はてなキーワード: 自然法とは
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
バーチャルYouTuberって言葉を最初に使ったキズナアイは徹底してバーチャルキャラクター(AIである設定)としての振る舞いを貫いてるよ。
それ以後に雨後の筍のように生えてきた人らは、いわゆる「生主」がキャラクターの皮をかぶっているだけみたいなのも多く、それらは「Vtuber」だと思ってる。
その文脈で、狭い意味でバーチャルYouTuberって名乗れるのはキズナアイ一人だけ。
中身の情報を漏らさず世界観をしっかり守っている人も十分にバーチャルYouTuberだし、そうでない人もそう呼ばれているのが現状だけど。
参考:
「VTuber」と「バーチャルYouTuber」についての覚え書き - 自然法被害者の会
http://okimochi-philia.hatenablog.com/entry/2018/10/10/033103
選挙権年齢が引き下げられ、今回の参院選から18歳以上が投票できるようになりました。
自分の一票が選挙に与える影響と投票に行く手間を考えたら、合理的に判断し投票に行かないという選択をするというのが「合理的無知」といいます。簡単に言えば、「行ってもムダ」という考えですね。
そんな合理的判断をする割には、「私は雨女だから」や「私が応援すると負ける」とは発言して、どんだけ影響力をもってると思ってるだか・・・、そんな人ほど「私なんかが行っていいのか」と思わず、その根拠なき影響力をもって投票すべきである。
民主党が政権をとった時に、ついに私たちの声が政治を動かしたんだと思った人はたくさんいたんだ、まー結果的に失敗だったけど・・・。
イギリスのEU離脱も多くの国民がどうせ残留と思って、懲らしめるために離脱票に入れたら、本当に離脱票が残留票を上回ってしまった。こういう二択選挙だと一票も重みが増すのだろう。
投票に行くのが面倒というのはある、インターネット投票できるのであれば、
どこにいても投票できるのに。インターネット投票はとりわけセキュリティ上の理由からなかなか進まない。
開票時間の大幅な短縮や人件費の削減、疑問票や無効票が出ない、自分で書くのがむずかしい障害者も代筆なしで投票できるなどのメリットは大きい。
日本の地方選挙では電子投票端末を使った選挙を行われたことがあるが電子投票端末は投票所に置いてあるので、そこに行く手間がある。
インターネット投票は、エストニア(ヨーロッパの北東端にある小国)で国民にデジタルIDカードを配布してあり、2,048ビットのデジタル暗号化ソフトを通して、市民は自分の家の広間で快適に座ったまま投票を行うことが可能だ。日本もマイナンバー制度により、出来る準備の下地はできつつある。
頑張って投票所に行ったとして、周りも見渡せば投票するのはじいさん、ばあさんばかり見ることになる。2014年選挙では70代が72%、20代は29%なのだからそうなるであろう。(今回の選挙年齢は18歳に引き下げも若者の投票率アップが目的)
政治家は票になる高齢者への政策を充実させるようになり、票にならない若者への政策は後回しにされやすくなる。「保育園落ちた日本死ね」記事も話題にはなったが、若者の政策は反映し難いのが現行の選挙制度上なのである。
これから少子高齢化社会では有権者全体に占める高齢者の割合が大きくなり、逆に若者の割合は小さくなる。これが世代間格差を助長させる要因となり、年金などの社会保障問題は先送りされ、将来の財政上の負担はかさむことになる。つまり現在の選挙制度のままでは将来世代に不利な状況を生んでしまう構造が出来てしまっているわけだ。
では、年齢階層別選挙区のようなのを採用して「20歳未満の子供をもつ親に2票を与える」「一つの選挙区を『老年区』『中年区』『若年区』にわけてそれぞれ同数の定数を配分し、投票率の差をなくす。20歳未満の『子供区』を設け、この分の選挙権を親が行使」というように差をなくせばいいと考える人達も出てくるわけですね。
しかし、民主制では自然法の下、権利や平等が保障されていて一人一票もその一環として保障されている。一人が一票しか無く誰かが2票3票何て有ったら平等≒民主主義の概念が存在しなく成るんだよね。
自分達の世代にとっての利権だけでなく、将来を担う世代にとっても、利益になる政策が考えられる仕組みをつくることが必要だよね。
@**********様
以前の人権規定の私人間効力について、思ったことを書きます。(メールやツイッターだとアレだし、他にいい手段を思いつかないので、ここを使う次第です。)
初めにお断りしておくと、僕はことの発端となったその本(図書館学に関する本?)を読んでいません。
また、学がないので、憲法学の体系や諸学説の展開を十分踏まえた上での論述ができていません。
完全に自己満足のため、頼まれてもいないのに、自分の思ったことを適当に書いたものですので、当然スルーしていただいて結構ですが、
もし、気が向いたら、的外れであったり、誤りがあったりする点などについて、ご指摘いただけるとご幸甚です。
以下、本題
結論から言うと、
(よく聞く言葉である割に、実は、定義がきちんと定まっておらず、話者によって使い方がバラバラであり、時には話者自身も自分が何を意味するものとしてその言葉を使っているのか分かっていないような言葉)
「人権」と聞けば、まずは、憲法的な意味での「人権」を思い浮かべますが、
そうでない人達は、社会規範上の「個人は人格的に尊重されるべきという前提に立った場合に当然にその個人に認められる権利」くらいに思っているんじゃないかな、
という感触を持っています。
しかし、彼らの中でも、具体的にどんな場合に保障されるどんな権利なのかという話になると、人によって言うことバラバラで、
その原因として、「それが権利とされる根拠」「憲法との関係性についての考え方」「権利としての保護の強度」などについての考え方の違いが背景にあるじゃないか、と考えます。
(2)そういう権利が認められるべきだ、という社会的合意がある
(3)社会政策として、そういうことにした方がより良い社会になるので、そういうことにしておくべきである(思想家的確信犯)
彼らは高校の地歴・公民で「人権」なる概念に触れますし、まあ、こんなもんじゃないかと。
・(1)(2)の立場だと
(ア) 憲法の規定は上記の自然権または社会的合意を単に明文化したものに過ぎない
(ア-2)上記自然権・社会的合意は素晴らしいものなので、当然、憲法か法律かで明文化されていないはずがない。
(イ) 憲法の規定(およびそれについての裁判所の解釈)はどのような自然権・社会的合意があるのかということの間接的な証拠である
(ウ) 日本国憲法は国家の在り方だけでなく社会の在り方をも定めるものであり、社会的合意そのものである(直接適用説?)
くらいでしょうか
・(3)の立場だと
(エ)偉い人が考えてつくった憲法にもそう書いてある(or賢い人である裁判官もそう言っている) → だから、自分の政策提案は正しい
という感じなのかなぁ、と。まあ、(ア)~(ウ)もありうるかもなぁ。
・彼らの統一見解
(あ)社会のある成員は別の成員の「人権」を侵害してはならないし、第三者はそれに加担するべきではない。
(い)だから、人権侵害にあたる行為は全て禁止するべきであり、侵害したものは必ず法的制裁を受けるべきである。
(う)法律のことはよく知らないし、法的制裁云々はよく分からないけど、社会的な非難は受けるべきorはず。
(え)その他
行政官としては法治主義の建前から法実証主義的な立場を取らざるを得ず、
行政が他人の権利・利益を制限・侵害する根拠として別の人の「人権」を持ち出す場合においては、
その「人権」は日本国憲法上保障されているものとして解釈できる範囲を越えてはいけないのではないか。
但し、勿論、他人の権利・利益の侵害とならない範囲で社会規範としての「人権」を尊重する方法がないか、十分、意を用いるべきである、と考える。
また、それ以外の場合では、社会的規範としての「人権」の尊重は心にとめておきながら、施策を進めていくべきである。
(が、そもそも、別に「人権」とかそういう話ではなく、法規範だけでなく社会規範にも従うことを心がけるべきであるという話に過ぎない。)
○一個人として思うこと
(3)みたいな「僕が考えたすごい人権」みたいなものに付き合わされるのは勘弁してほしい、と思ってます。
人は本来自由なのですから(というか自由じゃないと不満を持つ生き物なのですから)、その自由の制限は最小限であるべきです。
「○○した方がいい」というマナー・社会道徳のレベルで済む話まで、無理に「人権」という概念に取り込んで、それを「守るべき」という価値観を押し付けたり、法的に強制することには反対です。
また、マナー・社会道徳を越えて、法的保護に値する権利と言えるものであっても、「どんな場合でも他人の言動を縛るための根拠として使えるもの」とすることにも反対です。
まあ、結局、みんな「人権」という言葉をよく分からないまま使いすぎ。
もっと、意味内容を限定的にしてくれないと、聞いている方が訳わかめ。
少なくとも「基本的人権」なんて言葉は憲法上の意味に限定して、それ以外のものは別の言葉で説明してくれた方が議論が捗るのに。
(多分、意図的に混同している人もいるんだろうな、とも)
http://critic5.exblog.jp/20243840/
ブログコメント欄に書き込もうとしても弾かれるのでここに書く。
"「立憲主義」から憲法を概論するという場面に遭遇したことがない。ロック・ルソーの自然法思想と社会契約、フランス人権宣言、ワイマール憲法、平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明されるのが一般論だった。"
個人の人権を擁護保障することにより国家権力を制限するというのが「立憲主義」なわけであり、「ロック・ルソーの自然法思想と社会契約、フランス人権宣言、ワイマール憲法、平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明される」≒「「立憲主義」から憲法を概論する」ということなので、上の引用部分はおかしな記述ですね。
"近代国家の憲法を基礎づける思想は三つで、立憲主義とファシズムと共産主義だと言うのであり、冷戦で共産主義が敗北し、立憲主義が勝ち残ったと言う。"
一般的な理解では、「近代国家の憲法を基礎づける思想」には「ファシズムと共産主義」は含まれず、立憲主義がありますね。明治憲法も伊藤博文等 立憲主義的憲法理解を示していましたが、権力を縛るには不十分であったためアジア太平洋戦争という結果に至り、改めて立憲的意味での憲法として制定されたのが日本国憲法ですね。
"長谷部恭男が立憲主義を説明するとき、何度も「多様な価値観を互いに認め合う社会」の重要性を繰り返し、小林節や枝野幸男が唱えて言論空間を席巻したところの「国家を縛るもの」の契機が二の次になっているので、"
多様な価値観を互いに認め合えるよう国家に自由を保障させることそのものが国家を縛ることですから、二の次になっているというのは全くの誤解ですね。
"政治方面からの改憲論(自民党)には消極的であり、保守的護憲論とも言える立場なので、"
"憲法学アカデミーの主流が護憲であったなら、これほど反動的で反憲法的な政策や法律や判決が溢れるのはおかしいではないか。"
憲法学者は憲法学者であるし、立憲主義者は立憲主義者であり、改憲論者でも護憲論者でもないです。日本国憲法主義者が他者にも日本国憲法主義者であってほしいと言ってるだけの記述ですね。
"憲法改正論のところでも奇妙な記述がある。「憲法9条の改正論についても同じことがあてはまる。従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば、何の『意味』もない改正である」(P.21)。"
憲法改正前と後で国家権力のできることに変わりはないので当然の記述であり奇妙ではないですね。
"この憲法が平和主義の原理を基本として制定されたものであり、300万人の犠牲の上で戦争放棄と戦力不保持が宣誓されていることが考慮されていない。日本国憲法は、立憲主義よりもはるかに平和主義の憲法である。「憲法とは何か」と題を立て、読者・学生に日本国憲法を説明するなら、何より平和主義から説明しなくてはいけないのではないか。前文を見よ。半分は平和主義が語られている。「多様な価値観を認める」などとは書いていない。この憲法は戦争肯定論者の価値観を認めてはいない"
日本国憲法に規定された国民の自由や人権を保障する上で自衛隊や警察のような実力組織は必要ですよね。「立憲主義よりもはるかに平和主義」立憲主義は国家権力を制限し個人の自由や人権を守るという考えであって、その上で平和希求があるものですよね。もちろん今の政府議会の平和希求・実現の努力が充分であるということではないです。
"本当は、他先進国の憲法よりもずっとラディカルな理念を持ち、現実社会にラディカルな民主主義を要請する憲法を、その性格を剝ぎ取り、脱色させ、すなわち憲法の牙を抜く言説が、長谷部恭男の立憲主義とリベラル・デモクラシーなのだ。日本国憲法は、リベラル・デモクラシーではなくラディカル・デモクラシーの憲法である"
「ラディカル・デモクラシー」を理想とするのは結構ですが、「ラディカル・デモクラシー」が日本で実現されているわけではないし、日本国憲法は当然 絶対民主主義の憲法ではなく(というより「絶対民主主義の憲法」はそれはもはや「憲法」ではないが)、「民主的権力であっても暴走することがあるため、憲法により縛る」という立憲民主主義の憲法である日本国憲法なんですよね。
終わり
ゲーム盤をつくってうるってのは立派な産業ですし、これについては自然法則しばりもないよ。
ただし登録主義なんで公知になるまえに出願しとけって話であり手遅れ。
やっぱり著作権(親告罪)や不正競争防止法(利害関係人)でシャドウ~~の人が
きっちり権利確保に動いたらどうにかなる話で
再販する予定だったのかひどいな・・
一般的な話では権利人(ってもだれが著作者とかわからなくなったりしてることは多いがとりあえず版元で)
に「あいつはざっとみつもってこれくらいの売り上げは出してる。損害賠償訴訟費用出しても確実にもとがとれます」
ってちゃんとやったら動く「かも」。(そもそもシャドウ~が現状で市場にないので、食われるパイがない。
すなわち損害が一切発生していないと認定されたら不正競争防止法においても損害賠償算定が厳しくなる)
そうでないかぎりイメージが悪くなるだけだから版元はなかなか動けない。
同人界隈の「トレスだめだろ」機運は業界クリエイター主導の自主規制でありそこでせめぎあうのも進歩。
法文優先なら本来はアメリカみたいに規制はげしくつまらない同人業界ができあがってたかもだけどそれじゃ虻蜂取らずだねって話。
東方同人サークルが無許可でボドゲをパクった挙げ句売り逃げる気満々
東方同人サークルあゆ屋が無許可でボドゲをパクった挙げ句売り逃げる気満々 まとめ - Togetter
知財関連なのでと経緯をいろいろと読んでたら法律関連が微妙に混乱してるように見えた。
気になったので、ちょっと突っ込んで調べてまとめてみた。
まず第1に、ゲームの「ルール」それ自体には著作権は及びません。
「ルール」はゲームの根幹を成すものではあるが、「著作権」は「表現」を守るものであって、「アイデア」を守るものではないからです。
ゲームの「ルール」と言うのは「アイデア」の部類に属すため、著作権法の対象外なんですね。
したがって、「遊び方を盗んだ」だけなら、少なくとも著作権では守れません。
では守る方法は無いのか?ですが。
「アイデア」を守るには、「特許権」「実用新案」などがありますが、
と言う事で、ゲームにはどちらもなじみません。
まぁ、これら二つとも基本的に産業振興のためのものであって娯楽は想定外ですから、この時点で登録の対象外になりますが。
と言う事で、事実上「ゲームのルール(遊び方)」と言うものには権利が無いんですね。
しかし、ゲームのルール「ブック」。つまり「遊び方の説明書」と言うのは「ルール(アイデア)の表現物」となり、これは著作権の対象となります。
そこで今回の状況をチェックしてみたのですが
eo お金ないんでルール読んで妄想遊戯: 東方版シャドウハンターズに、池田氏が困惑
説明書について、なんだか怪しそうです。
他のところも情報収集してると、一応、カードについてはそれっぽい変更を加えていたそうですが、それも微妙なようです。(URL失念。あゆ屋のブログ記事の消去されたものだったかな?)
と言う事で、どーもこの辺りで著作権法の二十七条翻訳権、翻案権等、を踏んづけているように見受けられます。
とはいえ、本格的にチェックするには実物で見てみないとなんともいえません。
そこまでやる気は無いのでルールについてはこれくらいで。
ところで、電源不用ゲームと言うのは、ルールだけで終りと言うものばかりではありません。
汝は人狼なりや?のように、ルールだけでも十分成り立つものもあります(カードでペルソナを決めるなどはフレーバーであって、ゲームルールの本質では無い)。鬼ごっこ、かくれんぼなども、ルールだけで成り立つものでしょう。
これとは別に、ルールが道具を使うことを前提としたものも大量にあります。トランプのゲーム各種のように。お手玉、あやとりなどもそうですね。他、福笑い、カルタ、人生ゲーム、囲碁、将棋 etc...ドイツボドゲを並べても面白そうだが、際限ないのでやらない。
今回のシャドウハンターズもそのように、いくつものカードやコマを用います。
そこで、問題となったものを見てみると
eo お金ないんでルール読んで妄想遊戯: 『シャドウハンターズ』 東方版
ボードのデザインがオリジナルとほぼ同じなんですね。手直しが若干入っている程度。
ボードのデザインと言うのは、言うまでも無く「表現物」です。よって、著作権法の対象となります。
そして、権利管理者が「アウト」をTwitterで明確に示した時点で、「完全にアウト」なんですね。
権利者が再販のために動いているたと言う話や、デザイナーと権利関係についてまとめるのに2年かかってるなども含めると、今回の行為を怒るのももっともかと。
以上のように、ゲームのルール(遊び方)それ自体は法律による権利としての保護対象にはなりません。
したがって、シャドウハンターズを「参考に」オリジナルでボード、カード、ルールブックを再構築した場合は、オリジナルゲームとして販売可能だったわけです。
ゲーム製作者は腑に落ちないでしょうが、これが法律の解釈になると考えられます。
実際に、ついこの前の釣りゲーの法廷でも、「創作表現(著作権が発生する)」であるのか、或いは「ルールの普遍的表現(著作権が発生しない)」であるかで争われています。「ルールについてのよくある表現である(表現ではあるが創作ではない)」と言う考え方な分けで、「ルール」が似てることが問題じゃないんですね。
そして今回はルールの問題よりも、ボードの表現がコピー改変なので、こちらで完全にアウトです。
ゲームに使用する表現物のコピーと言う意味では、任天堂花札をベースにキャラクターを入れ替えていたタイバニ花札騒動なんかが最近の参考になりますかね。
てな所で。
サーチ中に意匠「権」を想定して語ってる方が。しかしゲームのボードなどには「意匠権」を及ぼすことはおそらく無理です。
デザインの意味で「意匠」の単語を用いることは(知財関連を語る上では紛らわしいですが)間違いとはいえません。
しかし、特許権、実用新案権と同じく、意匠「権」となると、産業利用であることと、登録主義であるため、このような娯楽の場合、権利は無いと考えておくのが妥当かと。
今回はおそらく意匠登録は行われていないと思われますので、意匠権は発生していないかと。(理由修正)
著作権は「無方式主義」であるため、表現された物があれば自動発生します。
商標権は「既知の商標」と言う概念があるため、未登録でも認められる「場合があります」。Perl を第三者が勝手に登録したが無効化した!なんかが、最近あった例ですかね。コナミ登録商標問題はすでに過去かな。逆に認められなかったのが「東方Project」商標登録問題です。
と言う事で、特許権、実用新案権、意匠権の性格は、著作権、商標権とは若干違うので、法律として語る場合は注意しましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20120906191656
突っ込み受けました。
ボードや駒でも意匠登録すれば権利受けられるよー……という事で、打ち消し入れました。
これみた。
「たかじんのそこまで言って委員会」の南京事件検証動画が秀逸すぎる。 | ねとうよ速報
http://netosoku.net/blog/others/takajin_nankin_kensyou/
南京事件否認論の恐怖。 - Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20120308/p1
捏造写真や被害誇張が多すぎるとか、中国が国をまとめるためのプロパガンダとか、でも戦争なんだから規模はともかくやってるに違いないだろとか、外国人が書いた一次証拠もあるだろとか、これを全部正しいとしても関東軍の虐殺動機がよくわからない。たとえ数万人でも虐殺は軍の指示がなければ無理だ。関東軍は何か深い民族的恨みでもあったのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)
南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを殺した事件。
でも、この前に満州事変とかで国作ってるんだよね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD
1932年から1945年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。
満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。
とすると、傀儡政権で日本人優位とはいえ中国人(満州族)とも一緒に暮らしてたわけだ。その後国を運営しながら5年かけて南京まで領土を拡大。ならなおさら軍命令で虐殺する意味がわからん。南京の人とも一緒に暮らすだろうし国民は国家の労働力ではないのか?
と思ったら、詳しい解説サイトがあった。
南京事件 初歩の初歩
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shoho.html
まずよく誤解されるのですが、「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません。基本的には、数多くの中小規模の「事件」の集積です。
また、「民間人巻き込まれの責任は便衣兵戦術をとった中国側にある」との暴論も見かけます。そもそも南京では「便衣兵戦術」の存在は確認されていないのですが、例え南京戦以前の上海戦での「便衣兵」を問題にするとしても、日本軍の責任は免れません。日本軍は「民間人混入」のリスクは十分に承知していたはずです。殺害しなければならない切迫した事情もなかったのですから、そのまま生かして「捕虜」としておけばよかっただけの話でしょう。
秦 南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウィークポイントなんです。
秦 捕虜の資格があるかないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺するに値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです。
秦 捕虜としての権利がないから裁判抜きで殺していいということにはならない。自然法に照らしても不法でしょう。古代の暴君ならともかく、こいつは悪い奴だから、その場で処刑していいというのは、文明国がやることではない。捕虜の扱いはお互い様ですから、それなりに尊重し、労働をさせれば一定の給与を与え、自国の兵士と同程度の食料を与えるのは交戦国の義務でした。
中村粲氏
武器を棄てて我軍の権内に入つた段階では捕虜なのであり、秩序や安全を脅かすことのない限り捕虜として遇すべきもので、重大な理由なく処断するのは戦時国際法違反になるであらう。
軍司令官には無断で万余の捕虜が銃剣刺殺された。それを「便衣の兵は交戦法規違反である」と強弁してはならず、率直に(それは)戦時国際法違反であり、何より武士道に悖る行為であったことを認めねばならぬ。
原剛氏
しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。
松本健一氏
捕虜でないからという理由で捕まえた敵国兵士を戦場で裁判にもかけずに勝手に処刑することは国際法上からも容認されていないはずです。
北村稔氏
筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文運用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。
私見ですが、「安全区掃討」の是非は、「国際法」のややこしい議論に突入するまでもなく、「常識」で考えればいいことだと思います。もう戦闘は終了しているのに、戦闘意欲を失った元兵士を片っ端から引っ張り出し、そのまま何キロも歩かせてまとめて殺害する。しかもその中には誤認連行された民間人も大量に存在している。「虐殺」だと感じれば、普通の感覚でしょう。
南京事件 初歩の初歩、了解。
ひとつ思いついたけど、この国際法を守る「普通」の感覚があれば、中国軍が世界を支配できる簡単な方法がある。10億人中の数十万人を各戦場に投降させたらいい。そしたら敵軍はその「捕虜」を戦時中に食べさせて管理して働かせても、食料を作る時間的な差で補給がままならなくなり、暴動が起こらないような高度な管理にも相当な軍人を割かなければいけない。その間に本隊で攻撃をすれば勝てる。相手が国際法を守るなら。
当時の中国がちょっと「普通」じゃないのは、ケタ違いの人口を誇るのに日本と比べて近代的な武器を持ってないこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
戦力
大日本帝国陸軍30000 - 66000
16万の軍隊が、3万から6万6千の関東軍に負ける。ランチェスター戦略ではまずありえない。
「捕虜」の感覚も「普通」だと人数の少ない軍隊が負けて、戦いに生き残った少数が「捕虜」になるという感覚なんだが中国相手だと
南京事件 初歩の初歩
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shoho.html
「南京事件」中、最大規模の「捕虜殺害事件」として知られている事件です。
第十三師団山田支隊は、南京城北部を進軍中、大量の投降兵に遭遇しました。その数は、当時の公式発表に従えば一万四千人余りと伝えられます。この捕虜群はいったん幕府山周辺の建物に収容された後、12月16日から17日にかけてほとんどが殺害されてしまいました。
12月13日、日本軍は南京を占領しました。逃げ場を失った中国軍兵士は、大挙として軍服を脱ぎ捨て、難民が避難していた安全区に逃げ込みました。
14日から16日にかけて、日本軍は、避難民の中から元兵士とおぼしき人物を選別し、そのまま揚子江岸などに連行して殺害しました。歩兵第七連隊の戦闘詳報によれば、その数は七千人弱、と伝えられます。その選別方法はアバウトなもので、その中には大量の民間人が混入していたものと見られます。
さらに17日の入城式後も、「安全区掃討」は続きます。佐々木到一少将によれば、1月5日までに、さらに二千名が摘出されました。
結果、数万人虐殺してるんじゃないかという予測ですが、普通の感覚なら戦時中とはいえやはり全員ちゃんと食わせて、ひとりひとり裁判にかけて、きちんとした管理の中、この数万人を戦争が終わる8年間(1945)まで捕虜として扱うべきだったのでしょう。虐殺するほど軍人最低限のモラルもなくなるでしょうし。
たかじんの動画でありますが、台湾攻撃した時は虐殺なんかしてない。満州事変のときも、満州族とその地域を一度に支配したのでその必要がなさそう。南京陥落のときは戦闘継続中の「中国軍」だったので一気に中国を支配できなければ投降は「捕虜」にするかその数万人を扱う余力がなければ虐殺するしかないということでしょうか? 日本軍には「投降」という概念がなさそうで、なおさら大量の捕虜を信用出来そうにもないという文化の違いもありそうですが。
南京事件の初歩の初歩までの理解ですが、右の言う捏造写真や被害誇張が多すぎるとか、中国が国をまとめるためのプロパガンダとか、動機がないとか、虐殺する弾薬や労力が無駄とか、左の言う、でも戦争なんだから規模はともかく心壊れてどこかでやってるに違いないだろとか、外国人が書いた一次証拠もたくさんあるだろとか、これは結局、関東軍が対人口比の極端に多い中国に勝ち進んだという「普通」じゃない状況が大量の「捕虜」を扱いきれず一般人も巻き込んで虐殺したことで、「普通」の時代の人から批判されまくってるという解釈で初歩の初歩はOKですかね?
あの当時、数十人の管理人でも数万人の「捕虜」が暴動起こさないような設備とシステムを作って、人権も守りながら低コストで、食料もすぐに自給自足管理させ、ひとりひとり裁判もできたら良かったんでしょうけどね。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b#
このような記事があがっていたので、目立つように投稿。
俺のコメもトラバも受け付けてもらえなかったので、この記事から目に付いて読まれればいいなと。
それは、「この世」と「聖書」。
神の教えを知りたければ、そのどちらかを、または両方を知ろうとしなければならないのです。
それがキリスト教圏での基本的な考え方。
だから、西洋では「この世」を知るために自然哲学が発展したわけ。
クリスチャンは、自然を知って神の教えを知り、征服していくことが神に忠実な姿勢だと思ってたの。
で、当然全ての造物主が唯一の神なのですが、人間ももちろん被造物であるわけ。
まずはそこまで理解して欲しい。
で、今でも自然科学が最も発展している西洋人が、クローン技術などを「倫理」で批判する理由にいきます。
人は、自然法則を理解して、他の生物をいじることが可能になったとしても、それは動物相手だからある程度いいわけ。
でも、人は人を作ることはできない。というか、あってはならない。
それは人を動物に貶めることであり、神しか作れない人を人が作ることであり、それは神を冒涜することだから。
あるがままが美しいとする国。
だから日本人はこの問題を「え、そこまでしていいの? そんなのいじるのって気がひけるし、あるがままでよくない?」って思想を「倫理」と呼んでいるのです。
それでもまあ、国内で言う「倫理」も国内では無視しちゃいけないかもしれないけど、こういう技術に関しては世界で統一した基準が必要なんです。
だから、クローン技術に関する「倫理」を語る場合は絶対に世界標準の「倫理」の話をしないと意味をなさないんです。
それを理解している人が専門家にも少ないから、日本人は相手にされてないんです。
もちろん外人もダーウィン以降、人は神から作られたんじゃなくて他の生物から進化したとかは渋々認めざるを得なくなったけど、根の考え方というか感覚的な思考というか、信条的なスタンスまでは揺らがないわけ。
ま、もちろん両国とも、「命をオモチャにるする」ような行為については共有された「倫理」を持ってはいますけどね。
その辺を誤解して、というか混同して議論すると世界的な枠組みが出来上がるはずがないわけ。
それなのに、
そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。
「遺伝子を神と同一視してる」なんて、完全に逆の捉え方をしている。
教典に直接 DNA と書かれてるわけはないけど、「アダムとイブが~」って話がすでに人による人の改造を禁じているわけです。
そこを理解すれば、自分で書いたものを読み直せばちょっと恥ずかしい気分になると思う。
あと、私は生命科学者なので一応言っておくけど、DNA は物質の名前。
「DNA がつながっている」「DNA の継承」は誤用で、「血がつながっている」「遺伝子の継承」のほうが適してるかなー。
「倫理」についても、「DNA」についても、誤解している人が書いているなあ、と気になったので、一応指摘でした。
ま、遺伝子操作を神聖視しすぎずに、柔軟に考えたらいいんじゃないのーって論旨には同意です。
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b/d3
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b#
それは、「この世」と「聖書」。
神の教えを知りたければ、そのどちらかを、または両方を知ろうとしなければならないのです。
それがキリスト教圏での基本的な考え方。
だから、西洋では「この世」を知るために自然哲学が発展したわけ。
クリスチャンは、自然を知って神の教えを知り、征服していくことが神に忠実な姿勢だと思ってたの。
で、当然全ての造物主が唯一の神なのですが、人間ももちろん被造物であるわけ。
まずはそこまで理解して欲しい。
で、今でも自然科学が最も発展している西洋人が、クローン技術などを「倫理」で批判する理由にいきます。
人は、自然法則を理解して、他の生物をいじることが可能になったとしても、それは動物相手だからある程度いいわけ。
でも、人は人を作ることはできない。というか、あってはならない。
それは人を動物に貶めることであり、神しか作れない人を人が作ることであり、それは神を冒涜することだから。
あるがままが美しいとする国。
だから日本人はこの問題を「え、そこまでしていいの? そんなのいじるのって気がひけるし、あるがままでよくない?」って思想を「倫理」と呼んでいるのです。
それでもまあ、国内で言う「倫理」も国内では無視しちゃいけないかもしれないけど、こういう技術に関しては世界で統一した基準が必要なんです。
だから、クローン技術に関する「倫理」を語る場合は絶対に世界標準の「倫理」の話をしないと意味をなさないんです。
それを理解している人が専門家にも少ないから、日本人は相手にされてないんです。
もちろん外人もダーウィン以降、人は神から作られたんじゃなくて他の生物から進化したとかは渋々認めざるを得なくなったけど、根の考え方というか感覚的な思考というか、信条的なスタンスまでは揺らがないわけ。
ま、もちろん両国とも、「命をオモチャにるする」ような行為については共有された「倫理」を持ってはいますけどね。
その辺を誤解して、というか混同して議論すると世界的な枠組みが出来上がるはずがないわけ。
それなのに、
そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。
「遺伝子を神と同一視してる」なんて、完全に逆の捉え方をしている。
教典に直接 DNA と書かれてるわけはないけど、「アダムとイブが~」って話がすでに人による人の改造を禁じているわけです。
そこを理解すれば、自分で書いたものを読み直せばちょっと恥ずかしい気分になると思う。
あと、私は生命科学者なので一応言っておくけど、DNA は物質の名前。