はてなキーワード: 一部の人とは
インターネットの責任とは言わないけど、ネットのせいで情報に踊らされているアホが増えたよね。
昔はネットがないから調べようにも範囲の狭い調べ方が出来なかったから、TVと新聞くらいで後は人づて、実際に歩いて、くらいしかなくて、そこまでアホが多くはなかった。
今ではほんの少しのデマに簡単に騙されてしまう人が増え過ぎちゃう有様。
それに加えて、たちが悪いのは…ネットの情報に踊らされた挙げ句に自分たちの誤った正義を絶対に正しいと思い込んでしまう人がいるってこと。
ちょっとした話題で「あの人が悪い」なんて書かれたら、事実確認もしていないのにその人を一斉に攻撃し始めるというリンチを平気で行う人たちがいるし、
後で実はその情報は違いましたって話になったら、途端に手のひらを返して「本当は信じてたよ」なんていう人もいれば、それでもまだ誹謗中傷を続けて「でもお前も悪い」みたいな事を言い始めるという。
一般人が簡単に犯罪じみた行為を行えるようにしたというのは、ネットが生み出した最悪の害じゃないかなって思う。
もちろん、ネットは恩恵もあった。知り得なかった情報も調べやすくなったし、過去のニュースや歴史、懐かしいものまでも簡単に閲覧できるようになった。
遠方の地をライブカメラで見ることも出来たりするようになったのも、恩恵だと思う。
だけど、それらの恩恵を台無しにしてしまうくらい酷いのは、一般人による情報の誤認識での誹謗中傷や似非正義かなって。
こういう人たちの救えない部分は『自分たちが絶対に正しく、誤ったことをやっていない』っていう事を本気で思っているって事だと思う。
その結果、有名人の中にもどう考えてもおかしいでしょっていう事を平気で電波に乗せたりする人が現れたりした。
どこかの医者が変な行動をするようになったり。芸能人が大麻はを支持する人がいたりと、この辺も変な正しさを信じて疑わなくなっちゃった人たちだなって。
ネットがなければ、こういう人たちもTVか本くらいしか主張できなくなるんじゃないかなって思うことはたまにある。
先日、捕まった芸能人の保釈の際に謝罪していたら、迷惑YouTuberがしゃしゃり出てきて捕まっていたけど、ああいうのもネットが生み出した悪性腫瘍みたいなものだと感じる。
その上、そいつのTwitterではその行動を絶賛するような頭のおかしい人がかなり居た。これらもネットが生み出した膿みたいなものなんだろうね。
こういう風に悪いところばかり目立つようになってしまって、ネットの良いところって少ないよねって疑問を感じてしまうこともある。
まぁ昔から『良い所よりも悪い所が目立つ』のはある話なんだけど、それにしたって異常な人たちがどんどん増えているのって怖い。
他にも、お店で起こしたバカ行為をTwitterで自慢するようにつぶやいてた人もいたね。ある程度社会的制裁は食らっているようだけど、それでも未だに変わらないで存在している。
ネットってもっと便利で賢い使い方のできるものだと思うのに、一部の人が迷惑行為やマナーやモラルを捨てて行動しているから悪いものに見られやすくなってるのは残念。
今後もどんどん増えるんだろうけど、あんまりこんな事が続くとマイナンバーで紐付けされるような事が起こるんじゃないかなって。
人権がーって喚く人は居ると思うけど、人権も何も人権を無視するような誹謗中傷を行う人が増えてきているじゃない?
そうするといくら大半がネットでのマナーを守っていたとしても、そっちが『一部扱い』になっちゃって国は強制してくるかもしれない。
そんな監視が付くような社会になったら、どんどんつまんなくなると思うのにね。今が楽しければ良いみたいな人がいるから困っちゃうね。
こういうのって、いつか解決することが出来るようになるのかな。無理かー。
と言うと一部の人が「自己中心的」と罵り始めるが、自己中心的なのは本来当たり前です。
なぜなら、その人が「自己中心的と言っている理由」が、「自分(その人)の考えを基にした『自己中心的』思想」だからです。
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「嫁夫が一番大事」
「子供」
「親」
「親友」
ほとんどの人は(一番)大切な人がいる、あるいは大切なものがあると思います。
しかし、その「1番」はあくまでも「自分を除いた1番」であって、本質は「自分が1番で、お前が2番」。
理由なんて簡単で、 自分を大切にできない奴が自分以外を大切にできる訳がありません。
「0番の自分」がいなければ、「1番」どころか「2番」も大切にできないと思いませんか?
「自称・(自分を犠牲にして)相手に尽くすタイプ」って一定数いると思いますが、
尽くした相手が犠牲になったお前がを心配していたら、それは尽くせてないのではないでしょうか。
「僕私はこんなにあなたに尽くしたのに!〇〇〇うんぬんかんぬん!!」
考え直せ。
「私は違う」?わかりました。(諦観)
私違さんはさておき、どうやって自分を大事にするかというところですが、
一言でいえば、「2番目ごときに大きく左右されないこと」です。
「2番目」の人が「連れてって!〇〇〇に行きたい!」と言ってきます。
行く目的を伝えて、「2番目」が、「そっちは興味ない(嫌い)のでイヤ」と言って、本来の目的を達成できなくなりそうな時です。
「2番目」を切り捨てます。
「2番目」を連れて行くのは2回目でもいいからです。
ただ、お前という1番目が「「「無理をしない程度」」」に折衷案を作れるなら、それがベストです。2回目に聖地巡りをするとか。
譲れないなら、容赦なく「2番目」を捨ててください。この例で言うと、目的がイベント期間中であるなど、折衷案が難しい時などです。
この「無理をしない程度」というのが重要で、無理して「2番目」ごときに合わせようと「1番目」を押さえつけると、長期的にはストレスやら何やらですべてが壊れます。
最悪、お前の命が壊れます。
切り捨てるという表現をしていますが、当然「2番目」に大切な存在なので、丁寧にやんわりと断ってくださいね。
どんなに大切であっても、お前という「1番目」が生きている限り、そいつは「2番目」にすぎません。
趣味嗜好に関する話だと、この辺りを覚えている人が多いのではないでしょうか。
最後に繰り返しますが、どんなに大切な人や物があっても、それを大切にする「1番目」が心身ともに健康で余裕がなければ、大切にすることはできません。
自身のやりたいこと、好きなこと、それらが「2番目」に阻害されそうになった時、
先に捨てるのは「2番目」です。
デジタル化推進は正しいこととして意見があるが、もう限界で、効果がある領域は限られているのではないだろうか。
もう他人の時間を奪うのはスマホの通知もいっぱいで限界だし、余暇にやっていたゲームも使うようになった。
広告で本当に売り上げが伸びるなら、広告会社以外も儲かっているはずだが、そうはなってない。
それでも多くの人の生活を支えられるくらいの金額ではないので、一部の人にちょっと多めのお金を渡して、儲かるよといって個々人を競争させ、
数日かけて動画を作るとか、旅行で現地に行って写真を撮ってくるとか、データの間違いがないかユーザーに任せるとか。
昔の職場にいたパートのおじさんがこんな感じだった。七十近い人だったが背が軽く180cm超えてたから、キレると迫力半端なかった。でも、キレる相手は60歳過ぎのパートのおばさん達(皆小柄)とか、入社したての若い女性社員(ギャル、すごく小さい)とか、明らかに自分より弱い相手で、工場長相手だと媚びへつらってたし、若手だけど品管室長(身長と地位がやたら高い)相手には服従してた。めっちゃ相手見てたので、あのおじさんが実はかなりヤバイし恐いということを、正社員で知ってる人が意外と少なかった。
今の職場には、女性でやっぱりそういう気性の人がいて、年下の若い男性バイトの前でだけ癇癪を発揮するらしい。十ぐらい歳上の私の前では猫被っているから、やっぱり相手を見てキレても良いと思った相手にキレるんだろうな。
こういう人達への対策……いちばんいいのは、一定以上は親しくならないってことだと思う。身も蓋もないけど。彼らは外面がいいから騙される人もいるけど、そういう気性って完全には隠せないもので、こいつはヤベェってバレて避けられるのは日常茶飯事だったりするから。だから何も知らずに慕って来る人に出会うと粘着して離さないし、どこまで癇癪を発揮しても大丈夫なのか試すとか、許されてると勘違いして盛大に癇癪を起こしまくるとか、まあ一部の人間相手ではロクなことしない訳で。上手く付き合いたいなら適度な距離を取ることと、相手と二人きりのシチュエーションを避けることで、結婚なんか論外ということだ。
増田に言いたいことといえば、そういう癇癪持ちの厄介な奴に限らず、人間の表面上の美味しくて都合のいい部分だけをつまみ食いするなんて虫のいい話で、一人の人と深く付き合うなら、その人の全部と向き合わなければならないんだよ。増田の場合は奥さんの方が圧倒的に強いから良かったってだけで、増田のその都合のいいとこだけつまんでいたいっていう甘い考えで弱い相手と付き合ったら、DV加害者になるのは増田の方だからね。そういうあまっちょろい考えは捨てような。
文化教育資本の差とか脈々と受け継がれる判断価値基準や情報格差の話なんだよ。
たとえば職業選択ならつきあいのあった取引先の人知れず儲かってるとことか上位上流階層の仕事に就かせるように仕向けるんだよ。
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
さて冒頭に戻るんですけど、日本の職業選択と自称貧困って具体的にはどんなイメージ???
先に定義しておこうぜ
自称、日本の貧困男性のいう日本の貧困や職業選択について教えてください><
文化教育資本の差とか脈々と受け継がれる判断価値基準や情報格差の話なんだよ。
たとえば職業選択ならつきあいのあった取引先の人知れず儲かってるとことか上位上流階層の仕事に就かせるように仕向けるんだよ。
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
さて冒頭に戻るんですけど、純粋に疑問。
文化教育資本の差とか脈々と受け継がれる判断価値基準や情報格差の話なんだよ。
たとえば職業選択ならつきあいのあった取引先の人知れず儲かってるとことか上位上流階層の仕事に就かせるように仕向けるんだよ。
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
今の部署で私が一人抜けたって、多分どうにかこうにかは業務を回していけると思うんだよな。
なのになぜ私は毎日出勤しているのだろう。私である必要はない。代わりはいくらでもいる。前述のとおり補充なしでもイケるだろう。
私が十分に仕事をしないせいで周囲に迷惑をかけどおしている、ということでもある。
ならもっと自分から仕事をとりに行けよって話なんだろうけど、もう無理… 部署内での対人関係が悪化し過ぎている。
部署内で仕事の割り振り是正(本当に「是正」だったのかはさておき)しようとした先輩の動きをブロックして結局全部がおかしくなって一部の人だけが苦労している現状も、全部私のせいでそうなったことになっている。
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
放射脳みたいに大多数の人は慣れて忘れていくだろうけど、
一部の人間は根強く残る
+
大多数の人にもトリガーが埋め込まれたから、ちょっとしたきっかけですぐ反応する
みたいな感じになるんやろなー
俺に無断で俺を含めたみんなの物事を勝手に決めるんじゃない______。
学校でよくある話だが、声のデカい奴らの意見がクラスの総意のように扱われることがある。
わかったわかった。お前らが団結したのはわかった。B組の絆もわかった。だけど、それを俺にも押し付けるな。
とにかく、私には嫌いなことがある。
1つは、花言葉を“語られる”こと。
もう1つは、今日は〇〇の日だという“話題を振られる”ことだ。
だが、さも当然、私もそれに納得するものだという前提を持ったまま、その話題を振られるのがなによりも嫌いだ。
例えば、日本の園芸協会みたいな、とにかく花言葉を管理している団体(知らんけど)が、バラの花言葉が“愛”や“美”であると決める。そうか。勝手にやっていてくれ。
だが、誰かが私に対して「バラの花言葉は“愛”なんだよ」と話しかけてくる。
私はそれに同意していないし、私がバラに対して持っている権利、否、すべての人間がバラに対して等しく持っている権利を、団体という一部の人間によって侵害された気分になる。
私にそれを押し付けるな。
〇〇の日も同様だ。例えば2月22日をネコの日として盛り上がる。いいじゃないか。
だが、私に対して「今日はネコの日なんだよ」と2月22日に話しかけてくる。馬鹿言え。私がネコに対して持っている権利を侵害するな。私はそれを認めていない。
「みんなのもの」に対して「一部」が定めたルールを「みんな」に適用することが、非常に苦手なのである。
前置きが長かった。本題に入る。
私は塾でアルバイト講師をしていたことがあった。基本的になんでも教えるのだが、特に国語の授業を担当することが多かった。
そうすると生徒に漢字に関するアレコレを言われることがある。
答えは、“生”もしくは“下”だ。純粋な質問なら答えるし、自慢したい風ならば、わざと知らないふりをして生徒に言わせる。
だが、それは限定的な話だ。
そして常用漢字表の“生”の音読みは「ショウ」と「セイ」が、“下”の音読みは「カ」と「ゲ」が載っているだけであり、ほかの漢字と大差ない。
つまり、こいつらは「訓読みで読みの数を稼いでいる」のである。
例えば“生”は、「苔生(む)す」と読めるが、これは常用漢字表にはないし、“下”は「ひく(し)」など、おおよそ“低”のような感じで読むことがしばしばある。
そして“生”や“下”以外にもそのように色々な読み方(特に訓読み)をできる漢字は無数にあるわけである。
訓読みは「漢字の日本語での意味」を出発点としているから、どこまでが訓読みでどこからが意読かは判然としない。
したがって、どの字が一番読み方が多いか、などというのは、そもそも成立しない質問なのである。
多様な読み方ができるはずの漢字に対して、「文科省が設定した常用漢字」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
また、筆順の話もしておきたい。
筆順なんてものは文部省(当時)が設定したものであり、しかも、文部省ですら、参考であって絶対の基準でないと明言している。
そもそも、現代の筆順があるのは、単に「そういう順番で書くと伝わってきた」からである。
字というよりも図のニュアンスが強い甲骨文や金文などから当時の筆順を判別することは難しく、また、仮に史料から筆順を解析できたとしても、一定の基準があったかもわからない。
完全に推測なので根拠はないが、当時の人は特定の筆順を持たずに、その場その場で書き(描き)やすい順番で書いていたのではなかろうか。
日本において文部省(当時)が国語を教える上での筆順を策定する際には、流派によって筆順が違う字も多く論争があったというし、日中で筆順が違う漢字も多い。
また、常用漢字以外には筆順が設定されていないという現実もある。
もちろん、私は筆順が不要という論者ではない。
漢字を書く際の大原則(上から下、左から右、など)を理論でなく体で体得することは非常に重要で、それこそ教育漢字の筆順を習得することでその後の漢字も自然な筆順で書くようになることができると思うし、
しかし、筆順の問題を出題するような学校や塾のテスト、特に、テレビのクイズ番組は本末転倒であり、無意味と言わざるを得ない。
多様であるはずの筆順に対して、「文科省が設定した基準」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
いわゆる異体字というやつで、現代の活字文化で目にすることは少なくなってしまったが、手書きではよく見られるものである。
当然だが、文字の絶対的に必要な要件は、“意味を伝えること”である。私たちは本質的に意味を伝えたくて文字を紡いでいるはずである。
したがって、字形も当然“同じ字として認識できる範囲で”揺れていいはずである。
もちろん、学校の漢字の書き取りで異体字を書くのは勘弁してほしい。そこは国の定めた基準に従ってほしい。しかし、それ以外の場面で漢字が基準と違ったとしても、とやかく言うのはどうにかしてほしい。
伝わることに意義があり、伝わったから正しい字形を指摘できるのだろう。じゃあいいじゃないか。
当然だが漢字は漢字を使う皆のものであり、文科省が完全に管轄できる存在ではない。
しかし、子供たち(否、塾で対面するのが子供というだけで、大人の大部分もそうだろう)はそれを唯一絶対の真理として内面化している。
子供のうちはそれでいいだろう。一度型に嵌めて教えたほうが色々考えやすい(それでも筆順を徒に問うようなテストには反対だが)。
しょーもない漢字の雑学本やら、漢字のクイズやら、最近だと特にバラエティ系Youtuberのクイズ企画/学力テスト企画に顕著だが、大人たちが無意識的にこの基準を唯一絶対の真理かのように誤解しているさまは、見ていて虫唾が走る。
11月11日はポッキーの日。これはいい。ポッキーはグリコが完全に管轄しているから。
ながらくイライラしてるだけで理由について考えたことなかったけど、花言葉とか〇〇の日と同じなんだなって気づいた、だいたいそういうお話。
ーーー追記あれこれーーー
〇その1
当たり前だが私は瞬間湯沸かし器ではないので、他人に花言葉/〇〇の日の話題を振られたからと言ってブチ切れるわけがないし、たぶん不愉快な表情一つせず、無難な会話を続けることができる。
〇その2
誤読してほしくないが、常用漢字や教育漢字の否定をしたいわけではない。それが必要だから存在していることはわかっている。ただ、それを“ただ一つの真実”かのようにすること、
つまり“それ以外を誤りである”とするような態度に対して非常にイラついているのである。多数の正解を認められないことにうんざりしているのだ。
〇その3
花言葉は例が悪かった。バラが美の象徴であることは(記事と矛盾しているが)私は実は了承している。漢字という伝統を受け継ごうという意欲を見せている私がバラの花言葉(というか花のもつイメージ)に反対しているわけがない。
もっとこう、バラがn本の時はこれこれこういう意味で~、とか、〇〇は色によって意味が変わってX色では~、とか、明らかにその品種“伝統”がないよな?みたいな花とか、そういうタイプの花言葉を私は了承していないのである。
了承していないだけなら問題がないが、そうした“話題を振ってくる”のが苦手なのだ。
〇その4
この話題は、誰もが経験したことがある「お前の普通を俺に押し付けるな」という話題に決着する。
子供に顕著だが、自分の常識は他人にとっても常識だと思ってしまうことがある。子供は平気で友達の名前に代表される固有名詞を説明なしに会話にぶち込んでくる。
これには理由がある。ピアジェの発達理論に従えば2~7歳の子供は自他の認識の区別がつかないらしい。
だからかくれんぼで目をつむれば他人から自分の姿が見えていないと思うし、自分の知っている友達は当然会話の相手も知っていると思っている。
子供ならかわいらしいが、大人にこれをやられると「自分への配慮を蔑ろにされた」気がして腹が立つだろう。
しかし近年のジェンダーレスを目指す上で、女性俳優が俳優と呼ばれるようになってきた。
ジェンダーレスな社会を求める人達にとっては社会が一歩進んだかも知れないが、
そういう一部の人を除いたほとんどの一般人は「なぜ女性を俳優と呼ぶのか?」という違和感が拭えなかった。
ジェンダーレスであることが完全に正しいかのように振る舞う人たちは、
性差や女性であることを美しいものとして捉えず、排除すべきものとして考えてしまう。
一方ほとんどの一般人は「女性は女性である」と考えている。そこに善悪など存在しない。
公助の問題点って一部の人間による総取りになってしまうことだから、
公助が減少して自助と共助の割合が増すほど、社会的弱者の格差は酷いことになるよね
ここ数年、若い世代とか観察していると、公共に頼れないという認識が内面化されていて、
ゆるいコミュニティみたいなものを作って助け合っていこうみたいな考えのやつが増えてる
ただそういうコミュニティってしばらく観察してると、やっぱり人気があって好かれるやつと、
全然人気なくて嫌われたり気にされなかったりするやつに二分されていくんだよね
で、大体人気あって好かれるやつって何かしら魅力があって、普通に社会で働いてても勝てそうなやつが多い
逆に魅力なくて頭悪くて、コミュ力も低くて苦労しそうな奴は、そういう場でもやっぱり排除されがちだったりする
大衆の自由な感情に任せた共助ってそれを回避する術がないと思うんだよな
別に辛いことがあったときに抱く「悲しい」とか「ムカつく」とか色々な気持ちをひっくるめた言葉として「傷ついた」があってもいいと思うが。
「悲しみ」「ムカつき」の一言だけでは表せない(増田が知らない)気持ちを一部の人たちが「傷ついた」という言葉で共有してるだけだろ
https://www.sankei.com/politics/news/200826/plt2008260002-n1.html
以下に政府や官庁国政及び一部の経済系の人間の認識と世間の認識が剥離しているかが良く判る。
5類に下げるとかなんとか何だと。
普通にコレは感染者が感染後街に出歩く事態を招く事になるし、その後どうなるか容易に想像がつく。
大方これも当初に麻生大臣及び財務省がまともな補償や支援をしなかったせいで病院や医療系が総じて赤字になり、どうしようも無くなったから言い始めた事なのだろうけど。
しかし感染者数の減少傾向が出始めた途端にこれだから呆れるし、この人達は5月の緊急事態宣言及び解除以降で何が起きたかを何一つ学んでいない事が良く判る。
この辺も一部の人達が、8月のただの風邪とか言う流れを作ろうと躍起だった事とか正しく怖がるとか言いだした事を見ても良く判る事だしね。
そりゃピークは過ぎただの集団免疫ですら、疑似科学めいた事ばかり言い、まだまともに存在しないワクチンだのの楽観的な考えしかせず、尚且つ短絡的に良くなったとか言い出し、安易な行動ばかりしでかすのも良く判る。
コロナの感染者数自体波がある事はそれこそ日本だけではなく、他国の傾向を見ても良く判る事なのに。
政府も政府で本来なら当初にすべきだったはずの企業や医療系への経済的補償や支援を殆どしないかケチった上に遅い対応しかせず、アベノマスクやらgotoとかの中抜き政策ばかり積極的な上にこの様な事ばかり迅速に行おうとするのだから呆れ果てる。
そりゃこれでは終わるものも終わる訳がないし、良くなるものもよくなるはずがない。
こんなのだから、5月に感染者が減りだした途端、平時感覚でコロナ対策を蔑ろにして、関係ない法案を優先し、6月にはもう感染者が増加傾向だったにも関わらず、7月にそのまま衛生的、経済的にも衰退を招くレジ袋有料化等平然と行う訳だし、今も平時感覚でマイナポイントとか言い出しているのを見ても良く判る事だしね。
そして安倍総理が辞めた途端、自民は総裁選に内輪で熱をあげているのを見ても以下にこの人達こそ、全く現状にすら危機感を持っていない事が行動として如実に現れている訳で。
しかし和歌山の知事みたいに危険性を感じ、この件に反対な人もいれば、それこそ吉村知事みたいなこの感染者の隔離を後退させるような政策に対して賛成をして、積極的な知事もいるのだからねぇ…。
特に吉村知事に関しては大阪モデルと称し、間接的に緊急事態宣言の早期解除を招き、その後の7月以降の感染の爆発的増加を招いた一因も担ったわけだし、その後もイソジン等のうがい薬でデマに近い発言を行い、世間をお騒がせしたり、重篤者関連での現状の認識の甘さを露呈したり、その後gotoイートに賛同したり、飲食店支援と称しポイント還元策とかの中抜きに積極的な姿勢を見せたりと最近では色々な意味で化けの皮が剥がれだしたりしているのも事実。
それに少し前にも吉村知事は飲食や夜の街、特に風俗店を槍玉にして、命令を聞かないからと称し、条例で罰則を作ろうとする等のある種の脅しとも言える発言をしていたからねぇ…。
地方として金を出せなくなったからと言い、安易に罰則に頼ろうとするスタンスは本気で問題だと思うよ。
そもそも政府が当初本来すべきであった補償をまともにせず、結果経済が回らなくなり、緊急事態宣言を早期に解除せざる得なくなり、結果、閉じ込めに失敗し、ずるずる引き摺った結果、経済の悪化の長期化を招いたと言うのにそれをやれ飲食だののバッシングに転嫁し、挙句安易に規制や厳罰化に走ろうとするのだからねぇ…。
しかし平時から短絡的且つ安易に厳罰化や規制に走る様な人達はこう言う事態でも安易に規制や厳罰化を平然と短絡的に行おうとするのだから呆れるよね。
挙句、世界で猛威を振るっている病気を一部の経済系や政府、官庁、吉村知事みたいな人達が舐め始めたのだから往々にして碌でもない事態を招く事になると思うよ。
2020年4月号の「VERY(月刊女性ファッション誌)」上で行われた対談記事が物議を醸し、Twitterなどでひととおり話題になった。生命倫理、格差社会、フェミニズムという三本の矢が同時に折れた全方位型の炎上だったのだが、当該記事は既に削除済み。魚拓は以下から。
https://matomedane.jp/page/58758
この対談においては、卵子凍結と代理出産というセンシティブなトピックが扱われた。当該記事の中で、スプツニ子!氏は自身も卵子凍結をしたことを明かしたうえで、モデル・申真衣とともに「ブランドバッグや海外旅行とそう変わらない金額」、「成人式の振り袖より卵子凍結をプレゼントする方がずっといい」という文言を引っ提げて卵子凍結を読者に強く勧める。ふたりの話題は代理母へと移り、「卵子凍結の次に来るのは代理母だと思うんです」という申のビジネスライクな発言に、スプツニ子!氏は「その流れは必ず来ますね」「そもそも男性って女性のパートナーに代理で産んでもらって、親として認められているのに、女性だけが自分で産まないと認められない、なんておかしい」と同意を示していた。卵子凍結や代理出産といった選択肢を気軽に選べる「特権女性」ふたりによる対談には、代理母になるのはどこの誰なのか?という重要なトピックが欠落しており、Twitterには批判的なコメントがあふれた。
この炎上を受け、対談に登場したスプツニ子!氏は、9月5日10:07に自身のTwitterアカウントで以下のようなコメントを発表している。
そもそもですが、私はキャリアのための代理出産に反対です。(中略)結果として、まるで私が代理出産を積極的に推奨しているかのような受け取られ方がされてしまいました。(中略)誤解なく様々な視点を伝えるために、私自身も勉強する必要があると痛感しました。皆様の大切なご意見を有難うございました。
この文章を端的に翻訳すれば、「私は代理出産を非推奨ですが、皆さんは誤解してしまいましたね」である。VERYの元記事からは、氏が「代理出産を非推奨である」という主張を読み取ることは困難だったが、この記事は第三者であるライターやエディターによって編集されたものであることを考慮すれば、確かに事実が歪曲され、誤解されやすい文脈で提示されていた可能性はある。なにより、本人がこのようなコメントを署名入りで発表している以上、我々はこれを信じるよりほかない。氏は当該ツイートの添付画像の中で「代理出産の諸問題についてはVERY以前にインタビューを受けた記事でも触れている」とも記述している。そこで、いくつかの記事を実際に読んでみた。
30代前半から後半という、いちばん仕事が楽しい時期と、女性の妊娠・出産タイミングは丸被りなんです。人類はテクノロジーやサイエンスでいろんな課題を解決してきたのに、妊娠・出産だけは野放し。卵子凍結も本当はもっと早くからみんなやっていいのに。私はアーティストとしても妊娠・出産の概念とかタイムリミットを変えたくて。 (中略) 代理出産って倫理的によくないともいわれるけど、男の人って古来から女の人に代理で産んでもらっているじゃないですか。「僕の子どもを産んでください」って。どうして私も代理で産んでもらえないのかと思ってしまうけど(笑)
出典: https://madamefigaro.jp/culture/news/191105-tiff-women-in-motion.html
もしテクノロジーでそれ(※代理出産)が可能になったら(実際、既に可能だけど)女性も男性と同じように自分の子を誰かに代理で産んでもらっちゃダメなのかな? と最近考えるようになりました。代理出産というのは今も賛否両論あるトピックで、国によって合法・非合法と状況も違いますが、これからもっと様々な角度から議論されても良いのではないかと思います。
出典: https://doors.nikkei.com/atcl/column/19/111100138/112100004/
「一番仕事が楽しい時期である30代って、女性の妊娠・出産タイムと丸かぶりなんですよね。仕事やクリエイションが大好き、という女性たちには(キャリア上の不安で)怖くて踏み切れないという同世代が多い。(中略)男性は古来からずっと女性に“代理”で産んでもらっていますよね。だから私もなんで産んでもらえないの?と思います」と、最近卵子を凍結したことも交えながら語った。
出典: https://www.harpersbazaar.com/jp/lifestyle/womens-life/a29706988/kering-women-in-motion-191107-hb/
…もう充分だろう。スプツニ子!氏の主張は首尾一貫している。「こっちは男の代理で産んできたんだから、私も代理で産んでほしい」ということだ。代理出産に対する彼女のアーギュメントは、常に「男性vs女性」という構図への強烈な反発にのみ基づいている。「女性」どうしの間に生じる格差については一度も言及されていない。少なくとも、「代理出産の背景にある社会構造や格差の問題」について触れたうえでその有用性を提案する、という展開は見受けられない。そして、その主張は頻繁に「(30代以降の)女性のキャリア」と結びつけられている。引用した3本の記事はすべて別の媒体・別のライターによって執筆されたものである。また、有名人の実名を出したイベントレポートなどを事務所チェックなしに公開することは出版倫理上考えにくいので、これらの記事はおそらくすべて彼女自身の(あるいは彼女のマネージャーなど本人に非常に近い人物の)チェックを経ていると考えることが自然だろう。これらの過去記事からも、彼女のコメントにある「私はキャリアのための代理出産に反対です」を読み取ることは相当に難しい。
代理出産に賛成なら、賛成でいいのだ。実際に、代理出産の技術は、一部の人々にとっては最後の砦である。同性愛のカップルや不妊症に悩む女性だけではない。たとえば、病気やケガなどにより、生殖能力はあるが出産という行為が母体にとって非常にハイリスクになってしまう場合など、ぱっと思いつくだけでも色々なケースが想定されるだろう。卵子凍結にしろ代理出産にしろ、その技術を必要としている人は必ずいる。「キャリアを維持するための代理出産」を支持しているとしても、自分がそう思っているのなら、そしてその技術で救われる人がいると信じているのなら、そう主張すればいいのだ。嘘をつくこと、それは最も不誠実な選択肢ではないのか。
VERYの対談は、こういった技術について、女性どうしがオープンに議論することができる貴重な場所だった。しかし、ふたりの会話はあくまで「特権階級のおしゃべり」に終始しているように見える。スプツニ子!氏は、格差や構造的な暴力についても事前に承知していた、とTwitterではっきり述べている。問題を承知のうえで対談に臨み、そのトピックについてきちんと触れるタイミングがあったのにそれを怠ったとしたら ― それは、フェミニズムに携わる者、そして教育者としてメディアに出る者が絶対に取ってはいけない態度だと言わざるを得ない。議論が促進されるきっかけ、多くの人に深い思考を促す契機を自ら潰しているのだから。スプツニ子!氏の弁明コメントは、自身が過去に主張してきた内容と矛盾するものであり、議論の場としての対談企画の信用度を貶めるものだ。彼女は彼女自身に嘘をつき、この国における女性の権利についての議論のきっかけはまた一つ失われた。こんな炎上、そして「悪いのは私ではなく誤解したライターと読者だ」と言わんばかりのコメントの後で、積極的に同じような企画を立ち上げるメディアなどあるわけがない。本来であればその長所・短所含めて公に検討されるべきだった「代理母」の問題は、こうして「タブー」になっていく。
スプツニ子!氏のTwitterでの発言に対して、筆者は強い憤りを感じている(これは余談だが、検索エンジンに引っかからないようにするためか、文書ではなく画像でコメントを投稿した用意周到さにも半ば呆れた)。しかし、これを原因に彼女のこれまでの研究や作品、および彼女の所属機関を否定することはしない。彼女の知識やアイデアは誰かを助けることができる可能性に満ちている。過去の自分に嘘をつかず、責任を他者に押し付けず、持論や現在の社会が抱える問題点を正しく把握したうえで議論を新たなフェイズへと押し上げることが、ひとりの教育者としての正しい態度だと信じる。
誰に何を言われようが、あなたの身体も心もあなただけのものだ。卵子凍結のための採卵は、無痛ではない。「海外行くより安いよ」「今どき、凍結してないなんて古いよ」と他人に言われたからといって、高額な手術を受ける必要はない。パートナーの性別や自分自身の体調の問題で、自然妊娠や分娩が困難である人にも、子どもを持つ権利は平等にある。「代理母なんて愛がない」「倫理違反だ」と他人に言われたからといって、心から愛する人との子どもを持つ最後の手段をあきらめる必要はない。たとえ女性が30代で出産を経験したとしても、彼女たちのキャリアや子どもたちの安全を守る社会を作るための方法は必ずある。すべての人が色々な選択肢を柔軟に選べる社会のために必要なのは、アカデミアの皮をかぶった詭弁ではない。次の世代の社会を少しでもマシにするために、我々はここで議論を止めてはならないのだ。