はてなキーワード: 観劇とは
アラサーって言っても25だし
働いても頼れる実家もあって
何者にもなれない とか うらやましいなー
「何者にもなれないって思ってたけど、やっぱ自分にはライブや観劇しかなかった♪呪いが解けた♪」
って言ってみたい人生だったなー
「いい話。」とか言われたかったなー
DMMVRシアターでのTHE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆に参加してきた。
✗ライブは立っての鑑賞だったが座ってる時に見た映像のが立体感豊富に見えた。会場的に座っての観劇を想定した設備なんだと思う。
○左サイドの席だったがキャラがこっちを向いて見える。どういう技術か知らないが中央じゃなくても目線が合う感じなのは凄い
✗逆サイドにアピールしてるのにこっちを向いて見えるのはご愛嬌か
✗響回ということだが、響ソロは2曲。あとMC。ほかはユニットで響の参加もそれほど多くないのは大いに物足りない。
✗響ソロ2曲以外は全てショートバージョン。モーションとの兼ね合いもあるのだろうがショートバージョンは盛り上がりに欠ける
✗裏でぬーさんがリアルタイムに会場をイジるのは面白いが、それならぬーさんに響コスしてもらってライブやったほうが圧倒的に席が埋まると思う・・
✗というのも13日夜公演、自分はF列だったがG列当たりから後ろは全部空席。半分以上空席・・・
✗技術的視点から見ると面白いのだがライブとしては盛り上がりに欠ける。アイドルの映像でよっぽどテンションを上がる人でなければ楽しめないのでは
✗空席具合がその答えになってると思う。リピートしたくならんでしょ。
✗6300円+500円ドリンク代 1時間弱の公演。内容の薄さから高コストに感じる。
おおざっぱにこんな感じで、褒められた感じではないと思うし、空席具合から同様に思ってる人も多いと思うんだが
アイマス特有か知らないがライブその他の批判は許されない忖度文化がとても気持ち悪い。
私の推しが出る舞台の千秋楽で、ウォークマンを鳴らした友人が許せなくてもやもやしている。
もともと私よりもずっと舞台に通っている子で、観劇マナーとかにもうるさい。
前にも自分が行った舞台でiPod鳴らした客のことをありえない、最悪、携帯電話ではなくても電子機器なんだからどうして電源を事前に切らないのかと怒っていた。
まさか私の一番好きな子が出る舞台の千秋楽でまったく同じことを隣でされるとは思わなかった。
冒頭5分くらい大音量ではないけど小さな音が鳴り続けていて、全然舞台に集中できなくて、
この音誰だろう、舞台にまで聞こえていたらどうしようと変な動悸までする状態だったのに、
隣で友人がごそごそ鞄あさった後音が止まったときは思わずそっちを見た。ありえない。ほんとにありえない。
今回の舞台が自分にとってどれくらい大切かって話もしていたし、知っているはずなのに、
一番重要な千秋楽の冒頭集中できなかったことが悔しくてたまらない。
終演後謝ってたけどなんでよりによって、って感想しか出てこなくてずっともやもやしてる。
悪意がなかったのはわかってるけど、自分もありえないし最悪じゃん、と思ってしまってそんな自分も嫌だ。
Twitetrでは繋がってるし、誰にもいえないから吐き出し。なんでそういうことするかな…
やあやあ!!!入りは昔の2.5、今はうっかりにわか観劇オタだよ!!!!
間口が広がって、人気作品が増えると質の高い装置や衣装がどんどん増える!!!いいことだね!!!そういうのも見るのも、楽しいよね!!!!
とまあ人が増えたおかげでもあり人が増えたおかげで気になることもたくさんあるんだ!!
(引用ここから)次に繋げる気あるの?[伏せ]クラスタもっと頑張ってよ………キャン待ち全員当たるとか意味わからない……(ここまで)
おおおおおおおーーーーーーい!!!おおおーーーーーーい!!!!!
当日キャンセル待ちは、売れてない席の残部ではないよ!!!!!!
ついでに何故か妙にいい席だったりすることもある。なんでかって???キャンセルの出た席だからだよ!!!!
「普段は売られてない関係者のための枠の」キャンセル席って言えばわかるかな????
見通しがよかったり、真ん中だったりするんだ。狙ってみると楽しいかもしれないよ!!!!!
ただ、車イスゾーンにパイプ椅子が設置されるような補助席になる場合もあるから、期待しすぎないでくれよな!!!!!!!
お尻の平穏を祈るなら当日引換やキャンセル待ちをする日はクッションを持とう!!!
もし「キャンセル待ちすら当たらないレア価値が付加される舞台を見る自分」が好きなのであれば届かないかもしれないけど、2.5が好き!って言いたいならばシリーズの他作品ファンをdisる前に少しはお勉強してほしいな。目の前に手のひらサイズの液晶もあるしね。
3、4年前からとあるひとりの俳優さんのファンをやっています。
で、以下が界隈に来てちょっと経った今、お芝居・観劇そのもののこと以外の「ファン活動」?について、なんとな~く掴めてきたことです。
・お金
かかる。
想定外だったのは、ちょっとでも大きめの作品に出るとあるDVD!!!!!!
モノがモノだし当たり前だけど、これ知らなかった。でっかかったです。
あとは複ステへの疑いのなさ!
・ファン同士
やりようによっては全然しんどくない。
顔がお互いに認識できる規模のオタクの現場でこれは得難いことな気がしています。
同担拒否、ガチ恋なる人々もいると思うんですけど、なにせオフでやらかす人とかほぼ見ませんし、私にはどなたがそうだとは見当つけられませんし。
無理して仲良くなるどころか、スタンスとか信念の領域もあるので、お互い分かり合う必要も全然ないんだよなーって思えるようになってからは特にメンタルが無敵です。
お互いいい距離とって行こうな!
・接触
すごい。なにこれ。なんのためにあるのか知らんがすごい。
接触系のイベントやりはじめは、「こんなガチ恋営業しないでもいいのに;;;くやしい(?);;;」「オタクを信じないでほしい(??);;;」とか思っていました。
いまは素直にうれしいです。
でもべつに慣れたりはしない
・認知
ある。
認知されたくてファンやってないけど、「いつも来てくれてほんとにありがとうございます!」とか言ってもらえたりするとだめだね。
「髪切りましたね!」(ほんとに前髪切ってた)は一生忘れられないと思う。
というか、顔とか覚えられるんだ……こんなことほんとにあるんだ……これからどうしよう……って思いました。
今も思ってます。
すごいよね~~~~~~~。
ありがたいな~~~~~~。
いっぱいあると思うけど思い付きはここまでです。
この先ずっと順風満帆とはいかねえだろうけどな~~~~。でもまあもう何があってもいいかな~~~。
がんばれ推し~~~~。
まともに生きてね~~~~。
若手俳優厨にありがちかなぁと。まぁほかの界隈でも。
舞台は仕事の兼ね合いもあり、基本は土日マチソワしか観劇できない。(主演なら全通するけどね)
接触イベントは全出席で限界までループ。プレをせっせと貢ぎ、毎回現場に行くたびに手紙を認め、
御祝花を出し、定期的に気が向いたらリプを送ってた。
そんな中で不意に思った
認知されるってなんだ?
自分から名前を名乗ったことがないし、リプ垢のアイコンを自分の顔にするなんてネットなんとか的にあり得ないのでしたことがないし、
推しくんが私のことをどう認識しているのか確かめる機会がなくここまで来てしまった。
正直認知されたい!何が何でも覚えてほしい!というほどの熱意はない。
あるのかもしれないけど、あったら名乗ってると思うし。
全然通ってないであろう他のファンに比べたら違う対応をしてくれているし、
2ショットの時の表情も他の人とは違うのは分かっている。(幸いにも良い意味で違う)
推しくんの前にいる「私」
は絶対に結びついてないと思う。
目の前にいる「私」の名前知らないもんね。
結びついていないことに悲しくなる時もある。
でも名前と顔を一致してもらう術を知らないし、一致してしまったらプレを使ってくれることも、
手紙を読んでくれることも、逆にイベントで対応してもらうこともなくなりそうで何もできないでいる。
某舞台を観劇 総合的には良かったな〜と思うからこそモヤった場面があったので覚書と吐き出し口として記載
ママと娘の邂逅のところ 娘の結婚(1回目)のところ どっちも容姿に言及してるんだけどそれがなんとも 気分のいいものじゃなかったので
開演前に「思いっきり笑ってください!!」って力入れて言われてしまったから余計モニョ……となってしまったんだろうなと思う 容姿いじりは正直あんまり笑えねーんだわ
キャストが全員男性のため女性→女装となる点 その女装がいわゆる”女性らしく”なかった点 そこを笑いに落とし込んだのは まあ よくないよなあというか いやだなあというか もしそういう切り口で傷つけられた人が今のシーンを見たらどう思うか 考えられなかったのかなあとか
作品もお粗末であり客席も最悪だった
私たちは頑張ってきた過程に関してお金を払っているわけではなく、頑張って作り上げてきた結果に対して対価を支払っている。
相当な酷い出来だったのに千秋楽の座長の頑張ってきたアピールに興醒めの一言。頑張ってきた過程が褒められるのは高校生の文化祭の出し物までだ。過程に対してファンが対価を支払うのは勝手だけどそれに他者を巻き込まないでほしい。
まあそもそも第三者のわたしには過程にすら頑張りは見受けられなかったのだが。本当にヘタクソだった。与えられた台詞を言うだけなら今の時代コンピュータにだって出来る。そこで人間が演じる意味とはなんなのか。本当に芝居をやっている人たちにあまりにも失礼な出来だった。
細かくは言及しないが作者が苦言を呈するくらいには演出も最悪で、演者の一部が最悪ならば客席も最悪だった。
上演中の私語
上演中の飲食
スマホが鳴る
スマホをいじる
前のめりでの観劇
帽子を取らない
ひいては、カーテンコール中の声援
最悪の一言だった
出演者の中には毎日のように観劇マナーを守るよう発信していた人もいたのだが、彼の言葉は最後まで座長のファンには届かなかったようだった。まあ、座長のファンたちは直接注意しても態度を改める気は無いようだったから仕方のないことかもしれない。
元某アイドルグループのメンバーの中には素晴らしいお芝居を見せてくれる人もいる。きちんとマナーを守り観劇するファンもいる。だが、お金をとってはいけないレベルの芝居をする者も、幼稚園児以下のマナーで観劇をするファンもいるし、それがあまりにも多すぎる。
わたしはうたプリが好きで、でもある時期しんどくなってしまって離れてしまった。それでもうたプリは続いていて、大好きな四ノ宮那月くんは今もみんなの前で歌って踊って、誰かの彼氏なんだろう。わたし1人離れても、たいした傷じゃないんだなと思っていた。コンテンツはそういうものだと思っていたのだ。たった1人の注ぎ込んだお金、時間は小さなもので、別の人が埋めてくれるような穴なんだろうなと。
逆に、応援していたものが終わることなんて、生きてきて何回も経験した。漫画だったり小説だったり、ドラマもそう。好きなスポーツ選手の引退、バンドの解散もあった。
全部わたしの手の届かないところで起こってて、どこか他人事のような気がして、悲しいと思いつつ何日か経てば忘れてしまって、また時間が経って「そうそう、応援してたんだよね」とか言える思い出になっていた。
長期出張で心が本当にボロボロになった時にアニメを見てハマって、アプリも始め、手を出したことのなかった若手俳優さんの応援も始めていた。ハマって約一年。この一年が長いのか短いのかわからないけど、とにかく働いて得たお金を注ぎ込んでいた。元気をたくさんもらって、頑張ろうと何回も立ち上がる勇気をもらっていた。バンドのライブにしか行ったことのなかったわたしが生まれて初めてペンライトを買って、それを振って応援した。ファンレターも初めてちゃんと書いた。ドリフェスに起用されてる、俳優さんを見るために舞台のチケットを初めて自分でとって、観劇に行った。初めてだらけだったけど、本当に生きている実感があった。出不精で人見知りのわたしが、こんなに人のいる場所に出て、たくさんお話ができる人もできて、夢みたいだなんて思ってた。握手とか行脚とか、今はいけないけど、勇気が出たら行きたいと思っていた、むしろ今年のささやかな目標にしていた。
でもドリフェスは終わるらしい。
全く心が動いていない。
状況が飲み込めていない。
知りたくない。
なにが足りなかったんだろうとしか思えない。
コンテンツは永続的なものじゃないことは知ってるはずだった。アプリのアクティブユーザーが少ないこととか、ツアーの席が埋まらなかったこととか、思い当たる節は沢山あって、でもわたしなりに沢山応援していたつもりだった。わたしの応援じゃ、足りなかったのだろうか。
うたプリから離れた時、誰かが埋めてくれたような小さな応援じゃ、ドリフェスというコンテンツは支えきれなかったんだろうか。
特番は観ていない。
いい知らせではないだろう。
今回私が観劇した舞台アンフェアな月について、眠れないので長くなるが感想をまとめたい。
アンフェアシリーズと言えば、やはり篠原涼子のイメージが強い人が少なくないのではないかと私は思う。
今回舞台化に際して主演の雪平夏見にキャスティングされたのは篠原涼子ではなく、元AKB篠田麻里子だった。
私はドラマ版が好きだったが篠田麻里子が演じることに特に嫌悪感がある訳でもなく、原作を舞台化するんだ!面白そうだなー!と思っていた。
そして、チケットを取った。
友人が私の観劇の5日ほど前に同舞台に行っていたが、感想を聞くと、まあ、面白かったよ。と微妙な反応だったのが気になってはいたが、推理サスペンス物なのでネタバレを気にしてるのかと思っていた。
舞台はまるで小説を読んでいるかのような演出で、ページを繰る表現や場面説明文書の合唱など魅入られるものがあった。(この合唱シーンは某自転車競技舞台を思い出させた)
演技について上から目線になってしまうのが申し訳ないが、役者の演技も緊迫した様子がストレートに伝わってくるような迫力のある表現だった。
そして、主演の篠田麻里子もTVで見ていたアイドル時代の可愛らしい姿とは打って変わって、クールで合理的なカッコいい雪平夏見を演じていた。そのギャップに驚いたし、好印象を持った。最初は。
長台詞も多かったが、スピードに任せたような喋り方で所々言葉が潰れ、台詞がきちんと聞き取れないことが幾度かあった。
小説を読んでいるかの様な演出だからこそ、滑舌の悪さを感じる度に思考が止まってしまうのでとてもストレスに感じた。
私のよく行く界隈でも、台詞が聞き取れない事や滑舌の悪い役者はいる。贔屓目に見てもこれは…と思うこともある。
(実際、引退して米国に留学した某戦隊俳優や某大手音楽・タレント事務所のストイック筋肉トレーニング俳優は見返してもやばい)
けれど彼らの多くは素人なので目を瞑ろうと思う。しかし彼女は人前で話す、歌うことに関して場数をこなしているはずである。
はたまた気を遣って演技指導も控えめにしたのか。
なぜこのクオリティで本番を迎えてしまったのか甚だ疑問である。
加えて、後半になるにつれて台詞の合唱が揃わなくなり、他の演者も噛むようになりと余計に残念な印象を受けた。
ちなみに私が観劇した日は公演9日目、翌日が大千穐楽だった。そして友人が観に来た時も噛み噛みだったらしい。
ここで一つ言っておくが、私はアイドルが嫌いなわけでは決してない。
アイドルだって演技が上手い人は素直に上手いと思う。元super girlsの前島亜美は凄かったし、乃木坂の三人姉妹は観たいと思った。
素人目に見ても役者の実力差は歴然で、篠田麻里子の滑舌の悪さは悪目立ちしてしまっていた。
だから私はきっと彼女はただの客寄せパンダで、制作側はこの舞台のクオリティにさほど関心がないのかもしれないと考え悲しくなった。
舞台はエンディングを迎え、3度目のカテコになった。ここで驚いたのがパラパラとスタオベが始まった事だ。
内心、この出来でスタオベ!?ましてや大千穐楽でもないこの回にスタオベ!?と思っていたので立たなかったが、周りに合わせるように立つ人も見られた。
私は、スタオベは本当に良かった、感動した、この想いを舞台上の彼らに届けたいと思うからこそのものだと思う。
チケット譲渡交換だるいわ。キャストの中で1人でもジャニーズがいると面倒。EXILE系も同じ。
ジャニーズだから、みたいに強調してくるの無理。同じキャストなんだから扱いは同じでしょ。なんでそっちのルール?に合わせて◯◯歳どこ住みって、ダルすぎそれ見てどうすんの?ジャニーズ1人いるだけでほんとダルい。
チケット完売していないのに定価以上で出回らせるのも馬鹿?その馬鹿みたいな価格設定で売れると思ってるの?完売しない限り定価割れするよ。
ブラリ入りするから買い取ってっていきなりDM飛ばさないでよ。ブラリ入りだとか知ったこっちゃない。金ないなら申し込まなくていいじゃん。自分の責任でしょ。いやそうじゃない人もいるけど。
EXILEの名前出しちゃったけどまあそれはそれで観劇マナーを理解しようともしなくて今後観劇するなって思う。ライブじゃないの、背中をしっかり背もたれにつけてよ。観えないからって前のめりで観るだなんて大迷惑。上演中も喋ってうるさい黙ってくれよ。
あーあなんで界隈が違うだけでこんなにも苦労するんだろうね。そっちから乗り込んできたっていうのに。
色んな意味で金がかかる舞台に推しが出た。ガチランキングでNo.1が決まるアレ。きっとわかる人はすぐ分かると思う。
幕が上がってすぐの公演を観て、その一週間後にまた観に行った。
その一週間後に見たランキング発表の時の推しの表情がどうしても脳裏に焼き付いて離れない。
悔しそうともなんとも言えないあの表情。なんといって表現していいかわからない。ただ、その表情がマイナスに触れてる感情であることはわかる。でも悔しいそうとはちょっと違うような雰囲気を持った表情。
私はその顔を忘れられない。
こんな表情をさせてしまっているのはファンの力が足りないんだ、そして私の覚悟も全然ないんだって思ってしまった。
一度でいいから上の景色を見てもらえればいい、そんなことを何気なく思っていた。だってそんな強いオタクいないでしょう?
でもそんな話で済むものじゃなかったって一週間して気がついてしまった。私はあんな表情をさせたくないのにな。
その表情をさせない方法はわかってるけど、そこまでできる覚悟が圧倒的に足りなくて苦しい。そこまでする必要がある?と思ってしまうのは覚悟がないから。言い訳しか出てこない。
あんステ。
終わりましたね。
今作は1度も観劇していません。
なぜって推しの俳優さんが演じていらっしゃるレオが出ないことがわかっていたから。
あんスタは原作もやっていて、キャラクターの推しもいるのですがステはそんな面白くないので推し俳優がいないなら見なくてもいいかなと思ってました。原作のストーリー的にもレオは出ませんしね。
ところがどっこい、何の前情報もなく、突然大楽のカテコ?(見てないのでわかりません)でレオが登場して1曲歌ってファンサしまくったとかそんな話がツイッターで流れてきまして。
なぜ?大楽だけ?他の公演入った人の気持ちは?
ただ登場するだけじゃダメだった?歌わないと、ファンサさせないとダメだった?
怒りというか、製作委員会への呆れというか、なんでこんな荒れるようなことするの?!っていう…腸煮えくり返りました。
これはサプライズではなくて見に行かなかった人への煽りかなんかですかね?推しのファンへの煽りですよね。
文ステ、2月5日までやってくれればよかったのに。
あんステ。
終わりましたね。
もう公演もやらなくていいです。
いろんな人のことバカにしすぎ。
タカラヅカの世界に入った私がしたのは、いわゆる「会」に入ることだった。劇団非公認のジェンヌさん個人のFC。噂の「会」というものがどういうものであるのか、潜入してみよう。そんな興味本位がそもそもの始まりだった。
しかし前提が茶の間なのでそんなに現場に出ることは出来ない。一公演にほんの数回の観劇が精いっぱいの私にとって、「会活動」とはどんなものであったのか。未知のものとの遭遇はとてもスリリングでエキサイティングだった。好きな人の前に立って、私はあなたのファンです、と合法的に言えるということにとっても興奮した。初めて勇気を出したのはある日の公演終わりの楽屋出待ちだった。急遽お稽古待ちスタイルに変更になって、私はバスの時間ぎりぎりまで待機することにした。会からのお知らせでスタンバイ場所は聞いてはいたものの、他の会との兼ね合いがさっぱりわからず、スタッフさんに電話で泣きついて待ち合わせてもらった。当然一番乗りだったのであれよあれよという間にお隣歩きというものをすることなった。今思い返してみてもあれは怖いもの知らずならではの蛮勇だった。今の私は機会に恵まれてもお隣を歩くことを固辞してほかの方に歩いてもらうことにしてる。あんなに恐ろしいこと、二度とする気になれない。あの時のお隣歩きは、今も大事な思い出になってる。遠くからきたことをアピールする私に私の好きな人はやさしく笑って、遠くからありがとうございますと言ってくれた。幸せだった。それだけでいい。それ以上なんていらない。そう思ってその思い出を大事に抱えて一生を生きて行こう。そう思った。
無事に初めてのお稽古待ちとお隣歩きを済ませた私は、少しずつヅカオタとしてステップアップしていくことになる。
公演の入り待ちに出待ち、会総見に、親睦会。現場に出られないながらも少しずつ経験を積んでいった。そしてチケットを買えないからこそ、現金を振り込んだ。タカラヅカには好きな人に直接現金を送ることができるのだ。応援するなら金をくれ。身も蓋もないシステムだけど、そこには真理しかない。現場に出られないならお金を送ればいいじゃない。ささやかな額ではあったけど、毎月決まった口座に振り込むということは「贔屓」という言葉を実感させてくれる行為だった。私の贔屓。そういうプレイを楽しんでいた。
そして大人会の入会案内が届いた。参加条件がどういうものなのかは分からなかったけれど、私に送られてくるくらいだから単に年齢のせいなのかなって思った。ただ、現場に出ることのできない私にとってお食事会というイベントはとても魅力的だけども参加が難しく、会費だけを払うことも考えたけど、それはあまりにも不相応、私の身の丈には合わないと、散々悩んで入会は見送った。大人会がどういうものであるのかを覗き見ることができるかもしれないというのはとても魅力的だったのだけれど・・・!そしてこのことが後々尾を引くことになる。
いろいろあったけど、ピークはディナーショーだった気がする。宝塚ホテルの公演はキャパが小さくて、チケット難が予めアナウンスされていた。限られたパイを分け合う時、タカラヅカではどれだけお金を出したかで分け前が決まる。そういう世界だ。知ってる。多くを出したものが欲しいものを得る権利を持つ。自明の理だ。単純なシステム。当時の私は持てるものをすべて出した。やるだけのことはした。なんとかパイの欠片は与えてもらえた。ホッとした。
そして迎える退団公演。最後だからといつもは現場に出られない私も私なりにチケットを申し込んだ。初日も。千秋楽も。大劇場で最後に大階段から降りてくる姿が見たい。そう思った。最後だからと今まで頑なに行かなかったお茶会にも申し込んだ。他の会の方から連れて行ってほしいという申し出を受けたりもした。嬉しかった。彼女のファンということで私のことを思い出してくれる人がいるという事実が嬉しかった。実は私も初めての参加なのだとは言えなかったけれど。千秋楽には白装束と言われる全身白コーデのファッションで入り出もして、そしてフェアウェルパーティに行くんだと意気込んでた。まず最初の躓きは、フェアウェルパーティの足切りだった。FC会員なら全員参加できるものだと呑気に思い込んでいた私は冷や水を浴びせられて言葉を失った。ショックだった。条件は、大人会に入ってること、もしくは去年一年間で入出の回数が規定数を満たしていること。お金を出している人もしくは現場に出ることの出来る人、それが条件。ああ、大人会・・・!現場に出られない私にとって大人会が救済措置だったのに、私はそれを自分の手で握りつぶしていた。ショックだった。フェアウェルがどういうものなのかは噂でしか知らないけど、ファンとして最後のお別れができる場なのだととらえていた。ご本人よりもファン同士で別れを悼むという意味合いもあるのかなと思っていたので、孤高の茶の間でおひとりさまの私にはハードルが高いなぁって若干尻込みはしていたんだけど、それでも最後だからとぎゅっと握り拳を固めていたところだったのに。
過分なことを望んでいたんだなぁってようやく自分の立場を自覚した。私はお金も時間も費やしていないただの茶の間なんだから。現場に出ないでも楽しむことができると嘯いてたタカラヅカの世界において、一番の底辺だということを思い知らされた。卒業の最後に立ち会えない、そういう人間なんだって。分かってたつもりが全然分かってなかったんだと。ファンというざっくりとした括りの中に私は含まれていないんだなって全力で拗ねた。応援してくださってありがとう、ファンの皆様の力が支えとなっています、そんな定型文を耳にするたび、自分に対する言葉じゃないんだって心が荒んだ。私は私の好きな人の世界に存在していなかった。ただ遠くから眺めるだけの人間だった。いや、それが茶の間の正しい姿だし、清く正しい茶の間であることが私の誇りだったはずだ。少しのぞき見をしてしまったばっかりに、自分が内側にいるかのような錯覚をしてしまった。大いなる錯誤。なんたる勘違い。私は大好きだけど、でも彼女の設定してる「ファン」の中に私はいない。まずはそこに立ち戻ることにしよう。
そして千秋楽のチケット難のお知らせ。ここでも、今までの貢献によってチケットを配分しますとアナウンスがあった。またか。もうたくさんだ。うんざりだった。
私の中で何かが失われた瞬間だった。
もう千秋楽なんて行かなくてもいいや。白服も買わなくていいや。そうだ、だって、私、ファンじゃないんだもん。
大の字になって真っ白な天井を見ながらやけくそなことを思ったらちょっとは落ち着けた。自分の出来ることをできる範囲でやるだけ。現場に出なくても楽しいことはたくさんある。それが茶の間の正しい姿。それなのに、ちょっと現場に出ると欲が出てしまった。私も何かになれるんじゃないかと思ってしまった。とんだ思い上がり。茶の間は大人しく茶の間に戻るだけです。楽しかった。最後にはままならないことに泣くことになったけど、それも含めていい想い出になるんだと思う。さよなら、大好きな人。ずっと大好きな人。どうか幸せに。
舞台を高尚なものだと捉えすぎていて生き辛そう…ご愁傷様ですお疲れさまでした。
この前の情熱大陸でやってたけど、この「舞台は高尚なもの」って言う先入観を捨てさせて、観劇へのハードルを低くすることが、刀ミュ仕掛け人松田誠さんのやりたかったことなんだろうから、完全にあなたがターゲットから外れたってことなんだよね。どんまい。
2.5次元作品が狂ってしまった、と嘆き憤る方の言葉を読んだ。
そのことについて思うところがある。
誤解のないよう、まず初めに私の立場を表明しておこうと思う。
私は、ペンライトやうちわなどを持ち込んで応援のできるスタイルの作品が、正直に言って苦手だ。「うちわ」が苦手なのである。
作るのが面倒とか、視界に邪魔だとか、そういうことではない。
ピースして、ウィンクして、というような「要求型」の応援が得意ではないからだ。
ただし、くだんの記事で書かれていたように、こういう客席参加型の作品を狂ったとは思わないし、舞台やミュージカルではないとも思わない。
うちわさえなければ普通に、というかハチャメチャに楽しく観劇するだろう。
客席に降りてきたキャストにファンサを貰ったら嬉しくて飛び上がるし、この色と決めていたペンライトのカラーはすぐに揺らいで、軽率にブロマイドを買ってしまう。
界隈にはよくいるオタクだ。
ただ、気持ちは分かる。痛いほど分かる。
あれほどの感情は持ち合わせていないが、理解と共感ができてしまうのである。
例の記事にはもう少し冷静に、悪感情だけを振りかざさずに話をしてくれればよかったのにと思ってしまう部分が少なからずあるが、何言ってんだコイツ、と切り捨てられてしまうばかりではあまりに悲しいので、今回筆を執るに至った次第だ。
なんだよ老害が、と思った方も、時間が許すばら話を聞いてもらえると嬉しく思う。
先ほど、この応援スタイルの作品は苦手だが、舞台やミュージカルではないと思わない、と申し上げたが、それはおそらく2.5次元より先にそのスタイルに出会っていたのが根源にあるのではと思う。
舞台だけれど、歌って踊ってファンを振りまき、客はペンライトを振ったり声援を送ったりする。そのことに対しての違和感があるかないか。そこが私と彼の方との大きな差であろう。
例を挙げるなら、宝塚なんかが有名ではないだろうか。
1部と2部で分けられた構成で、似たようなものが存在している。観たことのある方も多いのではないだろうか。
それから、四季のマンマ・ミーア!なども、近いものがあるだろう。
2.5次元作品で名前をお見かけする俳優さんたちが出演しているものでいうなら、私は数年前に上演された「ボーイ・バンド」が分かりやすい例ではないかと思う。
劇作家であるピーター・キルターの作品だが、世界中で初めての公演を日本で行ったものだ。
これは2.5次元作品ではないのだが、ミュージカルではなく、けれど歌があり、客はその歌に合わせてペンライトを振る。
(ペンライトを持ってくることについて公式からのアナウンスがあった)
少し時間が経ってしまったためよく覚えていないが、演者が客席に降りてのファンサービスもあったように思う。
歌われている曲は大ヒットしたJ-POPだ。(興行主側が曲を決めるらしく、作品として固定の曲はないようである。)一緒に歌ってほしいなどという煽りもあった気がする。
例の定型にはめるのなら、これらは舞台ではないということになるのかもしれない。
こういった作品は、知らないだけで、きっとずっと前から数多く存在しているはずだ。
ただ、昨今の2.5次元作品という界隈で、アイドルのコンサートと一体化しているようなものが乱立している。
2.5次元作品をかじっていればどうしても目についてしまう。それを苦手だと感じる人がいれば、極度の嫌悪感を抱いてしまうくらいには多いと思う。
おそらくだが、嫌悪までいかずとも、僅かばかりもやもやとしてしまう人にとって、そしてくだんの記事を書いた方にとっても、舞台・コンサート・イベントなどの種別に関わらず、興行というものは全て「参加するもの」ではなく「観るもの」なのだ。
ただ、作品を観賞したい。それに尽きるのだ。
だから、舞台上の出来事を受けて起こる笑い声は演出のひとつと受け入れることができても、客席側から舞台上に向かって存在や要求を主張するようなうちわや歓声は必要ないと感じてしまう。
少々暴力的な言葉を使うなら、邪魔なのだ。余計なものだと感じてしまう。
あれが許せるか許せないか。あったほうが美味しいか、入っている意味すら分からないのか。
けれど、公式的にそれが認められ、あまつさえもっともっとと要求までされているのものだから、困惑するのだろう。
どうして、と思う。
そして、自分が好きだったジャンルが「どうして」で溢れかえってしまう。
パイナップルの入っていない酢豚が食べたいのに、流行のせいで中華料理店はパイナップル入りばかりを提供しているのだ。
こんな酢豚は要らない!私の思う酢豚はこんなものじゃない!と感じるのである。
私自身、この手の舞台にっついては冒頭に書いたように苦手な部分があるので、チケット代分をしっかり楽しめる気がしないから近寄らないでおこう、くらいのスタンスでいるつもりだ。
2.5次元作品も好きだけれど、他にもオリジナルなり古典なり、全然関係ないアーティストのライブなり、あちこち手を伸ばしているというミーハーな側面があるからだろう。
回鍋肉でも麻婆豆腐でも何かおいしそうなものがあれば、気が向けば食べる。
けれど、私が好きで好きで仕方ない漫画やアニメの作品が、うちわを持って応援するスタイルの舞台になってしまったら。
「楽しいと思うしそういうのがあってもいいと思うよ、私は行かないけど」という立場を貫けるのか。正直わからない。
きっとあの記事を書かれた方は、一足先にその憂き目にあってしまったのだと思う。
とにもかくにも、最近このドルステタイプの作品が多いのは紛れもない事実だ。
少なくとも私が2.5次元作品を観るようになったばかりの頃は、ミュージカルかストレートかといった分類だったように思う。
それを証拠に、ある作品が舞台化するという情報が出たときは「ミュなの?ステなの?」なんて疑問文をよく見かけた。
この新たなジャンルは、確かに舞台作品の範疇ではあるが、独特な応援スタイルが存在しており、それを楽しめる人もいればとんでもなく苦手な人もいる。
2.5次元ミュージカルの先駆けのひとつと言われ、多くの動員数を誇るテニスの王子様だって、初めは観客もぽかんとしていたという。
テニミュに触れたことがあれば、知っている人も多いのではないだろうか。あの最初の曲。You Know?
はじめの台詞を言っとき、お客さんが「???」という反応だった、と演者の方が話していた。
けれど、2.5次元ミュージカルがここまでの台頭を見せていなかった当時、「何で急に歌いだすの」「ミュージカルでやる必要ある?」と感じていたファンは一人もいなかったのだろうか。
決してそうは思わない。思わないが、徐々に受け入れられ、ファンが増え、公演数が増え、途絶えることなく3rdシーズン。
その折り返しをすぎた今、世の中には同じように漫画を原作とするステージが数多生まれ、『2.5次元ミュージカル』という言葉が自然発生的に生まれ、すっかり市民権を得ている。
今この時代、チケットを握りしめて劇場にいった人の中に「何で急に歌いだすの?」「ミュージカルでやる必要ある?」なんて疑問を感じる人はいないと思う。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観にきているのだ、という人が殆どだろう。
映画などとは違い、舞台は初日の幕が上がるまでどんなものなのか分からない。
当たり前だが、その通りだ。
先ほどのテニミュ初めての公演のもそうであるし、刀ミュが初めて上演されたときなんかも記憶に新しい。
実質ドルステ。そういうような単語がいくつも踊っていた。分からないのだ、幕が上がるまで。
私が知らないだけで、もしかしたら公式サイトのQ&Aなどで、内容が予想できるようなものがあったのかもしれない。
だが、そこまで下調べをし予想についての情報収集をしていく客の割合は、そう多くはないだろう。
少なくとも「ミュージカル刀剣乱舞」のタイトルとフライヤーだけでドルステだろうなんて、よもや想像がつくまい。
そして、とても現金な話ではあるが、決して安くないチケット代を払い、宿泊先を押さえ、はるばる新幹線に乗って都市部へ足を運んで観る。どうせなら、心から楽しめる演出作品のものを選びたいと思うのが人の心理というものだ。
苦手だなと思う私の立場とは逆に、うちわを作ってペンラを振って推しキャラ・キャストを応援するスタイルが大好きで仕方ない人だっているはずだ。
知人にも数えきれない程いる。舞台には行ったことがなかったけれど、評判を聞いて2.5次元のアイドルを応援しにいった女の子。いつの間にかうちわ制作のプロになっていて、自分の住んでいる県でも上演があるのに、このスタイルの舞台なら!と言って、うちわを持ってあちこち飛び回るようになったお姉さま。
舞台を観たことがない人を、いかに劇場に来させるか。そんなことを、制作側から聞いた。これまた情熱大陸だ。大成功である。そして、すっかり確立された演出方法にもなった。
きっと今、文化の変遷と定着の、まさに過渡期に立っているのである。
だからそろそろ、この新しいスタイルの演劇に名前をつけませんか。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観に行くのだ。
これを当たり前にするために。
オペラから派生し、最初は格下だと思われ、あんなもの芸術じゃないなどと言われてきたであろう、そして現代ではすっかり格式と市民権を得たミュージカルのように、いつかこのスタイルの演劇も一つの舞台芸術の形としてウィキペディアに載る日がくるかもしれない。
推しを追っかける形で色々(それこそがっつりした舞台から2.5次元まで)観ていたんだけど
2.5次元といわれるジャンル、特に人気な舞台だと物販がとにかくつらい。
というのをバズってた限界2.5次元オタクについてのツイートを見てちょっと色々物販とかトレーディングについて吐き出したくなった
せせこましいロビーにおびただしい人の数、場所を問わず繰り広げられるトレーディング
クリアケース広げて人が壁際とかにびっしり並ぶ様とかその周りを色んな人がうろうろ物色する様がなんか異様に見えて苦手。
フリマかよって言いたくなるわ
(フリマ行ったことないからそんなんじゃないわクソとかあったらごめん)
公式が何も言わないからって劇場近辺の店やらに迷惑かけてジベタリアンしたり荷物地面に広げて推しを一生懸命探してるの見るとやっぱり引くし
.5の舞台って客層悪くない?って言われるのかな~と思ってしまう
先日の某人気舞台では近場の劇場でも別の芝居してるのにその別の劇場の前でアホほど人間が集まってトレーディングしてたらしいですね
入場列できてる状態でも続けてたとか正気か?せめて入場終わるまで散るとかできんのかね
そんなのも用意してない、むしろトレーディング禁止ですって言ってるそばからクリアケース広げているオタクは日本語が分からないのか?と思う
まあ最初禁止とか言っててそれでもオタクがやるからって後日トレーディングエリア設けたケースとかも知ってますけど
自分も推しはなるべく手元に置いておきたいので物販でトレーディング系含めて色々買う
でもまあなんかアホほど種類多くて自分で当てられることはほとんどないからしんどいし
数十とか買って出ないのがデフォってどうなんだ
(お金カツカツなんだろうしよっぽど興行側はお金かき集めたいんだろうなと思う 足下見られてる感すごい)
ツイッターとか(公式で用意されたトレーディングエリアとか)で交換探してみても、
某人気俳優さんたちのファン、もしくは原作人気キャラのファンに集られて私が都合いいカモ扱いをされてる気がしてとにもかくにも疲れるなあというのもある
推しは悲しいかな お仕事はちゃんと常々あるし頑張ってるけどハチャメチャに人気ってわけではないので…
ちょっと友人やらと推しについて話してたり 持ってる鞄やらについてるキーホルダーとかだけで
「その子持ってますよ。私○○くん(某人気俳優さんたちが演じてるキャラ、もしくは原作で人気なキャラ)推しなんです、その子とこのグッズ(=私の推し)で交換とかできますか」
って交換探してもないのに急に声かけられたりとか(誰だよお前)、ひどいパターンだと
おいおい並ぶなよ 自引きしてなかったのはしてなかったけどお前らと交換したいとか一言も言ってないわこっちは
「この組み合わせだと交換難しいですかね…?」って情に訴えかけてきたりする人もいる
おまえ他人の推しのこと無意識にか意識的にか知らんがsageてるというか自分から馬鹿にしてかかってる自覚あんのか?
それでオッケーするとワンチャンあったわラッキーみたいな空気になるのも腹立つしなんか癪に触る
私は情に流されたりするほど優しくないので基本的に断るけど
心優しい人が人気どころ推してる必死なオタクにいいようにたかられてるの見ると胸が痛みます
トレーディング必死になるのは分かるが、トレーディングで人に迷惑をかけないでくれととにかく思う
なんか次行く芝居ではトレーディングなさそうって勝手に思ってるけど
あったら結局買って一生懸命推しを探すんだろうな 同じ穴の狢な自覚があるから本当にアホらしい
まあさすがに今ぐだぐだ文句言ったようなことは死んでもしませんが
多分オタクがどうこうなる、運営がどうこうするより本当に2.5に推しが出ないことを祈る方が早い気がする
頼むからストレートプレイとか頑張ってくれ 2.5でも観に行くけどさあ…
・追記
ちょっと前のハナシになるけど、都内の小劇団の公演を見に行ってきた。
というか、なんかこの2ヶ月、小劇団を観に行くことが多くて。
(いや、そんなマニアみたいに毎日、毎晩ってわけじゃないけど)
キッカケは、
https://anond.hatelabo.jp/20170925212923
この劇団で。
でもって、出演していたキャストが新宿ゴールデン街でバイトしているという情報を聞きつけて、その店を仕事の接待の2次会で使ったのよ。
いろいろと話も聞きたかったし。
.
そしたら、その女優さん。
舞台の上の颯爽とした男装イケメンぶりとはまったく違うホニャホニャ~っとした実に気立ての良さそうなお嬢さんで。
思わず「よ~しオジサン太っ腹なところ見せちゃうぞ~!」と彼女の新しい公演のチケットを購入したのが一ヶ月以上前。
.
演目は『人形を殺す』(劇団 竹/竹林 林重郎 作)
.
例によって記憶を記録に変えるため、ここに自分の感じた印象を残しておくことにする。
随所にその後の聞き取りで得たデータもはさんでいくんで、そこはご参考までに。
.
■全体として
いろいろと語りたいことはあるけれど。
まずは。
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まさかこのオッサンが芝居で爆泣きさせられるとは思わなかった。
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もう、その、なんだ。このイヤな感じに古びてネジれまくった心のどこに、こんな涙が残ってたのか、ってくらい。
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全体のアウトラインとしては。
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とある一家の主人、フトシの葬儀に彼の隠し子のミツルが訪ねてくるところからストーリーは始まる。
子供世代にあたる長男、長女、後妻の連れ子、隠し子の4人を物語の中心として、彼らの記憶にある父、父の愛人、母、後妻の姿が交錯する。
回想を交えて次第に明らかになっていく機能不全家庭のかたち。
すでにそれぞれの人生を発見、構築して、最後の手仕舞いとして葬儀に集まった子供世代が “その後の物語” を交換しあい、そして何を選択するか。
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という感じ。
.
安直なプロモーター/宣伝担当者だったら “失われた家族の再生の物語” とか言うところだろうけど。
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これは “再生” じゃない、“自己修復” だ。
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どこからか聖なる光が降り注いで、そして全てが安直に元通りになるんじゃなくて。
命がけで力をあわせ、新しい家族システムとして自己修復していく物語だ。
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機能不全家庭のサバイバーたち、それぞれが心で悲鳴を上げながら過去を振り返り、つながりを模索して、あたらしい動態平衡を獲得する、そんな自己修復過程の身を切るような苦しみを描写し尽くした作品になっている。
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ただ、上に書いたような文芸路線の重たい家族ドラマってだけじゃない。
そこに、キリスト教、ヒンドゥー教、アミニズム、シャーマニズムの神々が乱入し、信仰とヒトの関係性が語られ、西武ライオンズの奇跡の優勝が回想され、ときにタブラ+4つ打ちテクノに合わせて踊る白装束の群舞とビデオプロジェクションのインサートシーンが交錯し、どこかサイケデリックな、なんというか……
.
うん! そうだ! “現代の寓話” だ!
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(どうしても想像が及ばない人は、ここで、
“もしも、もしも故・今敏監督が、重た~い家族の自己修復のドラマを
というのを想像してみてください。
当たらずといえども遠からずのはず)
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うん、これ以上語ってもしょうがない。全体としてはこんな感じ。
「傷ついた人は、傷ついた家族は、成熟とともに修復される……されるのか?」
というのがテーマ。
そして俺、爆泣き。
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そして、本公演の劇団である “劇団 竹” の主催者にして劇作家、竹林林重郎氏の作劇術、というかタッチというか、そういうのも、なんとなく見えてきた。
.
モノローグでもポリローグでもなく。
(回想シーンのフトシ、サダコその他は隣に聞き手がいるものとしてダイアローグにカウントする)
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ーーここで父フトシの隠された2重生活と、実の子以上に愛され、
育まれてきたミツルの姿が明かされる
↓
ーーいまではヤンママのシンママとなったツグミの愛に飢えた幼少期への思いが爆発
↓
ーー今となっては過去に見切りをつけ、自身の “家族” を獲得したヒデフミに対して、
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という大枠の流れに、回想シーンとして
・父フトシと母ノリコの外食
(後に愛人となるヤスコを含めると3人以上が登場するのはここだけ、だったかな?)
・フトシとヤスコの逢瀬
・夢の中でシュウタに、出奔という自分のギリギリの選択を明かす母ノリコ
.
といずれも1 on 1。
対話の一方が次の対話に持ち越されるバトンリレー形式で話がすすむ。
(例外はサダコが壁のロザリオを叩きつけるシーンと、ノリコの出奔シーンくらいか)
.
というわけでダイアローグ主体の作劇なので。
最後に全兄弟が登場する対話のシーンを見たかった気もするが、そこはビデオで後日談が語られることで代替されている。
というか、前半のツグミ役のキャストのあの演技を見たら、後半まで登場したら、おそらく彼女のメンタルがもたないだろう。
.
ラムネさん「んふふ~、それはどうでしょ~?」
俺「おおっ! あなたはツグミを演じたラムネさん! アレくらい、余裕っすか?」
ラムネさん「んふふ~」
.
と、明確な答えは得られず。
ただ、別に彼女のコンディションに配慮したわけではなく、たんに作劇上、そうなっただけらしい。
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余談。
確かなことは。
無軌道な妊娠と出産、自分を一番に思っていた継母を鬱病と自殺に追い込んでしまった(と考えている)彼女が過去を悔いて流す涙。
ツグミの慟哭はそれだけの迫真・魂の演技だった。
余談終わり。
.
もう1つ。
.
気にしなければ流すこともできる。
気にして、拾い上げるつもりがあればハッキリと分かる。
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(いや、これは俺の思い上がりで、拾い上げてないレベルのメタファーがドッサリあるのかもしれないけど)
たとえば。
ミツルとツグミが同時に正座をといて、「ここから深い話をしよう」という意図を見せたり、とか。
ヒデフミが現在ではロザリオの製造業に努めていて、毎日キリストを十字架にかけている、つまり、 “完全な棄教者” であることを暗示したり、とか。
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いろいろなレベルで多層的にメッセージが投げかけられてくるのが気持ちいい。
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そして、ストーリーに大きな比重を占めているビデオプロジェクションについて。
冒頭、中間、エンディングと(自分が覚えている限りでは)3回、舞台の白壁をスクリーン代わりに、撮影・編集済みのビデオ映像が使われる。
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1回目はオープニングタイトルなので、深い意味はない。多分。
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2回目は、うーむ、解釈に困る。
シヴァ、ヴィシュヌ、ガネーシャ(ブラフマーも出てきた、かな?)とヒンドゥーの神々がサイケデリックなビデオコラージュで次々と諸々の事象と一緒にカットバックされる、ある種のイメージビデオ。
どことなく、今敏っぽい。
無理して考えれば、愛人ヤスコと隠し子ヒデフミの家にあったという、キャラクター人形を並べたデタラメな祭壇から喚起されたイメージの奔流、というところだろうけど。
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1)キリスト教
家族システムの自己修復の媒介者、というか見守り人としてのキリスト教の存在と、一般人レベルの、一般人なりの神学論争がたびたび登場する。
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愛人ヤスコは沖縄のユタ(シャーマン、巫女)の血を引いている、という設定で、ここでキリスト教的な硬い理論体型ではすくい切れないアミニズム、シャーマニズム、スピリチュアリズムの象徴として彼女の存在がたびたびクローズアップされる。
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3)フトシ人形
元愛人ヤスコいわく、「死んだフトシの魂が乗り移った人形」。
そもそも隠し子ミツルが「この人形を一緒に火葬してほしい」と持ち込んだところから全てのストーリーが始まっているわけで。
その後は、子供たちの亡き父に代わって踏まれるは、叩きつけられるは、この人形、まさに踏んだり蹴ったり。
.
余談。
この人形、終演までよくボロボロにならずにもったよなぁ。
と思ったら、Twitterを見たら劇団の忘年会にまで生き残って参加してるし。
まじで何か乗り移ってね?
余談終わり。
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ビデオプロジェクションの3回目は、エンディング(後日談)とスタッフロール。
ここで、子供世代が集合して親睦を深める後日談が挿入され、ストーリーに一応の決着がつく。
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と、合計3回のビデオなんだけど。
うーむ、評価に困る。
なんというか、悪くは無いんだけど。
編集も音楽も上手すぎて、なんか、こう、才に疾りすぎているような印象を受けた。
芝居のシーンが不器用な人間たちの不器用なふるまいの話であれば、なおのこと。
逆にいえば、重苦しくなりがちな主題のハシやすめとしては、効果的だった、とも言えるけど。
.
ラムネさん「お客さんのアンケートでは、良かった人と、悪かった人が半々くらいだったみたいですよ~」
俺「うーむ、人によって評価はマチマチか。まあ、そんな感じだろうなぁ」
.
■観劇後
で、さてさて。
終演後、もう、あふれる涙をぬぐいながら、挨拶に出ていた竹林氏に突撃インタビューを敢行してみる。
.
俺「グスン、あ、あの、最後の後日談のビデオなんですけど。やはり、あれは小さな子供たちを舞台に出せないっていう制約があってのことですか?」
(と、最初の軽いジャブのつもりの質問だったんだけど、誤解したらしく)
竹林さん「あ……あれなんですけど……ハッピーエンドってわけじゃ……ないんですよね。
あの子供たちは全員ツグミの子供かもしれないし……。ヒデフミとシュウタが家庭を持つ踏ん切りがついた……とも言えないわけで……。そこはお客さんの判断にゆだねるっていうか……」
.
え? あれ、ハッピーエンドじゃないの?
.
∧∧
ヽ(・ω・)/ ズコー
\(.\ ノ
、ハ,,、  ̄
 ̄
.
そりゃないよ竹林さん! こっちは希望の光に魂が洗われるような涙を流した直後だっていうのに。
と、ともかく、気を取り直して次の質問をする。
俺「と、ともかく、アレです。そうだ! あれ、あれ! あのキャストの4人が白装束で踊るダンスシーン! あの挿入シーンには、やっぱりなにか意味が?」
竹林さん「あ……あのダンスシーンには……特に意味は……ないんですよね……」
.
∧∧
ヽ(・ω・)/ またまたズコー
\(.\ ノ
、ハ,,、  ̄
 ̄
.
なんてこったい! 全部インスピレーションというか成り行きまかせかい! なんだよコラ! というか、あんな太っといストーリーを産み出しておいて、なんでそんな慢性自信喪失症みたいな振る舞いしとんねん!?
.
ラムネさん「そんなこと、ないですよ~」
俺「おお! ラムネさん! するとあのダンスには深い意味が?」
ラムネさん「1つ1つの振り付けに意味を込めて、竹林さんが決めていったんです~。彼、ダンスができるわけじゃないんで、稽古の一番最初にダンスから始めていって、大変だったんですよ~」
俺「それじゃまた、なんであんなウソを……」
.
うーむ。
いろいろと事情はあるようだ。
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■あらためて全体として
というわけで、あらためて全体としては。
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もう、激烈に良かった!
チケット代の倍くらいのモトは取った!
劇団竹、というか竹林林重郎氏は今後も追いかける! 決めた!
という感じ。
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本来なら、ここでキャストの印象から書くんだけど、先に言っておきたい。
.
.
映画で言うところのプロダクションデザイン、美術のレベルが俺的には空前絶後のハイレベル!
舞台というかセットは “そこそこ成功した事業主が建てた一軒家の客間、中央には卓袱台” という固定化された空間なんだけど、まあ、ここの造作が細部まで実にリアル!
フトシと妻の外食シーン、ネパール料理屋ではビールが銅製のタンブラーに入っていたりとか、細かいところまで実にリアリティのカタマリ!
サウンドも隅々までハイファイで、SEのキューイング(演劇用語では “ポン出し”だったっけ?)もタイミング完璧!
後ろを見れば、おお! これまでの観劇で初めて卓(コンソール)の収まったコントロールブースがある!!
.
今回の劇場、スペース雑遊の設備なのか?
.
ラムネさん「いえ~、あのブースは、わざわざ場所を確保して作ったんですよ~」
.
ですよね~。
照明も特段の過剰な演出に走ることなく、的確。
何もしていないかっていうと、そんなことなく、舞台のシーン、ネパール料理屋のシーン、
シュウタが心から祈るシーンと、細かく細かく抑揚をつけている。
ともかく、作品の作家性、キャストもさることながら、舞台全体をバックアップするスタッフの力量が、もう、これまでとまるで違う!!
彼らにはノーベル賞、ピューリッツァー賞、紫綬褒章を金銀パールをそえて贈りたい。
それくらい気持ちよかった。
.
劇場の “SPACE雑遊” もじつにいい。ほどよい温度で静かな空調。
ともかく見過ごされがちな観劇のための空間づくりだけど、ここまでストーリー没入を妨げない総合的な配慮は、うん! 控えめに言ってサイコー!
この劇団って、いつもこんなハイレベルな制作陣なのか?
.
ラムネさん「いえいえ~、前回までの公演は~」
俺「ふむふむ」
ラムネさん「セクマイ三部作っていって~、小さな民家を舞台にしたり~」
俺「なるほど」
ラムネさん「こんな舞台は初めてなんじゃないかな~」
.
うーむ、俺はひょっとしたこの劇団の大新機軸、大飛躍の場所に居合わせたのかもしれない。そうだったら嬉しいな。
.
そして、キャストなんだけど、はじめに言っておく。
キャスティング上の軽重はあれど、全員が全員、演技巧者の高能力者ばっかり!
どうなってるんだ!
.
ラムネさん「今回のキャストは~、じつはこれまで仕事をしたことがあるヒトばっかりで~」
俺「なるほど、すでに信頼関係のあるキャストばっかりなのね。アナタも含めて。ということは~、二度と呼ばれないヒトもいたりとか?」
ラムネさん「んふふ~、それはどうでしょ~?」
.
うむ。ノーコメントなり。
.
というわけで。
.
■石川雄也(フトシ)
一家のお父さん。酒乱。浮気。全てにおいて、だいたいこの人が悪い。
コピー機の販社を起業して営業のためにキリスト教に入信ってのが痛いくらいにリアル。
回想にしか登場しないのに、ほぼ主役。
劇団竹に所属。
地味に驚いたのが、ワンカップ半分ならワンカップ半分、ビール1缶ならビール1缶と、アルコールが入った分だけ、確実に立ち振舞いを変えてくる。
上手くいかない事業と美女の誘惑、アルコールへの弱さと、たよりない大黒柱の悲哀を全身で表現。
もっといろんな所で見てみたいと思った。
(↑そういう仕事をしていらっしゃるのデス)
.
■森川武(シュウタ)
長兄ってツラいよな。
いきなり子供が3人もできた父の辛い立場を理解したのは、このヒトだけ。
そして、彼の祈りのシーンで大事なことが示唆される。
それは、
.
神はどこにいるのか。
神は祈る心の裡(うち)にこそ顕現する
.
ってこと。
ツグミの嘆きを受け止める。
そして、ヒデフミの “シンカー投げ” という決別の儀式を見守るだけだったところに、ロザリオのカツーン! という落下(これを偶然か神の啓示か、はたまたシンクロニシティか、どうとらえるかは、それこそ観客にゆだねられている)からの、もう、怒涛の、言いがかかりに近い、というか完全に言いがかりの引き止め工作。
ここに俺は、家族システムが血ダルマになりながら自己修復していく音を確かに聴いた、ような気がする。
そして俺、爆泣き。
劇団竹に所属。
こうしてみると、キャスティングも要所々々はプロパーさんで固めているのね。わかる。
.
ラムネさん「このヒト、普段は “コボちゃん” って呼ばれているんですよ~」
俺「おお! 言われてみれば確かに似ているwwww」
(このあと、コボコラの話に盛り上がること5分)
.
■江花実里(ツグミ)
あれ、おっかしーなー。
つい1ヶ月前に月蝕歌劇団を観たときには颯爽とした美青年・明智小五郎(に化けた怪人二十面相)だったんだけどなー。
いま見ているのはチークの乗りも痛々しい元ヤンのシンママだよ。
しかも、そこに至るまで、彼女の感情は3段階に分けて少しずつ前面に出てくる。
最後に兄シュウタの腕の中で継母のサダコを想って感情を爆発させるとき。
役者ってすっげーな!
でも正直、この時の俺は爆泣きとまでは行かなかった。
でも、それでいいと思う。
この公演が竹林氏が観客の情動に仕掛けるカチ込みだとしたら、彼女は鉄砲玉というか切り込み隊であって。
あるいは、森川ー佐々木ラインという本隊の大規模侵攻の前に敵陣深く潜入する特殊部隊の役割であって。
「さて、この劇団、どんなものか見てやろう」という観客の批評眼をかいくぐってハートの深いところに潜入し、情動の扉をこじ開けて本隊の到着を待つ。
これが彼女のミッション。
いや、実に良かった。
.
■辻村尚子(ノリコ)
フトシの最初の妻。
夫の浮気のストレスから子供を虐待することを恐れ、みずから出奔。
舞台が2018年の設定なので、旦那の事業の立ち上げ期が80年代末。
キャラ作りが、なんというか、トレンディドラマの女優そのもの。
彼女が居間のふちに腰かけて靴を履いて家を飛び出すところが2回、描写される。
つまり天丼なんだけど、
なんでだろ、ビデオその他の映像作品だと天丼って、うっとうしいだけなんだけど。
なんか、生身のキャストがやると重く感じるんだよな。
劇団 竹に所属。
.
■大森華恵(サダコ)
フトシの後妻。
うつ病で自殺。
なんというか、いろいろと痛ましい。
(継子とはいえ)娘への配慮と、大人の知恵と、世間知と、いろんなものに押しつぶされて最後の選択として自殺、か。
この舞台で、壁に掛けられたロザリオは合計3回、床に落下する。
2回はサダコが床にたたきつける。この時はSEのみの描写。
そして1回はシュウタの祈りに呼応して、本当に落下する。
ここでも天丼(繰り返し)が重たい。
なんというか、堅物で悩み事に弱そうな人物像を的確に体現。
.
石川、辻村、森川と3人までは劇団正メンバーなんだけど、彼女だけがゲストにも関わらずダンスに参加。
ダンスシーンについては、べつに拘束期間とか難易度とか、そんなことは関係なく、竹林氏のメッセージにそった人選なのだろう。
.
子供が十分な子供時代を生きられず、そのままムリヤリ大人になることを要求されたようなアンバランスな感じ。
わかる。
そして、いまでは自分も義父のようにシンカーが投げられることを義兄シュウタに示すため、最後のキャッチボールを決別の儀式として実行する。
と、ここで舞台で実際にボールを投げるんだけど。
キャッチャーのシュウタは後ろに下がって観客から見えなくなる。
おそらく板に座布団とか、そういうギミックでボールを受けているはず。
.
ラムネさん「いえいえ~、あのシーンは本当にキャッチボールをしていますよ~」
俺「おいマジですかい?」
ラムネさん「本当に最初はキャッチボールの練習から始めました~」
俺「でも暴投とかしたら、危険じゃないですか?」
ラムネさん「ですから~、危険な場所には、あらかじめスタッフを座らせたりとか~」
うむ、配慮も危険対策もバッチリのもよう。
.
空飛ぶ猫☆魂に所属。
みなさん、それぞれの所属先劇団の看板または主戦級の役者さんなのよね。
.
■森川結美子(ヤスコ)
沖縄のユタの血を引く、占いもできるウェイトレス。
なんというか、どの女優さんも年の頃もビジュアルも大差はない感じなのに、演技と役作りで、その、あれだ、いかにも浮気相手になりそうなフェロモ~ンなプリップリのツヤッツヤな感じに寄せてくるのがすごい。
ちなみに、ご本人に取材したところ、使われていた占いはネパール伝統の占星術(ピグラム暦、という独自の暦を使うそうだ)にタロットカードを組み合わせた架空のもの、とのこと。
.
鉄道会社というカタい職業につき、シュウタ以下の兄弟とは別の、なんというか、まっすぐな人生を歩んできたことをうかがわせる人物造形。
朴訥。
観劇直後は「なんか印象が薄いなぁ」だったんだけど。
それも当然で。
俺も含めた観客は、彼の人物ではなく、彼を通して見せられるミツルとヤスコの家庭の様子を見せられていたわけで。
キャラクター人形をでたらめに並べた狂った祭壇。
父フトシのハグ。
彼を通してフトシの別の人格と別の家庭を見せられていた。
この役者さんも、おそらく高能力者。ただ本人が嘆いたり動いたりしないだけで。
.
.
んー、こんな感じか。
ともかく、全体としては。
この劇団、劇団 竹、そして主催の竹林林重郎氏は、買いです。
次の公演にも注目して良いです。
自分もそうするし。
.