はてなキーワード: 原初とは
アホ(anond:20220208174815)がアホなトラバ返してたけどなぁにが主語が大きいだよ
真面目に腐女子こそが原初の闇。フェミニズム()や男女論()は四六時中これについて話し合うべきレベルの最重要トピックのエントリーで書いたまんまのヤツがまた出てきてるじゃねぇか
▼ サイゼが嫌なんじゃなくてサイゼのためだけに女は外出したくない (anond:20220210174019)
>男と違って女は外出のために高い化粧品使って髪をセットして、服もオシャレに、ヒールの入った綺麗な歩きづらい靴で出かけることになる。
>準備に一時間以上かかるし移動も大変、でもって男が「デートはサイゼ以外ナシ」だったら家でダラダラしてた方が楽だしマシってなるのもうなづける。
>これがデートでサイゼってなったら女はセックスとサイゼのためだけに時間をかけてオシャレすることになる。
>ここでオシャレなんか自己満、やらなくていいっていう男は何も分かってない。だったら顔に産毛の生えた芋臭い腐女子を彼女にしたいか?
以下再放送です ↓↓↓
腐女子らにとってセックスは、自己決定で望んで楽しくするものでは無くて、
"恋人" や "妻" という肩書きを得る為に、直球で "(理解ある彼くん等に) 養って貰うために"
だから腐女子らはキスやボディータッチやセックスのいずれかを必ず描写する。なにせ彼女たちにとっては肩書きを得るための義務だからだね
そして義務なのでわたしが望んでやった事ではない=性欲は無いという事だそうな
ここから既にコケている逃げているのに女性の社会進出もなにもねーのである
実際、はてブでヤベー言動をしている腐女子ブクマカを眺めていると、当たり前のように男に縋るしか無い思考であり経済レベルもヤバければ自己実現も他者任せだ
自己選択を楽しむ・責任を持つという発想がなく、当たり前のように化粧をすべき・化粧を強いられているとかならやっている その見本→ anond:20220210174019 anond:20220213084634 anond:20220213114441
腐女子がプラットフォームの仕様を理解していない&SNSとインターネットの仕組みを理解していないのは
『知的な困難を抱えている人物』or『禅でも極めているレベルで物を考えない人物』だからで終わる話なので言及しない
(その見本のブクマカたち → https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220206222214)
>もしかして女性SNSユーザーは他人のことを自分の摂取する情報を自分でコントロールする能力がないゾンビかトロールか何かのように思っているんだろうか?
腐女子たちはあらゆる自己選択・自己責任から逃げているので "嫌なら見るな" だってもちろん出来ない
彼女たちにとってあらゆる情報は自分自身が取捨選択するものではなく、自分以外の何かに無理矢理見せつけられる物なのだ
児童福祉と親の教育の権利に配慮してゾーニングを徹底しようという意識から "無理矢理見せつけられる" 発言が出てくるならまだわからないでもないが、
基本的に腐女子たちは共同感覚が欠如していて海外なら児童ポルノ・児童虐待判定される作品を平然と肯定したり垂れ流す
そして日本という社会はそれを誰も咎めないし、むしろ売れれば何でも良いとばかりに腐女子を応援しちゃうノリだ
具体例をあげたらキリが無いが、近年のジャンプで言えばBLを題材にした『腐女子除霊師オサム』
ポルノ作品でも社会派作品でもないのに差別的なポルノファンタジーであるBLを題材にする時点で既にヤベーのだが『どっちが受けか攻めか』なんて公式アンケートを無邪気に取ったりする
https://twitter.com/shonenjump_plus/status/1411894677385613319?s=21
ちなみにBLの受け攻めとは『どっちがちんこ入れる方か?』であり、単なるポルノの嗜好の話である
しかも『腐女子除霊師オサム』の中でポルノファンタジーの対象になっているキャラクターは"未成年"である
これをインディーズ(独立系)出版社が・・・でなく、日本を代表する出版社の編集部がやらかした上に自らSNSで拡散しているのである
海外ならフツーに担当者なり役員なりの首が飛ぶレベルの話だと思う
(ちなみにジャンプは過去にはスポーツ漫画の公式スピンオフを同作品のbl描いていた(る)同人作家に描かせていたりもする。
もちろんポルノファンタジーの対象になっていたキャラは"未成年"だ)
日本を代表する出版社ですらこの有様なので App Store も女性向け男性向けともにヤベーことになっており、
英語圏なら 17+であってもキックされるゲームが日本ではまさかの全年齢でリリースされている
Apple が lazy なのは今更指摘するまでも無い事だが、
金に物を言わせてレーティング無視するパブリッシャー(アニプレックスなど)の倫理観の無さもなかなかどうしてである
人類は所構わずセックスちんこまんこってやってる個体を積極的に淘汰してきたし、
お布団の中のこと(性癖)は男女ともお外では口にしないのは人権が生まれる前からの暗黙の社会ルールである
この暗黙の社会ルールを親からも兄弟姉妹からも先輩や友人からも先生や牧師からも自然に学ぶことができないとして、発達障害(特にADS) 向けの支援サイトなどでは、愛情・性愛表現を公開して良いシーン、ポルノの取り扱い方を明示的に示していたりもする
・・・にも関わらず、なぜ腐女子は大手を振って差別的なポルノファンタジーであるBLを愛好しているとネットで表明出来たり、オフ会や同人誌即売会に参加して自らの顔を第三者に晒す事が出来るのか?
社会インフラが発達し生活にゆとりが生まれ子育てコストが下がったので社会全体が性に寛容で奔放になった?
もちろんそんな事はない
今もなお子どもが成人するまでのコストは高く、子どもの人権が守られる国ではお気軽にセックスしてポコポコ作れないし、
児童福祉と親の教育の権利に配慮し、性表現には年々厳格になっていっている
性衝動は男女とも持つもの、女もBLなどのポルノ・ツールを使って積極的に自己解放すべきという一種のウーマンリブ?
もちろんそんな事はない
もしそうならポルノの公開・共有の仕方はともかくまだ救いがあるが、
腐女子たちはポルノファンタジーを愛好しておきながらオナニーに使わないと言って憚らないだけでなく、
『わたしは性欲を持っていない』と言って憚らない
ちなみにこの『性欲を持っていない』というのは、
生物における性欲とエロ(eros)は違うといった類いの話でも無い
腐女子らにとってセックスは、自己決定で望んで楽しくするものでは無くて、
"恋人" や "妻" という肩書きを得る為に、直球で "(理解ある彼くん等に) 養って貰うために"
だから腐女子らはキスやボディータッチやセックスのいずれかを必ず描写する。なにせ彼女たちにとっては肩書きを得るための義務だからだね
そして義務なのでわたしが望んでやった事ではない=性欲は無いという事だそうな
ここから既にコケている逃げているのに女性の社会進出もなにもねーのである
実際、はてブでヤベー言動をしている腐女子ブクマカを眺めていると、当たり前のように男に縋るしか無い思考であり経済レベルもヤバければ自己実現も他者任せだ
自己選択を楽しむ・責任を持つという発想がなく、当たり前のように化粧をすべき・化粧を強いられているとかならやっている
原初、バーチャルYouTuberは“着ぐるみ”であったように思う。
黎明期にはよく「ふなっしー」にも例えられていたが、ディズニーランドのミッキーマウスでもいい。彼らが着ぐるみであり中にアクターが入っていることは誰しもが認める事実である。しかし彼らを目の当たりにしたとき、中に入っているアクターの存在を意識することはまずない。ディズニーランドでミッキーマウスに出会ったら「“ミッキーマウス”に会えた」と素直に嬉しくなるのが自然な反応だろう。事実として認識することと、それを日頃の場面で意識するかどうかはイコールではないのだ。
バーチャルYouTuberも同様の構造を持っていた。彼女たちにはキャスト、所謂「中の人」が存在する。それはファンだってみんな分かっているが、見ないふりをしているしそもそも意識することもなく、もっと言えば意識“させられる”こともない。ミッキーマウスが自分からアクターの存在を示唆するような言動を取ることはない。そういう暗黙の了解と微妙なバランスの下で成り立っていたのが、かつてのバーチャルYouTuberであったと思う。
…「彼女たち」が“着ぐるみ”を脱ぎ始めたのはいつ頃からだっただろうか。たぶん、ある人気VTuberが引退をして、そのキャストが生身の配信者として活躍し始めたことがきっかけにあると思う。それ以降少しずつ、VTuberのキャストがバーチャルではなく生身の配信者として活動しているのを目にするようになった。
彼女たちからすれば一種の逃げ場なのだろうと思う。VTuberとしての活動はとかく制約が多く、強いられる仕事もあり、キャラクターの“着ぐるみ”を着ている以上常にある程度の嘘をつき続けて活動せねばならない。それでいてファン数の増大に伴って誹謗中傷に晒されることも増えていく。そんな彼女たちにとって、本来の「自分」としてありのままの姿で居られる生身での活動は、少なくともVTuberとしてのそれよりは気楽で休息になるものなのだろうと感じる。それでいて生身の活動にもファンがついてくることは偉大な先例が証明してくれている。それらを踏まえて、キャストが生身での活動を加速させるのは至極懸命な判断であると思うし、その判断や活動を責める気は毛頭ない。
しかし、私はオタクとして、“着ぐるみ”としてを好きになったのだった。確かに、人格という本質的な概念は“着ぐるみ”もその“アクター”も完全に同一である。それでも、私が好きだったのは“着ぐるみ”だった。そこに究極的には理由はないと思ってもらっていい。好きという感性には突き詰めれば理由など存在しない。
ミッキーマウスのアクターが、着ぐるみを脱いで生身でミッキーと同じようなグリーティングを始めたらどうだろう。見ないふりができていた事実を否応なしに意識せざるを得なくなり、アクターはもちろん「ミッキーマウス」の方だってもう今までと同じように捉えることはできなくなるのではないかと思う。端的に私の身に訪れたのはこの現象であった。
私はVTuberのオタクをやめた。いや、VTuberのオタクで居ることができなくなった。中の人を強く意識してしまうようになってしまっては、もはやVTuberをVTuberとして見ることができなくなってしまったのだ。本当はずっと応援し続けたかったし、何とか戻れないかと思考実験を繰り返したが、最後に残ったのは「受け入れられないものは受け入れられない」という理由のない感性からの拒否であった。
もちろん、これは私自身の感性の問題である。キャスト名義のアカウントにVTuberとしてのファンが多くコメントしていたりフォローしていたりするのを目にして、よく平然と受け入れられるなと私は正直驚いた。しかし考えてみればそちらの方が自然なのかもしれない。先に述べたように人格という本質はVTuberとしてもキャストとしても完全に同一なのだから、VTuberとしてを好きになった人が全く同じ意味合いでキャストとしての方も応援するのはむしろ当たり前とも感じる。ただ、私にはそれがどうしてもできなかったのだ。それは私の感性の問題であり、あるいは“着ぐるみ”という形にこだわるというある意味で古い価値観を持っているせいとも言えるかもしれない。いずれにしても、原因は私自身のみに存在することは間違いない。
VTuberのオタクをやめることは…推しから離れることは本当に辛かった。好きな趣味をやめることがこれほど辛いことだとは思わなかった。それでも、あれほど愛した推しが、界隈が「not for me」になってしまった今、そこに身を置き続けることが不可能な私が進み得る道は他になかった。そうしてやめて数か月たち、最近になってようやく心が落ち着いてきたところだ。それでも時折思い出しては胸が締め付けられることもあるが、それはもうこれから一生背負っていかなければならない十字架なのだろう。
繰り返しになるが、この文章を読んで貰った人に勘違いしてほしくないのは、「彼女たち」は全く悪くないということである。自分の置かれた環境や周囲の事例を判断し、自らの幸福追求のために人生の選択をしている。それを尊重することは憲法でも保証されているくらいだ。VTuberオタクをやめたのは、あくまで私自身にすべての原因がある。
この文章を書いた目的は別になく、ただの自己満足に過ぎない。自分の身に起こった経験を文章にまとめ、インターネットの海に放流することが、私にとってVTuber趣味に対する送別式なのだと理解してもらいたい。哀れなオタクが居たものだとご笑覧いただければ幸いである。
最後になるが、今でもVTuberの「彼女たち」のことを嫌ってなどいないし、むしろ今でも好きである。もう応援することは叶わないが、「彼女たち」の成功と幸福を心から願っている。
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北 天華
川北天華。当時は進学をめざす高校生。進学は最終目標ではなく過程のひとつだろう。
単語と語法は平易。しかしそれらはすべてべつの何かを表象する。示唆により言外を表象するテクニックは掛詞とよばれるが、この歌は全句が掛詞で構成されさらに全体として言外のなにかを表象する。このため通常の和歌の範疇を超え、たぶんに神話的な雰囲気を持つにいたる。
配置
物理か地学の問題文をなす歌を助詞などを除去し単語をならべその内容を検討。
内容は上記のとおりテスト、光景に二分され、交互にならんだふたつの要素がリズムを形成している。
テスト、光景、ふたつの要素は卑近。受験をひかえた高校生という状況をあてはめると、この世代特有の神話的要素がうかぶ。
テスト、光景という対極を交互につなぐ構成は内外両極を往還するリズムを生んでいる。対句法ではくくりきれない振り子のようなリズムである。その振り子は往還をくりかえしながら全体をある方向へとすすめてゆく。机上の1枚の切片にしるされた問12という即物的な文言は夜空を数式で描けと命じそのときは下界を無視せよと結ぶ。一枚の切片がもとめる問いは振り子のようなリズムのなかで一瞬にして無限の宇宙へと拡大し発散する。読者はこの内外両面、両極往還のリズム、そして机上のちっぽけな紙片から数式をとおして一気に宇宙にひろがる強力なベクトルによってここちよく翻弄され、さまざまな記憶作用を楽しむことになる。じっさいのところこのリズムとベクトルは、おとなとこども、他発と自発、受動と能動、服従と自立ーつまり境界面を生きる高校生の生活のリズムとベクトルそのもので、それらが作者、あるい読者のこころのゆらぎそのものを表徴する。
問十二
夜空
青
街
明り
良い
各々の単語および叙述は高校生にとって卑近ではあるが軽くはない。試験問題、ふと見上げる夜空、その奥にひろがる宇宙。それらは作者の人生の主要な一部、あるいはすべてかもしれない。ひとつひとつの単語が表層の意味から遊離して現状と行く手の不安、悩み、探求、願望、希望、決意といった、思春期から青年期にかけての心象を表象する。この歌は、読者ひとりひとりに当時の記憶を想起させる力を持つ。
展開は三部で序破急をとる。
テストの問題文からはじまる文章表現はそもそも斬新なのだが、それを体言止めとして何かを宣言している。この宣言は直裁に読者にとどき、読者はこの歌とともに問いに挑むことになる。
十二は天文や暦法と関連がある。詠人だけにわかる何かの符丁かもしれない。だがそんな読み解き以前に十二月は受験シーズンであり、夜空がもっとも冴えわたる季節でもある。受験生たち、あるいはかつての、そしてこれから受験生となる読者たちは、冴え渡る夜空にひろがる大宇宙を仰ぎ何を思うだろう。
この衝撃はじゅうぶんに非凡な序を一気に振り切り読者を天空に打ち上げる。
微分される夜空の青とは何か。
それは学問的対象として規定される夜空であり、それゆえ純粋に観察と探求の対象であり、その分野への進学を目指す詠み人にとって、それは宇宙であり未来であり、そして自分でもあるだろう。それだけではない。その解をもとめる読者じしんの姿でもある。
街のあかりとは成功し定着したものたちの放つ光、そうしたしがらみとははなれた位置にいる受験生にとって、街のあかりは外部か雑音にあたるかもしれないし、いつか自分が再参入する場所かもしれない。
この歌はテストの問題文そのものであり、解答は記されない。作者はこの問いに答えることも思考の過程を示すこともせず、それらすべてを読者に投企している。そのため読者は作者の投げかけた問いの答えを探すことになる。読者は自問し夢み思惟し想像し記憶を想起する。歌を鑑賞することで作者の心象に分け入る作業がいつのまにか自問となり、ときには自分の過去、あるいは未来、そして今この瞬間を投影する。
上記のような構成は、ありていに言えば時分の歌、青春期限定の叙情歌といっていい。さしあたり言語機能の極限をさぐる現代短歌のなかではこうしたテーマははやらない。ではそれだけを根拠にこの歌の価値を限定できるのか。
そうかもしれないが、それで終わりにしてほしくない。なぜなら、こうした心のゆらめきを大切に記憶し想起し記述する行為は自己と世界のはざまから生まれる認識の、つまり哲学と科学の原初のすがたであり、その姿勢が現代短歌の流行からはずれていようといまいといっこうにかまわないから。
結句を復唱したい。
俗世、しがらみ、現実などを表象する「街の明かり」を無視してもよいと歌い上げる。かそけき深き空の青さが真実ならばその対極にある現実など捨象してかまわないとも歌い上げる。
時分の歌かもしれないが、そこに込められたまっすぐに真実を見ようとする迷わない力をわたしたちは大切に保持してゆきたい。なぜならそれはたぶん、うしなってはいけないものだから。
ダブルチェックって今の日本ではかなりネガティブに捉えられてるよな。
だけど英語圏では日常的に使われている言葉だし、特にダメとも思われていない。
なぜそんな違いが出るのか?
違う。
英語圏では日本と違い、問題発生時の簡易な検証としてダブルチェックが使われているからだ。
例えばこんな風に。
Aさん「私の方でこういう問題が起きました。」
Bさん「なるほど。私の方でダブルチェックしてみますね。(…ダブルチェック中…)確かに同じ問題が起こりました。」
一方で日本でのダブルチェックは問題発生前の検証に使われている。
こんな風に。
結果、現場猫。
ドイツとナチスが絡むと必ず出てくる言説で、ここでもやはり大量に見られる。
はてなブックマーク:欅坂46も立憲民主党議員も…「ナチスをもてあそぶ日本人」にドイツ人がドン引きする理由 | 文春オンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/50047
なんかズルいなあ。現ドイツはナチスとは別で第2次大戦は全てナチスが悪いっと言ってる感じ。昭和天皇は責任から逃げなかった。
コイツの祖父や祖祖父の世代がナチスを指示したからナチスがああなった。ナチスに全てをおっ被せているのは否定できないだろうよ。
ナチスこそが全ての原因で邪悪で悪魔で国民はその被害者という形にしないと成り立たないのがドイツ。想起するあらゆるものは排除っていうスタンスは、他のジェノサイド等の件では全く見られない特殊なもの
戦争責任をナチスに押し付けたからこそ、「我々一般のドイツ人とは違う狂信的な集団」として極端にタブー視する必要があるんじゃないかと穿った見方をしてしまう。
そりゃ「ナチス党を絶対悪においてドイツ人が悪い訳では無い」というスタンスだからな。だから謝罪も賠償もしない。外から見ると「ナチス⊂ドイツ」だけどな。
この言説の出元はズバリ西尾幹二である。といっても西尾が「西ドイツ(当時)はナチスを切断処理して反省を拒否している」と言ったのではない。
前年に西ドイツ大統領に選出されたヴァイツゼッカーは1985年連邦議会で後に有名となる演説を行った。西ドイツ大統領は米国や米国の政体をモデルにした韓国のようなものと違い、首相の上に立つが実権力は少なく元首のような役職だ。
この演説は「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」の節が有名で、要するにナチスの蛮行の責任を戦後のドイツ人は引き受けねばならない、蛮行に手を貸していないと言い張るのは許されないとの内容だ。
この演説を岩波の『世界』が取り上げて掲載し、後には数百円のリーフレットも発売した。「戦争への反省のモデルケース」としての評価であるのは言うまでもない。
因みに『世界』は敗戦後に相当な影響力を持った論壇誌だったが、経済成長や全共闘の進歩派攻撃などによって影響力は下がっていた。だがこのヴァイツゼッカー演説の掲載は反響を呼び、リベラル人士に挙って引用されるようになった。
ところで複数人で編集されるwikipediaのヴァイツゼッカーの項は、演説内容が「悪いのはヒトラーとナチズムであり、ドイツ国民・民族も被害者である」だったとの節と、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。」との引用文が併置されるという面白い状態になっている。
この盛り上がりに対し、ドイツ文学者の西尾幹二が文藝春秋社『諸君』で批判を加えた。
「演説文章をよく読んでみると、ドイツ国民の直接の罪は回避されている」「ナチスの罪はドイツ国民個人に無い事が前提となっている」という内容だ。
そして「日本の戦争犯罪と違ってナチスの罪は人道に対する罪であって国家そのものが犯罪国家で責任の取りようが無い」。
責任が取れない種類のものを引き受けると言っているのだから欺瞞だ、という事だ。
これは文章解釈であり、悪意を持てば文章は逆の意味に解釈する事も出来る。(「ナチスの手口に学べ」は反語だ、など)
それは言語的堕落だが、西尾がそう評価されなかったのはニーチェ思想を専攻とする文学者の実績があった為だ。例えば中央公論の『世界の名著』シリーズのニーチェの編纂、解説は西尾である。実態が無い〇〇総研勤務や過去論文が紀要に全くない文学研究者やバイト以外職歴不明の動画投稿者ばかりで構成される昨今の保守論壇と当時は全く違った。
それ故、西尾の批判は「無邪気な戦争責任論への懐疑」として評価されていた。ヴァイツゼッカー演説のリテラル(文字通り)の内容は、云わば民族原罪論のようなものなので、それに対してニーチェ的視点から欺瞞を突きつけたくなるのは無理もない。
但し、
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
の様な一文を持って「集団が免責されてる」という辺りはニーチェもへったくりもなく単に低質なデマだ。あとで触れるがこれをやり始めたのは小林よしのりだ。この文章は「当時にも残虐行為にタッチしていない人間は居たがその罪は国民は免れない」という意味だからだ。
だから西尾を哲学的文脈で好意的に評価する時、こういう所は無視して、ユダヤ・キリスト教の道徳に類似した欺瞞を指摘した、と評することが多い。
だが西尾はニーチェ専攻にも拘らずにルサンチマンに駆動させられやすく、「切断処理を表明する演説」論者にのせられてそう言っちゃうのよな。で、論壇が経歴不明なバカや宗教右翼で埋まってパージされると冷静さを取り戻す、というのをずっと繰り返している。
90年代前半までとその後の保守論壇というのは質が全く違って、例えば引用したブコメで言うと、
とかは今は普通に見られるが、当時ならあり得ない。何故といって日本は交戦相手の米英仏豪に謝って賠償金を払っただろうか?勿論していない。
フィリピン以外の賠償金は全てチャラにして貰った。特に米国は自国の民間企業に対しても対日債務は諦めるようにした。ドイツも同じスキームだ。
そして日本はそれら交戦相手の連合国にチャラにしてもらう代わりに戦場となった主に東南アジアに対して復興後の開発援助を約束した。これらの戦後処理を全てやったのは自民党であって、それ故保守論壇人士の方が戦後処理に詳しかった。だから「ドイツは交戦国に賠償していない」なんて事は相当のバカじゃなきゃ言わなかった。それはどこも一緒だから。
こういう訳で当初は「ニーチェ研究者の文章解釈」として評価されていた西尾言説が、「ドイツはナチスを切断処理して反省を拒否する立場である」という風に化けて行く。
この決定的な曲がり角は先にも言った小林よしのりなのだが、小林を論壇に引き込んだのは西尾なのだ。だから西尾は小林やそのフォロワーが後者の言説を流布して行くのを黙認していた。
その後西尾は宗教右翼に教科書運動を乗っ取られてパージされてしまい、「彼らの運動論は左翼のそれだ」と批判する羽目になるのだが、彼らを引き込んで論壇の真ん中で活動させたのも西尾だったのだな。
という訳で「ドイツはナチスを切断処理して反省しない立場」節の原初は西尾で、それが解釈ではなくて「表明したという事実」に化けていったのである。
2015年にメルケルが来日した際、朝日新聞で講演して安倍政権の歴史認識を批判する場面があった。
講演、インタビューに態々選んだのが朝日新聞というのは明確なメッセージだ。
これにネットの一部は沸騰してドイツ叩きが盛んになった、という事があった。
何故そんなに逆上したかと言えば、一部で「常識」となっているドイツナチス切断処理論と反対の立場から冷や水をぶっかけられたからだ。
仕舞にはメルケルは極左に振れているという噴飯ものの意見も多く見られた。メルケルの所属するCDUは保守政党である。
このナイーブな恐慌状態は集団で信じていた事を現実が裏切る事で起きていたので、これぞまさにルサンチマンだ。
ニーチェの思想に沿って生まれた解釈が30年経って反ニーチェ的なナイーブに転化していたというのは寓話的だと思う。
当たり前だが、メルケルもドイツもナチス切断処理なんて立場を表に出した事は無い。統一ドイツの成立条件見れば当たり前だ。
西ドイツはEC加盟国だったが東ドイツはそうではない。統一は他の加盟国の承認が必要だった。
そしてベルリンというのは統一の前日、最後まで連合国の占領下にあった。
ソ連は勝手に東ベルリンを自分の勢力下としてしまったが、米仏英はそんな事認めていない。法的には最後まで共同統治であった。
つまりベルリンの占領はこれら4国の承認が無い限り解けない。もしヴァイツゼッカーがナチスを切断処理してドイツに責任無しという演説をしたら、東西ドイツがその態度だったら、ベルリンを首都に出来ただろうか?
そしてEUの顔役が出来ただろうか?
当たり前すぎてバカらしい。
ヨルハDAではしゃいでるヨコオワールド好きなんてクソだから切っていいっすよFF14さん
あいつらはコラボを楽しんでるんじゃなくてヨコオワールドが他IPの設定もストーリーも粉々に破壊する侵略行為を楽しんでるんで
他IPとのコラボのせいで第一世界は無惨に滅ぶし第一世界を通して原初世界も滅ぶかもね
ヨコオは超えてはならない一線を超えてしまった
問題はだな
ヨコオワールドをある程度理解してるこちらからしたらFF14世界を破壊した許せないシナリオなんだけど
ドワーフの口調がガラッと変わって内輪揉めに巻き込まれて意味不明な間に意味不明な解決をしたあげくコラボキャラはほとんど話もせずに消えて蛇足に課金1ヶ月分かかっただけの虚無ということ
あのシナリオで移植もアーカイブもないPS2ゲームまで網羅してくれなんてFF14ユーザーに言えない
ましてあの辺の設定資料集なんてプレミアついてるものばかりなんだから買えなんて言えない
イヴァリースと比べてもヨコオにはFF14への理解もリスペクトもないことがはっきりした
今までヨコオ好きだったけどヨコオの他IPへの態度があまりにも酷すぎて嫌い寄りになってる
つまり自作への愛もないってことになると気づいてしまったのでヨコオワールド好きという感情も揺らいでしまった
断捨離しようかな
まだ少しだけ考えよう
高市早苗を自民党総裁に推す動きがあるようだが正気だろうかと思う。高市にはナチスシンパと取られる言動の過去があり国際社会に対する国家の顔とするにはヤバすぎる。
2014年にはネオナチ政治結社との記念撮影写真が問題視されて海外でも報道された。
https://www.theguardian.com/world/2014/sep/09/neo-nazi-photos-pose-headache-for-shinzo-abe
更に1994年には『HITLER ヒトラー選挙戦略』小粥義雄著という本への推薦文を寄せていてこれも火種となる可能性がある。(記事中に推薦文画像)
https://buzzap.jp/news/20140910-takaichi-hitler-book/
因みにこの本の著者は自民党東京都支部連合事務局広報部長である。
でも高市がなんでこんな軽挙妄動をしたのかは説明が要る。これは彼女のキャリア形成に大きく関わっている。
まず、1990年代前半には安定と思われていた戦後民主主義への疑義、反発を表す論壇でのブームがあった。それで国法学や地政学、カール・シュミットやナチスに関わった人物を再評価する流れがあった。例えば福田和也の『奇妙な廃墟―1945』はフランスのナチス詩人達を再評価して同国の極右文芸を論ずるものだが、書かれたのはフランス革命200周年の1989年である。
この福田が論壇文壇に上がって来たのは『HITLER ヒトラー選挙戦略』の前~前前年ぐらい。民主主義(仏革命)への異議がナチス再評価へ至るディレッタンティズムな流れだ。鬼畜系などのサブカルクソ野郎はこの底辺である。
高市は松下政経塾に入塾し保守的政治家への指向を最初から持っていたのだが卒業後はコングレッショナル・フェロー制度により米民主党のパトリシア・シュローダー議員の下で働いた。同議員は女性の権利を強く志向する議員でありその後の高市の立場とは相容れない。
政治家になる前に松下政経塾入塾、米国でコングレッショナル・フェローというのは売りになる立派な経歴であるが、高市は後者の経歴、特に師事した議員の事をずっと表に出さなかった。数年前にコングレッショナル・フェローの経歴虚偽疑惑が噂された原因の一端はこの為だ。
シュローダー議員への師事を終えた高市は帰国してCNNデイウォッチなどのTVキャスター等を勤めた。Wikipediaの高市早苗の項では1990年がTVキャスター初登板のように書かれているが間違いである。
CNNデイウォッチでの政治的立場はリベラルだが、仏革命200周年のフランスの祭典のニュースでは反仏革命の思想を紹介するなど保守的な立場を窺わせている。
ところで自民党の票田には神道周辺の右派が居り、老人や学校の先生など一般社会からやや外れた人らを構成員としていた。神社の寄合を核とした緩い繋がりで、その社会的妥当性をやや欠く集団を自民党が票田としつつ、自民党の現実主義が暴走を防ぐという構図である。例えば遺族会の会長には右翼的な政治家を当てないという知恵が自民党にはあった。
90年代の自民党は旧態依然の族議員が幅を利かす男社会であって女性議員が活躍する筋は無かった。高市は三バンのうちTVキャスターで看板はあるが世襲ではない為地盤はない。その為無所属で当選した高市も最初はリベラルを標榜して自由党に入った。
地盤が無い議員が地盤を持つにはどうしたらいいか?族議員の様な支持基盤を持つには?特に居場所がない女性議員であれば?
その答えが神道系固定票へのアピールであったのだ。教育勅諭には良いことも書いてあるとかユルい事を言っていればいい。現実政治との擦り合わせなんて立場は出さずに思想的に理解を示すのが支持に繋がる。
『HITLER ヒトラー選挙戦略』の出版もそれへの推薦文も自由党時代の事だ。これはつまりナチス再評価のサブカル&ディレッタントなブームへの迎合と高市のその後の支持層への秋風だったのである。
高市はこうしてリベラル議員への師事の隠避と宗教右翼層へのアピールにより自民党で女性議員が活躍する道を拓いてきた。総務族と言っても良いキャリアも出来た。
しかし問題なのは高市の開拓した道以外に女性が自民党でやっていく道筋が無い事だ。小泉時代には経済自由主義での道が見えたかに見えたがその後無くなり高市路線だけが残った。
これが安倍チルドレンなどの新人女性議員が差別発言をわざわざするという原因になっている。女性議員はそれまでの人生的蓄積やキャリアをアピールせずアンビバレントで複雑な大人の人格を出さず、イデオロギー的純粋さを見せること。これのカリカチュアライズされた子供アニメの悪役みたいなバカが杉田水脈であるのは言うまでもない。
そもそも現在の自民党は世襲がきつすぎてキャリアのある人が登用される可能性がほぼない。それで高市コースだけキャリアパスが確立されていればそこを歩むしかないのは必定である。
今の就職活動では同じ色のスーツを着るのが常識になっているが、嘗ては特に女性は色付きのスーツを着る自由があった。
それで白いスーツを着ていき、面接で「あなたの色に染まります」と言うキモイやり方があったのだが、高市の拓いたパスはまさに白いスーツの女性議員の量産と言える。その原初は高市の米民主党議員に師事したキャリア隠避だ。
以上が高市が『HITLER ヒトラー選挙戦略』への推薦文を寄せるという軽挙妄動の原因とそれで拓いたキャリアパスである。
こんな過去があって、更に数年前にネオナチとの写真が流布されてサミットとかに出るのは無理なんではないか?
高市の総務省キャリアは放送行政に寄っている。だとすると女性版ゲッベルズとか書かれるのが目に見えている。自民党への不信に対抗するのに女性、と考えたのだろうが安直だし、それはそもそも支持基盤の保守論壇(嘗ての宗教右翼系)の視野を外から見てないから気が付かないのだろうと言う外無い。
理解するのは難しい
自分自身がそのテーマを興味持って調べて共感して理解してみたいに段階を踏む必要があるんだけど
日々の暮らしでそんな余裕がなければ、他者への理解能力が足りなければ「でも自分の苦しい生活よりマシなんでしょ?」「そんなありえない言いがかりをつけてカツアゲでもしようとしているんでしょ?」なんて吐き捨てることになる
ガラスの地下室もガラスの天井も匿名からの卑猥な言葉の投げかけから感じる恐怖も精神を病んだ人に投げかけられる犯罪者扱いも立場によっては全く感じないものだから特権を勝ち取るための実在しない現象のでっち上げと感じてしまう
人は自分の苦しみを重く見て他者の苦しみを甘く見るもの、そうした方が原初時代のヒトは生き残れたのだからそれが本能、だから理性でコントロールすることとなる
https://anond.hatelabo.jp/20210802164317
コストを重く見すぎじゃない?
https://anond.hatelabo.jp/20210414001604
この件、2つ思うところあり。
1:しずかちゃんはのび太の憧れの美少女、ジャイアンはいじめっ子、スネ夫はその子分…と一見わかりやすいキャラ設定に初期の『ドラえもん』はなっていたかといえば実はそうではない。あとから時代の要請でそのようにキャラクターがひん曲げられていったわけで、宗教も同じである。キリスト教も仏教もイスラム教も、原初の姿をとどめているものはほとんどなく、宗派によって解釈が大きく曲げられて原型をとどめていないことも少なくない。使っているツールが「神」だったり「仏」だったり「イエス」だったりするからその宗教の一派とみなされているだけなのだ。例えば浄土教系の「ひたすら阿弥陀如来に祈る」などというのは本来自分で悟りを開くというシャカの原始的な教えからすれば、めちゃくちゃなところへぶっ飛んでいる。ああいう絶対神の設定はもうキリスト教とかイスラム教に近い。だからどんな宗教を作っても、(科学のような客観的基準がないので)原初の姿はとどめておくことなんかできないし、時代やコミュニティの要請に応じてどんどん変化してしまうのが宗教というものである。
2:そういうときに現代に必要な宗教をさあ作ろうぜ、っていうときになんで「天地創造」から入っちゃうのかなあ。客観的な世界創造は科学に負けてしまう。そうじゃなくて、やっぱりここは「願えば叶う」という、世界=自分、つまり世界は自分が創造したというセカイ系こそ最強の宗教だと思うんだが。この世界は他でもない、私たち一人一人が創り出したもの。私たちが強く願えば、叶えられないことはない。「言霊」という考えが昔からあるように、言葉にして外に出ることで、それは疎外されて自分に対立し、客観的な力になって、自分を縛り、他人を縛る。例えば作家になってしまう奴はみんなそうだ。強く願ったんだ。「どうしたら作家になれますか」なんて他人にぼんやり聞いてるやつは作家になれるはずがない。私は作家になりたい、なりたくてたまらない、そんなやつだけが、めちゃくちゃなことをやって、どんなことがあってもとうとう作家になってしまうんだ。あきらめたらそこで試合終了だぜ? 限界は自分の中にあって、その限界を作り出す、つまり世界は自分が創造しているんだ。