はてなキーワード: 考察とは
小山田圭吾さんが辞任した。
東京オリンピック2020はオリンピックの成功というプロジェクトに向けて国民が団結して協力するという状況ではない。高度経済成長期だった1964年の東京オリンピックとは異なる。
価値観が多様化したとも言えるし、日本社会の階層化が進んだとも言えると思う。
少なくともみんなでオリンピックを盛り上げようという気持ちはない。
それどころか、国民は少なからずオリンピックに反感を抱いている。
言わばガソリンが気化して充満している状態なので、ちょっとした火の気で爆発する空気感があり、佐野健二郎、森元などが炎上してしまった。
障害者への強烈な虐待を雑誌で自慢するという特異な嗜好を持つ人間がパラリンピックの楽曲を登用するという決断は言わばガソリンが気化して充満している隣の部屋でファイアーダンスを行うようなもので、最初から炎上必至だった。
野球だと9回に抑えで出てきたクローザーが20点取られたような感じ。
組織委員会にはまだ隠しダマがあると思う。
ワンハリのブラピとディカプリオが実は同一人物って考察もあるし
ジャンプらの漫画のやつも二人とも一人の人間として読むと面白いかなって思って読んでみたけど
微妙に話が繋がらなかった
引きこもっていた方のキャラクターは絵がうまくて大学に行きたがった
主人公はそれにつられて向上心が芽生えて、絵を練習して、結果プロになった
その途端、「絵なんて描いても意味ないのに」と主人公は絵を描くのを辞めてしまう
やあやあ、増田民が嫌いなネトウヨだよ。普段は5ちゃんねるに生息しているけど、韓国に対する輸出規制が地味に韓国に辛い理由をリベラルの多い増田で考察するよ。批判はウエルカム(^ν^)
知るか!おそらくは「日本から輸出したフッ化水素を韓国が北に流していて、それを見て見ぬ振りをしている日本政府に対してアメリカがキレたので、仕方なく『ホワイトリストから除外』というやんわりとした嫌がらせをした」というのが事実だと思っている。そもそも、日本国の半導体は壊滅状態なので、輸出規制したところで挽回は不可能なので無意味だし、材料を輸出している会社からすると迷惑極まりない。だから、我が国にとってはフッ化水素を輸出を規制しようが韓国の半導体を制圧にはならないし、我が国の作るフッ化水素がなくても北朝鮮の雑な核兵器を作る分には問題ないはず。じゃぁ、なんで我が国は韓国に嫌がらせするのか、ネトウヨ界隈でも「?」であった。
賢明なネトウヨ民は知っている、この輸出規制は「中国が日本にしたやつの顛末」を。だから「輸出規制をやっても、連中はキャッチアップしてくるじゃろ?」と。むしろ、チャンスをくれてやってるようなものだと危機感すらあった。
ところが、韓国の大激怒っぷりに「ネトウヨ大困惑」となる。いやぁ、まさかの韓国が「No Japan」という大合唱を起こすとは、思いもしなかった ... というのは嘘。正確には「韓国のリアクションはいつもブチギレ(火病)してくるので、慣れている」のだけどね、久々の「斜め上」をやってくれたので、本当に感動した!
思い起こせば、日米経済摩擦から始まったクリントン政権で日本の巨額の貿易摩擦が「アメリカを怒らせる半導体開発はスパコンまで」という雰囲気となって久しい。日本がアメリカを怒らせても仕方がない。なんと言っても、消費者はアメリカにいるのだ。アメリカの巨額の赤字の前には日本円は高まるばかりである。日本の巨額の財政黒字が、製造業を苦しめる。仕方がない、そういう時代なのだ。そもそも、アイフォーンやプレイステーションみたいなプロダクトを我が国で作ると最終価格がバカみたいに上がる。経済学的には「比較的優位」という知識があって、そもそもスマホなんて日本で作ったら費用対コストで韓国のような「ゴミのような紙幣の国」には勝てないのだ。そうだ、そういうときにはアメリカのようにコ・ス・パの良いものに投資しよう、ってクリントン政権のときに「覚悟を決めた」のじゃないか。だから、日本は半導体で負けることにして半導体の製造機器に徹する、という道を模索したのじゃなかったのか。
しかし、我が国の半導体製造装置は ASML というフィリップスのスピンオフの会社にボコボコにされ、半導体に興味を持つ学生はいなくなってしまった。悲しいかな、もはやシリコンアイランドは死語となってしまった。我等はそういう時代に生まれてしまったのだ。夢がないよな。そりゃ、国策で半導体を作ってくる国に勝てるわけ無いじゃん(中国の紫の会社の莫大な負債で破綻した様は正直、大丈夫か?オメー達という感想しかない)。韓国の受験のヤバさを見て、そりゃ発展するわな...とは思うよ。だがその一方で、韓国と台湾は半導体モノカルチャー経済化して、先進国の植民地のような状態に陥ってしまった。これは、いったい何が起きていたのだろうか?
いやぁ、韓国に生まれなくて本当に良かった。お前らが財閥でめちゃくちゃ苦しんでいるのは、ちゃんと理由がある。なんと言っても、韓国の財閥は日本の財界とぶっといチャネルを持っているからね。98年にお前らの紙幣がゴミ以下に成り果てからというもの、韓国ヲンは日本円というバックがあるから、国際的な支払いができてる状態に陥ったのだ。テメー等がメタ糞に日本をディスったのに、通貨スワップした理由はここだ。もちろん、日本円も米国ドルにペッグされているが、貴様らが使っているヲンはそれ以下だ。巨大財閥は日本国内のリソース(特許や材料、人材、慰謝料など諸々)を介して発展することが可能な一方、日本は韓国に投資してガチ儲け(商社や銀行など)できちゃう。年間数兆円をもたらしてくれる太い客を雑多に扱うことはできませんよ。マジで韓国は日本を儲けさせてくれている。これは、事実。
さてさて、米国・日本・韓国の三者間で起きていたことを説明するよ。日本は韓国のヲンのウラを持つと、日本円の価値が下がる一方で、材料と特許の支払いは日本円の根拠となっているので円の流動性の担保となってくれる。日本にとってはアメリカの貿易黒字は解消されつつ韓国を迂回して経常収支はウハウハ、アメリカは(日韓のどっちが使おうが関係ない)特許料でウハウハ、韓国の(日本円を使ってくれるし、アメリカにとってはロイヤル支払いをしてくれる)財閥機構もウハウハ。良かったね、そう一部は確実に潤ったのでした。一方で韓国では日本の材料や資本を依存しているせいで中小企業が育たない、日本は国内に対する投資効率が悪いので直接投資がされない、アメリカでは労働者がレイオフの嵐になり「トランプ大統領」が爆誕する基礎が生まれたのでした。
実は、アメリカは危機にひんしている。アメリカの同盟国にすら、半導体を作れるまともな会社がないのは建国史上初めてなのだ。日本の半導体メーカーが「旧日本軍」なみのクソ具合で潰れていったのは事実だが、アメリカの半導体メーカーも新興国の競争力に破れて自社工場を売却していった。今となっては IBM と AMD は自社の工場がないし、Intel は自社のファブが事故ったのでアメリカには競争力のある半導体を作れる会社が存在しない。アメリカは日本に技術がないせいで、テックの搾取先がない。もう虐めても、(車のように)半導体ノウハウを教えてくれる国が無いのだ。世界中で最先端の半導体を作るには、ASML にお願いするしかないが、ここが崩壊すると EU からテック系企業が消えるので EU が死守するのは確実だろう。台湾をいじめて親中派の政権がとる可能性や、韓国を突っついて朝鮮半島が暴発するのはアメリカにとっても悪夢でしかないので、不可能だと思われる。アメリカよ、どうすんべ?
悲しいけど、就職氷河期の方々は報われることはありません。なんでかというと、団塊世代の医療費と介護費用をサービスを保ったまま実施するのは、団塊ジュニア世代の未来を犠牲にする必要があったのです。具体的には、デフレは投票権のある人々にとってはメリットなんですよ。そんでもって、ご老人様方は「最近の若者は」なんておっしゃる。でも、日本人の若者に頑張ってもららわなくても、ご老人は全く問題ないんですね。だって、もう彼らのメシを支えているのは海外投資のリターンなので。そりゃ、むしろ、若者の殺生権を握って余生を過ごしたほうが QOL は増えるし、下手に経済成長してインフレが起きて購買力が落ちるのも嫌だから、何も救済されないでしょうし、投票で選ばれた議員が民主主義的に正しいことをした結果なので、諦めましょう。あと、韓国は日本と同じ経過をたどるので、韓国の若者はもっと辛いことになるでしょう。
上記の理由で、アメリカは日本をイジメる合理的な理由がなくなった。日本円の高さが理由でスーパー・コンピューターなんてものにしか投資できなかった平成の時代は終えたのだ。もう、日米なんちゃら協定なんかで縛られなくなったのだ。これは日本が貧乏になって良かったメリットだと思うよ。つまり、日本の悪い癖が復活する。なんのことかというと、バックボーンに大手の銀行がついた錚々たる会社が自社の利益のための半導体の会社を創設してくるのじゃろうなー、という予想をする。これの何が韓国に都合が悪いのかというと、君たちの投資のサポートをしてくれた日系の銀行・証券・保険といった連中からの貸し渋りが起こる。
ついに我が国は有史以来のデフレの果に「政治的には正しく」貧しくなりました。日本のデフレはもうすぐ終わりがきます。なぜなら、年金生活者の人たちが海外資産を売却する時期が来るからです。この結果、ここ数十年間のデフレは終わり、コストプッシュインフレが起きます。その結果、株価が上昇し、貧乏人は益々辛い思いをするでしょう。既存のステークホルダー(公務員や医師とか)は辛い思いをすることになるでしょう。しかしながら人々は現金の所持を忌避するようになり、世界的にみて技術者が安価という理由で日本に投資が起きて、日本経済は新生していくと私は確信しております。
韓国は日米の経済摩擦の迂回先として大変に活躍してくれましたが、アメリカは韓国をイジメるメリットがないので、そのうち相手にしてもらえなくなる可能性がある。それが日本としては一番困るし、韓国の財閥もヤバさを良く知っている。なんと言っても、韓国の財閥は「本来なら抵抗となる日韓の国境線を越えた連中」が始祖になっているのだから、日本にてフリーに情報や資材にアクセス出来ないと死活問題になるのを血が覚えてるのだ。ちょっとの差が、大きな差を生む時代に生きている。だから韓国は日本へのアクセスが弱くなると、競合国(台湾・香港・シンガポール)との比較的優位が消失するチョークポイントを日本に握られている。なんと言っても、中華系は韓国人にはない中華ネットワークがあるから国際競争力はコリアンは日本をバックにしないと連中に負けるからね。韓国は日本とのコミュニケーションが落ちると、GDP が強力に落ち込む経済状態にあって、だから危機感を持っているのだろう。そして韓国が詰むと、日本もそれなりに詰む。日本の上級国民が韓国シンパが多くて、金のないビンボー人がネトウヨ化するのは、こういう理由があったからなんだよなー、とこの度のアメリカのQアノンが共和党のシンパ化したの眺めて、思い出したのでした。あ~あ、貧乏って嫌ですね。
かつての「日韓のボーダーを無視してアクセスできた」のは、かつての韓国の西側諸国に留まらせるというアメリカの強い覚悟を、日本が中間層の没落という犠牲の上で成り立たせたのであって、もはや日本国にそのような余裕はありません。上記しましたが、アメリカの機嫌を損ねると、日本は韓国の味方ができません。日米同盟は何よりも重いのです。くわえて、アメリカ人も朝鮮半島で血を流して、防共した歴史を忘れつつあります。そのため、あんまり下手なことをすると、マジで韓国経済がパー(香港みたい)になっちゃうので、まじで注意してください。
先に断っておくと,今から私は極めて(藤本タツキ氏に対して)無神経なことを書くつもりであり,その点については先に謝罪しておく.ごめんなさい.じゃあなぜわざわざ書くのかといえば,既に以下のようなコメントがネットに散見される状況ならまあ書いてしまってもいいかと思ったから.
https://twitter.com/imaitetsuya/status/1416946323043979267?s=21
『ルックバック』、すごく面白くてすごい作品だったんだけど、あの事件をこうやってすばらしいエンタメに昇華することやその世界に共振して祈りや救いのような気持ちに包まれること、になんというかすごい恐ろしさのようなものも感じる気持ちもあってうまく考えがまとまらない。すごく面白くはあった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
masa_bob どんなに才能があったとしても2年前の実在の事件にDon't Look Back In Angerと言って公表する権利があるのかが気になったことはブコメしておく
world24 ”Don't look back in anger”は遺族しか言えない言葉だと思うけど。なんか事件が読者には「エモさを強調するもの」として消費されちゃってるな。
端的に言ってしまえば,藤本タツキ先生はその事件の「遺族」だったんではないの,という話である.それがどこまで文字通りの意味でそうだったのか私は知らないし特に知りたいとも思わないが,マンガの描かれ方からして私はそう読み取った.
この作品に倫理的な危うさを感じてしまう人が一定数出てきてしまうのは理解できる.作者情報ゼロで読んでいたら私もそう感じていたと思う.そのような目線で読むと,この作品はまるで読者に対して「事件からもう二年も経ったんだし,うじうじしてねーで前向こうぜ」と語りかけているようではないか.何様のつもりだ.
でも,このマンガのタイトルは『ドントルックバック』ではないのだ.作者はルックバックしているのである.作者自身の過去を.
このマンガは,作者自身のリアルな経歴に対する自己言及の量が度を越している.ちょっとした遊び心のあるセルフパロディといった次元で片付けられるものではない.
登場人物の名称「藤野」+「京本」=「藤本」.京本の大学は明らかに作者の出身大学だし,『シャークキック』は明らかに『チェンソーマン』である.
https://twitter.com/12_Popo_36/status/1416781566928244742
って考察があったけど
だから,私はこのマンガを藤本タツキ先生の自伝だと思って読んだ.おそらく先生は,あの事件で自分の中のおよそ半分くらいを奪われたのだと思う(藤本の「本」=京本).それがどこまで文字通りの意味なのか,藤本先生に「では君は当事者なのか」と踏み絵を迫るが如く問い詰めることは,それこそとんでもなく無神経な行為となるので私は望まない.先生がこのような形で自分の思いを弔うことを選択したのだから,ドヤドヤと首を突っ込む権利はこちらにはないと思う.
では仮に当事者だったら許されるのかとか,事件に対する関係性を濁したままで許されるのかとか,ああいったトラウマ的な事象を表現として扱う際の手つきとしていかがなのか,とかいった問題は,私は詳しくないのでここでは触れられない.こーいう問題系ってホロコーストの表象不可能性に関して『シンドラーのリスト』や『ショア』と絡めてめちゃくちゃ論じられてきた話でしょ.誰か詳しい人論じてくれ.
ともかく,このマンガは藤本タツキ先生の極めて私的な回顧録かつ決意表明であって,それ以上の何かは特に込められていないのではなかろうか.
https://tomoko.fanbox.cc/posts/2500517
つまり『ルックバック』という作品はそのまま藤本タツキ先生のメメント・モっている状況、葛藤を描いたもので……ラストシーンは「充分にメメント・モったのでここからはやっていきをやります」というお話なんだと思った。
↑この記事には概ね同意するが,特に読者が「べき」を感じる必要性はないと思う.何か規範的なものを論じているわけではなくて,藤本タツキ先生の「やっていきますうおお」という日記が半ばフィクショナルな漫画作品として結実したものに過ぎない.そのマンガ的技巧の卓越さに驚嘆しようが,あまりの圧倒的な才能の発露に心を折られようが自由では.
メタ的なことばっかり書いてきたが,以上を踏まえての私なりの『ルックバック』に対する感想はシンプルである.
『チェンソーマン』で一番好きなのはアキくんです.高校編楽しみに待ってます.
加害者の描かれ方について苦言を呈するコメントに対して,「そもそもこのマンガはそういうテーマを扱う話ではないのだからその指摘は的外れ」という指摘もちょっと的外れだと思っている.まだ二年しか経ってないんだぜ.今の段階で,そもそも遺族に加害者側へ多少の同情をするよう強要できるのか?
ルックバックがバズり散らかして、藤本タツキの名前の通りがよくなったことを勝手に喜ばしく思っているところである。
さて、この「ルックバック」であるが、タイトルに何重もの意味が込められていることは、バズり散らかし作品に真っ先にいっちょ噛みしたいパーソン、および俺が一番藤本タツキのことをわかってると思いたい後方腕組み彼氏面パーソンに任せるとしよう。
藤本タツキの前作であるチェンソーマン、このタイトルの連載であるが、チェンソーの悪魔でもなく、デンジくんでもなく、チェンソーマンがタイトルだ。今回の「チェンソーマンは何故『チェンソーマン』というタイトルだったか」という表題であるが、最初からこの表題でなんか書こうと思ったわけではなく、チェンソーマンの考察をしていたら、「チェンソーマン」というタイトル、なんも知らん人からみたらB級にもほどがあるこのタイトルに込められた想いに関しての妄想が膨らんでいた。そこにルックバックという弩級の、しかもタイトルが芸術的な読み切りが出てきてしまったので、書かずには居られなくなった。
以下、私の誤読発表会であること、誤読発表会に過ぎないことを甘んじて受け入れる。
なお、完結済みのチェンソーマンのネタバレは一切避けない。ネタバレを気にする人は絶対に読んではいけない。
まず、主人公のデンジはずっと「普通の生活」への憧れ、パンにジャム塗って食うことに憧れを抱いていたほど貧しく、その日その日を必死でサヴァイヴしてきた。第1話でその憧れを手に入れたデンジと同じような放心感と、第1話を読んだときの私の放心感はきっと近いものがあった。
その後、デンジは上がり続ける「普通」のレベルや、望むものが手に入った時の「こんなもんか……」という失望、望むものをぶち壊された、ぶち壊した絶望などを通し、考えなければならないことが増えすぎた結果、「なんにも考えずに生きてえ」「マキマさんの犬になりてえ」と思うほどの生活になることができた。なってしまった。そりゃそうだ、さんざん死ぬ思いして、せっかく手に入れた「普通の家族」も、あっというまに終わりを迎えてしまったのだ。それも自らの手によってだ。裏ではマキマさんが糸を引いていたが。
このあたりのテーマは、岸辺とクァンシの会話の中でも明示されている。幸せに生きるには無知で馬鹿のまま生きること。「自分」の考えなど持たないほうが幸せだということだ。
最終決戦、デンジはマキマさんに「あんたの理想の世界にクソ映画はあるのかい」と問う。「無い方が良い」と答えるマキマさんに、明確に敵対するデンジ。この成長っぷりだ。完全に「少年漫画の主人公」だ。
直前のコベニちゃんとの会話で、嫌なことがない人生なんてない、という「普通」に気づくのだ。
作中の悪魔には名前がない。○○の悪魔、という概念でしかない。マキマさんも、チェンソーマンと呼んではいるが、デンジくんでもなくチェンソーマンでもなく、「チェンソーの悪魔」にしか興味がないのだ。これは作中でほぼ明示的に示されている。マキマさんは徹底的に、チェンソーマンの中のチェンソーの悪魔という概念にしか興味がないのだ。デンジくんだからではなく、「チェンソーの悪魔の拠り所」としてしか興味がない。典型的な悪女である。えてして悪女は魅力的で、私もコロッと騙された質の人間はあるのだが、とんでもない奴だ。好き。
ここのズレなんだよ、ここのブレなんだよ。チェンソーマンというキャラクターのペルソナをかぶりたいデンジと、チェンソーの悪魔を支配したい(またはチェンソーの悪魔に支配されたい)マキマさん。他人が作った、他人が求めるキャラクターになりたいデンジと、他人を恐れて全てを支配したいマキマさん。クソ映画も映画なりと、ゴミみたいな感情も人生なりと受け入れたデンジと、ゴミみたいな感情になるなら無いほうが良いとしたマキマさん。
これは藤本タツキファン、ファイアパンチファンにとっては「また」なんだよ。また演技と、狂言と、ペルソナの話なんだ。デンジは目的=自らの欲望に関して嘘は付かないし、付けないのだ。自らの欲望に嘘を付くくらいならデンジという個、ゴミみたいな人間であるという個を捨て、民間のヒーローである「チェンソーマン」になる、なれる、なりたいヒーローなのだ。朝からステーキ食いたい、彼女がほしい、「悪いことだとわかってるけど」5人10人ほしい、たくさんセックスしたい、「だから」チェンソーマンになりたい。デンジくんは、チェンソーの悪魔でもなく、デンジでもなく、誰かの望んだチェンソーマンになりたいのだ。だからこの作品は「チェンソーマン」なのだ。
先に言っておくけど、以下の内容はただの愚痴でお気持ち表明ってだけなので、これを読んだ諸兄が今後の言動に何かしら気を使わなきゃいけないってことは一切ないからね。
ウマ娘黎明期に執筆された上記エントリでは、URAに優勝したもののレジェンドレースで勝てないサイレンススズカに対して
みてくれだけだ。
ハリボテエレジーで検索して動画を見てこい。おまえのそのサイレンススズカはそれだ。お前はハリボテエレジーを育てて「Aランクいきましたよ」と言ってると自覚しろ。
脆いんだ。
と言われてしまっている。この後に綴ってある育成論が、サービスイン当初に書かれたものとしては完成度が高かったのも相まって拡散され、それに伴ってハリボテエレジーも絶対的弱者として名が広まっていったと考えている。
当エントリのタイトルとは矛盾するが、弱い殿堂入りウマ娘を差しての「ハリボテエレジー」という表現を用いることにはある程度の合理性があると考えている。
ハリボテエレジーがどういった馬であるかは後で詳細に述べるが、知っている人の大半は「いきなり出遅れて、しかもカーブで転倒してバラバラになる馬の形をしたハリボテ」という印象を持っているだろう。
また、知らない人間からしても、その名前の響きの珍妙さから、何となく雑魚そうなイメージが湧くことが大半である。
つまり、「ハリボテエレジー=弱い」というイメージがユーザーの間で共有されやすい、と言うことだ。
もしもの話だが、弱い殿堂入りウマ娘に対するスラングが実馬を元にしたもの(例えば史実で現役時代に勝利経験のないハルウララや、大逃げからの逆噴射が印象に残りやすいツインターボ等)だったらどうなっていただろうか。
当たり前だがその馬の馬主や実馬のファン、あるいはそれが元のウマ娘のファンからいい顔をされないのは想像に難くない。二次創作の扱いが他と比べてセンシティブな「ウマ娘」というコンテンツなら尚更である。
ところが、ハリボテエレジーは史実に由来しない架空馬であり、その出自でも明確なやられ役、出オチ枠として扱われているため、弱者として扱ってもほぼ誰も気にしないのだ。デリケートなウマ娘と言うコンテンツを語るうえで、これは非常に大きい。
ハリボテエレジーにオタクの大好きな「文脈」を感じてしまったから。これに尽きる。
これを書いてるオタクは、ウマ娘をはじめとした今どきのオタクコンテンツのネームドキャラには大抵備わっている「他者の心を動かすストーリー」を、不幸にもハリボテエレジーに見出してしまったのだ。
だからこそ、ハリボテエレジーが負けることしか出来ないという認識に異を唱えるのであり、脚質すら異なるサイレンススズカの育成結果で引き合いに出されることを嫌うのである。
これを読んでいる諸兄は「ハリボテエレジーにそんな御大層なテーマがあるわけねえだろダボハゼ」とお思いのことだろうが、冷静に考察すると「ある」のである。
という訳で、以下ではハリボテエレジーについて詳細に語りながら、どこに物語性を感じているかを挙げていこうと思う。
ハリボテエレジーは、「スキージャンプ・ペア」を世に送り出した映像作家の間島理一郎氏とJRAのコラボによって生み出された「CINEMA KEIBA/JAPAN WORLD CUP」シリーズに登場する馬(?)である。
外見は、最初は段ボールで作られたハリボテだが、シリーズ2作目以降はボディにドラム缶を採用したものにアップデートされている。
曲者揃いのJWCの中でも一際異彩を放つ彼だが、彼が走り出せばどうなるかについては、当該作品に造詣のある諸兄であればその脳裏に焼き付いているだろう。
スタートで出遅れたかと思えば、コーナーに差し掛かった瞬間に盛大に転んで破壊される。これこそが彼の様式美なのだ。
当然こんな有様なので勝つことはほぼない。一応全馬に勝ちパターンが用意されているため、彼の勝ちパターンも存在するのだが、
というように、他の馬が起こしたアクシデントに便乗する形でしか勝つことが出来ない。
ちなみにバーニングビーフが草を食まずに駆け抜けたりピンクフェロモンが輪になって踊らなかったりするとハリボテエレジーの勝ちではなくなってしまう。
と言うより、バーニングビーフやピンクフェロモンが本来勝つはずのパターンを投げ捨てないと勝てない。ひどい有様だ。
しかし、これらの勝ちパターンを見ると分かるように、転んで分解し、出遅れが致命的なものになっていたとしても、彼(ら)は勝利を諦めずにゴールまで走り続けるのだ。これを踏まえて、3作目の勝ちパターンを見て欲しい。
3作目においても大半のパターンでは彼は(メカハリボテを巻き込みつつ)転倒してしまい、その後のレースに関与することはない。しかし、彼(とメカハリボテ)の勝ちパターンでは
これまでずっと転び続けてきたハリボテエレジーの姿を見ていると、曲がっただけで喜びもひとしおだろう。
2作目以降はハリボテエレジーがコーナーに差し掛かっただけで「曲がれえええええ!」と激励の言葉が聞こえたり、3作目で曲がった瞬間には歓喜のどよめきが上がるためなおさらだ。しかし我らがハリボテエレジーの快進撃はこれで終わらない。
無事コーナーを曲がり切り、ラスト400mに差し掛かったハリボテエレジー。彼の勝ちパターンでは、なんととんでもない末脚を発揮して他の馬を全てぶっちぎって勝ってしまうのだ。
「何故出場できるのか分からない」「今日も勝てそうにありません」なんて言われ続けた馬が、いや馬ですらない何かが、世界の強豪を相手に一歩も引けを取らないレースを展開するのだ。こんなに心躍る展開もないだろう。
また、この作品で実況を務める茂木淳一氏がハリボテエレジーの勝利の際に放った言葉が以下だ。
ハリボテエレジー、やっと目的地にたどり着きました!!
悲願の1着を獲ったことにこの言葉を当てはめるセンス、そして茂木氏の情感あふれる実況。初見時の私は思わず「天才すぎんだろ……」と天を仰いだものである。
長くなってしまったのでまとめると、ハリボテエレジーという馬は
「周りから見向きもされずとも、勝ち目のないレースに挑み続け、最後には自分だけの力で栄光を掴み取る」というサクセスストーリーを持つ馬なのだ。
しかも、ハリボテエレジーの中の人は人間であるため、キン肉マンにおけるジェロニモのように、「逆立ちしたって勝てないはずの上位存在に対して真っ向から立ち向かった」という文脈も生まれてくる。
これが、ハリボテエレジーは固有の文脈を持つ馬であり、ただの絶対的弱者ではないと私が思う根拠であり、同時に弱いだけの殿堂入りウマ娘を「ハリボテエレジー」と表現することを忌避する理由である。
これだけ力説したはいいが、、結局のところ伝わりやすくてすでに広まっている通称を改めろと言うのは土台無理な話であるし、私も無理にそうしろとは言わない。
ただ、自分の好きなキャラクターの名前が、本馬の活躍を顧みずに絶対的弱者の通称として広まってしまったというだけなのだ。哀しいオタクがここに一人いるだけなのだ。
オリンピックの開会式の楽曲を担当する小山田圭吾さんの過去のいじめ(という名の凄惨な虐待)が
世間に渦巻く東京オリンピックへの反感に引火して、大炎上を起こしている。
今、世間はオリンピックを歓迎してない。おもてなし出来る雰囲気ではない。
特に首都高1,000円増しなどの政策はオリンピックに関心ない都民にも負荷をかけるので、
このオリンピックは佐野研二郎氏のロゴパクリ疑惑、森喜朗氏の女性蔑視発言などしょっちゅう炎上事件を起こしている。
この先の展開は全部同じで、組織委員会が本人に謝罪か釈明をさせて、続行とするが、それでは不十分と再炎上、
次々と追撃されて、損害がどんどん拡大し、圧力が限界に到達して、辞任させざるを得なくなる。
オリンピック組織委員会は問題を過小評価してしまい、損切りができない。
小山田圭吾氏もこれから海外報道に飛び火して、最終的には圧力が限界に達して、切るしかなくなる。
一方でトヨタはオリンピックCMを放送しないという決断を下した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/29eb18c22249c6022a450750d97dd9dbdbb34035
既に東京オリンピックに莫大な広告宣伝費を投入しているにもかかわらずだ。
この判断の速さと正確さには舌を巻く。
そもそも東京オリンピック自体損切りしてしまえばよかったが、膨大な投資をしてしまったので、その判断ができなかった。
「国民の生命を守るためにオリンピックを中止する。この決断の信を問う。」と解散総選挙してれば菅義偉さんでも勝てたかもしれない。
おそらく秋の総選挙は都議選の二の舞だろう。強力な政府がいなくなり、不自由するのは国民の方だ。
小山田圭吾さんについてだが、30年以上前に彼と彼の仲間がいじめ(というのなの凄惨な虐待)を行っていたのは事実だろう。
彼のインタビュー記事からは知的障害者への強烈な軽蔑が感じられる。自分より劣った弱い人間に対して、当時としても傷害罪に当たるような虐待を行っていた。
そのことを成人後に雑誌で誇らしげに語っていたのは、確かに90年代の時代背景もあるだろう。
過去の事件を現代の価値観から断罪するのは不当という意見もわかるが、やはり当時としても犯罪行為だろう。
東京オリンピックの開会式の楽曲担当という彼のミュージシャン人生の最高到達点(何故彼なんだという議論は置いておく)で
30年以上前の知的障害者へのいじめで、大炎上し、彼を選考した広告代理店の担当者、オリンピック組織委員会、彼の協力者に
莫大な迷惑をかけながら、最高到達点から最低到達点に引きずり降ろされるだろう。
個人的に人生の貸し借りは最終的には解消されると思っている。言わば小山田圭吾さん10代に行った知的障害者への虐待という”巨大な借り”は
50代の人生の円熟期のまさにピークで返済を迫られているわけで、イソップ童話のような話がまさに展開している。
彼はとんでもなく苦悩しているだろうが、まさにそれは人生の貸し借りの返済を迫られているものであって、
今回の事件にどのように対応するかは小山田圭吾さんの人生の可否に通ずると思う。
(追記)
小山田圭吾氏の留任 組織委があらためて強調「貢献は大きなもの」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4e4e3d2c6ffe2798f060409602ebfc621c5f059?tokyo2020
これは悪手だな。「高い倫理観を持って創作活動するクリエーター」という表現がとても良くない。
倫理観がないから、こんなことをしてるんじゃないかとツッコまれるし、
結局、小山田圭吾さんを切るまで際限なくダメージが膨らむ。大会は数日後なのに。
何でこんなに運営が拙いんだろう。
ルックバックの感想にかこつけて、考察という名の売名行為しようってやつ多くない?
有名どころに小判鮫みたいにくっついておこぼれに与ろうとする奴が出るのは世の常だけど
今回は流石に露骨すぎんでしょ。
見てないんだよね、作者の事を。作者とその作品も。
作品をどう解釈するかは見てる人の自由だ。それでも見てる側は、作者に、作者の心をトレースすることを期待されている部分があるだろう。
作品を読み込み、伏線を見つけ、登場人物の裏にある心情を考察する。
でも腐女子や百合厨は、そういうの全部吹っ飛ばして、「この二人は恋愛関係にある」という前提で作品を読むわけだよ。
作者がどんなに伏線を張ろうが、言葉に裏の意味を載せようが、友情も全て
良く居るだろ、相手のした発言を全て自分の都合の良いように解釈する人。
わから~~ん。
というわけで考察してみました。
うーん速攻で論破して~~。
でも気持ちはわかるわ~~。
わざわざ障害者なんかのために高い金出してみんな仲良しみんな友達ってイベントやって、不満たらたらの障害者に対してガス抜きをちゃんと行えるときにやっておきたいってのは事実だわ。
虐げられるべくして虐げられる無能にこそ救いの手を、さすれば犯罪率の低下に繋がり社会的に利益がもたらされるであろう。
とはいえねえ、結局は「たまたまスポーツ適正があった障害者だけ」が持ち上げられるイベントだからねえ。
むしろそういうの駄目な障害者はかえって疎外感を感じることになりかねえんじゃねえかな。
結局はガス抜きと新しいガスの注入が半々になりそうだよねえ。
そもそも論として「障害者を見世物にして楽しみつつ、表向きは障害者とも仲良しこよしを演じる」っていう超絶悪趣味な上に、障害者を見下したイベントなのがどうしようもねえよな。
言ってる奴らは騙されるのがお上手ですよ。
いや~~人生が上手くて羨ましい。
俺もそれぐらい幸せに生きていた~~~い。
納得感はあるよね。
俺も結構ネットで色々やってきたし、そもそも今回みたいに松明持って(比喩表現だぞ)界隈にみんなで押し寄せる行為自体がリンチやセカンドレイプの一種じゃないのかって言われたら反論は難しいわ。
今はともかく20年後の価値観でどう裁かれるか分からんしなあ。
そのときに「価値観が変わりました。ゴメンナサイ」と言っても、今回価値観が変わることが予測できるようなことが起きてるのにネットリンチに加わってるなら結局は自覚的だよねって言われたらもう言い訳のしようもないね。
あとあと御免なさいして許してもらえるかよく分からん以上は、「今回僕たちがコイツを皆でボコボコにしているのは、『これがパラリンピック関連という異例のパターンだから』なんです」と宣言しておけば、あとあと何かあっても「え?アレはパラリンピックという特殊な状況下だったからですよ?」で無限にとは言えずともかなり逃げやすくはなるよね。
先々のことを考えてこっそり線引きをしておくってこういうのを言うのかな?
上手いよね。
ひとまず3つ仮説を立ててみるんだとしたら最後はこれかなあ。
自分が好きなアーティストが同じように後ろ暗い過去があって、でもそこにまで飛び火してほしくないから『パラリンピック』という囲いを作る。
いわゆるダメージコントロールってやつかね?
議論の場に防火扉のようなものをこっそり建設していくような感じ?
確かに『あーちすと』の類ってのはどうもイキり癖が強いからねえ。
なにより普通の社会よりもいい作品作ってりゃ許されるってルールが強いせいで過去の悪事とか強気に暴露するもんね。
「こんな人社会的に認めちゃ駄目ですよ!いっそ今からでも刑務所に入れ直しましょうよ!」みたいなこと言い出したら世の中のクリエイターの何%かは本当に捕まっちゃいそうなぐらい余罪あれこれ持ってそうだしねえ。
そこに好きなアーティストがいたり、今既に後輩イジメだとかコロナイキりとかで爆弾抱えてたら、ファンだったらそっと逃げ道を作っておきたくなるよね。
いやーなんのかんの言って皆お上手だね~~~。
ポジショントークとかあえて洗脳されていくとか都合よくゴールをズラすとか色々お上手。
はてなの人たちってやっぱり頭いいんだね~~~~
昔の非モテ界隈は割と自省的なところがあって、非モテを自認する人達同士が「非モテ」という状態をめぐって意見を交わし合い、一緒に考察をしたりしてたと思う。その結果として革命的非モテ同盟みたいなのも出てきた。あと「非モテ」をめぐって考察・洞察を練り上げることで、自分たちの思い込みとか強迫観念に気づいて肩の荷を下ろしていくという側面もあった。そういうところが読んでて面白かったし、考え方として生産的だし、「俺より未来に生きてるなあ」と思えることも結構あった。
それに比べると、今の弱者男性界隈では、弱者男性を自認する当事者達同士が意見を交わし合って、弱者男性とはそもそも何なのか、弱者性がどう生まれているのか、どう解決されるべきか、という問題を言語化していく傾向が薄い。というかほとんどない。弱者男性について弱者男性同士が語り合うことを互いに避けながら、それぞれが個別に非弱者男性(主には女性)が弱者男性を無視・軽視・蔑視することを批判してるので、語られる内容が同じ地点に留まってて、何度もトピックになる割にはひとつのムーブメントに成長していかない。
弱者男性Aと弱者男性Bの言っていることや困ってることに大きな差がある。それはそれで普通のことなんだけど、弱者男性Aの「弱者男性はこういうことで苦しんでる」という説明に対して、「じゃあこうしたらいいってこと?」という質問や提案が出ると、弱者男性Bが「そうじゃない、ふざけるな、お前は弱者男性をわかってない」と批判する、という感じになりがち。「弱者男性」という属性にアイデンティティを持つ当事者同士の対話や合意形成の不足が、彼らと非弱者男性との対話の困難、生産性のなさにもつながっている。
自分は弱者男性ではないと思っている論者(白饅頭とか青識亜論とかすももとか)が、弱者男性の存在や困難をダシにして大上段から女性を批判することもあるけど、彼らは男性弱者の弱者性を、割とあっさりと非モテ問題とか女性からの非承認の問題に回収してしまう。弱者男性を擁護しているようで、実は弱者男性当事者の少なからぬ部分を切り捨てているように俺には見えるんだけど、そのことを批判する弱者男性はあまりいない。
「弱者男性」という定義自体が広すぎる、何でも盛れる大きすぎる器になってるせいで、ひとつの「界隈」の形成が難しいということなのかもしれないけど、非モテ界隈みたいな感じで弱者男性界隈が立ち上がって、そこで弱者男性をめぐる議論が練り上げられて外に向かって発信されるようになったら、非弱者男性側の弱者男性理解も今よりずっと進むんじゃないかな〜と思う。