はてなキーワード: TOEICとは
(21:03 追記)
ここまで詳しく人に話したことなかったので、今日まとめて書き出せてすっきりした上に読んでくれた人がいて優しい言葉までかけていただいて本当に嬉しいです。ありがとう。カラースター贈りたい。
そうだね。お金は人生全部で見たらトントンかそれ以上夫に出してもらうつもり。
(追記終わり)
なんか自分のことも書きたくなった。
https://anond.hatelabo.jp/20221102183713
あってるっぽい
1年で自然妊娠しなかったので近所の総合病院の産婦人科に行く。私も夫も特に異常なしということでタイミング法を試みる。数回試したところで夫からの提案で治療をお休みすることに。レスに突入。
https://anond.hatelabo.jp/20200628172554
35歳を過ぎた時に、このまま子なしの人生になるんだなーと一人で納得した。
なので38歳も終わり頃になって夫が不妊治療を提案してきた時は、意外に思ったし何を今更とも思ったし、少し億劫でもあった。でももし上手く妊娠できたら会社辞められるしとか変なこと考えつつ2人で専門病院に行った。
初診の時に夫婦生活がないことを言ったら、滅菌した使い捨てのコンテナとシリンジを渡された。コンテナに出してもらったものを自分で注入するという按配。
夫婦生活がないことについて、もっと色々言われるかと思ったけど、まずバイアグラ的な薬を勧められて、夫が断ったら、あそうですか、ではこれ (シリンジ)はどうですか、てな具合だった。
当時今ほど性の多様性うんぬん言われない時代だったけど、踏み込んでこられなかったのは有り難かった。
もし、レスだけど仲良しで子供が欲しいと思ってる夫婦がいたら、思い切って病院行ってみよう。
コンテナ2回する間に諸々の検査をして、年も年だしということで体外受精に進む。
この後ずっと薬で生理をコントロールしていた。薬の名前とかは覚えてないけど、元増田の言う通り膣座薬は情けなかったね。。
1ヶ月リセット→ 採卵①(私の場合、質の良い卵子を育てるめに1回に1、2個しか卵子が採れないやり方だった) → リセット → 採卵② → ①と②の卵子を一度に戻す → 妊娠判定 → リセット → 採卵① と続く感じでお金も時間もかかった。なお①で受精卵が2個できれば採卵②はとばす。
体外受精でも良い結果が出なかったので顕微授精に切り替え。
それでもダメだったので、子宮内膜についている小さいポリープをとってみましょう、ということで手術。
その次の回でめでたく妊娠。
その後なぜか半年ほど生理が止まる。薬でも注射でも生理を起こせなかった。この時期がいちばん辛かった。
なんとか生理が復活して、そこから2回試して試合終了。理由とかこの時の気持ちとかは後で書けたら書く。
・先生が合ってた
生活態度とかについてうるさく言ってくる先生じゃなかった。飲酒(深酒)喫煙はだめだけど、それ以外はエビデンスもないので好きに過ごしてください、て感じでクールに突き放してくるタイプの先生だった。
・職場が合ってた
もともと、有給取る時に理由を聞かれない職場で、休んでも納期までに自分の仕事を仕上げていれば何も言われなかった。採卵日とかは大体1週間〜5日前くらいには分かったので、計画的に休めた。あとは土曜日とか平日の仕事の後に通院できた。週に3日ほど延長診療の日があって、ノー残業で駆けつければ診てもらえた。混んでたので帰宅は9時頃とかになったけど。
だから生理がきてガックリ、という気持ちを味わわずに済んでいた。あれはメンタルに悪すぎる。妊娠判定は、いつも病院の尿検査と内診。自分で市販の検査薬を使ったこともない。感情が揺さぶられ過ぎると思ったので。
不妊治療を始めるにあたって決めていたこと。感情的にならないなんて無理なんだけど、メンタルやられたら出産育児どころじゃないので、出来るだけ他人事みたいに捉えるように気をつけてた。自分を責めない。夫を責めない。感情は言葉にすると具体化しちゃうので、曖昧なまま気づかないふりをする。風呂で一人になった時に泣く。人に話さない。
病院に払うお金で一杯一杯だったので、高価なサプリとか気分転換の贅沢とかはしなかった。後で書くけど漢方には手を出しちまったが。治療してるとスケジュール的に3か月先のチケット取ったりとかしにくいというのもある。
ある同僚に話したら「私の友達も40歳で結婚したけど、すぐ子供生まれたよ? 病院に行くよりも普通にリラックスして過ごしたら?」って言われた。良かれと思って言ってくれてるのは分かるので「ありがとう」と返したけど、いやいやいや、結婚して10年、普通にリラックスして過ごしてるんですけど? レスだけどそれも含め普通に過ごしてた結果がこれなんですけど? って内心思ってた。不妊は性格悪いと言われるのはこういうとこだろうか。
以降、誰にも言うもんか、と思っていたけど、必要に迫られて別の友人にも話した。漢方薬局を勧められた。出費が増えるのは痛いけど、カウンセリング(という名の話し相手)もしてくれるとこだったので、しばらく通った。紹介してくれた友人にも、「この前教えてもらったとこ行ったよ!ありがとう」って言えた。
夫は夫で、職場の誰かに話したみたいで、寺みたいなとこを紹介されてきた。ドライブがてら2人で出掛けていって、祈祷を受けてきた。
どれも正直効果があったとは思えない。個人差もあるし。医者の言う通りエビデンスがない。(漢方はあるのかも。)顕微授精して育てた受精卵を体内に戻すっていう方法が最強やろ、って思って、時間も資金もそっちに集中したかった。
良かれと思って言ってくれるアドバイスに感謝して付き合って、というのが億劫で、私はなるべく人には話さなかった。
当時、正社員で働いてて、時間外手当含めて手取り25万〜30万くらい、なんなら夫より多いくらいだった。治療費はそこから出してた。定期預金とは別に百数十万くらいのお金を非常用によけとく癖があったので、顕微授精とか、1回に40万くらいかかる時はそこから持ち出していた。あと手続きしたら行政から戻ってくるお金と、ポリープと流産で手術した時の医療保険。医療費控除のために集計したら、その年は220万くらいかかってた。
元々、痛い思いするのが辛かったんだけど、あ、なんかもう我慢したくない、と思ったから。資金的にも、そろそろ定期を解約せねば、となっていたので。もし子供を授かっても、お金がなかったら育てられない。それで、やめ時だと思った。治療のゴールは2つあって、一つは妊娠出産だし、もう一つは私の気が済んだ時だ。やるだけのことはやったし、短い間だけど妊娠もできたのでもういいか、と思ったらすごい解放感だった。2年ちょいお世話になった先生にその旨お話しして、お礼を言って終わった。
40歳になって子供がいなかったら、何か新しいことを始めたいと、結構前から思ってた。楽器でも絵でもいいな。それがひょんなことからTOEICに挑戦することにした。ひょんなことというか、初期投資がいらないから英語にした。それで不妊治療やめて余った時間とやる気を全振りしたら850点取れた。
当時、TOEIC840点で通訳案内士試験の英語の一時試験が免除になったので、2年かけて通訳案内士の資格を取った。
それからコロナまでは訪日外国人のゲストに地元を案内したりガイド仲間もできたりで充実した日を過ごした。プロのガイドとしての稼働はそんなに多くないけど 夫も昇給したので会社も辞めた。最近また訪日客が増えてきて嬉しい。色んな国の色んな年代の人と会って話すのは楽しいし勇気づけられることもある。
数週間だけとはいえ、親になるという気持ちを味わえたこと。毎朝、目が覚めて、わずかながらの身体の変化を確かめて安心する時の甘やかな幸福感。常に不安でもあったけど。あの気持ちを知ることができただけでも、やってよかったと思う。産んであげられなかった我が子には、申し訳なさもあるけど感謝でいっぱいです。
完全に蛇足だけど、産めてたら産めてたで色々大変だったろうしな。
塾講のバイト以上中学運動部や大学院の研究室以下程度の心身の負荷で仕事こなして、
家帰ったら飯食ってソシャゲやYouTubeに時間費やして、休日はひたすらダラけるとか家族サービスするとかで
自己研鑽もクソもない過ごし方ばかりしてて、
そんな風にボーッと生きてても住宅ローン組めて、子供育てられて、なんかちゃんと家計が回ってて、老後2000万円はまあ貯まるだろうってくらいの給料貰えてるって感じだぞ。
『頑張って頑張り抜いてなおかつ競争に勝ち続けないとビジネスマン諸君には恐ろしい未来が待ってるぞ!!!』
みたいな柳井っぽい悲観はごく一部の上級ビジネスマン(経営者とか銀行員とかコンサルとか)にしか当てはまらないからそっちの世界で勝手にやっててくれよ。
日本は衰退してるし景気もずっと悪いし、いかにも先行き不安っぽい感じあるけど、自分や周りみててその影響を感じたことないぞ。
待遇は別に大して悪化してないし、なんなら勤続年数増えるだけで勝手に基本給上がってくくらいだし(30歳以降、6~7年に1回くらい訪れる実質年功序列の昇格タイミングで年収100~200万くらい上がるし)。
朝会社から出ると同時に近くの喫茶店に同期や先輩と集合して2時間くらいサボってるとか、生活のために残業代稼ぐとかはできなくなったけど、
それでも日中にパチンコ行ったら便所で仮眠とってるとかは今でも普通にやってるぞ。
でもサラリーマン人生通算で3億くらい稼げるだろうしまあ60歳までこの調子で逃げ切れるよ。
意識高いビジネスマンの煽りなんか無視してみんなもっと楽になったほうがいいよ。
TOEICとかPythonとかなーんも勉強する気ないし、サラリーマンとして成長する気すらないけど絶対人生詰まない自信ある。
みんなに言いたいのだけど、年収の話って仲間内でもしにくいのと1000万超えたならまだしも2000万ってなると引かれそうなのでここに書かせてほしい。
今の会社に入った時のオファーは大体1200万前後(RSU込み)、そこから昇給や昇進が何回かあって、今は大体2000万(RSU込み)くらいになった。
今もマネジメント職ではなく、いわゆるIC (Individual contributor)だ。今の会社に入るまではいくつかのWeb系企業を転々としていたけど、大体の1エンジニアとしてのアッパーは900万前後で、それ以上はマネジメントにならないといけなかった。スペシャリストとしてのキャリアも目指せる!っていってるような会社でもだ。今は下から3~4番目くらいのタイトルだけど、外資系のITだとICでももっと上のタイトルを目指せば年収はさらに上がっていく。これ以上上に行くとICでも実際になんか実装するより、技術的な方向性を決めたり他のチームとの協働をリードしたりといった仕事が増えそうので、あんまりそういうモチベーションはないけど。
正直自分はアルゴリズムにめっちゃ強い訳でもなければ、英語がペラペラという訳でもない。AtCoderは何回かやったけどまだ茶色だし、英語も何年か前に受けたTOEICは700後半だった。それでも会社で評価してもらえたのは、自分達のコードとそれに依存するサービスのコードも読み込んで誰よりも詳しくなる、丁寧にコンテキストを説明するドキュメントを書く、とかそういったところだと思う。他にもプロジェクトをリードしたり、ステークホルダーと要件を握るといったところも評価されるには必要なのだが、そこは結構頑張った。
年収2000万を超えるとタワマンに住んで高級車乗り回すみたいなことができるのかと思っていたが、実際は数年前の自分の年収(年収だよ手取りじゃないよ)くらいは税金で持っていかれるのでそこまでの贅沢は正直できない。そしてスッとクビになった時に同じ待遇の会社に入れるか正直不安なので、ちょっといいところに引っ越した以外はあまり生活レベルを上げず貯金や投資に回してしまっている。それでもスタートアップに入ってSO狙うみたいな不確実なキャリアや、CTOやVPoEといったしんどいキャリアを選ばなくても、これだけの待遇で働かせてもらえてるので、数年前にちょっとの勇気を出して飛び込んでよかった。
毎日更新!TOEIC Part5 練習問題 ミニテスト | 英語学習お助けサイト
Neither Emily ------- Jessy couldn't figure out how to fix the copy machine.
(A) either
(B) or
(C) as well
(D) nor
正解 (D) nor
<訳> エミリーもジェシーも、コピー機をどうやって直すかわからなかった。
これ二重否定で「2人とも分からないことはなかった」にならない?
問題が間違ってるのかと思って
Neither Emily nor Jessy couldn't figure out how to fix the copy machine.
をGoogle翻訳にかけたら、同じ訳が出てきた。
じゃ、couldn'tをcouldにしたらどうなる?と思ってやってみたら、同じ訳が出てきた。
若手から中堅、シニアに至るまでみんな「プログラマーになりたい」と言っているのだが
現実問題としてそんなに簡単になれるものではない、というのを知っておいて欲しい
算数や国語は長い歴史の中で様々な試行錯誤が行われ、どのように教えれば大半の人が知識獲得できるかという方法論が確立されてきている
もちろんまだまだ改善の余地はあるが「こういう教え方が良い」というのがちゃんとある
ところがプログラミングに関してはまだまだ歴史が浅く、どのように教育すればプログラマーになれるかが分かっていない
幼少期からC言語を教えるのか、Scratchでいいのか、Pythonがいいのか、何も分かっていない
今のプログラマー達は生存者バイアスでしかないので体験談は全然アテにならない
何かしらそれっぽい理論が発表されてたりもするがエビデンスに欠けるモノが多くてまだまだ研究中という感じだ
そんな感じなので「実際に書いてみるのがいい」「業務で使いながら覚える」「写経するのが良い」などなどいろんな方法論が乱立している
あなたがプログラミングを勉強し始めると「教え方が良くない」「本が役に立たない」となることを覚悟してほしいし
勉強法をトライアンドエラーで繰り返していくことになるので技能獲得には相当な時間がかかる
PythonでもJavaScriptでもメモリのアロケーションのような計算機的知識が必要とされる
みたいに言われることも多いが実際にはそんなことはなく、ちょっとしたバグを引いたときにでもその手の知識が必要になる
もちろん昔に比べれば非常に楽になったが全くゼロでいい訳では無い
同様にクラウドリソースを使うときにTCP/IPを全く知らなくて良いか、と言われるとそうでもない
GraphQL使うときにHTTPの知識が全くいらないわけではないように
プログラミングでは下手するとWiFiやLTE/5Gの知識まで必要とされる
これは例えば建築関係においても同様で、家を建てる人にはコンクリートの基礎知識が必要だったり木材に関する基礎知識が必要だったりするのだが
歴史が古い分野では教育法が確立されているので建築学科なりに行けばキッチリ教えてくれる
同様に情報系の学部に行けば教えてくれるが、大学による差がかなり大きいし、体系化されているわけではない
Word, Excelの使い方を中心に教えるような大学もあれば情報理論から教えるような大学もあるし
それのどちらが良いかは誰も分かっていない
オンラインビデオで有名大学の授業を見ることもできるが、質問はできないので分からないところがあれば終わりだ
なので大学に行ったとしてもいろんな授業を受けてトライアンドエラーで長い時間をかけて技能獲得する必要がある
「Python検定1級」みたいなのが乱立しているがはっきり言って役に立たない
しかも「Python検定1級取得のための集中研修」みたいなのもあって地獄みがある
問題を解くための知識だけを得たところで前述した前提知識がないと実務で役に立たない
プログラマーを雇う側はその手のことをよく知っているので、こういった資格は全く考慮に入れていない
TOEICや英検のように「実務ではあんまり役に立たないんだけどな」と思われてる資格であっても社会的にコンセンサスが取れていればそれなりに役に立つが
プログラミングに関してはそういった資格がない状態である(IPAはそれなりに信頼されているが、取って無いから落とすようなことはない)
この英語における「TOEICがない」状態で困るのは効果測定である
プログラミングを勉強しても自分が成長しているのかどうかを客観的に知る方法が無いので独学で学んでも役に立つかどうか分からない
オープンソースに携わったり業務経験などを経て長い時間をかけて「プログラミングができるようになってきた」となるので1,2年でさっさとプログラマーになることはできない
一番の近道は旧帝大の院に入学して2年間キッチリ勉強すればそれなりのプログラマーになれる
もちろんスタートラインなのでそこから業務経験を身につける必要がある
なので旧帝大の院に入れないような人はプログラマーとしての前提知識を得るための前提知識がそもそも足りていない
独学でやるなら近道は一切無いので5年ぐらいは覚悟した方が良いと思う
年齢 30代後半
性別 男
TOEIC L R 870
年収520万
完全在宅勤務(今のところは)
週休完全二日制
残業は忙しい時期で月30h程度
もう年齢的に転職は無理だろうなとか思ってたけど最近同期が立て続けにステップアップしてて結構焦る。
・完全在宅勤務
・得意先や社内の偉い人とやり取りする必要がない。プレッシャーとは無縁のポジション
・技術的な意味で業務がクッソ楽。仕事量は忙しい時期もあるけどそれ以外はぜんぜん余裕で定時に終わる。
・年収
・英語を使う機会の少なさ。
・同じ事の繰り返しでここ数年新しい技術を習得出来ていない。自身の成長が止まっているのを実感してる。
①の上2つを維持、更に②の2番目を改善した上で年収が現状+100万くらいのところに行けたら理想的。
①の一番下のやつは「好き」として挙げたけど正直このぬるま湯的な環境に蝕まれつつある気もするから手放してしまっても全然構わない。
②について、年収はもう少し欲しい。妻も働いているので世帯年収はギリギリ1000万いかないくらい。子供は今のところいないので生活には全く困っていないのだけど、数年前に2人で伊豆の温泉に泊まった時にあまりの素晴らしさに感動してしまい「もっとお金を稼いで2人で日本中の温泉旅館に遊びに行きたい」という気持ちが芽生えてきてしまった。
更に②の「英語を使う機会の少なさ」について最近不満を感じつつある。
英語は元々業務で使うために嫌々勉強し始めたのだけど、今ではすっかり楽しくなって趣味の一つになってる。その代わり今度は逆に今の環境での使う機会の少なさに不満を抱くようになった。
②の3番目は転職で解決するのも手だけど、正直今の環境でも頑張れば何とかなりそうな気はするのでマストでは無いかな。
②の4番目は同僚Aの仕事を押し付けられるケースがここ数年明らかに増えてきていてストレスを感じている。
得意先や他部署に迷惑をかける訳にはいかないしその時対応出来る奴がやった方がチームとしては効率が良いというのは頭では理解出来るけど給料大して変わらないのに仕事量は他人の倍っていうのは流石におかしいでしょ。
ちなみに俺が残業対応してる時にAは定時で帰ってる。仕事終わらせてるなら何時に帰ろうが勝手だけど他人にケツふかせた上で優雅に定時退社してんじゃねぇっつーの。
でも残業といっても他の部署の人間に比べたら大した事無い量だし自分は割と恵まれてる方なのかな?と思わないこともない。
完全在宅勤務は絶対に手放したくない。これ一つで恐らく年収+250万円分くらいの価値がある。
妻もフルタイムで働いているのと、自分が長男でかつ実家から離れた場所で暮らしているので将来的に親の介護が必要になったときリモートワーク出来る環境というのはかなりありがたい。でもこの先今の職場で在宅勤務を続けられるかどうかは分からないので必死にしがみつく程のものなのか?という不安もある。
書いてて思ったんだけど、今の職場への不満も一つ一つの要素はどうしても耐えられないって程では無いんだよな。だから悩むのか。
外資系企業の日本支社で30代で年収1000万円超えてる。転職組だからあんまりわからないけど20代でも超えてるやついるんじゃないかな。
英語は高校卒業以降勉強してないしTOEICも受けたことない。
日本の顧客相手に売るので英会話はいらない。本社の資料をGoogleとかDeepLで翻訳して読めば営業は出来る。
売ってしまえば本格的なサポートは別の部署の仕事なので専門的な知識よりも他社事例(もちろん日本の会社なので日本語で情報収集可能)を把握しておけば問題ない。
自分で作った資料とかは同僚や上司にチェックしてもらってるので翻訳間違ってたら教えてくれる。
まぁ俺みたいなカスでも生き残れてるからだいぶ簡単ではあるけど、機械翻訳はまだ前線に立てるレベルにはないね… 絶妙なところで絶妙に意味が反転してしまってたりしてチェックは要る
ただ普通に向こうで特に大きな不自由なく半年生活できて、業務もバリバリ回してるのにTOEICでは全然点数が取れないっていうのが厳しい
英語自体はそんなに難しいわけではないのに点が全然取れないし、(アカデミア用だしライティングとかスピーキングがあるから当然ではあるが)TOEFLはそれなりに取れるので、何で日本の人はTOEICこんなに点が取れるのにTOEFLでそれだけしかとれないの?みたいなことは思うことがある
高校に入学したとき一番がっかりしたのは、クラスに可愛い子が一人もいなくて
うちのクラス、ブスばっかだな。。とクラスの男子も同意見だった。
ブスだなと男子同士ではいっていても、クラスの女の子と気軽に口を聞く習慣も勇気もなかった。
共学なのに、ただ一緒にいるだけ。
でも性への関心だけは異常なくらいあったので、好きなアイドルの写真をみては
こんな子、うちの学校におらんかな、いたら告白するのになー、と嘆いていた。
そして3年生の修了式前、最後の授業が終わったときのこと。チャイムが鳴って
ふと、隣の席をみると、隣の女の子も満面の笑顔で、自然に目があった。
ばんざーいって感じだよ、と
返事をした。
あっという間だったね。高校。なんか終わっちゃうとさみしいね。
その子が続けた。
んーそうなんだ。
と返したあたりで、ふと気が付いた。
初めて隣の子としゃべったということを。
そして、しゃべって初めて、その子の表情、瞳の輝き、目じりの、口元の動き、そして言葉が、
すべて一体となって形作る笑顔のさわやかさに気が付いた。
背が低くて、太目で汗っかきで、鼻がまるまっちくて、ボブっぽい髪型の女の子だった。
8月13日記。品定めなんかして、やーね男子はこれだから!クラス女子代表より!みたいなブコメがトップにきていたのをみて、さらに台無しにするような蛇足を記してみたいと思った。男子は、クラス女子全員NGみたいな感覚をそのままもって大人になっていくわけじゃない。俺のその後の物語にも何か伝えられるものがあるような気がした。壁に突き当たって苦しんでいるそのときは、切実な問題でも、時間が経って振り返ってみると、それはいつの間にか物語の一部になっていて、そのタイムカプセルに入ったいい思いもつらい思いも全部をひっくるめていとおしく思い出すことはあるんだろうと思う。
こっそり、その後を追記するので誰も見ていなくていいと思う。なお上記の文章は、トラバしたティーンの甘酸っぱい一瞬を切り取った元記事に、男子側に存在した感受性を返したところで完結している。以下は、そこからは完全にスピンアウトした俺の物語。
学校最後の日に隣の子の可愛さに気が付いた話の後日談から始める。
最期の授業のあと、あっという間だったね、という、あの子の言葉がずっと心に残っていた。帰りの電車のなか、あの子の仕草や笑顔が思い出された。
なぜもっと早く気が付けなかったんだろう。気が付いた時には、もう会えないのだ、という意味では、あっという間だったんだ、確かに。
それに引き換え、「んーそうなんだ」としか返せなかった俺。それは鮮烈な喪失感だった。
卒業式の夜、卒アルを手にした俺は、最後の日の記憶を重ね合わせながら、あの子で一発抜いた。
あとから辻褄を合わせれば、このときの喪失感は知らず知らずに憧憬へと結びついていったのかもしれない。
時は流れ、すっかりそんなことは忘れていた。もうすぐ大学生活3年目になろうかという頃。
俺はどちらかといえばブサメンの部類だったが、なぜかその子がなついてきた。
バイト先のいい感じのイケメン男子たちは、さくっと他の可愛い子を捕まえていた。ということで、余り者同士っていうのかな。。
ぽ っちゃり体形で外見コンプレックスを抱えた子だった。
私なんかブスだしデブだから、誰も相手にしてもらえないんだよね、
という彼女の体重は見た目、小柄ながら80キロくらいは有りそうだった。鼻の下にある大きなほくろが目立ってしまい、どうしても人の目線がいく。そんな他人の視線をこれまでの人生でいやというほど浴びてきたのだろう。小学生男子だったら、やーい鼻くそデブ、くらいのことは軽いノリでいってしまいそうだ。
「いやーそんなことない、男子は結構、女の子のいいところに後から気が付くってことも多いんだよ、昔さ、高校の最後の授業のときに、今までほとんど喋ったことのない子とさ、初めて笑い合ったことがあって」と思い出話をした。
「増田君もさ、あなたのよさって見た目のカッコよさとかじゃないから、なかなか気が付かれないと思うんだよね、私は気が付いていたけど」
俺のいいところをしっかり見守ってくれていて、俺の生き方に干渉しない、そういう彼女の接し方は居心地のいいものだった。
言い換えれば自分は努力しないで、いいところだけ褒めてくれる、都合のいい女だった。居心地の良さを「好き」と言い換えていいのかは微妙だった。
それからというもの、その子からは電話が増え、手紙が増え、あたかも俺の彼女のようにふるまうようになっていった。
デートするときは、バイト先からは遠くかけ離れた場所を選んで待ち合わせた。街を歩くときはちょっと離れて歩いたりした。
しかし、彼女の俺に対するふるまいが目に見えてハッピーになるにつれ、バイト先の同僚たちにバレないようにするのが、いよいよ難しくなってきた。
正直、俺は、笑い者にされるのが怖かった。お前、あのブスと付き合ってんのかよwwwwという同僚の声が呪いをかけていた。そういって笑われるのがオチなので、彼女との関係をひらすら隠していた。
びしっと決めた男の子が可愛い子を連れて歩く―これが憧れの大学生活だったが、現実の俺は、何を着ても似合わず、ダサいファッションセンスで、地方都市の無名大学。
しかもつぶしの効かない文系。就職にも不安を抱えていた。いざとなったら、実家の食堂を継ぐかな、と甘ったれたようなことを考える、しょうもない大学生だった。
最悪、こいつと一緒になって家業を継げば親も喜ぶかな、それともデブの嫁は嫌がるかな。
俺たちの関係は、周りにうすうすバレていて、陰できっと笑い物にしているんだろうと思うと、あえて耳をふさいでいた。
でも、内心、そいつが好きでたまらなかったので、ホテルに入っては、外で離れていた距離を取り戻すかのように、何度も何度もエッチをした。
次第に、周りの目線が気にならなくなり、いつしか人前で手をつないで歩くようになっていた。
まだ正式じゃないんだけどね、と前置きしつつ、東京にある大手の企業に就職が決まりそうだという。
え!!!何それ。お前、4年だったの?というか、年上だったのかよ!?
愕然とした。ということは来年の春には、お前は東京。離れ離れになっちゃうってわけ?
彼女はむくんだ人差し指で、鼻の下の汗をぬぐいながら言った。デブの汗は半端ない。
「わたしね、こんな見てくれでしょ。ずっと独りで生きていけるようにならなきゃって、覚悟して生きてきたんだよね。」
恐る恐る聞いた企業名は、海外にも名の知れ渡る大企業。しかも事務職ではなく総合職採用だった。さすが旧帝大の子は違う。身分の違いを思い知らされた。
ねえ、増田君、ちょっと先の話だけどさ、卒業したら、一緒に東京で暮らさない?
俺はフリーズしたデスクトップ画面で固まるマウスを動かそうとするように言葉を探したが、出なかった。
「お給料ももらえるようになるし、今よりおいしいもの食べれるよ。東京のオシャレなレストランで食事とか、楽しそうじゃない?」はつらつとした声だった。
いいな、お前は意気揚々としてて。俺みたいな三流文系、雇ってくれる東京の会社なんかねーよ。そう思うと、くやしさと情けなさで胸がいっぱいになった。
と同時に、デブ女の稼ぎで、東京の下町でパチンコしながらヒモみたいに暮らしている自分の姿が脳内再生された。
お前さえよければ、実家の食堂一緒にやるか、と思っていたけれど、俺の勘違いだったみたいだな、そんな言葉も出かかったが、何も言えないまま。
まいったな。一流大手かよ。こんな俺に人生預けられやしないよな。。
俺自身の甘さを突き付けられていた。
何もかも。ただ、俺になついてきているだけにみえた彼女は、しっかりとした人生設計を持っていたのだ。年上だったことも何も知らず、いい気になってた。
そして、ゴメン、俺ちょっと帰るわ、唐突にそういって、彼女と別れた。
その夜、彼女から電話が鳴ったが、俺は出なかった。翌日から、手紙が何通もきたが、未読が積み重なっていった。
彼女の電話を無視している大人げない自分を恥ずかしく思いながらも、一方で根本的に自分の人生を考えなければいけないという焦りが強まった。
デブ女を連れて歩くのがカッコ悪い、なんて思っていた自分を恥じた。何様だったんだろう。人前で手をつないだって一体何を克服した気になっていたんだろう俺。
彼女のほうがよっぽど堂々としていたし、しっかりしていた。
年上だって知ったときに、瞬間的に、俺は見くだされた、と錯覚した。見守られているというのは、錯覚じゃなかったかもしれないが、余り者同士というのは、俺が勝手に思い込んでいただけだった。それとも何、学生時代最後の思い出に年下の子と遊んでたってことかよ。つり合いがとれてない。俺、ダメだわ。絶望的な学歴コンプレックスに苛まれた。
彼女とは気まずくなって連絡をこちらから返せないまま、それっきりになった。
今思えば、彼女はものすごく傷ついていたと思う。今だから想像できることだけど、当時はバカだった。バカにしやがってよ、と思っていた俺が心底バカだった。
俺は翌春、休学申請を出した。バイトでためたカネで、アジア、アフリカ、中南米を回った。
彼女が知らせてくれた東京の住所をたよりに、時折、現地から絵葉書を書いた。今、ここにいる、とだけ知らせるために。自分から去ったくせに、どこまでも未練がましい俺だった。
ブラジルでは、現地で意気投合した女の子とその日のうちにセックスした。そんな風に、成り行きでセックスした人数は、アジア、中南米で4,5人くらいになった。
人種も外見も本当に多種多様で、外見コンプレックスって、日本だけの話じゃないかと思うほど、日本にいた時の美的感覚がすべてリセットされるかのような経験だった。隣の子にも無関心で口もきけなかったあの高校時代、ブサイクな女の子の基準って一体なんだったんだろう。
言葉は、現地でバイトをすると、驚くほどのスピードで身についた。
世界の人々の多様性を実感したという意味では、よい経験だったが、多様性などくそくらえな日本社会に順応するには、自分探しの旅は、却って迷わせるきっかけとなった。
日本社会は窮屈で生きづらい、という思いを却って強くしてしまった。変われた気がしたのに、ある意味で、何も変われていないことに気が付く。適応障害だった。
卒業してもふらふらと実家にいるのも気まずく、東京へ出た。6畳風呂なしのアパートで、バイトで食いつなぐ日々。
就職氷河期の真っただ中、夢を追いかけ、機会があれば海外へ出て2年ほど戻ってこなかった。自分の人生を考え直すといっては自分探しをはじめ、却ってますます人生に迷っていた。
気が付くと、7年が経っていた。30にもなるのに、無職だった。昔、付き合ったデブの彼女のもとでヒモしていたら今頃どうなっていたかな、と夢想した。俺自身が変われない限り同じ結果か。
7年もたつと、彼女が同じ東京にいる、という確信すらなかった。総合職だし、今頃バリバリのキャリアウーマンなのかな。想像できないけど。
当然、連絡もない。いい男をみつけたかもしれない。いや、あいつじゃ無理かな。。。なんてね。
片や、俺は野垂れ死に寸前の極貧生活。この頃の稼ぎは年90万~150万くらいだったと思う。一キロ178円のパスタと閉店間際に200円になった弁当だけが頼りだった。
自分のみじめな境遇を恥じて、実家へは5年以上戻っていない。心配する母からは時折セーターなどの荷物が届いた。こんな手紙を添えて。
「食堂をやったって全然構わないんだから。ただし一人じゃできない仕事なんだからね。伴侶を見つけなさい」
婚活のスタートラインにすら立っていない俺は何もかも惨めだった。
そんなある日、バイト先の会社に事業拡大の話が持ち上がった。扱っている商品の海外展開らしい。
「英語はNYのレストランでバイトしてましたから少しは。あと、スペイン語とポルトガル語を少々。挨拶だけならスワヒリ語、アラビア語、ピロートークならタイ語もOKです、口説けますww」
というと、とりあえずTOEICを受けといてくれ、という。俺は営業社員として採用され、俺の7年間の極貧生活に終止符が打たれた。
英語は得意だと胸を張ったものの、TOEICを受験してみたら490点だった。最悪だ。バカであることがバレないよう、点数を隠したが、すぐにバレた。
しかし、毎回受け続けた。翌々年、まぐれで出した890点で頭打ちとなり、その後850前後で停滞。これで限界かな。さすがにTOEIC受験に飽きた。
点数などどうでもよく、仕事が猛烈に楽しくなった。慣れない英語の契約文書と格闘した。会社は数年後、外資に買収された。
お金がない頃はいけなかった都会の風俗にも少し足を運んだ。30代になってお金ができて初めて風俗に関心を持った。
東京にはマニアックな風俗が山ほどあって、ぽっちゃり専門店というのも立派なジャンルの一つだということを知った。昔、抱いた女を思い出した。
昔、付き合って別れた彼女が心の痛みになってときどきチクチクとした。
気が付くと、34歳になっていた。社会人になると、時間が経つのが早い。遅咲きの新人だった日々はあっという間に過ぎ、いつの間にか、下をみれば部下がいた。
今もあいつは、東京にいるんだろうか。これだけ広いとどこかで偶然にすれ違っても気が付かないよな。気が付くと彼女のことを思い出すことが増えた。
ある日、酔っぱらって帰ってきた夜、昔の写真やら手紙が無造作に突っ込まれた段ボール箱をひっくり返した。確かあいつのメールアドレスがどこかに書いてあったはず、と思い出したからだ。
酔った勢いで、メールした。「久しぶり。まだ東京にいるの?俺も今東京で働いているよ」とたった一行。
俺は一体、あいつに何を期待しているのか。。俺のことなんかとっくに忘れてるに違いない。今頃ひとりで何を思い出にひたって、恥ずかしい俺、と。
翌朝、返信が来た。
かなり長いメールだった。
送信のタイムスタンプをみると、4時12分。夜更けまでかけてしたためたメールだったことが伺えた。
今、東京には住んでおらず、地元に戻っていること。最初に総合職として入社した大手企業は、課長補佐の試験を受ける前に、心身の不調で諦めたこと。
そのあと関連会社へ出向、そして転職したが体調を崩して心療内科に通院していたこと、今は小さな会社の事務職をしていると。
今ハマっている趣味のこと。15年間の人生がつづられていた。総合職、やっぱり男社会は厳しかったのだろうか、つらい挫折を経験したことが行間に読み取れた。
ちなみに体重はちょっとだけ増えちゃったの、という。男関係は何も文面に触れられていないが、独身と確信した。
「増田君は今どこ?何してるの?」
「会いたいよ」
ほぼ15年ぶりに会う彼女は、ちょっと太ったどころではなかった。巨漢に成長したというべきだった。
36歳。20代のつややかさとハリは、やや失われていて、いよいよ年増の兆しが顔のたるみ具合にうかがえた。
10年前、親にお見合い写真を作ってもらったの、ほら。この時がベスト体形だったわ、彼女はそういってみせて笑った。
その写真には鼻の下のほくろが写っていた。それは目の前の今の彼女には、美容整形の痕跡だけがわずかに残っているだけだった。
「増田君、”新人”としてがんばってるんだね。社会人としては私のほうが先輩ね」
人のいいところを相変わらずよくみている。俺が今の仕事の話をすると、彼女はフフっと年上の表情をのぞかせて笑った。
翌朝、朝一の新幹線。別れ際、俺は言った。
なあ、今すぐ返事しなくていいんだけど、一緒に東京で俺と一緒に暮らさない?
東京のオシャレなレストランで一緒にメシ食いたいって、以前、お前言ってたよな。事実上のプロポーズだった。
「いっとくけど、15年の間、ずっと健気にあなたのこと待っていたわけじゃないからね!」これが彼女の返事だった。
そういわれて、俺は15年間、彼女の面影を探していた気がした。それは学生の頃のように、「いいところだけみてくれる」女に甘えたかったからなのか。でも、新幹線に飛び乗って会いに行った俺はそれだけでは説明がつかない。それとも、経済的に自立して、やっとつり合いがとれるようになったという自信なのか。同じ人生を歩みたい。それは、どこからわいてきた思いなのか。
大手から内定もらって意気揚々としていたあの頃のあいつと、心に包帯をまいて必死に生きてきた今のあいつと。
それから1か月後、彼女を連れて実家へ行った。100キロ近い巨漢を前に、母親がのけ反りそうになっていたのが可笑しかった。
「お前、こういうのが趣味だったの。。。。」母親がつぶやいたのを、今でも忘れない。
俺たちの結婚後、まもなく父が急逝した。家業はついに店じまいとなった。一方、嫁姑問題は杞憂で、俺たちが結婚して、つい先年に母が他界するまで良好な関係だった。
社会人になってから15年くらいになるけど、心底腹が立つたびにそう考えてやってきた。
一年後に辞めるのだから、転職をするために新しい技能や経験値が必要になる。
今の仕事にも全力で取り組んでスキルアップをして、万全の準備をしてから然るべくして辞める。その為に、今日からの1年を過ごすんだと。
こうして
英語が話せるようになり、TOEICで800点を常に超えるようになったし
中国語の読み書きが出来るようもになった。
見た目を整えるために運動したりもした。
自分のレジュメを華やかにして1年後の転職で成功する為に、辞めると決めてからの1年を過ごしてきた結果、得たものは多い。
1年後に辞める時に、嫌な連中に出来るだけダメージを大きくしてやるために、嫌な顔一つしないであらゆる要求にも笑顔で答えて来たし
「辞められると困る」、そう言わせるために、チームの為に会社の為に常に最大のパフォーマンスをだしてきた。
心底怒っていたし、辞めると決めてるから何も気にならなかった。
1年後にも怒りは収まらず実際に辞めた事もあったけど、多くの場合は1年後には許せる状態になってて辞めたりしない。
それでも自分の年収には確実に跳ね返り続けているし、「一年前に辞めると決めていた」と話すときの反応が快感すぎるから
今のところは無駄だと思った事はない。
何か嫌なことがあったら、1年後に辞める、そのつもりで頑張ってみてはどうだろう。