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はてなキーワード: カラフルとは

2021-02-04

追記しました】知らない英単語を調べたいだけなのだ

 子ども勉強を見ていて「知らない英単語を調べる方法」が定まっていないことに気づいた。

 学校で一律購入したPCにはもちろん英和辞書が入っている。しかし紙のワークシートに行う英語宿題のためにPCを手元に置いて必要時立ち上げてパスワードを入れ、アプリから調べる、というのはめんどくさいのだそうで、本人はこれまで教科書をひっくり返してなんとか探し出していたようだ。

 なるほど使われる単語が限られている現在はこの方法が一番早いのだろう。

 が、この方法は早晩行き詰まることが予想される。

英和辞典物理)で調べる

PC内の辞書アプリで調べる

ググる

Google Homeにきく

スマホ文字認識翻訳アプリで調べる


 我が家環境だとざっと考えただけでもこれだけの方法が考えられる。

 調べ方を身につけることも勉強ではあるのだが、今の主目的はそこではない。その時々で簡易と思われる方法を使い分ければ良いとは思う。

 ただしググるといってもスマホでちまちまアルファベット入力しなければならないし、Google HomeSiriアレクサに聞くにしろ、前提として正しく読めなければ話にならない。知らない英単語を調べる方法としてはいささかハードルが高いかもしれない。

 少なくとも親としてはやり方を示してそれぞれに一長一短があるよ、というような手助けは必要になるだろう。

 紙の辞書一択であれば教えるのは辞書の引き方のみで良い。

 選択肢が多ければ多いほど試して比較検討して……という作業が増える。それは英単語の調べ方に限らず、全てのことに言えるのだろう。時の経過と共に選択肢を増やしていった我々と違って、今の子どもたちには最初からたくさんの選択肢が用意されすぎている。

 そのうち友だちに訊くなどしてうまいこと自分に合った方法を探し出す術を身につけていくのかもしれない。それまでもう少し、自分も学びながら水先案内人を勤めていこうと思う。

追記

思ったよりたくさん反応いただきました。アドバイスありがとうございます

中1なので、スマホ学習に使うのはちょっと難しいかなと考えていました。

そしてとりあえずお下がり(でした)の辞書ではなく軽くて使いやすそうな中学生向けの辞書を買いました。3000円くらいだし、コンパクトカラフルものがたくさんあって、餅は餅屋だ……と思いました。使用状況を見て電子辞書検討したいと思います。あと机を広く使えるようにします。

どうもありがとうございました!

2021-01-14

anond:20210114183103

女装おじさんのセンスの無さ

ネカマおじさんのキモさみてると

ポップでカラフルなことはやろうしても出来なさそう

2021-01-09

成人式は女だけ数十万の服(レンタル)を着る歪な儀式だよね

だって袴を着れるじゃんって話もあるけど

工学部に女が少ないのが「差別」なんだろ?

その理路でいけば、そもそも自分選択したと思うことだって周囲の環境によって作られるものだって点を無視しているよね

七五三で二回も祝ってもらって、男児はハズレだって地上波で堂々と言ってのける人がいて、実際女児を望む親の方が多い

女は幸福度が高くて、社会圧が少なくて、自分大事にして、されて貰えるからいいよな

女はレンタルだけで数十万のカラフルな服を着て、男は数万円の黒色スーツが当たり前なんておかし

成人式なんて女のオナニー、全部亡くなっちまえや

2021-01-07

anond:20210107010156

そもそもなんで小説を読みたいと思ったのか知りたいけど、東野圭吾森絵都小説一般的に読みやすい方だと思う

小・中学生オススメされてるようなやつは難しくないし、大人が読んでもそれなりに楽しめると思うよ

個人的には森絵都カラフル、三秋縋の三日間の幸福とかがオススメ

2021-01-05

anond:20201228080144

ミュンヘンオリンピック 女子バレー」で画像検索すると、赤や緑、オレンジブルーブルマが見えるので、

こういったカラフルブルマは、1970年前後には存在してたんとちゃうかなーw

一般的学校体操着としてはあまりなかったかも知らんが、部活ユニフォーム的には普通にあったんじゃ?

2021-01-02

anond:20210101104010

今皆様から頂いた内容をまとめて母に聞きました

K→頭がこんなカラフルじゃない

ぬーべ→そんなに古くない

ワールドトリガー→絵柄がこんなにかわいくない

PSYCHO-PASS→かなり似ているけど狡噛が刀を使っていないので違う

ゴーストハント→見ていない

闇の末裔→見ていない

グリットマン→見ていない

ギャングスタ→見ていない

DTB→見ていない

ジャイアントロボ→見ていない

BLEACH→見ていない

HOLIC→見ていない

ヴァイスクロイツ→見ていない

ウィッチハンターロビン→見ていない

BLOOD+→見ていない

チェンソーマンアニメ化まだ

亜人→見ていない

喰霊-零-→見ていない

真夜中のオカルト公務員→見ていない

炎炎ノ消防隊→見ていない

家庭教師ヒットマンREBORN→違う

BLAME!→見ていない

鬼切丸→見ていない

対魔導学園35試験小隊→見ていない

COM COP→見ていない

ァイスクロイツ→見ていない

闇の末裔→見ていない

Fate→違う

ハイスクールオーラバスター→見ていない

八雲立つ→見ていない

ペルソナ→見ていない

炎の蜃気楼→見ていない

妖怪人間ベム→見ていない

ハルヒ→そんなに古くない

魔法科高校の劣等生→見ていない

終わりのセラフ→見ていない

幻魔大戦→見ていない

ノラガミ→見ていない

東京喰種→見ていない

ジョーカーゲーム→違う

結界師→見ていない

文豪ストレイドッグス→違う

ACCA13区監察課 →違う

Fairy gone フェアリーゴーン→違う

グリッドマン !→見ていない

奴隷区→見ていない

2020-12-28

ここの人とスペック似てそうだから聞きたいんだけど

婚活デートアニメのバッグで来るのってどういう心理

カラフルな絵が描いてあるんじゃなくて、ロゴみたいなのがついてて、相当使い込んでる感じ

①それしか持ってない

②何も考えてない

相手を試してる

④その他

2020-12-10

anond:20201210163009

まず、この元スレ主の親切な書き込みをよく見てみるとわかるが、

それぞれのテクニックは、「利便性の追求」ではないことにお気づきだろうか。

ユーザーあなた)が、便利に携帯を使うために用いるテクニックではなく、

あくまで「キャリア側が身勝手に決めたしがらみ・ルール」をなんとか切り抜ける方法なのだ

忘れてはいけないのは、「あなたが便利に使うこと」が最終目的だということ。

他人ふんどし相撲をしてはいけない。

メガキャリアふんどしデカイ。ぼーっとしていたら、いつのまにかふんどしの締め方をどうこういってるうちにうっちゃられる。

そのために小回りのきくNVMOの小ふんどしがある。

カラフルふんどしオサレふんどし勝負ふんどし。3枚つかいわけてもいい。

あとはわかるな。トータルで満足すればいいのだ。

2020-12-04

血液の色はホントに赤でいいの?

もっとカラフルでも良かったんじゃない?

2020-12-01

ニコニコの「5は○○」でキレている人を見て、文化について考える

ニコニコ動画には、ヘンテコな文化?がいくつかある。

「5は○○」もその一つで、生放送後に番組がどうだったかアンケートを選べる(1~5の5段階で、1=とても良かった、5=悪かった)のだが、

この際に「5はハゲ」「5はアンチ」「5はカレーパン」等々、5は○○というコメントが大量に打ち込まれるというもの

先日とある放送で、この5は○○が流れた際に

「5を選んだってだけで人に暴言吐いて良いと思ってるなんて、ここの住人は糞ばっかりだ」(うろ覚えにつき意訳)

的なことを書いて色々とキレちらかしてる人を見かけた。

申し訳ないことに、はじめに思ったのは「この人何言ってるんだろう?」である

「この手のニコニコ特有のアレは見てて寒いわ! ここの住人は糞ばっかり」ならわかるのだが、暴言

正直、本当に意味がわからなかった。

だが、よくよく考えてみると、フラット状態で見てみればこの大量のコメント

「5を選んだ人に対しての暴言」に見えることがあるのかもしれない、と気づいた。

加えて、もしかすると「5(悪かった)を選ぶようなやつは○○だぞ! 1(とても良かった)を選べ!!」のような

いわゆる信者と言われる層による、同調圧力のようにも見えていたのかもしれない。

誤解である

……いやまぁ、実際に暴言のつもりで書いてる人もいるのかもしれないが

少なくとも自分はそう思って、5は○○のことを見たことはなかった。

そもそも、この○○に入る言葉暴言だけではないのだ。

例えば、番組内で出演者が好きな食べ物順位をつけるコーナーがあったとしよう。

エントリーアンパン食パンカレーパンで、仮に最下位カレーパンだったとする。

この際、きっとアンケートでは「5はカレーパン」が大量に書き込まれることになる。

まり元々は、アンケート結果で5に何票か入ってるのを見て

「5に入れてるのは、この番組が気に入らなかった(この番組不憫な扱いだった)カレーパンやな!」

的なお寒いネタコメントにすぎず、暴言やら何やらの高尚な意味はないのだ。

さらにいえば個人的には、あのコメント群は誰が面白いことを言えるかの単なる大喜利大会である

面白いこと上手いことを言ったやつが一目置かれる、みたいな小学生並みの幼稚な遊び。

他の人が挙げていない、珍しい物を○○に入れてるコメントポイントが高く「やるな、こいつ」とニヤリとしてしまう。

ただ全く番組内に出てこないものだったら、いくら珍しくてもダメだ。雅でない。

5はハゲ、が成り立つには番組内で髪の毛に触れる話題が出ていてほしいし(個人的には直接的すぎて面白くはないが)

5はアンチ、だと成立する範囲が広く曖昧になりすぎててイマイチに感じる。

正直、そういう遊びだよね?と声に出して他の人と確認したことはないので

自分けがそういう遊びをしているのかもしれない。

でも、もしかしたら同じように感じ取って、同じように遊んでいるやつもいるかもしれない。

もしそういう人が他にもいたなら、確かにこれは文化と呼べるものなのかもしれないが……実際はどうだろうね?

おそらくこのまま衰退しニコニコとともに消えゆくものしかないだろうが、

良い機会だと思ったので、書いてみた次第。


なお似たようなものに、プレミアム会員による「プレミアムwwwwwwww」的なカラフルコメ弾幕に対して

プレミアムってだけでマウントとって一般視聴者馬鹿にするから、奴ら(プレミアム会員)は根性がクソ」(うろ覚えにつき意訳)

と怒っている人も見かけたことがある。

たぶん誤解である

が、これを解説するのは5は○○以上にお寒いことになりそうので、ここまでとする。

まぁ、どちらにしても外から見て寒いことには変わりはないが。

2020-11-10

フレンチ・カンカンの穴あき見せパントップレスのショー

カンカンとの出会い

フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それからドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtube検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画確認できる。

カンカン歴史、当時の見せパン

本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレス基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまりレオタード姿のソネットCMフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。

衣装ではなく、カンカンダンスのものについては、日本語版ウィキペディア英語版ウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。

両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパン起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサー娼婦セミプロ役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパン確認できる。これらのスター生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌財産を失い、寂しく亡くなっている。

さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からロッチ部分が開いていたからである。要するに性器丸出しになるわけであるもっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディア普段自然科学記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。

ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代アメリカで人気が出たスタイル逆輸入したものでそうである

実際、19世紀から20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキング対照エロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。

結論から言うと、当時のフランスに見せパンのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現自由でなかった当時のこと、そんなことを文学絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界起源」が1868年ヌードスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である

著名なキャバレーについて

パリはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代芸術芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュ活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方広告が載っていたと記憶しているものピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレス女性旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。

学生時代パリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である

ムーラン・ルージュ

赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズロートレック作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。

ところで、ウィキペディアだけからヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年舞踏会に裸の女性いたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国劇場のように活人画、すなわち生きた人間絵画再現する目的としてならヌード猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場ヌードが現れたとき当局1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップ記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。

これまたよくわからないのがゾラ1880年小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事カンカンについてなので劇場ヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。

1889年開業1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。

フォリー・ベルジェール

モネ絵画「フォリー・ベルジェールのバー」舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Baker活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズム流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女黒人人権活動家としても知られている。最近グーグル彼女の生涯を記念するドゥードゥルトップにした。

1869年開業1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌード披露されることで知られる。

リド

映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。

ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうであるヌードトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術ヌードならOKなのか。フランス映画年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。

1946年開業1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。

クレイジーホース

ストリップティーズ」の項目によれば1960年代全裸のショーが行われた、とある

現に、創業者であるアランベルナルダン芸術性を伴った女性ヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である

とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業

余談

天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂CMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者CG黎明期であったせいかサイケデリック表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。

ところで、この曲は地獄オルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話オルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話パロディ的なオペレッタからだそうだ。なるほど。

まとめ

今後の展望

こうしたレオタード姿のラインダンスカンカンではないと述べたが、それではこれはいからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版ウィキペディアバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである

また、劇場において全裸が許容されたのはいからか、それも調べねばならない。

だが、まずはラインダンス調査に移りたく思う。

2020-10-28

anond:20201027111017

それはウザい…

便乗してついでに書いておくと、私のような見るからオタクですねって女がカラフルな色頼むと「コスプレですか?」って聞いてくるのもめちゃめちゃうざい。

話すことないなら話さなくていいから、無理に話合わせなくていいからと思う。

2020-10-27

今日ファクトチェック(「自分以外の存在みみず?」編)

鼻穴にくすぐったいような違和感を感じて目覚めると、目の前は一様に桃色だった。

起きたてで白濁する視界だが、枕元にあるメガネを手に取ってしっかり眺めると、今日天井には今日みみず今日も一方向に並んでいる。

いや、天井みみずが並んでいるわけではない。天井と呼ばれる家屋の主要部を100パーセント混じり気なく構成しているのが、みみずなのだ

みみずがこうして雨風を防ぎ、ともすれば地震からも救ってくれる。さすがは建築材なだけあって、同じ大きさのみみず使用されているのは見事だ。

みっちり隙間なくそ天井を埋めている。しかし、今日はそのみみずの中に埋もれた筋となる太いみみずがこっそり垣間見えてしまっている。

筋たる年季の入ったみみずとは違い、小さなひとりひとりの構成材は命ある存在がゆえ、うごめきとともに剥離し、重力とともに落下する。

最近は寒くてみみずにも体力が失われているからかなのかコロナなのか、落下する人数が増えてきた気もする。

こうして冬はみみずが目覚ましがわりだ。そんな鼻をティッシュで噛む。つまり、鼻水と鼻みみずを面状のみみずで拭い取る。

でも、床板だってみみずなのに、なんで天井から落下したみみずだとわかるのか?って聞かれる。聞かれる?聞かれない。

床板と天井の見分け方。それには動きを見ればいい。床板を構成するみみずは動かない。重力で剥離することは無いので。

ただしたまに死ぬ。例えば私がつま先立ちしたら、つま先に居るみみずが何人か死ぬ。つまり圧死。私のさもない行動が命を奪う。死と隣り合った世界

そうなると彼らは表面の湿気を失い、床板から剥がれる。その尊い役割を終えた彼らを誇り、いやホコリとして毎週の掃除で除去する。

死んだみみずは、生きているホウキみみずで集められ、生きている床板のみみずから離される。集めることは分けることなのだと毎週思う。

そして、ホウキの湿り気で集められた死んだみみずは、生きているゴミ箱みみずに投じられる。これが彼らの夏の葬列。もしくは桃色の雪国

ゴミ箱というトンネルの中も桃色だった。そんな仲間に送られ、そんな仲間に見守られる。みすずはいだって仲間が一緒なのだ

そうだ、世の中では、♪みみずだっておけらだって1777700066666*だってみんなみんな生きているんだ友だちなんだ、

と高らかに仲間意識みみずらしく、桃色吐息で歌う。そうなんだ、みんなが仲間なんだ。みんなが仲間なんだ。私を日本唯一の仲間外れとして。

日本でよく知られた歌だから日本でよくご存知の通り、この「生きている」という言葉は、みみず構成要素として生きているという意味合いだ。

からみみずが「生きている」のは当たり前であって、私はそのカテゴリーに入らない。つまり、「みんな」の構成物はみんなみみずなのであって、

私という存在けがみみずではない。つまり天井ゴミ箱は「みんな」の仲間。つまり、私は「みんな」の仲間じゃない。青色吐息

これで、僕という存在芋虫だったら「みんな」の仲間になれただろう。それは、みみずと同じ様態気持ち悪い存在という共通点を持つからじゃない。

もっと直接的に、芋虫は私ではないので、私では無いものみみずであるという命題によって、私は「みんな」の仲間になれるのだ。

そう考えると、カフカがうらやましい。私はみみずが嫌いじゃない。芋虫の方が嫌いだが、私も芋虫になって「みんな」と仲間になりたかった。

そうして、失われた床板ことみみずはホームセンターで買った補充材ことみみずで補填する。その上にはワックスを塗る。

ワックスとはみみずであるが、みみずのための栄養剤でもある。湿り気も与え、その輝きを増しその死を防ぐ。ワックスとは掃除であり生育である

ワックスワックス。ってそうか、天井みみずと床板のみみずの見分け方の話だった。まあ、床板がその死によって剥離するのだとしても、

床板はどっちみち動かないものなのだ。だから、生きて動くみみず天井から存在だと言える。そして、みみず天国を目指す。

落下したみみずが床板のみみず同化しないのは、堕天使ゆえのプライドなんだと思う。床板のみみずが動かないのも同じく建材ゆえのプライドなんだし、

そのあたりの感情人間みたいで、みみずなのにいじらしく感じる。まあ、身を持って知っている通り、人間みみず構成されているわけだけれど。

そもそも、お前もみみずなんだから、床板と天井みみずの見分け方なんて説明する必要がないだろう!!

そんなの「みんな」の当たり前なんだから!!壁を登るみみず自分役割を求めて居場所に帰っているんだよ!!俺は壁を登れないんだよ!!

なんでお前は1メートルもの生体を成したみみずの群れなのに、そんなこともわからないの!!みみずは神経回線にならないとでもいうのか!!

筋となる大きなみみずはどのように工業生産されるのだろうとその苦労を忍びながら、掴んだ布団には軽い湿り気を持った柔らかさがある。

枕には軽いうごめきを感じながら、桃色を感じるメガネをかけつつトイレに向かう。そう、筋となる大きなみみずも気にはなるが、

光を通すその一生体を識別できないほどの細いみみずはどうやって生成され編まれ、そのメガネとしての光学特性を得るのか知りたいと思った。

これを今日テーマとしよう、と思いつつ生命神秘液こと尿を放つ。それと便座カバーことみみずに座り、尿たるみみずみみずの水に放たれる。

天井からみみずが落下すると、そこはライトの影となり黒ずんで見える。そんな天井のシミを数えながら尿を終え、鼻垂れるようにティッシュで拭う。

ティッシュという面状のみみずみみずの水の中へ。それは流れない。トイレットペーパーでないからではない。それはみみずに消化されるのだ。

そしてみみずなのにふわふわしない固く締まった床板を歩きながら、ふわふわしたカーテンを開ける。レースカーテンも桃色こそ呈しているが、

その地に使われたみみずは非常に細く、メガネのように光を通す。レースゆえに所々に空いた穴はみみずうごめきで日々形を変えるのが面白い

というか、窓がそうだ。私にはひとりひとりのみみずが見えないほどの細かさ。いい仕事してますね。しかし、そのひんやりとした湿った感触

結露もしている。みみず人間のように涙を流すのだろうか。だから人間みみずなんだってば!!

まりみみずは涙を流す。そして涙で視界もハッキリしてくると、そのみみずにも濃い色のみみずや薄い色のみみず発見する。それはテレビである

垂直面を器用に泳ぎ回る回遊魚、やはりみみずなわけだが、彼らは光の加減なのか、赤かったり青かったり黄色かったりする光の三原色

幾人もの色相で一つの景色を見せるダイナミック。しかカラフル熱帯魚と違うのはその俊敏な動き。さすが30フレームパーセック毎秒。

しかし冬は動きが鈍く、画面がちらつく。人物の顔が2つに割れて見える。それでもテレビは右下45度から叩くと治るという故人の逸話。聞こえるうめき声。

もちろん、画面のそれはみみずから人間なんだけど、私の唇のような赤、私の髪の毛のような青とは違い、ハッキリとした色彩ではない。

しかし、そんな色彩が自分以外のどこにあるのだ。テレビ登場人物みみずなのだし、テレビ登場人物みみずなのだから

みみずによる桃色に偏った色彩でもその表現に間違いは無いのだ。表現するもの制限されていれば、表現方法制限があったところでそれは満点なのだ

満点だと知覚すればいいのだ。みみず赤色だし、みみず青色で、みみず黄色。そう認識するように、この35年間生きてきたじゃないか

まれから35億年というものゴミ箱は常にみみずだったし、ホウキは常にみみずだった。天井みみずだったし、

天井のシミもみみずだった。尿はみみずの水だったし、ティッシュは面状のみみずだった。そもそもメガネみみずだったはずじゃないか

どうしてその色彩が目に入らないのだろう。今晩はみみずステーキみみずサラダみみずワインみみず豚カツです。みみずハイ

そう思った瞬間、世界は色彩を取り戻す。要はお腹が空いていたわけだ。重要なのは事物みみず構成されていることを隠すことじゃない。

今日今日とて、みみずマスクをしてみみず電車に乗ってみみず人間に押し潰されることを思れば吐き気がする。する?しない。

これはフケ?みみず。それはコロナみみず。それは、みみずである色彩を光の三原色として認識することなのだ。

そうすれば、みみず人間人間に見えて、みみずステーキは素敵に見える。いつだって真実はいつもひとつなのだから

そうしてお腹気持ちも十分に満たされ、卓上カレンダーにはバツをつける。今日テーマファクトチェックだったと思い出し、まずは明るい日差しに飛び出すのだった。

2020-10-22

anond:20201022233436

人間本音は昼まで寝て

南国ビーチの藤編みチェアで白いマンダリン弾きながら歌って

お腹空いたら青い海でカラフルな魚差し焼魚して

満点の星空を眺めて眠くなったら寝る生活したい

2020-10-05

神字書きをブロックした

 まずはじめに、私はあるジャンル二次創作をしているオタクである名前はほぼ無い。

 タイトルからわかる通り、私のジャンルには神字書きがいた。(ここではAとしておこう)

 彼女アニメ放送されていた時から活動をしており、Twitterアカウントには質の高い考察解釈があった。そんなAが生み出す小説は一文字文字きらきらと輝いていて、まるでダイヤモンドダストのように綺麗だったことを覚えている。

 Twitterではしばらく私の片思い状態、いわゆる相手方からフォローはされていなかったのだが、そんなある日私はAにフォロバされた。神のように尊敬するAに認知されたのだ。その時の私は純粋に嬉しかった。

 その時はちょうど某通話アプリサービスが始まったこともあり、タイムライン上ではフレ募集ツイートが溢れかえっていた。そのアプリ友達登録の画面に相互自動的に表示するので元々誰かと交流するのも好きだった私はとりあえず今のジャンルで繋がった相互申請を送った。あまりよくは覚えていないがAと通話アプリで繋がったのもこの頃な気がする。

 数日後、私の推すジャンルオンリーイベントにAが参加表明をした。私はAの本を買いに行く決意をした。

 それからというものの、原稿作業用としてAがよく通話部屋を立ちあげるようになったため私はAの通話部屋に行っては彼女解釈を語り合ったりお互いの作品感想を伝えあったりした。今思うとこの頃が一番幸せだった。

 歯車が狂い始めたのはイベント直後のことだったと思う。最初違和感を感じたのは差し入れありがとうございますという文面で上げられた一枚の写真。数々のカラフルな小包の中に私が差し入れものが写っていたこと。ここだけ聞くとどこがおかしいのかと思うかもしれない。しかしその投稿をした者には私は差し入れをしていないのだ。私が差し入れをしたのはA。Aは私の差し入れを別の者に横流ししていたのだ。…と、まあこれだけならアレルギーや苦手なものがあったのかなと済ませられた。

 しか彼女の粗野な側面はこの後どんどんあらわになる。この頃からAの通話には愚痴のようなものが見受けられはじめたのだ。それは聞くに耐えないものだった。例えば「○○さんの本は落書きみたいな本だった」とか「△△さんの作品地雷を踏んだ」だとかそういう陰口めいたものだ。

 またAはその頃、発売された公式アンソロジーについても言及していたがそれに関しても酷いものだった。「公式アンソロジー女体化するなんて信じられない」「外伝を読まないで書くなんて信じられない」「(カプ名)を逆にするなんて」挙げればきりがない程だ。しまいにはAは「金を払ったのだから物申す権利はある」と言い出しAmazonレビュー欄を荒らし始めた。そこにもはや神の面影は感じられなかった。

 その後何回か会う機会はあったが、もうこの頃には神として尊敬する気持ち微塵も残っていなかった。神は死んだのだ。通話アプリ友達も解消し、私は神として尊敬していたはずのAをブロックした。

 コロナ次第だが今度のオンリーで私は彼女とまた会うことになるだろう。席番はまだ出ていないがAとは隣になりたくない。そのためには徳を積まなければ。

あーー明日から毎日原稿の合間にジョギングして近所の神社にでも参拝しようかな。

クソしんどい

2020-09-09

anond:20200909012930

目に見えない呪術的ななにかに触れると咳き込んでしまいには死んでしまうとかならそんな気にしないよ

怖いUFO都庁上空に飛んでてそっからカラフルレーザー照射とかだとかなり怖いから逃げたくなる

あと人間UFOに捕まってバリバリ食われる光景東京駅に映されるとかだったりすると泣きたくなると思う

やっぱ目に見えるイメージ次第。コウモリ怨念がただよって飲み会に参加すると呪印が喉肺に刻まれるとかさっぱり怖くないもん

2020-09-07

女だけどランドセルが青だった

平成1桁台に小学生で、ランドセルが青だった。

そのころは今みたいにカラフルランドセルを持っている子はほとんどいなくて、ほぼ「男は黒、女は赤」の時代だった。なので女なのに青ランドセルだった私は男子にバチボコからかわれ(やーい男女みたいなやつ)、女子には笑われた(わーあの子なんで青いランドセルなの? 変なのークスクスみたいなやつ)。


そもそもなぜ青ランドセルだったかというと、母が「赤なんて普通でつまらない、赤だけは絶対ダメ」と言ったから。

それまでも幼稚園でバッグや巾着等の小物を集団購入するときは、だいたい女子用の赤ではなく男子用の青か黒のものを購入されていた。私はめちゃくちゃ嫌だったが、母が「ほらーこっちのほうがシックで素敵じゃない?」と言うのでニコニコして「そうだね!そう思う」と言っていた。その場で母に不機嫌になられるよりは、嘘をついて褒めてもらった方がよかったからだ。

だがランドセルとなると話は違う。6年間もそれで過ごすわけだし、周りから死ぬほどからかわれることなんてそれまでの短い人生ではっきりわかっていたことだった。だからランドセルを買うために来たデパートで母が「赤はダメ」と言ったとき、めちゃくちゃに抵抗した。「赤がいい!」と言って泣き叫び、「それなら買わないよ!」と脅す母親と掴み合い、さらなる脅しのため駐車場に引き戻された。それを何度か繰り返し、私はとうとう観念した。


駐車場との何度目かの往復でランドセル売り場に戻り、私は怒りと絶望に震えながら青いランドセル選択した。母が後から言うところによると「赤以外ならピンクでもオレンジでも何でもよかった」らしいのだが、幼稚園年長さんだった私は「赤がダメ=青か黒」だと思っていた。で、冒頭に戻り、私は周囲からバチボコからかわれたわけだ。

青いランドセルを背負った私を見て、大人たちはたしかに「あらおしゃれ」みたいな反応をしていた。しかしそれが何だと言うのか。同級生から死ぬほどからかわれターゲットにされた私は確実に性格が歪んだし、今でも母を恨んで許していない。


たぶん青いランドセルを買ったことが、本当に自分の欲しい色を選んでのことだったら話は違っていた。自分選択の結果だし、親を逆恨みすることはあっても大人になった時はさすがに納得して、自業自得だったなと思っていると思う。私の場合、青いランドセル事実上強制されたもので、結果が最悪だったからこんなことになった。私は大人になるまで心のどこかで母親のことを「いつかは裏切る人」「結局自分のことしか考えてない人」と思っていた。


これを読んだ未就学児の父母・祖父母の皆様におかれましては、お願いだから何色であっても子供が本当に欲しい色のランドセルを買ってあげてほしい。どんなにダサくてもだ。どんなに自分の固定概念から離れていてもだ。お願いします。欲しい色のランドセルを買ってもらえなかった年長さんの私より。

2020-09-04

日本財団の車あるじゃん

車の横にカラフルな顔がたくさん描いてあるやつ

あれを見かけるたびにすごくイラっとしてしまうんだけどなんでだろう

髪の毛が手みたいになってるのもなんか気持ち悪い

2020-09-03

anond:20200903183846

ハピシュガ大好きおじさんぼく「ぼく萌えオタだけど嬉しい要素しかない」


でも病み系って言うほどモノトーンか?

江崎びす子とかめっちゃカラフルじゃん。

若者には「萌え系」より「病み系」が人気

若者に「萌え系」が人気がないと言っても、どうして誰も信じてくれないのだろう?

試しに高校生イラストコンテスト(いくつかある)を覗いてみたが、やはり若者に「萌え系」が人気という様子はないようである

傾向として見えてきたのは所謂病み系」が若者には人気らしいということだ。

若者は病んでるのだ。

 

 

しかも、両者の違いは一目瞭然ではない。

徐々に萌え病み侵食してきている様子が見受けられる。

一見すると萌え系に見えるが、実は病み系」といった具合にだ。

いづれ萌え系が絶滅して萌えオタが憤死する未来まで見えた。

君らも時代の流れに乗り遅れるな。

2020-08-30

Gorogoaの物語

ホットエントリーに上がっていたこんな記事にふとした気まぐれで目を通した。

業界人が選ぶ、過去10年で最も優れていたビデオゲーム(IGN Japan

https://jp.ign.com/games/46189/feature/10

 

ゲームは年に1本買うか買わないかライトゲーマーなので大半の作品タイトルも知らなかったし、業界人たちのコメントを読んでいてもピンと来るものはなかった。しかしその中でひとつコメントちょっと心が動いた(太字筆者)。

簡単な答えは『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ですが、統計的な考え方では、私は『Gorogoa』を選びたいです。デモの早期リリースと、その結果である早い時期でのハンズオン体験のおかげで、本作は何年にもわたって私のGOTYであり続けました。『Gorogoa』は魔法のように魅惑的で斬新なゲームです。明確なビジョンに基づいたこ作品は、ゲーム作りの過程が全く想像できないほどの複雑な成果をもたらしました。新しいメカニクスと新しいインターフェイスを持つ本作は、芸術技術物語正真正銘パズルシームレスに融合させています。これは私がエッシャー作品や、キット・ウィリアムズ絵本、「まほうの筆(The magic paintbrush)」をはじめとする私の好きなおとぎ話から得たすべてのものを凝縮した体験です。『Gorogoa』はハッと息を呑むような驚きを私に与え、私の心を喜びで満たしてくれました。開発者ジェイソンロバーツにはこの作品に満足したまま何もせず、別のゲームを作らないでほしいと私が願うほど、『Gorogoa』は本当に唯一無二の傑作です。

(Drowning a Mermaid Productions サム・バーロウ氏)

本職のゲーム開発者がここまで絶賛するゲームとはどんな作品なのだろう、と急に興味がわいた。

元来パズルゲームは好きなほう(MYSTシリーズは全部やったし、ふだんも数独倉庫番をヒマつぶしに遊んでいる)なので、ちょっとやってみようかという気になった。PlayStation Store で1,528円。安い。

遊んでみた。雷に打たれたような体験だった。まるでマグリットの絵の中で『無限回廊』を遊んでいるような感じだった。

感想については私の拙い語彙でくだくだしく書くよりももっとすぐれたテキストネットにあるのでそれを見てもらえば十分だ。

 

『Gorogoa』認知フレームを軽やかに飛び越える絵画パズルゲームインディーゲームレビュー 第40回】(ALIENWAREZONE)

https://alienwarezone.jp/post/1321

 

GOROGOA が見ている(ゲーム感想)(S. Miyata)

https://note.com/38tter/n/nb58c34279de7

 

そして本稿で私が書きたいのはこのゲームの紹介ではない。

この何の説明もなく謎だらけでタネ明かしもない不条理ゲームに、どうにかして「解釈」を与えたくなったので、そのメモである

以下は断定形で書いていてもすべて私の解釈である

後半に至ってはほぼ創作だが、ゲーム中では語られなかった「裏設定」を私が想像で補完したものだ。

 

ロゴアの物語

 

ある日、街に巨大な謎のクリーチャーが出現する。街並みに隠れて全容は見えないが、アパート屋根ごしにカラフルなたてがみが見えるほどだからかなりの巨体だ。

書物をひもとき、それが伝説の聖獣ゴロゴアだとわかる。

古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。

聖獣ゴロゴアの怒りを鎮めるには、世界に散らばる五色の果実をすべて集めて捧げなければならないようだ。

 

ひとつめの赤い果実は、とある民家の庭木の枝になっており、車椅子に座った謎の男が見守っていた。

枝にとまった烏がつと飛び立つと、赤い果実は器の中に転がり落ちた。

 

ふたつめの緑色果実は、町はずれの穏やかな公園女神像が手に持っていた。

廃墟にたたずむ松葉杖をついた男性がゴロゴアの姿を思い描くと、廃墟壁紙の紋様はゴロゴアの瞳となり、その緑色の瞳は果実となって器の中に転がり落ちた。

 

ランプの灯りをたよりに仄暗い部屋で寝食を忘れて何ごとかを熱心に研究する男性。部屋の片隅には松葉杖。この男も足が悪いのか。

ランプのひとつひとつに星の明かりを捕まえ、その明るさに惹き寄せられて来た蛾たちに導かれるままに道を進むと、夜空の星のひとつ黄色果実となって器の中に転がり落ちた。

 

気づくと色あせた写真の中にいた。壁にかけられた五枚の写真のうちの一枚だ。

杖をついて世界の果てを巡礼して回る男に助けられながら写真から写真へと歩みを進めると、どこにあるとも知れぬ神殿に捧げられた青い果実を手に入れた。

 

たくさんの資料に埋もれるように何かを研究する初老男性。部屋の片隅には愛用のステッキ

蜘蛛の巣のように街を縫って走る路面電車初老男性の助けを借りて乗り継いでいくと、高い塔の頂上で最後果実紫色果実を手に入れた。

これですべての果実がそろった。ついに儀式の時が来た。

 

果実の盛られた器をゆっくりと宙に捧げると、五つの果実はまばゆく光りながら激しく燃え上がった。

 

──その時、突然器が砕けた

そして聖獣ゴロゴアはそれを許さなかった。

ロゴアが怒り狂うと、空には虚無の淵がばっくりと口を開け、世界は暗黒の炎に包まれた。

儀式は失敗したのだ!

 

私は身体を闇の炎に焼かれながら尖塔のやぐらから転落し、瀕死の重傷を負った。

長いあい車椅子生活余儀なくされたが、頭はゴロゴアのことでいっぱいだった。

何がいけなかったのか。どうすればあの獣の怒りを鎮めることができるのか。

 

聖獣ゴロゴアは時おり暴虐の限りを尽くした。

ロゴアが暴れると街は爆撃を受けたように廃墟と化し、あちこちで火の手が何日もくすぶり続けた。

 

どうにか松葉杖で歩けるようになると、私は情報収集を始めた。

焼け残ったがれきの中から資料を掘り出し、聖獣ゴロゴアをよく知ることにつとめた。

 

一方、気まぐれに襲ってくるゴロゴアの攻撃の合間を縫って人々は街の復興を始めた。

がれきを片付け、建物を建て直し、鉄道を引き、時おりゴロゴアによる破壊を受けながらも、それを上回る勢いで街は発展を続けた。

 

私の部屋の壁はゴロゴア関連にとどまらず、世界の様々な伝説伝承考古学書物で埋め尽くされた。

時おりゴロゴアの来襲があると電気は止まり、暗い中でランプの灯りをたよりに研究することもあったが、私は寝食を忘れて研究に没頭した。

 

その間中、私は「何かの視線」を常に感じていたが、それが何かはわからなかった。

ただ、私の研究が、誰とは知らぬその視線の主の助けになっている、そんな実感がなぜかあった。

 

研究を進めるうち、私の心のうちには、ゴロゴアに対するどこか畏敬の念のような気持ちが芽生え始めた。

そしてその畏敬の念は、やがて純粋信仰心へと変化していった。

ロゴアの怒りを鎮めるには、我が身と心をゴロゴアに捧げなければならない。そうすることでしか儀式はきっと成功しない。

私はそう思い詰めるようになっていった。

 

私は巡礼者となり、ゴロゴ信仰の源流をたどって世界各地を巡礼することにした。

灼熱の太陽が照りつける砂漠、寒風吹きすさぶ高地

体調は決して万全とは言えなかったが、ゴロゴアにこの身を捧げるという信念が痛む脚を前へと運ばせたのである

 

研究の進捗が遅々として進まず年月が無為に流れていくばかりになると、時おり深い絶望に襲われることもあった。

無力感にさいなまれるそんな時には、決まってあの悪夢の日、儀式に失敗した日の転落の記憶フラッシュバックした。

そうした場面にも、常に「あの視線」は私とともにあった。

 

月日は流れ、私も初老と呼ばれる年齢になり、髪も髭もすっかり白くなってしまったが、私の研究は大詰めを迎え、ついにひとつ結論に到達しようとしていた。

 

古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。

 

この記述によれば、儀式ふたり人間によって為されなければいけなかったように思える。

しかに、最初儀式自分ひとりで行ったために失敗してしまった。

では、儀式成功させるためには、あらためてふたりで執り行う必要があるのだろうか?

 

そうではなかった。

 

絵図に描かれたふたつの人物像は、「時間を隔てたひとりの人物」を表していたのである

儀式はひとりの人物によって二度行われなければならなかったのだ。

 

思えば一度目の儀式へと至る道のりでは、さまざまな場面で陰日向に何者かの協力を得ていた。

その役割なくして儀式は成し得なかったとさえ言えるのだが、その協力者は、ほかならぬ私自身であったのだ。

 

時空を超えておのれ自身と手をたずさえ、二度の儀式を完遂させる。

それこそが聖獣ゴロゴアとの魂の交歓を成立させるための条件だったのだ。

 

私は今、復興いちじるしい街並みを見下ろしながら、二度目の儀式のために尖塔を登っている。

 

この儀式が終わった時、ゴロゴアと人間の間には新たな関係が訪れるのだ。

2020-08-27

anond:20200827130908

カラフルで奥行きのないアイコン類は最初なっとくできなかったけど

今になるとすごい才能だったなと思う

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