はてなキーワード: 崖っぷちとは
僕たちの軍事力を舐めてはいけない。日本が抵抗をやめるまでは徹底的に戦い、息の根を止めるつもりだから。
ドイツは最後まで抵抗したけど、その結果どうなったかご存知の通り。言うこときかないと日本も木っ端微塵になるよ。
まあ日本全部が悪だとは思わないよ。日本を破壊の崖っぷちまで追い込んだ自己中で低脳かつ好戦的なやつらの言いなりにはならないで、自分の頭で考えることだ。
言っとくけど、これは最終的な条件なので交渉とかの余地はないから、そこんとこヨロシク。
まずは、さっき言った好戦的な低脳なやつらだが、あいつらは永久的に排除すること。ああいう輩やつらが蔓延っている間は平和は無理だからね。
悪いが、君たちが完全に無力になったことを確認できるまで、いくつかの拠点は占拠することになるからね。
カイロ宣言に従い(1914年以来日本が植民地化した太平洋の国々と中国の一部や韓国はすべて返還して)、日本の領土は北海道・本州・四国・九州+僕らが認めたその他島々に限定するよ。
もちろん、日本の兵隊さんたちは降伏後、武器を放棄して日本に帰って良いよ。
別に日本人を奴隷にしようだとか国として二度と立ち上がれなくなるようにするつもりは毛頭ないから安心したまえ。
しかし捕虜を虐待したやつらを含めた戦犯には容赦なく征伐を下すよ!
経済活動を続けてゆくゆくは貿易に関わるのは結構だが、軍力をつけるのは無論ダメだぜ。
石油とか必要な原材料は輸入できるように計らってあげるけど、支配しようなんて二度と考えないこと。
民主主義に基づいた、平和で責任感のある政府が発足したら僕らは手を引くつもりだよ。
ということでさっさと降伏しなさい。さもなければ酷い目にあうよ!
世間知らずだけど上昇志向は強い(かつての僕のような)就活生に向けて書きます。
就活性の時、僕はコンサルファームに入りたくて仕方のない学生でした。
ただリア充というわけではなく、ただ頭の回転が早くてと学校の成績がとびぬけているような学生でした。
地頭のいい人達がチームになって問題解決をするという触れ込みはめちゃくちゃ格好がよかったわけです。
なにより、身内に経営者がいた僕は経営者の相談に親身に相談に乗るというこの職業は素晴らしいものだと確信していました。
しかし、社会人になって数年たった今、おやなんだか違うぞ。コンサルなんかならなきゃよかった と思うことが増えました。
それを列記していこうと思います。
まず、これにびっくりします。
若いうち(アナリスト・アソシエイト)は高いお給料をもらっても、あまり残らないんです。
まず食事はほぼ外食です。そのうえで、付き合いで行くゴルフやら飲み会(パーティ)、そのために必要な車や
ハウスキープをお願いできる人の生活費、あと家賃やらで計3〜50万位吹っ飛びます。
はたから見ると、若くしていい家に住んで、いい車に乗って週末にはゴルフ。というかなりセレブな生活なのですが、
正直働いている側からしてみるとプライベートも拘束されているのに、これっぽっち!? というくらいしか手元に残りません。
ですので、朝から晩まで誰かとワイワイしているのが好きな方でないとちょっとストレスが大きいです。
(感覚的には実家住まいの公務員とかのほうがよっぽど贅沢なお金と、時間の使い方ができている気がします。)
また、定年まで勤め上げる人は少数でたいていの方は、年収2000万を超える経営層(プリンシパル以上)になることなくファームを後にしていきます。
ですので、働いてしばらくすると、「ここであと5年位働いたら事業会社に転職して」なんていう現実逃避をそこかしこで聴くようになります。
こうした方々がうまく転職できることもありますが、失敗するとどんどん生涯年俸が減って…ということになるわけです。
ちなみに、毎年一定数は心身ともにぶっ壊しますし、中には病院に数年入院したりする人もいます。
コンサルを目指される方なら、自分の優秀さに自信がおありかと思います。
私自身、学生時代はかなりイケている(笑)方だと思っているのですが、ライバルのレベルは相当高いものになることを覚悟しなければなりません。
入社してすぐにコンサルティングファームではたいていの人が、
「高学歴で育ちがよくて、頭の回転が早い、人格者」つまりスーパーマンばっかりだということに気づきます。
そのうえ最近では、上記の条件を満たした元軍人なんてのをとるのがブームなので体力と根性で仕事の不出来をカバーすることも難しいです。
なおかつ、たちが悪いことに優秀なマネージャーほど「イマイチな人材」情報に精通しているので成果を出せないでいるとあっという間に
スジのいい仕事が来なくなり、どうしようもないマネージャが率いるで焦土作戦のようなプロジェクトに参加せざるを得なくなります。
そしてこういった環境で数年生き残ると、昇進していくやつのマジョリティは
「高学歴で育ちがよくて、頭の回転が早い上に、必要があれば卑屈になれるし人を蹴落とすことができる人格者の皮をかぶった小役人」であることに気づきます。
ですので、どのプロジェクトにおいても、しょうもないところに難癖をつける崖っぷちコンサルに足を引っ張られながらなおかつ、そいつが
籠絡したアソシエイトをこっちの味方に引き入れるためにアソシエイトの上長を接待するなんていう社内政治をこなすのが工程化することとなり
さらにコンサルに来る仕事の大半は、クライアント企業にいる「高学歴〜小役人」が自分の首を守るために
答えがきまっている問題解決ゲームを高い金を払って解かせているだけなことに気づきます。
で、我々が成果指標として顧客と合意する点も如実にこのクライアントの意図が反映されるので
優秀なコンサルタントであればあるほど、問題の真因解決よりもクライアントのしょうもない事情を優先した
このあたりで、大人の事情を100%考慮した「商品」をつくるのが我々の仕事であり
学生の頃にあこがれていた問題解決なんてことが幻想だということに気づかされます。
コンサルを使うクライアントのほとんどはサラリーマンです。びっくりするくらいたたきあげの人間が少ない。
そしてもう一つ特徴的なのがこうした人たちは、あんまり会社そのものに思い入れがありません。
今より条件の良い会社をみつけたらプロジェクトの途中でもやめていきますし、
会社がダメになったらダメになったでびっくりするくらいうまいことジョブホッピングしていきます。
ひどい方だと役員報酬を確保するために、事業部一つつぶして、大規模な人員整理を行ったりします。
ですので、経営者の悩みを理解したいというタイプの人間にそもそもコンサルの仕事にやりがいを見いだせません
そして何よりたちが悪いのが、こうしたことを考えるコンサルは山のようにいるのに、自分の転職活動がうまくいくように
一切こうしたそぶりを見せず著書でコンサルの仕事をべた褒めする現実です。
これに騙される僕のような就活生の多いこと多いこと…
以上、ざーっと書きましたが、結局学生の頃の僕のような人間に伝えたいことは一言でいうと
「コンサルなんて想像以上に出費が多いし、ドロドロしてるし、ライバルすごいやつばっかりだし
誰にも喜んでもらえない仕事なんだから、素直に公務員にでもなっておきなさい」
ってことです。
しばらく前に入ったばかりの会社を早くも辞めたくなっている。
仕事の段取りを考えたり、相手に失礼のないように対応したり、スケジュールを決めたり、納期までに作業を終わらせたり……そういう社会人として基本的な所作ひとつひとつがいちいち苦痛だ。もう新卒なんて年齢では全くないのに。
俺はもっと、こう……倒れたペットボトルを起こしたり、ドモホルンリンクルの雫を見守りながら一滴一滴の行く末に大河の流れや宇宙の壮大さを感じる仕事がしたいんだよ。広い田んぼで遊びまわる子供たちが崖っぷちから落ちそうになったときに捕まえる仕事とかさ。いや、すまん、それはいいや。
なお会社がブラックかというとそうでもない。と思う。普通の会社だ。パワハラとか特に受けてない。今のところ残業もない。というか俺が定時後に残っててもやることないしな。先輩たちはまあそれなりだが、日付を越えるようなことは滅多にないようだ。俺の教育に当たってる先輩からも特に悪意は感じない。
俺は辞めるべきか辞めざるべきか?
議事録を取ってみたところ、肯定派、否定派の意見はおおむね以下のようになった。
会議を開いたはいいが、結局のところ両論併記なんかしてみたところであまり意味はない。俺は「辞めてもいい」理由を探し続けているだけだ。それは自分の弱さや課題に向き合うのとは真逆の態度で、逃げ出す決断をするために、決断のコストを下げるために言い訳をしているに過ぎない。俺の心は逃げたがっている。俺はもう、自分の弱さにほとんど敗れ去ってしまっている。それなのに欲望に身を任せるだけの思い切りも失っているのだ。要は勇気が無い。
辞めるか続けるか? 進軍か撤退か? きのこかたけのこか? いったいどうすれバインダー?
相談できる友人もいないので(2回目)、一人で悩む。一人で悩んでいるとだんだんと感情が強化されていく。連休が始まったころには「辞めようかな……」くらいだったのが今や「辞めるしかない……」までエスカレートしてしまった。
くそ、俺はもう寝るからな。枕元に1億円をセットしておいてくれ。あときのこ派は日頃の行いを悔い改め今後同じ過ちを犯さないように気をつけてほしい。
http://jmatsuzaki.com/archives/14158
よくこういうことをいう人がいて若者は思わずそれに目を輝かせてしまいますが、お待ちください。それは火車です。
そこそこ好きなことをやるってのはいいと思うんです。俺もそれで未だにプログラミングしてるし。
けどそれに一生をかけたいみたいなものを選ぶと不幸です。
まず妥協ができない。なぜなら好きだから。つまり己との争いに消耗するわけです。
つぎに全然稼げなくて金がないときに、とんとん拍子でうまくいく人を見るとマジで死にたくなる。金がないと視野が狭まり、完成度は低くなり、余裕がなく、評価も気になります。負のスパイラルに陥るともうだめ。死にます。
おなじようなもんとして、やっぱり芽が出なかったってなった時に、他に自分の芯になるものがないとやっぱり死にます。ありますか?なら大丈夫です。好きなモノは二つ三つあってよい。一つしか好きなことがないなら、好きな道で食ってくのは諦めましょう。マジで死にます。
結構食えません。むしろ食っていこうと思ったら好きでないことを絶対にしなきゃいけない。妥協だってしなきゃいけない。あと食っていくにはスキルと人脈です。どちらも必要です、むしろ人脈が必要。
人脈作れますか? 好きでないことができますか? できるなら大丈夫です。
好きは滲み出るものです。炙りださなきゃ出てこないなら、それはやんなくても大丈夫なことです。
もしくは追い抜いたら全然しょうもない奴だったことがわかってしまう。人へのあこがれで歩を進めるのは危険です。まぁアドバイスもらうくらいはわるかないけども、信奉するのはいくない。そしてね、アドバイスする側になるとわかると思いますけど、結構しょーもないことしか言えないもんです。ちゃんとしたこと言おうとしたら準備が必要だし、めんどくさいし、時間もすごくかかる。ただでやるには労力がかかりすぎ→結果しょーもないことに。なんてのが関の山です。
お金は心の余裕。
人間には二種類います。心の余裕がなければ仕事を成し遂げられない人と、追い込まれて絶体絶命にならないと真価を発揮しない人です。あ、もういっこあった。常にすごいやつ。
ま、天才は置いておきましょう。
お金は大事です。道具を揃える必要がことなら、お金がないと始まりません。お金を稼ぐのは時間がかかりますし、余裕がなければ質の悪いものに手を出してしまいます。食うものを削るととたんに人間の力は半減します。どれだけいいものをもっていても、食べなければやっていけないのです。
なおサービス残業などが常態化している状態はよろしくないと思いますが、たまに超残業がいっぱいあるくらいならまぁいいかなと僕は個人的に思います。もとに戻すまで三ヶ月とか半年とかかかるけども。
バイトは結局損です。正社員で働いたほうがガッポガッポ入りますし定収入はでかい。あとバイトは休むと生活に響いてくるから余裕なくなります。余裕がなくなると好きは擦り切れます。
やめるつもりで常日頃から腕を磨き、人脈を作りましょう。会社で作る人脈も時には役に立つし。
世界で随一くらいのスキルがないならある程度体裁は整えておいたほうがよいでしょう。まぁ昇進とか結婚とかは諦めてもいいと思いますけども
共有する価値観がある仲間がいるのは幸せですが、ビジョンに振り回されるといつの間にか崖っぷちということもあるので気をつけましょう。あぶなっかしいな。
ビジョンは自分で持っていればいいんです。そのために日夜コツコツと積み重ねていけばいいんです。直接的ではなくとも間接的に身を助けてくれることがあるかもしれない。むしろまったく違う視点を求めに全然知らないところへ行ってもいいし、金を稼ぐためと割りきって居心地のいい場所に行ってもいい。いずれにせよ、自分で決めることです。他人と一緒で安心してはいけません。
まぁいずれみんな死ぬんですけどね。
仕事ではないからできることもある。仕事だからこそできることもある。そのバランスを上手く取れないと、墓場にダンプで突っ込んでいくことになりかねません。引き止めてくれる友達を持ちましょう。お金を生む人脈はなくても、心配してくれる友を持ちましょう。友はなくても気持ちを吐き出せる場所を作りましょう。そして毎日、小さな進歩と喜びを噛み締めましょう。
山には一歩ずつ登るしかありません。駆け上れば途中で力尽きます。しかし動かなければ登れません。動かないのはたしかにもっともリスクが低いふるまいですが、ついつい足を進めてしまうのなら、もう腹をくくって登りましょう。安全に、一歩ずつ、焦りをなだめ、恐怖に打ち勝ち、すすむだけです。
いのちだいじに。
増田の人たちはこんな事に縁はないだろうけど、ここで自分の経験談を書いておく。
招待制のSNS、といったらもう殆ど絞られるだろうけどあそこである。
自分はROM専に近かったけど、年齢近くて趣味(好きなアニメやらゲームとか)が似てたので、今度遊ぼうという話になった。
秋葉原で落ち合った時、彼は女装姿で自分は普通の恰好だった。第一印象としては特別可愛いわけでなく「まぁ、男の女装ってこんなもんだよな」って思った。
ゲーセンやコスプレショップ巡りをし、適当に飯食ったあと、自分の家に行くことに。
ちなみに、事前に家に泊まるという話をしていたので、コスプレ道具一式を持ってきてもらっていた。
きっとお互いこのやりとりをしている時に「ああ、これはセックスするな」って思ってた。
で、家についたらシャワーを浴びてコスプレ姿に着替えた後、酒を適当に開けつまみを食べながらアニメ観てた。
アニメ観ながら何時からコスプレはじめたのか、何時からあのSNS使い始めたのか、とかっていう会話に。
酒が入るにつれて徐々にピンクな話に持っていった。
やっぱあそこ(SNS)使うってことはそういうことに興味あるの?とか、今までに経験したことは?とか。
そういう雰囲気に誘導し、手をつなぐところから太ももに手をかけ、顔の距離を近づけていった。
この時、狙い澄ますように予め買っていたポッキーを咥え、ポッキーゲームを誘う。
相手も咥え、そこでキスをした。
直後、お互いちょっと恥ずかしくて顔を逸らす。
唇が柔らかくて、舌で唾液が絡んでやばい。
初対面で、ましてや同姓なのにこんなことしてて良いのか自分は、なんてことが脳裏をよぎる。
でも、アルコールが入ってるのもあって目の前に居る男の娘がめっちゃカワイイし自分も女の子になってる気分になる。
ひとしきりキスした後、ベッドに移動した。
彼の下着を脱がせて、あそこに手をやった。
お互いもう限界なくらい膨れ上がってて、自分はちょっと可笑しくて笑いながら咥えた。
その瞬間、彼が「あっ!」とか不意に漏らした声が最高に可愛かった。
口に咥えたものは暖かくて、彼の半の見るのがなんか楽しくなってペース変えたり舌使いをいろいろ変えたりして遊んでた。
でも、ぶっちゃけ口だけでイカせることは叶わず、半分くらい手でしてから最後は口の中に出してもらった。
自分は酔ってたこともあって深く考えずに出された直後に飲んでしまった。本当はあんまり良くない。
ただ、彼が「え、飲んじゃったの・・・?」って目を丸くしてた表情がまた可愛かった。
その日は後ろは使わないで終わった。
というか、雰囲気的にもいきなり初対面でそこまでは・・・って感じだった。まぁ口でしてんだから普通の人からしたらどっちも大差ないとは思うけど。
その後も不定期で彼とは遊んでいる。
普通に友達同士として遊ぶこともあるけど、基本的には暗に行為をすること前提に遊ぶ約束をしてる。
「今日は何の衣装にしよっか?」「あー動きやすくてあんま汚れないのがいいよねー」とかLINEでやりとりしてる。
初めに会ってから1年以上経って、自分の方から誘って、後ろも使った行為に及んだ。
この時は自分がいわゆる受けだった。
おもちゃとかで遊んだことはあったけど、やっぱり人にやられるのは違かった。
正常位で足開かれて腰振られるのが、どれだけ恥ずかしくてどれだけ興奮するかを知ったのはこの時だった。
実は、この時に前戯が足りなかったのかちょっと血が出てしまった。
ローションはたっぷり使うべき。あと、たまに「男だから中で出していいよね?」とか抜かす奴見るけど絶対やめとこう。
自分たちも絶対、ゴムは使うようにしてる。中に出されること自体より、ピストンの時がやばいと聞いた。
お互い絶対性病を持ってないという保証は無いので、油断なさらぬよう。
なんか、やり終えると射精後の快感と満足感、それと同姓とやっちゃったっていう背徳感に近いものがある。
こんなことするべきじゃないよなとわかってはいても、今ではそれがなんだか癖になってしまった。
自分は女性とも普通にセックスするけれど、それとはまた違う快感と感覚がある。
ちなみに、コスプレをしないでの行為がNGという事がお互い暗黙の了解となっている。
なんというか、「ホモセックスではないんだ。男同士のセックスじゃないんだ」っていう謎の主張を崖っぷちででも守りたいんだと思う。
というか、単純に男姿相手に興奮しない。
ちゃんとムダ毛処理して、衣装来て、メイクして、ウィッグを被って、女性物の下着を履いて初めてスイッチが入る。
あと、外で遊んだりする時は別に手をつないだり恋人チックなことは一切しない。したり顔で歩いてる。
Twitterでホモホモセックス言ってる自撮りアイコンな女装娘は狙い目。
仲良くなってDMでやりとりしたら間違いなく会える。確証はない。ごめん。
以前、http://anond.hatelabo.jp/20131106001822 を書いた。なんかあの時より精神状態がさらに悪化していて、別に迷惑垂れ流しながら死ぬのいいんじゃないかって気持ちになってる。飛び降りや飛び込みみたいな死に方でいいんじゃないか?確実に死ねさえするならば。軽く調べた感じだと首つりが一番確実性高いらしいけど、賃貸のオーナーその他に恨みがあるわけじゃないしなぁ。職場で人のいない時間帯見計らって首つりするのが一番いいか。時点では職場最寄りの駅で自殺。飛び込み自殺遺族に金が請求されるというのはウソらしいとか。
無能だから仕事も趣味も生きがいになる要素ないし、恋愛に興味の欠片もない。ワープアじゃないけど職場では割とぎりぎり崖っぷち。今までは単に生きる意味合いを失ってただけだったが、最近は死んでもいいんじゃないか?という感覚が支配的になってきていて、死に対する恐怖みたいなモノが薄れてきている。孤独は人を殺す。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
http://tenohasi.org/homeless.html
常々「自分はいろんな意味で崖っぷち」「規格外」「下手を打つとすぐにいろんなものから取りこぼされる」という危機感を抱いて生きてきたものですが、そして自分ではその危機感を「そうは言っても考えすぎかも、強迫神経症のケがあるかも」くらいには胸中でブレーキかけようと試みてきたものですが、ホームレスの事例について読んで戦慄した。
自分はゴミ屋敷で生活してた前科?がある。他人が作ったゴミ屋敷に事情があって同居してたとかじゃなくて一人暮らしでゴミ屋敷生活スタイルを構築してそこに住んでいたのである。
普通はゴミ屋敷って裁判しないと犯罪認定されないから「前科」という言い方は変だが、引っ越しの折りに業者呼んで産廃扱いでトラックいっぱいのゴミを出したことがあるので自分の認識ではこれはもう前科だ。
あと精神病にかかってアタマがイッてしまったらおしまいだ。ゴミ屋敷作って住んでた時点で既にアタマはイッているという説もあるはそれはおく。
ひいひい言いながら大学出て年収350万だが職を得て人間を装って生きてきたけど、何というか根本的に自分にはある場所に安住とかはできないんだ、という衝撃がマジで強い。
自分が住める世界と言うか、「ここが自分の居場所」的なもんは無いんだ。
ただ空間というかスペースだけは確保しなきゃ物理的にどうにもならんというだけなんだ。
ゴミというかモノでいっぱいの万年床で、眠るためにいろいろなモノを押しのけてスペースを作るように。
っていう悟りが、もう人生で何度悟ってきたかわからん悟りだけど、また今更にじわじわひたひたと頭蓋ん中の脳みその浮いてる水に染み渡ってくる。
っていうか部屋がゴミ屋敷だとホームレスになっちゃうとかやべえ!ホントやべえよ!
業者のトラックを見送りながら「あれだけのモノにぐちゃぐちゃと囲まれて生きられたということは、オレ最悪ホームレスでもやってけるってことじゃね?」と冗談風味に自分を鼓舞していたけど「ホームレスでもやってける」と「ホームレスにさせられる」は天地の差っていうか次元が違うよオレ!そして想像してたより崖っぷちだったわオレ!
はやく人間になりたい!
同じ三十路だが、焦燥の意味が全く異なっていたので、書きたくなった。
全く時間が足りなくて焦っている。
その後週の半分は飲みに使うが、かなりは社内の人間関係を円滑にするための社内接待。
気がついたら太り始めているから、一日最低30分は有酸素運動してる。
2ヶ月でベルトの穴が2つ緩んだが、運動は続けないとすぐ戻るのでこれは続ける。
さらに、今は仕事に関連した資格の勉強をしてるから、酔って帰っても1時間は勉強する。
何か武器を持たないと、今の仕事だけでは本当キャリアとして5年後とかまずいから。
俺が辛いなんて言える空気ではない。
出会いも30過ぎると自分の魅力が日に日に落ちるから、婚活も必死。
趣味はあるけど、全く時間取れないのでもう趣味だなんて言えません。
三十路だよ。二年後32だよ。
そのまま殺されるか、殺されずに殴られるかのどちらかを選ばねばならなかった。ただしどちらの選択肢を選んだとしても、声を出してはならない。助けを求めてはならない。家族殺しというのはそういうものだ。毒親に育てられるとなおさらその呪いが強くなる。被害者は共犯者にならねばならない。自分の命よりも、自分の痛みよりも、毒を飲ませた親を優先する。そうしなければならないと思ってしまうのが、毒親に育てられるということなのだ。
首に冷たい指が食い込んでいた。しびれるような重みが体の上にあり、窓ガラスの向こうでは街灯のきらめきがぼやけてはくっきりと影を持ち、私は指を引き剥がそうともがいていた。声を殺し、手の甲に爪を立て、そのくせ冷静に街灯のきらめきの数をかぞえている。いつ舌を噛もうか、死のその時が目の前にやってきたら自殺に見えるように死のうと考えながら、でも体は生きようとしていた。緑、オレンジ、緑、青、黄――頭の上にのしかかる闇の向こうにはっきりとその色が見えていたことを覚えている。
幸いなことに私は殺されないまま、今も生きている。死んだほうがましだという思いは長く続いたが、それでもまだ生きている。生きていてよかったと思っている。
その後、ほとんど無一文で家を飛び出したあとの生活を、人は惨めだと言うだろうか。冗談交じりに貧乏話をすると、たいてい驚かれる。その貧乏はおおよそ日本の、五体満足な両親がいて、平均より少し経済的に余裕のある家庭の子どもが陥る最貧の状況からは想像できないところにある。一歩間違えば、私は夜の世界に沈んでいたかもしれないし、今もまだ行き場なくまちの中を徘徊していたかもしれない。私の履歴の中に、その崖っぷちの生活は滲み出さない。綺麗に取り繕ってまるで日向だけを歩いてきたような顔をして私は生きている。
自分の力でここまで来たと言ったら、両親は烈火のごとく怒るだろう。また私を殺そうとするかもしれない。それに私の過去をよく知らない人も、知っている人であっても、そう発言した時にいい顔をしないだろうと私は知っている。だからただ笑顔を取り繕って無言の抵抗を貫いてきたのだった。
でも、君は違った。まるで当たり前のようにやすやすとそう口にしてみせたのだった。自分の力で、ここまで、来たんだから。だからもっと自信を持って。
私はたじろぎ、それからまた黙り込んだ。私の心のなかにある怯えが口を塞ぎ、息ができなかった。
君は日本人ではない。日本の社会で家族がどう振る舞うべきか、君は知らない。そのうえ君は本国でもやはり典型的な家庭の出ではなく、それこそ自分の力でここまで歩いてきた人である。それは君の立ち居振る舞いからも簡単に推し量ることができる。行動パターンや表情や、距離のとり方やあるいは頑固さに、同じ匂いを私は嗅ぎ取ることができる。君だってそうだから、私と仲良くなった。
しかしだからこそ、君は怯える私のことを理解できないのだろう。不自然に話を逸らした私のことを理解できないだろう。理解できないことがあると育った文化の差が出る。矢継ぎ早に君は私を責め、なぜもっと自信を持たないのかと詰る。なぜだ、なぜだ、なぜなんだ。少ない語彙で君は聞きたがる。この話はもう少ししてからねと私は言うしかない。君の言うことはよくわかるし、そうすべきこともわかっているけれど、心がまだ追いついてこない。言葉はもっと足りない。すべて言語化して伝えるしかないのに、私と君の間には言語の壁があり、文化の壁があり、なんとなくで伝わるものはほんとうに少ない。でもいつかきっと話すよと私は言う。いっぱい英語とか、君の国の言葉とか、勉強して、それで話すよ。ちゃんと伝わるように、話すよ。
元増田です。
寝ている間に激論になっていたようですが、気になった所だけ、持論みたいなものを書いておこうと思います。
「結婚は関係なく、この人が好きだっていう人を探すべき」というのは素晴らしい正論です。これ以上なく正しいです。
でもそれができるのは、それこそ「日常生活の延長で自然と彼女ができる」人の特権かと。
そういう人は、持ち前のコミュ力と感受性で、どんどんいろんな人と付き合って、酸いも甘いも経験したほうが良い結果になるでしょう。
でも自分みたいなコミュ障は、それとは全く別の戦略が必要だと思います。
端的に言えば、恋愛なんて犬に食わせるくらいのスタンスのほうが上手く行きそうに感じています。
でも結婚まで犬に食わせたくないのは、全く冴えない高齢独身に比べて、周りの既婚者で不幸そうな人が全然いないこともあり、やはり目指すならあっちだろうと、そういう話です。
恐らく既婚者よりもイケてる独身者として生きるには、パートナーの存在がマイナスになるほどなりふり構わず何かに打ち込み、とんでもない成果を出し続けるくらいじゃないと釣り合わない気がしています。
しかし自分にはそんな能力も気力も到底ないし、現に冴えない独身の一人に甘んじていると。
勿論既婚の彼らに比べて遥かにキモい人間である自分なんて、万が一結婚できたってせいぜい割れ鍋に綴じ蓋がいいところでしょうけど、それでも人並みの幸せは諦めきれないんですよね。
それに40過ぎて全てを諦めた上で「後悔はしていない」とか見え透いた嘘をつきつつ、深夜に一人スーツ姿でコンビニ弁当を物色しながら生きてくことになるとか、ちょっとねえ。
そう思ったら今が最後のチャンスかな?
あれからもう3年が過ぎた。
結局1ミリも前進する事なく、それどころか後退し続け、今年の春になってようやく後退は止まった。
アレを恨めば恨むほど深く堕ちていく感覚はあったがそれでも憎くてしょうがない。憎悪というのはこんなにも激しい感情なのかと驚きもあった。
そもそも奴が騙さなければこうはならなかった。体よく厄介払いされたのだ、あの悲劇の主人公様に。
いっそ、ひとおもいに、とおもうことはたびたびありました。あったのです。
毎日猟奇的妄想が全身駆け巡り、心身共に七転八倒した。実行してはならない。だがやってしまいたい。嗚呼。
時間が立つに連れ薄まっているのは感じている。が、巷でよく言われる、時間が解決してくれる、というのは自分には当てはまらないようだ。今も不意に猛烈な憎悪が噴き出す。名前、地名、出来事、きっかけはそこらに転がっている。何より、自分の中で燻り続けているから些細なことで燃えたぎる。畜生。
止せばいいのに時々奴のブログを見てしまう。相方がどうのこうの、鬱でどうのこうの。お薬の世話になってるのは当時からだが、今も飲み続けているのは何なのか。様々な人の不幸を踏み台に、幸せ、とやらに縋りついたんじゃなかったのか。自分から柵の無い所へ行って、いざ周りに知り合いがいないとなると、寂しいと宣う。何がしたかったんだあんたは。
結局地元に一旦帰ってきたこともブログで知った。ふと、これなら近くにいるからやってしまえる、そう思った自分に笑いながら戦慄を覚えた。
下らない。そんなつまらん事に人生を費やすのか。この数年、たっぷりと時間を浪費してきてなお、時間を潰すというのか。奴をやってしまう事より、これ以上アイツ絡みで人生を縛られることのほうが自分の中で、してはいけないこと、のように思える。
もう奴の事は考えたくない。いちいち落ち込んだりしたくない。そもそも自分自身、崖っぷちなのだ。崖っぷちどころか既に崖から滑り落ちていて、これ以上落ちないように掴まるものをがむしゃらに探して握り締める必要があるのだ。崖から落ちる原因は〜、等と考える暇もないはずだ、今まさに落ちている真っ最中なのだから。
…というような事を短いながらも文章にして書き出すと精神が整うのだな。そう思った秋の夜長。
http://anond.hatelabo.jp/20111110111334
これの従弟だけど補足してみるよ
元増田の記事を読んで心配してくれた人のために現在の状況を書くと、従姉は退院して仕事復帰、従姪は平日は俺の家で預かり週末は従姉の家に戻る形で生活することになっている
生活費についてはこちらから特に援助はしていないが、従姪が俺の家にいる間にかかる費用を請求してないので、その分は浮いているはず
一緒に暮らしていない元増田が把握していなかったことを補足する
従姉のところの問題の源は元夫のDVと虐待
娘が気に入らないことをしたら「母親なんだから躾けろ」と妻に命じて体罰を強要
号泣したところで慰めて自作自演で娘の好感度稼ぐというのが従姉の元夫の手口
これを人間関係全方位で展開して孤立した相手を自分に依存させて支配していたわけだ
従姉は自分が子供に手を上げたことをとても悔いていて罪悪感をもって娘に接している、従姪は虐待された記憶を打ち破って何とか母親を愛そうと頑張っている状況
従姪は幼い頃母親が身体に触れようとするとビクッとなって目を瞑るような状態で、心や体が弱っている時にはその傾向が特に強かった
病気になった時など、母親が側にいるとリラックスできないので看病は他人に頼まざるをえない状況だった
親戚とはいえ恋人でも夫でもない独身一人暮らしの男性に娘の身の回りの世話を頼んだり、契約社員が正社員に仕事休んで自分の子の看病してくれと頼んだり、そういう選択をせざるをえない時点で崖っぷちなのは子育て経験がある人は想像できると思う
この手の話で従姉が凹んでいたのは母親スキルの低さを実感してよりも、虐待の結果を再認識してしまうからという理由が強い
時間の経過と共に母子関係も少しずつ回復していき、最近ではお互いうまくやっていけてるんじゃないかと思っていた従姉と従姪だが、そこで従姉の入院事件が起きた
距離をおいた途端に従姪の体調が良くなったことから、従姪にとって母親と一緒に暮らしていることがストレスだったことが浮き彫りになってしまった
それに従姉が気が付いてショックを受けたところに元増田が居合わせたわけだ
後に従姪もそのことに気がついて精神的にずいぶん荒れた
本人の認識では、拒絶意識は過去のもので今は母親のことを好きでいるつもりだったので精神的ダメージが強かった
その後話し合った結果、少し距離を置きながらゆっくり母子関係を回復させた方がいいだろいうということになり、現在の週末のみ母娘で暮らすという方法いこうということになった
あれは目の前で母親が倒れてショックを受けている従姪を元気付けるため無理してやっていた時期の話なので、365日継続できるものじゃない
http://anond.hatelabo.jp/20111124082001
要するに彼が言ってるのはこういうことだから↓
「僕だって人並みに恋愛してセックスする権利があるんだ!あるはずなんだ!
僕だけセックスできないのは人権侵害だ!人権を蹂躙されている哀れな被害者だ!
僕だってお金を払わず責任を取らずに性的好奇心と自尊心を満足したいんだ!
君は『在庫一掃処分セール』に参入している崖っぷち独身女なんだから、
結婚相手候補者である僕の要求を呑まないわけにいかないだろう?
君は焦ってるんだから、僕が要求さえすればきっと僕を受け入れてくれるだろう?
さあ!君の体を僕に捧げたまえ!責任取る気はあんまりないけどね!」
だからこう態度で返答する気。
「まあーこんな私と結婚してくれるなんて嬉しいわあ!
美味しいお店に行って綺麗な風景を身に行って、映画見に行ってドライブしてカラオケして一流のホテルに泊まりましょう。
いろんなところ連れていって美味しいもの食べさせて可愛い服買って下さいね★」
じらしまくってどこまでついて来るか、賭けてみよう。