はてなキーワード: マトリックスとは
俺はイギリス在住の中年リーマンだが、年末に日本で「魔法少女まどかマギカ 新編 叛逆の物語」を見てきたので、今更だが感想なりを書いていく(これも今更だが、ネタバレあり)。
・アメリカ、カナダ、韓国、中国、台湾等10カ国弱で公開されているが、イギリスでは公開予定はない。訳が分からない。
・11月にパリでプレミア試写会があった。ユーロスターで約3万円かけて見に行こうと計画したが、妻に対するアリバイが捻出できずに泣く泣く断念した。
・その後フランスで本公開されたが、やはり妻へのアリバイ作りが困難を極め、これも断念した。
・ゴルフの格好で外出すればとも考えたが、イギリスでは寒さのために冬はあまりゴルフをしない。した場合は霜の溶融で通常泥だらけになる。
・魔法少女アニメのために、帰宅前に泥だけらけになるアリバイ工作をしている中年の姿を想像したら、その光景はあまりに辛く、できなかった。
・amazon UKで買ったテレビシリーズの英語版DVDを持っているのだが、それを妻に見られたことがある。
・そのときは「内容に興味があるわけじゃないよっ、英語の勉強に良い教材だから買ったんだ」という説明をして、一度は事なきを得た。はずだった。
・面白さを妻も分かってくれるのではないかという悪魔のささやきがあり、「絵は萌系だけど内容はダークファンタジーで、大人向けで凄く面白いから騙されたと思って見てみたら・・・?」と誘ってしまった。
・平静を装ったつもりだったが、説明に、通常を僅かに超えた力の入り方を感じたらしい。
・あえなく見抜かれ、その後しばらく凍てつく視線を浴びることとなった。
・マミはもう一歩だが、他のメンバーは日本版の声優とほとんど区別がつかない。特にほむらとキュウべえは本人そのものだ!
・ウメ絵があってこその名作なわけだが、一般人にウメ絵のハードルはやはり高い。
・作品の面白さ、2chのスレの伸び方から社会現象化を確信したが、もう一つ盛り上がりきれず収束したと感じる。やはり絵のハードルだと思う。
・日本に居た頃、会社の同僚にまどかの話をすることは到底考えられなかった。
・職場で唯一、仕事上の会話にガンダムの名台詞をチョイチョイ混ぜる変人扱いされている奴がいたのだが、彼ならわかってくれるかと、「絶対面白いから見てほしい」と勧めたことがある。
・だが彼もウメ絵のハードルで1話で挫折した。彼に硬く口止めをして、その後職場で話すのは諦めた。
・そんなわけで、俺にはまどかのことを語り合える人間は一人もいない。
・普段はアニメファンというわけではない。ほとんど見ない。まどかは、大学生のときのエヴァ以来見たアニメだと思う。
・まどかはTVとニコ動とDVDで合計10周くらいしたと思う。
・他に好きなアニメはZガンダム(なおTV版)。どうも鬱アニメが好きらしい。
急遽年末年始に日本に帰国し、妻とはしばらくそれぞれお互いの実家に分かれて宿泊することとなり、間隙をぬって映画館に行けることになった。準備をしていたものは機会を掴める。公開が終了してしまわないか、イギリスでやきもきした。
・入場者特典?でマミ絵の年賀状をもらったが、申し訳ないが即捨ててしまった。さすがに無理だ。。。
・郊外のイオンシネマでは、入りは7割くらい。成人男性一人やそれらのグループだけでなく、カップル、家族連れ、女子グループ、中学生高校生などがバランスよく入っていた。
・思ったより普通の客層だね。
・と思ったのもつかの間、2回目を見るために、新宿ピカデリーに行ったら、成人男性のグループがほとんど。入りは4割くらい。まあ1月2日の午前中だからな。。。
・気づいたのだが、オタクっぽさは靴とカバンにでるのではないか。格子柄のシャツとジーンズなら、イケメンだって着ていないことはない。
・ハイテクスニーカーやトレッキングシューズ、中途半端にアウトドアなリュックが良くないと思われる。
・あとスポーツ刈りも。
さて、ようやく感想。
1回目の感想が☆2、2回目で☆3.5。
・5人の変身シーン長すぎ。そして恥ずかしい。思わず下を向いた。中年にはちと辛い。
・ナイトメア2戦目の「ケーキ」「ケーキ」も見ていて恥ずかしくて辛かった。わざとやっているのだろうが、ちょっとなあ。
・ほむらが世界に疑問を呈して本番に入るまでの30分は長かった。
・仁美のナイトメアは動機弱すぎだろ。恭介に素っ気無くされたくらいでナイトメア出るなら、おっさんは上司と顧客相手に毎日ナイトメアでるわ。
・イヌカレー描写が通常進行中にちょくちょく登場する。2週目ではほむらの結界だからだと分かるが、1週目では意味がある登場なのか複線なのか気に留めておくことになる。
・街の壊れる描写や元から壊れている描写とこの無意味なイヌカレーにはストレスが溜まった。
・返事をしないバスの運転手や、世界の異変に気づいたほむらと杏子を囲む無表情の歩行者、ゲーセンを出た杏子に落ちてくる燃える飛行船など、結果的に背景以上の意味はないのだが、イヌカレー絵はやりすぎだったと思う。
・マミさん、「エキセア」って何ですか?
・マミの足を撃とうとしたけど、それ意味あるの?自分は頭打ち抜いても平気なんでしょ???
・さやか、カッコ良くなったなあ。昔はほむらの手のひらの上だったのに。
・ありえないものが3つ、さやかとべべと、あと何か忘れたけど、何で一番大きなまどかの存在が入ってないの???
・ほむらの魔女はオープニングで予想できたけど、それでも鳥肌ものだ!
・ほむら魔女化前、セカイ系のシーンが多い。これはアカン。悪い先例に倣っている。俺らが見たいのは「ストーリー」だ。イヌカレー乱発といい、雰囲気だけ謎めかすシーンが多いぞ!
・キュウべえが歩いて説明しだしたときは館内がぞわぞわっとして雰囲気がさざ波立つ、ついに来たか!名シーンだ。
・でもほむらの人間のときの原型を留めた魔女はえこひいきじゃないか?
・さやかは何で自分とは別に魔女を出せるの?それじゃスタンド使いじゃないか!
・ほむらが魔女化して死んでまどかを守ってもキュウべえは他の魔法少女で同じことするだけじゃないの?
・使い魔合戦、ほほえましい!
・さらに天井壊したら魔女化したほむらを救えたとかますますイカンだろ。
・このへんまでは1回目から夢中で見てた!ここで終わってよかったんじゃないか???
・まどかもマジ空気。元からほむら主役の物語だが、新作は完全ほむらマギカだ。
・なんで神まどかを割くことができるの?ほむらにそんな力ないでしょ。魔女も普通の強さだったし。
・愛だから?イカンよそれは。愛=何でもありは映画の墓場だってば!
・悪魔ほむらはいったい何なの?神まどかの作り直した世界を、さらに作り直したのだから究極の絶望のはずだが、なんか普通に会話してんじゃん。
・だからまだ記憶があるさやかが何に怒っているのか、よく分からなくなっている。
・悪魔ほむらは「世界を蹂躙し…云々する存在」と自分で言ってたけど、説明セリフでフォローしても説得力がないから、描写で感じさせてほしいぞ。
・まどかが神を思い出したときの慌てぶりなんて、滅茶苦茶善人じゃん。
・キュウべえは何でボロボロになってるの?これもよく分からん。
1度通して見た後でないと全体ストーリーが良く理解できないため、1回だけ見た人は評価低いんじゃなかろうか。俺も1回目はストレスフルでぶつぶつ言いながら帰ったのだが、2回目で、なかなか面白かった!とわざわざ日本まで来て見たかいがあったなぁと思った。
全体で特に気になったのは、魔女化したほむらが普通に助かってしまったこと。理屈がよく分からなかった。この物語は残酷な運命と絶望との戦いではなかったか。あれはちょっとご都合主義じゃなかろうか。
悪魔ほむらもそうだ。神まどかを分裂させるほどの代償なのだから相当の災いや苦しみであるはずなのに、ふつうにほむらだ。何が悪魔なのか良く分からん。あれなら、「これ今日中!同時にお前のチーム残業申請多すぎるからなんとかしろ」という俺の上司や、「でかい仕事とってきてご苦労、ところでチームから2人抜くからその分新人育ててねー」という俺の会社のほうがよっぽど悪魔だ。
以下本より引用
僕の知人によく交通事故を起こす男性がいた。彼は「自分は運が悪い」といつもこぼしていた。彼に事故の話を聞くと大抵の場合、彼は悪くないように感じられた。しかし、実際に彼の車に乗ったら、事故を起こす原因がよくわかった。例えば、彼は自分が直進しているとき、対向車が右折しようとしてセンターラインを超えても、まったくよけようとしない。直進する自分の方が優先車両だと思っているからだ。彼は「交通ルールを守ってさえいればよい」という考えの持ち主だったのだ。
だが事故を起こさない人はどちらが優先車両かということを考えつつも、危険を回避する運転もしている。だが、彼はそういうことをしない。その上で、自分と他の人の運転の差に気づかずに「自分は運が悪い」といっている。彼が自分の運を嘆いているうちは、交通事故をしょっちゅう起こすという運命は変わらないだろう。
だが、なぜ彼はそのような運転をしているのだろうか? それは簡単で、彼は自分の運転の仕方にメリットを感じているからだ。
彼にとっては正しいことが重要である。相手が正しくない運転によって自分を事故に合わせるなら、とことん相手を攻撃しようと考えている。彼は間違った運転が許せない。それにより、自分がスピードを落とすことは理不尽だし、相手が間違った運転をしたら、正しい運転で懲らしめようと思っているのかもしれない。だから、危険を顧みずにスピードを上げるときさえある。でも、彼は自分なりの「交通ルール」にのっとって運転をしているのだ。
つまり、彼の考えの根底にあるのは、1つはルールを守っている人間が正しくそれ以外は悪だということ。もう1つは安全に関する考えの希薄さだ。彼は車を運転するときのリスクをまるで考えていない。それ以外のメリットだけに囚われて行動をしている。
そして、彼は自分の運転が危険であること、なぜ危険な運転をしてしまうのかという先に述べたような理由に根本的にきづいていない。おそらく指摘されても変えないだろう。彼がよく事故を起こす理由は生まれるべくして生まれている。
彼には長い時間が必要だろうが、いつかは安全運転をするようになるだろう。なぜなら、年を重ね、社会的な地位や家族を得たとき、事故を起こして失うものの大きさに気づくに違いないからだ。助手席に妻を乗せ、後部座席に子供を乗せてもなお危険を冒すとは考えにくい。彼は事故によって失うものの大きさに気づいて、ようやく細心の注意で運転するようになるだろう。仮に、彼が妻子を得てもなお運転の仕方を変えなかったばあいでも、交通事故で子供を失うなどの経験をすれば、その痛みから安全運転に目覚めるようになるかもしれない。あるいは車の運転そのものをやめてしまうかもしれない。
これまで彼は、事故を時々を起こしても、その運転にメリットを感じていたが、あるときから「何がメリットで」「何がリスクか」という状況は変わっていく。言い換えれば彼の中でメリットやリスクに関する考え方が逆転しない限り、彼は変わらないのだ。
~以下恋愛でなぜ同じ失敗を繰り返すかという話が続き、そのあと
しかし、恋愛に限らず、人はいつも同じ失敗を繰り返す。その理由は知人の車の運転方法でも述べたが、人が生き方を変えられない点にある。人はある生き方を好んで選択している。その生き方があまりに心地いいので変えようとは思わない。変えようとしないから自分の失敗に気づきにくいし、気づいていたとしても、よほど痛い目にあわないと、自分を変えようというエネルギーが湧いてこない。
例えば、いつも余計な一言を言ってしまう人がいるが、それによって自分が誰からも距離を置かれるという不利益があることに気づいていない。気づいてもそれを大したこととは思っていない。「言われる人間が悪いんだろう?」「本当のことを言って何が悪いの?」などと思っている。そして、余計な一言を発することで、その人は相手を思い通りにしたり、自分が相手より優れていることを示したり、相手を正確に評価できる能力を誇示できたり、あるいはストレスを発散するという、本人にとっての大きなメリットを得ている。
一言多い人が、心から自分を変えようと思うのは、要らぬ一言によって何か痛い目に合ったときだ。余計な一言で友達全員から無視される日々を送ったり、大切な恋人を失ったり、会社で信用をなくすといったことがあれば、その人は言葉に気をつけようと本気で思うチャンスを得る。人は痛みを覚えたときこそが、自分の間違いに気づくチャンスだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
既に旬は過ぎ去った模様ですが、書いちゃいます。
山本隊長もおっしゃるとおり、競合分析のマトリックスにおいて2軸で書くなら複数分析すべきでしょ。でもまぁそんな細かいところはどうでも良くて。
ランサーズが不利な記事掲載でThe Startupにクレームを入れて黒煙が上がる: やまもといちろうBLOG(ブログ)
http://thestartup.jp/wp-content/uploads/2013/05/73731eb060a35e2fa595fe29d765eab9.png
引用元:クラウドソーシング狂想曲:クラウドワークス vs ランサーズ | The Startup
既に色々なところで取り上げられていますが、梅木氏はクラウドワークスと深く関係があるようですね。
http://thestartup.jp/wp-content/uploads/2013/05/73731eb060a35e2fa595fe29d765eab9.png
引用元:美しすぎる食べログのマネタイズモデル:グルメサービスのキャッシュポイント比較一覧 | The Startup
一見、当たり障りがないかのように見えてこのグラフ。なかなか巧妙ですw なんだこのレビューが優しい、厳しいって比較は。そもそも店舗数とかユーザ数とかアクティブ率とか他にも比較すべき内容がたくさんあるだろうに。あえて相手を貶める項目を選んでいるようにしか見えないですね。
Rettyを持ち上げる記事は“site:thestartup.jp retty”とかでググればいくらでも出てきますが、
ってそのまんま書いてあったりします。そりゃーねー、食べログを蹴落として自分のところを持ち上げたくなるよね。でもそれってメディア()としてどうなの?
http://thestartup.jp/wp-content/uploads/2013/08/9c737fef746374c557f29bf2dc7b03d8.png
引用元:Appliv運営のヴォラーレ、NVCCなどから1.75億円調達で飛翔 | The Startup
ヴィラーレについては記事中にもある通り
“Applivではスマホアプリ未来予想図という連載を持っており”
とか、
“今回の調達の資金が私にも投下されることを期待している”
だって。だんだん隠そうともしなくなってきてるのが実に清々しいですねw
自分が関わっているところのライバルになる会社を蹴落とすのが主目的なのかなー。ライバル社に入られたら怖いなーって思ったけどステマ乙って感じだから逆にクラウドワークスとかRettyとかヴィラーレとかが被害者になりえるかも知れないね。
他にも探したら TechwaveとThe Startupのマトリックス比較()とか出てくるかも?ぜひ意味ありと無意味の軸が欲しいところw
ランサーズとAppbankの件があまりにも酷いなーと思ったら書いたけど、正直 The Startupってメディア()についてはどうでもいいや。
最近『桐島』をみた。 見終わった感想は正直「( ゚д゚)ポカーン」だった。つまらなかった。
で。意味がわからなかったところに、ちょうどこの解説が出てきたので、読んでみました。
【復習編】完結!町山智浩さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので書き起こしました。
ショーシャンクは大好きです。何回見たかわからないくらい。文中のショーシャンクのくだりに
つまり我々っていうのは刑務所にいるようなものじゃないかと、完全に自由じゃないと、やらなければならないこととかいろんなしがらみの中で生きているじゃないかと。
と書いてあった。そうしないと『桐島』は理解できないんだろうな。。。
でも、そうやって映画を見なければならないんですか?
感受性豊かな人は、いいでしょう。そーゆーのを感じて。
自分は、映画を単なる娯楽としか捉えてないんで、このような意見が一番押し付けがましいと思いました。
登場人物の、気持ちや感情を理解することもできたし、人間模様は描かれていたと思います。
だけど、ある程度の人気が出てる理由がさっぱりです。
単なる日常の高校生活が書かれているだけで、まるでホームビデオを見てる感じがしました。
マトリックスの上映当初、女性から「意味がわからない」と言われたことが少なからずあり、教えた記憶がある。
そのときの世界観が理解できなかったのが多数で、そこの説明をしたあと、
「で、マトリックスはなにがいいたいの?」
その世界観を楽しむだけではダメなんでしょうか?そこまで知らないとダメ?
国語での「作者が言いたいことはなんでしょうか?」
んなもん、しらねーーよw
そう!その通り!そんな深く考えて生きてませんw
自分は、この映画とかを分かった風に語ってる人は、俗にいう「スイーツ()」と同じ匂いがするんですよ。
『桐島』を理解できないなんて、人として大丈夫?そんな風に聞こえてなりません。
映画解説者とかは、そーやって考えて映画を見なきゃいけないから、大変だとは思います。
でも、ごめんなさい。町山さんのおかげで『桐島』を人に薦めないことが決定しました。
今生きてるのってマトリックスの中とか人生の二周目だったりしねぇよな?ってくらいデジャヴが多い。なわけねえけど、いつもどうしてデジャヴを感じたのかがつかめずにもやもやとしている。
たとえば昨日の「『俺のかーちゃんが17歳になった』の内容がガチで重すぎる」とかいう記事、これとまったく同じ記事を3ヶ月くらい前に見た気がするんだ。だけどこれは今月発売の新刊だからそんなわけはない。では表現テンプレートの使い回しだろうか、と似たような表現を打ち込んで類似記事を検索してみても、全然それらしいものは見つからない。もちろん、「―すぎる」なんて表現はネットのメディアじゃ濫用されすぎるきらいがあるし、創作物も頻出パターンに新規性をスパイスとして振りかけたようなものが主なんだから、自分が似たようなものに幾度となく触れてきただろうなというのはわかる。しかし、ほとんど一致するようなものを前に見た気がするのに、全然それが何かがわからないというのはすごくもどかしい。2年前くらいからこういうことがぐっと増えた気がする。いい加減そろそろ、「ああ、あれだ!」となってスッキリする体験がしたい。
一時期西部劇ばっか観てたんだけどまとめてくり~とかよく言われてたんでまぁ雑に挙げてみるかって感じで10分ほどで書いた。
西部劇も西部劇でマニアがうるせぇ分野だから文句はあるだろうけど,ロクに観てない人はこれを上から順番に追っていけばそれなりに文脈は追えるんじゃねーかなと思う。
クライマックスにおける馬上の闘いが(当時の技術水準としては)大迫力。
ハワード・ホークス監督による傑作。ジョン・ウェインの本格的な出世作でもあり,彼の役者としての方向性を決定づけた。
簡単に言えば牛追いの話なのだが,「カウ・ボーイ」がそもそもどういうものなのかよく分かると思う。
ちなみに都内のレンタルだと渋谷TSUTAYAくらいにしか置いてない気がする。廉価版は500円しないのでどうしても観たい人は買おう。
ジョン・フォード×ジョン・ウェインの代表作としてよく挙げられるもののひとつ。
当時のアメリカ人視点における先住民への意識も読み取ってほしい。
遠景の撮り方などは『アラビアのローレンス』のデヴィッド・リーンやスピルバーグも参考にしたとされる。
まぁベタな名作。これを原型とした作品も多いのでとりあえず観ておけ的なもの。
セルジオ・レオーネによるマカロニ・ウェスタンの嚆矢。黒澤明『用心棒』の盗作として話題にもなった。
チープなセットに単純なストーリー,ハリウッドのヘイズ・コード下では不可能な暴力表現などが特色。
主演クリント・イーストウッドは以降西部劇における大スターとなり,本家ハリウッド西部劇にも影響を与えた。
セルジオ・コルブッチ監督。マカロニ・ウェスタンの代表作としても名高い。
ちなみに『荒野の用心棒』とはストーリー,キャスト,スタッフどれもまったく関係がない。
レオーネ以上に徹底的な娯楽志向で,歴史考証など本当に適当,とりあえず決闘がカッコよければよいという感じ。
この前タランティーノがジャンゴを作ったが,それの元ネタがこれである。
レオーネ後期の代表作。
他の監督なら20秒で済ませるようなカットを無駄に5分以上使ったりと,現代人にはちょっとしんどいくらいの長回しが大きな特徴。
配給もハリウッドであり,大予算がかかっているため「マカロニ」の趣は既になくなりつつある。
スローモーションと巧みなカット割が最大の特色。香港映画のジョン・ウーにめちゃくちゃ影響を与えた。ということは『マトリックス』とかもこれの系譜ってことになる。
アメリカ映画もレーティング制になったため,暴力表現が解禁され血みどろの演出がなされるようになった。
ラストの破滅感は「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントにおける文脈からもよく語られる。
『駅馬車』,『捜索者』などで見られるインディアンへの扱いを再考させられる作品。
ベトナム反戦運動とかそういう文脈でアメリカ人が自分らのアイデンティティを見つめ直していたってことも念頭に置いて観るとよい。
ちなみに『明日に向って撃て!』や『やつらを高く吊るせ!』でもそうだけどこの頃から徐々に黒人兵も作品に出演するようになる。
古きよきハリウッド西部劇,マカロニ,ニューシネマなどといった一連の西部劇史を包括する超名作である。
ちょうどここらへんから彼も文芸性の高い監督と見られるようになってきた感もある。
http://blogos.com/article/60034/
楽しそうだなー
リンク先の読売新聞の図表に思いっきり”フタ”って書いてあるのに(”蓋”とかちょっとむずかしい漢字じゃなくて”フタ”)
わざわざ書き起こした図に”フタが無い”とか書いちゃうとか、こうゆうの見るたびに、幸福の地はすぐそこにあるのだなって感じるのですよ
”フタが無いので雨水等が流入”っていいよね~。僕もこうゆう生き方を参考にしよう、見方を変えて目を見開こう、本当の幸せは今、ここにあるはずなんだもの
うん幸せが大事、しあわせっていいよね、”理解を助けるために図示” ←→ ”ミスリードをさそうためのポンチ絵” の間にある深い深い谷を、まったく気にしない本当の生
だってカイジの鉄骨渡りだって、目を閉じたままだったら簡単に渡れるのかもしんないよ?
こうゆう記事を書いたり読んだりして、フンガーって憤慨できる人になれるマトリックスがあったらジャックインするのも楽しいかも?
マトリックスの元ネタみたいな位置付けなのはたぶん本当。wikipediaに書いてある。
監督はホントはニューロマンサーやりたかったけど映画化に当たってスポンサーがつかなくてああなったという経緯らしい。
読むと判るけど主人公チームの構成がまんま。
これは当たってる半分外れてる半分みたいな気がする。「現実の科学技術」っていうけど、分野とか方向性の問題もあるし。
科学技術が進むと逆にSFは狭められていくっていうしね。あまりにも現実の理論と離れてるとまずいから。
SF全盛期って主に宇宙進出とか未知との遭遇だけど、ニューロマンサーはそれとはまったく別でしかも芳醇で雑多な世界観を描いてみせたってので「サイバーパンク」ジャンル確立って感じだし、他に時間旅行ものとかも分野としてはあるし。
時代に応じた形かどうかはともかく、発想次第でまだ何か出てきそうかなーという期待はある。
闘争だ。いまは闘争の時代なんだ。学生運動とか、安保闘争とか、運動母体が負け続けてきた闘争がまた激しく再燃しかけているんだ。
人々はインターネットを介して集う。演説は、なにも集会で行う必要がなくなり、どこであってもいつからでも、聴衆になることができて発言者になれる。
不鮮明な熱量は確かに大きくなり続けて、いつの日にか火山みたいに噴火するのかもしれない。大きな大きなうねりになれば、何かが変わって勝つこともできるのかもしれない。
運動母体が得る始めての勝利。仮にそれが実現したらどういう状態になるのだろう。勝者は敗者を虐げ、新たな秩序を打ち出すことができる。権力者になることができる。
もし運動母体が大勢に打ち勝つことができて、その後権力を握り得たとして、その権力を行使する主体は誰になるのだろう。
広がりに広がったネットワーク媒体だろうか。それとも旧来どおり中枢をなす人物たちによる統制なのだろうか。
侃々諤々としたネットワーク上の民意による体制が築かれたとしたら、なんだかSFっぽいなあって思う。
もちろん、個々人の判断を礎に据えているとは言え、その総意としてまとめ上げられた一個の意見が――とかなんとか考えたけど、法律も似たようなものじゃないねえ。
神様が生まれるかと思ったけど、そんなことなかった。いや、それとももうすでにたくさんの神様がいると考えてもいいのかもしれない。
違うか。ファジーなプログラムがあるだけか。超高性能なコンピュータマシンが、無数のプログラムを起動させているだけなんだろうな。
仮想現実。マトリックスの世界観。少し違うのは、コンピュータを形成しているのがその中で蠢いている無数の意思であることか。
私たちの総意で汲み上げられた倫理なり良識なりに、私達自身が縁どられて生きている。個体を律して、安定を育む。度を越すと、それらに縛られてしまう。
不思議な感じだ。同調圧力とか、空気を読むといったこと。あるいは偏見とか、典型的なものの捉え方というものを想像すると、無機質な無生物によって個人が支配されてるような気がしてくる。
法則と呼ばれるようなものって、だからやっぱり神様に近いなあって思う。神様の残り香見たな。そういうものによって私たちは支配されているし、自然だって規制されてる。
すごいなあ。でも、いつか根本的に常識を覆してしまうような、例えば星を継ぐものにあった大々的な発見があれば面白いなあって思う。そういうことがあってほしい。
ところで、星を継ぐものに書かれてた、新たな化合物の発見って、どこで回収される伏線なんだろう。あれだけ気になる。どういうことだったんだろう。
まず、この主張はまったく個人的なものであり、厚生労働省の見解でもないし、
仲間の医系技官のコンセンサスでもありません。このことをご了承いだけますと幸いです。
私は現在、臨床現場を離れ、医系技官をしております。臨床は4年ほどたずさわっておりました。つたない経験ですが、小児の診療にかかわる機会に多少恵まれたこと、また自分自身に娘がいることから、小児診療のあり方については興味を持っているところでした。そこで、ツィッターで小児の夜間休日診療について、意見交換をしていたところ、私のツィートをYosyanさまがブログにてまとめていただきました。
URL:http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20110225
このブログは昔から注目をしているブログでしたので、御意見をいただき光栄でもあり、大変興味深く思っております。内容についても示唆に富むご指摘であり、私自身の理解も深めることができました。大変ありがとうございました。感謝しております。そこで、Yosyanさまの御意見も踏まえ、いろいろ考えてみましたので、そのことをこの日記にまとめたいと思います。
Yosyanさまの主張は2つに整理できると思います。それは次のとおりです。
① | 「一部の児の親の受療行動によって小児科医は疲労しており、制度として介入すべきである」 |
② | 「小児の緊急性の評価は不可能であるため、全てのタイミングで小児科医が対応する必要がある。しかし、実際にそのようなリソースは無いので、夜間休日診療は制度として抑制すべきである」 |
① | 「一部の児の親の受療行動によって小児科医は疲労していることには同意、共感。しかし、介入の方法には検討が必要であり、制度的な介入よりも普及啓発を重視すべき。そのためには普及啓発を促進するためには緊急性の判断の基準を示す必要がある。」 |
② | 「小児についても緊急性の評価は可能。緊急性の評価を小児科医師以外の人間にデリゲーションすることによって、夜間休日診療を適正化でき、小児科医の疲弊を防ぎたい」 |
では、次の章からYosyanさまの2つの主張に対してそれぞれ、検討をしてまいります。
Yosyanさまは夜間・休日診療を受ける児の親を以下のように分類しております。
類型 | 説明 |
---|---|
1群 | 救急の本当に必要な群 |
2群a | 親が心配して救急にかかる群(前向き群) |
2群b | 親が心配して救急にかかる群(後ろき群) |
3群a | リピーター群(社会的背景あり) |
3群b | リピーター群(親の意識に問題あり |
この中で3群(とくに3群a)の存在によって、物理的にも精神的も小児科医が疲弊をしているので、3群のリテラシーの改善が必要である。そのためには時間外料金の値上げとか、救急車有料化などの制度的な仕組みが必要であると主張されています。
まず、「Yosyanさまらの児の親の類型化」ですが、いわゆるMECEになっておらず、不思議な感じがします。1群か否かは医学的評価なのに、2群や3群やリテラシーや受療行動について類型化をしているからです。3群のリピーターの中にだって救急の本当に必要な群もいるはずです。そこで、「医療が公共財であるかどうかの認識の有無」「緊急性の判断能力の有無」にしたがって、つぎのように類型化してみました。
公共財の認識あり | 公共財の認識なし | |
---|---|---|
緊急性判断能力あり | 1群 | 3群 |
緊急性判断能力なし | 2群 | 3群 |
このように捉えれば、いわゆる「3群」に対処するには、「医療は公共財であるという」という認識を持ってもらう方法を考えればいいことになります。
つぎに、介入方法を検討しようと思います。3つの方法枠組みから考えてみました。それは次のとおりです。
ア | 法律、罰則などを用いた強制的な方法 |
イ | インセンティブ(+も-も)を使う方法 |
ウ | 普及啓発、教育を用いる方法 |
この枠組みで考えるとYosyanさまは「時間外料金の値上げとか、救急車有料化(主体は国)をすべき」と主張されていますので、主にイの方法を用いるべきと主張されていることになります。
Yosyanさまの主張に対して、私は「ウの普及啓発を重視・先行すべき」だと考えます。理由としては次の4つの点を挙げます。
・共有認識がができていない現在の状態では、アやイを導入すること自体が政治的に困難。 |
・時間外料金の値上げは病院単位で可能であり、それをしないことを病院や自治体が選択している。病院や自治体のが選択していることをを頭ごなしに国が否定するのはおかしい。 |
・普及啓発ができていない状態では、値上げをすることによって、お金さえ払えばみだりに夜間休日に受診してもよいという価値観を誘導する。 |
・普及啓発の余地があると思っていて、一番実効性があると思っている。 |
実はこの中で私がもっとも言いたいことは、最後の「普及啓発の余地があると思っていて、一番実効性があると思っている」というものです。特にこのことについて、つぎに補足します。
まず、3群の中でも、緊急性の判断ができている者(マトリックスの右上の部分)は「確信犯」ということになります。たしかにそんな方はいて、現場の先生方を脱力させているもの理解しています。しかし、3群の中では、緊急性の判断もできない者(マトリックスの右下の部分)がいて、この群は「ひたすらイノセント」な者です。実は、「確信犯」よりも「ひたすらイノセント」な方が多いのではと私は思っているのです。つまり先ほどの分類に従えば、夜間休日に外来を訪れる親御さんは、実は右下の「イノセント」な群がいちばん多いのではと思っています。
公共財の認識あり | 公共財の認識なし | |
---|---|---|
緊急性判断能力あり | 「賢い人」 | 「確信犯」 |
緊急性判断能力なし | 「遠慮深い人」 | 「イノセントな人」 |
もし、「イノセントな人」の群が一番多いという私の仮説が正しければ、普及啓発をする余地がまだあるのだと思うのです。
では、「イノセントな人」の群に対して、どのような普及啓発が有効かを考察します。普及啓発の方法は次の2通りがあると思います。それは次のとおりです。
ア | 緊急性の評価のやりかたを伝える(上を目指す) |
イ | 医療は公共財であることを伝える(左を目指す) |
私は、ア→イの順番で普及啓発するのが有効だと思います。これは完全な自分の体験ベースですが、「イノセント」な群に緊急性の判断の方法を理解してもらうと、そのまま上に行かずに、左上の「賢い人」になる印象があるからです。一方で、「イだけ」もしくは「イ→ア」と説明をしたらどうなるでしょうか。つぎのようになると思います。
イだけ説明した場合 | 「公共財なのはなんとなくわかるけど、いつ病院につれていけばいいのかわからない。なんだかんだで、夜診てくれるなら連れて行きたい」となりそう。 |
イ→アの順番で説明した場合 | 「医療が公共財といってもそんなの提供側の問題。消費者としてはしったこっちゃないよ。とってつけたように病院に連れて行かなくてもいいパターンを教わっても、それって夜間休日診療を抑制するために方便じゃないのか」となりそう |
ですから、ア→イと説明することによって次のようになってくれるとありがたいと思っています。
「なるほど、夜間休日にわざわざ連れて行く必要があるとき、連れて行かなくていいときがわかった。自分自身や子供の負担も少ないし、これで先生方にもご負担をおかけしなくてもよくなりますね。」 |
ア | 「確信犯」よりも「イノセント」群の方が多く、普及啓発の余地がある |
イ | 「緊急性の評価のやりかた」がそもそも存在しするし、小児科以外の人間も担うことができる |
というのが、前提条件となっています。Yosyanさまはおそらく、アとイの両者とも、私との見解の相違がありそうです。アについては定量的な議論が必要ですが、おそらく水掛け論になりそうな気がします。イについては、ある程度、実のある議論ができるような気がしています。この部分については次の章で論じたいと思います。
「児の親をどのように類型化しても結局どの群にも重症者が含まれているため、何かしら症状を持つ児の親は、緊急性があり小児科受診が必要である」というのが、Yosyanさまの主張だと理解しております。Yosyanさまはほかの部分でも次のように述べられています。
「それと表を良く見て欲しいのですが、2群でも3群でも重症者は確実に含みます。正直なところ実際に診察してもこれを全員確実に見抜けるかと言えば、私如き の技量では自信はありません。「発熱性疾患」で「見た目上元気そう」の保護者判断で、「2日ぐらいは様子を見る」の対応が全員に適用できるなんて事は、経験を重ねた小児科医(小児科医でなくとも)まず口にしません。ましてや電話相談で安請け合いなどしようとも思いません。」
つまり、まとめると、
小児科医でも重症者を見抜くのは不可能。ましてや保護者判断なんか意味がない。電話相談も意味が無い |
ということです。それゆえ、
重症者を見逃さないためには、24時間365日、小児科医が根こそぎ診察するしかない」 |
ので、
「実際にそのようなリソースは無いので、夜間休日診療は制度として抑制すべき」 |
Yosyanさまの主張はロジック(論のつながり)としては矛盾が無いものであると思います。ただ、私の意見との最大の違いは、議論の前提となっている「小児の緊急性の評価は不可能である」の部分にあります。私は「小児の緊急性の評価は可能」だと思っているのです。この前提から私の論を展開しようと思います。私の論の骨子は、
ア | 小児についても緊急性の評価は可能 |
イ | 緊急性の評価は小児科医師以外の人間にデリゲーションすることができる |
ウ | 夜間休日診療を適正化し、小児科医の疲労を軽減することができる |
まず、医学的な見地からの緊急性を要するものは疾患と病態の2つの軸で整理することができると思います。
疾患の軸 | :(例)敗血症、髄膜炎、重症肺炎など重症感染症、腸重責など急性腹症、、、、 |
病態の軸 | :(例)脱水、呼吸不全、意識障害、痙攣(単純な熱性痙攣を除く)、、、 |
この2軸を判断するためには結局、次のようなという3つのポイントを判断すればいいと思います。
緊急性の評価の3つのポイント |
---|
a 身体症状(水が飲めない、ぐったりしている、呼吸が速いなどのRED FLAGSの有無) |
b お母さんからみてwell doingか否か |
c 既往歴や年齢 |
なぜ、わたしがこのように理解するように至ったかというと私の初期研修医のときの経験からです。私は初期研修医を完全な北米型ERシステムの病院で過ごしました。この病院では、小児のwalkinも救急車も全ての救急受診をまずは初期研修医が対応し、必要に応じて小児科医にコンサルトする体制をとっています。初期研修医は2年間の間、小児科ローテート以外の期間もER勤務をしますので、2年間、常に小児の夜間休日診療に携わることができました。そのときに先輩から最初に教わったことが「救急外来でやることは帰宅させられるのか、小児科の先生にコンサルトすべきかを判断することであって、必要なのは正確な診断ではなく緊急性の判断だ」|というものでした。
私はたった2年間の初期研修で小児診療ができるようになったなどとおこがましいことは全く思いません。しかし、小児の緊急性を判断する方法論については整理することができたし、小児科の先生を深夜でも呼び出さないといけないときの判断はできるようになりました。この経験は3年目以降にも生きていて、しばしば小児診療をする機会にも、小児科の先生を頼るかどうかを判断することができるので、多忙な小児科の先生に丸投げしなくて済んでいました。
私はさきほど、緊急性の評価はつぎの3つのポイントに集約することができると述べました。そして、これらの判断を小児科以外の人間にデリゲーション(権限の委任や委譲)することができると思っています。
・児の親御さん |
・電話相談対応者(看護師さんなど) |
・小児科以外の夜間・休日担当医(初期研修医など) |
まず、児の親御さんについては、リテラシーを高めていただくのがいいと思います。緊急性の判断の方法論をあらゆるチャンネルから伝えるべきだと思っています。また、補助ツールも有効であり、次のようなサイトも有用だと思います。
ちなみに、このサイトの発熱はボタンを押すと、チェックリストとして次の項目が現れます。これってまさに「緊急性の評価はつぎの3つのポイント」なのだと思います。
発熱時のチェック項目 |
---|
・生後3ヶ月未満である |
・元気はある |
・無表情で活気がない |
・おしっこが出ている。オムツがいつものとおり濡れいている |
・あやすと笑う |
・1日中ウトウトしている |
電話相談も有効だと思います。「緊急性の評価の3つのポイント」は問診が必要であって、詳細な身体診察や血液検査が必要ありません。ですからトレーニングを受けた看護師さんなどの医療者であれば、電話でお話を伺いながら判断することができます。電話相談など医療職による相談でも不安がとれない場合は、「お母さんからみてwell doingでない」ということですから、夜間でも休日でも受診をしていただくのがいいと思います。ただ、この際もできれば小児科の先生が最初から診察するのではなく、きちんとトレーニングを受けた救急担当の研修医が診るようになればいいのにと思っています。
なお、初期研修のときにあまり小児の緊急性の評価についてのトレーニングを受けていない医師でも、3年目から小児科の医局に入局すれば1人で当直をしていると思います。私は、このような3年目の小児科の先生と比較すると、トレーニングを受けた初期研修医の方がより安全な医療を実践していると思っています。
アとイで述べたように、緊急性の評価の方法を小児科医以外の人間に普及啓発し、緊急性の評価の主体者をにデリゲーションすることができれば、小児科の先生は、夜間休日には本当に緊急性のある場合にのみ診察をすればいいことになると思っています。それが、私の思う「夜間休日診療を適正化でき、小児科医の疲弊を防ぎたい」ということなのです。
私は文中に述べたように初期研修の2年の間に同年代と比べると比較的に、小児診療の経験に恵まれました。また、3年目以降も、院内にPICUが無いことから小児科の先生と一緒に仕事をする機会にも恵まれました。自分自身にも娘がいるし、PALSなどを学ぶ機会がありましたので、小児医療にはずっと興味を持っています。
つたないながらも3年目以降にはオカルトバクテレミアや劇症型の敗血症、インフルエンザ脳症など経験しました。元気だった児が半日ぐらいの経過で一気に具合が悪くなり、24時間程度で亡くなるケースでした。ですから、いくら緊急性の評価をきちんとしても、半日後の転帰を100%確実に予測する方法が無いことも理解はしているつもりです。
ただ、だからこそ、受診をした際には、医療者はきちんと緊急性の評価をし、説明し、カルテに記載することが大事だと思います。また親御さんに対しては次のようなというメッセージを伝えたいと思っています。
「病院に頻回に受診さえすれば安全・安心というわけでなくて、どうやっても急性の経過をたどることがある。でも、いたずらに不安になるのではなく、知識を整理したうえで、自分自身の判断力を向上させてほしい。自分自身で判断できなくても、電話相談を受けることもできるし、いざとなれば受診もできるようになっているから安心してほしい。なにより、実は緊急性の評価はお母さん自身のwell doingがどうかの判断が一番重要であって、それを見極められるようになってほしい。」 |
私は、小児医療にはまだまだ行政が寄与できる部分がたくさんあると思っています。たとえば、ワクチンです。オカルトバクテレミアに対する最大の対策は頻回の受診でも検査でもなくてワクチンであると認識しています。このワクチンは子供を守るだけでなく、小児科の先生方を訴訟リスクから守るものでもあると理解しています。そのほかにも、自分の居住県は人口が600万人いるのに、PICUが存在しません。そんなことにも問題意識を持っています。また、大学の同級生や研修時代の仲間や先輩方にも小児科の医師がたくさんおります。みな真摯にとりくみながらも疲弊していることも理解しているつもりです。ですから医系技官という仕事を通じて、機会があれば、いつか小児医療の発展に寄与できればと思っています。
みたいな事を言ってるとある英文記事が面白かったので訳してみた。
********************
http://www.cracked.com/article_18817_5-reasons-future-will-be-ruled-by-b.s..html
未来がハッタリによって支配される5つの理由
理想の未来を思い浮かべてみよう。いや、地球最期の男になった自分がゾンビの群れを蹴散らす妄想じゃなくて、社会から見た理想の未来を。エネルギーはクリーンで無尽蔵、品物は豊富で汚い仕事は機械が全てやってくれる。みんな幸せでしょ?
でも実は、この未来は既に色んな意味で実現している。そしてこの未来を表す言葉は「屁」だ。
とりあえず説明しようか。
#5.
もし俺がお前に「予算ゼロで可能な限りのポルノをネットから持ってきてくれ」と言ったら、どれだけのエロ画像・エロ動画を持ってくる?
多分答えは「全部」じゃないだろうか。
これがちょっと面白い話につながる。ここ数十年、発展途上国では汚染された乳児用粉ミルクで何千もの赤ん坊が死んでいる。あれ、面白いって言っちゃった?ごめん、使う単語を間違えた。とにかく、何が起きてるかって言うと、衛生環境が悪いため母親は粉ミルクを汚染された水で溶かしている。んじゃ何で自分の身体からタダでミルクが作れるのに、わざわざ毒の粉ミルクを赤ん坊に与えるのか?それは粉ミルクの製造社であるネスレがそうしろと言ってるからだ。
企業はタダで手に入れられるものに対してお金を出すよう説得する……みんなが知りたかった未来の姿がこれだ。
みんな俺がファイル共有やデジタル著作権や、腹黒なレコード会社の話をするんじゃないかと思うだろうけど、あんなのはこれから来る未来のほんの一片にすぎない。世界は変わった。生まれた時から俺達の頭に叩き込まれた社会のルールはひっくり返されようとしている。
未来学者やSF作家はよく「欠乏のない社会」――スタートレックのように、物質複製機やフュージョンリアクターが全ての欠乏を終わらせた社会について口にする。確かに物凄く無茶な妄想に聞こえなくもないけど、俺たちの生活の中では、これが既に実現してる部分が沢山ある。エロなんかそう。今ポルノは空気よりも豊富だ。空気は有限だけど、今人類は宇宙が燃え尽きるまでエネルギーをおっぱいのJPG画像に変換する機械を手にしている。今やおっぱいは無尽蔵なのだ。
さて、ツイスターゲームすら出来ないような狭い部屋でも、そこで過ごす時間のほぼ全てをネットサーフィンとネットゲームに使うんだから構わないっていう人がどれだけいるか。彼らは別にプール付きの二階建ての一軒家が欲しい訳じゃない。300ドルのネットブックと月額20ドルのネット接続があれば、友人、出会い、娯楽、趣味、そして家族や同僚との連絡全てが可能になる。家で仕事をする事すら可能になる。
マズローの欲求段階の多くがデジタルのみで満たされる事が可能なのが今の時代だ。
俺たちネット住民はゲームのデジタル著作権等についてぎゃーぎゃー騒いでるだけで、事のスケールの大きさに全く気が付いていない。まるで生まれた時からずっとフェンスの中に閉じ込められた犬が、嵐でフェンスが吹き飛ばされて、周りを見渡して「すげぇ、庭だ!」ってはしゃいでるようだ。
違うぞハチ公。目の前に広がってるのは庭じゃなく、世界そのものだ。
#4.
ビジネスは、生き延びるために無尽蔵な製品が有限であるフリをしなければならない。
というわけで……理想郷が実現した!人類の勝利だ!もうこんな記事読むのやめてパーティでも始めようぜ!
いや、ちょっと待て。粉ミルクの件を忘れてないか?
ここから話が色々とトチ狂ってくる訳で。例えば、公共の図書館は過去500年もの間本を無償で貸し出してきた。出版社は、図書館が本を買っているからこれを良しとしているし、人気のある本なら一度に何冊も貸し出せるよう複数冊購入してくれる。そして何度も読まれると本はボロボロになるから、数年置きに買い換えてもくれる。
そこで、出版社はより優れた本を作り出した。電子書籍と言う、100億回読まれても傷一つつかない不滅の本だ。このとんでもない代物を生産するのに幾らかかるかって言うと、これが1円もかからない。出版社に何も支払わなくても、読者は自分で本の複製品を「生産」して自分のパソコンに保存する事もできる。この本もまた「無尽蔵」だ。
なので、出版社にとって次のステップは単純明確だった:本が自滅する仕様にする事。
図書館に売られた電子書籍は1年後、もしくは特定の回数だけ貸し出された後に自動削除されるようになった。これは出版社と公共図書館の間でとんでもない論争の種になった。何せどちらも社会の構造をバラバラにするような「ほつれ」を見つけてしまったのだから。考えてもみよう:
A. 自然劣化しないのなら、客に必要な分だけの電子書籍を買い集めて永久に保存する事も出来るんじゃないの?
B. ちょっと待てよ。ただの電子ファイルだろ?じゃ1冊だけ買って、後は読みたいって言う客に対してコピペしてあげればいいんじゃないの?
C. ちょっと待てよ。そもそも図書館なんて必要か?出版社から買って自分で友達にコピーしたものを“貸して”やればいいんじゃないの?
D. ちょっと待てよ。印刷も製本も必要ないのなら、そもそも出版社なんているの?作者から直接買えばいいんじゃないの?
E. ちょーーーっと待てよ。作者が作った1冊を用意すれば、あとはみんなそれをタダでもらっちゃえばいいんじゃないの?
ここで何が消滅したかをちょっと考えてみよう。出版会社の社員が詰まった高層ビル、本が詰まった倉庫、本屋、図書館、印刷機が並んだ工場、製紙工場、作者が印税で買ったいろんな物。これら全てが消滅。
これら全てを何とか維持していく為、出版社はFARTSと呼ばれるものを利用している。FARTSとはForced ARTificial Scarcityの略で、直訳すると「強制人工欠乏」という意味だ。いや、こう呼んでるのは俺なんだけど、俺くらいのネーミングセンスが連中にもあればみんなこう呼んでるはず(訳注:FARTS=「屁」。以降はこれを「屁」と訳す)。
みんなよく聞け:未来はFARTSに支配される。
みんなソニーのマトリックスみたいな近未来バーチャル世界「Playstation Home」がデビューした時を覚えてるか?その時なんとも衝撃的な事件があった。人気ウェブ漫画Penny Arcadeの連中がバーチャルボーリング場にログインして、レーンが開くのを待つため並んでいた。ボーリング場なんて本当は存在しないはずのバーチャル空間で、だ。全てがサーバ上で0と1で作られてる世界なら、レーンなんて実質的に無限に用意できるはずだ。誰でもいつでも使えるレーンが何千も用意されててもおかしくはないのに、俺らに用意されたのは「屁」だ。
#3.
娯楽やコミュニケーションから仕事をするのに必要なソフトまで、あらゆるデジタル製品に言える事だが、俺たちの経済の大半は「屁」によって機能しているのが現状だ。そして時間が過ぎれば過ぎるほど、日常的に利用しているもの全てがその見えない雲に覆われていく。
凄いだろ?でもまぁ、お前さんは上の連中の言われた通りの事なんてしないだろう。企業が何もしなくても手に入るようなものに対して好き勝手に値札をつけるような未来、許すはずもない。これじゃあまるで……うーん……女性が自分の体液を使えば済むような事で大量のお金を使ってしまうようなもんじゃないか。
俺だってそう思ったよ。俺は情報強者なんだぜっつって。んで、机の周りを見渡してみた。
俺の隣にはAquafina天然水のペットボトルがある。何故かというと:1990年代にペプシ社とコカコーラ社がペプシとコーラの売り上げが伸びない事に気付いて、実質無限にあるはずの水道水を買って、ボトルに詰めて、山の絵が印刷させたラベルをつけて、値段を200倍にして、そんで俺がそいつを買った、という訳。
水の隣には頭痛薬のExcedrinがある。そりゃあ店がローカルで出してる銘柄だって分子構造レベルまで一緒だろうけど、俺は倍の金を出してこっちを買った。だってExcedrinだぜ?キャッチフレーズが「ザ・頭痛薬」なんだぜ?んでその下にあるのがローン支払いの明細書で、「手数料:$5.00」と書かれている。
俺のパソコンなんてもっとやばいぞ。Windows 7をインストールしてあるんだけど、新品のHDDだったんで入れたのは200ドルのフルインストール版だ。アップグレード版は100ドルなんだけど、ちなみにどっちもディスクの中に入ってるデータは実は全くの一緒。安い方はただ前のバージョンがインストールされてるかどうかが分かる機能があって、無ければインストールさせてくれない仕様なだけ。
パソコンを新調する事になったら、今インテルがテストマーケティングしてる新しいプロセッサを入れるかもしれない。で、そのプロセッサ、一部の機能が事前に意図的にブロックされてる。何故かと言うと、そのブロックされた機能が使えるようになる「アップグレードカード」を50ドルで売りつけるためだ。
連中は俺達を虚無に対して金を支払うよう教育してて、俺達はずっとそれに従ってきた。お前の机の上にだって「屁」があるだろ?
#2.
さっき電子書籍を例に出したのは理由がある。俺は機会がある度に本を出してる事を宣伝してる(内容は怪物とチ○コのお話)。今はペーパーバック版が10ドルくらいで出てる。書くのに5年かかった。けど現実は、もしアンタが電子コピー版を入手しようと思ったら、それが可能だって事。お前に金を出させるための「欠乏性」は俺達の妄想の産物にすぎない。John Dies at the Endは350ページ分の「屁」だ。
Amazon.comと大手出版会社の議論の原点はそこにある。誰も値段をいくらにすればいいのか分からない。何となーく適当に決めなきゃいけない。どうせ最初の一部を作ってしまえば後は生産費はかからないんだから。
その一方、俺と俺の家族と俺が賃貸と車のローンを借りてる銀行とIRSと俺が飯を買ってるスーパーは、みんな少し手を伸ばせば俺の本のコピーがすぐにタダで手に入れられてしまう事に気付かないという共通の期待を抱いている。やがて世界中が同じ期待を抱くようになるだろう。
で、その問題を何とかするのが、知的財産権を侵害する人間に対して、誰であろうと鉄槌を下す世界規模の条約b>ACTAだ。ネットの住民はみんなこいつを嫌ってる。何故なら①みんなのHDDを覗き見出来るレベルのプライバシーの侵害が出来ないと実施出来ない事と、②無意味だからだ。まるで沈んでいる船が海に大砲を向けて威嚇しているようなものだ。
何でこんな事をするのか?大企業やレコード会社はアクティビジョンの利益を守るためか?メタリカの反海賊版活動家(笑)ラーズ・ウルリッヒが純金じゃなくプラチナで出来た飛行機を買うためか?どっかのライターがサルにオートバイの乗り方を教えるためか?ふざけんな!
でも犬とフェンスの話を忘れちゃいけない。世界は変わった。全員にとって。俺もラーズ・ウルリッヒと同じ状況になったし、お前だってそうなんだ。
ラーズは音楽を売って飯を食って、お前は自分の労働力を売って飯を食ってる。いずれは氏の音楽と動揺、お前の人としての労働力は電子化されて低コストで代用が効くようになり、お前の技術は完全に無価値になる。
どっかのゲーム屋さんで働いてるって?次の世代のゲーム機はゲームを直接ダウンロード出来る仕様になるからゲーム屋なんていらなくなる。ビデオ屋だって同じだ。ブルーレイは多分俺達が最後に目にする物理的なメディアだろう。レジのバイト?セルフレジに仕事が取られるどころの話じゃないぞ。将来的にはRFIDシステムを導入して、買い物品を持ったままセンサーを通りすぎれば自動的に口座から引き落とすシステムになる。スターバックス?お前のやってる仕事の何が機械で出来ないって言うんだ?郵便局?あそこで働いてる奴は実質人間スパム配信機でしかないだろ。郵便物の半数以上は真っ先にゴミ箱行きになる不用品だ。メール社会となった今、郵便局にとって利益が得られる客はダイレクトメール業者しか残っていない。
ちなみに俺がサービス業ばかり挙げているのは、お前らの中の殆どが製造業で働いてるはずが無いからだ。そういう仕事の殆どはもうロボットにアウトソーシングされてる。
技術力の発展のお陰で、雇い主にとって労働の殆どはお前らにとってのネットポルノと同じ「欠乏のない」ものになる。連中にとってコイツはポルノと同じくらい勃起させてくれるものだ。
ACTAやMPAAやRIAAをどれだけ憎もうが、お前の給料は既に「屁」で支払われている。
#1.
文明を救うのは「ハッタリ」
こうして俺らは貪欲な企業どもに金を支払わなくても大抵のものはタダで手に入る事を喜んでるが、それは同時に企業どもが俺らに金を支払う必要もなくなってるって事だ。どちら側も、将来人々は特に理由もなく「“支払う”事を選択する」事を期待している。ゲーム屋さんなら、店員も会社も客が唐突にゲームに対して対価を払う事を選択し、それを人から受け取る事を選択してくれるようにと願っている。
「良い仕事をすれば社会はそれに対して喜んで対価を支払う」みたいな屁理屈はいらない。ネットの住人の俺は、その理屈がどうなってきたか見てきた。サーバが落ちるくらいトラフィックが多い人気サイトが、PayPalの募金口座で閑古鳥が鳴くばかりという理由で閉鎖に追い込まれるなんて何度見てきたことか。もしその仕事に対しての生来の価値に見合った対価を支払うのが人間なのなら、Achewoodが「お金ください」とお願いする事もなかった。
「自分で払う対価を決める」という制度は最終的には募金だ。そして人は特定の気分にいるか、余分なお金を持っている時にしか募金をしない。商業の代わりには成り得無い。
別に給料の話に限って言ってる訳じゃない。人間社会ってのは、人が作ったものを人が必要としてるから成り立っている。総合的なニーズが人を集結させ、リソースを共有させ、そうやって最初の集落が生まれていった。人はモノが必要で、他人が俺らに必要なモノを与えてくれるためにも、俺らが作ったモノを他人が必要としてくれなくちゃいけない。これが何千年も続いてきた人間社会の歯車だ。そして今その歯車が止まろうとしている。
という訳で、社会を救うためにも、今まで何度も人類を救ってきた見えないチカラに頼らないといけないようだ。俺はこいつを「ハッタリ」と呼びたい。
ハッタリは次の成長産業だ。ペットボトルの中の水が山の天然水だと、汚染された粉ミルクは乳児に命を吹き込むと俺らや教育を受けていない母親達に信じさせてきたアイツらは、将来的には外科医よりも重宝される事になる。
文明の発展と同時に、彼ら「屁」の守護者達は俺達が無から作れるものに対して、「良い人であるために」みたいな曖昧な価値観を元に、対価を支払う文化を形成するだろう。丁度Appleのロゴが、既に安価で出回ってるものと同価値のものに対して2倍の金を出させる洗脳効果があるのと同じように。
そしてやがて常温核融合炉やナノテク生産、人間一人につき100GB/秒のWi-Fi接続で電子コンタクトレンズに色々とダウンロードできる技術が実現化した時代になっても、ハッタリ師達は「古き伝統」を守り続けているだろう。3セントで複製機が吐き出してくる靴よりも、80ドルの靴を買えと。何せこっちは「手作り」なんだから。
「支払のための支払」を新時代のモラルとするかもしれない。それか「屁」を中心とした新興宗教か……
少なくとも俺らが他の方法を思いつくまでは。
機械化社会は21世紀型未来社会の理想。しかしうまくいくとは限らない。既にこの世は腐りきった社会の上に成り立ってしまっているからだ。
もしかしたら、元の野蛮人社会に戻るかもしれない。世界が最も平和だった、戦国時代。
常に権力が入れ替わり、腐敗することがない、ある意味では理想の社会だった。しかし21世紀の人類は血を見るのを酷く嫌う。動物からは随分離れてしまった。
野蛮人社会になってもらっては困るが、かといってこのままスムーズに機械化社会に入れ替わるとはとても思えない。
機械自身が革命を起こす必要があるのかもしれない。それこそマトリックスのような。
奴隷は決して支配者のごとき豊かな生活を手に入れることは出来ない。これを肝に銘じて生きるだけでも、何らかのヒントを見つけるのに役立つかもしれないな。
真の自由を勝ち取るために生きる。
「ある弱小野球部が、甲子園を目指すことになる。上手い選手はピッチャー1人だけ。残りの選手は一見カスだが、ある者は家が金持ちなので、練習場所や特注のバットを提供する。ある者は実はコンピュータの天才で、パソコンで戦術をシミュレーションする。ある者は心理戦に長けていて大人たちを懐柔する。陸上部からの助っ人は、まともに打てないが駆け足だけはべらぼうに早く、非現実的な盗塁をやってのける。そんな感じで全員が協力し、見事県大会で優勝する」
上の話は今適当に考えたものだが、強烈な既視感を覚えないだろうか。恐らくこのような物語は過去、何十作品、何百作品、下手すると何千作品と存在する。「それぞれがそれぞれのポジションで頑張って目標を成し遂げる」話は、超王道なのだ。
サマーウォーズも例に違わず、この王道パターンを踏襲した話である。ある者は数学で、ある者は花札で、ある者は格ゲーの腕で戦って敵を倒す話である。なので、全体の骨格について批判するのは賢いとは言えない。サマーウォーズの骨格を否定するならば、スポーツ漫画、バトル漫画の過半数も否定しなければダメだ。
では次に検討の対象になるのは、肉付けの部分だ。サマーウォーズの肉付けの特徴は、次の2点である。
1は今日既に珍しいものではない。マトリックス以降、サーバーパンクはもはや王道ジャンルの1つである。
2はどうだろう。実はこれ、珍しいんじゃないだろうか。ほとんどの協力バトル物語では、仲間は部活のメンバーだったり、クラスメイトだったり、軍隊や会社の一部門であったりする。「田舎の大家族」設定は、サマーウォーズ独自のものと言って良いだろう。
では、この設定は本作において生かされているだろうか。答えはYESだ。「部活メンバー」や「クラスメイト」設定に比べて、年齢も職業も違う家族のほうが能力のバリエーションがつけやすい。より多角的な戦い方が出来る。その分散漫に鳴りやすいという欠点はあるものの、試みは一応成功している。
というわけで、僕のサマーウォーズの評価は、「協力バトルものという王道の物語を、田舎の大家族という設定で味付けした、無難で普通に面白いアニメ」である。特別斬新な試みがあるわけではないが、disる要素もない。
サマーウォーズを楽しんで観ている層は、情弱でもないしオタクでもない。普通に面白い作品を普通に面白がりたいという、ごく普通の人たちである。叩いている層は、このアニメにエヴァのような何かを求めていたのではないだろうか。それは完全にお門違いである。サマーウォーズはエヴァではなく、むしろドラえもんである。