はてなキーワード: 脱藩とは
アラン・デケイロス「サルは大西洋を渡った 奇跡的な航海が生んだ進化史」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S1話 スメルズ・ライク・イーヴル
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S2話 ステアウェイ・トゥ・ワンダーランド
ルイジ・ピランデッロ 「ピランデッロ戯曲集I 役割ごっこ/作者を探す六人の登場人物」
アゴタ・クリストフ「第三の嘘」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S3話 シー・キャント・エクスプレイン
アゴタ・クリストフ「昨日」
マイケル・カニンガム「めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」
日経アーキテクチュア編「危ないデザイン 建設設計や運用に仕える知見を事故に学ぶ」
池澤夏樹「ワカタケル」
M・R・オコナー「絶滅できない動物たち 自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ」
特別展「毒」
「すずめの戸締り」
ボドゲ(クイックショット、マーダーミステリー・想いは満天の星に、ワードウルフ)
友人のブログで見かけた本や、別の友人から紹介された本や、旅先の十和田市の図書館で見かけた本を読んだ。アゴタ・クリストフは再読。昔は低く評価してしまったが、再読して正解。引越し先にも持っていきたい。
ビー・ウィルソン「キッチンの歴史 料理道具が変えた人類の食文化」
スティーヴン・J・ダブナー 、スティーヴン・D・レヴィット「ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する 増補改訂版」★
山下いくと「EVANGELION ANIMA 1」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 2」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 3」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 4」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 5」
繁田信一「平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職」★★★
「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」
「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」於・横浜市歴史博物館
特に平安時代に思い入れがあるわけではないが、何となく読んでいる。
千葉雅也はゲイコミュニティの様子が描写されていて面白い。ただ、作者がどちらかと言えばインテリ寄りなので、わかりやすく書いてくれているだけってのもあるだろう。
「EVANGELION ANIMA」は新劇場版に流れた設定があるだろうかと思って読んだ。とはいえ、シン・エヴァンゲリオンでいろいろな感情が成仏したため、考察を深めるにはいたらず。
ジャスティン・O・シュミット『蜂と蟻に刺されてみた 「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』
尾脇秀和「氏名の誕生 ――江戸時代の名前はなぜ消えたのか」★★
ロブ・ダン「家は生態系 あなたは20万種の生き物と暮らしている」
ジャン=アンリ・ファーブル著、奥本大三郎訳「完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル著、奥本大三郎訳「完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 下」
「シン・仮面ライダー」
かつて友人に「最近はあまり文学が読めなくて困る」と愚痴ると、「おっさんになると政治経済歴史、生物学の本を読むことが増える」という返答が戻ってきた。
あまり感情を揺さぶられたくないと感じてしまっているのか、歳月がある程度風化させたものに関心が向かうのだろうか。
現に「ファーブル昆虫記」を読み始めた。最近は何が読みたいのかがわからなくなってくると、やたらと巻数のある本を読むことが多い。昨年も「旧約聖書」を通読したし、その前は「聊斎志異」「三国志」「西遊記」、その前は「ラーマーヤナ」や「ガラン版千夜一夜物語」を読んでいる。
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第3話 魔の山を走れ
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第2巻 上」
梅津和夫「DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで」★
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第2巻 下」
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第3巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第3巻 下」
フレデリック・クレインス「ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針」
高野秀行、清水克行「世界の辺境とハードボイルド室町時代」★★★
「ルーヴル美術館展 愛を描く」展
高野秀行は定期的に読みたくなる。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第4巻上」
スージー・ホッグ「5歳の子どもにできそうでできないアート 現代美術(コンテンポラリーアート)100の読み解き」★★
スージー・ホッジ「世界をゆるがしたアート クールベからバンクシーまで、タブーを打ち破った挑戦者たち」★★★
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下」
堀越啓『西洋美術は「彫刻」抜きには語れない 教養としての彫刻の見方』
グレイソン・ペリー「みんなの現代アート 大衆に媚を売る方法、あるいはアートがアートであるために」☆
また、先月の鶏に続いて、食肉にまつわる本を読んだ。屠畜の現場についての本も読みたくなったのだが、関心がほかのテーマに移ってしまった。「昆虫記」を読んでいると、当時のヨーロッパの屠畜について書かれているのも興味深い。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第6巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第6巻 下」
渡邊大門「清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上」
武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く アマテラスと天皇の「発明」』★★
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 下」
「マティス展」
「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」
読書を休んだ日が多い割にはまあまあのペース。昆虫記は8月の中頃に読み終わるだろうが、旅行にまでに間に合うかはわからない。間に合わなくても構わない。
当時はそう書いていたのだが、なんだかんだで間に合っている。
こうしてみると美術展には毎週行っていることになる。旅行先で絵画ばかり見るのにはもう飽きたと口にしているものの、そうでもないのかもしれない。それとも、歴史や神話の知識で「読解」できてしまう西洋の古典絵画に飽きているのか? だから博物館の歴史的遺物により惹かれるのか。
【続き】
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
新人教育の一環で貸部屋を借りさせて会議を行ったんだが、指導役の俺に便意が到来。
立ち上がって「トイレに行きま」と言った瞬間にブブブブリッッッッ!!!!と出た。水状のやつだった。
そのごまかしようもない巨大な音に大勢の新人の空気が止まる中、俺は硬直した。
なぜかわからないが、立ち上がった衝撃と発音した時の力み、そして柔らかい便が最大の要因となって出たらしい。マジで頭が真っ白になった。
無言でトイレに行って、彼女にパンツとズボンを届けてもらってその日は病欠した。
次の日出社しても誰も何も言ってこなかったが社内では噂になっているようだった。耐え忍んで半年ほどで噂は消えた。
あの悲しみを成仏させるためにこれを書いた。
高知県の人口が70万人を切ったニュースで思い出した話がある。
超少子高齢化と人口減と都市地方間格差が進んだ結果、進学への情熱が薄れてきているという話。
そのためには私立進学校に行く。」というのがエリートのセオリーみたいなものだった。
だが今は、そんなセオリーが崩れている。
いや正確には「無理してまで良い大学に入らせようとは思わない」「そのために私立進学校に行く必要はない」
その前に、高知県の大学と高校(及び中高一貫校)の事情を説明しておく。
まずは高校。
土佐>=学芸>土佐塾(ここまで私立中高一貫)>追手前(県立)>その他県立高校とか明徳とか
であった。
それが今はどうだろう。
県立西高校と県立南高校が統合され、南西高校になるかと思いきや公立中高一貫の高知国際中学高校になった。
しかも母体の西高校の色もあり、英語教育に力を入れているスーパーなんとかハイスクールに指定されている。
昔ながらのThe私立進学校は、特色ある公立校に押されつつあるとみられる。
次に大学。
高知県にある4年制大学は国立大学法人高知大学と、高知県立大学、そして高知工科大学の3つしかない。
かつては高知医科大学があったが、高知大学と合併して高知大学医学部になっている。
更に機械や電気、情報といった工学系となると高知工科大学しかない。
受験難易度の点で見れば偏差値46程度の高知工科大学であればわざわざ難関私立進学校に入らなくても良い。
筆者は土佐高校の卒業だが、当時人気だった進学先のひとつは岡山大学であった。
同級生や年の近い先輩後輩の進学先ら帯広畜産大学から琉球大まであったし、海外留学していったのもいた。
ほぼ100%が進学志望なのは今も昔も変わらないと思うが、志望大学がバラエティに富んでいた。しかし今や地元志向が強すぎる。
もちろん地元高知大学の人気も高かったが、今はそれ以上に高知大学志望が増えているという。
「もうちょっと頑張れば、もっと良い大学に行けるのに」と先生が勧めても、
生徒や親が浪人を嫌がり、より確実性の高いところで落ち着こうとするのだ。
あるいは、「もうちょっと頑張れば」というなら理学部から医学部に進路変更する。
でも本当に医者になりたいのか?安定した職業を求めているのではないか?
言っておくが国立高知大学も高知工科大学も、決してチンケなFラン大学ではない。
だが、やれハーバードだMITだスタンフォードだ、東大だ京大だ、早慶だ阪大だ、
そして環境。圧倒的に人が少な過ぎて、異なる価値観に触れる機会が都会とは雲泥の差なのだ。
月とトイレの方のスッポン。多感な学生時代を、世田谷区人口にも満たない県人口の田舎で、刺激の少ない学生時代を送ることになる。
たとえば高知から東京の大学に進学するとなると、それだけで大変だ。
平均世帯収入の低い高知から、物価の高い東京で一人暮らしとなれば、不景気ないまおいそれと出せない。
筆者なんか6年も通ってしまったのだ、どれほど親に金を使わせたか。
余裕がないのだ。
一年浪人させて県外の良い大学にいくよりは、現役で高知大か工科大に行き、
県庁か市役所に勤めることこそが、堅実な将来であることに疑いはない。
でもそれで新しい時代が切り開けるか?
消耗しないように高知に残り、消化試合の人生は「負け」ではないが
超少子高齢化と取り返しのつかない人口減に対応するため、私立進学校も変革の時を迎えている。
ちなみに、土佐高校は昭和半ばからずっと1クラス50人×6クラスである。
どう考えても多すぎる。
学費を上げてでも人数を減らし、きめ細かい教育ができるようにすべきだ。
脱藩マインドが低い者は公立校に任せ、県外や海外へ送り込める少数精鋭の人材育成校に転換した方がいい。
冠する土佐藩の名に叶って欲しい。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
目次 [非表示]
1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
筋さえ通れば反乱もやってのける命知らず。
不可能を可能にし、巨大な悪を粉砕する、
俺たち、「佐賀の七賢人」!
(以下はWikipediaの内容をまとめただけです)
総合すると、
大学を卒業し、名刺の所持とネクタイの着用が認められた実質的な支配階級。
しかし階級内は大名(代々続く経営者や権力者)を中心とした絶対的な縦社会であり、よほどの実力がないと親以上の地位を築くことが出来ない。
幕府(政府)から参勤交代(満員電車)や数々の非生産的な儀式が課せられているが、実はそれは侍を飼いならすための大名たちの策略である。
最近になって黒船の市場開放圧力に怯えるが、人一人斬ったことない侍がバズーカー砲をぶっ放す海外のエリートにかなうわけもないので、いかに今の環境を守るかが課題である。
夢を追ったり、ただだるかったり、能力が低すぎたりで、正規雇用になれなかった大量の単純労働者たち。
ごくまれに芸を磨き成功をつかむが、99%が挫折して、ブルーカラー(工)の最底辺より再出発を図る。
重税が課されない代わりに、目に見えない多数の権利を放棄させられているため、実はもっとも搾取されている階層である。
工場、現場、営業の外回りなど重労働を課された肉体労働者たち。
高卒就職組、大卒落ちこぼれ組、元フリーター組の三者にわかれる。概してプライドが高く、偏屈である。
スキルを蓄積してホワイトカラーに成り上がるものもいるが、元来アホが多い階層なのでそのハードルは高い。
真面目にしていれば食うに困らないのにギャンブルや風俗で搾取されるものが後を絶たない。
不安定な上に社会的地位が低が小賢しく立ち回るものは多数の単純労働者や肉体労働者を支配し、年貢をごまかして他のどの階級よりも楽して金を稼ぐ。
最近ではパソコンの普及により安易にこの階級に逃げ出すものが多いが、大半が失敗して去っていくか低所得者として単純労働者と変わらない日々をすごす。
小規模ながら幕府に対して強力な圧力を持つ。最近は数を増やしすぎて統制がとれなくなっている。
食うには困らないが、一度転落すれば二度と普通の生活には戻れない。
127 ソーゾー君 [] 2012/01/21(土) 03:29:44 ID:M9nICu/IO Be:
「出世払いで良いっすw」と言って武器を提供してただけだアホ…
「外国人から武器を買うときは幕府を通して会なさい」と言うルールを作っていた。
だからそのルールの抜け道を利用した…脱藩者の「坂本竜馬」だ…
で…坂本竜馬は薩長に武器を密輸した…「出世払いで良いっすw」と
グラバーの飼い主は国取りが目的だから支払いなんかどーでも良い…
吉田証印なんか英雄でもなんでもない…小泉や竹中と同じ売国奴だよ…
あいつの弟子の名前を列記してみろ…売国奴オールスターじゃねーか…
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/
480議席中、賛成295、反対158。
衆議院で予算案を強行採決したらしい。採決を棄権した27人のうち、16人は民主党の会派を離脱した者であり、さらに、1人は小沢一郎である。
27人が再可決の時にも欠席すると仮定すると、有効票数は295+158で453。再可決に必要なのは302となる。反対票を投じた158人の中から7人を転ばせれば、数字の上では可能となる。
この7票は、1票いくらになるであろうか。
さらに、295人が変わらずに賛成するのであれば、これが3分の2になるには、有効票数を442票にすれば良いとなる。反対票を投じた人の中から11人を欠席させる事ができると、成立する。
この11票分は、1票いくらになるであろうか。
480議席の過半数は241。民主党側からあと55人が脱藩して野党側につけば、再可決の際の本会議に内閣不信任案を緊急動議でぶつけられる。不信任が可決されれば、内閣総辞職か解散総選挙かとなる。予算付随法案は棚上げになるのであるが、ここで、予算案と予算付随法案を分離した場合の手続きが問題になる。予算案は衆議院の議決だけで通せるが、付随法案が通らなければ、予算案は絵に描いた餅に過ぎない。実現しようにも、歳入も足りなければ根拠法も無いとなる。
予算案と予算付随法案は一体として審議するべきであるが、この場合、衆議院の優先という定義が無意味となる。赤字財政を続ける限り、一般法案である赤字国債発行法案が予算案よりも重要な法案となり、これが通らなければ予算案自体が無意味となり、衆議院の優越は、事実上消滅しているのである。
自民党政権が、参議院に対して過剰なまでの配慮をして当時野党であった民主党を増長させたのは、赤字国債発行法案が原因だったのである。
赤字国債を発行しなくて良いようにするというのが、捻れている国会対策の本命であったのだが、それを自民党はやれなかったし、民主党は、さらに酷い状態にしてしまっている。
予算案と付随法案を切り離してしまうと、予算案を実現するのに必要な歳入法案やその他の法案については衆議院の優先権が無く、この付随法案が参議院で通らない以上、衆議院の3分の2を使って再可決をしなければ、予算案は実行不能となる。実行不能な予算案を通すのは時間の無駄でしかない。予算案を実現できないのは野党や官僚や国民がバカだからとでも嘯くつもりであろうか。
サヨク活動家の集まりだけあって、お題目は立派だけど、実現性がまるっきり無い。アジ演説しかやってこなかったから、政権についてもアジびらのような薄っぺらいことしかやれていないのであった。