はてなキーワード: 年代とは
手下の人間を安く使いたがる文化はアイツが生まれるよりもずっとずっと以前、それこそ文明が誕生する前から野生の世界に存在していただろ。
自分が利益を得るために他人が勝手に苦労してくれることを望んでいるのは今の俺達も同じだ。
フェアトレードをやってないから安い服は買いませんと言ってる金持ちたちは、そもそも自分の給料を得る段階で立場の弱い人間の財布から金を抜き取って自分たちの財布に入れる作業を終えているわけで。
そこに手段を提供した武器商人みたいなのが竹中であって、実際に引き金を引き続けたのはほぼ全ての日本国民だろ。
椅子取りゲームに血眼になって参加し、「こんなのもう辞めましょう!学生時代がもっだいだい!!!」と止めもせずに未来を殺し合ってきたのは自分たちだろ。
その時に「こんなことをして若者をボコってたら年代に空白が出てあとあと出世させるための駒がなくなって組織が崩壊しますぜ」と口にしなかった当時の中高年、今の高齢者共も同じだ。
ガキ共もガキ共で「ま、アイツらの世代が完全に死ねば俺たちの頃にはちょっとは暖かくなってるだろうぜ。暖は人間の死体で取るに限るねえ」という余所余所しい態度だった。
誰もがクズだったよ。
竹中だけがクズだったなんて叫ぶには俺たちの手だって汚れきってるだろ。
「妄想の中で勝手に諸悪の根源たる絶対の黒幕が存在する設定を煮詰めて、その挙げ句に殺意を抱くなんて許されないことだ」だって?
は?
じゃあなんで皆竹中がなにか言うたびに死ねを大合唱するんだい???
滅茶苦茶なんだよ。
その場その場のその場しのぎで怒ったり諌めたり正論打ったり暴論に酔いしれたり結局はお前のお気持ち優先のポジショントーク。
もううんざりなんだよ。
「心のなかで育ったコントロール不能な憎しみが、わずかな関係性を手がかりに明確な殺意に燃え広がるという経験は俺にもある。俺にとって竹中がそれだった。でもアイツは反省のない悪党だから、善良な市民に殺意を向けるお前と違って、綺麗な殺意なんだ」ぐらい言ってみせろや!
単なる暴論にしたって、せめて自分の中で理屈の辻褄を合わせろよ!
逃げるな!
そもそも調査の対象が未婚の男女って時点でかなり偏ってるじゃん
年齢の下限が18歳で上限が34歳って…22、3歳辺りまでならともかくそれ以上の年齢になったら、特定の相手がいれば早々に結婚するだろうし
未婚でかつ恋人ありの人に限定したら少なくなるのは当たり前だろう
若者が恋愛離れしてるってデータを出すなら未婚者に限定せずに既婚者も合わせて「パートナーなし」にしないと意味ないんじゃない?
比較対象にされてるバブル期のデータだって「恋人ナシ」の比率はそれなりに高いし。
https://president.jp/articles/-/73517
「’21年時点で、未婚の男女(18~34歳)における「恋人ナシ」は、男性の7割強(72.2%)、女性の6割強(64.2%)にのぼります。一方で、同じ調査でバブル予兆期・最盛期(’82~’92年平均)における同年代の「恋人ナシ」割合を見ると、男性で4割強(44.2%)、女性で4割弱(36.2%)に留まっています。」
小学校5、6年の時、クラスの出し物で男子全員で光GENJIの曲に合わせて踊らされた。
振り付けや並び位置(配役)は女子のカースト上位の何人かがディレクションした。
20人弱いた男子のうち、俺はもちろん端の端で、本番の講堂の舞台では左右にある幕に隠れて見切れるような位置で、モブらしいいてもいなくてもいい踊りをしていた。
ディレクター女子ズは自分たちが配役して真ん中に据えた7人しかほぼ見てないので、踊りの下手さで怒られたりはしなかったが、
踊りたくもない踊りをさせられてどこか辱めを受けているような感覚はあったし、
女子による圧倒的なルッキズムでの男子の順位づけを目にしたし、
今でもこうして覚えてるってことは、俺にとってそれなりに心に刻まれた出来事だったんだろう。
あの時の不愉快さ、理不尽に晒されている怒りは、仕切っていた女子への憎しみは、当時はさほど強烈なものではなかったが、今でも思い出せる感覚だ。
あれは加害だったなと、今となっては思う。
【追記】
追記しとくかー
タイトルが釣りであることはすみません。でもこのタイトルじゃなかったらこんなには読まれなかったんだろうなと思う。
まぁ読めばわかる通り、幼い女子からキツいルッキズム差別をくらったってだけの話だが、
おんなじような体験した人いんじゃないかなーって思って書いてみた。
年齢をみんなが気にするのが不思議だけど48です。
人口の多い年代なんでここにもそんくらいのオッサン多いやろうと思ってたけど。
ゴリけんっていう(不細工ということにされてる)芸人が、小学生の思い出として
「好きだった光GENJIの振り付けを覚えて学校で踊ったら、『町田くん(ゴリけんの本名)は光GENJIを歌ったり踊ったりしないでください』と女子に泣かれたそうな。そんで学級会にかけられて、町田はみんなに迷惑かけたのを謝れと先生に言われた」と。
芸人なんで話は大きくなってるんやろうけど、大なり小なりこういうことってあったんだろうな。
男も女も傷つけ合うのはお互いさまなんちゃうの。
60代後半の役員がどこからか同年代の謎の老人たちを連れてきて、
リタイア後の人生をどう遊ぶかとか、年金がどうだとか、病気がどうだとかの井戸端会議場と化している
だれか助けてくれ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/forbesjapan.com/articles/detail/65449
・技術開発が優先
これ見て「あ、これは事故減らないな」と思った。
まず、自動運転プログラムが優先するのは法律と金であって命ではない。
たとえば損害賠償金額とプログラム修正の経費を天秤にかけて、損害賠償を負担したほうが経費がかからないと判断したらそっちを選ぶ。
車種が1,2種類で実験してるうちはともかく、法規制が変わるたび(法律の違う国へ輸出するたび)、
車種が増えるたび、あるいは原価見直しで部品を入れ替えるたび、
途上国あたりにもっていくとき、この国なら修正より人の命のほうが安いと判断したら、修正の手間をケチるよね。
第二に、プログラミングの話だけしてる点。実車の整備状況とか考える気がなさげ。
でも、実際に事故に結びつくのはタイヤやブレーキパッドが酷使されてたりの整備不良だったりする。
そのへんを自動車の管理事業者が経費削減でケチったら普通に事故率上がるよね。
今は整備不良含め、自動車のコントロールは全部運転者、事業会社の責任になってるけど、
自動運転普及後はおそらく企業間の責任関係の押し付け合いになるはず。
今はさ、運転する個人ってのがいちばん政治力が弱いから運転主の責任が重い、その運転主を雇ってる会社が悪いってなるわけだけど、
その弱者としての運転者個人が消えたら、最大の弱者は事故被害者という個人になる。
政治力の圧倒的な差で、メーカーも運営事業者も、免責の領域が拡大するんじゃないですかね。
第三に、事故についての基準が「事故の絶対数を減らす」ではなく「人間が運転するより事故率が低い」で判断してる。
これも、「人間が運転する際の事故率」、どこを見て判断するんだろう?
令和5年だろうか。昭和30年だろうか。
本来なら、現時点の、最新のセーフティ装備での、同クラス車種、同一エリア内での対比をみるべきだろうけど。
たとえば自動運転が完全普及するのが2040年だと仮定するなら、2040年時点での最良の運転アシスト機能付き人間運転手との対比だね。
けど、自動運転オンリーになったら、その対比先の「人間が運転した場合」はどこになるんだろう。
その後、自動運転の事故率にあわせて、「人間が運転する場合の事故率」も、なぜかちょっとづつ変わって、
2050年あたりには、気が付いたら「昭和30年代、40年代の事故率より低い」なんてのが自動運転の事故基準になってるんじゃないかな。
たぶんそういう図表を見てブクマカは「科学的だ!」って言うんだろうな。そうなりゃ、もう勝負は決まり。
ブクマで何を言っても何でも星つく。
路上を徒歩で移動すること自体が悪い、必ず自動車に乗れ、そもそも外出するな、あたりは言いそう。
自動運転向けに整備されない道路行政が悪い、未整備道路があるようなエリアに住むこと自体が悪い、言いそうだね。
日本の敗因は自動運転に適した国土、区画整理を整備しなかったことにある、経済評論家が言いそう。
その証言を読んでいると、ジャニー喜多川という人は性依存症だったのではないかと思えてくる。
その勝手な印象について書いていく。
ジャニーの行為は、あまりに執拗で、強迫的に反復され続けている。
対象が未成年の少年という問題を抜きにしても、病的な印象を受けてしまう。
そんなことを考えていたら、調査委員会の報告書で、ジャニー喜多川氏自身が幼少期から性被害を受けていたという話が出た。
その話は報告書のメインではないが、これを読んだ時、さもあらんと思った。
ジャニーも性被害者だったのならば、彼もPTSDを抱えていたのかもしれない。
「だから免責だ」ということではない。
そうではなく、性依存症ではないかという疑いの裏付けを得た気がしたのである。
であるなら、なぜ被害者たちが加害者たるジャニー喜多川に純粋な憎悪を見せず、
「それでも尊敬している」
「感謝している」
と述べるのかも、わかる気がしたのだ。
あくまで印象だが、ジャニー氏は少年たちに依存していたのではないか。
というか、成長できずに、彼自身のメンタリティは少年のままだったのではないか。
愛想がよくても、精神的には大人の社会に対して孤立を感じ、真に仲間と言えるのは少年たちだけだと感じていた。
つまり、彼は少年たちに依存していたのではないか、と思うのだ。
そのあたりが、ジミー・サヴィルやハーヴェイ・ワインスタインと、ジャニーの違いではないか。
ジミー・サヴィルの被害者は、ジミーの番組に出た際に記念のバッヂを渡すと言われて楽屋に連れて行かれ、ドアを閉めるや否や、暴力とともに性行為を強いられたという。
しかしジャニー氏の暴力性は、精神的な依存の延長線上にあったのではないか。
だからわかりづらい。
ジャニー氏が少年たちのために、食事をつくってやったりなんだりと、ごくまめに面倒を見てやっていた話はよく知られている。
(もちろん性加害がそれで減じられるわけはない)
彼は、少年たちの前に、きらきらしい世界への導き手として登場する。
すごい人である。
雲の上の人だ。
そのすごいジャニーさんが、無名の自分にせっせと心を砕いてくれる。なんて良い人なんだろう、と少年たちは感動する。
それはいわゆる単純な「グルーミング」だけではなく、ジャニー氏にとっても楽しみだったのではないか。
いま、自分は少年たちに喜ばれている。好かれている。その仲間になっている。
彼らの魅力を引き出し、輝かせることも、天職と思っていたかもしれない。
言うなれば、彼は、少年たちの魂と一体化したかったのではないだろうか。
性行為がその手段だったかどうかまではわからない。単純な性欲もあっただろう。
しかし少なくとも、性行為は、ジャニーにとって精神的な苦痛を忘れる行為ではあったのではないか、と思うのである。
もちろん、性加害は許されない。
彼自身、性加害でこわされていたジャニー喜多川は、その苦しみを忘れられる行為として、性行為に依存した。
相手は「変な人がいるな」と横目で見ただけなのに、「目で誘ってきた」と思ったりする。
ジャニー喜多川もまた同様ではなかったろうか。
単に自分が「NO」を言える環境を与えていないだけなのだが、そのへんの事実は無視したのではないか。
考えたくなかったからだ。
少年たちを愛している。
彼はそう信じていただろう。
これは愛だと少年たちに信じさせようともしただろう。
実際のところ、ジャニーがやったのは、相手に依存し、傷つけ、侵略する行為だった。
しかし、それを愛と呼んだ。
その依存は、まるでほんとうに愛されているような一体感を少年たちに与えただろう。
被害者たちがジャニーを否定できないのは、意識的に計算されたグルーミングのためというよりも、そのためだと考えると、理解できるのだ。
それを癒すことを少年との関係に求めていた。少年たちに愛情を注いでくれていた。求めていた。
ジャニーの苦しみに巻き込まれただけだが、繊細で優しい者ほど、そんな相手を捨てることに罪悪感を持ってしまうものだ。
性愛でなくても、自分の問題にこどもを巻き込み、押しつける大人はけっこういる。
毒親と言われるのはそういう人たちだ。
ジャニーにとって、孤独の苦しみも、愛されたい・愛したい、という願いも、真剣なものだったかもしれない。
しかし実際のところジャニーが愛したのは、目前の少年たちではなかった。
彼が見ていたのは、少年たちに投影したジャニー喜多川……喜多川擴という、孤独な少年だったのではないか。
自分では愛しているつもりだったにせよ、ジャニーはただひたすら、「自分が」、救われたかっただけだった。
おそらく心底では、愛されてなどいないとわかっていたはずだ。
依存を深めれば深めるほど、孤独も深まり、それを忘れようとなおいっそう依存していき、性加害はやめられなくなっていっただろう。
そして被害者は増え続けた。
それは愛ではない。
それを愛だと思ってしまうと、「愛された」人間の苦しみはふくれあがる。価値観が歪む。呪いになる。
「あわれだけれど、愛ではない」と言わなければならない。
かつては、ジャニー自身が、プレデターのためにおなじように苦しめられた少年だったのかもしれない。
誰も彼には「それは愛ではない」と教えてくれなかったのだろう。
そして歪んだ結果、彼自身も、少年たちを歪めるプレデターになってしまった。
だが時代的にも、年齢的にも、メリー氏にはできなかっただろう。
当事者の会は、声に出せてよかったと思う。
彼らは少なくとも、少年を歪める者にならないですむだろう。
だがいま、声を出せない被害者もいるはずだ。
それでも、カウンセリングなどをうけて、ジャニーの呪いを解いてほしいと思う。
あわれに思ってもいい。憎めなくてもいい。
それでも、あれは愛だと思う必要はない。