昔の非モテ界隈は割と自省的なところがあって、非モテを自認する人達同士が「非モテ」という状態をめぐって意見を交わし合い、一緒に考察をしたりしてたと思う。その結果として革命的非モテ同盟みたいなのも出てきた。あと「非モテ」をめぐって考察・洞察を練り上げることで、自分たちの思い込みとか強迫観念に気づいて肩の荷を下ろしていくという側面もあった。そういうところが読んでて面白かったし、考え方として生産的だし、「俺より未来に生きてるなあ」と思えることも結構あった。
それに比べると、今の弱者男性界隈では、弱者男性を自認する当事者達同士が意見を交わし合って、弱者男性とはそもそも何なのか、弱者性がどう生まれているのか、どう解決されるべきか、という問題を言語化していく傾向が薄い。というかほとんどない。弱者男性について弱者男性同士が語り合うことを互いに避けながら、それぞれが個別に非弱者男性(主には女性)が弱者男性を無視・軽視・蔑視することを批判してるので、語られる内容が同じ地点に留まってて、何度もトピックになる割にはひとつのムーブメントに成長していかない。
弱者男性Aと弱者男性Bの言っていることや困ってることに大きな差がある。それはそれで普通のことなんだけど、弱者男性Aの「弱者男性はこういうことで苦しんでる」という説明に対して、「じゃあこうしたらいいってこと?」という質問や提案が出ると、弱者男性Bが「そうじゃない、ふざけるな、お前は弱者男性をわかってない」と批判する、という感じになりがち。「弱者男性」という属性にアイデンティティを持つ当事者同士の対話や合意形成の不足が、彼らと非弱者男性との対話の困難、生産性のなさにもつながっている。
自分は弱者男性ではないと思っている論者(白饅頭とか青識亜論とかすももとか)が、弱者男性の存在や困難をダシにして大上段から女性を批判することもあるけど、彼らは男性弱者の弱者性を、割とあっさりと非モテ問題とか女性からの非承認の問題に回収してしまう。弱者男性を擁護しているようで、実は弱者男性当事者の少なからぬ部分を切り捨てているように俺には見えるんだけど、そのことを批判する弱者男性はあまりいない。
「弱者男性」という定義自体が広すぎる、何でも盛れる大きすぎる器になってるせいで、ひとつの「界隈」の形成が難しいということなのかもしれないけど、非モテ界隈みたいな感じで弱者男性界隈が立ち上がって、そこで弱者男性をめぐる議論が練り上げられて外に向かって発信されるようになったら、非弱者男性側の弱者男性理解も今よりずっと進むんじゃないかな〜と思う。
弱者男性なんて価値ないんだよ。弱い牝馬は繁殖用で馬産地に帰れるが弱い牡馬はコンビーフ
世界を競馬のアナロジーで理解するのやめーや
でも競馬の世界の方が理にかなってると思う 人間って効率化しろ、と言う一方で非効率なことばっかするから一貫性がない
競馬は「とにかく速ければいい」というものすごくシンプルなルールで動いてるから単純化できるんだぞ。
人間だって「とにかく稼げばいい」だけでしょ?
非モテ界隈みたいな感じで弱者男性界隈が立ち上がって、そこで弱者男性をめぐる議論が練り上げられて外に向かって発信されるようになったら、非弱者男性側の弱者男性理解も今より...
元からおらんかったやで