はてなキーワード: 自然法とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
かつては、人権の根拠は自然法つまり神(宗教的権威性)に求められていた。しかし、世俗主義の民主主義国家において、特に、日本においては、人権そのものが、根拠・命題と自然法論で主張される(トートロジー)。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」はこの意味に解される。この場合、人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられるという法学者が多い。一方で、法実証論においては、人権の根拠は単純に法律(ほとんどの国では憲法)にあるとされる。
公民権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9
公民権(こうみんけん)とは、公民としての権利のこと。公民としての権利とは、公職に関する選挙権・被選挙権を通じて政治に参加する地位・資格、公務員として任用される権利(公務就任権)などの総称で、参政権、市民権とほぼ同じ意味である。
人権のよってたつ根拠を、神や法律や人権そのものに求める立場がある。
世俗的な国家にとっては、ちょっと神はないだろう、となる。人権トートロジーも心身二元論みたいで整合性がなくなる。
法律が根拠というのはかなり正しく聞こえる。ということは国ごとの、あるいは国の間のものであり、国主体ということになる(EUはあるけど、各国の国民投票が欧州憲法より優先されているはず)。
気になるのは公民権なのよね。参政権が人権全体にとってかわる? 足りないものが多すぎる。自由権とか社会権とか受益権とかどうすんの。
それとも人権概念の根拠は参政権だといいたいのだろうか。それなら分かる。公民が国家にアクセスできる仕組みが参政権なので、参政権がない=公民は国家にアクセスできない=国家が公民に一方的にアクセスすること(これが問題になるということは大抵は人権蹂躙状態になっている)を防御できない、ということだろう。
何か在日韓国人が参政権欲しがる理由が分かるような気がするな。参政権がないということは、国や地方にアクセスできないのに、国や地方のアクセスは受けねばならんということだ。そして人権は蹂躙される(というか、そもそもあるべき人権が認められていない)。それはモノスゲーイヤだろう。俺がアメリカンドリームで一山当てるためにアメリカに行ってそういう扱いだったらファックだぜ。
だったら国籍取ればいいじゃない? そう、ここで第五の条件、身分証明書が出てきた。人権には国籍・戸籍・住民票のような身分証明書が必要で、それが人権を支えているのだろうか?
というわけでアンケート。
1:神
2:人権そのもの
3:法
4:参政権
5:身分証明書
6:他の何か(内容も書いてください)
気が向きましたらお答えください。
あ、うん、だから元増田が書いている自由ってのは、一般的には社会的抑圧からの自由行為なのであって、それを知らずに自然法則からみたら全く自由ではない、というのは議論のための議論でしかない、ということ。
渡辺昇一が「日本では自由と民主主義がセットのような感覚でいるけど、欧米では別個のものとして認知されている。民主主義がガチガチの“しきたり”を選択するのはよくあること」と書いていた。
社会にある諸々の「解放運動」も、社会的抑圧からの解放を謳っているのであって、捕鯨反対運動は別に「鯨食文化からの解放(自由)」を謳っているわけではない。
女性解放運動だって社会の男女差別や、裁判なんかで女性に我慢を強いる文化からの解放運動であって、自然法則をやり玉に挙げている団体はほとんど相手にされずに泡沫運動となっている。
えええ? 今話題になってるのは参政権じゃないの? なに? 表現の自由とか? 法廷でメモとる権利は外国人にも当然に保障されるよ。良かったね!(レペタ事件)
それを一般論であるかのようにいってるから。
百歩譲ってお前さんの主張が真として、外国人が航空機を日本で登録できない(憲29所有権の制限、航空法101)ことは貴族制度か。面白い、いい判例になるから訴えてみろ。
許可要件に該当する国民が登録できるんだから、特権階級には該当しないんじゃないの。
なるほど。一元論的法実証主義ってわけか。
えええ? 今話題になってるのは参政権じゃないの? なに? 表現の自由とか? 法廷でメモとる権利は外国人にも当然に保障されるよ。良かったね!(レペタ事件)
なわけあるか。前述の通り、14条は国民について法の下の平等を定めている。外国人に対して、人権の性質に応じて制限をかけることは全く問題ない。百歩譲ってお前さんの主張が真として、外国人が航空機を日本で登録できない(憲29所有権の制限、航空法101)ことは貴族制度か。面白い、いい判例になるから訴えてみろ。俺がEU内でメディア所有に制限かけられるのは、EUの連中が貴族だからか。すげーな。
個人の尊厳を根底に現行憲法の条文ができているのなら、現行憲法をベースに議論すればたくさんだな。法規範の内実が増田の脳内にしかない自然法上の概念をひっぱり出すのは、法実証主義として受け入れられない。憲法が定めていないこと、たとえば参政権を含む外国人と国民の完全平等を、憲法の名の下に正当化して、それを国益に結びつけるような暴論は拒否しようじゃないか。
そういう趣旨のことじゃなくて、純粋に市場原理主義という言葉を論じるときに、市場原理の主義みたいなていで
議論が進むのが違和感があるという話。経済学者が価値判断をしがちだなどとはあんまりおもってないよ。
だから、価値判断しないというのはまあそうで、市場原理は自然法則なんだから、批判するのって意味なくね、建設的じゃないよね、という論法になる。
で、そこでその違和感と絡めると、市場原理主義を批判するひとは、ドグマという意味での原理を批判してるので、法則という意味での原理を
批判してるのではないのだから、言ってることはもっともだけど、反論としてはずれてないか、ということ。つまり言葉の意味のすれちがい。
念のため言っておくと、もちろん、市場原理・主義みたいな区切り方で議論を展開する人が、原理主義(ファンダメンタリズム)という本来の語構成を
捉え損なっているとまでは思ってないよ。あくまで、議論の筋の作り方の問題だとは思うんだけどさ。
同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花、水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。
花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女は彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女の細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリーやクラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。
後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。
だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」
右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶の属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史は世界の属性か、観測の属性なのか。
いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間も歴史も世界の側の属性だ、と。
だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。
しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)
だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力と自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常は永遠によって捕らえられている。悪い意味で。
だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。
コンビニでマテリアルガールがかかっててふと思ったんだけど(-ガール、というsuffixがつくからといって中田ヤスタカの未発表曲じゃありません)マドンナのパパ・ドント・プリーチのときの教皇ってあのポーランドの人でよかったんだっけ。
別にことさらドミニコ会=説教者修道会に対するあてこすりの意図はないよな。全体としてカトリック信仰に喧嘩を売る意図はあまりに明瞭だけれど。しかしまあドミニコ会士の現代における等価物は人権団体とか環境団体のロビイストだろうな。同性愛者に権利を、とか無神論的自由主義、不可知論を標榜しながら、彼らのやってることは「キリスト教徒にふさわしい精神」の押し売りの現代版だ。そしてそれにすばやくすりよる金貸しども。カーボンエミッションの売買は現代の贖宥状そのものだ。マモンのかわりにガイアとか人権、健康とかを偶像崇拝するというのがこの「新しい中世」の堕落した教義らしいよ。そのうちタバコを吸ってると公共に対する毒ガス攻撃として異端審問にかけられる世の中にマジなりそう。タバコを吸うという愚行がいかに自然法の観点から正当化しがたいか、スコラ的に論証できるようになっとくと就職口に困らない、まっくらな未来が来るかも。下々はカルミナブラーナでも聴いてその日暮らしの楽しみを謳歌するすべを学んでおきましょう。(児ポがらみの論点はあえてスルーしますがもちろん関係ありありです)
うーん、すげえテンプレっぽいツッコミで今更感があって申し訳ないけど、
国によっては同性愛が法的に禁じられてるところもあるし、逆に子供との結婚を法的に禁じていないところもあるよ。
だから、法を理由にして
つーのは適当ではないと思う。
その認識は、その法がどうして、何故そう定められているのか、という意識が希薄すぎるんじゃないかしら・・・。
法律の条文は人間とは無関係なところで定められた自然法則のようなものとは違うのだから。
「ロリコンが叩かれるべき」かどうかはひとまず置いておくとしても、
「叩かれるべき」理由を「法的に認められるか否か」に求めるのはちょっと考えたほうがいいと思う。