はてなキーワード: 踏み絵とは
どっちが一眼レフで撮った写真?iPhone11 Proとキヤノンカメラを見分けられるか
https://iphone-mania.jp/news-265039/
これ、ブコメの反応を見ていると性能についてはむしろiPhone11が大勝利ってことになってて悩ましいんですが。
おおよそみんなが見分けられたとする根拠は2つで、1つはボケについて。で、もう一つは深みとかについて。
ボケに関しては毛先のデティールが失われてるかどうかを見れば一目瞭然なのは確か。
その中で全体のボケに関して言及している人もいるのだけど、これについてはコメントが難しくて、それは本体じゃなくてレンズの性能差によるものとも言える。
ボケが不自然っていうなら、サードパーティの安価な明るめレンズつけて開放で撮ったほうが多分iPhone11よりもっとわちゃわちゃで汚いボケになると思う。
そもそもピント面が甘いというよくある初心者が量産する典型的なダメ写真ができあがるというやつ。
そうした写真が比較対象として出されても綺麗とかって褒めてたら本当にどうしようもない。
つまり、そもそも一眼レフは本体の話しか出てきてないのに、ボケの話しを始めてしまうというのがまず第一のにわか踏み絵。
つぎに深みとかについて。
この写真、もう一つ簡単に見分ける方法があって、それが周辺減光というもの。
周辺減光っていうのは、レンズの構造上写真の四隅が暗くなるやつ。
趣があって好きっていう人は結構いるけど、これがあるほうが性能がいいかと言われるとむしろ逆。
光たっぷり入れるにはでかいレンズつけなきゃいけなくて、イコールコストに転嫁される部分だから金持ちだけが取り除くことが許される代物。
デジタル時代になって後でいくらでも手を加えられるようになったので最近ではそれほど問題でもなくなってきた。
で、これのどこがにわか踏み絵かというと、みんな周辺減光がある写真のほうが奥行きがあるとか綺麗だとか言ってしまっている点。
プロカメラマンが高いレンズ買って、現像で一生懸命消してるのに、あったほうが綺麗って言ってしまうのが世の中の評価。
恐らくiPhone11側もエフェクトであえて消してるんだと思う。
ってことは、消さない、もしくは消し方を自然にしたら違いがわからないってこと。
元々ないならないでレンズの性能がすごいって話で、どちらにしても性能チェックならiPhone11のほうが上っていう結論を導き出してしまっているという悲しい現実。
ついでにいうと、ボケの深度について一律でつまらないっていうコメントが星を集めてるけど、これも間違い。
iPhone11のポートレートモードは、異なるレンズで距離を計測してそれに応じてボケの量を変えてます。
のっぺりみえるのは完全にバイアス。っていうか、素人が気づくようなことプロ集団が放置するとでも思った?
適当に拾ってきた記事だけどこの辺みると距離データが3Dで保存されてるのが分かる。
そしたらどこで性能チェックすればいいの?という話になる。
ノイズ感というのはちょっと雑な言い方をすると全体のザラつき。
特に暗いところが顕著で、本来黒いはずの部分に偽色っていう青とか緑とかの色が出てしまうことがある。
よく写真で黒く潰れてしまったり白く飛んでしまったりするけど、それがどれくらい広い範囲でカバーできてるかどうかということ。
もちろん性能が低いほうが白く飛びやすく黒く潰れやすいので、例えば影の部分がどれくらい書き分けられてるかを見るとわかりやすい。
本来深みという意味で議論されるべきはこのあたりなのだけど、この点に関してはほとんど遜色がない。
これって本当にすごいことで、スマートフォンカメラのセンサーサイズで35mmフルサイズの画質に肉薄してるってどういうこと?ってなる。
もしかしたらiPhone11側は高速で連射してあとでHDR合成しているかもしれない。
もちろんノイズリダクションとか使ってノイズを消している可能性も否定できない。
そういう意味で、現像レタッチなんでもありのiPhone11の写真と、そうした現像環境について何も言及がない一眼レフの写真を比較しているっていう事自体もにわか踏み絵でしかないんですよね。
ただ、その上で一番のにわか踏み絵って何かというと、iPhone11と一眼レフ、どっちの写真ですかクイズでしかなかったものに、「綺麗」とか「深い」とかって知ったような口で性能評価してしまっているというところ。
それは痛いよ。かなり痛い。見分けられた!よかった!で十分なのに、性能評価してしまうことで無知を露呈する愚かさ。
両者の写真はたしかに異なる写りをしている。だからといってそれを正解ありきで綺麗さとか性能を褒めるのはとても危険。
比較する条件があまりにも揃っていないし、皆が綺麗だと褒めれば褒めるほどそれはiPhone11のほうが性能は優れていると宣伝しているようなことになってしまっているんですよということに誰も気が付かない悲しみ。
ただし、こうした安易なポートレート撮影でいうなら、残念ながらコストパフォーマンスの面ではiPhone11の圧勝。
でも一眼レフの真価は信頼性とか操作性とか表現の自由さとかもっと全然別なところにあるので、画質で比較する話ではないんですよって話にそろそろ終止符を打ちたい。
勘違いしないでほしいのは、マウント取りたいとかってわけじゃなくて、世の中の反応と現実的価値にこれだけのギャップがありますよってこと。
だからきれいな写真撮りたいだけなら高いカメラを買う必要はないです。
はやりで売れてくれることはありがたいけど、みんな持て余してるのが現実。
香港が燃えている。香港がかつて享受していた法の支配が失われつつある。
われわれ西側の人間は、共産主義の中国に情けをかけ、あるいは欲に目が眩み、かの国が高度経済成長するのを手助けしてきた。
しかし、その政府は、民主化するどころか、ますます強圧的な支配を強めつつある。
このままでは、中国は世界中に権威主義をばらまいて、自由と民主主義の深刻な脅威になる可能性がある。
中国政府は、現在の強圧的な統治をやめ、言論の自由や集会結社の自由を保証し、普通選挙に基づく多党制の政治体制に移行すべきだ。
しかし、いまのような非民主主義的な独裁政治を続けたいというなら、これ以上の中国の悪影響を食い止めるために、残りの世界は、中国との交流を最小化し、政治および経済の体制をデカップリングすべきだ。日本も米国に見習って、中国からの輸入品へ高率の輸入関税をかけて、中国経済への依存度を下げていくべきだ。最初は、痛みは伴うだろうが、長期の政治的安定性を考えた場合、それが最も良い選択だと信じる。
あるいは西側は団結して、北京に首都を置く中華人民共和国と断交し、現在は台北に首都を置く中華民国(台湾)との国交を回復するべきだ。そして、国連常任理事国を中華人民共和国から中華民国に再び交代させるのである。ニクソン大統領による米中国交樹立以前の世界への回帰である。
中国人はおそらく共産党と心中したいのだろう。それは彼らの自由だ。それは尊重しなければならない。しかし、残りの世界としては、あの強圧的な共産党と運命を共にするなどまっぴらごめんである。したがって、中国との交流を最小化し、可能ならば国交を断絶するしかない。
今日の香港は、明日の東アジア全体の姿だ。我々は近い将来、踏み絵を踏むかどうかの選択を迫られることになる。我々自身が生み出した共産主義中国という怪物をどうするべきか、誰もが考えざるを得なくなる日は近い。
https://www.asahi.com/articles/ASM853C9KM85OIPE008.html
>間違えてはいけないのは、税金は政府や行政に批判的な人でも納税しているものであり、それを再配分するもの。
>政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということでは、決してあってはならないということ。
https://twitter.com/syunsuke_takei/status/1157789351419379712
今回の津田大介氏による、ある種の表現の自由に対する自爆テロみたいな行為は個人的にも本気で胸糞悪いけども表現の自由を尊重するならば、今回のイベントに対しても中止してはいけないとか言うしかなかったのよね。
だから山田太郎氏等や表現規制に反対する団体の人とかはイベントを止めさせてはいけないと言うしかなかったのは判るし、今回の津田大介氏の目的が見えていた以上、下手な行動もできないのも見ていてわかったしな。
それとどう見ても彼等冷静に指摘はしているけど、内心は今回の津田大介氏の件に怒っているのはツイートを見ていても判る事だよ。
そういう意味では津田大介氏はある種の挑発を行ったとも言えるし、今回の行為は表現の自由を人質に取ったと言っても良い。
彼らが中止してはいけないと言うしかない事を見越して、津田大介氏がやらかしたのは声明文読んでいても判った事だしな、本当に気分が悪いよ。
何もそれを判っているのはこの件は表現の自由を尊重する人だけではなく、議員にもその点を判っている人も多いし、そう言う人達はそれこそ表現の自由から攻めるのは不味いのも判っているからこそ、冷静な判断を求めて慎重に行動する様に言っていたんだろうよ。
ようは表現の自由の問題から中止で攻めるのは不味い事態起こすのは目に見えているから、他の方面を冷静に探れって話。
また今回残念な事にネトウヨさんや一部のお偉いさんの市長等の人は見事に津田大介氏の思惑通りに動いてしまった訳。
まんま策略にハマったからな。
そして良く言われている、ポリコレによる表現の弾圧の手法を今回ネトウヨの方が同じ行動で実行してしまったわけだ。
奴等はそれこそこれで次からもっと活動しやすくなると大喜びしているのが、目に見えて本気で腹が立つが。
何にしても今回の津田大介氏の行動は声明文の記事を読んだ限り、リスクを判っててやったとか悪意しか感じなかったし、まず多数の企業や業界、団体に大迷惑をかけている点。
そして以後、何もコミケ等のオタク界隈に限らず、絵画展等の展示や場合によってはバイクや自動車の展示、コンサート等のイベントにすら悪影響を与えかねない、広範囲に被害をもたらしかねない行為なので、本当に性質の悪い事をしでかしてくれたよと言う気持ちでいっぱいだよ。
長くなったので要約
左派 → マイノリティの権利擁護を尊重 → ヘイトスピーチ法規制に賛成 → オタク向け作品でヘイトスピーチっぽいのたくさんある → 左派としてそれらの作品の法規制は受け入れざるを得ない → 左派で表現規制反対は不可能
山田太郎議員の当選をきっかけに、「左派の表現規制反対のオタク」を自称する人たちが「自分たちは右派オタクとは違う立場で表現規制に反対していく」などと主張しているのを見たけど、「左派」かつ「オタク向け作品への表現規制反対」という立場は不可能だろう。
左派というのはすごく大雑把な括りだけど、おおむねマイノリティ(少数派・弱者)の権利擁護を重視する立場だよね?
マイノリティの権利擁護を重視するということは、マイノリティを集団として攻撃して侮辱して「尊厳とかアイデンティティとかを傷つける表現(ヘイトスピーチ)」の「法規制」に賛成するよね?
「マイノリティの尊厳を傷つける表現(ヘイトスピーチ)」って、オタク向け作品、特にエロで引っ掛かりそうな作品いっぱいあると思わない?
例えば「小生意気なメスガキに同人誌みたいな酷いこといっぱいしてアヘ顔ダブルピース出産させるエロ漫画」が好きなオタクなんてありふれてるけど(自己紹介)、こういう「オタク向け少女凌辱ポルノは「女性・こども」というマイノリティを侮辱するヘイトスピーチには当てはまらない」と主張するのはかなり苦しくないかな?
常識的に考えてこういうエロ漫画はヘイトスピーチなのだから法規制やむなし、だよね?
エロじゃなくても、マイノリティの民族・宗教・性指向アイデンティティを侮辱して傷つけているオタク向け作品っていっぱいあるよね?
世界最高民族が最強のテコンドーで劣等民族チョッパリを殲滅するあの漫画とか、日本では少数派の宗教で崇められている女神を破廉恥な恰好の「サーヴァント(召使い)」としてキャラ化してヒンドゥー教警察に叱られた世界的にオタクに大人気のあのソシャゲとか、そもそも大部分がノンケの作家と消費者がLGBTをオモチャにして遊んでいるBL(やおい)・GL(百合)とか。
「左派の表現規制反対のオタク」の人は、この辺、どう考えてるの?
街頭でデモやって「〇〇人はゴキブリ、国に帰れ」と叫ぶのは「法規制」されるべきヘイトスピーチだが、オタクがオカズにするための「女性・こどもという弱者が無茶苦茶な扱いされるエロ漫画」はヘイトスピーチにあたらないから「法規制」されるべきではなく、その悪は「法規制」ではなく自由な「対抗言論」で批判するのみにとどめるべきだ、
みたいな(私の目には)摩訶不思議な理論武装を完成させているのかな?
だったら、煽りでも、踏み絵を迫るわけでもなく、その理論武装を私にも教えて使わせてもらえると、とてもありがたい。
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.htm
ヘイトスピーチって何なの?
(中略)
例えば,
(中略)
(3)特定の国や地域の出身である人を,著しく見下すような内容のもの
「特定の国や地域の出身である人」を「女性」や「こども」に置き換えたら、
「小生意気なメス(動物扱い)ガキに同人誌みたいな酷いこといっぱいしてアヘ顔ダブルピース出産させる(著しく見下している)エロ漫画」
はやっぱりヘイトスピーチだね!
めんどくさい類の話をしよう。
例えば、教師や先輩といった立場の人間には敬意を見せ従わねばならない。
例えば、場の空気を乱してはならないし、郷に入りては郷に従わねばならない。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、そんな慣習如きで自分の人生を生きてんじゃねーよ、ボケが。
ちょっと考えれば分かる事だが、これアメリカっつーか先進国とは真逆だからな。
外から見れば分かるが、こんなもんは広義の洗脳でしかない。厳密にはマインドコントロールだ。
そりゃ欧米諸国やイスラム圏だって宗教なんつーマインドコントロールに従ってるが、それでも自由主義や道徳規範が大なり小なり機能してるだけマシだ。
それに引き換え日本は、なんだ?無宗教とか言いながら夏にはお盆に祭、冬にはクリスマスに正月。
よくそれで無宗教なんて言えたな……?ってくらい、1976年から日本人は「日本教」に染められてる。
その宗教規範が上述のソレなわけです。
日本教において神などの超常存在は存在しないと思わないといけない……ってのが不文律としてあるんですが。
これが無駄に強固だ。宗教において神の存在は絶対視されるのに、その肝心要の神が「まるで神そのものであるかのように」現実的には居ないものであるとされる。なのに居ると思ってる。
これ、なんか心当たりがないですかね?
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
上のを現代風に言うと「天皇と国民とは相互の信頼と敬愛とで結ばれてるもので、それは神話と伝承から生じるものではない。同時に『天皇は現人神!日本人は神の子孫!だから優れた日本が世界を支配すべきなのだ!』なんて架空の観念に基づく結びつきでもない」と言ってるわけですね。
これが「天皇は現人神ではない」と天皇自らが否定した事になる……ってのが普通の受け取り方なんですが。実は、これが日本教のポイントだと思うんですよ。
そう、日本教の正体ってのは本当は「天皇教」なんですよ。それもクッソ強固な。
これ実際に聞いた人間以外は、まあ歴史の教科書で「天皇人間宣言」って見るだけなんで何も思わないんですが。
だけどWikipediaでも書いてあるように「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定してない。そして更に疑った見方をすると……現人神である事は否定したが、天皇自身が「神」である事を否定していない。
これを重度の天皇教が聞くと、どうなるか?想像しにくい場合は、自分にとっての絶対者で想像する。
(例えば嫁や夫だとか推しのアイドルやキャラだとかネコだとか、そういう自分の人生を決める最高の存在な)
1. 神は言っている……お前達との絆は絶対的な信頼と敬愛こそが本質である、と
2. だけど神話とか伝承は忘れろ……それは語り継がれることを許されなかった、遙か古の物語……
3. つまり「天皇は神だけど人間のフリをするからオメーら宜しくな」って事か。そんな解釈で大丈夫か?
かくして、日本教はここに成立する。
ここで仮に時の昭和天皇が神の不在を半端にしか言わなかった為、ヤベー存在が量産されまくるのである。
なにせ、最初に超絶技巧で日本国民をガチ感動させてる訳だからね。神ムーブしまくってるからね。
アイドルうんちしないから……なんてレベルでは到底ない。もっと恐ろしいものを垣間見たね。
理想面である天皇の権威と、現実面である総理大臣将軍の権力。この恐るべき分業によって構成された上意下達の支配構造により、この現人神否定ムーブは「その神意でもって」全体に通達される。
そして、それらがメディアのフェイクタイトルによって教科書へと掲載される。
そうなると何が起きるか?
日本教の隠れた神が人間宣言をするのだ、どうやっても劣化した形でそれは受け継がれる。
だから、日本人は自由を「自分の好き勝手に、自分や日本人が神だと思ってるかの如く、周囲に日本人を人間である事を強要する」のだ。
日本人は神を否定する。だけど、そこには自分達こそが神だと言わんばかりの傲慢さと、矛盾した無宗教への信仰が確かに存在するのだ。
そして、そこには昭和天皇の意図は伝わらない。それは戦前戦中と全く変わらない。
思うに、権威と権力の分業というのは……きっと、世界で最も上手くできたファシズムなのだろう。
欧米人の脱権威/脱権力は、その全てが内部からの撃発によって否定された。
つまり真の意味で民意からの革命であり、それは少なくとも「大衆の主観では」自発的に行われた。
それが一種の虚構である事は今の政治を見ても明らかではあるが、しかし、そこには個人の意思こそが優先されるべきという思想が根付いたのだ。
では、今の日本人は……それができるか?
例えば天皇の踏み絵を用意したとして、それを踏めると言えるか?実際に踏めるか?
まず僕には無理だ。
心理的なもの道徳的なものもあるが……それ以上に、周りが怖い。
そんな事をしたとバレたら、きっと僕は今までに得た人間関係の全てを失うだろう。親でもギリギリ、いや知人レベルくらいに避けられるだろう。
それくらいのレベルで恐ろしい行為だ。そうDNAが叫ぶくらいの恐怖を感じる。
我々は、今もまだ「天皇陛下との信頼と敬愛と」に、結ばれ続けているのだと……
僕は、そう畏れている。
それが良いことか悪いことかは、わからないけど。
まあなんでもいいけど、本当に無宗教って神の不在を確信してるなら「宗教の話がタブー」ってのは異常だと思うよ。
本当に神は不在って思うなら勝手に話させとけば良いじゃん。どうせ入信しないんだし。適当に話を合わせておいて受け流しておけよと思わなくもない。
性的嗜好(sexual preference)と性的指向(sexual orientation)はその意味が大きく重なる用語であるが、英語の含意から前者は自発的選択の結果得られた後天的性質[9][10][11]、後者は生来不変である先天的性質として一般的に区別される
生まれつき変えられないものに対してとやかく言うのは良くないらしい。
で、こんな研究がある。
https://www.psychologytoday.com/intl/blog/predisposed/201401/politics-and-eating-worms
In every group tested we found that people with measurably greater biological responses to disgusting and threatening images are significantly more likely to adopt conservative positions on social and defense matters.
全ての実験において、不快で脅かされる画像に対して大きな生物学的な反応をしめした人々は、社会問題や防衛問題について有意に保守的であることが確認できた。
※日本語訳は筆者
臆病な人々は保守的な思想を好む、つまり異質であったり新奇なモノを受け入れにくいという傾向があるというのは、ある程度納得できる話だと思う。
ここで"臆病"という言葉には悪い意味をもたせていないということは断っておく。
臆病な人が生き残ることもあれば、新しいことを試す人が生き残ることもあるだろうから。
ところで、新奇性追求や損害回避性は遺伝率が40%程度あるとされる。(『言ってはいけない』橘玲 214p)
ということは、あなたが”リベラルな”思想を持っているのはあなたが賢いからでも学んでいるからでもなく、
たまたまそのような遺伝子を持って生まれたからなのかもしれない
誰かが”保守的な”考え方を持っているのは、愚かだからでも学んでいないからでもなく、
たまたまそのような遺伝子を持って生まれたからなのかもしれない
多くの宗教に迫害と戦争の歴史があるように、たつき教とて例外ではない。
教祖たつきの角川からの迫害、暴徒と化すことを良しとしないたつきファンからの迫害、けもフレという題名もサーバルちゃんもかばんちゃんまで2に奪われる2製作陣からの弾圧。
2vsケムリクサ戦争終盤の製作陣Twitterでどったんばったん大騒ぎは焼け野原に赤々と燃える戦火としか言いようがない。
かつてキリスト教徒が迫害を受けながらも、なぜキリスト教徒であり続けたか?なぜ火炙りを前に信仰を告白したか?踏み絵を拒否し、拷問に耐えてまで神を信じ続けたか?
張り合う敵がいなければ張り合いようもない。強く否定されるほど、強く信じられるのだ。
ローマ大火がキリスト教の歴史であるように、2大炎上もたつき教の歴史である。平成の大火を足掛かりとしてたつき教は大きく成長した。この宗教がこのままカルトと化すか、それは何より教祖であるたつきにかかっている。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
(誤読してたので削除)
わざわざ朝鮮日報さんも"普通の韓国人の意見"を翻訳してくださっているよ。
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.amp.html?contid=2019012180009&__twitter_impression=true
これが、アリバイ工作なのか何なのか判らないけど。韓国社会全体として、こういう人達も一度踏み絵を踏まされそうになると「日本が正しい」とは言いにくいんだろうと思うと、残念ではあるね。