はてなキーワード: ミステリーとは
図書館の魔女を読んだ。エピローグがとてつもなく長くてびっくりした。珍しい外交ファンタジー小説だったけどとても楽しく読み進められました。
でも正直なところ、一巻の中盤辺りまでは退屈な小説だなあって思ってた。文飾がちょっと過剰だし、展開も遅いし、外交ファンタジーをうたっているのに外交する素振りのない内容が続いたからなんだかなあって思ってた。
極めつけに、図書館の構造についての理屈が詭弁に見えてしまったのが痛烈だった。問答も長いし、その帰結にも納得できなかったから読む意欲が結構そがれてしまった。
けれども、それ以降に出てくるニザマの佞臣との邂逅を描いた場面、つまりは外交の一端に触れたあたりからエンジンが温まってきた気がする。
如才ない敵役が現れたことにより、それぞれがそれぞれのシナリオに則った役割を演じて体面を終えるんだけど、そのあとで腹芸の内実が一枚一枚明かされていく流れが面白かった。その後で一巻は冒険小説になるんだけれども。
魔女の図書館の面白さに関して、先述したような冒険小説のような側面があったり、ミステリー小説のような側面があったりすることも挙げられる。要するにいろんなエンターテイメントが含まれている小説だったわけです。
窮地から脱するアクションシーンがあれば、罠の待ち受ける敵陣へと進行していく場面がある。甘酸っぱいボーイミーツガールが描かれたかと思えば、緊迫した議会の内実が描かれたりもする。
そのどれもこれもが丹精込めて力いっぱい描かれているもんだから物語奥行きがすごいことになっていた。一方で弊害もあって、少々読みにくくなっていたし、展開の遅さにもつながっていたように思う。
二巻三巻と読んでいるうちに慣れたけど、それでもやっぱりくどいし重たい文章ではあると思う。ただ二巻の終わりがけは執拗な文章構成が却って切実さを演出していた気がする。
キャラクターに関しては、ラノベと見まごうばかりの配置だった。毒舌の天才少女にアルビノの長身お姉さん、褐色肌の闊達な女軍師にちょっとおっちょこちょいだけど母性に溢れる家政婦など、色物が揃いすぎている。
女性キャラだけじゃなくて、男性キャラクターもそうそうたる面子だった。
かわいい名前なのに有能な政治家であるヒヨコをはじめ、個性あふれる近衛兵の面々、おおらかな知の巨人たるニザマ皇帝等々、主要な人物はもちろんのこと脇を固める人物にも個性があり人格があって、みんな生き生きして見えた。
読書感としては、スワロウテイルシリーズが似通っていると思う。学術的なやり取りの緻密さや、それぞれの土地に与えられた細やかな設定が物語を土台からしっかり支えてくれていた。
スロースターターだけど、ギアがかみ合えばどんどん先へと読み進めたくなる小説だった。読み終わるのがちょっと寂しかったです。続きを文庫ではよ。
って事なんでしょ?だけど、例えば20年前のループものミステリで「七回死んだ男」って作品では、主人公がループする理由なんて「昔からそういう体質だった」で済ませちゃってる。それで充分成立するんだよ。
それにループ物の本家であるSFが既にその椅子に座ってる感もある。
ミステリ界だって長い歴史の中で色んな作品がいっぱい発表されてる。ループもの、瞬間移動もの、世界が見えない壁で隔離されてしまうもの、人格入れ替え等々、突飛な設定を放り込んでしかもパズラーとしても面白い作品だってたくさんある。
てか、俺が何に感心したかっていうと。「死に戻って事件を再体験する」という方法をとる限り、ネタなんかほぼ考えなくても、話がミステリ的になるってことなんだよな。
こういう言い分はミステリや小説家をバカにしてるよ。ファンタジーで本格ミステリをやろうっていう作家がこれからいたとして、そういう人達に対してもこの一言は侮辱的だよ。
リゼロ第二章がミステリっぽい雰囲気で面白かったっていうのはわかる。だからって「新機軸のミステリ!」なんて鼻息荒くするのは恥ずかしいからやめた方がいい。それは世の中にそういうミステリがなかったからじゃなくて、お前が単にそれを読んだ事がなかったってだけなんだよ。
私は女である。オタクが嫌いだ。だが何故嫌いなのかと言われると言語化できない。
バイト先でオタク(女)がいた。コナンの二次創作が好きでそれはエロだいう。
コナンのアニメは知ってるしファンになるのはわかるが、なぜエロの二次創作??
ゲームも気になる。主人公の女性は闘いだか冒険に行くのに大きな剣を振りかざして、
なのになんで乳首が出そうなブラと超絶ミニスカートなの?危ないじゃん。
そういう嗜好があるのは構わないし、仲間で楽しむのはいいと思う。
ただ、伊勢志摩の海女さんのとか、今回の地下鉄の女性のイラストとかは
けど、じゃあなんで地下鉄の女性のイラストが公共性に相応しくないかと問われても
好みの問題としか言えないのよね。オタクっぽい絵だからキモい、というのが正直なところ。
「いなくなった私へ」と「青の数学」を読んだ。どちらも軽快に読み進められたので満足でした。
まずは「いなくなった私へ」の感想。言葉は悪いけれど。凡庸な文章だなって思った。とても読みやすかったんだけど、はっと目を見張るような文章ではなかった。見方を変えればくどくどしさも嫌みなところもない中庸な文章だといえると思う。
登場人物の年齢や、現代が舞台の青春小説であることもあって、小説すばる新人賞に応募する作品に雰囲気が似てる気がした。高校生や大学生なんかにおすすめかもしれない。
この小説は生まれ変わりの物語なんだけど、読書中になんども異世界召喚ものの主人公について思いをはせてしまった。
ほとんど読んだことがないのにこういうことを書くのもあれだけど、異世界召喚物の作品って、体感したことがなかったり、知り合いが誰もいない世界に急に放り出されるのに、結構簡単に状況を受け入れちゃうのが多い気がする。
もちろん、帰れないことや変える方法に主題を置いた作品もあるんだろうけど、人生をやり直そうって思えるところや、やるしかないと腹をくくれるところがすごいなって読んでもないのに勝手に思ってしまった。
「いなくなった私へ」は、現実世界に生き返るんだけど、死んでしまった自分から生き返った自分が切り離されていて、誰からも同一人物と認識されない苦悩がじっくり描かれていたから、余計に異世界召喚物の主人公のことを思ってしまった。
内容でちょっと不思議に思ったのは、どうして樹まで転生してしまったのかってところ。梨乃の血を浴びたからなんだろうけど、梨乃の死体を検視した人も、場合によっては転生してしまうんじゃないのかな。
検死官は地に直接触れないから大丈夫なのかな。あるいは作中にあったように、理不尽な死に対してしか転生減少は発生しないのだろうか。ちょっと気になる。
悪人役以外どの登場人物もすがすがしい精神の持ち主だったので心安く読み進めることができた。三人の現状を考えるとビターな終わり方だけど、しんみりしながらもどこか爽快感もあるのが素敵。優しいミステリー小説になっていた思う。
次「青の数学」の感想。当たり前のように続き物だったのが悔しい。けど、数学を取り扱った小説はSF以外だと初めてだったので新鮮で面白かった。
この小説は文章がちょっと不親切だと思う。過去の回想への導入とか、誰目線の心象なのかとか、不明瞭でちょくちょく手が止まってしまった。
また登場人物がどういうわけかうすぼんやりと感じられて、地の文に名前が出てくるんだけど、誰だこいつってなることが多かった。特にキフユが誰のことを指しているのか、随分と進んでからじゃないと気がつかなかった。
ジャンクフードを食べるように読んでいるのも問題だとは思うんだけど、なんかわかりにくい文章だった。
また全体的に透明な文章になっていたと思う。タイトル通り。青く透き通ってるんだけど、情緒に訴えるところが弱い気がする。独特の読書感を与えてはくれるのだけれど。
内容としては、本当に続刊ありきの終わり方をしているので、中途半端だなあって思った。数学バトルの場面や、数学の先に見える風景など、見せ場はあるんだけど、しっかり着地してないのが残念。
ただ、高校までの数学に対する決められたルールの中でパズルを解くようなものだっていうのには強く首肯してしまった。感覚的にわかっていたことが言語化されると気持ちがいいのです。
よくない気がしたところばかり書いたけど、恋に挫折に挑戦にと、静謐な筆致ながらもこれからますます盛り上がりそうな展開なので、続刊に期待です。
今回はガンガンオンライン
今回は猫カフェ、かつ語り部が前回と違っているのか。
さすがに彩音だけで、話をどうこうするっていうのは厳しいだろうしね。
まあ、それはともかく「ボッチショイサーカス」というあまりにも強引過ぎるワードだよ。
しかも、これを見開きでやられたとき、目を白黒せざるを得なかった。
2話にしてこんなネタとは、私はひょっとしてトンデモない漫画を読んでいるじゃないかと不安になってきた。
タイトルの俗っぽさだけで抵抗感が出てしまうあたり、私もまだまだと思ってしまった。
或いは年なのかなあ、そんなつもりはないんだけれども。
内容自体は、「オフパコ」っていうワードが平然と出てきて、私が思わず「ゲエエ」って声が出そうになった点を除けば、キャラクターのリアクションや掛け合い自体には意外にも毒気がそこまでなくて、まあ楽しく読めそう感じではあるかな。
そこらへんのサイトはたまに徘徊するけれども、あんまり触れてはいないなあ。
いや、突如覚醒するだとかよりはマシだけれども、どちらにしろご都合主義感が出てしまうなあ。
まあ、もうコンセプトの時点から難ありな作品だから、このあたりに逐一文句言っても仕方ないかもしれないが。
どちらかというと、現時点ではスポーツとミステリーが反復しているような状態なので、こちらもそういうつもりで読んでいくかな。
最初に書いておくとこれは女性や女優ををdisりたいために書いた記事ではない。そう伝わるのは本意ではない。
この記事はどちらかというとキャラの役目やストーリーの話である。
ドラマの女性キャラが苦手な時がある。それは折角面白いのに恋愛っぽいパートの部分がその面白さを阻害している、と思う時だ。
たまたま先程家族が垂れ流していたドラマを見ていた。「リッチマン・プアウーマン」という少し前のドラマらしい。家族の話と話の展開から、IT会社の天才かつ偏屈な社長と社長の会社にたまたまインターン生として入れた女性がメインの話だと分かった。ドラマは平たく言うと社長を取り巻くビジネスっぽいストーリーと、女性が全く価値観の違う社長と段々打ち解けてったりライバルの女性が現れて一悶着するといった恋愛っぽいストーリーで構成されている。
途中から見たのだが面白く、つい今見てしまっている。だが面白いのはビジネスっぽいストーリーの部分だ。そこの進展に興味があるのに、途中で恋愛っぽいパートが挟まれると一気にテンションが下がる。
とはいえ女性キャラの全てが悪いわけではない。ビジネスっぽいパートで価値観の違う女性キャラが社長に新たな目線から助言し良い展開に進んだ時とかは面白かった。そうして心が通じ合っていくというのは良いと思う。女性キャラが悪いわけでも人の心が動くシーンが悪いわけでもない。
悪いのはそれと恋愛パートを両立してしまうことだ。恋愛だけならそういうドラマとしてみるのだが、両立されてしまうと…。これが社長とインターン生の女と男が逆転しても変わらない。
折角ビジネスパートが緊迫してハラハラしているのに、そこにライバル女性が現れて三角関係!となるとげんなりしてしまう。
しかしそのライバル女性がキャリアウーマンとして悔しがったりするシーンは悪くない。
後女性キャラの性格がビジネスパートの足を引っ張ってると思う。役者の演技の問題ではない。
簡単に言うと…なんだろう、良くも悪くも少女漫画に、月9によくいそうな女子っぽい。感情を表に出し易いというか…。
恋愛ドラマには合ってそうなのだがビジネスパートにいると少し感情的過ぎるというか。
ウィキを見るとには恋愛とビジネスストーリーを意図して両立して描いた様だが、個人的には恋愛パートはいらないんじゃないかなと思ってしまう。
恋愛ドラマは嫌いではないし、ドラマの女性キャラ全ての存在を否定するわけでもないが、悪目立ちしてしまうと折角面白いストーリーを邪魔しているなと感じる。
類似例だとガリレオである。アレは原作小説がミステリーで、小説も探偵役と助手役両方男性だったのに、ドラマだと女性が追加されてしまった。まあ思ったよりミステリーの話を邪魔してはいなかったようには思うが…(ちょっと昔見たっきりだから覚えてない
その辺うまいことしていると思ったのは重版出来とシンゴジだ。重版出来は女性主人公が恋愛するわけでもなく、でも空気になる訳でもない、「出版社のストーリー」をやってくれていたと思…う…(これもドラマを少ししか見てないから間違っているかもしれない…。ただ漫画は全巻読んだのだがこの様な印象を受けた。)シンゴジは美人な女性も出てきたがあれも終始ゴジラを主軸にしたストーリーをしてくれたし、最後も主人公と女性キャラは恋愛オチではなかった。
なんか例に出したものが悉くあやふやで例として成り立っているか微妙だが…兎に角ドラマに恋愛を無闇に押し込むのは面白さの邪魔になるのかもしれないと言いたかった。女性キャラではない、過度な恋愛が邪魔な場合もある。仄めかすくらいなら良いのだろう。ドラマを例に出したのは実写ドラマにそういうのが多く見られる印象があったからである。
あー…でも掟上今日子はミステリーと恋愛だったけどドラマ面白かったんだよなあ…
全てが全てそうとは言い切れない…しかしシンゴジなんかは恋愛人情を過度に演出することをやめてゴジラを倒すストーリーを押し出したからこそキャラの魅力があったし話も面白かった…うーん…演出の問題でもあるのだろうか…
http://anond.hatelabo.jp/20160904033715
選定基準は
・読みやすい
・有名で、他の本や映画に出てきがち
ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい。
早く来てくれオーバーロード。
③永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元)
「本邦初訳」作品。古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア。
エログロ。
『藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者の村上春樹と中国の関係についての研究も面白い。
誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。
訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。
読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。
⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)
『地獄の黙示録』の原作。個人的には「叡山の僧兵の大将」中野好夫の訳より好き。
―――
①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)フィッツジェラルド
村上春樹の訳が好き。
『英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作に定評のある行方昭夫の訳で。
野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。
『月下の一群』の堀口大學の訳で。
⑨カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ
小説家の多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。
⑩マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ
はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。
―――
「全てのセックスは性差別」とフェミニズムの一部が主張している、と俗に言われる。これは半分正しいが、半分間違いだ。
正確には、「マチズモが強く機能している社会においては」という条件下にのみ「全てのセックスは性差別になる」という主張である。
この条件さえ付ければ、「全てのセックスは性差別」という主張は決して間違いではない。
しかし、だからと言って「セックスを滅ぼせ」という主張は、大半の人にとって受け入れられないものだろう。
現にフェミニストの大多数はそのような主張に与していない。
そもそも、そんな主張は受け入れる必要すらないのだ。
仮にある作品が差別的だとしても、あくまで特定の社会状況下で差別的力学を発揮する、ということにすぎないのだ。
だから「性差別表現を含むフィクションを好むこと」と「性差別を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「性差別を含む表現」を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
別の例で言い換えてみよう。
「(ミステリー小説など)殺人表現を含むフィクションを好むこと」と「殺人を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「殺人表現」を好むからこそ、殺人表現が現実の殺人へと結びつかないために、現実での殺人を批判するとも言えるのではないか?
いずれもまったく同じ構図だろう。
それゆえ、性差別に抗議する人が「性差別を含む表現」を愛好しても何ら問題はないのだ。
言うまでもないことだが、上手く書かれたフェミニズム批評は、正当な批評である。
分析の仕方が卓抜で、深く作品を読みこんでいる批評であれば、それは正当に評価されるべきだろう。
しかしその批評の正しさを認めることは、決して批評された表現自体が悪であると認めることではない。
現に古典文学に対するフェミニズム批評は以前から行われており、たとえば『源氏物語』をフェミニズム的に読解する批評などはすでに存在している(興味がある人は探してみてほしい)。
しかし当たり前のことだが、これは決して『源氏物語』が劣悪で評価に値しない作品だということを意味しない。
批評理論は、「ジャンル批評」や「読者反応批評」や「精神分析批評」や「マルクス主義批評」や「文体論的批評」など、数多く存在する。
「フェミニズム的な批判を認める」=「批判された表現をなくさなければならない」
だからオタクは、別にフェミニズム的批判の正しさを認めても構わないのである。
(もちろん他の批評と同じく、低レベルなフェミニズム批評まで認める必要はない)。
そしてこれはフェミニズム側についても同じことが言える。
「性差別的である」ことを理由としてただちに「表現を取り下げよ」と主張するのは、基本的には不当な要求である。
(もっとも、厳密に言えば「表現を取り下げよ」と発話すること自体は自由である。しかしその発話内容が不当である以上、当然批判が殺到するであろう。
不当な主張をすることは自由だが、その主張に対する「評価」は本人が責任を負わなければならない)
あたかも「オタクとフェミニズムが対立している」かのような構図をでっち上げることこそが、議論の妨げとなるのである。
そういった点も踏まえて、後述するように「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張は退けなければならない。
●結論
辛辣な批評、伸びない人気、そういったことをすべて作者自身が引き受けることである(もちろん、低レベルで無意味な批評は無視すればよい)。
フェミニズム的な批判を、何か特殊な批判だと考えない方が良いだろう。基本的に、それは批評である。
フェミニズム批評もまた一つの評価軸であり、その軸上における評価もまた、作者自身が引き受けなければならない。
そして表現者の責任とは、「評価」を引き受けることがすべてだ。
(もちろん、プライバシー侵害など個別具体的な人権侵害等は例外だが)
酷評に耐えかねて、自ら作品を非公開にすることは、確かに一つの選択肢ではある。
仮に「ある作品が性差別的な効果を発揮する」としても、その効果を止める方法は「表現を取り下げること」だけではないだろう。
「その作品は性差別的な効果を発揮している」と論理的に指摘できれば、それだけで性差別的効果を止めるには充分である。
「この作品における○○○○な描写は、性差別的意味を持っている」と評すれば、充分に、現実世界で○○○○することが悪いと告発する効果を発揮できるから。
批判的言説を生産することによって、ある表現が発揮しうる性差別的効果を止めること。これは充分に可能である。
批判的言説では飽き足らず、表現自体の取り下げ等を要求することは、(性差別解消につながるかも疑問だが)性差別以外の領域において不合理を引き起こす
(この点については、また別の機会に述べようと思う)。
そして、(あえて厳しい言い方をするが)表現の取り下げを要求することは、批評の力を、言論の力を、見くびる所業でもある。
だけど忘れてはいけない。
フェミニズム的解釈が妥当性を持つのは、作品外の社会的文脈があるからだと。
そして、これも再度強調しておかなければならない。
「(現在の社会的状況において)性差別(と位置づけられるような)表現を好むこと」と「性差別を批判すること」は両立する。
どころか、前者を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
しかし、そのことだけを理由に表現の取り下げや禁止を要求することは不当である。
同様に、そのことだけを理由に「フェミニストが表現の取り下げや禁止を要求している」と早とちりすることもまた不当である。
●最後に補足を二点
もちろん私は、「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張には与しない。
たとえば大城房美が指摘するように、「日本の少女マンガは、女性が周縁化されてきた20世紀後半のアメリカのコミックスの状況を変える一因となった」という側面を見落としてはならない
(大城房美編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』青弓社 2015 p.25)。
日本においては、マンガによって女性が表現する場所が確保されてきたのである。
そして少女マンガは女性表現の源流であると同時に、いわゆる男性オタク向け表現の源流の一つでもある。
以上の指摘を受けて、なお「男性向けオタク表現については性差別である」と強弁する方がいれば、
たとえば佐倉智美先生によるこちらの記事などをご覧いただけると、その主張が極めて一面的で乱雑であることが理解いただけるかと思う。
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5(「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]」)
http://anond.hatelabo.jp/20160903194513
選定基準は
・他文庫で手に入りにくい
・ジャンル小説寄りだったり、わりとライトに愉しめる感じのやつ
順不同
脚本家・ミステリ作家として有名なデュレンマットの粋が収められた傑作選。
デュレンマット独特のケレン味の効いたツイストは、高度な本格ミステリに馴れた現代の読者にも新鮮な驚きをもたらす。
ちなみに「巫女の死」は『オイディプス王』をベースにしているが、本文庫で『オイディプス王』は出されていない。すなおに岩波で読んでおこう。
・ウォー『ご遺体』
第二次大戦前後の暮れゆくイギリス貴族やイギリス男性の生態を皮肉たっぷりに描くユーモア作家イーヴリン・ウォー、その傑作の一。
セレブが利用する葬儀社兼霊園で働くことになった青年をとりまく変なキャラたちが見どころ。
夏目漱石がイギリス留学時代に部屋に引きこもって読みふけったという文豪スティーブンソン。
日本で知名度の高い『ジキル博士とハイド氏』や『宝島』もこの文庫に入っているが、実は最高傑作と言われているのはこの『新アラビア夜話』。
ボヘミアの王子フロリゼルを主人公に、ミステリーのようなファンタジーのような摩訶不思議な短編が並ぶ。
・ブッツアーティ『神を見た犬』、ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』、ロダーリ『猫とともに去りぬ』
ここらでイタリアを代表する三人の作家の幻想短編集をつまんで、ラクしてライバルに差をつけよう。
ロダーリはあたたかみのある笑いを、ピランデッロはどこかとぼけたシニカルな味わいを、ブッツアーティは得体のしれない不安をあなたに提供してくれるはずだ。
ならば,フレンチ・ノワールの法王(本当にそう呼ばれている)パトリック・マンシェットだ。
ノンストップという形容すらなまぬるいほどの疾走感で綴られる犯罪劇は、頭で理解するではなく、心で感じるんだ。
エリート寄宿舎学校! 生徒内権力争い! 美少年! 同性愛! いじめ! 実存主義!
全部もってけ、あなたがたが欲しているものはすべてここにある。
・ロブ=グリエ『消しゴム』
とはいえ、基本的にどうでもいい情景描写が七割くらいを占めているのでそこを飛ばせば一気に読めるぞ!!
リオオリンピックは終わったが、文学の聖火はいつでもブラジルで燃え盛っておるぞ!!!!!
「創作物」の「影響」なんつーとても扱いの微妙な問題を、雑に扱おうとするから反発がでる。まず定義しろ。「影響」ってのはどういう意味だ?
ある作品を1000人が見て、1000人が同じように行動を変えたら、それはまあ確実に「ある影響を与えている」と言えるよな。
では増田は、「たった一人が行動を変えた」ケースでも、同じように「影響を与えている」と言うのか。その場合、999人は「影響を与えられなかった」のか?
たとえば「殺人」を描いた作品を見て、1人が殺人をした。999人は殺人しなかった。この場合、なぜ前者だけが「影響」なんだ? 後者は「影響」じゃないのか? それってものすごく恣意的な関連付けじゃないのか? 増田が取り上げてるのは、そういうレアケースじゃないか?
それから増田は「殺人を犯した人間が作品からヒントを得て」ということも、「影響」の中に入れてる。これってどういう意味で「影響」なんだ?
簡単な爆弾の生成方法を書いた本を読んで爆弾を製造してテロを起こした人間が「本から影響を受けた」とは言わないよな。もちろん、そういう本が一般に規制されることはないではない。だがそれは「影響を与えるから」ではなくて、一般に公開すべきでない情報を公開しているから規制されるんだよな。完全犯罪の方法を描いたミステリーからヒントを得る、というのもそれと同様で、たとえば警察の捜査内容などについて外部に出すべきでない情報を書いて参考になるような本なら規制されても仕方ないと思うが、それは「影響」とはふつう言わない。それとも増田は、別に誰を殺したいとも思っていない人がそういう本をたまたま読んでふっと人を殺したくなるだろうという話をしているのか? それって上の話と同じだが、何千分の一、何万分の一の話なんだ?
ある人が、一冊の本に大きな「影響を与えられた」と感じること、そういう読書体験はもちろんあるだろう。それは、「私」を主語としたごく「個人的な」体験として、「影響された」という言い方では語りうる。ごく私的な体験としてならな。だが、「ある本」を主語として(すなわち一般論として)、それが人に「影響を与える」という言い方をするなら、ぐっと慎重にならなくてはいけない。一般論としての「ある本の影響」は、みんなが言うようにその本への「規制」に直結する問題で、それを証明するためにはそれこそ1000人中の何人が有意に影響を受けたかとかをていねいに立証する責任が出てくることだ。ましてやあるジャンル全体について言うなら、なおさら。そういう手続きを無視した表現規制派は、ほんと世の中にあふれていて、だいたい増田と同じようにい安易に「影響」という言葉を使用する。だからみんな、こういう話の流れになるとヒートアップするんだ。
というわけで、増田が煽りでなく真面目に「影響」ということを論じたいのなら、もう少し丁寧に用語定義してから話をするべきだ。
ひとつひとつの情報は小出しになっていて、少しずつ状況は飲み込めてくるんだけど、三巻まで読み進めても描かれている社会全体のシステムや、「なぜ」「それら」が「そうなっている」のかがいまひとつ分からない。というかむしろ物語の基盤をなすそれらの謎がより大きくなっていくのがすごいところだし、面白い漫画なんだと思う。
どの巻も帯の煽りが不穏なのが気になる。三巻では天国の街の様子も描かれていて、それが一層この漫画の分からなさを加速させている。またかつて天国というか現実社会で巨大な地震や津波のような天変地異に見舞われた描写もあって、瓦礫を処理している場面や、それらと無関係に過ごしている現実社会の人々の暮らしぶりを対比させると、東北大震災以後の社会をテーマにしているのかなとも思うんだけど、それだけじゃランドの存在が説明できなくてもやもやする。
全体的に分かっていることと分からないことが明白に色分けされた漫画だから、ミステリー好きが読んで損はないと思う。
それって議論すると、結局SFとかミステリーとかと同じく、現実とは微妙にズレた”ジャンルもの”だよね青春って、という話になって、それを現実の自分たちに置き換えてしまうのは、人生観とか価値観が貧しい人たちに問題がありますよね、という結論になる気がするんだけど…。
青春の書き手は、青春ジャンルの歴史にそって書いているか、たまたま現実的でない特殊な体験をした人のどちらかではと思う。
青春映画や漫画に詳しくないから分からないけど、もしあなたが危惧するように、フィクションのいちジャンルが、さも現実の成功例のように思っている人たちが沢山いるのであれば、あれは虚構ですよ、と説いて然るべき状態だと思う。
○朝食:納豆豚汁定食(ご飯、豚汁、漬け物、納豆、玉子、味海苔)
○夕食:考え中
○調子
むきゅー!
を、さっさとすませて、逆転裁判6に熱中。
五話クリア。
紆余曲折、と文章にすると四文字なんだけど、本当に色々あった。
ゲームの中だけじゃなくて、外のことも含めて色々会った。
今にして思うと、あの「1」「2」「3」は本当に奇跡のような作品だったのだと思う。
ゲームが文章を表現できるようになってから、数多のようにあった「ミステリゲーム」を謎を解く快感を維持しながら、誰でも遊べる難易度に落とし込んだこと、
そのどれもが、あの時代だったころこそなのかもしれない。
逆転裁判があったから生まれることが出来た、逆転裁判チルドレンは本当にたくさん居て、
確かに生き残れたシリーズは少ないかもだけど、今もまだコンシュマー向けミステリゲームというジャンルの火は消えていない。
流行り神はリブートをリブートするし、ダンガンロンパは完結するし、極限脱出も完結するし、
逆転裁判から見れば孫みたいな存在のネットハイなんて新作も生まれたし、
角川ゲームミステリーなんてトンでもないシリーズも生まれたばかりで、
もちろん、逆転裁判が始祖ではなくて、その後ろにはノベルウェアが、神宮寺が、かまいたちがあるんだけど、
それでもやっぱり、逆転裁判の「1」「2」「3」は、ゲームの歴史に残る凄い作品だったんだと思う。
極論、逆転裁判の前に逆転裁判があって、今の逆転裁判はその子供にすぎないのだったら、きっと「4」はそこまでよくない作品じゃなかったんだと思う。
「4」が残した傷跡は本当に大きくて、
DSというADVバブルみたいな環境で、ナンバリングの新規タイトルが4しか出せなかったのは、まさにその証拠なんだと思う。
(蘇るがあるとはいえね)
でも、やっぱりこれも、だからこそなんだけど、
あの「4」があったから、
レイ逆があって、
「5」があって、
大逆転があって、
今回の「6」にたどり着けたんだと思う。
確かに、他にもっと上手いやり方があったのかもしれない。
極論「4」を完全に無かった事にして、
ナルホド主人公で「3」の続きをやった方が、よかったのかもしれない。
けれど、やりきったんだよね。
言葉を選ばずに言うけど「4」という「回り道」があったからこそ、
今回の「6」にたどり着けたんだよ。
それは遠回りで、事実、売り上げという視点で見るとファンは離れているのかもしれないけど。
こうしてカプコンは「6」を作ってくれたんだよ。
もう、本当に、よかったなあって。
ゴドーから千尋さん、千尋さんからナルホド君へと渡ってきたバトンが、ようやくオドロキ君にも渡ったんだな、って。
しかも、それだけじゃなくて「6」からのドゥルクたち革命派のそれもあって。
やっと、本当にやっと、オドロキ君の物語が始まって、終われたんだなって。
もうさ、2匹の龍を受け継ぐ男、ってフレーズの時点で「6」は勝ちなんだよ。
それで、オドロキ君がそれに相応しい弁護士になれたんだから、文句無しに決まってるよ。
本当、あの「4」からの数年は無駄に見えたかもしれないけど、こうしてオドロキ君の物語が完結した今となっては、もうそんなのどうでもいいよ。
ただ、非常に気になるのが「次」だよね。
「大逆転」は完全に未完なんだから「大逆転2」もあるだろうし、
信さんの「弁護士はピンチのときほどふてぶてしく笑う」とゴトーさんのそれのミッシングリンクを埋める「検事3」もありえるし、
レイトン復活に会わせて、もう一回「レイ逆」やってもいいだろうし、
もちろん、ココネちゃんの成長も見届けたいし、
でも、やっぱり「7」がプレイしたい。
また遠回りすることになるかもだけど、
この「6」をやったら、そんなことは期待しない理由にはならない!