はてなキーワード: ご法度とは
自身の思いとは裏腹に、
確実に医療の現場を圧迫し苦しめる(しめている)であろうイベントに加担してることに少なからず後ろめたさを感じてしまっていて、
コロナ禍の有象無象に限らず”会社員であるからには仕方のないことである”と自分に言いきかせてきたけれど、
同じ境遇で似たような思いを持っている人がいるのではないかと周りを見渡すも、
それぞれの利益やポジションからなのか、はたまた現場の高揚感や集団心理からなのか、
一様にその開催に対して驚くほど前向きかつ貪欲で気持ちが悪い。
各々ネガティブな感情を表に出さないようにしているだけかもしれないが、それはそれでグロテスクな体質だ。
(とはいえ自分も決して表には出さぬようにしている。バレてるかもしれないけど。)
“Covid-19の陽性反応が出たが病院に受け入れてもらえず自宅療養中に亡くなってしまった”という痛ましいニュースのコメント欄には、
未曾有の事態に最前線で1年半以上戦ってきてくれている方々にそりゃねぇだろ。
ただこの事態を作り出した一端を(無論僅かではあろうが)自分が担っているという事実に対し、
自身の良心や正義と、保身や承認欲求とが綯い交ぜになって本当に心がどうにかなってしまいそうだった。
HIKAKIN氏が動画制作のための1000万円を医療支援のために寄付したとのニュースが目に入った。
本当にかっこいいなこのお方は。
自分は曲がりなりにもクリエイターという立場で仕事をしていて、周りには”クリエイティブで社会を良くするんだ”と息巻いているクリエイターが沢山いる。
それが商業クリエイターの在り方であり、正しいと思う。自分もそう本気で思って、モノを作っている。
一方で、”こんなモノつくるより何千万、何億とかけるより、その予算を丸ごと寄付した方が社会は良くなるだろ”という思うこともしばしばだ。
ただ雇われクリエイターという立場でそんなことを口に出すことはご法度だし、自身やその仕事の存在意義を否定することにもなる。
そのような考えを持つ自分にとって、
彼も動画クリエイターとして、動画を作って世に出すことがその存在価値であって、
その予算を全額を寄付するということはその金額以上に大きな決断であると思う。
すぐさま自分もその動画の概要欄リンクに飛んで、1万円寄付をさせていただいた。(氏に比べればかなり少額ではあるが。)
医療従事者の方々への感謝や応援というよりは贖罪の気持ちだった。
要は自分自身がなんとかスッキリしたくて行ったと言っても過言ではない。
これだけ文章に気持ちをぶつけても、自分はきっとこれからも具体的な行動は何も起こせないと思う。つくづく弱い人間です。
そして本当にありがとうございます。頭が上がりません。
もう正直ツッコミどころ満載だとは思うのですが、名もなき人間の立場の一考え、懺悔、書き殴りであることご了承の上、共感・アドバイス・批判などなど受け付けています。
長文・乱文、失礼いたしました。
東京五輪が始まり、テレビも新聞もネットメディアも一斉に五輪中継・報道一辺倒になっていて、五輪反対派にとってはメディアから離れて外に出たいところだろう。しかし、コロナ感染拡大を理由に五輪開催反対しているのに、外出して感染拡大に寄与するような行為をするわけにはいかない。もろにダブスタだからだ。つまり五輪反対派はこの連休期間、ステイホームしながら五輪中継や報道から離れなければならないという苦難が待っている。
そんな五輪反対派にお勧めのステイホームコンテンツを紹介しよう。
まず思いつくステイホームのお勧めはこれだ。ゲームは何でも良いが今のご時世スポーツものは避けた方が良いだろう。五輪に繋がってしまうからだ。
これも悪くない。せっかくの連休、本を読んで知見を広めても良い。ただ本を買うために外に出るのはご法度だ。
五輪に関係なく開催されている。NHKBSが放送してくれないのは痛いが、AbemaTVとかなら放送してくれるのでそっちを見るのが良いだろう。大谷翔平は怪我しない限りほぼ毎日出てくる。
ほぼ男性限定だが、せっかくの連休、いままでゆっくり探せなかったエロ動画を漁るのも悪くないだろう。1日3回抜くことで勃起力改善にもつながる。
ドリフターズは、昭和44年から昭和62年まで続き、最高視聴率50.5%を記録した、TBSの土曜夜8時「八時だよ!全員集合」において、過度のいたずら、食物を大切にしない態度、汚い言葉づかい、いじめ思考などを子供達に植えつけ、そのモラルを引き下げた。
タモリはそれまでタブーだった地方(田舎)を馬鹿にする言葉について、テレビに「市民権」を持たせた。
それ以前は、東北や四国、九州などを、少しでもその都市化の遅れゆえに貶めるような発言は、
テレビの中では、絶対的にご法度だった。ほんの少しでも、地方を馬鹿にした言葉が誰かの口から出ると、
「ただいま、放送上不適切な発言がありましたことをお詫びいたします・・・・・・」
と謝罪の言葉を、司会者は述べさせられていた。しかしタモリは、
「イーじゃねーか、本当のことなんだから」などとニヤニヤ笑いながら言い、「チバラギ、ダサイタマ」などという言葉を放送に乗せ、地方(田舎)を馬鹿にする風潮を、テレビの中に定着させた。
「どちらからいらっしゃいました?」
などという出だしのシーンがよく見られ、またそのシロウト参加者も
「ボクにも笑いが取れました」
とばかりにうれしそうな顔をするが、まったく嘆かわしいことである。
方言は、その地方の人にとっての昔からの伝統的な標準語である。
なお沖縄は、政治的な問題を抱える地域なので、こうした笑いの取り方は、少なくとも
タモリについては、「社空きの化粧厚塗りギャグ」のように、人の悪口を面白おかしく囃したてる、心の荒んだトークについても、「許容されないライン」のかなりの引き下げに、関与した罪は大きい。
などと笑いをとりながら、汚い言葉といじめ遊びをブラウン管に乗せた罪は、免れられない。これは、現在の極まりない悪意に満ちたいじめなどと比べれば、ずっと無邪気な、許されてもいいようなレベルのものではあるが、次世代に一層の悪化をまねいたその足場を作ったものとして、責められるべきものは、間違いなくあった。
ビートたけしは最近は、映画監督・文化人としてのイメージを高めているが、たとえばベネチア映画祭でグランプリを取ったのだとしても、悪いものは悪い、大いに批判されるべきタレントである。「早く死ね、このババア」といっていたことを、99年8月に母親を亡くした後も後悔していないか、聞いてみたいものだ。
90年代前半のとんねるずは「うるせえんだよ!」ダウンタウンは「じゃかあしい、このガキ!」とテレビカメラやライブ会場に向かって、青筋を立てて怒声を浴びせるところまで、凶暴さを増した。よりキレた、狂的な凄みで押しまくるスタイル。いじめも一層残酷で、理不尽なものとなっていった
90年代後半に台頭してきたナインティナイン、ウッチャンナンチャン、ロンドンブーツ1号2号は、それと比べると一見、やや静かで落ち着いた、おとなしい話し方をするが、サッと一瞬人の隙を突いて見せるようないじめ、暴言などは、一層いやらしさを増し、カマトト顔の裏で、陰湿さをさらに増した性格が、見てとれる。
こうしたタレントの作り出す“笑い”びたりとなっている子供たちが、弱いものいじめに走るのは、
よく家に来る野良猫をかわいがっている
でも野良猫にエサをやるのはご法度らしいので、エサ以外のお世話グッズを買っては試している
猫用のおもちゃは何種類か買った、けっこう遊んでくれた
猫用のブラシも買って、たびたび使っている
お風呂は難しそうだから、猫用のウェットシートを買った、舐めても大丈夫なやつ これは1、2回使ってみた
けど猫からそこまで悪臭もしないし、もしかしたらどこかで飼われていて・あるいは地域猫として面倒みてもらってて、自分以外にちゃんとやってくれてる方・場所があるのかも、と思っている
割としょっちゅう玄関先に来て撫でたり抱いたりしているが、夫からノミ・ダニが心配だと言われたので高価な薬も買った、こちらはまだ試していないが、夏前に一度使いたいと思ってる
けっこうお金もかけてるし、撫でたり抱いたり可愛がってるけど、エサは与えないし、家には入れないのを徹底している
地域猫のルールでも餌やりなどは団体が行うので勝手に餌をやらないように、とあるし、ご近所トラブルも避けたい
もしエサをやったらその時は室内飼いにする時だと思ってる
と、一線を超えないよう自分を律しつつ可愛がってきた
が、さっき玄関先に出たら、💩がコロコロと3つばかりしてあった
猫に餌だけやってフンの始末をしない身勝手な可愛がりはご近所トラブルのもと、地域猫ルール違反なのは十分に承知していたから、餌やりだけはしなかったのに
猫は通常、隠せるような場所、石・土・草などがある場所でフンをするらしい
うちの玄関先はコンクリートだ、こんなとこでわざわざするのは縄張りを示したいとかなんだろうか
エサこそやらなかったがあれこれと面倒を見てたのは事実で懐いているのも事実だろうと思う、もともと大変人懐こい猫だけど
フンは乾いたら片付ける、撫でたり抱いたりブラシをかけたりとかわいがる代償でたまにフンを片付けるくらいは大した事ではないけれど
BL同人がネタにされて同人作者からお気持ちされて話題になりましたね。
これは晒しだ、クローズドでセンシティブである同人をネタにしたのだから問題なのだというふうになっていますが、これはただたんに作者にとって不快、要するにネタとして扱ってほしくないという単純明快な話だと思います。
現在だと男性から見てセクシーな女性に対してセクシーだよねというのはご法度ですし、頭が薄い人に対して面と向かってハゲというのもご法度です。アウティングもご法度。相手の気持ちを踏みにじる行為は今後さらに自分自身を痛めつける行為となってしまうでしょう。
そして今回の話題で新しい問題提起になりそうだなと私が思っているのは、「作者にとって不快」であることが今後どんどん発信されていき、バクマンで面白い漫画の特徴の一つとして挙げられていたシリアスな笑いが終わりへと近づいていくだろうということです。
読者にとってネタとして面白く、それをネタとして公に発信してしまった場合、そのネタが作者にとって解釈違いだった場合にそれが問題となりうる時代が来ているのでは?ということです。
少年漫画を例として挙げましたが、実際のところBLでも男性用の成人向けでも18禁の漫画はシリアスな笑いを内包している作品が多いです。
大体の漫画がまぐわうことを軸としているので、展開が強引になりやすくそこがネタとして読者は受け取ってしまうことが多くなってしまいます。
クリムゾン先生の作品がビクビクしまくっているだとか、そこをネタにしてこれ面白いわwとかYouTubeやTwitterで言ってしまった場合、作者がそこを面白いとか言ってほしくないというお気持ちを表明したらもうそこをネタにすることは公の場合で不可能になる時代が来ることが予想されます。
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同人作者のTwitterではお金も入らないしというものもありましたが、果たして今回の問題はお金で解決できる問題なのでしょうか?
私はすべてお気持ちになると思っています。そして、今後二次創作はすべて作者のお気持ち次第になるのでは?と思っています。
二次創作の作者ではなく、二次創作元の作者のお気持ちが今後表明される時代が来る。そして作者が許容している場合のみ二次創作でお金を取ることが可能となる未来が来ると予想しています。
二次創作されてしまっている側の作者のお気持ちが一番になり、いわば自分の作品なのに作者には何にも還元されなく、ある意味転売されている今の二次創作システムが終りを迎えるということです。
私の作品でエロ漫画を描かないでください、勝手にゲイにしないでください。
この前ツイッターで
「なんで運動や他の特技はアピールしても、それほど嫉妬されないのに、学歴だけ妙にみんな過敏に反応するんだろう」と
つぶやいていた御仁がいた
言いたいことはわからんでもない。
でも、学歴を他のスキルと同等に扱えないのはそれなりに明確な理由がある。
全入時代で、定員割れしてる大学も多いから、全員がガチで勉強して進学する訳でもない。
それでも中卒・高卒・専門卒・大卒(四年制・短期)・院卒と、基本的に誰もがどこまでの教育を受けたか区分けされる。
勿論、大卒の中でも、というより大卒の中でこそ、旧帝早慶・駅弁March(最近はSmartなんだっけ?)・日東駒専~なんやらかんやらと、細かいヒエラルキーというか、序列意識が存在する。
そりゃ、義務教育・高等教育期間と、正味12年(以上)かけた上でのレース結果である。
でもこれだとある意味、全員に"学歴"という属性が強制付与されてるようなものだ(非常に気持ち悪い表現だが)。
紙切れ一枚に夢託す
実際、紙切れ一枚で頭の良し悪しなんて、簡単に判別できるものではない。
そんなの、みんなわかりきっている。
わかりきってるし、学歴信仰・偏差値信奉者は一般的にはクソダサいので、学歴で頭の良さが決まるなんて、皆さん口に出して言わない。
でも、実際の所はどうだろう?有名企業の就職率は技術職の理系ならまだしも、文系でも明らかに全体のうん%しかいない一定以上の高偏差値層で固められている。
場合によっては、就職後の研修まで大学のランク別に分けられている。なんだよ、企業なのに、予備校と一緒かよ。という感想である。
学歴=頭の良さではないが、高学歴の方が勤勉性が高かったり、論理的な(座学的な)思考能力が高かったり、まあそれらを測るシグナルとしてはそれなりに信頼性は高いわけだ。
人間外見より中身のが大事だが、これだけ肥大化した社会ではそこまで丁寧に中身を見ることはできないので、大数の法則的に学歴を足きりの条件として使わざるを得ない。
これだけでも、お勉強できましたアピールは、運動できた、楽器弾けますという類のアピールとは、殊更性質が違うことはお解り頂けたであろう。
(優秀で高学歴な増田諸氏からはわかりきったことほざくんじゃねーよ、と切れ味鋭いツッコミが返って来そうであるが)
そして学歴がコンプレックスを非情に拗らせやすいのは、加えてややこしい要因があと二点程挙げられるからである。
増田のような過ごした田舎の公立校では、若くて楽しい青春時代に、机に齧りつくのはダサいと考え、学業に重点を置かなかった層も一定数(というかかなり)いる。
就職やその後、たかがテストの点数でこうも扱いが違うの?阿呆じゃね?ということを痛感したときには既に遅いのだ。
もう少しだけ、勉強にステ振り分けてれば、後の人生もっと楽だったのに。妥協して滑り止めに入るべきではなかった。
働きながら、資格を取ったり、通信などを含めて学び直すことも可能ではある。
が、正直それは、学業に集中することが許された時期に比べると、かなり余裕を持つことが難しいと言わざるを得ない。
特に通常の大学進学なら、合格後も4年間まるまる勉強に専念することになる。
結婚や育児、職場で責任あるポジションを任されると言った事情があれば、尚の事これは難しい。
なんだかんだで家庭環境や出身地など他のデリケート要素が絡んでくるからである。
文科大臣が新受験制度における教育格差について指摘されたときに、「身の丈発言」で物議を醸したことは記憶に新しいだろう。
だが、失言だったには違いないが、家庭環境及びその収入、或いは予備校や進学校の多い都市圏で暮らすか否か
都市圏に多い私学の中高一貫校は、難しい試験を課して入学者を選別する。
その試験を突破するにもやはりある程度家計に余裕がなければ、合格は厳しいだろう。
そしてレベルの高い生徒が集まる環境で、難関大学合格を目標に塾や学校で、合理的で進度の早いカリキュラムが組まれる。
無論、地方だろうが、世帯収入が低かろうが、ストイックに学習に励むことは可能だし、賢い子どもは幾らでもいる。
だが、都市圏でかつ富裕層の方がそれだけ選択肢に恵まれている。この点は否定のできない事実である。
そして、何よりデリケートな問題なのが、やはり不向きな人はそれなりにいる、という点だろう。
「ケーキが切れない非行少年たち」という児童精神科医が書いた本が話題になったが、
境界知能と呼ばれる、IQ70〜84の知的障がいに該当しない人の割合は実は人口の約14%に当たると言われている。
IQと学力の相関性は、増田は実際のところ門外漢なので、少し言いづらい部分もあるが、スポーツがどうしても苦手なタイプがいるように
勉強がどうしても苦手だという人もそれなりにはいるような気がする(公立小中で過ごした時期を振り返って)。
増田はスポーツがどうしても苦手だが、かろうじて学業だけは人並の成績ぐらいはおさめられた。
スポーツが苦手なのは、子供の頃からのコンプレックスだが、歳を重ねれば、学生の時に比べ、そう比較には出されない。
勉強だって基本的にそうだ。だが、別に努力しなかったわけでもなく(あるいは努力する機会がなかったために)、勉強が不得手であった人に
そうしたコンプの瘡蓋を刺激するようなことをすれば、話がややこしくなるのは当然である。
加えて、社会的な記号として、長い期間付いて回る問題でもあるから、二重にややこしく、なるべく人と比較しない方が無難な話題である。