はてなキーワード: 不利益とは
これは超絶上流家庭だと思います。日本の上位1%に入ります。少なくとも地方出身男子大学生の平均とは比べ物にならないほど恵まれているご家庭ですよ…ギデンズの定義を持って中流家庭とご自身を定義するのは欺瞞かと。 https://t.co/OyLTicCCkx— metaruna (@asian_chaos) 2020年3月1日
大学時代の記憶だと、自分がかなり恵まれた特権階級出身であるということには無自覚である一方、男性の特権性を糾弾するジェンダー論を語りがちな東大女子は結構いたな。周りの男子もそれをちやほやする。地方出身東大生よりよっぽど都内出身「中流家庭」女子東大生の方が恵まれてる傾向。— metaruna (@asian_chaos) 2020年3月1日
つい先日、「日本の会議の写真に写ってるのが男性ばかり!日本では女性はコロナで絶滅したのかい?by白人」みたいな記事がバズっていて、そこのブコメでは議席の一定数を女性にあてるクオータ制を導入したらどうかという主張がなされていた。私もそれは良策と思う。
でも、「男性」と「女性」は一見しただけで属性が分かりやすいから(わかりにくい方もおられます)そのような議論になるのだろうけれど、それ以外の要素のクオータ制を提案する人っていないよね。たとえば日本の大学進学率は5割強に過ぎないが、クオータ制によって議員の5割弱は高卒以下にあてようという主張は見たことがない。日本の平均世帯所得を見ると5割強が500万円以下だけれど、議員の出身世帯の収入が1000万円以上の割合を約1割に抑え、500万円以下の割合を5割強に増やそうとする主張は見たことがない。日本の国会議員が男性ばかりだから、女性に不利益な政策を平気で行うのであれば、日本の国会議員は高所得家庭出身者ばかりだから、低所得者に不利益な政策を平気で行うのではないのか。
日本国民のうちに占める障害者の比率は7%らしい。一般企業には法定雇用率というのがあり、2.3%の障害者の雇用が義務づけられている。れいわ新選組のやり方は賛否両論だったようだが、そもそも社会に一定数の障害者が存在するのだからクオータ制として障害者の議席を設けるのもひとつの手だろう。南関東の総人口は日本全体の約3割に過ぎない。だからクオータ制で他の地方出身者を7割……ってこれは実現できている。選挙区があるからだ。比例とか代々の地元で出馬するパターンとか色々あるけど、選挙が全国でブロックごとに行われる以上、これはクオータ制といっても良いのかもしれない。
クオータ制の属性に性別や人種が持ち出されがちなのは、写真一枚を見ただけでパッと見て不平等が分かりやすいからなんだろうね。
自民「下船させません」
立民「下船させろ」
立民支持者「非人道的だ!下船させろ!」
海事増田「専門的見地から言って下船は良くない。素人は黙ってろ!」
立民支持者「オリンピックが大事だから通勤通学イベントの自粛が出来ないんだろ!中国を見習え!」
海事増田「島国での疫病はオリンピックどころか島国経済自体がヤバイんだよ!素人は黙ってろ!」
自民「全国休校を要請する。自治体の自主判断で休校の是非を決めて欲しい」
立民支持者「そうだ!誰が子供の面倒を見るんだ!」
こんばんは。
ミサンドリーがフェミニストと自称しネットで通り魔のように百鬼夜行していて、刃物でぶっ刺されて血を流している人が気の毒で、あと同性としてみていて情けない気持ちで、とりあえずうんざりしています。
同じようにうんざりしている人に、ちょっと聞いてほしいです。ただあくまで日記という名のひとりごとなので、ふ〜ん、そう思っている人もいるんだ〜っていう感じで良かったら読んでください。
※もしわたしが魔法使いか神様か地球外生命体かだったらという前提で話します。
ものすごい考えて戦略的に行動しなきゃ変わんないの知らないの?
自分たちより弱くするっていう感じのやつです
つまり、本来フェミニストとして社会で何らかの発言をして認められたいのならば
心理学やジェンダーに関連する裁判を国別で徹底的に調べ尽くしてから
他人を変えようだなんて全くもって
何を言っているのか、すみません、よくわかりません
これからも気に食わないやつを殴っていいって
まじで思ってるのですか...?
頼む〜〜〜言論の自由についてもう一回考えてくれ〜〜〜
結局のところ誰のためにもならない正義を語り、社会に対する不満のはけ口として
自分以外の手を許可もなく自分の股間にあてオナニーして気持ちよくなってるのと何も変わらん
知能とは...
他の国で暮らせる力がないことを認めているっていうことでいいですか?
いやわたしはこの国に住む女性のために戦っているんだって言うかもしれないけど
そういう全体主義的発想もういい加減令和なんでやめませんか...?
自分が住みやすい国に移住して、そこで自分の子ども育てればよくね?
もしそれでもこの国の人を救いたい(?)って思うなら
よっぽど建設的だと思うのですが...?
「わたしは女性のために戦っているのに女性からも攻撃される」って
政治や経済においては国という単位で議論することは今後もできるけれど
国という単一の基準で議論することはできないと思うのですが...
細胞核って知ってる?
染色体って何本あるか知ってる?
ミトコンドリアゲノムって母体からしか受け継ぐことができないって知ってる?
DNAって知ってる?
塩基対って知ってる?
別に知らなくてもいいのよ?
ただこんな基礎知識すらも学ぼうとすらもできない人たちは
公の場で言うんじゃなくて
誰でも生きているだけで価値があるけど
頼むからわたしに不利益のかかることはしないでくれ〜〜〜頼む頼む頼む〜〜〜
対立構造を強化し、そこに生きる人を分断し踏みにじっていることに気がついてくれ〜〜〜
何が言いたいかって言うと
ぬるい、甘い。
知能もっと使わないと生き残れないんじゃないの
なに綺麗事言ってるんだ?
弱ければ食われるし子孫残せないんす
世の中が綺麗事だけで進んだことって今まででいくつあった?
いいっすか
日々生きてみることなんじゃないの
それするとすごい発見あるよ
優遇されている(ように見える)人は
だって見えずらいんだもん
引きこもりも、孤独死する人も、自力で生活することができない人たちも
それ以外の人たちは果たしてきちんと見ることができているのかな
「生まれながらに圧倒的ハンデを抱えた人たちは
そうでない健康な人たちのせいで生きづらい
差別だ!ひどい!あなたたちが悪い!あなたたちが変わるべきだ!」
って言われて、
「そうだね、ごめんなさい」って健康な人は言うか?
「50円ください、さもなければあなたは差別主義者だ」って言われたら
自分たちが純粋な正義で中立で正しいと思い込んでるところかな...
そんな人どこにもいないよ☆
あえて相手を傷つける言い方で人を注目させる方法をとっているのがひどすぎる
そうすることで異性にモテたいとか評価してもらいたいって思ってる人だお
自分とは全く異なるし、これからも同じになることはない人ということを認識し
この世にはいくらでも先に生きた人が残してきたものがあるじゃないかにゃ
それでも変わってほしいと願うのならば
殴られても殴り返さず、
ひたすら丁寧な言葉を持って、
一貫した態度を取り続けないと変わってくれないよ
あなたたちの正義のおかげで、かえって世の中悪くなっているのですが...
本当にいい迷惑です、少数なのに声だけ大きい人たち
ただ知っておいてほしいのは、そういう人って限りなく少数だから
インターネットで他人を攻撃する人は約0.3~0.4パーセント以下ですし
まあそういう人たちもいてもらっていいのだけれど
一緒に考えていきませんか?
この4月から、中小企業にも残業規制が適用される。満を持して会社が発表した対策が「所定内労働時間を長くして、残業としてカウントされる時間を減らす」。実際には、以下の方策の合わせ技である。
社会学者の千田有紀氏のトランスジェンダーに関する論文に批判が集まる
https://togetter.com/li/1471101
これに反論として長いブログ記事があって一応読んだんだけど、本題とは別のところで「トランス女性は男か女か」ってとこが気になったのでちょっと書いてみる。
「トランス女性が女性の領域(風呂、トイレ、スポーツなど)に入り込むことは、シス女性に恐怖を与えることであり、その気持ちは差別ではなく合理的なものである」
で、それに対しての反論は
「トランス女性はなりたくてなったものではない。自分で選んでそうしているわけでないのにそれを排斥するのは差別である。トランス女性の声を聞きもせず一方的に決めつけるな」
というものだと思う。
どっちが正しいとかそういうのはまあそういう論争が好きな人にまかせておくのでそれについてはおいておくけど、
気になったのはトランス女性というのはどういう立ち位置から自分の主義主張をしているんだろうかということ。
つまり、ほとんどすべての女性は女性のみが立ち入れるプライベートスペースに男性が入ってくることを望まない。
トランス女性は社会的に女性として認めてもらいたい。少なくとも自分の心は女性であると思っている。
ということは、本来的に社会的にも心理的にも女性であるならば、女性のみのプライベートスペースに男性が入ってくることは望まないということになる。
だからトランス女性が女性のプライベートスペースに入ろうとすることは、社会的女性にとって望まれないこと自ら行うことになるので、それを主張しているのは「男性としての権利主張」となってしまう。
ゆえにトランス女性は男性であるということにならないだろうか。
まとめれば、女性であれば嫌だと感じることをむしろ歓迎するというのは男性側としての意見なので、その主張をしているのは「男性」ということになる。
しかしそう考えるとトランス女性が自分を女性として社会的に認知してもらうためには自分の排斥に賛成しなくてはいけなくなるのでそもそも主張ができなくなる。
まあもっとも、女性として認知はされたいけれどもシス女性が社会的に受けている不利益は受けたくないというトランス女性もいるので、それはやはり男性なのだろう。
書きたいこと書きます。
まず前提として、間違った情報を発信してはいけないということ。
例えば、お店でひどい目にあったときに、その本当のところをレビューとして書くのはいい。他の人がひどい目に遭わないために有用だからね。でも、嘘は書いちゃいけない。嘘のレビューを書けば、そのレビューをみた人がお店に来なくなる。それは、嘘を言ってお店に業務妨害したのと一緒だ。
不利益しか産まないので、嘘のレビューは書いてはいけない。いいよね?
宣伝の効果って、宣伝したものが売れるってだけじゃない。声のデカい広告業者が宣伝すれば、「〇〇といえば××!」「××でなければ〇〇にあらず!」って状況になるわけさ。
だからね、広告側でも、宣伝するものは吟味する必要があるわけ。食品の宣伝を決めるときに、「まあ食べてみて下さいよ!」ってやってればいいんだけど、多分そうじゃないだろうし。これは良いものだ、絶対に世に出す!って意識があれば、違法サイトに広告出稿なんてすることもないだろうし。
大手広告会社は、その声のデカさを武器に踏ん反り返ってるだろうけど、カネもらって何でもかんでも広告するせいで、広告される側に経済的な淘汰ってやつが起こってないんじゃないかな。比較広告は悪って決まってるけど、良くないものを宣伝するのもダメだよねぇ?
効果には個人差がありますだの書いてもね、あんなちっちゃく書いて見逃した人はどうすんだろう。その効果信じて、無駄なお金を払ってしまう。そんなことばっかりしていたら、みんなお金使わなくなっちゃうじゃん。ダメなモノの宣伝は人類の敵ですよ?
国で食生活のルールが決められてる、って知ってますか?バランスよく、野菜たっぷり、体を動かして!って厚労省の指針に書いてますよ。毎日果物を、って書いてあったのが衝撃的だったけど、正しいこと言ってるなーって思いました。とりあえず果物の王様バナナを食べようかと思います。
っていうか国!正しいこと知ってるんだったら大声で叫んでよ!闇雲に炭水化物抜いて体壊してる人いっぱいいますよ!たくさん食べられないって人は運動したらいいとか伝わってないよ。
まぁそんな風に、ルール整備が追いついてない、もしくは周知されてないってところはたくさんあるよね。人を傷つける書き込みをずっとしてると殺されちゃうからダメだよ、とか決まってないもんね。え、決まってる?じゃあ周知が足りない。実践できてないじゃん。決まってることになんないでしょ。
日本人って曖昧にしておくの好きだもんね。これはいい、これはダメって決められない。しかも、みんな謙遜しあって下がっていくから、ダメはわかるけど良いは分かんなくなっちゃった。これはダメだ!って意見は必要だと思うけど、なんでダメなのかな、じゃあどうしようかなってところまで考えて伝えていかないと、わかんない人は取り残されちゃうしね。
平等を実現するんだったら、わかる人が丁寧にやらないとね?
いやーいっぱい書いた。読んでくれた人ありがとう。
マツモトさんが腹を切って声を上げ、世論が動いて、セブン本部はそれに対応せざるを得なくなった。
けど、マツモトさんは営業停止にされたまま。その理由のクレームだって、客側にも非があるものばかりらしいじゃないか。
これ、僕にはお上に意見するために切腹したという伝説に似てるような気がしてる。
「権力者の不利益になることを言うには、クビを賭さねばならない」
「全体の利益になっても、権力者の不利益になれば、権力者は罰を与えてよい」
そういう不文律があるから、セブン本部もクレーム対応を求める前に営業停止に踏み切ったりするんじゃないのだろうか。
そんなんじゃいつまで経ってもいい変化なんて生まれない、と思う。
権力者に権利があるのは普通のことだけど、今回の件については横暴だろう。
そんなことが許されているようじゃ、未来はないわなぁ。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
実際は女より男の方が「将来〜になりなさい」「〜になるな」という制約を受けているという統計がある。
フェミニストの主張を紐解くと、実際は真逆の統計が出てくる。結局「今まで当たり前だと思って享受してたものが、男女平等によって不利益も平等に受けるようになり、被害意識だけが顕在化された」だけ。
友人にジェンダーの授業を受けてた人が居たが、「ガラスの天井があるので就職せずに普通に結婚する」と言っていた。
本来ならジェンダーの授業を受けたなら、平等な世界の中で同等に働く意識を持つはずのものだが、真逆。
じゃあ広告も全滅だね、みたいなコメントに対して、いや広告はユーザーの目に触れるから裏で勝手にやってるコインハイブとは違う、みないなレスが出たりしてるけどさ、
Vue.jsとFirebaseでOGP画像生成系のサービスを爆速で作ろう
https://qiita.com/serinuntius/items/3017fb6ef51cd47352f6
たとえばこういった感じのサービス。ユーザーのブラウザ側で、画像を生成して、それをfirebaseにアップロードしてるけど、利用者のみんながみんな「自分の端末から画像のアップロードが発生してる」と認識してるとは思えないわけで(サーバーが画像生成してそれをアップロードしてるからサーバーの通信帯域を使う、と認識しがちなのでは?)、ということは勝手にギガを消費して不利益を被っているいるから有罪になるんじゃないか?
真面目に気になるので誰か教えてほしい。
いやね、コレはクラスの真ん中より下に居た人間なら分かる話だろうけどね
それなりにスクールカーストが高い所でキラキラと発光してるリア充様が、
ちょっと高い自転車を通学に使ったくらいで不愉快になるイジられ方はしないんですよ。
残酷だけど
だからこの子は気を使われる立場の人間ではないんだよね…残酷だけど
そもそもこんな相談を、ネット投書に匿名で投げてる時点ででさぁ
リアルで身近に肯定してくれる同年代が居ない、最下カーストより少し上くらいのキョロ充でしょ?
その「友達」とやらには随分と下に見られてるよね ストレートに言ったら舐められてる
残念だけど、その「友達」は君がどういう逸脱をしても舐めてかかるし不愉快なイジりをしてくるよ
「『その友達に』認められたい」って欲望があるなら、残念だけど中学卒業しても絶対に叶うことが無いから
彼らは君の努力や筋トレには興味がない 君を笑うダシとしてしか見てないからね
だから本当に自転車が好きなら、その自転車だけを友達する覚悟でボッチになってツッパり続ける必要があると思う
それはとても険しいけど、そこまで熱中できるならそれはとても立派なことだし、頑張ってほしいと思う
とは言え、この投稿…どうも行間から良くない欲望の匂いがするんだよね
珍しく侮蔑を込めて投げつけている「イキリ」って言葉に集約されてるんだけどさ
違うよね?
中学生に不相応な高額ブランド品が手に入って見せびらかしたいんだよね?
友達にも本当は一目置いて貰いたかったんだよね? 「羨望の目」で見てほしかったんだよね?
そこは認めないといけないと思うよ
そういう感情を見透かされてるから、「友達」は君を容赦なくイジってるんだと思う
俺だってそんなスノッブ野郎が物欲しげなドヤ顔して近寄って来たらいい気分はしないよ
こういう部分で自分に嘘を付くと、絶対に手に入らない物を追いかけ続けてマジで苦しむからな
まずは自分の欲望を一度整理して、「出来ること」と「出来ないこと」を切り分けるべきだと思うわ
とりあえず、今の友達に「自転車で」一目置いてもらうのは「出来ないこと」リストに入れていいと思う
・「自転車が好きでずっと乗ってたい」なのか
をハッキリさせるところから始めるべきだと思う
前者なら元サイトの回答者の言う通り、孤立覚悟で自転車を極める方向で頑張ればいいと思う
先輩といってもひと月だけ早く入社してた、実際はほぼ同期みたいな先輩。
一年間同じ店舗で勤めて、お互い別の店舗に異動することになった
電話一本で異動のお達しが来た。しかも二週間前に。自分は新卒なのでこの会社しか知らないけど世の中そんなもん?
自分は異動先の上司に参ってすぐさま心療内科→人事に相談して再度異動
それはどうでもいいんだけど
先輩は気さくで人柄もよくて、仕事に対して期待もされてたからだと思うけどちょっと落ち目だった店舗の責任者になった
本当なんにもできない自分と比べてすごいよくできた先輩だった、完全に自分の主観だが
エリアごとの会議の後、帰り道でも結構話してたし仕事のできない自分にも優しくていい人だった
だから一年で一番この業界にとって大事な日に無断欠勤してそこから急に当日付けで辞めるとか思ってなかったんだよな
しかも退職代行サービス使って。ああいう会社って本当に退職代行してくれるんだなって驚いた
後から聞いたらアルバイトとうまく折り合いついてなかったとか 責任者だと負担も大きくなるんだろうとか
だから多分しんどかったんだろうなとは思っていて、辞めるって選択肢も道理だとは思ってるんだが
にしても現代の会社あるあるで社員カツカツな中引き継ぎも何もなしで辞めるのかって…
穴埋めで悲鳴上げるのは現場の人間で、上に恨みはあったのかもしれないけど色々お世話になってる現場の人間に色々ふっかけてまで辞めたかったのかとか色々思うところはあって
ちょっと無責任じゃないかって、時期とか辞め方とか。引き継ぎは社員にもそうだけど顧客が凄く不利益被ってると思うし
引き継ぎがなくても違法ではないんだろうしそもそも違法でもうちの会社じゃ責める権利なんてなさそうだけど、穴埋めで色々動いてる身としてはつらくなったりもするかも
ただ、先輩自身の人生も大事なのもわかっているし限りなく黒に近い泥船チックな会社に見切りをつけて離れるのは正しいことだとも思ってる
自分にも辞めたい気持ちは漠然とあるけど、顧客を人質に取られている感覚があるのでクビにはされても辞められる日なんて来なさそうだなという予感もあるので
ちょっとだけすっぱり断ち切れた先輩がうらやましくもあり でも恨めしくもある
とにかくもやもやして仕事にならないので吐き出したかったんだが結局何にもやもやしてるのかもよくわからないままだな
退職代行ってどんな感じなんだろうか どういう経緯で利用しようってなったんだろうか