はてなキーワード: オートバイとは
子供の頃から宇宙戦艦ヤマトとかマジンガーZとか架空のロボット的なアニメに感情移入出来なくて、学校でも盛り上がっている話題に入れなかったことがよくあった。その流れでガンダムとか巨大ロボットアニメに全く興味が湧かず、それよりもリアルなロボットに興味を奪われた、自分にとってはそれは車やバイクだった。
小学生のとき皆が巨大ロボットアニメにハマっている中で、僕は年の離れた兄が買っていた月刊オートバイを食い入るように毎日毎日読んでいた。確か小学2年生だったか3年生くらいのときにCB750F(A)が発売されてそのフォルムに一発でやられた。当時クラスのみんなの憧れが巨大ロボットだったが、僕の憧れはCB750Fだった。子供心に「戦うロボットなら人型じゃなくてもいいのでは?」と考えるくらいSFに冷めた子供。皆が飛びついているから斜に構えてアンチになっているのではなく本当に興味が沸かなかった。大人が巨大ロボットのおもちゃをプレゼントしてくれたときは、くれた大人の気持ちを考えて無理に笑顔を作り「ありがとう!」とは言うものの、それはそのまま弟にあげて、自分は読み古したMr.バイクを眺めるのが常だった。
こう言うと巨大ロボットアニメ嫌いに聞こえるけどアニメ嫌いなわけじゃなく、単に興味が無いというだけでそういうの好きな人を否定するつもりは一切無い。無いんだけど、たまにそれを押し付けてくる人がいて辟易するときがある。子供の頃にヤマトやガンダムがハマらないなんてとか。ガンダムよりも田植機のほうがメカメカしくて好きだったよ。
思い立ったので書く
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
多くの自動車メーカーに影響を与え、後に自動車のスタンダードとなるような技術・理念を持つことを選考基準とした
世界初のガソリン内燃機関を動力とする3輪自動車。現代の自動車の始祖にあたる。
自走式の自動車はモートルヴァーゲン以前に前例があるものの、馬車を改造したものでしかなかった。機動性と実用性を考慮し、ドライバーが手足のように操作できることを念頭に開発された自動車は、モートルヴァーゲンが初となる。「バランスを取ることなく、ドライバーが自由にコントロールできる自走式の乗り物」を自動車とするならば、それを定義したのがこのモートルヴァーゲンといえる。
発明者のカールベンツはメルセデス・ベンツ創始者の一人。その妻であるベルタベンツは1888年、旦那に内緒でモートルヴァーゲンを持ち出し、息子2人と長距離旅行(実家に里帰り)を敢行。ガソリンスタンドなど無い時代に、幾多の故障とトラブルを乗り越えながら往復200kmの長距離走行を成功させている。この時の経験は、モートルヴァーゲンの改良に大いに役立ったという。
世界初の大量生産車。ヘンリー・フォードによるライン生産方式の発明により、一部の富裕層の乗り物であった自動車が大衆のものになった。自動車史のみならず、人類の歴史にに大きな足跡を残した偉大な車である。
大成功を収めたフォードであったが、その十数年後にはゼネラルモータースの台頭により、フォードは窮地に立たされることになる。
いわゆる「ビートル」。基本的な設計を変えないまま2003年まで生産された。累計生産台数は2152万9464台。フルモデルチェンジを含めない単一車種の生産台数としてはぶっちぎりでトップ。
この車の偉大さを伝えるにあたり、長ったらしい解説は必要なし。世界中で広く愛され、たくさんの人々の生活を支えた。
世界で初めて衝突安全ボディを採用した車。衝突時に車体を意図的につぶすことで、衝撃を吸収し安全性を高める。
今では当たり前の技術だが、その当たり前を作り上げ沢山の命を救った功績は大きい。
3点式シートベルト(現在一般的に使われているシートベルト)を世界で初めて標準装備した車。ボルボは「安全は独占されるべきでない」としてこの特許を無償で公開。その結果3点式シートベルトは急速に普及し、世界中の自動車の安全に大きく貢献した。メルセデス・ベンツとともに敬意を。
スポーツカーとしての高い走行性能と、人や荷物を載せる実用性を高い次元で両立させた車。高級スポーツカーとしては珍しくルーフキャリアが装着可能で、荷物を屋根積みすればスキーやキャンプなどレジャーにも使える実用性を有する。初代の発売から現在に至るまで、世界中の自動車メーカーにとってスポーツカーのお手本であり続けている。
エンジン横置きFF(フロントエンジン・フロントドライブ)大衆車の先駆車。コンパクトな車体ながら広い室内空間を確保できるこのパッケージングは、現在の自動車の主流となった。
BMWにブランドが買収された後は、様々な自動車メーカーが挑戦し失敗し続けた「小さな高級車」を初めて成功させたブランドとなった。
フェラーリの創業者エンツォフェラーリが最後に手掛けたスペチアーレ(限定モデル)。希少価値を高めるため「欲しがる顧客の数より1台少なく作る」ビジネスモデルは、高級車はもちろん高級時計やブランドバッグなど、ラグジュアリーブランドビジネスとして今では一般的な手法となった。世界最強の高級ブランドフェラーリを象徴するF40は、自動車業界の枠を超えて特筆するべき製品といえるだろう。
世界初HV乗用車。初代プリウスは赤字覚悟の実験的なモデルだったが、2代目プリウスは商品力を高め大ヒットを記録した。
近年のトヨタはEVの販売が積極的でないため脱炭素できていないと叩かれがちだが、発売から現在までCO2排出削減に最も貢献した車は、他でもないプリウスである。「良い製品でも売れなければ意味がない」というトヨタの考えを地で行く名車。
走るスマートフォン。もはや自分で運転する必要などない時代を予感させ、モートルヴァーゲンが定義した自動車の定義を覆そうとしている。トヨタが「自動車メーカーからモビリティメーカーへの変革」を目指すようになるなど、世界各国の自動車メーカーが経営戦略の転換を迫られた。
また、テスラの運転支援技術が悲惨な事故を引き起こすなど、自動運転技術が普及していく過渡期として重要な出来事も引き起こしている。良くも悪くも、今後自動車史における大きなターニングポイントとして語られることは間違いない。
・1920年代のゼネラルモータース(シボレー、キャデラック等)
たくさんのブランドや車種を展開する販売戦略(多品種少量生産)やオートローンなど、現在は当たり前になっているマーケティング手法を生み出した。自動車史において非常に重要であるものの「これ!」となるような特定の車種を選ぶことができなかったため選外とした。
夢のエンジンと呼ばれたロータリーエンジン。世界中の自動車メーカーやオートバイメーカーが研究したが失敗。唯一実用化に成功したのは、東の最果てにある小さい自動車メーカーだった。高く評価されるべき技術だが、広く普及した技術とはならなかった。
ちなみに、ソ連がロータリーエンジン車を生産していた事実はあまり知られていない。一説によると3ローターの市販車は、マツダではなくはソ連が初だとも言われている。昭和51年にマツダがソ連技術者に工場を案内したことがあるらしく、その際に技術流出した(らしい)。
油圧サスペンションやモノスポークホイール、流線型で宇宙船のような外見など、意欲的な工夫が多数盛り込まれたシトロエンの傑作。特殊な車に見えるが、大衆車として145万台以上生産された。
誰もが認める名車だが、マツダロータリーと同じく一般的な技術として普及しなかったため選外。
ちなみに、油圧サスペンションの油圧はブレーキやパワステ、トランスミッションの駆動にも使われているため、何らかの原因で油圧がかからなくなると、最悪サスペンション、ブレーキ、ハンドルすべてが利かなくなる。
・メルセデス・ベンツ ミディアムクラスW124(1985年)
「最善か無か」最後の時代のメルセデスとして名高いW124型ミディアムクラス/初代Eクラス。安全性を最優先に考え、最善の自動車を実現するべくコストをかけて徹底的に開発された名車。世界中の自動車メーカーの研究対象になった。
しかし、日本車の躍進や東西ドイツ統合による経済的混乱などの理由で、メルセデスベンツはこの車以降、コストをかけた車づくりをあきらめることとなる。
日本車の高級車市場進出の象徴ともいえる一台。この車が出るまでは日本車=安くて丈夫な大衆車だったが、それを覆した。きわめて静粛な車内と乗り心地、そして高いクオリティに対する値段の安さは、全世界に衝撃を与えた。メルセデスが「最善か無か」の車づくりをあきらめたのはこの車が原因。
世界中の自動車メーカーが不可能と思われていたアメリカの環境規制、マスキー法を初めてクリアした名車。ホンダが北米市場で躍進するきっかけとなった。
ちなみに、マスキー法はビッグ3(フォード、GM,クライスラー)の反発により実質的な廃案となる。アメリカの環境規制がマスキー法同水準に達するのは、1995年になるまで待たなければならなかった。
アフリカや中東、南米ジャングルの奥地...。どんな場所でも生きて帰ってこれる車。厳しい環境で、農業や鉱業、人命救助などに活躍している。この車がないと生きていけない人が、世界中にはたくさんいる。
開発者インタビューによると、地引網漁に使われている事例もあったらしい(ランクルで浜から海にざぶざぶと入って網を投げ、引き上げる。釣った魚を売る時にも使う)。
パワーがないけど、軽量で安く走る楽しさにあふれるスポーツカー。デビュー当初、この類のスポーツカーは瀕死寸前だったが大ヒットを記録し、数々のフォロワーを生み出して今に至る。
『ガンダム』で何が凄いっていちばんスゴイのはあのノーマルスーツだ
主人公たちや敵側のキャラや兵士たちがモビルスーツや戦闘機なんかの兵器に搭乗して操縦するときの、あのツナギみたいに身体にフィットしててオートバイのフルフェイスヘルメットみたいなのを頭にかぶって着用しているアレ
あれな、宇宙空間でも、アレだけで移動できるし、白兵戦っていうか格闘もできるんだぜ!
ところで戦後昭和の科学少年少女たちなら、例えば月面で活動しようとおもったら日向(ひなた)と日陰(ひかげ)で物凄い温度差があるので、実際にアメリカの月面着陸ミッションで使われた宇宙服は内部に水を循環させて極端な温度差がおきないように工夫されてる、ってのはよくおぼえてることとおもう
さてまたしてもところでなんだが、ここまでこの投稿を書いてる増田はナニを隠そう前をじゃなかった屋外交通誘導警備員増田でな、ここ最近の炎天下での苛酷な労働に対しての装備のぜんぜん足りてなさにおもうとこどころか業務うっちゃらかして帰っちゃいたいくらいなわけ、でだ、なんかもう全身をカバーするパワードスーツ?内部がエアコン完全装備みたいな?のを熱暴走してる脳で妄想しててさ、いやまてパワードスーツ→モビルスーツ→ノーマルスーツってあるじゃん!!(実用化されてはないじゃん)
…てなって『機動戦士ガンダム』のガジェットで何が凄いかってビームライフルやビームサーベルやザクマシンガンやガンダムハンマーや大気圏突入フィルムやマグネットコーティングやミノフスキークラフトやその他もろもろもそらスゴイけどな、やっぱいちばんはあのノーマルスーツやろ、なんやあの性能と技術と普及率(サイズ展開どうしてんにゃろ、やっぱそれで後半はブライトさんとかの操縦士じゃない要員はいかにも汎用品みたいな宇宙服になったんかな、ノーマルスーツってオーダーメイドぽいもんなサイズ)
以上、長々とお付き合い頂きましたが、ワイくん屋外交通誘導警備員としましては、ノーマルスーツの開発と導入と運用を切に願うものでありセイラ・マス。
オートバイの人はホントね、車を抜いているんじゃなくて車に抜かせてもらってる、ってことを知ってほしい。
オートバイの人たちで車をビュンビュン抜いていくのに命をかけてるような人がいる。
そういう人たちに必ず理解してもらいたいことがある。
自分たちが上手いことタイミングをみはらかって華麗なるテクで車を抜いている。
なんて風には考えて欲しくない。
バイク乗りの人たちでも車の運転をよくする人たちはわかってるとは思うんだけどね。
私はかなりバイクの追い抜きに対して気を配っている。
バイクが接近してきたら無理な追い抜きに備えてスペースを空けるようにしている。
もしくは、ここにはスペースは存在しないということをハッキリとわかるように車間の調整などを行う。
そういったコントロールによってバイクが適切にこちらを抜けるように譲っているのだ。
なぜそんなことをするかと言えば、万が一接触されて事故でも起こされたら大惨事になるからだ。
こちらの過失がどうとかそういう話ではなく、単に自分が関わることで人が死んだり怪我をしたりすることは絶対に避けたい。
でもバイクの人に知っていて欲しいのは世の中のドライバーの全部が全部運転中にそんなことを考えているわけではないということだ。
最近は本当にスマートフォンを操作しながら運転をする人が多い。
そんななか命がけで車をオーバーテイクする人たちの気持ちは正直、理解できない。
ただ、とにかく理解していて欲しいのは、ドライバーがあなたたちを抜かせてあげている、ということだ。
決してあなたたちが華麗なるテクニックで車を追い抜いているわけではないということ。
車がスペースをつくらなければ追い抜きは出来ない。
そのことを知っていて欲しい。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
そも世の中見てたらAIが台頭することは自明だったし(やや早まった感じはあるけど)AI にとって変わられるようなデジタルよりの世界の仕事をしてる人たちは全員 覚悟ができていて欲しい
最終的にデジタルデータを出力するタイプの仕事であって 音声とか映像とかプログラミングとかデータを作る仕事なんかの人たちは全員 AI に仕事を奪われるのは当然だという覚悟、その覚悟もなくこのような仕事を選んで働いてることに腹立たしさを覚えます。
あと多くの仕事って明日からあなたの席はない、なんてこと無いからその例えは受け入れられない。
自分で脆弱な仕事を選んでるのに仕事がなくなっると言われても、可愛そうだねとしかならない。
なんでイラストレーターがそんな風に買い叩かれるようなことになってるのか っていうと そもそも 絵書きっていう市場自体が レッドオーシャンでなりたい人たちがたくさんいるような領域 なんですわ
しかも絵を描くことに対する情熱とか そこに対する熱い思いとか信念とか 技巧の素晴らしさとか 卓越 さとかそういったもの、全員が持ってる。とんでもない人数の同業者でひしめいてる。
で なんでわざわざ そんなレッドオーシャンに行くのか っていうと やっぱり絵を描くのが好きだから っていう話じゃないですか
絵を描く以外にも 世の中に必要とされる重要な エッセンシャルワークとかいっぱいあると思っていてもっと人に必要とされるような重要な仕事って世の中にはいっぱいあると思って
その中であえてイラストレーターになるっていうのはかなり リスキー だし それを飲んで仕事にしているはずだと思っています。
そういう覚悟がなくてイラストレーターを諦めた俺からしたらお前らこれくらい覚悟して仕事してたんじゃなおのか!裏切られた感覚がある。
暴れたくなる気持ちもわかるし 仕事を奪うなっていう風に感情的になる気持ちはわかる
でも現状の反 AI の人たちの主張って 機械学習 自体が違法だって言ってるんですよね AI による学習 自体が違法だって言っていてそれにはさすがに賛同できないかな
働けなくなるから困るっていう意見には同意できるけど、AI による学習が違法ですって言われるとは 何でっていう風になるかな
これは反発があるかどうかを否定してるわけじゃなくて単純に AI の学習が違法だっていう主張が意味わかんないかな
反発があるのは仕方がないっていうところまでは合意できるけど じゃあ AI による学習は違法ですって言われても違法じゃないし なんなら 違法じゃないことを明言するために今まで AI 周りの人たちが 頑張って 法改正のとかやっていたのは一体何だったの
どうしてその時には声を上げなかったのみたいな気持ちがあってくるかな
あと個人的なことだけど明日からお前の仕事ないよって言われても 俺は大丈夫です やったって思います
多く働いてる人達って俺と同じ心境じゃないのかなあと腐れなく 誰の仕事も邪魔することなく仕事辞められるのってすごく幸せなことだと思うよ
で要は仕事の問題とかじゃなくて アイデンティティの問題 なんじゃないの 絵を描くこと自体に アイデンティティを持っていてへの技巧 こそが 自分のアイデンティティと見つけ 結合していると自分自身が 既存されるって事になるじゃないですか
それ自体はわかるんです
徒競走 してるところにオートバイで入ってきてよっしゃ 俺の方が早いってやられてもゲーム壊されるみたいで面白くないじゃないですか
で暗黙的に今までのイラストレーターの少なくない人たちが手動 絵画 作成 のゲームを実は目的に遊んでいたってことがはっきり分かったってことなのかな
今日は 絵を描くことを楽しんでるとかじゃなくて絵を完成させることが目的なんじゃなくて
絵を描くこと 絵の作品を通して自分のアイデンティティを強化する 他の人よりも優れているということを見せるための手段として イラスト作成をしていた人にとっては致命的なんじゃないかな
絵描きの中の人って単純に技術を見せたい人だけじゃなくて世の中に存在しないから自分の好きな絵を仕方なく書いてる人とかも結構いると思っていてそういう人達って AI にすでに取り掛かってたりするんだよね
とか言うのを見てると AI に反対してる人たちは、かわいそうとは思うけど 感情的になるのもわかるけど
そもそも いつ崩れるかわからないような場所で手動 絵描き 合戦をしてたってことなんだろうねってことなんだろうね
なので なので よくわかんないですね
私が仕事 奪われても マジで何とも思わないし 本当にやった後しか思わないんですよ なので自分の仕事を奪われて悲しいっていうのがよくわからないかな
自分の仕事を誰よりも 理解して一緒に切磋琢磨して話し合って 競い合うような AI ができるってめちゃめちゃ嬉しいことだと思ってて
実際 俺は AI と一緒にプログラミング もするけどまあバカですよね 頭いいところもあるけど全然 こっちの 意図を理解しないとか要件を無視した実装するとかそんなんばっかですわ