
よくある話なんだが、内容はこうだ。
____
私は7ヶ月の妊婦。
電車に乗っていて、マタニティーマークも付けてるけど、みんな気付いているはずなのに、席を譲ってもらえない。
優先座席の前でも譲ってもらえない。
今まで譲って貰えたのは、5回くらいしかない。
____
と、外国人風の妊婦らしき、ふくよかに見える女性と、電車に乗っている人々の写真を一緒に、日本語で投稿している。
それを前提に、私の考えを書いてみたい。
この妊婦の方が言っていること、つまり「どうして誰も妊婦である私に席を譲らないんだ?」は、何も間違っていない。
妊婦に席を譲れ。
多分、この妊婦の方が投稿した写真の中に映ってる人全員が、そうだと言うはずだ。
ただ、これは正義過ぎるんだよ。
この写真の中にいる全員が、仮にこの女性を100%妊婦だと確信した状態でも、尚座り続けていたのであれば、「この女性に席を譲れない」何かしらの理由があったのではないかと考える余地があってもよかったのではないか。
そもそも、妊婦だからといって、100%席に座れるなんて考えない方がいい。
この考えが寂しいって?
違うよ。
もしかしたら、妊婦の目の前で座っているこの女性も、見た目には分からないけど初期の妊婦かもしれない。
もしかしたら、妊婦の目の前で座っているこの男性も、見た目には分からないけれど体調が悪いかもしれない。
そうじゃない人もいるとして、
席を譲りたいって思ってる人は、たっくさんいるんだよ。
だけど、それを口に出せない、行動に移せない。
なぜかって。
それはとても勇気を必要とする行動だ、、、なんてもう過去に世界中で1000億人くらいの人が使ったフレーズだろうか。
でも本当に、勇気がいるんだもん。
多分、100人のうちの1人くらいしか持ってないのかもしれない。
もうしょうがない。
本当は譲りたくても、勇気が無くて心の中で「ごめんね」と呟きながら、座っているかもしれない。
または、「わたし妊婦なんで、早く席譲ってくださいよ」オーラを(出していようがいまいが)感じて、意地悪をした人も居たのかもしれない。
そんな人は、それを誤魔化す為にスマホをいじり、その日1日くらいは罪悪感を感じて過ごすだろう。
この投稿した妊婦の方は、今まで100人のうちの1人の勇気ある女性だったのでしょう。
自分以外の乗客全員が健康で、自分に席を譲るべき人間だと考えていたのでしょう。
その結果、この方のこの日、この時間、この場所で利用した電車内では、残念な結果になったまでの話だ。
それを、Facebookで大々的に投稿し、さも毎度毎度こんな感じです、ちょっと日本どうなったの?????
と言うのは、なんだか少し違うのではと。
まるで妊婦の代表かのように、こういうことを書く女性に、私は憤りを感じる。
こういうことを書く妊婦がいるから、上記の様に妊婦に意地でも席を譲ってやらないぞ、という考えを持ってしまう人が増えてしまうのも否めない。
私の妊娠中、確かに席を譲って貰えなかった車内もあった。
だけど、譲って貰えたことだってあった。
この女性は、席を譲って貰えなかったこの車内のエピソードと写真を世界に発信するのではなく、
譲って貰えたその5回の話を、5回とも書いて欲しい。
この5人の話をすれば、99%だった人達の中には「ああ、自分もやってみよう」と思う人が出てくるかもしれない。
席を譲って貰えないことなんて、妊婦に限らず、子連れの人、怪我をした人、病気の人、年老いた人、みんな経験している。
じゃあ、みんなその恨み辛みを書くの?
それ読んで、誰が喜ぶの?
そうじゃないんだって。
そんなこと言ったって、どうにもならないんだって。
譲ってもらえた時のことを、覚えておこうよ。
優しくしてもらえた時のことを、みんなに伝えようよ。
私は妊娠中や赤ちゃんを連れての移動中、他の方達から手を差し伸べてもらった時のことは、はっきり覚えてる。
過去の妊婦の酷い体験談を何件も読んだせいなのかな、涙が出る程嬉しかった。
そして私はその時に思った。
って。
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
特に痴漢はどいつもこいつもテンプレのようにやってないと繰り返す
またお前かよというようなオッサン、隠れてやったつもりだろうが防犯カメラに記録されてる、目撃者が数人いる、捕まえてきたのが私服警官、スマホで撮影される、手に精子がべったり
そういう「実はやってました」パターンを見続けてきたからかもしれない
これではいけない俺がしっかりしなければとも思うが、ほぼ毎日おかしい人間の相手をさせられて俺まで気がおかしくなりそうだ
それでも僕はやってないとか知らんがな、あっそうなん?なら帰って良しなんて言って帰せるわけなかろうが
逃げようとしないでくれ必死なのはわかるがああこいつやってるなとしか思われないから
こんなブス触るかと言っても逆効果だから、それあいつらの常套句だ
女の泣き声と男の罵声
殴ってでも逃げようとする
「お前なんか触るか」という言葉に加勢して中学生に暴言を浴びせる乗客達
ところで先日同僚が鬱で辞めた
俺も楽になりたい
(政治的な意味での)右翼と左翼は互いに仲が悪く、いつもいつも喧嘩ばかりしていました。
「左翼なんて嫌いだい!」
「右翼なんて知らない!」
いつもお互いの悪口で大忙し。
2人はお互いにそんなことを考えていました。
ある日、右翼と左翼はそれぞれ違う飛行機に乗り込んでしてバカンスへ出かけました。
右翼と左翼が乗ったジェットは順調に空を飛び、2人もウキウキ。
しかし、2人がふと気づくと、いつのまにかジェットの主翼が片方無くなっています。
右翼のジェットは左翼が、左翼のジェットは右翼がありません。あとパイロットもいつの間にかいなくなっていました。
機長は「不時着は可能です」と説明し他の乗客もそれを望んでいましたが、なにせこの二人我侭な金持ちだったので
どうしてもバカンスには生きたい、辺鄙な土地に訪れるのを酷く嫌がりました。そこで言いだしたのです
「あの飛行機にぶつかって軌道修正してどうにか着けばいいじゃん」
増田は初めてで、文章も普段あまり書かないので、色々読みにくかったらすんません。
100年前の条約はまだ生きていた。オランダ大使館で聞いた日本人が知らない特権
http://www.lifehacker.jp/2016/01/160118holland_embassy_nfia.html
日本人は労働ビザが必要なくなり、雇用主の手間がぐっと楽になった。ただ、移住する国としてはどうなんだろうなーと、個人的に思う。ビジネスだったら一時期の経験として割り切れるけど、移住ということはずっと残りの人生をオランダで過ごすってことだよね?住めば都とは言うけど、日本人・外国人に関わらず、最初の1年でオランダ滞在をギブアップする人はけっこういる。
とにかくオランダは国や人のクセが強い。合う人は長く住むけど、合わない人はすぐに帰国する。
もちろん「いやそこは頑張って慣れろよ」という部分もあると思うのだけど、異文化適応は先に知ってたかどうかがけっこうネックだと思う。
ネットでは、キラキラしたオランダの良いところばかり取り上げられていて、ネガティブな情報が無いのが気になったので、個人的に移住を(簡単に)おススメできない理由を挙げてみようかと。
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よく「オランダ人は英語が話せるので、オランダ語が話せなくても大丈夫」という触れ込み(?)を見るが、実際は役所や移民局から届く大量の手紙は全部オランダ語。諸々の申請書類も、ゴミの収集場所変更のお知らせも、銀行の書類もガス給湯器の説明書もオランダ語。書類スキャンしてGoogle Docsにぶちこめば読めるけど、OCR技術はパーフェクトではないのでそれなりに時間がかかる。年月が経てばある程度慣れてくるけど。
加えて駅や電車内のアナウンスも(主要都市の駅以外)オランダ語。オランダの鉄道はトラブルが多く、途中の駅で降ろされて1時間待たされるとか、急に到着ホームが変わって乗客みんなでダッシュとかザラ。そんな場合でもアナウンスはオランダ語なので、わからない場合は周りの人に聞くしかない。乗ってた電車の到着駅がいきなり変更とアナウンスされても気づかないことも(実体験)。
そういう環境なので、話せる言語が英語だけだった自分にとっては、毎日のちょっとした事がけっこうストレスだった。なので、ネットなんかに書いてある「英語話せれば大丈夫!」という言葉をそのまま信じて行くと、現地で騙された気分になると思う。
※ちなみにオランダ歴長い日本人(オランダ人と結婚した人は省く)でもオランダ語話せない人は多い。オランダ以外で役に立たないから。
というか中国人差別。ただこれはコミュニティによる。酷いのはオランダ人の中流以下(特に田舎)コミュニティと、トルコ・モロッコ系移民コミュニティ。前から歩いてきた男数人にすれ違いざま「ニーハオ!」と威嚇された回数は数知れず。叩かれたり、蹴られたりした人も。子供にまで言われた時はどうしようかと思った。(しかも隣にいた親らしき大人は注意しない。闇)最初はコミュニケーション?とポジティブに取ってたが、表情や態度でバカにされてると分かった。「中国人じゃないですよ」と返した時期もあったが、逆に日本人と身バレするのもアレなので、ひたすらスルー。当たり前だが、アジア人以外の外国人と一緒にいる時は一度も経験したことは無い。
そこまで直接的じゃなくても、ローカルなレストランで店員の接客態度が白人と我々であからさまに違うことは、残念ながらよくある。GACKTみたいに正面からやりあえれば良いのだけど、こう頻繁にされると「そういうものなんだ」と慣れてきてしまうのが怖い。
対策としては、そういったコミュニティに近寄らないことと、身なりをちゃんとすること。あと堂々としてること。こっちの人は、服装で自分のステータスを明確に表現する。黒人でもトルコ人でも、ちゃんと仕事してる人はちゃんとした服装をする。地味なダウン+ジーンズ+スニーカーで出かけて嫌な目に合ったことは何度もあるが、しっかりした服装の時には一度も無い。
オランダのお国柄。口が悪い。加えて無愛想で閉鎖的なもんだから、1年目これで「あ、無理だ」ってなる人がいる。慣れれば大丈夫。
一般的にオランダ人は内向的でコミュニティ意識が強い。京都人っぽいというか。「外者」が中に入るにはかなりの時間をかけて関係を構築する必要がある。もちろん、こちらからコミュニケーションをすれば、ちゃんと返してくれる人は多い。もしオランダ人ローカルとのキャッキャウフフをイメージしている人がいたら、それを実現するにはかなりの時間がかかることを明示しておく。旦那さんもしくは奥さんがオランダ人じゃなかったらほぼ不可能。都市部なら可能だけど、ちょっと外れの田舎とか不可能。まあ日本と一緒か。
人それぞれなんだけど、個人的な体感値として。自分はアメリカ東海岸にも滞在してた事があるんだけど、フレンドリーさ、対人面でのホスピタリティは圧倒的にアメリカ人の方が上。例えばオランダのレストランなんかで、笑顔で接客してくれる人に当たったらラッキーぐらい稀。あとオーダーの間違いとかザラにある。
まずパンがまずい。スッカスカ。高いお金払ってやっと「それっぽい」レベル。一度ドイツ人が地元のパンを持って来てくれたけど、全然違った。電車数時間でここまで違うのかと驚いた。それ以外の食べ物も全体的に美味しくない。元々プロテスタントの国で土壌が貧しかったから食文化が育たなかったと言われているが、言い訳にしか聞こえない。
オランダは農業先進国と言われている。確かに日本と比べると野菜は安くて大きいけど、水っぽくて味が無い。一年通してずーーーーーーーーっと同じ種類の野菜が、同じサイズでスーパーに並ぶ。旬の野菜も時々出るけど(白アスパラとか)日本みたいに季節感が無い。解決方法としては、ローカルの八百屋さんやオーガニックマーケット(高い)で買うこと。
あと日本では普通に売られてる豚コマとか薄切り肉が無いので、鍋なんかしたい時に苦労する。日本人が多い地域には売ってる。生魚とか怖くて食べられない。知りあいがそこそこの値段で食べた生の魚貝で食中毒になったケースを何回か見ている。日本人向けの魚屋が存在するが、まだ利用したことは無い。
外食が高い。そのくせ美味しくない。いわゆるファミレスみたいな「お財布に優しくて、そこそこ美味しい」ものが無い。すごい高いレストランか、格安フードかの二択。中間の価格帯は中華料理屋くらいか。必然的に自炊が増える。日本食レストラン、ラーメン屋さんはアムステルダムにはあるけど高い。
インドネシア料理は許す。
オランダの冬は暗くて日光が当たらない。朝は8時まで暗くて、夕方5時には暗くなる。雨風強い。あの暴風雨の中で自転車こぐオランダ人はタフだなあと思う。まあ、これも慣れろよって話なんだけど、自分は最初の一年目、あまりの天気の悪さにストレスがすごかった。日光が足りないとビタミンDが不足して鬱状態になりやすいらしい。対策としては肝油。
こっちでは高校生くらいのオランダ人が、親方みたいな人について肉体労働や職人仕事(ペンキ屋さんとか)をしている風景を見る。オランダの場合、子供は10代前半くらいで成績に応じて色々なランクに分けられ、受けられる高等教育が変わる。日本の場合、(職種にもよるけど)大卒じゃなくても社会に出てから叩き上げでキャリアアップしていく事は可能だ。対してオランダは学歴によってできる仕事と給与が明確に分かれている。(カフェでレジ打ちをするにも、大学卒業資格が必要だそうだ。)大学に行けないと判断された子供は、職業訓練学校に進学するレールに乗る。一度乗ったレールから外れて、大学に進むにはかなり回り道をする必要があるらしい。
オランダの教育は学歴差を若い時から明確にし、社会のシステムに組み込んでいる印象。もちろん、地域や学校によって様々だと思うのだけど、自分がオランダで子供を育てたいか、と言うと今のところ「うーん..。」という感じだ。この辺はまだ勉強不足。
※オランダの子供は伸び伸び育てられてるせいか、すごい自由。というかうるさい。声が大きい。北欧に行った際、電車で子供が騒ぐとすぐ親が注意してたけど、オランダで注意してる人は見た事ない。
移民局含め、役所の仕事がずさん。申請書類を紛失されたせいでビザの取得が半年遅れるケース多数。今回の労働ビザ免除の件も移民局の末端で仕事する人には届いていないらしく、窓口に行くと「おまえは何を言ってるんだ」と取り合ってもらえなかったという話を聞く。
長い。そして完全に悪口。個人の主観だし愚痴も多分に含まれているので、話半分で。文中にも書いたけど、住むエリアやコミュニティによって、状況もだいぶ違う。逆に言うと住む場所はホント大事。
上記の様な諸々は日本でも他の国でもあると思う。まあ、キラキラの楽園じゃないよってことで。ヨーロッパの国だからといって洗練された社会システムや人を想像して行くと、現実とのギャップで打ちのめされてしまうからね。良い意味でも悪い意味でも、泥臭いです、オランダ。自分で色々切り開いてく精神があれば、大丈夫かと。
もちろん良いところも色々あると思うけど、まあそれは他のブログとかサイトにおまかせで。まあ、一度くらいは遊びに来てもいいんじゃないかな(秋冬以外)。
※確かに他のヨーロッパ諸国に色々気軽に行けるのはメリット。飛行機も安いし。
※いわゆる韓国系、中国系の日本食レストランはどの街にもある。
※電車で2、3時間のドイツやベルギーに行くと、とたんにパンも食事も美味しくなる不思議。
※中国人男性はガタイが良い人が多いので、逆にあまり絡まれない。
※税金・保険をちゃんと支払っていれば、大学含む教育費・医療費はタダに近い。この辺はすごいなと思う。税金高いけど。
乗客を乗せて走る乗り物で、定員をオーバーしても電車だけ認められるなんてどう考えてもおかしい。
調べたところ、乗客の意思で乗り込んでいることと、定員をオーバーしてもある程度安全な乗り物だからとか言われてるみたいだが
どこが安全だ?満員電車で携帯がバキバキに割れたこともあるし、体調崩してる人、怪我した人もよく見るぞ
痴漢やスリだってそもそも混んでなければ、圧倒的に数は少ないはずだ
首都圏におけるヘイトの3分の一ぐらいは満員電車が原因じゃなかと思っている。
それでは社会が回らないというなら、社会が乗車率100%での運送に最適化するべきだ
普通車両のドライバー席の場合はそうだが、この増田が言っているのはバスなどの大型車両の乗客席のシートベルトの警告音のことでは?
バスでドライバーがシートベルトをするのは勿論のことだが、乗客のほうでもシートベルトをつけないと警告音が出続けるようにすれば、乗客はシートベルトをしてくれて、交通事故が起きても被害を少しぐらいは抑えることが出来るだろう、と。
その場合、警告音が出ても何ら気にせず乗るやつが絶対にいるだろうし、
今まで発生しなかった未知の騒音でトラブルが発生しそうだし、立っている乗客や、空席の扱いはどうするのか(空席とは言っても、物を置いていて人が座れない席もあるはず)、って話になるし、実現は難しいと思うな。
0フォロー0フォロワーのtwitterアカウントに鍵かけて、ちょっとしたメモ帳代わりにしている。ネットが繋がっていればどこでも見れるので案外便利だ。
といっても、思いつきを書き散らかしているにすぎないので、意味不明なものばかりだ。
その中でも少しはマシなものを選んで、この場で供養していきたい。
カラオケでふざけてサビ前で演奏停止押すやつがいたんだけど、そいつのあだ名556になった。
ISO12000の暗闇に
カタカナとか横文字とかの固い言葉で、柔らかい表現をしているものに憧れる。
むかつく辶を書く人
むかつく辶を書く人、居るんですよね。ぐしゃぐしゃ、とした辶を書く人。
素人童貞のジレンマ
発情期の猫は赤子の鳴き声に似て非常にあれだ
この頃まじでうるさくて眠れなかったなあ。
文壇と、喧嘩凸、ネットバトルの類似性
文学はさっぱりだから完全な妄想なのだけれど、多分似ていると思う。
半分ぐらい人がいるバスに乗ったん怒けど、乗客が俺しかいなかった
正しさって気持ちいい
ネット見ていると割と頻繁に思う。間違いを正さずには居られない人の多さよ。
納豆の 糸を引いてる ネバネバの ネバネバしてる 糸を見ている
割と好き
資本主義に毒されているから、RPGで売れないアイテムがあるとすごく腹立つ
「それを売るなんてとんでもない」なんてとんでもない。一流の商人なら伝説の剣にも値段をつけろよ
nyakiniku
このタイトルでひたすら猫が網で焼かれるだけのマンガを描こうと思ったけど、絵が描けないことに気づいたのでやめた。このアイデアの著作権は放棄しますので、絵が描ける方、是非どうぞ。