はてなキーワード: 権威とは
以下の一連のTweetで、作家の王谷晶が表現の自由戦士を批判している。
https://twitter.com/tori7810/status/1427952640923631616
王谷晶『バ バ ヤ ガ の 夜』10月23日発売
@tori7810
ちなみに私は「徹底的にゾーニングしてモザイクを外せ」という公権力による性表現の検閲反対派なんだけど、自由戦士系の人で同意見の人あんま見ないね
「ギリギリの線」を狙った(たまにコースアウトしてるものも有り)性表現が公共空間に撒き散らされ、18禁のコンテンツにはモザイクかかってるってイビツでしょう。
表現の自由というより「公共空間に(シスヘテロ男性向けの)エロが巻き散らかされている、シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」という状況を欲している人たち、な印象。自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由、他に何かあるかな
これは、偏見に満ちていて甚だ不誠実だと表現の自由戦士である増田には感じられた。また、このTweetに対するブクマも同じような感じのものが多く見受けられたので、批判をする。
王谷は「徹底的にゾーニング」と言っているが、これはどのようなものなのか全く示されていない。ゾーニング対象を設定するレーティング、次にゾーニングの手法があるが、それについて何も示されていない。
と書かれてはいるものの、その内容ははっきりしない。しかし、現状で、明らかに生々しい性交の描写が描かれているような男性向けのポルノは、自主規制である表示図書(いわゆる18禁)として、陳列方法などが条例で規定されてゾーニングされている。王谷は、現状について批判しているのだから、18禁とする敷居を下げろ、あるいは異なる基準にせよという指摘をしていると考えられる。しかし、この基準が示されていない以上、表現の自由戦士は「フェミのお気持ち」と想定するしかないし、実際にそうとしか解釈できないような批判にさらされ続けてきたと、こちらは認識している。
また、ゾーニングの手法についても、疑念はある。現状は、棚の高さや目隠しの大きさなどを規定した区分陳列の手法が条例で規定されているが、当然にこれは、好まない人が絶対に目にしないということを担保できるものではない。また、少なくとも「ここにポルノがありますよ!」という表示は明白にする必要があることから、ポルノそのものに嫌悪感を持つ人たちにとっては、それだけで不快感を与えるであろうことは想像に難くない。また、売上が大きくなれば、当然に売り場が増えたり、宣伝が増えたりして、露出する機会は増えていくだろう。これらをどうにかしようとすれば、厳しい広告制限や売り場の制限などを加えるしかないから、当然に、売上が減少するだろうし、売れない商品は作られないということになるのは想像に難くない。
王谷晶自身がBLを書いていることなどを考えれば、BLを棚に上げているという批判は妥当するだろう。なぜならば、現状で、ゾーニングができていないことで問題になっている(=東京都の指定図書になっている)のはほとんどがBLだからだ。
もちろん、少なくない表現の自由戦士は、現在、東京都で多くのBL作品が指定図書に指定されてしまい、実質的な発禁に追い込まれている現状を憂慮している。しかしこれは、BLが表示図書としてゾーニングしていないから起きている事態である。
対して、男性向け作品はほとんど指定されることはない。これは、差別ではなく、過去、男性向け作品が大量に指定されたことから、グレーゾーンにあったソフトコアポルノ的な作品が淘汰され、ハードコアポルノを中心とする表示図書ばかりになった結果、そもそも指定されない状況になったためである。なお、ソフトコアな作風の作家は、女性向けのTLに活躍の場を移して、やはり表示図書ではない形で出版されている例が散見される。
さて、男性向けに対して、女性向けであるTLじゃBLは表示図書にしてしまうと、明らかなエロ本売り場に隔離されてしまうので、女性が買いにくくなったり、一般の書店で取り扱われ無くなったり、扱いが縮小するために出版ビジネスとして成立しなくなってしまう。なので、女性向けのほうがゾーニングが難しい状況である。
腐女子などに見られる認識で、「隠れる」ということがゾーニングであるという考え方があるように見える。王谷晶も「公共空間に撒き散らされ」と男性向けコンテンツの在り方を批判している。しかし、実際は、ゾーニングというのは「これはポルノである」「ここではポルノを売っている」と、明白に表示する事である。当たり前だ、ポルノが欲しくない人や買ってはいけない人が買わないようにすることがゾーニングだからである。ポルノの存在に気付いて不快に思う人は考慮されないし、考慮されるべきでもない。世の中に自分の嫌いなものが存在するのは当たり前だからだ。
「自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由」は単純に、それが目に嬉しいからと考える方が妥当だろう。世の中は、目を楽しませるための装飾や、広告に視線を引くための表現が溢れかえっている。わざわざ、「シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」などというものを仮定して、余計な理屈をつけるほうが妥当ではない。オッカムの剃刀である。
そして、そもそも論として、公共の場というのは、むしろ明らかに害があるものでなければ排除してはならない、という性質の場である。たとえば、天皇制を批判する言説の表現は、少なくない人を傷つけたり、不快感を抱かせる可能性が高い。しかしながら、だからといってそのような表現を公共の場から排除せよというのは妥当ではない。
もしそれでも公共の場から排除すべきと主張するのであれば、公共の場からの何をどういう理由で排除するのか、一貫した理論を展開する必要がある。
当然に、表現の自由戦士は局部修正に反対の人がほとんどである。しかしながら、何か別の規制とバーターで局部修正を解禁しようと言うつもりも無い。
例えば、局部修正が解禁されても、厳しいゾーニングで商業的に成立しなくなるとか、同人誌即売会が公共施設から追い出されるとか、ロリコン表現や侮辱的な表現が禁止されるとか、ポルノではないがフェミニストが批判するような描写を一般誌から排除するとか、そういう条件が付されるならば、当然に許容できないだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tori7810/status/1427952640923631616
id:zyzy 自分もこれだが表現の自由戦士たちはチキンレースで悪ぶりながら周囲に嫌がらせするのが目的なので、どうもこれには反対らしいんだよね。
他人の内心を勝手に想像して目的とするのは妥当ではない。そして、あえて言えば、チキンレースは悪いことでは無い。ギリギリの表現を狙うことは、全く自由であるし、それは表現の可能性である。
id:akakiTysqe https://twitter.com/jenaiassez/status/1427970782584467456?s=21 同意見なんだけど、彼らはむしろ刑法175条を守るからゾーニングはいらないという人たちなんだよ。
まず、刑法175条には反対である。しかし、実際に処罰されるリスクがある以上、従わざるを得ない。また、ゾーニングやレーティングが全く不要だとは言わないが、少なくとも、その妥当性は厳しく吟味されるべきだし、その範囲は最小限であるべきだと考える。
id:cinefuk (無意識の)加害欲求を度々指摘されてるけど、否認するばかりなんだよな『公共空間に(シスヘテロ男性向けの)エロが巻き散らかされている、シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる』
「(無意識の)加害欲求」があると主張するならば、その存在を証明すべきである。また、よしんば加害欲求があったとしても、加害行為でなければ問題はないと考えられる。
id:nowa_s 公権力に全て委ねるのか、表現の作り手と受け手とその輪以外の人々の合意による自治を図るのか、だよね。/合意形成って、議論は論破ゲームだと思ってたり、「価値観は人それぞれ、以上」の文化で可能かは知らんけど
公権力は素晴らしいとは思えないが、「自治」という名前の学級会で、非道徳的なポルノを楽しむ悪い男子が吊し上げを食らうことが明らかであるならば、そんな人民裁判への召喚状は破り捨てるしかない。
自治や合意形成なるものを、人民裁判に貶めているのは、フェミニストやキャンセルカルチャーの成果ではないのか。
id:HanPanna 表現の自由戦士は「お上の規制なら従う」って態度の人が多くて、公権力による規制を最も警戒する(民主主義のため)表現の自由とは真逆のスタンスなんだよね。彼らが守りたいのは表現の自由じゃなくて権威だと思う。
はっきり言えば、フェミニストよりも「お上」のほうがいくらか信用できる。東京都の青少年健全育成条例は、決して素晴らしいとは言えないが、少なくとも出版側の意見を出す場があり、明確な基準の無いお気持ちで運用されているわけでもない。少なくとも、憲法擁護義務のある公務員は、ある程度謙抑的に振る舞ってくれることが多いが、学級会で吊し上げをやってきたような連中が暴走する様は嫌と言うほど見てきた。
id:tvxqqqq 男女とも同じ基準でゾーニングした上でモザイク外すというのは同意。レーティングは女性向けに甘いと言われてるようだけど(BL興味ないから実際は知らん)、公共の場での表現物についてはヘテロ男性向けだけゆるい。
「ヘテロ男性向けだけゆるい」というのは根拠が薄い。女性向けの欲望に即した広告表現は珍しくないし、具体性に乏しいためにする批判である。
id:quick_past 何を持ってしても、より良い選択肢を目指すより、とにかく相手を叩きたいだけの連中だし、さんざ投げかけられた返答も無視してるからな
その「より良い選択肢」というのが「(フェミニストにとって)より良い選択肢(もちろんクソオスの利益なんかしらん)」と区別ができない。何かしらの提案、特に誰かの自由を制約する提案をするのであれば、自由を制約される側の利益を考慮していることを積極的に証明しなければ、悪意が推認されて当然である。
また、返答は無視していない。理解できないか、理解できても配慮を要するとは考えられないかだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210825220838
id:brightsoda "実際に処罰されるリスクがある以上、従わざるを得ない。" これがアリなら表現規制派に火炎瓶を投げ込まれるリスクがあるから従うでも怪獣がインクの匂いに怒って襲うリスクがあるから焚書でもアリになるじゃん
もし仮に、北朝鮮や中国、アフガニスタン、あるいはシンガポールのような表現規制派が牛耳っているような国に住んでいるならば、多くの人は従わざるを得ないと考えるだろうし、そうするだろう。表現規制派が、時々火炎瓶を投げる程度であれば、少なくとも私にとっては許容可能なリスクなので、従うことはないだろう。また、怪獣は居ないので怪獣の脅威を理由に焚書をすることもないだろうし、もし、怪獣を信じて焚書をする連中が他人の財産を破壊しているならば、警察に通報するだけである。
id:mogmognya おおちょうど良い、増田はちょっと前に話題になった秋葉原のエロゲーム広告はアリと思う?ナシと思う?あと、演者が痛がる様子を笑うお笑いはアリ?ナシ?
話題になった秋葉原のエロゲー広告程度の表現は、「屋外広告として」「法的に」規制しうるかギリギリのラインだと思う。このぐらいの、際どいグレーゾーンに対する公序良俗の判断は、むしろ関係者が納得できる公正な判断の仕組みを担保することが望ましいと思われる。このような表現を批判する側と擁護する側を概ね均等に含む、有識者、利害関係者による付属機関を設置すること、その議事録を公開すること、当事者の異議申し立ての機会を担保する教示をすることなど、そういった関係者が納得できる仕組みを予め用意することができれば良いと思う。
また、演者が痛がる様子を笑うお笑いは、まず、その映像を放送することが、直接に法的に規制しうるものではない。チャンネルを変えることは簡単である。しかし、放送は規制産業であり大きな影響力を持つことから、高度な自主規制を行うことそのものは妥当性があると思われる。その意味で、現状のBPOは完ぺきではないにせよ、それなりに妥当な形で機能しているように見えるので、BPOが慎重に判断していくことそのものは、私は妥当性があると考える。
増田の個人的な考えは、単なるポジショントークだから、「規制に反対」としか言えない。
私の価値観の話をすればお気持ちでしかない。しかし、それは、他の誰もが同じことである。
その上で、ゾーニングをしろと言ってくる以上、その公正さをいかに担保するのか、あるいは担保できるのかということを問うている。
id:HanPanna いや、増田が誰を信頼するかしないかの話はしてないよ。表現の自由は「民主主義の維持」に必要不可欠なものだから他の人権よりも優越的な地位にある。権力と学級会では民主主義への脅威が全然違うのに馬鹿だねって話
実際、その学級会で潰される側から見れば、権力も学級会も大差は無い。
アメリカの権力と、非正規のタリバン、どちらが民主主義にとっての脅威か問われれば答えは明らかだろう。
id:fourddoor おお、レスくれる系増田だ。JK痴漢エロ漫画の本編抜粋広告看板を停車中の電車から見える位置に掲示するとか、小学生レイプ漫画の広告を通学路に掲示するとかはどうですか?なお局部は隠れているものとする。
屋外広告条例は、都市計画や建築の分野になっており、意匠については「景観風致を害する」程度の基準でしかなく、実際に問題になるのは、広告の内容などよりも大きさや派手さ、手続きの話ばかりなので、これといった基準がありません。
が、これは、表現の自由の問題であるとともに、公序良俗の問題であるとすると、基準は「普通人が耐え難いか」程度のものになると思われます。
なので、仮に「JK痴漢エロ漫画の本編抜粋広告」があからさまに痴漢行為、性交又は性交類似行為に及んでいることがわかる意匠、乳首や陰毛が露出しているような意匠であれば禁止されると思われます。また、「小学生レイプ漫画の広告」も同様に、その意匠がそういう意味で問題あるかという判断になろうかと思います。逆に言えば、LOの表紙、あるいはクジラックスの単行本「ろりとぼくらの。」の表紙のような意匠であれば、屋外広告としては問題無いと思われます。TENGAやirohaのような路線の広告も問題無いでしょう。
また、逆に、いくら胸を強調しているとしても、宇崎ちゃんの表紙や、スカートに影できているといってもラブライブの高海千歌のPOPスタンド程度の表現もまた、普通人を基準としてそれほど耐え難いとは思えませんから問題無いと思われます。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
それが何兆円あろうと1回渡したらそれで終わりである。尽きれば満たされていた分よけいあとで貧しい思いをするだけ。そんなの自己満足でしかない
たけしの面白さはコマ大数学科や映画、政治を語れる高い教養と不謹慎のギャップにある。
https://thetv.jp/news/detail/129518/p3/
「お笑いは、落差だから。普通の人がくだらないことやるより、有名な賞を取った偉い人がやった方が面白い。だから理想は、ノーベル賞を取った後に、立ちションや食い逃げで捕まりたいわけ。俺が『賞が欲しい』って言ってるのは、偉くなりたいんじゃなくて、お笑いのためなの(笑)」
TVで面白くないのは、たけしの不謹慎ボケにちゃんとツッコミを入れないから。
ひな壇芸人やたけし軍団は、たけしを神格化しすぎて遠慮しがちなツッコミしかできない。
これではひょうきん族のように、たくさんボケを撒いてアドリブから偶然生まれる笑いなどは起きない。
笑いのために偉くなったのに、皮肉にも笑いが生まれないほど権威化しすぎてしまった。
たけしのボケを成立させるには、教養が高くちゃんとボケを笑ってツッコミ出す橋渡しができる人物が必要。
所ジョージ、阿川佐和子、タモリ、さんま などがそれにあたる。
所、阿川は世代が下ながらも、親戚のおじさんぐらいにしか扱ってない距離感が良い。
2人の頭の良さは、たけしを前にその余裕を伺える。
タモリ、さんまも頭はいいのはもちろん、ひょうきん族時代の戦友。
とくにツッコミのスペシャリストであるさんまが一番たけしと相性いいだろう。
ブコメで高く評価されてる、ツービート、ひょうきん族、火薬田ドン、笑っていいともの祝辞などは「事前に用意されたコントや漫才」である。さんまがいないとき、周りがリアルタイムでボケを昇華してくれないなら、コントとして事前準備をすることでたけしの面白さを引き出す。
20年以上昔の世界まる見えだったか「俺がしゃべるほど視聴率落ちるんだよ。しゃべんないほうが数字いい。」と言ってて、そういや世界まる見えも、元気が出るTVもそういう立ち位置だなと、それを自覚してることに変に感心した覚えがある。今でも収録ではツービートばりの下品で不謹慎な毒を吐いてるらしいのだが、さすがに今のTVでは不適切でカットされるそうだ。今の時代不謹慎ネタは厳しい。
では、たけしがいなくてもいいかというとそんな事はない。たけしの数々の芸歴、教養、映画の実績など、演者、スタッフ、視聴者みんなが一目置く存在というのは稀有で、たけしがいるだけで番組の格が上がる。たけしを抜いたらすべての番組は深夜番組レベルに格が落ち、たけしがいればゴールデンに耐えられる。たけしは料理の豪華な器であり、なくてはならない薬味だ。たとえ中身が高級料理でもスーパーのプラスチック弁当箱に入れたら深夜番組レベルに落ちる。それぐらいの実績と格。
親戚のじいちゃんが一生懸命不謹慎な事で笑い取ろうと必死になってるのを「たけしへのツッコミはそうじゃねえだろ! もっと事前に仲良くなって頭バチコーン言わせたれ!」と、心のなかでツッコミながら楽しむのも一興である。
以前、後付けで理論を修正するのは科学的ではない、って言ってた人がいる。でも科学全体としてみると、ニュートンの古典力学をアインシュタインが上書きしたように、科学はいつだって、理論から漏れる細かい例外をアドホックに修正していく過程にある。Google なり科学的権威が氏のような、毎日ブコメに予測を盛り込んで頻繁に新しい予測を発表していくエネルギーを持たないのは、単一の理論としての科学的適合性にこだわるあまり、状況に合わせて柔軟に対応できる余白を持たないから。だけどそれじゃ足りないんだよ。
「次回の歯医者の予約は、いつにしよう?」の答え。人々が本当に必要としているのそれでしょう?
外れそうならキャンセルするしかないが、それでも予約自体はしなければならない。自分で決めなくてはならない。自分の山勘に従った判断は——実質的に、占いだ。そして個人で個別に独自の占いをするよりは、誰かが統計に基づいて “機械学習” で予測してくれた方が嬉しい。結果へのフィードバックも集中するから社会的な効率性も高い。でも人々の期待と鬱憤の交錯する中に飛び込むのは、間違いなく口で言うほど、簡単じゃない。
過去をほじってくるような連中に対してもサービスを提供しようとする勇気と、それを継続できる根気、対抗言説を突き放して進む情熱。俺は個人的に、拍手を送りたいと思う。
その手の露悪趣味を初めてメインストリームに持ち込んだのがビートたけし。
シェイクスピアを見てありきたりな展開の寄せ集めと言ったりするのと似てる。
そもそもの因果関係が逆なのよ。2chやtwitterがたけしの劣化コピーなわけ。
氾濫する劣化コピーを見慣れたせいで本家が古臭く見えてるだけ。
彼は賢いので、芸人として頭打ちになる前に芸術的な映画を作ってその地位を盤石にした。
ぶっちゃけて言えば、彼の役目は90年代後半くらいで終わったと思う。
今では彼自身が完全に権威化したので若者には陳腐に見えるだけ。
スケボーとかなんかめっちゃバズってるけど世の中の大半の人ら絶対スケボー詳しくないじゃん。
選手が何やってて何が凄いのかとか全くわからんのによくあそこまで感動できるな。
んででかい大会なら別に五輪じゃなくとも世界大会とか普通にある競技なのにソッチはほぼスルーでオリンピックになった途端このバズり具合って要するに「オリンピックだから」以外に理由なくね?っていう。
いやもしかしたらずっとスケボー追っかけてる詳しい人から見てもこの五輪はすごくレベルが高かったのかもしれないけど、大多数の人間はその凄さがわかんないじゃん。
こういう事書くと敷居は低い方がいいとかハードルを上げるなとか水を差すなとか怒られるんだけど、それはまあその通りとして全く理解できていない競技をオリンピックだからという理由だけで喜んでるという事実は動きませんよねっていう。
ダンゴムシを指でつついて丸めるスピードを競うスポーツでもオリンピックに採用されたらワンチャン感動してもらえるんじゃないだろうか。
ボソボソ何を言ってるか分からない、テンポもずれてる、おっさんの愚痴を脈絡関係なくぶっこむだけの芸が面白いのか。
他の人より地位が高いから忖度せずに何でも言えるっていうのが評価されているのかもしれないけど、
かといってキレのあるセリフを言う訳でもなく、ツイッターの隅っこで呟かれてそうな品性も知性もない中身だったりする。
お笑いビッグ3と呼ばれる大御所たちについては、全員の昔の面白かった時代を知らないが、他の2人については今見てもキレッキレで面白いと思う。
ビートたけしについては、昔はすごかったのかもしれないが、今は全然すごさが感じられない。現時点で他の2人と並べるとうーん?となる。
スポーツでいえば、もう体力もパワーも完全に衰えた名選手(だった人)が現役で試合に出続けている感じ。
殿堂入りして称えられるのと、現役選手として活躍し続けるのは全く別の話だと思うが、彼は何故か現役選手の扱いを受け続けている。イチローですらもう引退したんだぞ。
今の偉い人が、ビートたけしが面白かった時代で育って来たから過去の栄光で起用され続けるのだろうか。
それとも彼をまだ面白いと思う視聴者が一定数いるのだろうか...
【8/9追記】
若干バズってたのに今頃気付いてびっくりした。(ここ以外にも、コピペまとめ薄っぺらサイトにまるごと転載されてめちゃくちゃ出回ってた。奴らに飯のタネを与えてしまったのは不本意。)
コメントを読んだが、「面白い」「面白くない」「面白かった」「そういう次元でない」と議論百出で、どちらにせよ話題を呼ぶ人であるのだなと再認識した。
一番なるほどと思ったコメは↓だった。
(一部引用:https://anond.hatelabo.jp/20210804173638)
TVで面白くないのは、たけしの不謹慎ボケにちゃんとツッコミを入れないから。
ひな壇芸人やたけし軍団は、たけしを神格化しすぎて遠慮しがちなツッコミしかできない。
確かに、たけしが何か言った後、出演者とスタッフの渇いた笑いの場面になることが多い印象がある。
今の時代に合っていないと言えばそれまでだけど、昔みたいにボケてもツッコミは来ないし、強すぎるネタはカットされちゃうし、笑いに昇華できない辛さがたけしにもあるのかもね。
...とか思いました。
最初は「大貧民ゲーム」「貧民ゲーム」あるいは「階級闘争ゲーム」などと呼ばれており、おそらく「大貧民」よりも聞こえが良い「大富豪」という呼称が後から使われるようになっていった。
Wikipediaを確認すると、「大富豪」と類似したゲームとして、
などが挙げられている。
このうち「大統領」「グレートダルムチ」「ティチュ」「アーシュロッホ」といった欧米圏のゲームはわりあい新しく、日本の「大富豪」や中国の「闘地主」「鋤大D」から派生したものなので除外できる。
残りの「争上游」「闘地主」「鋤大D」「ティエン・レン」のうち、「大富豪」と関連が深いのはどれなのだろうか?
「大貧民 起源」などでググると以下の記事を見つけることができる。
大貧民のルーツはベトナム戦争にある説『トランプゲーム大全』 - エキサイトニュース(2/4)
日本の大貧民は、“日本起源説も十分あり得ます”が、“ベトナム戦争などを通じて、ベトナムから米軍を経由して伝わった可能性もあります”と書かれている。
この記事で紹介されているのがベトナムの「ティエン・レン」である。
まずはこの記述を取っ掛かりにしていこう。
英語版Wikipediaでルールを見ると、「富豪」「貧民」といった階級がないこと、スートにも強さがあることを除けば、確かに大富豪と似ている。
A standard 52-card deck is used. The ranking of the cards from highest to lowest is: 2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3.
標準的な52枚のトランプを使用する。強いカードから弱いカードへ並べると「2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3」となる。
ただし、ベトナム語版のWikipediaを見るとティレン・レンは「1980年代に登場した」らしいので、残念ながら大富豪よりも後発になってしまう。
英語版Wikipediaではティエン・レンの原型となったゲームが挙げられている。
It is derived from Chinese card games Winner, which uses a specially printed deck of cards, and Big Two.
というわけで、次はこの二つを見てみよう。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
また「上位を争う」との名前どおり、大富豪とよく似た「階級」要素が存在している。
この点においてはティエン・レンよりも大富豪に近いと言えるだろう。
争上游の起源についてググってみると、そこから派生した青島の「够級」というゲームについての記事を見つけた。
揭秘青岛够级:起源于沧口广场“争上游” 青报网-青岛日报官网
够级的起源和演变过程有好几种说法,据沧口一带的老“够级”们回忆,它的产生和形成,是在五十年代末到六十年代末的那段时间。那会儿,打扑克已经有了“争上游”的玩法。
「够級」の起源と変遷についてはいくつかの説があるが、滄口地区の古い「够級」のプレーヤーたちが記憶するところによると、1950年代後半から1960年代後半にかけて生まれ、形成されたものであるという。当時、トランプゲームには「争上游」という遊び方が存在していた。
この記述が正しいなら、争上游は大富豪に先行して存在していたことになる。
日本語版Wikipediaを見るかぎり、「階段縛り」と同じ要領で「ストレート縛り」「フラッシュ縛り」「フルハウス縛り」みたいなものがある大富豪、という理解でいいだろうか。
「大老二」の他に「鋤大弟」「鋤大D」といった異称があり、いずれも「2が最も強い」という特徴に由来していると思われる。
「鋤大D」(「鋤大弟」とも書く。「鋤D」とも言う)の名称は広東語に由来する。「D」とはトランプの2のことを言い、広東語の変音で「di2」と発音する(普通の広東語では「弟」は「dai6」)。
大老二の起源は香港にあるらしいが、どのくらいの時期に生まれたのかはわからなかった。
Google Booksで検索してみても80年代以前に遡れないので意外に新しいのか?
最初に「類似のゲーム」として挙げられていたもののうち、最後に残った「闘地主」についても触れておく。
ルールとしては、一人の「地主」とそれ以外の「農民」とに分かれて戦うあたりに特徴がある。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
という条件はやはり満たしている。
中国の文化大革命における階級闘争では、黒五類や臭老九のひとつに区分された地主の人権を農民が冒すことを権威づけられたという。闘地主の名前はそこから来ている。
という点では、かつて「階級闘争ゲーム」と呼ばれていた大富豪と共通しているようにも思える。
ただし、闘地主自体は文化大革命期に作られたわけではなく、1990年代にネットゲームとして広まったものなので、比較的に新しいゲームと言える。
以上からすると、中国の「争上游」が(とりあえずは)最も古く、それが日本に伝わって大富豪ゲームとなり、あるいはベトナムに伝わってティエン・レンとなった、と考えるのが自然に思える。
ただし、「2」がもっとも強いというルールの起源が「争上游」にあるのかというと(おそらく)そうではなく、そもそも中国のトランプゲームでは全般的に「2」が最強であるようだ。
原先最小的2被規定為最大的牌,有如國家由平民做主,但其實Ace本身就是這個意思。
国家が平民を主とみなすように、最小である「2」が最大のカードと規定されている。実はトランプの「エース」自体が同じ意味を持っている。
この「エースが同じ意味を持っている」という話は以下のとおり。
15世紀後半の時点で、一部のゲームでは「エースが高い役」という民間伝統が存在した。例えばポーカーの前身となったブラグ等である。この昇格(エースが低い役から高い役に変身を遂げた事)が起こったのはフランスのデッキだけでなく、ドイツのデッキを使うゲームでも2のカードを最も高い役のカードとする事が発生した。フランスのデッキでエースを最も高い役のカードとして使用する事は、フランス革命の結果としてより広範囲に受容される所となった。(中略)エースの昇格は、貴族階級(特にルイ16世)の排除と平民の地位の向上を象徴した。
つまりヨーロッパでは、市民革命を象徴させるために「最も弱いカード」を「最も強いカード」とするルールが広まった、ということらしい。
中国でもそれと同じことが起こり、「最も弱い農民(2)が最強の皇帝や資本家(KやA)に勝る」といった発想で「2」がいちばん強くなった、ということか。
なんだか大富豪における「革命」のルールとの相似性が感じられる。
あるいは「スペードの3でジョーカーを返せる」といったローカルルールも想起されるだろうか。
「最も弱いカードが最も強くなる」という現象はさだめて普遍的なものなのだろう。
というわけで、「なぜ大富豪では2がいちばん強いのか?」という問いの答えとしては、
中国のトランプゲームでは一般的に「2」がいちばん強く、それが争上游を通じて大富豪に影響したから
ということになるのではないか。