はてなキーワード: 年代とは
何の学科か分からないが、何かを調べる授業があり、何故かその調べ物をする場所がとんでもない傾斜の坂の上の山の中にある。
傾斜が凄まじく、自分は途中まで自転車に乗って登っていたのだが進む事すらできなくなり、あまりのことに笑いながら自転車を諦めて脇の空き地に横たえて置いて坂道に縋り付くように四つん這いになりながら道を登り始めた。路側帯の白線が何故か普通に帯のように紐のようになっていて握れるので、それに掴まりながら登山のようにアスファルトの道を登っていく。他にも同じ様に山の上に向かっている生徒があり、状況のとんでもなさに苦笑して笑い合いながら目的地に着いた。
山の中腹にある開けた空き地は周囲を木々に囲まれ短い下草が青々と茂っていて、そこに図工室にあるような作業台や角椅子が整然と並んでいる。細部をよく覚えていないが、本類、資料?文献?は卓上に置いてあったのかもしれない。本棚は無かった気がする。そこで多くの生徒、教師が角椅子に座り何かを調べたり読んだりしている。
男女の教員、1人はふくよかで豊かな癖毛をした落ち着いた服装の長髪の中年の女性、1人は顔色が極めて悪い、短髪で目をひん剥いたようなギョロ目をした和装の男性。で、何故か自分はその男性の向かい側で古書を見ていて、その古書は神社の御由緒のような、神社に伝わる書物の由来が記載された目録のようなものだった。読んでいるうちに、その神社の建立当初、帝から賜った宸翰が今に伝わっていると書かれており、へぇええ〜!!!と顔を上げると、夢なので唐突に、目の前の教職の男性の脇に60代くらいの落ち着きのある痩せた神主さんが居て、「持ってきましょうか」と言う。は???凄すぎる、見て良いのか、やべー!!と心中で慌てふためきながら大人しく待っているうちに、夢なので唐突に周囲に人は居なくなり、その作業机には自分と教職の白服の男性、少し向こうにふくよかな女性の教員だけが居て、何故か神主さんが神社に贈られた上等の和菓子をあけて自分と男性教職員に出してくれる。
そのひとつをようく覚えていて、それは艶々ぴかぴかとした光沢のある、一つ一つの粒がしっかりとしている黒豆のような茹で小豆?あんこ?に覆われたぼたもち/おはぎで、実際存在するのかと検索してみるとそのような物は見つけられなかったのだが、自分が見つけられなかっただけでどこかには存在するのかもしれない、それを美味しく食べた。あまりの旨さにまた感動して目を見開きながら顔を上げて目の前の男性教職員を見ると、わかるぞと言うように相手はうなずき、「本物は内側が7層になっているんですよ」と教えてくれて、こんな小さい和菓子の内側に何が7層も入っているのか気になって仕方がなかった。
夢なので唐突なのだが、我々の机の横手には、自分達が登ってきたはずのアスファルトの急斜面は無く、けばけばしくない、ぼろくもない、使い込まれた年代物の神楽殿があった。開け放たれたそこには、奥の方に木札のような、30センチ程の高さの有りそうな折紙に包まれた書状がいくつか重ねて立て掛けられていた。あまり恭しい扱いとは言えないように見えたが、粗雑に扱われているようでもなかった。そのうちのいくつかを今から読むのだろうか?神主さんが紙を開いて書面を出してくれたあたりで目が覚めた。
艶々の黒豆に覆われたあのぼたもち様のなにかが気になって仕方がないが、ぼたもちではなく生菓子かもしれない。
私は10代20代の頃、何度か痴漢という性被害にあっています。
痴漢にあったというと、自意識過剰とか、虚言とか、冤罪の認識があるようで、被害者なのにあまり表立って言えません。
さらに被害にあったのは高校生の頃、専門学生の頃と、漠然とした年代と、痴漢された場所、家の近く、JR中央線は言えるけど、決め打ちはできません。
あまりにも悲しく辛い出来事なので、普段はその記憶を思い出せません。
ただ、満員電車で男性の近くに乗り合わせてしまうと、未だに体がこわばってしまいます。
そして、この話をすると、痴漢被害と強姦は違うだろ、と言われるのが目に見えています。
性被害にあったならすぐに警察や親に言えなかったの? という意見も散見しました。
私は性被害にあったことを両親に言ったら、確実に過剰以上の心配し、泣き崩れる。
そして門限が厳しくなることを想定して言えませんでした。
私が10代の頃、親に心配をかけることが罪で、自分の行動範囲を制限されることを恐れます。愚かな子どもでした。
しかし、30代半ばになった今も過去にあった痴漢被害は言えません。
きっと怒り狂って、さめざめ泣いて、30半ばなのに毎日連絡をしろと言い出し兼ねません。
私は辛いことより、面倒をとってしまいました。本当に馬鹿な女の子です。
性被害にあったのに、詳しい年代覚えてないとかありえない、と、思っている方もいますよね。
でも覚えていません。
だって、性被害にあったことを記憶の底に鍵をかけて沈めていますから。
ジャニー喜多川氏の事件がテレビで流されるようになって、自分の痴漢被害のことも急にガチャっと鍵が開いて、芋づる式に思い出しました。
その気色悪い感触は蘇っていつまででも覚えているけど、詳しい日程は覚えていません。
人間は悪い記憶を忘れているように出来ていることをひしひしと感じます。
一部のジャニオタの方の中で、「この人が被害にあったタイミングでの性被害は、〇〇のタイミングだからありえない!」
と叫換している方もいますが、たぶんプラマイ3年くらいはズレていると思います。
あの服を着ていた、とか、あの髪型だったとか、拙い記憶を手繰り寄せて証言をしているはず。
私だって夏の制服を着ていたから多分夏のあの時とか、ユニクロのタートルを着ていて寒かったから冬とか。
思い出せるのってそれくらいです。
そしてその嫌な、ただその人の一方的な性欲を満たすだけの感触は覚えているのです。
私は、高校の指定の制服や、デニムのパンツを履いてる時に痴漢被害にあいました。
制服のスカートを極端に短くしたこともないし、ボディラインが見えるような服をきていたタイミングでもありません。
扇情的な格好をしているなんてツユほども思っていません。
それでも痴漢被害にあった方にも落ち度がある、証言に裏取りが取れない、と言われてしまうなら、
この国は性被害に合っても誰も助けてくれない、救いがないと感じています。
私はジャニオタです。コロナの閉塞感がある時、ジャニーズのタレントたちが私を元気付けてくれました。
彼らがいなかったら、私は社会復帰ができませんでした。
だから、私が愛したジャニーズ事務所の崩壊を見るのは本当に辛いです。
しかし、一部のファンたちが性被害者に対して批判をしている様を見るのはもっと辛いです。
私は何も悪くないのに、やはり私が悪いのか……
推しという大切なものを守ることも大切ですが、被害に遭われた方に対する言動も考えていかないといけないと、考えさせられた数ヶ月でした。
私は10代20代の頃、何度か痴漢という性被害にあっています。
痴漢にあったというと、自意識過剰とか、虚言とか、冤罪の認識があるようで、被害者なのにあまり表立って言えません。
さらに被害にあったのは高校生の頃、専門学生の頃と、漠然とした年代と、痴漢された場所、家の近く、JR中央線は言えるけど、決め打ちはできません。
あまりにも悲しく辛い出来事なので、普段はその記憶を思い出せません。
ただ、満員電車で男性の近くに乗り合わせてしまうと、未だに体がこわばってしまいます。
そして、この話をすると、痴漢被害と強姦は違うだろ、と言われるのが目に見えています。
性被害にあったならすぐに警察や親に言えなかったの? という意見も散見しました。
私は性被害にあったことを両親に言ったら、確実に過剰以上の心配し、泣き崩れる。
そして門限が厳しくなることを想定して言えませんでした。
私が10代の頃、親に心配をかけることが罪で、自分の行動範囲を制限されることを恐れます。愚かな子どもでした。
しかし、30代半ばになった今も過去にあった痴漢被害は言えません。
きっと怒り狂って、さめざめ泣いて、30半ばなのに毎日連絡をしろと言い出し兼ねません。
私は辛いことより、面倒をとってしまいました。本当に馬鹿な女の子です。
性被害にあったのに、詳しい年代覚えてないとかありえない、と、思っている方もいますよね。
でも覚えていません。
だって、いつも性被害のことを記憶の底に鍵をかけて沈めていますから。
ジャニー喜多川氏の事件がテレビで流されるようになって、自分の痴漢被害のことも急にガチャっと鍵が開いて、芋づる式に思い出しました。
しかし、その気色悪い感触はいつまででも覚えているけど、詳しい日程は覚えていません。
人間は悪い記憶を忘れているように出来ていることをひしひしと感じます。
一部のジャニオタの方の中で、「この人が被害にあったタイミングでの性被害は、〇〇のタイミングだからありえない!」
と叫換している方もいますが、たぶんプラマイ3年くらいはズレていると思います。
あの服を着ていた、とか、あの髪型だったとか、拙い記憶を手繰り寄せて証言をしているはず。
私だって夏の制服を着ていたから多分夏のあの時とか、ユニクロのタートルを着ていて寒かったから冬とか。
思い出せるのってそれくらいです。
そしてその嫌な、ただその人の一方的な性欲を満たすだけの感触は覚えているのです。
私は、高校の指定の制服や、デニムのパンツを履いてる時に痴漢被害にあいました。
制服のスカートを極端に短くしたこともないし、ボディラインが見えるような服をきていたタイミングでもありません。
扇情的な格好をしているなんてツユほども思っていません。
それでも痴漢被害にあった方にも落ち度がある、証言に裏取りが取れない、と言われてしまうなら、
この国は性被害に合っても誰も助けてくれない、救いがないと感じています。
私はジャニオタです。コロナの閉塞感がある時、ジャニーズのタレントたちが私を元気付けてくれました。
彼らがいなかったら、私は社会復帰ができませんでした。
だから、私が愛したジャニーズ事務所の崩壊を見るのは本当に辛いです。
しかし、一部のファンたちが性被害者に対して批判をしている様を見るのはもっと辛いです。
私は何も悪くないのに、やはり私が悪いのか……
推しという大切なものを守ることも大切ですが、被害に遭われた方に対する言動も考えていかないといけないと、考えさせられた数ヶ月でした。
この前まじめな小児性愛者の匿名ダイアリーがバズっていた(https://anond.hatelabo.jp/20230904223603)から自分も。
90年代のジャニーズジュニアを知っていて、リアルタイムでオナ〇ーしまくっていた自分からすると今回の報告書はマジ最高のズリネタだった。
当時の雑誌を買っていて例えば伊〇尾くんと一緒に出ていた背の低いM.Kくんとかで抜きまくっていた。伊〇尾はあんま好きくなかった。
なぜかというと俺は背が高い男の子は好きじゃなかったんだな。今回背が低い子がジャニーのお気に入りだったのを聞いてビンゴ!と思った。
自分と性癖が全く同じ。そしてその性癖を実行に移していたジャニーはマジうらやましいしリスペクト。
ちょっと前にいた体操をやっていて背の低いCくんもお気に入りだったんだろうな^^ 俺もハットリくんドラマで抜きまくっていたからよくわかる。
ネバギバのRくん(当時小1)やGくん(当時小5)、あと性被害を告白した方と同姓のHくん(当時小4)を犯すときは過去の体験がフラッシュバックして頭がチカチカするぐらい興奮したと思う。犯したか知らんけどね。俺は彼のふんどし姿で数え切れないほど抜いた。だからジャニもなんかしらやってんじゃないかな?
天才てれびくんに出ていたI.Tくんと一緒に出ていて消息不明のI.Rくんもやってたのかな。
子役出身といえばD.TもそうだけどAもお風呂シーンでおティヌティヌまで見せてるんだよね。それを見てジャニがスカウトしたんだろうなーって。
こんな感じで俺はジャニの考えがわかるんだよ。たぶん性癖が似てるんだと思うねw 羊たちの沈黙のレクター博士みたいなもんだ。もっといえば大川隆法のイタコ。
そういやマイケルジャクソンがホームアローンの子役を彼の自宅に招待したのもすごいわかるんだよね。自分は当時ホームアローンのタオル一枚シーンで抜きまくったから。
P活してる女なんて目立つだけで実際全体の多くて1割なんだから可哀想なのは男の子じゃなくて同年代の男とのデートと普通の昼職で満足できなくなった女の子の末路なのでは
19歳の大学生彼女と付き合ってる46歳美容外科医だけど、若い男の子可哀想。
今の若い女の子ってみんな若いうちから一流のレストラン、一流のレジャー、一流のホテル、一流のファッションブランドの味を知ってるから、そりゃ学生生活の片手間にアルバイト代しか稼げないような同年代の男の子とは付き合えないよなぁ〜って思う。
理論的には可能なんだろうけどさ、その「内心の自由」ってどういうものなんだろうか。
一切表に出さず、頭の中でぐるぐると子供への性的な気持ちを自己充足的に完結させられる。そんなのってある?
たとえば妄想を絵にしたりするんだろうか。でもそうやって絵にするためには、モデルがいるよね。誤解しないでほしいけど、ロリエロイラストはロリエロ写真や動画を参考にして模写しないと描けない、なんて話じゃない。ただ、一対一で対応するようなモデルが必要なわけではないにしろ、なんらかの形で想像の拠りどころとなるような体験というか原情報は必要なんではないのか。つまり見られている人にはわからないような形で、どこかの誰か子供をエロい目で見たことがないのに、ゼロからいきなり完全な想像の産物としてのロリエロイラストを描くことが果たして可能なのだろうか。そしてそれはたまたま気づかれなかったにしても、やっていることは「内心」にとどまっていないのではないか。視姦という、犯罪ではないにしろ、もし気づかれたら対象にとって多大なストレスを与えるような、害を与える行為を実行していることになるのでは。
合法的に手に入る子供向けファッション誌とかそういうのをオカズにするのかな。あとは昔の美術に描かれた子供とか? あとなんだろう、もしかしたら子供みたいな雰囲気の人形とかを使うのかな。でもそういうものが、たとえば「ペドファイルの性欲を満たすための合法的道具」として買えるようになったとして、そういうものが流通しているという状態が存在すること自体が、「子供の身体は性的に扱っていいのだ」というメッセージを発してしまうことになるのではなかろうか。
ペドファイル・チェックみたいなものが社会的に実施されて、それに引っかかったら予防拘禁されるとか、そういう自体を引き起こしてはいかんという意味では、ペドファイルにも内心の自由はあるとは思いますよ。でもなんか、チャイルドマレスターと峻別して、LGBTQのQの中に入れて、社会的に存在を承認してあげなければならないのです、みたいな話になると、それはなんか違わない? って気持ちになる。認めることによって、子供に密やかに性的なまなざしを向けることが肯定されてしまうとなったときの子供の気持ちってどうなんだろうな、みたいな。ようは、社会的に存在は認められていないというか、政治的な権利獲得などを求めることはできないけれども、ゾーニングされた形でエロイラストみたいなものが流通して、それで無聊をかこつくらいには、ある種の「必要悪」みたいな形で存在が許される立場である……みたいなのが落としどころなんではないのかなー。
ちなみにこういう話をすると、同性愛もかつては社会的になんたら〜……みたいな反論が来るんだろうけど、同性愛って性の対象を対等な相手として想定できるでしょ? 子供は性的自己決定権を制限される、未熟な存在であるという線引で社会が回っている以上、どうしたって子供はペドファイルにとっては対等な相手には定義上なりえないわけで。そこんところが同性愛や他の成人同士ないし対等な関係の相手との関係性だけを認めるものと違うんじゃないのかなー、ペドファイルは。
そう、結局のところ、やっぱ「相手が(対象が)子供だ」ってことが、やはりなんらかの扱いの差を生むのはしょうがないんじゃないのかなぁ。なんか世の中が大々的に方針転換でもして、どんな年代の相手でも恋愛対象として見なしてよし! とでもならん限りは。
5割削減、職種によっては7、8割実務削減に成功したとこもあるかもしれない
削れるところはもう削り終わり、増やせるところは増やし終わって
見えないところで幾重も押されるデジタルハンコを増やしていくぐらいしかやることがない
その投資期待に応えるべくやれることといったら
金を払うのも消費するのも物理空間で質量をもつ生身の人間に帰着する以上は
1980 年代、心理学者のリチャード E. ペティとジョン T. カシオッポは、説得がどのように機能するかを説明する「精緻化尤度モデル」を開発した。ここでの「精緻化」とは、その情報をどれだけ注意深く考えるかという意味である。人々に注意深く考える意欲と能力がある場合、「推敲の可能性」は高くなる。これは、人々が関連情報に注意を払い、メッセージの議論の利点に基づいて結論を導き出す可能性が高いことを意味する。
他人を説得するには少なくとも2つの方法がある。最初の方法は「中央」ルートと呼ばれ、聞くメッセージを注意深く熟考することから生まれる。中央ルートが関与している場合、提示された情報を積極的に評価し、それが真実かどうかを見極めようとする。一方で「周辺」ルートが関与している場合、実際の情報やメッセージの内容以外の手がかりにさらに注意を払う。たとえば、誰かのメッセージの実際のメリットを考慮せずに、その人の魅力や教育を受けた場所に基づいてその人の主張を評価する可能性がある。
周辺ルートを通じてメッセージを受け入れる場合、中央ルートを通じてメッセージを受け入れる場合よりも受動的になる傾向がある。
有名な心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーは、人間を「認知的守銭奴」と特徴付けている。彼らは「人間の情報処理能力には限界があるため、できる限り近道をするのです。」と書いている。
動機や議論を処理する能力が低下するにつれて、説得には周辺的な手がかりがより重要になってくる。
議論(中心ルート)の実際の利点を比較検討して信念を更新すると、周辺処理を通じて信念を更新する場合と比較して、更新された信念は持続する傾向があり、反論に対してより堅牢になる。慎重かつ思慮深い検討を通じて何かを信じるようになると、その信念は変化しやすくなる。
つまり、周辺ルートを通じてより簡単に操作される可能性がある。周辺ルートを通じて何かを確信している場合、操作者は周辺ルートをもう一度使用して最初の信念を変えることに成功する。
心理学者のレオン・フェスティンガーは、社会的比較プロセスに関する影響力のある理論の中で、人は自分の意見を他人の意見と比較することによってその意見の「正しさ」を評価すると示唆した。他の人が自分と同じ信念を持っているのを見ると、その信念に対する自信が高まる。
これらの考えを総合すると、人間の心の中には何らかのメカニズムがあることが示唆される。たとえそれが真実であっても、自分の地位を下げるようなことを言わないようにする。そして、たとえそれが嘘であっても、自分の地位を高めるようなことを言うように彼らを駆り立てる。
さらに、自身の評判がどうなるかという考慮が私たちの信念を導き、私たちの社会的地位を維持または強化するための一般的な見解を採用するように導くこともよくある。暗黙のうちに「この信念を保持すること(または保持しないこと)が社会にどのような影響をもたらすだろうか?」と自問する。
説得の周辺ルートに戻ると、多くの人がそれを信じている場合だけでなく、その信念の提唱者が権威ある人物である場合にも、何かを信じるかどうかを決定する。
オックスフォードの心理学者セシリア・ヘイズは、著書『認知ガジェット』の中で次のように書いている。彼らは、同じ年齢と性別の同じくらい身近な人よりも、大人が社会的地位が高いと考えるモデル、たとえば学校の校長を模倣する可能性が高い。
それでも、私たちが高い地位を持つ他人を真似するのは、彼らを模倣することで自分の地位が向上することを期待しているからだけではない。権威ある人ほど有能であると信じがちであるが、プロミネンスはスキルのヒューリスティックである。
研究者のアンヘル・V・ヒメネス氏とアレックス・メソウディ氏は、威信に基づく社会学習に関する最近の論文で、能力を直接評価することは「騒がしくコストがかかる可能性がある」と書いている。代わりに、社会的学習者は、モデルの外観、性格、物質的な所有物などから推測することによって、ショートカットを使用できる。
ここで、次のような疑問が生じる。周辺的説得による操作の影響を最も受けやすいのは誰か? 教育を受けていない人々のほうが操作されやすいと信じるのは直感的に思えるかもしれないが、研究によると、これは真実ではない可能性がある。
心理学教授のキース・スタノビッチは、「マイサイド・バイアス」に関する自身の研究について論じ、次のように書いている。「あなたはそれに属しているのは、それらはあなたの気質と生来の心理的傾向に適合しているからです。」
一流大学の学生や卒業生は、自分側の偏見に陥りやすい。彼らは「自分自身の以前の信念、意見、態度に偏った方法で証拠を評価し、証拠を生成し、仮説を検証する」可能性が高くなる。
アメリカのジャーナリストであり、『第三帝国の興亡』の著者であるウィリアム・シャイラーは、ナチスドイツの従軍記者としての自身の経験をこう語った。シャイラーは次のように書いている。「ドイツの自宅やオフィスで、あるいは時にはレストラン、ビアホール、カフェで見知らぬ人と何気ない会話をしているときに、一見教養があり知性のある人たちの突飛な主張に出会うことがあった。彼らがラジオで聞いたり新聞で読んだりしたナンセンスをオウム返ししているのは明らかでした。時には同じことを言いたくなることもあったが、まるで全能者を冒涜しているかのような不信感を抱かれた。」
同様に、ソ連崩壊に関する研究では、大学教育を受けた人々は高卒者よりも共産党を支持する可能性が2〜3倍高いことが研究者らによって判明した。ホワイトカラーの専門労働者も同様に、肉体労働者に比べて共産主義イデオロギーを支持していた。
今日の米国内のパターンはそのような調査結果と一致している。政治アナリストのデビッド・ショールは、「高学歴の人々は、労働者階級の人々よりもイデオロギー的に一貫した極端な見解を持つ傾向がある」と述べている。これは、問題に関する世論調査やイデオロギー的な自己認識にも見られる。大卒の有権者は穏健派であると自認する可能性がはるかに低い。
この理由の 1 つは、時間や場所に関係なく、社会の富裕層の方が地位を維持したり、地位をさらに獲得したりするために正しいことを言う可能性が高いためであると考えられる。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンが主導した最近の一連の研究では、社会階級が社会的地位への欲求と積極的に関連していることが判明した。より多くの教育を受け、お金を持っている人は、「他人の意思決定に影響を与えることを楽しんでいます」や「名声や社会的地位を得られたら嬉しいです」などの発言に同意する可能性が高かった。
ケイトー研究所がYouGovと協力して行った調査では、全米を代表する2,000人のアメリカ人サンプルを対象に自己検閲についての質問を行った。
その結果、高校教育以下の学歴を持つ人の25%が、政治的見解のせいで解雇されたり、雇用の見通しが損なわれることを恐れているのに対し、大学院卒の学歴を持つ人の割合は44%であることが判明した。
政治学者のジェームズ・L・ギブソンとジョセフ・L・サザーランドによる「口を閉ざす:米国における自己検閲のスパイラル化」と題された最近の論文の結果は、Cato/YouGovの調査結果と一致している。彼らは、自己検閲が急増していることに気づいた。マッカーシズムの絶頂期だった1950年代には、アメリカ人の13.4パーセントが「以前よりも自分の意見を自由に言えなくなったと感じている」と報告した。2019年までに、アメリカ人の40%が自分の意見を気軽に言えないと回答。ギブソンとサザーランドは、「自分の意見を言うことを心配している民主党員の割合は、自己検閲を行う共和党員の割合とほぼ同じで、それぞれ39%と40%である」と報告している。
この増加は特に教育を受けた層の間で顕著である。研究者らは次のように報告している。「自己検閲に従事する人々が限られた政治的資源を持った人々ではないことも注目に値し、おそらく予想外である…自己検閲は最高レベルの教育を受けた人々の間で最も一般的である…この発見は、以下のことを示唆している。社会学習のプロセスであり、教育を受けた人ほど、自分の意見の表現を妨げる社会規範をよりよく認識している。」
興味深いことに、教育が自分の権力意識とマイナスに関連していることを示す示唆的な証拠がある。つまり、教育を受けていればいるほど、「自分が意見を表明しても、自分の意見はほとんど揺るがない」「自分の考えや意見は無視されることが多い」といった意見に同意する可能性が高くなる。
ミュンスター大学のリチャード・ラウ氏が率いる「他者の最良または最悪の見方:一般化された他者認識の尺度」というタイトルの論文を考えてみる。
研究者らは参加者に、ソーシャルメディアのプロフィールや動画に登場する人物を評価するよう依頼した。参加者は、「この人が好き」「この人は冷淡だ」などの発言にどの程度同意するかを尋ねた。その後、参加者は自分自身についてのさまざまな質問に答えた。
高等教育は一貫して、人々に対するあまり肯定的な見方に関係していなかった。この論文は、「人々の感情、行動、社会的関係を理解するには、彼らが他者に対してどのような一般的な見方を持っているかを知ることが非常に重要です…人々がより良い教育を受ければ受けるほど、他者に対する認識は肯定的ではなくなります。」と結論付けている。
したがって、裕福な人々はステータスを最も気にし、自分にはほとんど力がないと信じており、仕事や評判を失うことを恐れており、他人に対してあまり好意的な見方をしていない。
つまり、意見は、その真理値に関係なく、ステータスを与えることができる。そして、自分の地位を維持したり高めたりするために特定の意見を表明する可能性が最も高い人は、すでに社会のはしごの上位にいる人でもある。
私は新卒で入社した企業をたった2年で辞めてアカデミアの世界に戻ってしまった。
共感してもらえるとは思わないが、なんとなく聞いて欲しくて書いてみている。
分野は特定されたくないのでぼかす。
入社した理由は周りの多くが修士を出て大企業に就職してたから、お金もらって研究続けられるならそれでいいかと深く考えずに入社した。
元々研究が好きで就活時もR&D一本で就活していたので、結果的に見れば理想通りの進路だった。
最初の研修を経て研究職として地方の研究所に配属され、近くの寮(一人部屋)で一人暮らしを始めた。
しかし入社して半年程度で、自分の仕事に全く楽しみを見出せなくなってしまった。
まず研究について。
これは企業なので仕方がないのだが、入社時に希望していた研究テーマ(仮にAとする)と大きく異なる分野に関わることになった。
Aは就活当時に海外で研究が盛んになっている分野で、産業的に日本にも入ってくるかどうかというタイミングだった。
事実、私が入社したタイミングでその研究も立ち上がったのだが、残念ながら自分はメンバーではなかった。
正直、誰よりも興味があったし先行研究もそれなりに知っている自負があった。
勿論、新しい研究の立ち上げに加えて新卒の教育なんて大変なのはわかる。
ただ自分にとって真横でAの研究が行われるのを傍観し、全く異なる別のテーマに情熱を注ぐというのは正直かなり無理があった。
上司と話す機会もあったし私がその分野に強く興味があることは知っているはずだが、どうもその上司の育成方針からして私は何年経ってもその分野に関わることはないだろう事を悟った。
また入社時にはコロナが流行しており、半年たっても会ったことのない部署の先輩がいる程度に希薄な人間関係が出来上がった。
元々研究所はその特殊性からか人員移動がほとんど起きず、10年単位で同じ課にいる人がいる程度にはクローズドなコミュニティだった。
普段なら人付き合いは得意な方なのだが、その閉鎖性とマスク越しで想像し難い同僚の表情に勝手に畏怖してしまい、必要以上に気を遣う付き合い方を始めてしまった。
気づけば半年も経つ頃には人付き合いに対して過度に気を遣って自滅してしまい、人付き合いに楽しみを見出すことが出来なくなってしまった。
家と会社を往復して酒飲んで寝るだけの生活に終止してしまい、家族や友人にも会えずなんのために会社で働いているのか分からなくなってしまった。
また、自分の周りの方々を見ていると自分のキャリアがこの先どのように進んでいくか、人生が概ね見えてしまった気がした。
新卒で年収が400万、3-5年ごとに100-150万ずつ上がって、40代でもし課長になれば1000万超えるとか、そんな感じの年功序列が色濃く残る給与テーブル。
研究員は10年とか努めたら突然の辞令で研究員ではなくなり、別部署の主任になるのが大半みたいな。
大体三十歳前後に結婚して、近くに家をローンで買って、子供育てながらずっと勤め上げるみたいな。
恐らく多くの人から見たら幸せな人生なんだと思う。勘違いして欲しくないのは、私はそれを全く否定していない。
それでも自分には魅力的に映らなかった。
日本では取っても食えない足の裏の米粒とか言われているが、それでも私は研究に携わる上でいつかは博士号を取得したいと思っていた。
入社当時は社会人博士等も考えたのだが、会社としては肯定的ではなかった。
研究所にも関わらず職場では実務には必要ないという考えが主流で、事実博士号を持っている方々もそれに見合った待遇は全くなかった。
むしろ時間と金をかけているのにほぼ年功序列のため、同年代の同僚と加えて損しているような状況であった。
もちろん全ての会社がそうではないと思うが、私は博士号を良しとしない日本の風潮と会社に大変に失望した。
また別の理由として、人生で一度は海外で生活してみたいという強い思いがあった。
元々いつかは海外駐在をと思って会社を選んだが、入社してから研究員として駐在するというポジションはなく経理や営業がほとんどであることも知った。
それどころか会社で研究員を続けたら海外に行く機会はなくなり、10年も腰を据えればある日突然の辞令で研究員ですら無くなってしまうのだと理解した。
私はいつか研究から離れるにしても、少なくともその引き際については上司の裁量や社内政治の巻き添えではなく、自分の意思で決めたいと思った。
入社半年で上記のような数々のギャップを抱いた結果、海外で博士号を取るという決断に至った訳である。
どうやら博士号や欧米では十分に評価されるらしいとか、海外の大学院は授業料無料で生活費までくれると聞いたのが大きな理由だ。
よくも知らないのに受験して海外に来ているなんて、今思えばかなり無謀なことをしているように自分でも思う。
また研究の世界はどこまでいっても英語が公用語であるため、基礎的な学問を母国語で習得した上でなら英語で研究を遂行する能力も必要だろうと考えた。
幸い職場はホワイトだったので、勉強する時間は存分に確保できた。
主に米国の大学院に絞ったため、一年目の秋頃からそれに合わせて準備を始めた。
大学院留学には主にTOEFLかIELTSが使用されるため、私はIELTSを選択してオーバーオール7.0まで取得した。
GREとはGraduation Record Examの略で、米国の大学院を受験する際に要求されるスコアだ。
ただ近年では研究能力と関連がないという意見も多く、廃止される大学も増えてきている。
こちらも半年程度で目標としていた点数(Verbal 150, M170, AW4.0) に達した。
2年目の秋頃から書類を揃えて本格的に海外の大学院のPh.D.プログラム(日本でいう博士後期課程)に応募を始め、三校から合格をもらった。
自分のレベルに見合う中堅の州立大学をメインに受けたのでIvyのようなトップスクールではなかったが、それでも合格が来た時は本当に嬉しかった。
合格した中には修士時代に少し交流のあった先生からの誘いが含まれていて、これ幸いとそこを進学先に決定した。
反応は様々だった。
新卒で2年しか勤めてないのに辞めるのかとかなり叱責してくる上司もいて辟易したりもしたが、実際会社から見たらただの不良債権なので仕方ない。
そもそも会社辞めて海外に留学なんて叩き上げの管理職からしたら当てつけのように感じたかもしれないから、分かり合えないのは仕方ないと割り切った。
管理職ではない方々は割と優しくて、割と前向きに送り出していただくことが出来た。
大変に良い人が多かったので、コロナ禍でなければもっと良い交流を持つことも出来たのかなと少し残念に思った。
アメリカでの博士課程生活は大変に気に入っていて、現状は概ね満足している。
一度社会人を経験してみて履修する講義はどれも面白いし、大学生時代よりも自分に存分に投資できる時間を嬉しく思っている。
ただ給料が出るとはいえ大学院生なので、収入の面では下がってしまった。
現在の給与は年間で大体$25,000くらい、日本円だと350万円くらいかと思う。この額は多分アメリカの州立大学の大学院生の平均的な給与だと思う。
そもそも好きに勉強して研究するだけでお金が貰えるので、自分にとっては天国である。
自分としてはむしろ授業と研究だけで350万貰えるのに、フルタイムで苦労して働いて400万しか貰えなかった日本の大企業やばない?と若干思うところもある。
まあしかしアメリカの田舎なので物価は安めだが、日本の時と比べると生活費は上がってるので前より余裕はない。
大学院としては年間$30,000(約400万円)の学費免除を経済支援の一部としているので、それを踏まえると待遇は上がったかと納得している。
アメリカでは博士卒が民間に就職した場合、自分の分野では平均$80kから100kは貰えるそうなので、給与の面ではJTC時代を大きく上回る算段となっている。
周りをみても外国籍が特に問題なく就職しているので、日本の博士卒の就職難というような問題はこちらでは無縁のようだ。景気さえ悪くならなければ大丈夫だろうと思う。
幸いビザ問題はとある理由でクリアできる目処があるため、卒業と現地就職を目指して今後も研究に励むつもりだ。
海外生活も日々新鮮に感じることが多く、自分にとっても成長を感じる機会が多くて楽しく過ごせている。
生魚や焼き鳥が恋しいが、日本食材自体は売ってるので思ったより食事が辛いということもない。
元々人付き合いは好きだが、上下関係や気遣いは得意ではないので大分ストレスに感じていたように思う。
年功序列は自分には向いていない制度であったし、自分の意志を介在せずに自分の処遇が決まっていく組織というものにに耐えられない性分でもあった。
それでも日本の大企業に入社してみた経験自体は確かに生きていて、培ったマナーであったり規律等は学生上がりが多くカオスなアメリカの大学院生活でも大変に役立っている。
自分は別にアメリカを礼賛しているわけではないが、少なくとも私のような青二歳の外国人にも挑戦すれば機会が与えられて、能力があれば高い給与が貰える可能性があるのだとすれば、これは私にとってのアメリカンドリームに違いないだろうと思う。ドリームというほど上振れてもないけれども。
同じようなことで悩む若者がいたら、少しでも参考になれば嬉しい。
金をかけたと話題のVIVANTを見て見たけど本当につまらなかった
全てがわざとらしくて金をかけたコントをやっているみたいだ
でもそこそこ視聴率が良いらしい
まともにドラマや映画が見たい層は海外ドラマとかにとっくに行ってる
残ってる層は細かい矛盾とか人間とはどういうものかとかに気づかない鈍重な貧困層で
なろう系とかワンピースとかを大人になっても見ている層に似ている
たまに例外があってまともな脚本家が書いてるドラマはちゃんとドラマとして見れるものがある
そういうのは普段海外ドラマとか見てる層も戻ってくるのである程度話題になったりする
今更MIPの劣化コピー見せられてもな
こういうのって会議とかで誰も突っ込まないのかな?
当方、アラフォー既婚女性なので若い人の感覚とはずれてるかもしれないということを前置きしておく。
タイトルのとおり、おっさんと呼ばれる年代(40代〜50代)にキモい人が減ってきた気がする。
むしろ、50代終盤〜70代にキモいおっさんの要素を持ってる人が多いように思う。
20〜10年前にキモいおっさんだった人たちがスライドして「キモいじいさん」になってるのではないかと思う。
ちなみに、キモいおっさんの要素とは、以下のものを指すこととする。
・自分はまだまだ現役だと思っている(仕事の面でも、コミュニティ活動でも)
・遠慮や配慮がなく、図々しい
(でかいくしゃみするとか、仕事中にでかい声で私用電話するとか、足音うるさいとか…)
今の40代、50代はセクハラの懸念も頭にあるしわりとまともに扱ってくれてると思うし、話してて昔のキモいおっさん達から受けるような不快感がない人が多い。
私自身も歳を取り、女性と意識せず対等に扱ってもらえることも増えてきた。