はてなキーワード: ネット上ではとは
旧ジャニーズ事務所が大炎上で、日本における最大のタブーだった「帝国の崩壊」を目の当たりにして少なからず興奮している。しかしジャニーズ事務所の利益に立つと、そもそも最初から記者会見などしなければよかったのではと思わざるを得ない。性加害問題に完全に沈黙し、もちろん記者会見も開かない。海外からの批判も全て無視で対応しない。
もちろんネット上では厳しく批判され続けるし、海外のメディアも追求し続けるので、長期的には逃げ切れない可能性もある。しかし性加害問題を認めて記者会見を開いてしまったことで、それまで知る人ぞ知る「噂レベル」だった性加害問題は一般大衆に急速かつ詳細に知れ渡ることになり、ジャニーズの崩壊は一気に加速し、逃げ切れるわずかばかりの可能性もつぶしてしまった。沈黙し続けて記者会見も開かなければ、企業CMや紅白なども、しばらくは安泰だったはずだ。
ネット上の意識高い人はジャニーズのコンテンツを見なくなるだろうけど、興味のない人には届かないし、ジャニオタもファンクラブを通じて強力に支え続ける。現在でもジャニオタのツイッターを見ても、驚くべきことに、その多くが性加害問題や事務所解体などまるで起こっていないかのように、それまでと何も変わらない推し活ライフを続けている。だから沈黙・無視し続けていれば、そうこうしているうちに、ひょっとしたらほとぼりが冷めるかもしれない。その可能性はそれなりにあっただろうし、それに賭けるべきだったと思う。
そもそも過去を振り返っても、記者会見は問題の収束よりも、炎上を加速化させるものにしかなっていない。記者会見を開くと、それまで圧力で忖度していたメディアに「報道してもいい」というお墨付きを与えてしまうことにもなる。巨人の坂本勇人は交際女性への堕胎強要問題で文春砲を浴びて大炎上しかけたが、本人および球団が徹底的に黙殺したことで、メディアが取り上げることができずに鎮火している。この成功例に学ぶべきだろう。
つまり相手が強いと見ると記者会見を開くまで能動的に取材や報道をしない、既存の日本のテレビ・新聞と、そこで仕事をしているジャーナリスト連中があまりにクズすぎて情けないということなのだが、それを前提とすればジャニーズ事務所は黙殺に徹するべきだったと思う。
ジャニーズ事務所会見の件があまりに示唆的な要素たっぷりなのでメモ。
ジャーナリストごっこhttps://anond.hatelabo.jp/20231003040510
の続き。
当事者主催の記者会見が真相究明の正念場であるというステレオタイプはなかなか強固なようだ。攻める敏腕記者。はぐらかす当事者。「ではこの件をどう説明するんですか!?」「うぐっそっそれは…」そんなことにはならない。
仮にかれらの疑問なりご意見を全て東山なり井ノ原にぶつけ、一切制限なしに吊るし上げたらどうなるか?格好の「禊」を提供するだけになる。三日三晩死ぬ気で踊ってドガチャガにできるんならやるだろう。そういうことのプロなんだから。
報道側にも勘違いしてその気になっている者があるから笑える。いや笑えない。
そして驚くべきことに、会見をアレンジする側すらもがそんなノリであったのだ。「NG記者」だってさ。カメラに抜かれてバレるとこまで含め「相棒」かなんかのワンシーンみたい。もしかしてわざとやってる?いくらなんでも拙劣すぎだろう。
記者会見とはそもそも何か。言ってしまえば「握り」の産物である。当事者は能動的にダメージコントロールができる。報道側は記事が作りやすい。一般視聴者としては事態の経過について綜合的に「ここまではこう」という大枠の認識を確定していける。
会見設定した側のルールになんか縛られたくない!というなら縛られなければいい。記者会見の場にはハトくらいしか来ず、虎狼のごとき記者たちは自由に取材攻勢をかけまくる、で結構ではないか。なぜそうしない?めんどくさいから。
ジャニーズ事務所の始末、被害者ケアのスキームには目鼻がつきだしたようだ。
しかし現存幹部らがジャニー喜多川の犯罪の「共犯」であったとされるのと同じくらいに「共犯」であったはずのマスコミの罪は全く手付かずのままである。「記者会見のやりかたがずるい」とか、そんなどうでもいいことに目眩まされてるんじゃないよ。バカなのか本当に。「バッカモーンそいつらがルパンだ」だよ。
東京新聞の「反省文」には笑った。「ごめんちゃい、でも記憶にないんです」だってよ。ごめんちゃいで終わりなわけないだろう。
空前の性犯罪がいかにして隠蔽されてきたか、専門チーム組んで年単位で調査報道やれよ。ド素人のミーハーおばさん以下の人材しかいない組織なのか?まともな調査報道などできない【新聞社のコスプレ】なのかよ?
異常な犯罪を可能にした異常な土壌は、言わずと知れたマスコミ利権構造である。
新聞は儲からない商売だが、TV局は電波利権を独占して、いまだ巨利を生む商売である。そして本邦では新聞社とTV局が一体である。
ジャニー喜多川はTVに食い込んだ。それでも喜多川の持つ直接的な「権力」の範囲は限定的なものである。彼の天才は限定的な権力にレバレッジをかけて「権威」に高めた点にある。歴史の男山根なんかも同じだな。当人は何にもないただの爺なのに。
権威とは強制力の及ばない人間をも平伏させる力だ。その源泉は「隣の人も平伏してるから、とりあえず、なんとなく」である。そういう自縄自縛の魔術あるいは詐術なのだ。
要するに。既得権の上にあぐらをかいた業界の中の人たちにとって、波風立てることは「少し不快」だったに過ぎない。不正に口を噤む不快よりも、少しばかり。
事態がめくれたのが「外圧」のおかげだったことは、とてもわかりやすい。つまり全く別の系に存する権威(欧米の人たちに白い目で見られちゃうよ)からの一刺しだったからだ。内側からは破れないが、外からならあっさり破れる風船だった。
ジャニーズ問題の糾明とは【利権の上にあぐらをかいた】【調査報道の能力がないマスコミ】を根底からぶっくらかえすということだ。やれんのか?もちろんやらないしやれないだろう。一問一答がどうだとか、記者が記者を注意するなんてありえないとか、バカみたいな些末な「問題」の糾弾を目くらましにして「隠蔽」は続くだろう。
ここで「大マスコミはもうダメだ、インディペンデントな真のジャーナリストよ立てよ」という声が上がるかというと上がらない。その希望は上杉隆がきっちり潰してくれたから。
さて、話はこれで終わらない。ジャニーが使いこなしたレバレッジとは何か。それは大衆の感情スクラムである。いまジャニーズ事務所に向いている、それ。
望月もいるアークタイムズ編集長いわく、「記者会見でアンフェアなルールを押し付けるジャニーズ事務所の体質が、ジャニー喜多川の性加害継続を可能にした」「事務所側の押し付けるルールを喜んでおしいただく他社マスコミも一味同心」であると。
つまり?ジャニーズが設定した会見にうかうかと乗っかっておいて現場で同業を押しのけて騒ぐことが唯一無辜の立場になれる裏技なわけだな。
違うだろ。正義を行う気があるなら、おのれらに刃を向けろよ。
井ノ原らによる己への扱いの悪さは、かれらが喜多川の犯罪を看過してきたことを連想させるという、ボヤキのような主張。
ここだ。連想は連想なんだよ。連想ゲームで何かを発見した気になるな。ジャーナリストがそれをやっちゃおしまいなんだがそればかりやってるな。
「大衆の感情スクラム」の接着材もこの【連想を発見と勘違い】である。陰謀論者たちを固く結びつけるものもそれだ。
故・安倍元首相のひそかな趣味が「ドーベルマンのブリーディング」であったという事実を知って、ある種の人々は「なぁーるほどね」というだろう。何がわかったというのか。ちなみにウソである。
比喩がムリな人というのがいる。「地殻とマントル、核の構造は卵の殻と白身と黄身のようになっているよ」「だが、卵は楕円形だ(ドヤァ」「そもそも地球は卵とは全く大きさが違う(ニヤリッ」みたいな会話?はネット上では日常茶飯である。というかどうせそうなるから対人でたとえ話はしない。抽象思考ができるかできないかのラインというのがあるのだ。
「連想させるからなんなんだよ!それで何かわかったつもりになるなよ!」というのが通じない相手には通じない。それは仕方ない。問題は本邦のジャーナリズムが「その程度」であることだ。
誰をいくらぶっ叩いてもこの問題は解決しない。我々は正しく絶望しなければならない。
■論旨に組み込めず追記。
「井ノ原はグルーミング上手を受け継いでいる」といったゴミみたいな主張が目に入るとまことに心冷えるものがある。
「悪を叩く側の邪悪さ」ってそれこそアニメ漫画でも使い古されたモチーフなのに全く克服されることはない。
■
「連想ゲームで何か言ったつもりになる」の早速の実演。
どう独りよがり≒間違ってるのか論証してみ。
■
こういう思考回路が自分とは完全に別次元の人って、会ってみたらどんな感じなんだろうといつも思う。
(で、かくも意味を結ばずただ下劣なだけの罵声に喜んで星つける、どっかで見たメンツね)
■何十かに一つは虚を衝かれるようなブコメあるもんだけどこの件に関してはほんと誰の発言を見ても特に新たに学ぶものはない。そもそも俺もわかりきったようなことしか言ってないが。
おかげで普段はさすがに無視するレベルのハナクソピンポンダッシュerの類ばかりが目にうるさい。
■
id:white_rose 冷笑してれば自分は安全と思ってそう
「こいつは〇〇と思ってそうだ」などというのは内心ひそかに思えばいいことであり、公然と発言する際に採るべき話法ではない。
言うまでもなく根拠を示さず一方的に誰にでもどんな濡れ衣でも着せられる万能論法だからだ。
「冷笑してれば自分は安全と思ってる」のは他でもない、反論されにくいはてブの仕組みに過剰適応した自分自身だろう
■大分と《恨みを買った》ようで、「増田記事を書く行為」そのものを非難するという奇妙な泣き言のようなコメントが未練がましく付き続けているが、少しやり取りしてみて一つ気づきがあった。
ヤフコメとかYoutubeコメ欄で、本人なりの正義感でよくわからないことを書いている、なかなか意思疎通は望めないであろう右や左の素朴な人士が居る。
一方ではてな界隈なぞに詰めているクソリプマンは、嫌がらせに熟達したすれっからしのネットトロールで、目を合わせるのは身のためでないし恥ずかしいことだという思い込みがあった。ミニミニ暇空みたいなものかと。
俺にそういうバイアスがかかっていることは否定しないが、食を重視する奴ら、グルメな奴らの傲慢さがどうにも鼻につく。
奴らは基本的に、繊細な味覚をしてない奴を馬鹿にして、憐れんで、下に見ているのだ。
俺は30過ぎでアメリカのガキが好きそうな食べ物が好きだ。ピザ、ハンバーガー、ポテト、ケチャップとマスタードたっぷりのホットドッグ。濃くてわかりやすい味で、質より量が大事だ。
反面、和食の御膳みたいので出てくるよくわからん小鉢みたいなのは食べても美味いのか不味いのかわからん。オエってならないから不味くはないんだろうが、量も少なすぎて食った気がしない。
回ってない寿司屋とくら寿司の違いもよくわからんし、高級とされる焼肉店と安楽亭の違いもわからん。どっちも美味い。
要は子供舌ってことだな。美味いのボーダーがかなり低いってことでもある。
それでも自分としては「マックのチーズバーガーで満足できるんだからお得だな」って思うんだが、ネット上では俺みたいな奴を馬鹿にしたり、憐れんだり、蔑んだり、病気を疑ったりされる。俺はこの風潮に異を唱えたい。
個人的な話だが、俺は機械式時計が好きだ。何百年も連綿と引き継がれてきた機構によって、電池を用いずに動く技術の粋、って感じが最高だ。シースルーバックを眺めていると勃起しそうになる。
副業で株式投資を10年くらいやっててそこそこ儲かってる(車も家も買おうと思えばキャッシュで買えるがリタイアは怖くてできないくらい)のだが、基本貧乏性ゆえに悩みに悩んでブレゲクラシック(5277)を買った。大切な大切な宝物だ。
だが俺は、高級時計を持ってない奴を馬鹿だと思ったことは一度もない。なんならむしろ高級時計を買うやつの方が、釣りバカ的な意味で馬鹿だと思ってる。
時間が見たけりゃスマホでいいんだ。それでも時計を着けたいなら、そこに貴賤はない。ポールスミスのファッションウォッチはオンオフ問わず着けられてクールだし、ダイソーの時計だって世界を変えたクォーツ技術が用いられているし、アップルウォッチもスマートウォッチを定着させた素晴らしいデバイスだ。ダニエルウェリントンは中身の割に少々割高だとは思うが、短期間でブランドが作り上げた世界観を身に付けていると思えばそれもまた良い。全部最高だ。
なあ、千円出せばそこそこ美味い飯が食える世の中で、グルメな奴らは、たかだか一食に何千円何万円も出す自分を疑ったりはしないのか?ましてやそうしない人間を下に見るのは、傲慢以外のなにものでもないのではないか?
世論って言うと大げさだけど、ネット上では「元宝塚の女性がAV女優しなきゃいけないなんて日本終わってる」みたいなコメントが多かった。
それ見て色々とびっくりした。特に元宝塚=清らかで夢と才能にあふれる少女とでも思ってるのか?という点と、AVに出る人が全員無理やり出させられてると思ってるのかいう点と。
自分は芸能関係で働いてたけど、芸能界がキラキラしたところだなんて一度も思った事がない。
芸能人全員性格終わってるとは思わない、むしろなんでこの人こんな性格いいんだと思った人もまあまあいるけど
基本的には何が何でも自分が目立ちたい、どんな手段を使っても表に出たいと思う人間の集まりに決まってるじゃん。キラキラでピュアなわけないじゃん。
それをまるでいたいけな少女が騙されてAV出てるみたいに言ってんの頭大丈夫かと。
(宝塚はそれはないと思うが)芸能人の卵がキャバクラやラウンジでバイトするなんて当たり前のことだし。
あの人がどういう事情でAV出たのかはしらんが、普通の仕事ができないわけないし
(まあできない人もいると思う、ただそれは宝塚というか頭が出来上がってない若いころから芸能界にぶち込まれたことの弊害であって社会うんぬんではない)
庶民的な暮らしじゃ満足できないならラウンジで働いたりパパ活やったり
ツテで男つかまえてのんびり専業主婦したり道はいくらでもあるわけで…
こう書くとフェミが追い込まれたんだ!芸能界や男の餌食になった!純粋に演劇の世界に憧れた人になんてことを!とか言ってきそうだけど
私はカードゲームは全くやらないが、アニメやゲーム等の分野のライトなオタクであり、オタク友達もある程度いる。
そんな私が先日買い物に行くとどうやらその商業施設内のカードショップが催事場的な場所でカードゲームの大会を行っていたらしく、多くのカードゲーマーが集まっていた。
カードゲーマーの知り合いはいないがネット上ではよく「カードゲーマーは臭い」というのが話題になっているのは知っている。
カードショップが風呂に入ってくるように掲示したり、カードゲーマーがファミレスに集まって周りから臭いに苦情みたいな話はネット上に生息していれば誰でも見聞きしたことがあるだろう。
なので近くを通った時には「なんとなくここだけ空気がよどんでる気がする」みたいには感じたが、まぁそういう先入観があるからかもしれないし、あれだけの人数(大半が男)が集まってればカードゲーマーでなくてもそういう物なのかもしれない。
むしろ、臭いよりもそこにいたカードゲーマーたちに対しては別の違和感を覚えた。
前述の通り私はアニメやゲーム系が好きなオタクはそれなりに見てきていると思っている。アニメ系のショップに行ったり、アニメのライブイベントに参加したり、もしくはコミケで友人のサークルの売り子をしたりしてきたので「アニオタ」の一般的なイメージは出来上がっている。
対してカードゲーマーも一種のオタクだと思うのだが、しかしその催事場に集まっていた人たちはどうも私の知るアニオタとは雰囲気が違うように感じたのだ。
何が違うのか。失礼を承知で一言で言ってしまえば・・・カードゲーマーは、大きくなった中学生にしか見えなかったのだ。それもいわゆる陰キャの中学生である。決してサッカー部や野球部ではない。
私は別にカードゲーム自体に対して偏見は無い。ボードゲーム類(いわゆるドイツゲーム)は好きでよく遊んでいるし、カードゲームもそういう面からは面白いんだろうなとは思っている。
だがそのカードゲームで遊んでいる人たちが、どうもなんか「大人」に見えなかったのだ。
まず服装に対してそう思った。
例えばよく分からないプリントがされたTシャツを着ている人がかなり多い。あんまり良い大人がそういうの着なくない?というファッションなのだ。
カードゲーマーが臭いのは風呂に入らないからではなく服を洗わないからだ、なんて言われたりするが、もしかして中学生の頃に買ってもらった服を延々と着続けているのではないだろうか。
次に髪型。
これもまたなんか子供っぽい髪型が多いように思う。なんというか密度が高くてもっさりしていて、床屋で長さだけ短くしてもらって何か月か放置してぼさぼさ、髪質もガサガサだったりべったりしているような感じである。
社会で働いていれば、オシャレに興味がない人だとしても定期的に美容室である程度整えるのが普通じゃないのかなと思うのだが、多分彼らはそんなことさえ興味がないのかもしれない。
さらに・・・これこそ差別的な発言かもしれないが正直思ったのは、カードゲーマーは顔つきが幼いのだ。いや、締まりがない顔と言ったらよいだろうか。
口が半開きで、はっきりとした表情が無い。無表情か、なんか薄笑いのような感じ。表情筋が鍛えられていないのか、笑顔にしてもとてもぎこちなく感じる。
子供の頃の大人しく目立たなかった男子たちってそんな顔をしていたなと思うが、大人になったら中々そういう人たちってあまり見ないように思っていた。ただ単に生息している場所が違っただけなのだろうか。
この辺りのことは「カードゲーマー オタク」なんかで画像検索してもらえれば私の言っていることが伝わるんじゃないかと思う。
よく分からないプリントT、野暮ったい髪型、締まりのない顔・・・そういう写真が沢山出てくる。
正直言ってしまえば、彼らには「社会性」が感じられない。普通に社会に出て普通に働いていればそうはならなくない?と思うのだ。時間が中学卒業時点で止まっているんじゃないだろうか。
どうしてカードゲーム界隈がそういう人たちばかりなのかはよく分からない。もともとそういう人たちがカードゲームにハマりやすいのか、カードゲームにハマった結果その界隈に染まっていってそうなったのか、もしくは「普通」の人たちはカードゲームに出会っても私と同じように違和感を覚えてその中に入って行こうと思わないということなのか。
なんにせよ「濃縮」された空間であることはひしひしと感じたし、ボードゲーム好きとしてカードゲームにも興味を持ってはいたもののその中に入って行こうとは思えなかった。私だって別にオシャレしているわけでもないただのアニオタではあるが、それでも社会人として働いている私がいるべき場所ではないと感じた。
あれは正直「風呂に入る」とか「洗った服を着る」とかの問題ではないと思う。それは対症療法としては必要かもしれないけど、カードゲーマーたちの中身からガラッと変わらないといつまでもネット上では「カードゲーマーは」と言われるだろうなと思う。
アニオタたちは昔に比べて大きく変わった。20年ほど前は秋葉原に行けば「いかにも」なオタクばかりであったが、今は秋葉原に行ってもそういう人たちを見ることは殆ど無い。アニメ系のショップも、イベントも、コミケでさえも、社会に出て違和感がない「普通」の人たちが多い。
これは紆余曲折合ってアニメという物が市民権を得てきたからだろうなと思うが、カードゲームの場合は狭い閉じた世界なのでこのままずっと変化がないのかもしれない。せっかく面白いゲームだったとしても、カードゲーマーがあれでは中々広まることはないだろうなというのが今回の感想である。別に彼らからしたら仲間内で楽しめればOKで広める必要もないのだろうが。
日本の報道機関の異常さが再三指摘されているのに、何の解明もされないまま焦点が名称問題にすり替えられようとしている
ジャニーズにおける子供たちの性的虐待に関しては、以前から世間によく知られていた。
ジャニー氏を英雄視する追悼番組にネット上では多くの人が憤っていた。性被害について報道するのは週刊誌のみ。テレビ局はひたすら沈黙し揉み消す方向に動いていた。
SMAPのジャニー氏への謝罪会見もネット上ではその異様な光景に疑問を抱く人が多かった。芸能事務所の社長への謝罪のための特番。メディアを私物化するような行為。そしてジャニーズを辞めたタレントに対する妨害。
多くの人が問題視していたが、いくらネットが炎上しても何も変わることはなかった。
風向きが変わったのはBBCによる報道で、ようやくメディアの癒着にメスを入れられる日がやってきたと感じている。
各テレビ局に、なぜ報道できなかったのかを調査して報告して欲しい。
怒っているジャニーズファンがいるみたいだけれども、別にジャニーズファンへの嫌がらせで叩いているわけではないんだ。
同様に、芸能事務所とメディアとの癒着だって許されないんだよ。
あのポスターはあのポスターでそんなやり方せんでもよくない…?と思うが
ネット上では親ジャニ的意見と反ジャニ的意見しか見えてこなくて
最大多数であろう「ジャニーズは知ってるけど好きでも嫌いでもない」層は完全にだんまり。
政治界隈でもそうだけど、極端な奴らが言い合ってるのを見ると触れたくなくなるんだよね。
関わってるものは見たくもないし、買いたくもない。
厄介ごとに巻き込まれたくない。
タレントに対する好き嫌いではなく、揉め事が連想されて楽しい気分ではなくなるんだよ。
要するにジャニオタが騒げば騒ぐほど、実はジャニーズにとって損になる。
何も抵抗するな、何も反論するな、という話ではなくやり方が問題あり。
敢えて書くならジャニオタに対しては「弁えろ」と思う。
○マホカンタ : 自分に向けられた「キモイ」等の罵声をそのまま相手に返す
○サイレス: 空気を読めないとんちんかんな発言で周囲を絶句させる
○マヌーサ: 自分自身に幻影を見せ、現実に対する命中率を下げる
○グラビデ: 重苦しい雰囲気や嫌われオーラで周囲の人間を疲れさせ、体力を削り取る
○ラスピル: 周囲の人間を精神的に疲れさせ、精神力を削り取る
○トラマナ: クリスマス等にカップルだらけの街を一人で歩いてもダメージを受けない
○スカラ: 周囲の「キモイ」等の罵声や嫌がらせに対する忍耐力アップ
○死のルーレット: 練炭自殺する仲間を周囲の人間の中から無作為に選ぶ
○レムオル: 周りから注目されません。空気のようにいないと認識されます。
○ルーラ: 仕事が嫌になるとバックレ、自宅にひきこもる 唯一の安息の地である家にまっすぐ帰る
○メガザル: 合コンに行くことで周りの男の評価を相対的に上げます
○バシルーラ: バイト先などで人がどんどんやめていきます。もしくは、自分を転勤で地方に飛ばします。
もうさっぱり増田はしてないなぁ。
多趣味でなんにでも好奇心持つから固定した話題だけに関わってたわけじゃない。
ところがさ、とにかく「お前、どんだけヒマなんだよ」って言いたくなるくらい
それでもやっぱ「また、お前か!」と叫んでしまう。
別人かもしれないんだけど、同じような廃人が登場するんだよ。
テレビではネット上ではとか言って増田での意見を紹介するじゃん。
あれ、間違ってる。
増田でぎゃあぎゃあ言ってる連中ってごく一部で
これこそが発達障害という病名を葵の御紋として使う人間がネットで叩かれている理由なんですね。
ボーダーラインの上で死ぬ気になって社会適応を果たした多くの「大人の発達障害になる所だった人達」からすれば、死ぬ気で努力することで発達をすることもせずに「病気だからしょうがねーや」と投げ出している奴らは本当にただただ甘えでしかないわけですよ。
既に発達障害ではないけど、発達障害だった頃の名残が残っている中で多くの元発達達が日々社会の中で甘え認定されながら必死にもがき苦しんでいる。
その横を「あっ、俺病気なんで」で抜き去っていこうとする病名認定済み発達への印象の悪さたるや。
努力によって発達を遂げた者たちはそれを実社会で口にするのは不味いことを知っていますが、ネットにおいてなら許されることも理解してしまっています。
ざっくり言えば「レタスをごま油と塩ダレで和えたサラダ」である。
ワカメや海苔を入れたり、ドレッシングが醤油ダレだったりすることも多い。
韓国料理だと思っている人もいるだろうが、実はこのサラダは韓国には存在しない。
そもそも韓国人に「チョレギ」と言っても通用しないらしいのである。
では「チョレギ」とは何なのか?
かつて多かったのは「チョレギ」=「ちぎるという意味の韓国語」という説明である。
しかし実際に調べてみると、韓国語で「ちぎる」は「뜯다(トゥッタ)」や「찢다(チッタ)」と言う。
この説は明確に誤りと言えそうである。
もう一つは「チョレギ」=「韓国語で浅漬けのキムチを意味するコッチョリの方言チェレギ」という説である。
おそらく以下のようなブログで書かれた内容が広まったのだろう。
https://www.kansyoku-life.com/2006/04/86.html
結論から言うと「コッチョリ」の慶尚道方言で、現地の発音では「チェレギ」と呼ばれます。
「コッチョリ」とは浅漬けにしたキムチのことで、発酵期間をおかず、漬けてすぐに食べるのが特徴です。
現在はWikipediaなどでも概ねこの説が踏襲されている。
しかし疑問は残る。
サンチュコッチョリは「サンチュを唐辛子ダレで和えたサラダ」とでも言うべきものであって「レタスをごま油と塩ダレで和えたサラダ」ではない。
ワカメなどはサンチュコッチョリでも使われることがあるらしいのでいいにしても、少なくとも唐辛子が使われていないとコッチョリとは言えないのではないか…?
さて、「チョレギ=ちぎる」説について、前掲の記事ではこう説明されている。
チョレギの意味が混乱しているのは、日本にやってきた当初の説明不足が原因だと思われます。
チョレギドレッシングなるものを発売し、大々的にチョレギの名前を日本に広めました。
2001年当時のエバラのウェブサイトを確認してみると、たしかにそう書いてある。
https://web.archive.org/web/20011214042210/http://www.ebarafoods.com/news/recipe/choregi_recipe.htm
チョレギとは?
しかも、当時のエバラの「焼肉屋さんのチョレギサラダ」シリーズには「あっさり塩味」「ピリ辛コチュジャン味」「焙煎ごま醤油味」があったらしい。
つまり当時のエバラは「チョレギサラダ」を「ちぎった生野菜のサラダ」というだけの意味で使っていて、味付けはさまざまなものを想定していたのだろう。
ただ、「焼肉屋さんのチョレギサラダ」は2005年頃に販売終了、その後はチョレギドレッシングを発売しても塩味だけにラインナップを絞っているようだ。
あまり売れなかった(あるいは塩味しか売れなかった)のかもしれないが、当時は印象的なCMを盛んに流していたので「チョレギサラダ」の知名度は向上したものと思われる。
では、エバラがドレッシングを発売する以前、日本で「チョレギ」はどのくらい広まっていたのだろうか?
「国立国会図書館内限定」なのでネット上では内容を確認できないが、以下のような記述らしい。
女性に人気があるのは、いうところの野菜サラダであるチョレギなる代物。特製の味つけは店の極秘というだけあって、その味はちょっとしたもの。
OCRの精度がかなり怪しいが、どうも「神宮前の『神宮』」という焼肉店を取り上げているのではないかと思われる。
こちらも、おそらく「青山の家の近くに開店した焼肉屋さんの『第一神宮』」という店について書かれている。
この神宮前の「神宮」と青山の「第一神宮」はおそらく同じ店を指していると思うのだが、
「第一神宮 青山店」はつい最近まで営業していたので食べログにも載っている。メニューを見ると、
https://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13001197/dtlmenu/
チョレギ 700円
ワカメチョレギ 800円
と、しっかり「チョレギ」が確認できる。「ワカメチョレギ」もある。
また写真を見るかぎりでは唐辛子は確認できず、それほど辛くはなさそうだ。
そうしてみると、韓国のサンチュコッチョリをもとに現在のようなチョレギサラダを作り出したのは「第一神宮」なのではないか、と推測したくなる。
(もちろん記録に残っていないだけで他店でさらに古くから存在した可能性はある)
あっさり味のサラダ「コッチョリ」
1980年代の時点ですでに「コッチョリ」も「韓国風サラダ」という意味になっていたようだ。
また「あっさり味」「ごま風味の辛みダレ」「しょうゆベースの甘辛いドレッシング」などはそれぞれ異なる味付けに思える。
こうしたバリエーションを眺めて、エバラが「塩味」「コチュジャン味」「醤油味」を発売したというのなら筋が通る。
韓国ではどちらかというと「コッチョリ」と呼ばれることが多いらしい。
特にサンチュのコッチョリは「唐辛子ダレの野菜サラダ」とも言える料理である。
日本では1970年代から「第一神宮」という焼肉店が「野菜サラダ」として「チョレギ」を提供していた。
それはコッチョリというよりも、おそらく現在のチョレギサラダに近いかたちにローカライズされたものだった。
1980年代以降、チョレギやコッチョリは焼肉店などを通じて広まり、さまざまな味の「韓国風サラダ」の総称となっていった。
2001年に、エバラが韓国風サラダドレッシングを商品化した。
「塩味」「コチュジャン味」「醤油味」があり、それがおそらく当時の焼肉店でよく見られた韓国風サラダのラインナップだったのだろう。
また、そのとき「チョレギサラダ」という呼称が採用されたことにより、「コッチョリ」よりも「チョレギ」という呼称が広まることになった。
といった感じでどうだろうか。
ネット上で議論する奴はわんさかいる。右翼・左翼、陰謀論者等々、思えば今のひろゆきが出てきた頃、なんとなく議論して論破した方が勝ちみたいな風潮が出てきた。こういう風潮は個人的に好きじゃないし、社会を悪くしているように思う。
まず、議論はお互いの身分がわかっている場合のみ成立するもので、お互いを知らないネット上の言論は便所の落書き、チラシの裏にすぎない。そして、落書き同士が殴り合って何になる?相手に自分の主張を飲ませたいのか、それとも自分の主張が正しいと認めたいのか?無理無理、どんなに正しい理屈を突き付けても左派は左派だし、右派は右派、持っているイデオロギーは変わらないし、たとえ科学的証拠を突き付けたって陰謀論者は一生陰謀論者のままだ。そのくだらないレスバトルのなかで「建設的」「生産的」とか言っているのを見るのが、その議論自体がただの落書きで非生産的。
便所の落書きを清書する人が居る。公的な身分を明かしてネット上で意見を表明していて自分に絡んできたくだらない奴に対して、リプや引用RTでいちいち意見する人だ。また、丁寧な人だといちいち間違った意見に対して、自分から出向いて反論する人もいる。やめてほしい。あなたが反論してる人はあなたのフォロワー視点もう明らかにやばい奴、有象無象の落書きだってわかるし、そんなことはしなくていい。あなたが反応することであなた自身がその基地外と同じ土俵に立ってる、いや正確には相手を土俵に上げたのだと気付いてほしい。そして、反論リプや引用RTは間違った意見の拡散に貢献しているといってもいい。
仮に議論ごっこがしたいならば、「話にならない」とか「頭が悪い」とか「読解力がない」とかつけちゃダメだ。高圧的・攻撃的な態度は、相手から冷静な読解力と判断力を奪うことになる。また、日本語の揚げ足取りもダメ。議論ごっこの焦点はそこじゃないし、相手がヒートアップする要因を増やしている。たとえ、どんなに正しくても、科学的な証拠を持っていても攻撃的に接すると、「お前の態度が気に食わない」で反論するようになるし、お互い上げた拳を下げる場所を見失う。
世の中には自分が持っている「正論」を言えばいいと思っているやつがいるが、ネット上では「正論」の表明の仕方が大事。間違った意見をみてもリプや引用RTではなく「違うと思うなー」と単にゆるりと反対の立場を取っていることを示せばいい。長文打っても、複数のソースを提示しても、相手はもちろんまともな奴らもどうせ読まないから、短く言えばいい。これのいい見本がイズ〇ィコで、悪い見本がJ〇F。
ネット上で議論する奴はわんさかいる。右翼・左翼、陰謀論者等々、思えば今のひろゆきが出てきた頃、なんとなく議論して論破した方が勝ちみたいな風潮が出てきた。こういう風潮は個人的に好きじゃないし、社会を悪くしているように思う。
まず、議論はお互いの身分がわかっている場合のみ成立するもので、お互いを知らないネット上の言論は便所の落書き、チラシの裏にすぎない。そして、落書き同士が殴り合って何になる?相手に自分の主張を飲ませたいのか、それとも自分の主張が正しいと認めたいのか?無理無理、どんなに正しい理屈を突き付けても左派は左派だし、右派は右派、持っているイデオロギーは変わらないし、たとえ科学的証拠を突き付けたって陰謀論者は一生陰謀論者のままだ。そのくだらないレスバトルのなかで「建設的」「生産的」とか言っているのを見るのが、その議論自体がただの落書きで非生産的。
便所の落書きを清書する人が居る。公的な身分を明かしてネット上で意見を表明していて自分に絡んできたくだらない奴に対して、リプや引用RTでいちいち意見する人だ。また、丁寧な人だといちいち間違った意見に対して、自分から出向いて反論する人もいる。やめてほしい。あなたが反論してる人はあなたのフォロワー視点もう明らかにやばい奴、有象無象の落書きだってわかるし、そんなことはしなくていい。あなたが反応することであなた自身がその基地外と同じ土俵に立ってる、いや正確には相手を土俵に上げたのだと気付いてほしい。そして、反論リプや引用RTは間違った意見の拡散に貢献しているといってもいい。
仮に議論ごっこがしたいならば、「話にならない」とか「頭が悪い」とか「読解力がない」とかつけちゃダメだ。高圧的・攻撃的な態度は、相手から冷静な読解力と判断力を奪うことになる。また、日本語の揚げ足取りもダメ。議論ごっこの焦点はそこじゃないし、相手がヒートアップする要因を増やしている。たとえ、どんなに正しくても、科学的な証拠を持っていても攻撃的に接すると、「お前の態度が気に食わない」で反論するようになるし、お互い上げた拳を下げる場所を見失う。
世の中には自分が持っている「正論」を言えばいいと思っているやつがいるが、ネット上では「正論」の表明の仕方が大事。間違った意見をみてもリプや引用RTではなく「違うと思うなー」と単にゆるりと反対の立場を取っていることを示せばいい。長文打っても、複数のソースを提示しても、相手はもちろんまともな奴らもどうせ読まないから、短く言えばいい。これのいい見本がイズ〇ィコで、悪い見本がJ〇F。
当時こんなブログを書いている人も居た。
(このブロガーが加藤を神と言っていたわけではない、念のために。)
6月8日(日)に起きた「秋葉原通り魔事件」については、不可解な要素が多いと書いた(08年6月11の項)が、ネット上ではすさまじい議論(?)が行なわれているということだ。
かの「2チャンネル」については、私も知っている。
まあ、かくも多様な、と思わせられるタイトルのスレッドの林立する大掲示板である。森羅万象自分の関心のあることは殆んどスレッドが立てられているのではないか、という感じである。
余りに豊富なスレッド過ぎて、煩わしい感じがして、最近は覗いてみることもなかった。
「週刊新潮」の記事を見て、久しぶりに「2チャンネル」にアクセスして「加藤智大」で検索してみた。
「週刊新潮080626号」に『ネットで「神」と崇められる「アキバ通り魔」』という記事が載っている。
そして、「週刊新潮」の指摘するように、「加藤礼賛」の字句が多いのも事実だ。
1 :ななし:2008/06/20(金) 16:15:21 ID:Yf7rHKcM0
「超越性」・・行動が、一般人を超越・逸脱しているから。一般人は思っていても実行しない。 良くも悪くも人間の仕業ではない。それができるのは神に違いない。
「啓示力」・・社会問題を広く世間に啓示(=神が人に教え示す)した。当事者に自分自身が抱いている社会に対する不満や怒り、絶望への気付きを与えた。さらに、自分たちにも反撃力があること、我慢や泣き寝入り以外の道があることを気づかせた。
「象徴性」・・今回の事件で様々なことについて加藤智大を象徴(シンボル)として議論がなされている。
加藤智大という象徴を媒介として、人と人あるいは自分自身の内部で対話が生まれている。 すでに人間・加藤智大の実像からかなり離れて象徴が語られていると思われる。
「救済性」・・社会的に不利益な扱いを受け尊厳を踏みにじられた人たちの声なき声、思いを行動で代弁した。 ざまー見ろといった一部の人たちが持つ、社会に対する報復欲求や攻撃欲求が充足された。情緒的な面での救済性の強さが、加藤智大が崇拝されている大きな理由でしょう。 一方で、事件の被害者など救われない人たちが新たに生じたのも事実である。
加藤智大は、神業ともいえる超越的行動で、 一部の虐げられた人びとを情緒面で救済するとともに気付きと勇気を与え、自らが非難や賞賛の対象すなわち象徴となることにより対話を促進し、結果的に社会に対して問題提起を行い、社会改善の機会を与えた。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/haken/1213946121/801-900
この投稿者も、ネット上の匿名性を利用して、彼の本心(?)を吐露してみせたのだろう。
しかし、リアルの社会では、この投稿者も同じ内容を発言できるとは思えない。
投稿者が、加藤擁護発言をしたとしても、加藤と同じことを実際に行なう可能性はほとんどゼロと考えるべきだろう。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_41f0.html
なんてこともないことだが、切ない気持ちになったので書く。
友人に、人の悪口をいうことが生業になっている人がいる。ブログ記事やメディアで、問題を起こした人物のことを批判してPVを稼ぐという役割だ。
はあちゅうやイケダハヤト、ひろゆきやホリエモン、キンコン西野、その他、ネットで炎上する者たちのことを、嘲笑い、バカにし、そのたびにネットでは拍手喝采を浴びていた。
ろくでもないやつらを気持ちよく叩いてくれるヒーローのような扱いを受けていた。
しかし、時がたつにつれ、仕事はなくなっていく。手法に飽きられたというのもあるし、だんだんと「人の悪口ばっかりいっているが、お前はどうなん?」という空気が醸成されてしまったからだ。また編集部やメディアも、若い世代に変わったことにより、もっとおもしろくて魅力のある若いライターに仕事を頼むようになった。
イケダハヤトは、今やNFT業界におけるトップランナーで、グローバルで戦っており、大手企業との取引からTVアニメ化まで、成功者としての道を着実に歩んでいる。数日に一回は「イケハヤさん」でトレンド入りするくらいの人気ぶりだ。ひろゆきは言わずもがな、トップYouTuberになり、マスメディアでも見ない日はないほどのブレイクした人物になった。本も馬鹿売れだ。ホリエモンも宇宙ビジネスだけでなく、肉屋でも高い評価を受け、パン屋はすでに100店舗を超えるヒットビジネスになっている。キンコン西野も映画をヒットさせブロードウェイなどの作品作りに邁進しつつビジネス書も絵本もそれぞれ合計100万部を超える作家になっている。はあちゅうはよくわからないけど元気だと思う。
叩かれる側が本当にろくでもないようなものたちだったら仕事は当然なくなっているだろう。しかしネットで垣間見える問題や炎上は彼らが挑戦し続けているからこそ発生するもで、活動全体の5%にも満たない。それ以外のところで成果を出し、信頼を得ているからこそ、今成功している。
他人のあらを探し、ネットで炎上するかのようにおもしろおかしく取り上げ、自分が正義側だと演出をし、正義側として叩きたいネット民を集めていた友人は、仕事とはいえ、自分が正しいと思っていた節がある。しかし、彼が掴みたくてしょうがなかった栄光はまったく手にはいらず、叩いてた有名人たちはどんどんと成功していく。
成功してしまってから叩いても誰も反応してくれなくなる。みんな勝ち馬にのりたいからだ。イケダハヤトの話を今書いても、負け犬の遠吠えになってしまう。
その友人の今の評判は、成功者になりそうな人たちの足をなんとか引っ張ろうとしてたが、すべて失敗した人、とネット上ではなっている。たまに記事がヒットすることもあるらしいが、どれもたいした影響力になっていない。昔はコメンテーターとしてテレビにでたり、Yahoo!ニュースの記事を書いたり絶好調だったときもあったのに、今やむしろコンプラ違反扱いになっているんだとか。