はてなキーワード: スティーブとは
かつてスティーブジョブズが死んだ時、お悔やみの言葉が世界中に溢れ返って
それが今度は任天堂の岩田聡社長の急逝でバトンタッチされたみたいだ。
普段から調子の悪さを見せなかっただけで深刻な病が進行していた、
だから死んだとき、まさかこの人がという想いでお悔やみを言う人がいるのも確かだけど、
いちいち亡くなったから生前の功績を世界中に知らしめてお悔やみとしようという運動が気持ち悪すぎる。
騒ぎたいなら本人や遺族あるいは親族のいない所で騒げばいいものを
わざわざ本人に見える所でそれをやって完璧オナニータイムなんだよね。
だけど、それを今更のようにぶり返す人達の言動が何というか軽すぎて
お悔やみもクソもない、ただ呆れるほどのオタ芸で騒ぎたいだけではないのか?
そう思うと残念でならない。
実際問題「資格を取れる知識がある」ことが「仕事を完遂できる能力がある」事とイコールではないのは事実だとは思うけどね。
でも確かに資格を基準にすれば、少なくとも求められる知識を確実に有している事の証明にはなるし、「経験○年」なんかよりはちゃんと仕事できる確率は高い人員が集められる気はする。
いい大学出身者が就職で有利なのと同じで、あくまで「それまでに行ってきた努力の総量からまともな人員の確率が高い」とかそういうレベルだとは思うけど。
でもスティーブ・マコネルも「ソフトウエア開発プロフェッショナル」の中で免許制にしろとかそういう事言ってたけどそんな世の中に全然なってないっぽいもんな。
ライブ映像が好きで、好きなミュージシャンのライブ映像をよく漁っているんだけど、彼らが若いころの(若いってほどでもないかもしれないけど)映像を見ていると、表情や全身から大量の熱を振りまいていて、そのエネルギーを見ていると泣けてくる。あるいは、今となっては見せない一生懸命感とかね。
そんなわけで、おれが涙した映像を紹介させてほしい。
それぞれのファンにとっては既知のものばかりだろうが、その辺はご容赦願いたい。
https://www.youtube.com/watch?v=3od114a4o7Y
1982 のライブ映像らしい。彼は 1949 生まれらしいので、33 かそこら。年をとっても自信たっぷりで確信にみちた表情は変わらなかった彼だが、晩年はやはり体も縮んで声が出てないところも多かった。このライブ映像では声はもちろん、表情からも体からも、あらゆるところから熱を発しており、その輝きはおれの涙腺を強烈にキックするわけです。残念なことに彼は 2011 に他界。
彼を知らない人はまずは 49:40- の Alien を聴いてみてほしい。ついでに言うとこの映像に含まれない名曲もたくさんあるので興味あれば掘り下げていただければ。
https://www.youtube.com/watch?v=9ZNVhiOY_ug
ギターを手にする人にとってはスライドギターの人として、映画好きの人にとってはヴィム・ヴェンダースの劇版の作家として、もっとも一般的にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの仕掛け人として知られる Ry Cooder。この映像は日本の BS で流れたモノらしく 1987(日本語字幕では88と表記されてるけど。。) のライブ映像とのことで、このとき彼は 40 かそこら。
ゴスペル/テックメックス/カリビアン といった要素のミックスなんだけど、それぞれのプレイヤーがズブズブに土着音楽をやってる感が強い。それを一つにしているのは Ry Cooder の才能という他なく。。それぞれのプレイヤーがそれぞれのバックボーンから全力で音を発しているにもかかわらず、たった一点に収束するその集中力と音楽への愛情はおれの胸を深く打つのです。
https://www.youtube.com/watch?v=EkM3Wiy7j5Q
ジャズを聴かない人にとっては「誰?」って感じかもしれませんが、長年にわたって最重要プレイヤーの一人。ジャズ界隈で活動してるんだけど、彼もまたアメリカンルーツミュージックの求道者。(ただ、多作で時期によってやってることが全然違うため一言で説明しずらい人でもある。)
この映像は彼が 42 ぐらいの時のものでボブ・ディランのカバー。カバーを良くやる人で、いずれもオリジナルのもっとも重要なエレメントをきっちり握っている。
また、彼は客演で非常に良い仕事をする人。驚くほどあちこちに顔を出しており、どこに行っても自分の世界全開にもかかわらず、それがその曲の重要な要素を際立たせるという触媒のような人です。
映像の演奏は奇をてらわないアレンジで、美しいコードの上で朴訥としたメロがフォーキーさを増しており、それはやさしくおれの心に触れるのです。
結構大変そうなアレンジを楽器にかじりつくように弾いていて、弾き終わった後に見せる表情は今となってはあまり見られないものではないかと。
https://www.youtube.com/watch?v=lYbrrbbnXnA
現在では WAR と LOW RIDER BAND の 2つに分裂してしまった WAR の 76 年(だそうだ) gypsy man のライブ映像。キンキンに集中したライブ演奏は 70年代の WAR の特筆すべき点の一つだと思う。なかでもこの映像の BB ディッカーソン のガッツあふれるベースは何度聴いてもおれの胸の奥に熱いものをあふれさせてくれるのです。
個人的には、ディッカーソンはソウル/ファンクにおいて最重要ベーシストの一人だと思うんだけど、あまり注目されない(おれが知らないだけで、ベーマガなんかで特集されてるのかもしれないけど)のでぜひ。
WAR は主要メンバーの何人かはすでに他界しているが、ディッカーソンは LOW RIDER BAND で健在なもよう。
https://www.youtube.com/watch?v=wln_zQsynNY
spilit が凄いのでこちらもぜひ。ダルな前半からサックスソロをきっかけとして風景が変わっていくこの流れは WAR にしかできないと確信できる。
https://www.youtube.com/watch?v=zSnbV1FrIhA
最近ではベースはTMスティーブンスに弾かせて、自分は歌ったり叫んだり、ライブハウスの壁を登ったりしている Bootsy ですが、ただただ全力で音楽をやっていたころがあったようで。
I'd Rather be with you は今でもライブのハイライトなわけですが、若いころは熱の入り方が全然違う。映像は 1976 年とのことで、51年生まれの彼は 25歳?ですね。。そら熱も入るわ。wiki 見ると、75 年ぐらいまで P-funk 界隈とかかわっていたようで、映像は初リーダーアルバムが出た年。
funk 独特の時間をかけてじわじわ熱を込めていく前半のあの感じから、キックとコーラスがモゴモゴと盛り上げていく中盤、そしてついに歪んだベースソロに入って行く流れ、もう涙腺崩壊するしかないという。
せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分のブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。
ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECのPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称が統一されていなかった時代でもある。記録媒体はカセットテープ。ゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとでロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。
市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。
当時はまだ、パソコンのメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーのパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だから、NECのパソコンのソフトがシャープのパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001はPC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者のプログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。
その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンはPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチのフロッピーディスクになり、一瞬でセーブやロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。
せっかくの新マシンではあったが、やはり用途はゲームだった。雑誌に掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。
なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANやアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響カプラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。
中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコンで受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤーは経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲームと勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである。
高校に入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまったからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。
ちなみに、ぼくとほぼ同年代の英国人ライター、スティーブン・プールには『トリガー・ハッピー』(2001年)というテレビゲームの歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代にゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。
しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPGの製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。
技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲームの目標を大学合格に切り替え、パソコンのメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムやイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3を受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである。
1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京の私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京の学生はポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通の学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。
入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京の進学校の出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生のあいだでポケベルが流行っているというのも別世界の話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。
その一方で、大学に入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話は重要なツールだったのではなかろうか。
あるとき、風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。
ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったから1994年のはずだ。日本でもインターネットの商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学のパソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。
大学2年生の終わりごろ、ゼミの選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。
しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話・PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。
当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモの携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。
他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年、ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口に膾炙していった。大学のパソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念を理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。
ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネットに接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットでホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブで自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである。
もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信の時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。
ぼくが参加していたのは朝日ネットのフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネット上からはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信のログに残っていることを主人公が発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。
その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネットの時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねる」である。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。
…と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。
http://anond.hatelabo.jp/20150126171604
シリア内戦で亡くなった欧米の記者のうち経歴が見られる人の場合
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_journalists_killed_during_the_Syrian_Civil_War
メリー·コルビン 米 http://en.wikipedia.org/wiki/Marie_Colvin
リチャード·エンゲル 米 http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Engel
アンソニー·シャディッド 米 http://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Shadid
ジル・ジャキエ 仏 http://en.wikipedia.org/wiki/Gilles_Jacquier
ジェームズ·フォーリー 米 http://en.wikipedia.org/wiki/James_Wright_Foley
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052970203403704580104791021448612
スティーブン·ソトロフ 米・イスラエル http://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Joel_Sotloff
レミ・オシュリク 仏 http://en.wikipedia.org/wiki/Remi_Ochlik
以上の7人には軍歴の記述は無い、徴兵制のある国の場合はわざわざ書いてない可能性もあるだろうが
軍歴があるのが
Yves_Debay ベルギー・仏 (ベルギー軍)http://en.wikipedia.org/wiki/Yves_Debay
ポール·コンロイ 英 (英軍)http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Conroy_%28journalist%29 この人は負傷
アスペルガーの中にはスティーブジョブスやアインシュタインと言った素晴らしい成果を上げる人物がいるが
どこに行ってもちょっと気に食わないだけで、人を発達障害扱いして批判するようなうざい奴らがいる。
こいつらは人のことをアスペルガーだの、ADHDだの批判する癖に、自分の発達障害を棚に上げてるやつらが多い。
それは数理理解障害だ。
数理理解障害とは論理的思考ができず簡単な高校卒業程度の簡単な数学も理解できない障害を言う。
論理的思考ができないことから、組織内で著しい非効率をもたらす障害だ。
この障害のせいで多くの人が時間を無駄にし、ストレスを抱え、二次的に大きな病気の原因にもなる。
また部下なら大きな問題にはならないが、論理力の欠如から大きな成果を上げることはできない。
アスペルガーの中にはスティーブジョブスやアインシュタインと言った素晴らしい成果を上げる人物がいるが
『艦コレに熱中している青年たちに告ぐ。君たちの情熱は、間違っていない』という表現にあると思う
有名人である以上、彼は(ざっくりいうと)成功者であって、おそらくそれ自体間違いではないのかもしれない
だけど 間違っている
青年たちは熱しやすく冷めやすい、氏が言う、情熱を深く掘り下げることはなかなか無い
日本の社会において、自由な学習から得られる個性を持った人間には面白い場所ではない
日本人の社会は、ビル・ゲイツやスティーブジョブスを生み出さない代わりに、ある一定の意味合いで平等だ
同じ情報を共有することによって、多くの人が、多くの人と楽しむことができる
自由な選択の中から選ばれたものではない、「これを遊べ」と言われているも同然だ
多くの人が艦コレを遊ぶことによって、平等になれるのだ
平等を望むオタクに、なぜ、ビル・ゲイツやスティーブジョブスの可能性を見出すのだろう。
現代の娯楽に熱中する若者をマイノリティだと思って書いているのだろうが
さて、一方で
あ、この先はあとで書こう
好きなSF短編で打線組んだ(http://anond.hatelabo.jp/20140604175240)
が楽しそうだったので、便乗。短編に限らずに打線組んでみました。
フランチャイズ小国家、凄腕ハッカー、スケートボードに乗った運び屋、仮想空間上のAI人格等々、わかりやすいサイバーパンク的ガジェットを詰め込みつつも説明臭くはなく、スピード感ある展開で一気に読めるエンターテイメントSF。よくできたハリウッド映画みたいで素直に楽しい。粘り強いバッティングと走力に裏打ちされた出塁率の高さから、不動の先頭打者。
バチガルピは、個人的には長編だとちょっとダレる感があって、そういう意味ではこの短編集の方が好み。ねじまき少女の世界観濃縮版「カロリーマン」、文明がゆるやかに崩壊する恐怖「第六ポンプ」が好み。現代を代表する作家の一人に数えられますが、独特のディストピア・バイオパンクを突き詰める職人気質。2番ショートで起用。
現代と地続きの近未来からスタートして、加速度的に変容する社会と人類が技術的特異点を迎えるまでを描く大作。ストロスはコンピュータ関連のジャーナリストってこともあって、ギーク文化との親和性も高そうなディテールが満載で楽しい。抜群の守備範囲の広さ、打てば長打を量産する勝負強さで3番に定着。
イーガンは短編が無難と言われてますが、この「順列都市」は素直に面白いと思う。荒唐無稽なアイデアを、超力技で煙に巻かれてなんとなく納得されられてしまう快感。本書冒頭の、コンピュータ上でシミュレートされた人格のコピーが、目覚めて状況を把握してから辿る思考過程を描いたシークエンスが最高で、10回は読み返してる。イーガンほど投手にプレッシャーを与える打者はそういないでしょう。ネクストバッターズサークルにいるだけでも圧倒的存在感。
現代SF・ファンタジーの最右翼(本人は左翼だけど)。スキンヘッドにピアスのイカツイ兄ちゃんです。一見ありふれたハードボイルド警察小説?と見せかけて「重ね合わされる都市」というとんでもない舞台装置、どうやったらこんなもの思いつくのか。さらにそれを言語化できる力量もすごい。
ここまででお分かりの通り、増田は現代SF好きです。が、この「地球の長い午後」は入れざるを得ない。遠未来、自転が停止した地球。動物と植物の力関係が逆転した異常な世界で、食物連鎖の下層で右往左往する人類の、圧倒的無力感。ベテランならではの味わい深さと駆け引きの巧さ。
6番・オールディスの直接的な影響下にある、椎名誠のSF三部作。の中でも、この「武装島田倉庫」が一押し。奇妙な生き物が跋扈する文明崩壊後の世界を、さまよい、戦い、逃げ惑う人間たちの群像劇です。これも何度も読み返してるな。漬汁がなんか旨そう。
海外文学方面では、現代SFにおけるイーガン的大正義ポジションを占めておられますマッカーシー御大の手による、核戦争後と思しきポストアポカリプス世界をさまよう親子を描いたロードノベルです。沈黙の音が聞こえそうなくらいの静寂と、真綿で心臓を締め付けられるような絶望と哀しみ。大変地味ですが間違いなく大傑作。
ギブスンといえば「ニューロマンサー」でありそれに続くスプロールシリーズなんでしょうが、増田はどうにもこの「ヴァーチャル・ライト」が好きでして。何と言っても作中に出てくるベイブリッジ。閉鎖された橋をホームレスが選挙して好き勝手に増設を繰り返し、無計画・無軌道に成長してしまった構造物…すてきすぎる。
増田の中では「柔らかいイーガン」という位置づけにあるんですけどどうでしょうか。「実存」をメインテーマに据えながら、幻想的・宗教的な色彩の強い作品群。ワンアイデアをじっくり煮詰めて、これ以上ないくらい適切に料理した佳作集。死ぬほど寡作なのが玉に瑕。最近何してんの。
増田的には究極のSFはステープルドンになるんじゃなかろうかと思っています。20世紀から20億年後までを俯瞰する人類史。これほどのタイムスパンで書かれた作品は他にないんじゃなかろうか。しかもこれ1930年の作品ですよ。半端ない。
http://anond.hatelabo.jp/20140518130751
きせいさんは鐘を鳴らすだけで十分だ
みなさんおつです
・01 オーストラリア (43): ID:RDwnH8Dt
・02 薔薇 (73): ID:S8UrPYzp
・03 知らぬが仏 (90): ID:x3sw47Dr
・04 ブラジル (97): ID:P3lIbLNl
・06 富岡製糸場 (133): ID:S8UrPYzp
・07 ラッキョ ウ (150): ID:S8UrPYzp
・08 コロッケ (162): ID:S8UrPYzp
・10 唐招提寺 とうしょうだいじ (216): ID:6y8QVdJq
・13 フューシャ(ピンク (275): ID:hCoYXhCQ
・14 てんとうむし (283): ID:S8UrPYzp
・15 可愛い (305): ID:NbR9HH4P
・16 高畑 (311): ID:S8UrPYzp
・17 ドップラー(効果 (327): ID:9hAyH9t3
・18 金 太郎 (358): (♂・∀・)♂ ◆VVVF/4gFB.
・19 Mr.Children ミスターチルドレン (398): ID:CpdYeb1/
・20 トロイの木馬 (430): ID:x3sw47Dr
・21 六角精児 ろっかくせいじ (459): ID:S8UrPYzp
・22 [スティーブン・]フォスター (470): ID:S8UrPYzp
・23 ムック (485): ID:S8UrPYzp
・25 検事総長 (544): ID:S8UrPYzp
・26 大伴家持 おおとものやかもち (559): ID:CQ7NnGtZ
・27 ホー・チ・ミン (587): ID:S8UrPYzp
・28 卓球 (631): ID:S8UrPYzp
・30 蹴爪 けづめ (764): ID:x3sw47Dr
・31 ひさしを貸して:母屋(を取られる (785): ID:S8UrPYzp
・yy (3)8分 1400387203.dat(449): 名無しステーション <><>2014/05/18(日) 13:53:09.58 ID:PEHORCHP
13/31pts. ID:S8UrPYzp
3pts*2 ID:1YAwSOTj ID:x3sw47Dr
2pts*1 ID:6y8QVdJq
1pt*10 (♂・∀・)♂ ◆VVVF/4gFB. ID:----- ID:9akhnxUT ID:9hAyH9t3 ID:CQ7NnGtZ
May 9, 1998
深夜、釣り師のスコットとエリアス、ネトウヨのスティーブと増田をやった。
スティーブの奴、やたらブクマを稼いでやがったがきっと自演にちがいねェ。
俺たちをばかにしやがって。
天ぷらだ。
生きのいいネタいいってんで、増田に投げこんだら、ブクマする奴ら、ネタに便乗して星をせがんだり、ダジャレを言ったり
今朝5時頃、男女ネタを投稿してブクマを稼ぎご満悦だったスコットに突然たたき起こされて俺も嫁姑ネタを投稿させられた。
なんでも、増田が釣堀化していると専らの噂らしい。
はてなの連中ときたら、夜も寝ないで増田ばかりやってるからこんな事になるんだ。
昨日からブクマが一向に付かず、投稿を重ねているから、背中がむれちまって妙にかゆい。
いらいらするんで、腹いせに変人のフリして通りすがりの増田に絡んでやった。
いい気味だ。
May 13, 1998
あまりにブクマが付かないんで話を誇張したら、釣り師のレッテルを貼られた。
May 14, 1998
朝起きたら、釣り宣言されたトピにも全くブクマが付いていなかった。
はてな民どもがやけに静かなんで、見に行ったがはてブ数が全然たりねえ。
May 16, 1998
昨日、この増すだにとうこうした釣り師が一人、ろんぱされた、て はなしだ。
釣り設定 みなおしたら つじつまがあわなかた。
せってい どうな て
May 19, 1998
やと トピ できた
May 21, 1998
ほしい ブクマ スコットーきた
うまかっ です。
4
ほしい
ぶくm
商業ビデオゲームの祖であるPongのノラン・ブッシュネルはユタ大学工学部、
更に源流を辿るとスペースウォー!のスティーブ・ラッセルはMIT。
日本ビデオゲームの父とも言えるスペースインベーダーの西角友宏は東京電機大学。
ポピュラスのピーター・モリニューは大学二つ卒業してるみたいだし、
GTAのダン・ハウザーはオックスフォード大学。
大学が知性を保証するわけじゃあないけど、面白いゲーム作ってる人は
木の棒を伝説の剣に見立てるとか「風の声を聴いていれば事故は防げた」
と同じセンスを感じる。
実際に作ってる人は経験とセンスに裏打ちしたうえでしっかり考えて、
受け手が既存のゲームで積み上げてきたものから逸脱しないよう、
それでいて新しい面白さを生み出そうとしてる。
あと日本のゲームがつまらないと思うのなら、単に買わなければ、遊ばなければいい。
昨今なら目立つタイトルはそこそこにローカライズされるようになったし、
日本人が日本のゲームを惰性で買ってるから、作る側も安い作りのゲームを出してくる。
買わないで潰れるなら仕方ないけど、こっちも詰まらないものを遊ぶくらいなら面白い方を選んだ方がいい。
買わないでいれば、もしかしたら潰れる前に冒険して復活するかもしれない。
批判がほしいのか、一握りの共感がほしいのかわかりませんが、こんな文章を知らない誰かが読んでどう思うのか気になって書いて見ました。
いつからかボタンをかけちがっているような感覚がありました。些細な瞬間というよりは常にうっすらとありました。
自分の人生を生きているという確かな実感が薄く、実年齢とその年齢で想定していた精神状態との乖離をすごく感じていました。精神は安定せず、2~3ヶ月に何日かすごく塞ぎこむ日が続いたと思えば、一週間ほど“ハイ”な日がきたりしました。
夜明けまで街なかを散歩したかと思えば、毎日ランニングに精を出したこともあります。
2~3週間で興味や関心が移り、好きな時間に起きて、それをやり、好きな時間に寝ていました。
そんな生活をしていると一年という期間はあっという間に過ぎてしまいます。
この一年で得た些細なものと、この一年で失った大きなものとの、両方の大きさを実感できます。
ニートになるのはやめろ、言いたいのではなく、結局なるようになったのだと思います。
ボタンのかけちがったままいこうにも、すでにとめるものが無くなってしまったのですから。
躁鬱病と言えばそれまでですが、病院に行ったこともなく正式な診断は受けていません。
自分で病的だということの自覚はありますが、それが自他ともに認めるのを怖がっているのです。
ですが自分が病的であるという自覚、又は仮定をすれば、では正常な判断とはなんだろう、という疑問が湧きます。
もし1つ条件を置くことを許して頂ければ、誰しもこの疑問にすぐ答えることは難しいだろうと思います。
「常識、普通」と「正常な判断」というのは必ずしも一致しない。
これは僕の経験則なので、あまり参考にならないかも知れませんが、常識や普通で考えて、「良い」又は「ありえる」「良くない」と想定できる行為は、行為のすべての可能性の8割程度を構成していると思います。
後の2割に「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」が、混在しており、それは常識では判断できず、往々にして常識ではどちらも「とてつもなく悪い」と判断されてしまいます。
デカルトは良識はすべての人に備わっているといいましたが、もし「とてつもなく良い」判断をする能力を須く人類が備えていれば、「とてつもなく良い」世界ができそうですが、僕にはそうなっているようには思えません。
つまり8割を判断できる一般論では、2割を構成する極論は判断できないのです。
そしてその極論は、一般論では、否応なく悪い方に判断されてしまいがちだ、と思うのです。
というのも「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」というのは何か、紙の裏と表のようなもので切り離して語ることはで
きないので、そのように思うのです。
例えば「食事」で考えてみます。
「良い」食事というと常識で考えて、1日3食決まった時間にバランスよく肉だけでなく魚や野菜も食べれば「良い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
逆に「悪い」食事というのは、常識で考えて、好きな時間に、ファーストフードや揚げ物など偏ったものばかり食べれば、それは「悪い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
では例えばスティーブジョブスのような偏執的とも言えるようなベジタリアンはどうなのでしょう。
本で見た程度なので、正確かどうかはわかりませんが、彼は体の毒を除くための絶食を1週間程したり、肉は全く食べず限られたものしか食べないというようなかなり偏ったベジタリアンだったようです。
晩年、すい臓がんの闘病中に、医師から栄養価の高いものを勧められても頑なに自分の信念を曲げず、自分の決めたものしか食べなかったので、病気の進行を早めたといいます。
これは「とてつもなく悪い」食事なのでしょうか。
多分そうなのでしょう。
食事という面を切り取れば、「とてつもなく悪い」ということになると思います。ではもう少し多面的に、考えてみましょう。
この偏執とも言える食事のおかげで、彼の頑なな意志が生まれ、僅かではあるが、皆さんがご存知の偉大なイノベーションにつながったとすればいかがでしょうか。
これでは、言い過ぎと言われるかもしれないので、彼の頑なな意志では、一度決めたことは、たとえそれが「とてつもなく悪い」ことでも貫き通すことにこそ意味があった、というのはいかがでしょう。
彼のパーソナリティを鑑みれば、「とてつもなく悪い」食事と「とてつもなく良い」イノベーションとは切っても切れない関係なのです。
これも言い過ぎかも知れませんが、僕が言いたいのはこのようなことです。
極論なので論ずるに値しないと思う人もいるかもしれませんが、僕は極論の話をしたいのです。
極論というとあまり響きがよくないので、ここで言い換えましょう。
一般相対性理論、特殊相対性理論とあるように、一般の対義語は、特殊だと思いますが、特殊論というと、これも極論と響きが似てきます。
例えば「彼のようなクリエィティブな人間な人材を育成したい」と言うと、食習慣を真似するというのではなく、イノベーティブな製品を発明することを指すと思います。
ですが私は、それらは切り離せないウラとオモテのように思うのです。
常識的な判断で「よい」と思われる物事の一面だけを切り取って、それを一般化させて、一般論としても、個別論に適応できないように思われるのです。
僕達は個別論的に生きているので、一般論的に論じられても、意味を見出せないと思います。
これは私の個別論的な主観を、一般化して世代を論じているので、自己矛盾じゃないか、と言われると思いますが、全くその通りです。
そしてただの自己弁護です。
こんな文章を一体誰が読んでくれるのでしょう。ああ、そういえばタイトルがありました。
「やりたいことをやるってなんだろう」です。これです。
結局僕はやりたいことが一般論で見つからなかったからニートになったんだと思います。そしてこの文章も推敲もせず途中で投げ出していまいました。こんな人間がニートになるのです。
全体的には、物語はジョブズが学校を退学したあたりから始まり、友人たちと実家の小さなガレージからAppleを立ち上げ会社を上場させ、解任などすったもんだありながらも前へ進んでいく物語だった。
個人的には楽しめた。
理由は、
映画自体が大学を中退することろから始まるので、幼少期の情報がすくなすぎたと思う。
唯一、幼少期に関する内容が、ジョブズが彼女との会話の中で「親に捨てられた。。。」などと言っているシーンだけでだった。
若き日のジョブズが友人とインドに行って宗教的な価値観や人生観に影響を受けたと思われるシーン(たぶんその後のジョブズにかなり影響のある部分)があるのだが、それがあまりにもあっさりで結局ジョブズがインドで何を感じとったのか、そしてその後の人生のどんなところでこのシーンがどのように影響するかがイマイチよくわからなかった。
世界的企業を2つも育て上げるなんてとんでもない功績(世界中を見渡してもジョブズぐらいなのではないか)なので、多少は触れる必要があったと思う。
ジョブズを人生を描くと言う意味では、晩年死に至までの過程、つまり病気との戦いはとても重要な部分だと思うが、映画内で病気のシーンは一切なかった。
現実には、当初は周りからのアドバイスを一切無視して手術や治療を拒否し続け、しだいに病状が悪くなっていく中で、息子の「父(ジョブズ)のために医者になりたい」と言う言葉を聞いてまた病院へ通い始め手術を受けるようになる、と言う物語的にはとても感動的なエピソードがある(テレビ番組「世界仰天ニュース」でこのエピソードを放送していた)のだがそれは是非とも映画化すべきだったと思う。
特に手術を拒否するところでは、おそらく(1)の出生に関する部分や(2)のインドで感じ取ったものが大きく影響する部分だと思うので、病気のシーンを描かないなら、インドのシーンは必要なかったのではないだろうか。
いざ書き上げてみると、足りない部分しか思い当たらなかった。。。。
自分で言うのもなんだが、足りない部分の指摘は誰だって出来るし、
今回私が足りないと思って挙げた部分を全部盛り込もうとすると、通常の映画の尺では全然収まらないだろうから、
これはこれでありなのかなぁと思った。